石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-2

2016-03-04 05:54:12 | 遺跡巡り

西念寺を出て左折、突当りを左へ曲がり、すぐ右へ曲がると新宿通りへ向かう道になる。

左の電信柱の背後は西念寺の塀、右に曲がると新宿通りへ。

この道は、女性の権利に関わる事件や人物と縁が深い。

寺町とは無関係だが、ちょっと寄り道をしよう。

「敵討ち」は知ってても「妻敵(めがたき)討ち」となるとどうか。

妻が不義を働いたとき、その相手を討ち取ることを「妻敵討ち」と云った。

享保の時代、この道で、妻敵討ちがあった。

不義はご法度で、駆け落ちは命がけの時代だったが、そこは人の世、抜け道はちゃんとあったらしい。

「間男七両二歩」とか、浮気の代償として七両二歩を夫に払えば、見逃してもらえたという。

夫にとっても、妻のスキャンダルは外聞が悪い。

できるだけ内聞にしたいから、事件になることは少なかった。

駆け落ちの家老の妻と家臣の男は、七両二歩をケチったのか、大胆不敵だったのか、あえて「事件」となる道を選んだ。

表ざたになったがために、家老はいやいやながらも間男を探すことになる。

そして、3年後、この道で膏薬売りに変装していた間男は、家老とバッタリ出会い、逃げるところを背後から斬り付けられてしまう。

もちろん、不義の妻もつかまり、奉行所で死罪を申し付けられるたという。

 

不義密通の妻を女権論と組み合わせるのは、いささか無理がある。

しかし、この界隈にフエミニストたちが住んでいたのは事実です。

「元始、女性は太陽だった」の平塚らいちょうと女性運動家・市川房江が間借りをしていたのはこの通りの家で、主婦連の奥むめおの自宅も若葉にあった。

再び西念寺へ戻る。

西念寺の塀沿いに西へ進むと左に坂が見える。1380

観音坂と標識にはあって、以下の説明がある。

「この坂の西脇にある真成院の潮踏(塩踏)観音にちなんでこう名付けられた。潮踏観音は、潮干観音とも呼ばれ、また、江戸時代には西念寺の表門が、この坂に面していたので西念寺坂ともいう」。

坂を下りると右手に見えてくるのが、

◇真言宗豊山派・放光山蓮乗院千眼寺(新宿区若葉2-8-6)

民家のような建物が庫裏で、正面が本堂だろう。

扉は開いているが、ちょっと入るのをためらう気分。

朱色の「南無遍照金剛」が目につくなあと思っていたら、御府内八十八ケ所霊場の83番札所だという。

ちなみに蓮乗院の下の真成院は、第39番札所。

いつも不思議に思うのだが、隣り合っているのだから連番にすればいいのに、なぜ、離れているのだろうか。

◇浄土宗・信壽院楽生庵(新宿区若葉2-9)

蓮乗院の真向かいが、信壽院。

こちらは扉も閉まっている。

一見狭そうな感じだが、向かいの真成院ビルの上から見た所では、結構広い。

◇真言宗・金鶏山真成院(新宿区若葉2-7-8)

蓮乗院の下、信壽院の向かいの8階建てビルは、一見、寺らしくはないが、青と赤の幟が林立していて、寺だと分かる。

これだけ幟があると、信仰よりは、商売に力点があるように感ずるのは私だけだろうか。

寺のパンフには、「癌の駆け込み寺」とある。

「難病平癒の祈願所」の文字もある。

死に対する恐怖心を和らげる力が宗教にあるとは思うが、難病を平癒することができるとは私は思わない。

坂に面して掲示板があり、維摩経の一節が掲示されている。

海に沈む宝は
 もぐらなければ
 得られないように
 迷いの泥海の中に
 入らなければ
 悟りは得られない

青色の幟には「潮干観世音」とあるので、お寺に断わって、ビル最上階の観音堂へ。

内陣へは上がれないので、詳しくは分からないが、十一面観音のようだ。

縁起書によれば、「昔はこの辺りは海岸で、潮の干満によって観音像の台石が濡れたり、乾いたりしたので、潮踏観音と呼ばれるようになった」とのこと。

その台石は、享保10年(1725)の火災で焼失してしまって、今はない。

『江戸名所図会』にも潮干観音は描かれている。

「聖天」の文字が見えるが、これも真成院。

戦前まで、この寺には歓喜天が祀られていた。

歓喜天は、もとバラモン教の神で、象頭人身の男女が抱き合うエロチックな護法神。

災いを除き、福をもたらす「聖天さま」として、人気があった。

寺の玄関前には延命地蔵や稲荷神社に並んで、線刻像がある。

浅い線彫りで像がはっきり見えない。

寺に訊いたら、上が十一面観音、下右が、弘法大師、下左が地蔵菩薩だとのこと。

これはこれなりに珍しい組み合わせということになる。

 

観音坂を下りて右へ。

次の坂、東福院坂を上ると右手に愛染院がある。

赤レンガが美しい。

旧日本陸軍で多用されていたので、旧軍施設がこの地に隣接してあったのかと思ったが、大正年間、当時流行りの建築資材だったから使用したまで、とは寺の説明。

 

 

 

 

 

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(7)コロンボ(シーマ・マラカヤ寺院)

2016-02-26 06:32:56 | 遺跡巡り

下は今回のスリランカ旅行で撮った写真で私の好きな一枚。

直線だけで構成されたシンメトリーな建物となよなよした曲線的なブッダ像の組み合わせが、すっきりと爽やかさに、見る人を惹きつけます。

このモダンな建物は、コロンボ中央のベイラ湖に浮かぶシーマ・マラカヤ寺院の一部。

シーマ・マラカヤ寺院は、前回取り上げたガンガーラーマ寺院の末寺で、湖上に浮かぶ仏教寺院として、人気の観光スポットでもあります。

実は、この写真には、スリランカを代表する二つのものが含まれています。

一つは、いわずもがな、ブッダ像。

もう一つは、この寺院の建築を手がけたジェフリー・バワ氏。

ジェフリー・バワは、スリランカが世界に誇る天才建築家として有名です。

彼は、スリランカの上流階級の家に生まれ、英国のケンブリッジで英文学を修めた後、改めて建築家を志して留学、建築家としてスタートしたのは38歳でした。

ジェフリー・バワは、リゾートビーチホテルを数多く手がけていますが、そのホテルに宿泊すること自体が、現在、スリランカ観光ツアーの目的の一つになっているかのような現象をきたしています。

かくいう私たちも彼が設計したホテルに3泊しました。

連泊したヘリタンス・カンダラマ ホテルは、ダンブッラ市街10キロの山中にあります。

公道からホテルへの私道に入ると、道は未舗装で穴だらけ、スピードダウンで、車は進むしかない。

ホテルの理念「自然との共生」が、この未舗装のでこぼこ道に現れています。

当然、道の側には、野生のクジャクやマングースがいる。

マングースがいるということは、コブラもいるということです。

野生のゾウに出会うことも珍しくないのだとか。

 このゾウは野生ではない。

ホテルの前方に広がっているのは、カンダラマ湖。

対岸にシキリヤ・ロックも見える。

ホテルのフロントロビー前のプールは、向こうの湖に溶け込んで、境目がはっきりしない。

日本各所にもあるこのインフィニティエッジプールの発案者は、いわずもがなジェフリー・パワ。

親水性は、彼の設計の重要ポイントです。

部屋に入って外を見るとサルがいる。

サルがいないのを見計らってベランダに出る。

密林の木々は、ホテルの5階まで伸びて、建物を包み込みそう。

岩や樹木の位置をそのまま取り入れて、屋外と屋内の連続性を重視した造りは実に見事というほかありません。

ガイド氏の話によれば、このホテル建設にあたり、村から土地を30年契約で借用しようとした時、自然破壊だと猛烈な反対運動がおこって、再契約は出来ないだろうと云われたのだそうです。

ところが、ホテルの稼働とともに野菜などの食材を地元から仕入れるので、村は潤い、今では、自然破壊の反対の声も上がらなくなったのだとか。

 

もう一泊したのは、ワドゥワにあるザ・ブルーウオーターホテル。

プールの青い水面にヤシの木が映りこんで、「ザ・ブルーウオーター」のホテル名に恥じない。

ホテルの中にまで水を引き込んで、水使いの魔術師バワの面目躍如。

老人の保養というよりは、新婚さん向きか。

 

