石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

7 投げ込み寺 (内藤新宿、品川宿)

2011-06-16 15:07:43 | 寺院

 

内藤新宿は、品川、千住、板橋の3宿よりほぼ100年遅れて開設された。

            わたし彩の『江戸名所図会』ー内藤新宿より

甲州街道を利用する参勤交代の大名家は、高遠、飯田、諏訪のわずか3藩。

一般旅行客も少なかった。

幕府には、新しい宿駅を設ける必要性は皆無だった。

にもかかわらず内藤新宿はできた。

何故か。

賄賂のせいである。

新駅開設出願の冥加金として5600両の大金を賄賂したのは、高松喜兵衛ら浅草商人5名。

出願の建前は、甲州街道の初駅・高井戸宿は日本橋から遠すぎる、もっと近場に、というもの。

本音は、旅籠屋、茶屋の密集する歓楽街を現出させて、一儲けしようという魂胆である。

出願が許可された元禄という時代は、江戸の高度経済成長に翳りがみえはじめた時代であった。

金銀の産出量が頭うちになり、貨幣の含有量は減らされた。

貨幣価値の低下は、インフレを招き、賄賂が横行した。

幕府財政の収入増加と支出削減に苦慮していた、時の勘定奉行荻原重秀に5600両は魅力的であった。

幕府の懐を痛めることなく、新駅ができることも彼の心をくすぐった。

時代の流れも新駅開設を後押しした。

巨大都市化する江戸への物資輸送量はうなぎ上りで、郊外農村から流入する人馬は増大するばかりだった。

こうして内藤新宿は、元禄11年、開設されることになる。

一枚の浮世絵と一首の川柳が当時の内藤新宿の特徴を描き出している。

  『名所江戸百景ー四ツ谷内藤新宿』(広重)

「四ツ谷、内藤新宿馬の糞」ということばがあった。

広重の絵はそれをものの見事に表現している。

構図の右半分を占める馬のケツ。

足元には馬糞が点々とある。

湯気が立っていそうだ。

「江戸稼ぎ」の馬である。

「江戸稼ぎ」とは、江戸近郊の農民が自分の畑で採れた野菜を馬に積んで江戸に商売に行くことを指す。

日に4000疋の馬が内藤新宿を通った、と推測されている。

絵の左側に並ぶのは、茶屋。

内藤新宿は、茶屋歓楽街であった。

旅籠なら公認の飯盛り女を二人置けたが、御用宿を命じられ、役銭を納めなければならなかった。

茶屋は客を泊めることはできなかったが、私娼がいたから繁盛した。

そもそも、泊る旅行客など内藤新宿にはいなかった。

歓楽街として内藤新宿は人々を集めたのである。

『江戸名所道外尽四十九ー内藤新宿』(広重)

「お帰りは御祖師様だと女房いい」。

御祖師様(おそっさま)とは日蓮上人のこと。

今の杉並区堀之内にある日蓮宗「妙法寺」参りが流行っていた。

参詣の帰り、男たちは内藤新宿で遊んだ。

「お帰りはおそし(遅し)」だったのである。

現在の伊勢丹から大木戸までの1キロの間に一般商家に交じって妓楼が点在した。

   内藤新宿模型(新宿歴史博物館)

文化文政の頃、その繁盛ぶりは天を突く勢いだった。

が、どこかあか抜けない遊里だった。

「四ツ谷新宿馬糞の中であやめ咲くとはしおらしや」。(あやめとは遊女のこと)

 

内藤新宿の投げ込み寺は「成覚寺(じょうかくじ)」である。

靖国通りに面していて、寺は「新宿二丁目」のゲイバー街の中にある。

          成覚寺(新宿区新宿2)

