散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「庶民的英知・職人的賢さ」の評価から政治意識論へ~永井政治学の基底

2016年03月19日 | 永井陽之助
「軍隊生活こそ、本当の意味で、日本の社会と直に触れあった初めての機会だったのです。軍隊に入って初めて、今まで全然知らなかった、逞しい生活力を持った人たちに接して圧倒された。いわゆる庶民のものの考え方、その賢さとか、要領の良さとか、我々には全然ない能力をそこに見出した。」

これは「座談会・哲学の再建」(中央公論1966/6月号)での永井陽之助の発言だ。
他に江藤淳、山崎正和、富永健一、上山春平、沢田充茂の錚々たるメンバーが「自分と世界、認識と表現、批評とイメージの根源を問い、新たな哲学を模索する」との問題意識のもと、66頁にわたって、議論している長いシンポジウムだ。

 1.哲学との出会い 2.現代人の不安と哲学の貧困
 3.職人の世界と現代の擬似的世界 4.社会科学の意味と方法
 5.文化の持続と社会の復元力 6.批評とイメージ

「1.哲学との出会い」で各人各様の紹介があり、他の5名が100行前後にも関わらず、永井は260行に亘り、戦中の旧制中高校生活、戦時の台湾での軍隊経験、終戦直後の社会的雰囲気、戦後の東大における学生から研究者への道、北大での本格的な研究者生活、それらの中での哲学的な葛藤について話している。

後の東工大最終講義にも戦後体験、旧制高校時代の読書体験が綴られている(『二十世紀と共に生きて』(「二十世紀の遺産」)所収文藝春秋社1985)。
しかし、この座談会での上記の260行発言の方が、冒頭に掲げた「日本社会と直に触れあった経験」と本人が考えることも含めて、永井政治学の核心を捉えるうえで、参考になる記述が豊富にあると思う。

永井は具体的な経験について話してはいないが、同じ様な軍隊経験をした知識人は多くいるように思う。しかし、大切なことはその中味から何を発想するのかである。もっとも、入院体験が主であったようなのだが。

「日本社会と直に触れあった経験」と考え、特に「逞しい生活力、庶民の考え方等、我々には全然ない能力をそこに見出した」との肯定的な評価をした学徒(我々)は、どの程度いたのだろうか?いたことはおそらく間違いないが、知識人・大学教授で社会的発言をする人にはならなかったのであろう。

終戦後、永井が丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」と共に、坂口安吾の「堕落論」に衝撃を受けたことと上記の“経験”は無関係ではあるまい。

「3.職人の世界と現代の擬似的世界」においても、というよりは永井の発言が、そのセッションの題を構成したのだが、次の様な発言をしている。

「家庭の主婦や職人は、狭い世界では実に達人ですね。大変な英知と判断力を持っている。そのパーソナルな一次的接触の世界から離れた広い世界で、同じ様な判断・行動ができれば、大変な賢者となるわけです。」

「現代においては、自分の実感の世界はごく小さな世界だけで、他は、新聞、雑誌、テレビなど、いろんな情報で形づくられた第二次的な接触の世界です。かかる象徴的な環境のなかで、何とか判断していくには、職人的な賢さでは、お手上げになる。」

「職人的世界で身につけた英知と判断力は、その前提となるゲシュタルト構造を共有している狭い領域の問題群に対してのみ有効という限界を持っている。しかし、何とか社会や世界についての全体像を作らなければならない。そこで他人の借り物の理論によって補完して、外の世界と接触していく以外になくなる。」

「そこで、多くの人たちは、自分の体験で確かめられた実感や、コモンセンス、ウィズダムを洗練して広げるのではなく、それを否定してしまう。あるいはそれと全く無関係に、いわゆる「社会科学」と呼ばれ、確立されたオーソリティをもっている理論を、借り物として、身にまとう。」

ここでは、家庭の主婦、職人をその世界での達人として認め、それを基盤にして情報で形づくられた広い世界を判断する智恵をどのように身に付けるのか、という発想が窺われる。更に後年、「女房的リアリズム」との表現を使うようになり、「誰も書かなかったソ連」(鈴木俊子著、サンケイ出版1970)をその例として挙げたことがあったと思う。

ここに示された哲学論議における生活者の位置づけは、フッサールの『生活世界についての学という問題提起』(「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」)と接近する考え方である。それが永井政治学において、「政治意識論」を基底とすること(『政治学の基礎概念』1960)に結びつくと、筆者は考える。

      


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