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in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

仮設住宅請負人

2012年02月21日 | Haiti
お世話になった記者さんから記事の現物が送られてきた(写真)。これらを含めて20紙以上に掲載されたらしい。

デーリー東北(青森)、 2011年11月23日掲載
中国新聞(広島)、  2011年11月24日(夕刊)
山陽新聞(岡山)、  2011年11月28日(夕刊)
西日本新聞(福岡)、2011年11月30日(夕刊)
新潟日報、      2011年12月03日(夕刊)
河北新報、      2011年12月03日(夕刊)
山口新聞、      2011年12月06日
愛媛新聞、      2011年12月14日
日本海新聞(鳥取)、2011年12月16日
高知新聞、      2011年12月21日
中部経済新聞、   2011年12月29日
京都新聞、      2012年01月11日(夕刊)

Websiteにも掲載された。期間限定でリンクしときます。まさか、シリーズものだったとは。
http://www.47news.jp/47topics/e/171203.php

マラカス

2012年02月08日 | Haiti
もうカーニバルの話はしないと言っていたが、Jacmelというカーニバルで有名な町に出張したついでに、マラカスを入手してきた(写真)。しばらく事務所に置いといて、後で今年度(3月末)に定年退職されるYさんへのお土産とする。

カナバル/carnaval

2012年02月05日 | Haiti
2週間後に迫ったカナバル(カーニバルの仏語読み)に向けて、先月末からハイチ国民は浮き足立っている。仕事中にもその話をしているので、「ちょっとそわそわしすぎちゃうん?」と言うと、「そうかなあ」とその場で踊りだすハイチ人職員。彼らの前でカナバルの話題を持ち出さないことにする。

震災2周年を過ぎた日から、毎週末の夕方は公道のあちこちで楽器や旗を持った人々が行進していたり、音響機材を載せたトラック(山車)がのろのろと動いていたりして、いたるところで渋滞を起こしている。今日は自宅に帰る途中、幅5メートル長さ10メートルほどの山車が坂を上ってきた(写真)。たいがいのことでは驚かないと思っていたが、これには驚いた。

Stand by me

2012年02月04日 | Haiti
普段の週末の夜に出かけることは、めっきり減っていたのだけれど、友人に誘われたのと、家に居ても気が塞ぎがちになるので、土曜夜にバンド演奏を聞かせるレストランに出向く。いつ始まるともわからないバンドの支度をのんびり待ちながらのラム・サワー。酔いが適度に回ったところで、演奏開始。思った以上に演奏が洗練されていて、聞かせてくれる。数少ない英語の演目の中で"Stand by me"が、すっと心に入ってきた。

さらば友よ

2012年02月03日 | Haiti
今週は一緒に1年以上働いてた同僚・友人らが、南スーダン、キルギスタン、ローマへとそれぞれ旅立った。さらに一人はPort au PrinceからLeoganeの地方事務所に異動になった。2週間前には1人がスリランカへ戻っているので、あんだけ賑やかだったShelter Unitの事務所ががらんとしている。

辛い時も楽しい時も、この異国の地で家族のように出来事を共有してきたので、そんな彼らが居なくなったとことに心積もりをしていたとはいえ寂しい。彼らが日本人やったら、いつか日本で会おうって言えるのだけど、もう二度と会えないかもしれないと思うと、寂しさがさらに強まる。あー、こう言っとけば良かったと思っても、もう遅い。これからもメールやカメラ電話でもちろん連絡できるのだけど、直接のニュアンスは伝えられない。たとえば、今日の夕焼けがどんなやったかとか。




記念写真

2012年01月28日 | Haiti
週末行事でみかけたハイチ人警備員(写真左)と記念写真。ハリウッド映画から出てきたような格好だが、こんな体格の持ち主がハイチにはゴロゴロいて、ケンカしても(するわけないが)とうていかなわない。