参道左手にある「子供合埋碑」が、この寺が投げ込み寺であることを物語っている。

 楼主が建てた遊女の墓「子供合埋碑」

遊女は普通「おいらん」と呼ばれた。

だが、楼主だけは「こども」と呼んだ。

だから「子供合埋碑」は、楼主たちが建てた遊女の霊の供養塔であることを意味する。

造立されたのは万延元年(1860)。

ここに1600人の遊女の霊が眠っている。

        「成覚寺」本堂

「成覚寺」には、不完全ながら過去帳が残っている。

投込まれた最古の記録は、橋本屋の「お糸」。

戒名は、妙英信女。

安永5年(1776)のことである。

以降、明治43年までの記録が残されているが、明治24年(1891)からは死亡年齢も記入されている。

20歳をピークに19歳、21歳が死亡年齢のトップ3。

24歳までに85%が死亡するというショッキングな数字が過去帳から浮き上がってきた。(『新宿女たちの十字路ー区民が綴る地域女性史(ドメス出版)』

死因の1位は肺結核。

だが、当時、結核は病気とは認められず、ずる休みの仮病として折檻の対象とされていた。

「成覚寺」には、また、「旭地蔵」なる風変わりな供養塔がある。

 心中者の供養塔「旭地蔵」        台石に刻まれた9組18人の戒名

叶わぬ恋を嘆いて身投げした遊女と客9組18人の戒名が、ここには刻まれている。

男女の愛欲のしがらみは「業」である。

当人たちの意思ではどうしようもできないものが、そこには確実にある。

人智を超えるものならば、人は祈るしかない。

「南無観世音菩薩」と一心称名すれば、淫慾ですら慈悲の気持ちに転ずると『阿弥陀経』は説く。

 

境内の一角に石仏群があり、なかの1基が飛び切りアトラクティブだ。

美しくて、優しそうな観音さまだ。

ふくよかで女人特有の柔和さが願容に満ちている。

つつけば凹みそうなしもぶくれの頬。

石でできていることを、つい、忘れてしまいそうだ。

 

なじみの遊女と後朝(きぬぎぬ)の別れをしたその足で、

ふと「成覚寺」に入り込んだ遊客が、観音さまに手を合わせる。

「このままでは、道を外してしまうかもしれない」。

その予感におびえながら一心称名して目を開ける。

観音さまがそこにいる。

目の前におわす。

じっと見る。

そして、今来た道を遊女のもとへと、戻って行く。

この観音さまを見ていると、こんな妄想にとらわれてしまう。

美しいということは、罪なことだ。

観音さまも、その罪を免れえない。

 

品川宿の投げ込み寺は「海蔵寺」である。

    海蔵寺(品川区南品川4)           無縁首塚

「海蔵寺」の無縁塔は、他の3宿の投げ込み寺と異なる特徴がある。

「無縁首塚」という名称が、その特徴をあらわしている。

遊女の遺体だけでなく、鈴ケ森刑場での処刑者の首も投げ込まれた。

牢屋での獄死者の遺体も持ち込まれた。

一説には、その数7万余と言われている。

品川宿が他の3宿を凌駕する点は、歴史の古さと規模の大きさである。

          江戸名所図会 高輪・品川

東海道53次の初駅として指定されたのは、慶長6年(1601)。

徳川家康が覇者となった関ケ原合戦の翌年のことであった。

当初、品川宿は目黒川を境に北品川宿と南品川宿とに分かれていた。

やがて北品川から北側に無許可の茶屋が軒を連ねるようになり、享保7年(1722)、「歩行新宿(かちしんしゅく)」として認められることになる。

参勤交代時の歩行(かち)人足を負担することが条件だった。

この「歩行新宿」を含め品川宿には、最盛期1500人の遊女がいたと言われる。

       品川清遊興 浮世絵八華 豊国

北の吉原、南の品川と並び称された。

こんな川柳がある。

「品川の客はにんべんあるとなし」。

「侍」からにんべんを取ると「寺」。

三田、高輪の藩邸の侍と「増上寺」とその子院の坊主たちが上得意だったことを揶揄っている。

「夕べには医者 あしたには僧と成り」。

門徒宗以外の僧侶は、肉食妻帯を禁じられていた。

女犯の罪を犯して、日本橋で晒しものにされ、島送りになった僧侶もいる。

女色はダメでも男色は黙認されていたから僧侶は陰間茶屋へ通った。

しかし、男より、女を好む僧は、当然いる。

どうしたか。

医者になりすました。

当時、医者は頭を丸めていたから変装するのに都合がよかったのである。

「ふとどきさ在家の遊ぶ所(とこ)へ行き」

 「海蔵寺」無縁首塚の納骨室

人生は所詮、「穴を出て穴へ入り穴の世話」なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


6 投げ込み寺(浄閑寺)

