散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

成上り者としての日本1973年~目標消滅の中での国際環境の変化

2014年06月19日 | 永井陽之助
国際社会への日本の台頭は、日本に対するイメージの急激な変化を招いた。その間のイメージギャップ、特に米国での対日イメージの悪化は貿易摩擦をことさら大きくした。その間の事情を、永井陽之助は次の様に表現した。

「オリンピック、万博の開催、“どっと繰り出す”海外旅行、日本商品の氾濫などは、欧米人にとって、まるで“奇襲”の様なものに映じる…そうすれば、当然外国が日本を見る眼も違ってくる。」
 『イメージギャップの中の日本1972年140614』

逆から見れば、日本はGNP第2位の経済大国に成り上がった。その象徴的人物の田中角栄が佐藤栄作の8年(1964/11-72/12)に渡る長期政権の後を受けて、1972年7月に首相に就任した。池田勇人首相の4年4ヶ月(60/7-64/11)を入れると、12年4ヶ月の長きに及んで単線的に高度経済成長の道を日本は歩んでいた。

田中は角さんの庶民的イメージによって、長期官僚政権に飽きていた大衆世論に支持され、新たな期待を担って登場した。また、このムードは選挙第一の議員心理も掴んでいたと云われている。

その年の9月、永井は歴史家・萩原延寿と中央公論で対談、「田中首相への危惧と期待」を行っている。萩原も永井と同じく、最近亡くなった元中央公論編集部の粕谷一希に見出されて中央公論に登場した人物だ。

その中で永井は、大隈重信の第一次内閣(1998年)と田中登場の類似点を比較する。伊藤博文、山形有朋の藩閥官僚内閣に飽きていたモードに、大衆政治家のイメージで乗って登場したことだ。それは4ヶ月の短命内閣に終わった。

しかし、永井は第二次大隈内閣での対華21ヵ条要求(1915年)を問題視する。
「私が田中を大隈重信と似ていると云った意味は、大衆政治家として、大衆の期待と要求を象徴化して出てくる結果、大隈とは逆の意味で対華21ヵ条要求をやる危険があるということです。」

「田中のうたい文句は“決断と実行”だが、これまで日本がまがりなりにもやってきた条件は、トップは無為に化して何をやっているか判らず、中間(実務)レベルが裏方で色々やってきた…」

その永井の懸念は国際環境の変化に対する認識に起因する。
戦後の日本が高度経済成長政策で世界第2位の経済大国になった。その結果、目標を喪失した。これは日露戦争に勝って曲がりなりにも一等国になったことで、目標を喪失したことと同じ時点に立っている。

なお、筆者の見解では、目標を達成したのであるから、“目標消滅”であって、目標喪失ではない。これはスポーツ等で目標を達成すると、では次の目標は?と聞かれるのと同じなのだ。

しかし、世界列強を支える外交理念も、日本の変化とパラレルに変わってきた。第一次世界大戦までは帝国主義外交であり、植民地保有は当然との考え方であった。ところが、ロシア革命とウィルソンの理想主義外交が現れ、アジア、中国にナショナリズムが勃興し、モラル主義的な外交理念が出てくる。日露戦争は、その端境期だった。

これまでの日本外交はモラル主義で、自由主義陣営に属していた。これに対して、現在は多角的勢力均衡外交の理念が再度、形成され始めている。この外交理念の変化が日露戦争当時と似た状況であり、田中と大隈の登場が似ているのだ。

この指摘、特に戦前の変化については永井らしいと言える。特にウィルソンの理想主義外交によって、米国が登場したことの影響は、結局、戦後の憲法にも影響を及ぼしているはずだ。

では、国内政治での課題は何か。
「75年くらいを目処に、」自民党もスッキリと割れて、社会党の右派と結び、新しい野党づくりやるべきではないか…」
これは、「平和の代償」でも主張した永井の持論である。
憲法については、「…土地、天然資源の公有化、私有財産の制限、軍事力を具体的に制限する内容の憲法改正を革新側が打ち出せば、自民党は現行憲法の擁護に回り、本然の保守対革新になる…」。

そして、1993年の秋、第一次オイルショックが始まった。

      

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