知っておくべきこと

2012年01月27日 | Haiti
セキュリティの理由で、もし何かあったときに駆けつけられるようにと、緊急連絡用に電話番号や住所を記入するのは普通と思うが、地図や住所表示がしっかりしていない国では、GPSコード(北緯何度、西経何度)や位置を記入した衛星写真の提出を人事部から求められる。

コンピューターに不慣れな職員もいる(運転手とか)ので、周りのできる若手職員に手伝ってもらって書類を作成するのだが、あーだこーだと言いながら雑談がうるさい。今日は『自分の家の場所がわからない』という会話が聞こえてきたので、一緒になってからかっていた。よく見ると掘立小屋が密集している地域(写真)で、確かにわかりにくい。うちの仮設住宅よりも彼の家はよくなさそうだ。単に、方向音痴だと思って(それをからかうのも良くないが)、からかっていた自分の無知を恥じた。本人は全く気にした様子は見せなかったが。

スリランカの紅茶の産地で、高原のヌーワラ・エリヤというところに行った時、涼しいので毛糸の帽子とかジャンパーを着ている人が多いのに、足元はゾウリ。何で靴をはかないんやろうとからかっていたら、ずっと後になって、靴はとても高価であることに気がついた。今日、それとまた同じような間違いをした。

震災17年

2012年01月17日 | Haiti
今日で神戸の震災から17年。これまでは、震災と言えば阪神淡路のことを指していたように思うけれど(関西人だから?)、去年の東日本大震災からは、神戸の震災、東北の震災と付け加えるか、それとも後者は、3.11(サン・テン・イチイチ?)で表現されているのだろうか。

神戸と東北の震災は、自分が日本に居ないので想像するに、いろんな現象や制度が比較されているのだろう、「みなし仮設住宅」とか。財源支援だけでなく、地方自治体に権限が譲渡されれば、制度の自由度が高まって被災者のニーズに応えやすいと思うが、東北の市町村ではそこまで強気に出られるのか、気になるところ。

震災16年

震災2周年

2012年01月12日 | Haiti
ハイチの震災から丸2年。昨年と同様、政府が休日と宣言したので、多くのスタッフが家族と亡くなった人々を偲ぶために教会に行った。事務所も外もひっそりとしていた。

今年は溜まった仕事は置いといて、ハイチ人スタッフ3人と外へ繰り出す。いつもの休日よりも静かで、普段1時間はかかるであろう目的地も20分程で到着。どんな様子か見て回る(写真)。震災が起こった2010年の1年間よりも、2011年の1年間の方が目に見える復興が顕著なのは、準備や資金準備に時間がかかったからだろう。

道中の瓦礫の山も、昨年に世銀や米国国際開発庁が大規模な事業をたちあげたこともあって、かなり片付いている。今後のハイチの課題は、失業率の改善。どこかの新聞に70%とか書いてあったが、少なくとも50%は超えているだろう。収入がないと家族を養うために窃盗などの罪を犯さざるを得ない悪循環が起こりやすい。

以下、The Atlanticの写真ブログ。言葉なしでも強烈に訴えかけてくれものがある。
Haiti: 2 Years After the Quakethe, Alan Taylor, In Focus, The Atlantic

クリスマス会

2011年12月16日 | Haiti
昨年に続いて、今年も職場でクリスマス会が開かれた。今回は仮設ステージも豪勢になり、スタッフの何名かは出し物を披露することとなった。

うちの部署は有志で、大ボスLの挨拶の後にクリスマス・ソングを歌い、会の好スタートに貢献した。写真は、コロンビア女性スタッフの華やかな民族衣装をまとっての踊り。始まったとたん、ほぼ全員が舞台にかぶりつき状態の光景が微笑ましかった。

初心にかえって

2011年12月12日 | Haiti
人生は不思議なものだ。仕事に行き詰っていると、共同通信の記者さんからこの9月に受けていた密着取材の記事が、先月下旬に全国の提携新聞社に配信されましたよーというメールがスキャンされた記事と一緒に送られてきた(写真)。