2011-06-12 15:41:31 | 寺院

前回、江戸四宿の投げ込み寺について書き始めた。

板橋宿、千住宿の投げ込み寺にある遊女の墓をとり上げた。

その関連で、藤沢宿の遊女の墓にも触れた。

再び、江戸に戻って、次の順番は内藤新宿。

だが、その前にどうしても寄り道しなければならない寺がある。

三ノ輪の「浄閑寺」だ。

「浄閑寺」は、吉原の遊女の遺体の投げ込み寺として有名である。

     浄閑寺(荒川区南千住2)

 

「哀れな娼婦が白骨のゆくえを知らうと思ふ人あらば

哀れな娼婦が悲しき運命の最期を弔はんと欲する人あらば

乞ふ吉原の花散る大門を出て

五十軒をすぎ 土手八丁

その堤を左へとたどりたどって行き給へよ」(永井荷風)

 

「浄閑寺」の開基は、明暦元年(1655)。

その2年後の明暦3年、吉原が日本橋から引っ越してきた。

      江戸名所 吉原桜之図 (広重)

吉原の周りは寺町だった。

他に寺はあるのに、なぜ、「浄閑寺」が投げ込み寺となったのか。

傾城高尾の墓がある土手の道哲「西方寺」では、なぜ、いけないのか。

どうやら山谷堀・日本堤の外に「浄閑寺」があったことが関係あるらしい。

  名所江戸百景の内日本堤

遊女の遺体は、牛馬、犬猫の死体と同じ扱いだった。

人間として弔うと祟るから畜生にして葬る、という理屈である。

不浄なものを捨てるには、江戸の外で。

「浄閑寺」は、その条件にぴったりだった。

 

「浄閑寺」は「ついている」寺である。

明暦の大火、安政の大地震、大正の関東大震災、昭和の東京大空襲、いずれの火災にも焼け残った。

東京広しといえども、「浄閑寺」を除いてこれほどラッキーな場所はない。

安政の大地震では、命を落とした吉原の遊女1000人余りが「浄閑寺」に持ち込まれた。

関東大震災でも、逃げ遅れた遊女たちが吉原の弁天池に飛び込んで、みんな死んだ。

池は死体で盛り上がっていた、と伝えられる。

その大量の遺体も、骨灰として「浄閑寺」に葬られている。

 弁天池の死体 とうよこ沿線フィルムライブラリーより

 

本堂に向かって左側と背後が、「浄閑寺」の墓地。

狭小な墓地に特有なコンパクトな設計は、東上野や元浅草、深川の寺町の墓地と共通している。

関東大震災後改築した墓地だが、佇まいにどこか江戸や明治の雰囲気がある。

          浄閑寺墓地               新吉原総霊塔

投げ込み寺の証は、新吉原総霊塔にはめ込まれた川柳。

「生まれては苦界 死しては浄閑寺 花酔」。

総霊塔の壁の一部に明かりとりがあり、中の骨壷が見える。

ぎっしりと隙間なく詰め込んであるようだ。

  「生まれては苦界 死しては浄閑寺 花酔」

    明かりとりから見える骨壺

墓地の一角に美形の聖観音立像。

寛文七年だから、「浄閑寺」開基12年後の造立ということになる。

    寛文七年の聖観音菩薩

約340年もの間、25000人もの遊女たちの、怨嗟の声なき声を聞いてきた菩薩ならば、もっと厳しいお顔であってもいいのに、そう思ってしまうほど、おだやかに微笑む観音さまなのです。

 

新吉原総霊塔に背を向ければ、そこは永井荷風の碑。

   永井荷風の詩碑 奥は畳紙(たとう)を型どった筆塚

荷風本人は「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ」と『断腸亭日乗』に書き残したが、墓は雑司ヶ谷霊園の永井家墓域にあるので、後人がここに建てたのは碑。

碑に刻まれているのは『偏奇館吟草』の詩。

「われは明治のならずや。

その文化歴史となりて葬られし時

わが青春の夢もまた消えにけり。

(中略)

われは明治の兒ならずや

去りし明治の兒ならずや」

明治の文化の喪失を激しく悲嘆している詩なのだ。

碑を見て、一瞬、荷風にしてはモダンだなと思った。

詩を読んで、その思いは更に強まった。

もっとレトロであってほしい。

明治を感じさせてほしい、とこれは僕の感想です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


5 投げ込み寺(板橋宿、千住宿、藤沢宿)