ちょっと寄り道が長くなった。

最初のシーマ・マラカヤ寺院に戻ろう。

シーマ・マラカヤ寺院は.3つのパートからなる。

中央が本堂。

本堂の右に礼拝堂。

冒頭の写真は、本堂側から見た礼拝堂でした。

そして、本堂の左の、デワレ(ヒンズー教の神々の神域)。

本堂入口には勿論、ムーンストーンとガードストーンがある。

本堂内部には、何体ものブッダ像が柔らかい光の中に静かに坐して、雰囲気はまるで美術館のよう。

湖上の寺院だから、全体に狭い。

狭いけれど仏教寺院であるための必要条件、菩提樹とストゥーパ(仏塔)は、ちゃんとある。

ホロンナルワのガル・ヴィハーラのアーナンダ立像のコピーも、なぜか、ある。

デワレだから4隅にヒンズーの神々が祀られている。

日本の神仏混合に似て、スリランカでは仏教とヒンズー教の混合は至極当たり前。

商売繁盛とか家内安全、合格祈願などの現世利益は、専らヒンズーの神々にお願いして、ブッダには死後の安寧しか願わないのが普通。

仏教の守護神でもあるヴィシュヌ神は、手が4本、それぞれにほら貝、転輪、蓮の花、棍棒が握られている。体はブルー。

カタラガマ神の乗り物はクジャク。顔は6面、12本の手すべてに武器を持っている。

ガネーシャ神は、ゾウの頭で4本の腕を持つ。商売の神であり、学問の神でもあって、人気が高い。

 これで2か月にわたった、「スリランカ仏教遺跡巡り」の報告は終わり。

旅行記は、現地を知っている人は興味を持って読むが、知らなければまず読まれることはない。

余程の筆力があれば、別だが。

読まれないだろうことを前提に描き続けたブログでした。

心残りがあるとすれば、スリランカの庶民の信仰生活に触れることがなかったこと。

駆け足の観光旅行だから仕方ないが、普通の家の日常の信仰のあり方を知りたかった。

出家と在家、寄進、供物、現世利益祈願、仏教とヒンズー、バラモン教との混合など日本とは格段に違った敬虔な仏教徒の諸相を知りたかったのです。

わずかな期間のスリランカ滞在で、私はすっかり、上座部仏教に魅せられました。

帰依するのも、拝むのも、信ずるのも信仰の総てはブッダだけ、と云うのは単純明快で、すっきり分かりいい。

宗派によって宗旨が違い、拝むべき仏像も千差万別、出家者は世襲で妻帯し、酒を飲む日本の、大乗仏教よりずっと魅力的に私には思えました。

仏陀のことを少しずつ勉強するつもりです。

≪参考書≫

◇杉本良男『もっと知りたいスリランカ』昭和62年 弘文社

◇中村禮子『わたしのスリランカ』1985 南雲堂

◇青木保『聖地スリランカ』昭和60年 NHK

◇竹内雅夫『スリランカ 時空の旅』2008 東洋出版

◇楠元香代子『スリランカ巨大仏の不思議』2004 法蔵館

◇中村元『ブッダ入門』1991 春秋社

◇アルボムッレ・スマナサーラ『仏教は宗教ではない』2014 エボルビング

◇三浦朱門『海のシルクロード ブッダと宝石』1988 日本放送出版協会

◇『世界の聖域9セイロンの仏都』昭和54年 講談社

◇『地球の歩き方 スリランカ』2014 ダイヤモンド・ビッグ

◇『Beyond the Holiday スリランカ』2015アール・イー

◇『るるぶ スリランカ』2014 JTBパブリッシング

◇『 Sacred city of Anuradhapura』

◇J.B.Disanayaka『Anuradhapura the Sacred City』

◇Chandra Wikramagamage『Tantric Buddhism and Art of Galvihara』

◇Chandra Wikramagamage『The beayty of the entrances to the buildings in ancient SriLanka』

◇Anuradha Seneviratna『The Temple of the Sacred Tooth Relic』

 

 

 

 

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(7)コロンボ(ガンガーラーマ寺院)

2016-02-22 06:36:30 | 遺跡巡り

年明けからこれまで、このブログの目的は、スリランカの仏教遺跡世界遺産5か所のリポートでした。

アヌラーダブラ、ボロンナルワ、シーギリヤ、ダンブッラ、キャンディと5か所の報告を終え目的を達したが、旅行最終日にコロンボの仏教寺院に寄ったので、世界遺産でも仏教遺跡でもないが、おまけとして付け加えておきます。

訪れたのは、ガンガー(河の)ラーマ(寺院)。

コロンボ市内中央のベイレ湖の近くにあります。

コロンボ最大のお寺というのですが、博物館のようでもあり、ガラクタの集積所のようでもある。

 

本堂入口の横には、中国の武将。

その背後には、なんともなまめかしい裸婦像が。

仏教寺院にあるまじき像容だが、多分、ヒンズー教の神でしょう。

スリランカの仏教寺院にヒンズーの神々が混在しているのは、ごく自然なこと。

しかもこのお寺は18世紀に建てられてからというもの、アジア各国から仏教文化財を集め続けてきたということで、境内には、ヒンズー教以外の、謂れの分からない文化財がごろごろあるのです。

本堂入口では、ゾウと女神のお出迎え。

通路には、ガネーシャ神。

その隣には、まるでキリスト教関係のものかと思われる像が鹿の背に座しているが、頭に化仏らしきものが見えるので、観音像かもしれない。

地味な外観に似合わず、本堂内部はめくるめく色彩溢れた世界。

巨大な仏陀像に圧倒される。

その前方には、未来仏が。

日本では弥勒菩薩と云われるが、その像容の余りの違いにあきれるばかり。

本堂の天井と壁は、絵画で埋まっています。

絵画のテーマは全部仏教神話。

下の6人は、神話ではなく、仏教史とスリランカ史の登場人物。

 左から、パラークラマ・バーフ1世王(ポロンナルワ)
     デーワナンピャ・ティッサ王(アヌラーダブラ)
    ドゥッタガーマニー王の息子サーリャ王子(恋人の像の主人公)
    アネーピド(釈迦の師)
    ビンビサーラ王(釈迦を保護したマガタ国王)
    シュッドウダナ(釈迦の父)

中庭へ。

スリランカの仏教寺院として、必ずなければならないストゥーパ(仏塔)と菩提樹は勿論ある。

 

菩提樹は、アヌラーダブラのスリーマハー菩提樹からの分け木。

ボロンナルワの仏陀座像の模像もある。

階段式仏壇には、仏陀像がずらり。

こうした数に物を云わす信仰は、千体仏などがその表れだが、この棚に並ぶ千体仏はどこの国もものだろうか。

仁王がいれば、

布袋もいる。

楽しいと云えば楽しいが、説明があるともっといいのに。

 

ガンガーラーマ寺院は急成長、急拡大して大寺院となった。

寺の周囲の環境も目を見張るほど整備されてきた。

こうした現象は、しかし、政財界の大物が檀徒であることと無関係ではないとの批判もあるという。

確証ある話しではない ので、これ以上、触れはしないが・・・


    

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(6)キャンデイ(仏歯寺-2)

2016-02-19 06:56:57 | 遺跡巡り

仏歯寺の2階へ向かう列は2列あって、仏歯塔を拝み、供物を差し出すことを目的とする左列は遅々として進まず、一方、右列は止まることなく進むことができることは、前回、述べた。

右列の人たちは、さっさと階段を上り、本堂前の広間に座って、ひたすら祈る。

 近寄ってアップを撮りたかったが、近づく勇気がなかった。

みんなで唱和することはない。

それぞれが勝手に、自分のタイミングと流儀で、仏との対話をしているように見える。

祈る人がいれば、祈らない人もいる。

アクションはばらばらで、雑然としたまとまりのない光景ではあるが、そこには静かな空気が流れている。

雑談する人がいないのです。

仏陀の前で祈る時には、まずこれを口唱するように、とガイド氏が教えてくれたのは、パーリ語の「三帰依文」。

  • 1度目の帰依
Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はブッダ(仏)に帰依いたします)
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はダンマ(法)に帰依いたします)
Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(サンガン・サラナン・ガッチャーミ)
(私はサンガ(僧)に帰依いたします)
  • 2度目の帰依
Dutiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ドゥティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
(再び、私はブッダ(仏)に帰依いたします)
のように、Dutiyampi をそれぞれの頭につける。
  • 3度目の帰依
Tatiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(タティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
(三度(みたび)、私はブッダ(仏)に帰依いたします)
Tatiyampi を、法、僧帰依文の頭につける。
 

その前に、まず、仏陀への崇敬の念。

「祝福されし者、至上の存在、全き悟達に達した者を称える」を唱える。

次に「三帰依文」を唱え、更に五戒(殺さない、盗まない、犯さない、嘘をつかない、酒を飲まない」を誓うのだが、これら全部を三回ずつ唱えても3分もかからないだろう。

信者たちは、30分も40分も祈り続けているのだから、何を唱えているのだろうか。

少なくとも、家内安全や病気治癒、商売繁盛などの現世利益でないことだけは確かだ。

「神頼み」はあり得ないからです。

「神はいない」、頼れるのは自分だけというのが、上座部仏教の基本だからです。

仏法僧に帰依し、五戒を守り、身を律して修行に励めば、自己を改革することができる。

出家者ほど修行しにくい在家者は出家に寄進することで功徳を積み、昇天を願う。

修行が、とても重要な意味をもっていることが判ります。

修行を「難行」ととらえ、「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば昇天できると「易行」に力点をおいた日本の浄土真宗とは、まったく異なった仏教がここにはあります。

ましてや親鸞は妻帯者、仏教徒ですらありえないとスリランカ人は断じるでしょう。

 