今年の8月、いや7月だっただろうか、まず取材の申し込みがあり、『「大型のヒューマンストーリー」で行きますから』と、それが具体的にどんな形になるのか実現するのかも、わからないまま、ハイチの人々の困窮した現状を知ってもらえるならと快諾した。その掲載記事が当の本人を励ますことになろうとは・・・。

記事では私のハイチでの活動とともに、日本の震災へのメッセージやエピローグでハイチの現状説明、素晴らしい写真が掲載されている。その記事を読み返しながら、この仕事に就いた原点に戻り、気持ちを新たにするのであった。



ちなみに、どの新聞にどの時期に載ったのかは、自分が把握しているのは以下のとおり。

中国新聞  2011年11月24日
西日本新聞 2011年11月30日

神戸新聞や京都新聞に掲載されたら、お世話になった方々も直接その紙面をご覧になって頂けるのだろうが、掲載される(た)のかどうかもまだ分からない。

Burn out気味

2011年12月01日 | Haiti
12月に入った。建設目標を達成したものの、報告書や残った予算の執行など、やることが多い。が、いまいち気が乗らない。少々無理をしてきたツケもあるのだろうか。休みながらやるしかないか。

(このブロクにコメント記入する機能に不具合があるようです。しばし、お待ちを)

In Commemoration of 10,000th Shelter Completion

2011年11月15日 | Haiti
ついに目標だった1万戸の仮設住宅がうちの機関によって完成し、関係者を招いて記念式典が行われた。あいかわらずアドリブのきかない、仏語も話せない自分が進行役をやるはめになって、スムーズに事が進んだとはお世辞にも言えないが、ご来賓や被災者のスピーチが胸を打ち、集まった60名ほどの地域住民に囲まれて、ふぉあーっとした幸せな雰囲気に包まれた。

今年7月末に8千戸を迎えてから、ゴールは見えているのになかなかそこに届かない難しさや予想外の出来事を経験しながら、やっと到達した達成感を式典中にもかかわらず噛み締めていると、「次の指示を」と背中をつつくスタッフ。彼らに囲まれて、ここまでやってこれた。偉いぞ、お前ら。

1家族4名と計算しても、ざっと4万人に貢献できたこと。うちのスタッフや地元業者とその家族にも、生計面で貢献できたこと。支援してくださった世界各国の納税者・寄付者に多大なる感謝。

ハイチで活動する難しさ

2011年11月09日 | Haiti
ハイチで活動する難しさを聞かれると、ちょっと前までは、「安全確保」、「インフラ不整備(一日に数時間しか電気が来ない、水道が整備されてない、とか)」、「現地スタッフの質(教育水準)」をあげてた。

最近は上記よりも問題なのが、外国人スタッフの質だとようやく気がついた。何も文句を言うつもりはなく、自分もその一人になるんやろうけど、「ハイチに活動しに来た人らが皆、人道支援をめざしてきてるわけではない」ということを痛感する出来事に最近多く直面する。

その理由は、
生活環境や仕事環境が厳しいので、他国よりも適任者を見つけることが難しく、(要求水準を落としてでも)ハイチに赴任してもよいという人材の中から選ばれること。
国際機関の月収は、いわゆる先進国のそれとそんなに大差がない(と思う)が、途上国の場合は平均年収に匹敵するケースがあり、そんな場合、途上国出身の人は職にしがみついていることが多いこと。などがある。

もちろん、どんな業種、会社や役所であっても、熱意だけではやっていけないであろうし、何でこんな人が務まっているの?というケースもあるから、国際人道支援の業界だけがこうではないのであろうけど、志気を削がれる事が起こるたびに、理不尽に思うのであった。

飛行場旅客ターミナル

2011年11月08日 | Haiti
2010年1月の震災で半壊していたポルトー・プランス飛行場の旅客ターミナルの復旧工事が遅れているとニュースでやっていた。1年10ヶ月後にしてこの状態。来年1月の2周年にはとうてい間に合わないだろう。この国のすべての復興計画がこんな感じで、いったい何時までかかるん?って感じ。

写真は2011年10月29日、飛行機が着陸してる側から見る建物を撮影。よくヒビが入ってる。