2011-06-02 09:07:17 | 寺院

かつて「投げ込み寺」と呼ばれる寺があった。

江戸時代のことである。

「投げ込まれる」のは、遺体。

遊女の遺体だった。

遺体は筵に巻かれ、銭200文を付けて、寺に持ち込まれた。

江戸に「投げ込み寺」は、4カ寺あった。

あるいは、4カ寺しかないというべきか。

場所が限定されているからである。

品川、千住、板橋、内藤新宿の4か所。

いずれも街道の初宿である。

僕の住まいは板橋だから、まず、身近な所から始めようか。

板橋宿の「投げ込み寺」は「文殊院」。

          文殊院(板橋区仲宿)

「文殊院」は板橋宿の中ほど、仲宿にある。

道をはさんで向かい側は、宿本陣。

「文殊院」は、本陣飯田家の菩提寺でもあった。

天保年間(1830-44)、板橋宿には54軒の旅籠屋があった。

その約半数は飯盛り女を抱えていたと言われている。

宿場に遊女は付きものだった。

しかし、吉原以外の岡場所を幕府は厳しく取り締まってきた。

宿場振興のカンフル剤は遊女にありと公認の嘆願が相次いだ。

結局、享保3年(1718)、旅籠1軒に二人の飯盛り女を置くことを、幕府は許可することになる。

      東海道中栗毛野次馬 原の驛 (落合芳幾画 仮名垣魯文記)

      部屋の中から誘う飯盛女と街頭で呼び掛ける留女(とめおんな)

 

安永3年(1772)には、飯盛り女の総数も制限されて、品川宿は400人、板橋、千住は150人の飯盛り女と定められた。

飯盛り女とは字義通り給仕女であるが、春もひさいだ。

飯盛女とは、遊女であり、娼妓だった。

借金のかたとして、幼女の時に、旅籠屋=妓楼に引き取られ、15,6歳になると売春を強要された。

客がとれなければ、食事を抜かれ、折檻された。

丸裸で梁へ釣り上げ、打ちのめされた。

心身を病んでも看病されず、多くは早死した。

首をくくり、身を投げ、心の臓を突くなど自殺も絶えなかった。

30歳を迎えられれば、長生きだとされた。

死んでも身柄の引き取り手は現れない。

墓を造ることなどとんでもないことだった。

妓楼の抱え主は、遺体を筵に包み、200文を付けて「文殊院」に投げ込んだ。

 

その「文殊院」に、実は、「遊女の墓」がある。

板橋宿の観光コースの立ち寄りポイントとして、今や有名だが、逆にいえば、それだけ稀有な墓だということになる。

なぜ、稀有かと言えば、亡八と称された楼主が抱えの遊女の墓を建てたからである。

亡八とは「礼・義・廉・直・孝・悌・忠・信」の八徳を忘れた者。

忘八が亡八になった。

人面獣心の輩だとそしられた。

遊女の墓は、その人面獣心に仏ごころを見るから、珍しがられたのである。

墓地に入る。

標識に従って行くと「遊女の墓」に着く。

                               遊女の墓

墓地の奥左に円頭形角柱墓塔が立っている。

二重の上の台座には、横に「盛元」の文字。

妓楼の店名だ。

並んで小型の櫛形角柱墓が立ち、その前に左を向いて2基の墓が並んでいる。

「遊女の墓」と墨書する御影石には、「薄倖の美女の献身と悼み、平尾宿大盛川楼主建之 正面家族側面遊女」のやや感傷的な説明文が。

墓碑の正面の戒名の位号は、居士、大姉。

       墓正面の戒名         墓側面の戒名          

側面は信女だから、こちらが遊女の戒名と思われる。

時代は、文化から嘉永年間。

この信女の位号は、隣の櫛形角柱墓標とその手前の角柱墓標も同じで、これらも遊女の墓ではなかろうか。

    墓地の右側に立つ墓石

明治5年の「娼妓解放令」の別名は「牛馬解き放ち令」。

娼妓は牛馬と同じ扱いだった。

当然、人格、人権などはない。

死んでも物扱いだった。

だから戒名のついた遊女の墓は、極めて珍しいことになる。

 