2階から再び1階に降りる。

夜が明けて、本堂の外観が見えるようになった。

本堂は、16世紀に建立されたそのままの姿。

この本堂を包むように外側に建物を建て並べて、現在の仏歯寺は成り立っている。

本堂は手の込んだ木造建築ときらびやかな意匠が目を惹く。

定番のムーンストーンとガードストーンを通って、「新仏間」へ。

日本人にはなじみ深い仏像がある。

大乗仏教国から寄付されたものだろうか。

献花台で、若い男がジャスミンの花ビラで仏陀像を描いていた。

広いホールの両側の壁と柱には、24枚の絵と説明文が掛けられている。

絵の内容は、仏歯物語り。

仏歯がスリランカに持ち込まれ、侵略軍の手を逃れながら最終的にここキャンデイに落ち着くまでの歴史を描いている。

すっかり明るくなって、先刻までの喧騒が嘘のように、寺は静まり返っている。

喧噪ではあるが、それはブッダをリスペクトし、ブッダに帰依する信徒の強い信仰心のなせる業だった。

日本ではありえない、熱狂的信仰の渦中に身を置いて、スリランカを体感したかのように思った。

 

 

 

 

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(6)キャンデイ(仏歯寺)

2016-02-16 06:26:16 | 遺跡巡り

スリランカ旅行5日目。

ダンブッラ岩窟寺院見物を終え、一路、キャンディーへ。

いくつもの峠を越えて、ということは山中なのに家並みが途切れなくなると、そこがスリランカ第2の都市キャンディ。

シンハラ語で「山」は、「カンダ」。

ヨーロッパ人が間違って「キャンディ」と呼んだのが、町名となった。

高台から俯瞰すると、確かに山に囲まれた盆地に街はある。

その山々が天然の要塞になることを見込んで、この地に最後のシンハラ王朝の王都が築かれたのが、16世紀後半。

300年後、イギリス軍に滅ぼされるまで、キャンディは王都であり続けた。

そのキャンディの中核は、なんといっても仏歯寺でしょう。

仏歯寺は、シンハラ王朝の王権を象徴する釈迦の歯を祀る寺。

毎日3回行われるプージャという祈りの儀式を通してみた、仏歯寺と信者たちの、これは私なりのレポートです。

 ◇キャンディ(仏歯寺)

 キャンディのクイーンズホテルを朝4時45分に出る。

拡声器から読経が流れている。

ホテルの目の前が仏歯寺の入口検問所。

街灯の下、5時の開門を待つ信者の列がボワっと浮かび上がっている。

6時から始まるプージャ(仏への礼拝)参列のため国内各地から来た信者たちだ。

男の列が女より長い。

5時きっちり、列が動き出す。

手荷物を調べるわけでもなく、ボディタッチをすることもなく、検問所を通過。

みな、小走りに寺へと向かう。

寺の前には、濠。

寺院と言うより城砦のようだが、仏歯はスリランカ王権のシンボル。

幾度となく外国軍に敗退し、王都を移しつつ、必死に仏歯を守ってきた王家とその軍が仏歯寺の前に濠を築いたとしても、なんら不思議はない。

1000ルピーというバカ高い入場料(スリランカ人はタダ、外国人だけ)を支払い、履物を預けて(これも有料)、濠を渡り、寺の中へ。

左が外国人入場券売り場兼履物預かり所。外国人がいないので、売り場の人も不在で大分またされた。

非仏教徒の祭事場への入場を拒みはしないが、そのかわり高いですよ、とその方針は明確です。

供花のジャスミンの花ビラ100ルピーを買う。

これは余談だが、この日の昼頃、仏歯寺の裏でジャスミンの花を摘む男を見た。

こんな手近な所で仕入れているんだと、意外だったので、パチリ。

次第に大きくなる太鼓の音を耳にしつつ本堂へ。

 本堂1階。入口への通路に覆いかぶさっているのは、象牙。

信者たちは太鼓敲きの奏者に目をやることなく、さっさと二階へと進んでゆく。

実は、前日の夕方、3回目のプージャの時もこの場にいたのだが、その時は外国人観光客が太鼓敲きを取り囲んで、シャッターを押していた。

ところが、今朝は、早朝の為か外国人は一人もいない。

太鼓の男たちも、手持無沙汰の様子。

時おり、銀の食器を担いだ俗人の男が本堂正面の扉へと吸い込まれてゆく。

二階の祭場へと運びこむためのものらしい。

私も長い行列の最後尾に着く。

列は2列あって、右の列の進み方は早い。

しかし、昨夜、流れの行き先が分かったので、動きのある列にはつかない。

早い列は、肝心の仏歯を納めた仏塔が見られる仏歯室の前を通らないのです。

動きが遅い列は、仏歯塔を一目見ようとする列で、そこで一瞬みんな止まるから、のろのろした動きになるのでした。

踊り場にある仏塔は、お釈迦さまが使っていたお皿が納めてあるのだとか。

そして、縦長のガラス容器は、ペラヘラ祭りの際、仏歯を納める入れ物。

信者の多くは、供え物のお米や果物を持参しています。

ぶれてピンボケだが、下はご飯、上は果物だろうか、きちんと包装して大事に捧げ持っている。。

待つこと40分、やっと黄金仏歯塔が見える窓に。

写真を撮ろうとカメラを持ち構えたら、ガードマンに恐ろしい顔でにらまれ、慌ててカメラを放す。

窓に着く。

前の人の頭越しに仏歯塔が遠くに小さく見える。

 堂内に掲げてある仏歯を納めた黄金の仏塔の写真、前の写真の左端に見える。

中から伸びてきた手に、寄進の供物を渡す。

供物はぞんざいに受け取られ、放り投げるように置かれる。

寄進された供物の山で、肝心の仏歯塔が見えないほどだ。

熱心な信者たちは、供物を渡しながらお経を唱え、合掌するから、列はストップしがちだ。

供物を渡し、仏歯塔を拝み、お経を唱えるという信者たちの願望をかなえるには、窓は小さく、通路は狭く、人は多すぎる。

スリランカの最も神聖な場所であるはずなのに、そこを支配しているのは、怒号こそないものの、押し合いへし合いの騒々しい空気。

在家信者は、出家に対して寄進すべき存在であることは承知していても、中から事務的に伸びる無言の手にも、違和感を禁じ得ない。

「ありがとう」の一言があってもいいのではないか、とこれは外部者の私の感想です。

儀礼の手順の概略は以下の通り。

1)ドラマーが演奏を始め、僧が3人舎利安置室に来る。
2)仏歯室のカギを預かる役職者からカギを受け取った僧が聖城の扉を開ける。
3)鐘つき役が儀礼開始のベルを鳴らす。
4)僧は花を捧げて祈り、仏歯へのプージャ(贈呈・寄進)に必要な容器や白布を整える。
5)正午までのプージャは必ず食物が捧げられるが、それはカレーと米飯。野菜を含め、一  
 種ずつ調理して、ごった煮はしない。
6)仏歯が透明な容器にいれて安置された小室は、前面を特殊ガラスで区切られ、その中での僧の振る舞いはカーテンがあって、明らかではない。

一連の儀式は仏陀が実際に食事をとるように進行する。(高野山での空海の食事を欠かさないのと同一儀礼てあることが面白い)

仏陀が健在である限り、スリランカという国は安泰であるというかのように。

 

 

 

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(5)ダンプッラ(第3窟―第5窟)

2016-02-13 06:36:47 | 遺跡巡り

◆ダンブッラ・第3窟「マハー(偉大な)・アルト(新しい)・ヴィハーラ(寺)」

第3窟を入ってすぐ左に立つのは、キッティ・シリ・ラージャシーハ王。

18世紀、ラージャシーハ王は、倉庫だった第3窟を礼拝堂に作り替えると同時にダンブッラ洞窟寺院全体を修復し、壁画を描き足した。

熱烈な仏教徒であるはずなのに、王冠や黒い髭、衣装がどことなく異国風であるのは、当時、セイロンを支配していたオランダの影響があると云われている。

背後の壁画の上半身裸の髭男もラージャシーハ王。

供花を持って仏塔に向かう所。

その上の花模様は、インドネシアのジャワ更紗に似ている。

18世紀、ンドネシアもオランダの植民地で、オランダ経由で文化交流があったものと見えます。

窟内は、幅27m、奥行き24mと第2窟の半分くらいの広さ。

しかし、仏像は、57体と意外にも第2窟よりも多い。

ほとんどが黄色の衣の仏陀像の立像と座像。

みな同じような像容で、一体ずつ写真を撮る意欲が失せます。

入口正面に本尊。

石像を彩色してある。

頭上には、第2窟の本尊と同じくヒンズー教の影響が見られます。

左にお釈迦さまの涅槃像。

涅槃像は、長さ9m。

このお顔が、ダンブッラ寺院全体で最も美しく、やさしく、慈愛に満ちているとの評価があるのだそうだ。

枕の布地は、花模様からジャワ更紗とみられている。

 

 

