パラークラマ・サムドラ(人造湖)に沿って、北上する。
博物館に寄り道。
整理されて見やすく、分かりよい博物館だ。
当時の石工の道具なども展示されている。
◇パラークラマ・バーフ王の宮殿跡
パラークラマ・バーフ1世の人気は絶大で、日本で云えば、信長、秀吉、家康クラス。
あるいは、その3人をまとめた位の英傑なんだそうだ。
その王が絶頂期の時、建てた宮殿だから、壮大であるのは当然か。
ここでちょっと寄り道。
これからのポロンナルワ遺蹟をよりよく理解するためのポロンナルワ小史です。
「ポロンナルワは、8世紀以降アヌラーダブラのの王たちの避暑地でした。11世紀、南インドのチョーラ朝のタミル人が侵略、彼らは、この地に小都市を作ります。そのタミル族を追い払ったのが、ヴィジャヤバーフ王(1059-1113)。ヴィジャヤバーフ王が築いた基礎をパラークラマバーフ1世大王(1153-1186)が拡大、発展させ、さらにニッサンカマラ王(1187-96)の出現をもってポロンナルワの栄華は頂点に達します。王たちは熱心な仏教徒で、数多くの仏寺、仏塔を造営します。14世紀、チョーラ朝の何度目かの侵略にシンハラ王朝は後退を余儀なくされ、ポロンナルワはジャングルに埋没して、20世紀までその姿を消したままでした」。
再び、宮殿跡に戻ろう。
その壮大さは現在残っているレンガ積みからイメージできる。
現在残っているのは、3階までのレンガ部分。
4階から7階は木造だったので腐れ落ちてしまってないと云えば、その規模がお分かりいただけるだろうか。
部屋数は、1000を超えていたと云われる。
白い部分は漆喰跡。
レンガは漆喰で全面装飾されていたことが判る。
ポロンナルワのテンカティラカ寺院の外壁にこの宮殿が浮彫にされているので、ここに紹介しておきます。
◇水洗トイレ
宮殿横の住居跡の隅にトイレがある。
ガイド氏は,水洗トイレだと紹介した。
排水溝に跨ってのスタイルは現代でも普遍的なやり方。
スリランカの男性は、小もしゃがんでするから、このトイレは大小兼用。
更に言えば、後始末の左手でのお尻の洗浄もここでやる。
水は桶で持ち込み、お尻を洗ったあと、糞便を流すのに使う。
トイレからの汚水を貯める竪穴が隣接しているが、この形式の浄化槽は現在も健在で、内部は二つに仕切られている。
トイレからの汚水は第一槽に入り、固形物はそこに溜り、水分は仕切りを越えて第二槽に入って地中に浸透してゆく。固形物はバクテリアにより分解されるので、汲み取りは必要ない。
この浄化槽には仕切りが見られなかったが、板だったのだろうか。
スリランカの比丘(男僧)は、227か条、比丘尼(尼僧)は311か条の、守るべき戒律があります。
最も厳しいのは、五戒(不邪淫、不偸盗、不殺生、不妄語、不飲酒)で、犯した者には、僧籍離脱の最高罰が科せられることがある。
数ある戒律からトイレに関する戒律をいくつか紹介すると、
〇用を足した後は糞ベラや水で後始末をせよ。
〇トイレの順番は、地位の上下に関係なく早いもの勝ち。
〇トイレに入る時は、咳払いして中に人がいるか確かめること。中にいる人も咳払いで応え なさい。
〇立小便は厳禁。
戒律というよりも日常のトイレマナーの感じが強い。(蝶谷正明『スリランカ古代装飾トイレの謎』より)
◇パラークラマ・バーフ王閣議場跡
宮殿が、王の私邸ならば、ここ閣議場は、さしずめ仕事場ということになる。
石の基壇の上に木造の3階建て官邸があったとイメージされたい。
各大臣は石柱に彫られたマークに従ってその前に座った。
決定事項の伝達場だったのか、協議をする場だったのか、南インドのチョーラ軍の動向、各地の治水灌漑工事の計画と着手、堕落する仏教界の立て直し、上座部仏教への一本化、ヒンズー教の受け入れ方など懸案事案は尽きることがなかった。
とりわけ南インドのチョーラ軍との戦いは、最大の問題。
当然、政略結婚もありうるわけで、こうした政治世界の変化は、文化にも影響を与えることになります。
この閣議場の入口にもムーンストーンはあるが、生老病死を表わす4種類の動物、馬、獅子、牛、象のうち、牛だけがない。
これはポロンナルワのムーンストーン全体の共通点ですが、ヒンズー教徒のお妃に配慮して、ヒンズー教で大切に扱う牛を踏んづけない様にしたためだと見られています。
仏都ポロンナルワのど真ん中にヒンズー寺院があるのも、同じ理由です。
◇シバア・デーワーラヤNO1
「左に見えるのは、ヒンズー教寺院です」と説明したまま通り過ぎようとするので、あわてて車を止めた。
ガイド氏の言葉のなかに「リンガ」が聞こえたからだが、仏教都市の中のヒンズー教寺院は必見だと思ったからです。
シバア・デーワーラヤ寺院は、ヒンズー教寺院らしからぬ簡素ですっきりした佇まい。
入口から奥に鎮座するリンガがよく見えます。
あるのは、リンガだけで、ヒンズー教の神々の彫刻はどこにも見られない。
ど派手なヒンズー教寺院も、初期の頃は、仏教に遠慮してたからなのでしょうか。
仏都の中のヒンズー寺院は、王の妃がヒンズー教徒だったからと推測したが、別の見方もある。
13世紀、再び、侵略してきた南インドのチョーラ人が建てたというもの。
それならば、こんな遠慮がちに建てなくてもよさそうだが。
≪ポロンナルワのクワドラングルへ続く≫
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