その珍しい墓は、千住宿にもある。

千住宿には、投げ込み寺は二か所あった。

その一つ「金蔵寺(こんぞうじ)」の参道左側には2基の供養塔が立っている。

  金蔵寺(足立区千住2丁目) 左、遊女の墓   右、飢饉餓死者の墓

向かって左は「南無阿弥陀仏」、右は「無縁塔」とある。

その間に地蔵菩薩立像。

左の「南無阿弥陀仏」塔は、遊女の墓。

     大国屋の遊女の戒名        童女、童子が並ぶ碑面

台石に妓楼名とその遊女の戒名が並んでいる。

大半は「信女」だが、「童女」や「童子」もある。

「童女」は遊女見習いの禿(かむろ)だろうが、「童子」はどういう男の子か。

遊女が生んだ子供だろうか。

ちなみに右の「無縁塔」は、天保8年(1837)の大飢饉の餓死者の供養塔。

千住宿の死者827人というから大惨事であった。

 

もう一か所の投げ込み寺「不動院」の無縁塔は、遊女の合祀墓。

  不動院(足立区千住1丁目)         遊女の墓・無縁塔

台石には、設立世話人として、各妓楼とその主人名が記されている。

    妓楼とその主人名を刻んだ台石

天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、千住宿の旅籠屋は62軒、うち飯盛旅籠は47軒であった。

飯盛旅籠からは冥加金が上納されていた。

公儀の目は、従って、妓楼の不正よりも娼遊女の逃亡などに向けられていた。

こうした楼主と官憲との密接な関係は、遊郭がなくなる昭和10年代まで続いた。

千住遊郭の表と裏には交番があったが、遊女たちの逃亡監視が主たる任務であったと言われている。

 

ところで、「遊女の墓」と言えば、藤沢市の遊女の墓を無視するわけにはゆかないだろう。

なんと43人もの遊女の墓が一か所にある。

場所は、遊行寺から西へ3-400メートルの地点にある浄土真宗「永勝寺」。

山門をくぐるとすぐ左手に、その「遊女の墓」はある。

墓域の奥、一段高く聳えるのが、妓楼「小松屋」の主人とその家族の墓。

 

   鳳谷山永勝寺      遊女の墓 奥の墓標は小松屋源蔵とその家族

台石に大きく「小松屋源蔵」と刻んである。

その前の広場のような墓域の縁に沿って並んでいるのが「小松屋」の遊女たちの墓。

墓の数は39基。

そこに48人の法名が記されている。

男女の内訳は、女43人、男5人。

 台石に小松屋源蔵          墓域を取り囲む遊女の墓

墓の正面に、法名と没年月日。

側面に施主、小松屋源蔵と遊女の俗名が刻まれている。

   遊女の墓の正面            遊女の墓側面

「永勝寺」から国道に出て右折、かつての藤沢宿の中ごろに「小松屋」なるラーメン屋があるが、あれが小松屋源蔵の子孫の店と紹介するブログがある。

「遊女の墓」には、藤沢市教育委員会の説明板が立っている。

「小松屋の抱えた飯盛女の墓は39基あり、内38基が宝暦11年(1761)から享和元年(1801)まで、小松屋の墓域に建てられている。このように供養されたものは少なく、借金のかたなど苦界の中で身を沈めたものが多い中、小松屋の温情がしのばれる」(藤沢市教育委員会) 

飯盛女=遊女・娼妓の墓を建てた旅籠屋=妓楼の主人は、ほぼ皆無に近かった。

それだけに小松屋源蔵の「温情」が際立つのだが、「温情」として偲んでいていいものだろうか。

説明板によれば、墓は18世紀後半の40年間に建てられている。

一方、女の法名は43人。

つまり、小松屋では1年に一人強の割合で遊女が死んでいたことになる。

お上からのお達しでは、一軒の旅籠屋に許された飯盛女は二人まで。

小松屋では、毎年、抱えの遊女の半分が死んでいったのだろうか。

お達しなどくそくらえ、違法、脱法行為は当たり前の時代だった。

小松屋に10人の遊女がいてもおかしくない。

それでも死亡率10%。

異常に高い数字である。

彼女たちの死んだ歳を考えれば、なおさらのことだ。

二十歳代の若死が多かったと言われている。

同業者の誰もしないことを小松屋源蔵はした。

死んだ遊女の墓を建てた。

その「温情」が偲ばれるというのなら、同時に遊女を若死にさせたあこぎな源蔵の「薄情さ」にも思いを致すべきだろう。