ダンブッラ洞窟寺院を語るのに天井の壁画抜きでは語れないだろう。

余すところなく天井一杯に描かれた絵画の、圧倒的な迫力に言葉を失うほどです。

どの絵も何らかの物語の一部であるはずですが、では壁画を並べてストーリーを展開できるかと言うと、これが難しい。

釈迦の生涯にしろ、スリランカ国史にしろ、各ストーリーの基礎的知識がないから、写真の撮りようがないのです。

ダンブッラの壁画の描き手についての記述があるので、引用、転載しておきます。

「さて、これらの壁画は、誰によって描かれたのであろうか。それは僧侶ではない。仏画を専門に描く絵師がいて、彼らは王家の支援を受けながら、生命をかけて洞内を極彩色に埋め尽くした。描いた絵師のサインはどこにも見つからない。壁画は、無名にして仏に捧げられた。それは絵師の『よきことをなす』というこの世の喜びからきている。絵師たちの仏法僧に帰依したひたむきな情念が壁画にぶつけられているようだ。絵師は、仏と見る信徒とを結び付けようとした。その熱烈な情念は、あの大柄で、また同じ仏や仏弟子のくりかえされる図柄の構図法に読み取れる。強烈な配色もまた見る者の心をとらえたのであった」(早島鏡正『世界の聖域9-セイロンの仏都』講談社昭和54年)

◇ダンブッラ第4窟「パッツイーマ(西の)・ヴィハーラ(寺)」

横16m、奥行き8m、ぐっと狭くなった感じがする。

天井が急傾斜で奥に下がっているためかも知れない。

正面に本尊とブッダ坐像の列。

右を向くとストゥーパがあり、その後ろに黄色の仏陀座像が見える。

黄色のペンキが新しいのは、バカな観光客がこの仏陀の組んだ両手に座り記念写真を撮ったため、法力が薄れて塗りなおしたからだそうだ。(『地球の歩き方D30スリランカ』より)

実は、この写真はルール違反をしている。

正直に言えば、ほとんどの写真はルール違反なのです。

ガイド氏のアドバイスの一つは「仏陀像に背を向けないこと」だった。

しかし、狭い窟内の壁面すべてに仏陀像はおわすのだから、写真を撮ろうとすれば、どうしても背後の仏像に背を向けることになる。

ルール違反ばかりしていたから、ガイド氏はひやひやしていたのではないか。

仏陀の手に座って記念写真を撮ろうとしたアホな奴を笑えない存在だったことになる。

ごめんなさい。

◇ダンブッラ第5窟「デワーナ(2番目の)アルト(新しい)ヴィハーラ(寺)」

 1915年造営の最も新しい窟寺。

狭い洞窟内にドーンと寝釈迦が横になっておわす。

足指が揃っているから涅槃佛ではなく、横臥する釈迦。

コブラ仏陀が2体ある。

日本人の私には怖いが、スリランカ人はどうなのだろうか。

親しみがあるのかもしれない。

他の窟の像はみな花崗岩を彫ったものだが、この窟の像は、レンガと漆喰が原材料。

壁画は、花を持って並ぶ阿羅漢。

天井の一部が剥がれて、岩が露出している。

 

 

 

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(5)ダンプッラ(第2窟)

2016-02-10 16:40:20 | 遺跡巡り

第1窟から第2窟へ。

第1窟の外側にもヒンズー教の神祠があって、人だかりがしている。

◇第2窟(偉大な王の寺

「息を飲む」。

これが、第2窟に足を踏み入れた時の私の気持ちを表わす言葉。

幅50m、奥行き25mの広がりの中に56体もの仏像が、ぎっしりと並んでいる。

「ぎっしりと」と言う感覚は、高さ6mの天井一面に余すところなく描かれた仏像壁画が相まっての感覚です。

56体のうち50体は、多分、ブッダでしょう。

座像、立像、横臥像、印相や色彩はほぼ同一で、みなブッダなのです。

上座部仏教の本質がここにあります。

仏と云えば、ブッダだけ、他には何もない!

阿弥陀如来だ、薬師如来だ、大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩等々、数えきれない仏がいる大乗仏教の日本と、ここが大きく異なるのです。

それにしてもこの数は異常です。

第2窟は「偉大な王の寺」ですが、その王の名はワッタガーミニ・アバヤ王。

 第2窟に立つワッタガーミニ・アバヤ王

この寺の創設者でもある王は、仏像の寄進者でもありました。

在家信者の王は出家者に布施し、寺院に寄進するなどの功徳を積むことによって生天(昇天)を目指します。

寄進する仏像の数が多いほど功徳は増すのだから、窟内のブッダ像は増えるばかり、そう私は読み取るのですが、どうでしょうか。

沢山のブッダ像の中でも、この寺院の本尊と云えば、下の仏像。

 

頭上に「マカラ・トーラナ」の仏龕を配したこのブッダ像は、5世紀造立と推定されている。

脇侍の右は、観音菩薩。

左は、弥勒菩薩(釈迦入滅後、56億7000万年を経て下生し、衆生済度する菩薩)。

日本で見なれた弥勒菩薩との余りの違いに驚くばかりですが。

 広隆寺(京都)の弥勒菩薩

高さ5mの仏塔の周りには、ブッダが座していらっしゃるが、「えっ」と驚くのがコブラを頭上に配したブッダ像。

釈迦の頭上に立ち日陰を作って瞑想を助けた守護神として、インドやスリランカでは、コブラは敬われてきた。

日本で全く見かけないのは、コブラがいない中国で龍と訳され、そのまま日本に移入されたためという。

スリランカのブッダ像に共通の、頭上の飾り物は、シラスパタ。

光を表わすものらしい。

その代り(というのも変だが)大乗仏教では当たり前の肉髻がない。

窟内の一画に金網囲いの場所があり、中に壺が見える。

天井から滴り落ちる水滴を受ける壺のようだ。

ダンブッラは、ダンブ(岩)+ウーラ(湧き出す)で「水が湧き出す岩」。

この湧水が、地名のいわれとなった。

2分間に一滴ずつ、2000年の長きにわたって途切れることなく、滴り落ちているのだそうだ。

水が湧き出る所に魚の絵がかいてある。

仏典にある魚なのか、いたずら描きなのか。

天井の壁画の中に、架空の動物が描かれたものがある。

釈尊の瞑想を邪魔して悟らせまいとする悪魔だそうで、マンガチックで面白い。

壁画には、釈尊の生涯を描いた「仏伝図」やスリランカ国史もあって興味深いが、特定することができず、写真に撮れなかった。

 ≪第3窟へと続く≫

 

 

 

 

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(4)シーギリヤロックと(5)ダンプッラ(第1窟)

2016-02-07 07:29:02 | 遺跡巡り

スリランカのNO1観光地と云えば、シーギリヤ・ロックでしょう。

サーフィンやアーユルヴェーダなど特定目的でない普通観光なら、滞在日数の多少を問わず、シーギリヤを外すことは、まず考えられない。

ジャングルの中に忽然と現れる巨大な岩山。

山裾がなく、岩壁の四囲は垂直に切り立っている。

誰もがオーストラリアのエアーズロックを思い浮かべるだろう。

だが、シーギリア・ロックには、エアーズロックにはない見どころがあるのです。

それは、王宮遺蹟。

頂上の広がりに残る王宮跡は、父と子の、兄と弟の、骨肉の争いの産物でした。

スリランカ王国の歴史の一端を組み込んだ世界的奇観、シギリヤ・ロックがスリランカ観光の人気NO1スポットである、これが理由です。

当然、私も行きました。

しかし、シーギリヤ・ロックを書く資格が、私にはありません。

なぜなら、上らなかったからです。

いや、上れなかったからです。

1800段とも2100段とも云われる階段が、心臓を患う身にはネックになることは、日本にいて、プランを立てる時から分かっていたことでした。

それでも、開園と同時の、人が少ない早朝にゆっくり上る、現地人の尻押し部隊の力を借りる、などいくつかの対策を胸に現地に行きましたが、そそり立つ岩壁を見て登る意欲は一瞬にして潰えて、駐車場の車へと戻ったのでした。

あと3年若かったらなあ。

本当に、残念なことでした。

スリランカ旅行4日目は、ゾウに乗って、終わり。

スリランカ仏教遺跡巡り5日目・ダンブッラ≫

スリランカの中央部は、cultural trianglesと云われ、世界遺産がひしめいている。

5日目は、スリランカ最大の石窟寺院をダンブッラに訪ねる。

世界遺産石窟寺院は、別名、黄金寺院とも呼ばれる。

だから、ビルの上の黄金の大仏を見て「おお、これがあの」と錯覚しますが、この建物は博物館。

デザインと色彩が派手で、どことなく中国的だが、実はスリランカ人もこうしたけばけばしいのは嫌いではなさそう。

世界遺産の石窟寺院へは、博物館横の階段を上ってゆきます。

岩窟は、180mの高さ。

悲壮な顔つきだったようで、「大丈夫ですよ。途中まで車で行けますから」とは、ガイド氏。

安堵していたら、なんのことはない、車道は閉鎖中で全部歩く羽目に。

途中、景色を見る余裕もなく、へとへとになって、ともかく岩丘の上の岩窟寺院入口にたどり着く。

そこは岩丘の中腹で、テラスのように突き出た広い岩盤の上でした。

石窟は、今は建物で覆われて見えないが、オーバーハングした岩の下にあります。

履物を脱いで、第1窟へと向かう。

第1窟の手前に石碑がある。

シンハラ語での25行の内容は「紀元前1世紀、タルミ軍にアヌラーダブラを追われ、この岩かげに身を隠していたアバヤ王が首都奪還に成功し、その感謝の意を込めてここに寺院を創建したこと、その後、1200年間も放置されていたが、ポロンナルワ王朝のヴィジャヤバーフ1世とニッサンカマーラ王が修復したこと」など。

◇第1窟(神々の王の寺)

狭い入口を入る。

奥行きのない細長い部屋にドーンとお釈迦さまが横になっていらっしゃる。

涅槃仏の長さは、14m。

横たえた体の下の窪みなど、巧みに彫ってあるので、ついこの寝釈迦像が後ろの壁と同一の、磨崖仏であることを忘れてしまう。

涅槃像だから足指がずれている。

足裏が赤いのは、インドからスリランカに渡ってきた初代のシンハラ族の王が上陸したとき、土が赤かったので、足裏が赤く染まった故事をなぞっている。

どのくらいの赤い土なのか、参考までに道路工事中の写真を。

足下に立つ朱色の立像は、一番弟子のアーナンダ。

これも石像。

入滅するお釈迦さまを悲しみを持って見守っています。

台座が蓮華座でないから、ブッダでないことが判る。

壁画は何度か塗り直されているが、信者の点す灯明でどうしても煤けてしまうという。

引きの画を撮りたいのだが、人が多くて、無理。

入口から足下に移動するのも、背中をすり合わせながら進まなければならない。

お釈迦さまの頭の方が人ごみで賑やか。

ヒンズー教のビシュヌ神が祀ってあるのだと云う。

仏教とヒンズー教の混合は聞いてはいたが、こんな仏教の聖地のど真ん中でヒンズー教の神に出会うとは、意外だった。

≪続く≫

 

 

 

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(eガル・ヴィハーラその2)

2016-02-04 10:31:10 | 遺跡巡り

次は、その右隣の立像だが、その前にその手前の石碑について。

偉大なる王パラクラーマ・バーフ1世王は、頭を抱えていた。

折しも、上座部派、密教派、大乗派と3派が入り乱れ、スリランカ仏教界は混乱していた。

権力者ではあっても在世信者の王は、出家者に指図はできない。

混乱をまとめるよう長老に委嘱する。

1000人にのぼる比丘たちは、1年の議論を経て、一つの結論を出した。

それは、上座部仏教を正統とするものであった。

この石碑は、その経緯と結論を記す重要な碑文ということになります。

仏像というよりは、町中で友人と立ち話をしている青年像というイメージが強い。

右足に重心をかけ、リラックスしている。

爽やかな風に左肩から垂れた衣が今にもひらりと揺れそうだ。

磨崖仏であることをつい忘れてしまうが、よく見ると後ろの岩壁に横に流れる模様と同じ筋が、立像にも流れているのが分かる。

顔を横切る黒い縞模様が、絶妙に目を避けている。

入念な計算が花咲いて、石工はしてやったりとほくそ笑んだに違いない。

この立像は誰なのか、ブッダの高弟アーナンダであるとする説とブッダ本人とする説とが対立して、長い間、議論されて来た。

結論はでたようなのだが、そのことは、後述することに。

最後に右端の涅槃像。

長さ14m、硬い花崗岩を彫ったとは思えない、柔らかくなだらかな曲線が、今まさに入滅しようとするブッダの穏やかさを醸し出しています。

不揃いの両足の重ね具合も、これが単なる横臥像ではなく、涅槃像であることを物語っています。

 

80歳になってもブッダは、説法の旅の途上にあった。

だが、ある日、崩れるように倒れこんだ。

 

そして、お供の弟子に云う。

「アーナンダよ。私は疲れた。横になりたい」。

衰弱したブッダのお姿に涙するアーナンダにブッダは静かに語る。

「アーナンダよ、嘆くな、悲しむな。すべての愛する者から人は別れ離れるものなのだから」。

この逸話を知ってこの場に立つと、涅槃像と立像の2ショットは、ブッダとアーナンダにしか見えない。

80歳にしては、若々しいお顔がいささか気になるが、入滅時の師弟ととらえた方が私には理解しやすい。

しかし、立像はアーナンダではなく、ブッダその人であるという説の方が有力になってきているのだと云う。

その根拠は、立像の足元の蓮華座。

蓮華座に立つのはお釈迦さまだけ、という定説を覆す証拠は今のところないのだそうだ。

ガルヴィハーラの磨崖仏全部がブッダだとすると、では、それぞれをどう解釈すべきなのか。

左から、「人間の苦悩について深く瞑想しているブッダ」、真ん中の立像は「悟りを開き、その感慨に耽っているブッダ」、そして右の寝姿は「80歳で入滅される時のブッダ」だと解釈するのだという。

これだけ巨大な磨崖仏となると製作費もバカにならない。

その巨額さから、王様以外のスポンサーは考えられないが、では王様は何を意図していたのだろうか。

少なくとも座像と立像、横臥像の制作を指示したのではないかとの推測がある。

これは石像彫刻を業とする専門家の意見だが、「この地に巨大な仏像を造れ、という命をうけた石工ならだれでも、岩壁一杯に寝釈迦を彫るに違いない。岩の形がそれにピッタリだから」というのです。

そういわれて改めて全景を見ると確かにそんな気がする。

この岩壁全部を使っての涅槃像を彫ったとすれば、そのインパクトは絶大だ。

世界一大きな石像は石工にとっても魅力的な話で、お金に心配いらないなら彼はその道を選ぶだろう、そうしなかったのは、王の指示が別にあったからではないか。

「この彫像の建立については『チューラヴアンサ』という歴史書に詳述してある」という本もある。

どういう内容なのか知りたいが、今のところ調べあぐねている。

ま、この彫像群を前にして、勝手な想像を巡らせている方が楽しいのではあるのですが。

 ≪続く≫

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(eガル・ヴィハーラ)

2016-02-01 07:17:01 | 遺跡巡り

池の土手を猿を見ながら進む。

次の「ガル・ヴイハーラ」は磨崖仏。

観光客の列は、土手を下りてゆく。

「岩崖なんだから山へ入って行くんではないの?」と訝りながらついて行くと、そこにガル・ヴィハーラはあった。

◇ガル・ヴイハーラ(岩の・僧院)

近くから見る磨崖仏は、重々しく威厳に満ちている。

しかし、遠目からだとそうは見えない。

威厳をなくしてるのは、スチール屋根。

軽くて強いスチールの利便性が、宗教的雰囲気をぶち壊している。

まるで物置き場所のようだ。

同じ覆い屋根でも、木造だったらこうは軽薄な雰囲気にはならなかっただろう。

と、書きながら、今、気付いたのだが、仏像群に「厳かさ」を求めるのは、日本人の私であって、スリランカ人はそんなものは無頓着なのではなかろうか。

 

磨崖仏を目の当たりにすると、臼杵の磨崖仏と無意識に比較してしまうのは、日本人だから、仕様がない。

製作時期も12世紀頃とほぼ同じ。

保存状態は、こっち(スリランカ)のほうがはるかにいい。

寒くないから、岩の水分が凍って割れることがなかったからか。

一番の違いは、龕に入っているかどうか。

龕に収まっている臼杵の磨崖仏は、暗く、陰湿で、重々しい。

一方、ガル・ヴィハーラは、明るく開放的で、人間の悩みなど吹き飛んでしまいそう。

ただし、昔は、それぞれの磨崖仏ごとにレンガの部屋で囲われていたというから、開放的ではなかったようだ。

ガル・ヴィハーラの磨崖仏は、4体。

左から、座像、龕に入った座像、立像、涅槃像。

では、左から順に紹介してゆこう。

一番左の座像は、高さ4.6m。

磨崖仏とはいえ、ほとんど丸彫りに近い。

右足を上にして胡坐を組む勇猛座。

右手を上にして重ねるこのポーズは、瞑想の禅定印。

スリランカのブッダ像の大半は、この禅定印ポーズです。

顔は、鼻が長いのが、特徴。

スリランカのお釈迦さまには、螺髪と白毫がない。

ちなみに臼杵磨崖仏唯一の釈迦如来像の顔は、これです。

お釈迦さまのお顔にも、国民性が現れるのが面白い。

この座像磨崖仏の見どころは、後塀のレリーフ。

小堂には仏がいて、なぜかインド神話の怪魚マカラも見られます。

 

左から2番目の龕の中の座像は、金網で囲われ、正面にはすりガラスがあって、横から金網越しに見るしかありません。

身体と腕の間の隙間などどうして彫ったものやら、中々の彫技で、スリランカ石仏の最高傑作という声も。

顔が、他の3体とはまるで違うので、この像だけ別な石工の作品ではないかとみられています。

仏陀の両側には、払子(ほっす)を持つ菩薩、その上に右はブラーマ、左はヴィシュヌのヒンズーの神々、さらに頭上に4臂のこれまた菩薩がいらっしゃいます。

菩薩とヒンズーの神との同居は、この頃からあるんですね。

天井からは天蓋が下がるなど手の込んだ細工装飾が素晴らしい。

仏陀像は全身金箔で覆われていたが、盗掘者たちが足下で木を燃やして、金を溶かして持ち去ったと云われています。

鉄格子越しに中を覗き込んでいたら、右壁に赤茶色の模様があるのに気付いた。

格子にカメラを入れて、あてずっぽうで撮ったのが、下の写真。

何だろうと思っていたら、『セイロンの仏都 講談社』に壁画とあった。

「仏堂内の側壁、その入口に近いすみに、驚くべき壁画の断片を見出した。仏への供養者たちの姿で、特に、右手の親指と中指で、枝のついた小さな実をつまみ、左手の上に巻貝をのせた、聖人の姿は、セイロン第一の傑作である」と指摘している。

『セイロンの仏都』には、壁画の線描があるので、転載しておく。

 『セイロンの仏都 講談社』より無断借用

≪続く≫

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(dクワドラングルの続き、他)

2016-01-28 07:23:28 | 遺跡巡り

◇ラター・マンダパヤ

帰国後ブログで報告したいと思うから、つい写真を撮るのに夢中になって、ガイド氏の説明は疎かになる。

だから、帰国して写真を見ると、「はて、ここはどこ?あれは何?」となってしまう。

ラター・マンダパヤも例外でなく、ガイド本と突き合わせて、やっと特定できた。

石柱と云えば、素っ気ない四角柱ばかりなのに、ここでは8本ともハスの茎をかたどってある。

彫技は見事で、見惚れるばかり。

不規則に伸びる8本の柱とすっきりした半球体のストゥーパのコントラストが心地よい。

横組みの石垣を支える石柱の先端はハスの蕾でしょう。

極めて特徴的な建造物なのに、何の建物なのか、分かっていない。

ニッサンカ・マーラ王が僧侶の読経を聴いた場所という説があるそうで、だとすれば、礼拝所ということになる。

ここも木造建造物を石柱の上にイメージした方がいいのだが、そうした想像力を旅行者に求めることが、そもそも無理な注文というべきか。

◇トゥパーラーマ

クワドラングルの南の入口から入ると左にある仏堂。

全部レンガ造りで、木造部分がないから、屋根を含め、大半が残っている。

そういえば、屋根がある遺蹟は初めてか。

丁度、外壁が修理中だったが、レンガと漆喰のレリーフは見ごたえがある。

ヒンズーの影響があるのだそうだ。

堂内に入る。

突然の暗さに目が対応できない。

レンガと漆喰造りのブッダ立像があるはずなのに、判らないまま、時間に追われて外に出てしまった。

駐車場はワタダーゲ前の出入り口近くなので、元へ戻る。

出口から出るのかと思って後をついていったら、ガイド氏は左の空き地に入り込む。

「あれがサトゥマハル・プラサーダです」。

焼け焦げたような、先細りの塔が隅っこに立っている。

◇サトゥマハル・プラサーダ

ポロンナルワが上座部仏教の聖都だった頃には、タイやビルマから僧侶が頻繁に訪れていた。

この7層の建物は、タイの寺院に酷似していて、タイ人の手になるものと見られている。

7階ではなく、7層としたのは、建物の中に空間がないから。

仏像を安置するだけの仏堂だったのではないか、いや守衛所だったのだろう、と見解が定まっていないという。

◇ガルポタ(石の本)

石に刻文した石碑はスリランカではよく見かけるが、このstone bookは、一際大きい。

長さ8m、幅1・5m、厚さ45㎝。

大きすぎて立てると上の方が読めないから横たえてある。

内容は、ニッサンカ・マーラ王の偉業。

自ら命じて、自らを褒めたたえる。

鼻持ちならない王様だが、浮彫りの象がめっちゃ可愛いから、ま、いいとするか。

 これで、クワドラングルは終わり。

国宝級の仏教遺跡をぎっしり詰め込んだ「重箱」のような場所だった。

◇ランカティラカ寺院

「寺院とは、こういうもの」と誰もがイメージを持っていると思う。

それがどんなイメージだろうと、ランカティラカを見たら、そのイメージはぶっ飛んでしまうだろう。

日本人のイメージは「古い木造建築」だろうから、まずレンガ造りでOUT。

高さ17.5mなのに、横幅がないからやたら高く感じて、寺というよりは、尖塔の感じが強い。

正面に立つレンガ造りの巨大なブッダ立像を見て、仏教寺院だと初めて納得する人が多い、のではないだろうか。

巨大な仏像だから「大仏」だろう。

「えっこれが大仏さん!?」

日本人はびっくりするが、所変われば品変わる。

ここは、スリランカ。

郷に従わなければ・・・

 

大仏に近づく。

首はない。

欠けた右手の先と足首に近い衣の裾には、赤いレンガがもろ見えで、この像はレンガを積み、漆喰で仕上げるスタッコ造りであることが分かる。

レンガに漆喰の化粧仕上げは石彫より簡単だから、スタッコ建築やスタッコ像はスリランカでは多数見かけるが、ひび割れしやすく、崩壊のスピードも速い。

巨大ブッダ像の足元では、修理用の素材レンガを製造していた。

狭い堂内をぐるっと見渡すと目に入ってくるのが、階段。

これが、すごい。

奥行10㎝、高さ30㎝の急階段。

普通に階段を上ろうとしても上れない。

階段に背を向けた姿勢でしか上れないのです。

つまり、ブッダに相対して、顔を向けたまま上ることになります。

なぜ、こんな階段を作ったのか。

ブッダに対するレスペクトの念が、そうさせたのでした。

「ブッダに背中とかお尻を向けないで上るにはどうするか」、その答えがこの階段でした。

スリランカ旅行にあたり、「仏像をバックに記念写真を撮ってはいけない。仏像に背を向けることになるから」と注意されました。

同じ戒律がここではより厳しく生きていたことになります。

 

ランカティラカ寺院の外壁のレリーフも魅力的。

壁一面に建物や人物が彫られている。

 上は、宮殿。

このブログのポロンナルワ(b宮殿跡)で取り上げた7階建ての宮殿の原型。

レンガの3階まで残ってその上の木造部分は崩れてなくなったと紹介したが、この宮殿は全部レンガ造りのように見える。

もしかすると、違うのかもしれない。

これは、伸びやかな女性像。

清純かと思えば、妖艶。

性的なものに抑制的な仏教寺院らしくない。

ヒンズー教の影響が見え始めているようだ。

 ◇キリ・ヴィハーラ

キリとは、シンハラ語でミルクの意。

母乳の出がよくなるようにとお参りする「母乳の寺」だとはガイド氏の話。

仏塔の白をミルクに見立て、それを母乳に関連付けて祈る、民間信仰はスリランカでも日本でも、そのこじつけ方が似ています。

700年以上も放置されながら、この純白を保ち続けてきたというから、こっちの方が驚き。

「若さを保つ」霊験のある寺として売り出してみてはどうだろうか。


118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(cクワドラングル)

2016-01-25 07:57:01 | 遺跡巡り

◇クワドラングル

クワドラングルとは、四辺形の意。

110m×140mの城壁の中に11もの仏教施設がある。

行政関係の建物などはない。

ポロンナルワの廃墟化とともに密林の中に埋もれ、忘れ去られていたが、19世紀になって発見された。

◇ワタダーゲ(Vatadage)

東の入口から入ると左手にある円形仏堂。

建築主は不明だが、7世紀の造立とみられている。

7世紀と云えば、首都がまだアヌラーダブラにあった時代で、ポロンナルワで最も古い仏教施設。

屋根がある原型の復元模型が、プロンナルワ博物館にある。

円錐形の屋根の下、中央には、ストゥーパ。

それをバックに東西南北にお釈迦さまが座しておわす。

アヌラーダブラのブッダ像にくらべて、顔は丸く、がっしりした肩、ストンと落ちるウエストラインが特徴的。

4体の座像仏は、単体としての個の性格を持つのではなく、仏塔と相まって全体が宇宙的仏教世界を表現している、との解説書がある。

ワタターゲには4か所の入口があるが、いずれの入口にもガードストーンがある。

ガードストーンの最高傑作と云われるのが、東面入口の2体。

右手に吉祥の壺を乗せ、左手に繁栄のシンボルの花の枝。

 

 足下には小人が二人。

小人は富の神クベラの使いで、財宝の守護神だという。

◇ハタダーゲ(Hatadage)

上の写真は、ワタダーゲから見たハタダーゲ。

下は、逆にハタダーゲから見たワタダーゲ。

中心点が直線的につながっているのが判る。

Hataは、シンハラ語で60を意味し、dageは舎利塔をさす。

ハタダーゲは、「60日でできた舎利塔」と云われているが、「舎利、遺物が60個ある舎利塔」という見方もあるんだそうだ。

12世紀にニッサンカ・マーラ王によって建てられ、王権の象徴の仏歯がこの仏歯寺の2階に納められていた。

このレンガ壁の上に、木造のお堂をイメージするといい。

基壇のレプリカのライオンが猫のようだ。

入口右側にニッサンカ・マーラ王の偉業をたたえる碑文がある。

ダーゲの一番奥には、3体の立ブッダ仏陀がおわすが、顔がなかったり、傷つけられたりしている。

これは、侵略してきたタルミ軍の仕業ということになっている。

だとすれば、完全に破壊しなかったのは何故だろうと、新たな疑問が湧いて来る。

◇アタダーゲ(Atadage)

ハタダーゲの左隣にあって、ほぼ同じ構造の舎利堂だったと考えられている。

Ataは数字の8、「8日で建てた舎利堂」か「8つの聖遺物のある舎利堂」の意らしい。

建てたのは、ヴィジャヤバーフ1世王、ハタダーゲ建立の1世紀前、11世紀のことでした。

彼も又、仏歯をこの2階の舎利堂に安置していた。

奥に1体のブッダ立像と座像トルソー2体がおわす。

立像の流れるような衣紋が美しい。

首がない座像は、よく見ると首の部分に穴がある。

頭を差し込むスタイルだったのだろうか。

足形はあるが、身体の部分は見当たらない。

ここにも差し込み穴。

パーツごとに造って、差し込んだと思われる。

アタダーゲの石柱は、54本。

そのすべてに見事な浮彫が彫られている>

アタダーゲの脇に文字碑がある。

文字碑の文字はタミール語で「仏歯を守ったのは、雇われタミール軍で、シンハラ軍ではなかった」と書かれてあるのだとか。

ブッダ像が完全に破壊されなかったことと合わせて、真相を知りたいものです。

 

 

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(b宮殿跡)

2016-01-22 06:53:49 | 遺跡巡り

パラークラマ・サムドラ(人造湖)に沿って、北上する。

博物館に寄り道。

整理されて見やすく、分かりよい博物館だ。

当時の石工の道具なども展示されている。

◇パラークラマ・バーフ王の宮殿跡

パラークラマ・バーフ1世の人気は絶大で、日本で云えば、信長、秀吉、家康クラス。

あるいは、その3人をまとめた位の英傑なんだそうだ。

その王が絶頂期の時、建てた宮殿だから、壮大であるのは当然か。

ここでちょっと寄り道。

これからのポロンナルワ遺蹟をよりよく理解するためのポロンナルワ小史です。

「ポロンナルワは、8世紀以降アヌラーダブラのの王たちの避暑地でした。11世紀、南インドのチョーラ朝のタミル人が侵略、彼らは、この地に小都市を作ります。そのタミル族を追い払ったのが、ヴィジャヤバーフ王(1059-1113)。ヴィジャヤバーフ王が築いた基礎をパラークラマバーフ1世大王(1153-1186)が拡大、発展させ、さらにニッサンカマラ王(1187-96)の出現をもってポロンナルワの栄華は頂点に達します。王たちは熱心な仏教徒で、数多くの仏寺、仏塔を造営します。14世紀、チョーラ朝の何度目かの侵略にシンハラ王朝は後退を余儀なくされ、ポロンナルワはジャングルに埋没して、20世紀までその姿を消したままでした」。

再び、宮殿跡に戻ろう。

その壮大さは現在残っているレンガ積みからイメージできる。

現在残っているのは、3階までのレンガ部分。

4階から7階は木造だったので腐れ落ちてしまってないと云えば、その規模がお分かりいただけるだろうか。

部屋数は、1000を超えていたと云われる。

白い部分は漆喰跡。

レンガは漆喰で全面装飾されていたことが判る。

ポロンナルワのテンカティラカ寺院の外壁にこの宮殿が浮彫にされているので、ここに紹介しておきます。

◇水洗トイレ

 宮殿横の住居跡の隅にトイレがある。

ガイド氏は,水洗トイレだと紹介した。

排水溝に跨ってのスタイルは現代でも普遍的なやり方。

スリランカの男性は、小もしゃがんでするから、このトイレは大小兼用。

更に言えば、後始末の左手でのお尻の洗浄もここでやる。

水は桶で持ち込み、お尻を洗ったあと、糞便を流すのに使う。

トイレからの汚水を貯める竪穴が隣接しているが、この形式の浄化槽は現在も健在で、内部は二つに仕切られている。

トイレからの汚水は第一槽に入り、固形物はそこに溜り、水分は仕切りを越えて第二槽に入って地中に浸透してゆく。固形物はバクテリアにより分解されるので、汲み取りは必要ない。

この浄化槽には仕切りが見られなかったが、板だったのだろうか。

 

スリランカの比丘(男僧)は、227か条、比丘尼(尼僧)は311か条の、守るべき戒律があります。

最も厳しいのは、五戒(不邪淫、不偸盗、不殺生、不妄語、不飲酒)で、犯した者には、僧籍離脱の最高罰が科せられることがある。

数ある戒律からトイレに関する戒律をいくつか紹介すると、

〇用を足した後は糞ベラや水で後始末をせよ。
〇トイレの順番は、地位の上下に関係なく早いもの勝ち。
〇トイレに入る時は、咳払いして中に人がいるか確かめること。中にいる人も咳払いで応え  なさい。
〇立小便は厳禁。

戒律というよりも日常のトイレマナーの感じが強い。(蝶谷正明『スリランカ古代装飾トイレの謎』より)

パラークラマ・バーフ王閣議場跡

宮殿が、王の私邸ならば、ここ閣議場は、さしずめ仕事場ということになる。

石の基壇の上に木造の3階建て官邸があったとイメージされたい。

各大臣は石柱に彫られたマークに従ってその前に座った。

決定事項の伝達場だったのか、協議をする場だったのか、南インドのチョーラ軍の動向、各地の治水灌漑工事の計画と着手、堕落する仏教界の立て直し、上座部仏教への一本化、ヒンズー教の受け入れ方など懸案事案は尽きることがなかった。

とりわけ南インドのチョーラ軍との戦いは、最大の問題。

当然、政略結婚もありうるわけで、こうした政治世界の変化は、文化にも影響を与えることになります。

この閣議場の入口にもムーンストーンはあるが、生老病死を表わす4種類の動物、馬、獅子、牛、象のうち、牛だけがない。

これはポロンナルワのムーンストーン全体の共通点ですが、ヒンズー教徒のお妃に配慮して、ヒンズー教で大切に扱う牛を踏んづけない様にしたためだと見られています。

仏都ポロンナルワのど真ん中にヒンズー寺院があるのも、同じ理由です。

◇シバア・デーワーラヤNO1

「左に見えるのは、ヒンズー教寺院です」と説明したまま通り過ぎようとするので、あわてて車を止めた。

ガイド氏の言葉のなかに「リンガ」が聞こえたからだが、仏教都市の中のヒンズー教寺院は必見だと思ったからです。

シバア・デーワーラヤ寺院は、ヒンズー教寺院らしからぬ簡素ですっきりした佇まい。

入口から奥に鎮座するリンガがよく見えます。

あるのは、リンガだけで、ヒンズー教の神々の彫刻はどこにも見られない。

ど派手なヒンズー教寺院も、初期の頃は、仏教に遠慮してたからなのでしょうか。

仏都の中のヒンズー寺院は、王の妃がヒンズー教徒だったからと推測したが、別の見方もある。

13世紀、再び、侵略してきた南インドのチョーラ人が建てたというもの。

それならば、こんな遠慮がちに建てなくてもよさそうだが。

≪ポロンナルワのクワドラングルへ続く≫

 

 

 

 

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118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(a石立像、図書館ほか)

2016-01-19 06:47:52 | 遺跡巡り

旅行3日目。

朝、アヌラーダプラからポロンナルワへ向かう。

旅行中、いつも車の助手席にいた。

行き交う景色を撮るにはいいのだが、予想外に疲れる。

原因は、犬。

道路上にごろんと寝ている。

かと思えば、突然起き上がって、のそのそと横切ったりする。

その度に思わず(ない)ブレーキを踏むから、気が休まらない。

インドでは、牛が同じような格好でいた。

ヒンズー教では、牛は神様だから理解できるが、スリランカの犬は神でもなんでもない。

ただの野良犬なのです。

では、なぜ、犬たちは平気で車が行き交う道路上で寝られるのか。

それはスリランカ人がみんな敬虔な仏教徒だからです。

仏教では、信者が守るべき5つの戒めがあります。

その一つが「不殺生」。

殺していけないのは人間だけではない。

動物も虫も生物すべての命を殺めてはいけません。

蚊に刺されても、叩き潰さない人がスリランカにはいると云われます。

野生の象に命を落とす人が年間100人はいるそうですが、毀された家屋や踏み荒らされた畑を修理するだけで、象を処分しようという話は決してでないのだとか。

交通の邪魔になるから犬を排除しようとは、誰も考えないのです。

こうした現実を目の当たりにすると、日本が、スリランカと同じ仏教の国であることが信じられません。

 

田んぼがある。

稲刈りをしてると思うと、田植えをしていたりする。

当たり前の景色のようだが、本来この辺りは乾燥地帯で、水田には不向きの土地柄だった。

稲作を可能にしたのは、紀元前5、6世紀、インドからもたらされた鉄器と灌漑技術でした。

当時の人工湖沼は今もそのまま現役で、今日の目的地ポロンナルワの繁栄は、巨大な貯水池パラークラマ・サムドラの水の恩恵によるもの、と云って差し支えないでしょう。

人工湖パラクラーマ・サムドラ左側にポロンナルワ遺蹟がある。

パラクラーマは、12世紀にこの灌漑用貯水池を造築した王、パラクラーマ・バーフ1世の名前。

ちなみに「サムドラ」は、海を意味して、その広さ2400ヘクタール、7500ヘクタールの水田耕作を可能にさせました。

パラクラーマ・バーフ1世王は、人工湖を作るとともに、そのほとりに仏教都市を構築し、上座部、大乗、密教の三派に別れ対立していた仏教界を上座部仏教に統一します。

その王の立像が、最初の目的地。

◇石立像

土の道を歩いているつもりだったが、気が付いたら広大な一枚岩の上を歩いていた。

振り返ると、岩だということがよくわかる。

正面に高さ3.6mの男の像が立っている。

どうやら足下の岩と岩質が違うようだ。

白っぽくて、柔らかそう。

この男性立像が、パラークラマ・バーフ1世だとする根拠は、スリランカの旧10ルピー紙幣に王として印刷されていたからです。

しかし、異論もある。

両手で胸の高さに掲げているのは、ヤシの葉に書かれた仏典。

だから王ではなく、学者だとする説も有力だそうで、見出しをあいまいな「石立像」としたのは、こうした事情によるものです。

◇最古の図書館

「石立像」からほんの100mほど南のレンガ遺蹟は、ポトグル・ビハーラ。

パラークラマ・バーフ王が建て、その妃が修繕したというスリランカ最古の図書館です。

よく見かける石段前のムーンストーンと両脇のガードストーンがない。

あって当然のものがないと、何故ないのか、その理由が気になってしまう。

石段を上がると正方形の基壇に円形のレンガ造りの建物。

崩れずに残った建物の一部に湾曲を見るだけですが。

ここには、ヤシの葉に文字を書いた経典が置かれていました。

サルを見るのは初めてではないが、ちょっと多いような気がする。

追っかけまわしたり、喧嘩したり、騒々しいから目立つだけなのかも知れないが・・・

 

 

 

 

 


118 スリランカの仏教遺跡巡り(2)ミヒンタレー

2016-01-16 07:15:38 | 遺跡巡り

アヌラーダプラからミヒンタレーへは、車で30分。

途中、猛烈な土砂降りに。

日本から持参のカッパなどまるで役にたちそうもない。。

その豪雨も5分ほどでピタッとやんだ。

何事もなかったように太陽が照り、道路は乾いている。

 

スリランカ仏教史の観点からすれば、アヌラーダプラよりミヒンタレーを先に回った方がいい。

なにしろミヒンタレーは、スリランカに最初に仏教が伝えられた場所だからです。

そんな聖地が発掘されたのは、1934年、私が生まれるわずか4年前のことでした。

なんと2200年もの間、ジャングルに埋まったまま気付かれずにいたというのだから、驚く。

新しい話のような、古い話のような・・・

 ◇9世紀の病院跡

駐車場から歩き出して、最初にぶつかるのが、病院跡。

「9世紀の病院跡」とは現場の英語説明板だが、そうすると「2200年ぶりの発掘」と は、整合しないことになる。

ミヒンタレーの歴史を読んで分かったのだが、ここミヒンタレーの仏教施設は、10世紀に破壊され、12世紀に再興、再び、廃墟となっている。

スリランカのどこの王都でも同じような、破壊と再建の繰り返しが、この地でもあったことになる。

小部屋が並んでいる。

個室の病室か。

人型の窪みの石台は、薬草に患者を浸して治療したものだろう。

伝統医療アーユルヴェーダの先駆けのようにも見える。

ミヒンタレー博物館には、外科手術用の用具もあるそうで、当時の先進医療がここで行われていたのはまちがいなさそうだ。

◇シンハ・ポクナ

シンハ=ライオン、ボクナ=沐浴場、だからライオン沐浴場。

立ち上がったライオンの口から出る水で、僧侶が沐浴した施設。

水は、右横の崖地から石組みの水道管を通して流れてきている。

この立ち上がるライオンはスリランカ彫刻の最高傑作と紹介する向きもあるが、立ち上がるポーズは珍しいけれど、彫技レベルはさほどではないように、私には見える。

スリランカでは、ライオンのデザインやレリーフを良く見かけるが、スリランカにライオンはいないし、いたこともない。

インド文化の影響だと思われる。

沐浴場前に住居跡の石柱が立っている。

水浴してさっぱりした体を横たえるお休み処だったのではないか。

説明がないから妄想ばかり湧いて来る。

◇食堂跡

ガイド氏の話では、僧侶たちの食堂ということだったが、説明板には「貧窮院」の食事提供所と書いてある。

一段低い大広間は、水の流れる食器洗い場だったという。

一度に5000人もが食器を洗ったというが、ではどこで食事をしたのか、その場所が見当たらない。

それとも足を水に浸したまま、立ち食いしたのだろうか。

下は、ごはんやおかゆを入れる舟形容器。

 

かなり大量のご飯を蓄えるわけで、ではその炊事場はどこか、となると判らない。

同じような石櫃に見えるが、洗濯板のようなギザギザがあるから、洗濯場ではなかろうか、とこれは私の推理です。

 

食材を保管する倉庫も不可欠で、それがどこにあるのやら、なんとも不可思議な「食堂跡」でした。

◇会議場

食堂の上は、会議場。

10世紀、マヒンダ4世によって建てられた。

スリランカ全土の僧侶の守るべき戒律や規則は、ここで決められていた。

入口の両側に立つ2枚の石版には、その規則が書かれている。

傍らのこじんまりした円錐形は、高僧の墓。

あちこちに点在している。

◇アムバスタレー大塔

 スリランカ旅行で、誤算があったとすれば、それは聖地の多くが山頂や崖上にあったこと。

自慢するわけではないが、極端に「上り」に弱い。

心臓が悪い上に、足も痛む。

都営地下鉄「神保町駅」は、エスカレーターがなく、地上まで階段をあがらなければならない。

途中、3回は立ち止まって休まなければならない身には、この石段はきつかった。

階段を上がる時間より、立ち止まって休む時間を多くして、なんとか頂上に到着。

眼前の白い大塔の立つ場所が、仏教伝来の伝説の場所。

伝説とはこうだ。

「紀元前3世紀、仏教拡大に意欲的なインドのアショカ王(阿育王)は、息子マヒンダをスリランカに派遣した。山で鹿狩りをしていたアヌラーダブラの王、デーヴアナンピヤ・ティッサ王は鹿に導かれるまま、山中でマヒンダに会い、彼の説く仏教の教えに惹かれて帰依し、スリランカ最初の仏教徒となった」。

 ディーバナンピヤ・ティッサ王

その王がイスルムニヤ精舎を建て、マヒンダの妹、つまりアショカ王の娘が持ってきたブッダガヤの菩提樹の分け木がスリー・マハー菩提樹となったことは、前述した。

この伝説と史実を通して浮かび上がるのは、アショカ王の偉大さだろう。

アショカ王は、タイやビルマにも仏教使節を派遣している。

アショカ王がいなければ、仏教は広がらなかったと考えていい。

 

アショカ王の息子、マヒンダ王子はスリランカにそのまま住んで、長老として敬われ、80歳でこの地で亡くなった。

その遺骨は、このアムバスタレー大塔に祀られている。

塔の背後に聳える岩は、マヒンダ長老が瞑想していた場所・インビテーション・ロック。

みんな上ってゆくが、私は、もちろん、敬遠組。

アムバスタレー大塔を挟んで反対側の山頂には、釈迦の毛髪が納められているマハー・サーヤ大塔があるのだが、これも上らなかった(正確には、登ろうとしなかった)。

 青空に溶け込むようにうっすらと見えるのが、マハー・サーヤ大塔

仏教遺跡巡りのレポートとしては、誠に不甲斐なく、情けない。

 

しんどい思いをして石段を上ってきたのには、もう一つの目的があったから。

それは、、レリーフが見事だと評判の仏塔カンタカ・チャイッテヤを観ること。

空が赤みを帯びて夕景になりつつある。

ガイド氏に催促すると「ここではないんです」との答え。

思いもしない事態にがっくり。

「それはないよなあ」とブツブツ言いながら石段を急ぎ足で下りる。

◇カンタカ・チャッテヤ

レンガ造りの仏塔は紀元前60年造立で、スリランカ最古。

他の仏塔のようにすべすべ、さらさらした表面ではなく、ごつごつしている。

積み重ねた基層の段によっては、動物の首がならんでいる。

東西南北に祭壇状のものが張り出していて、象、馬、牛、ライオンが東西南北にレリーフされている。

その配列は、ムーンストーンと同じだ。

つるべ落としのように急激に陽が落ちて、写真も撮れなくなってきた。

近くの巨岩には修行僧が住んだ洞窟がいくつもあるというが、もう撮影するのはあきらめざるを得ない。

街灯が点灯し始め、雨も降りだした。

車に駆け込んで、二日目は、これでジ・エンド。