石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

132東京の芭蕉句碑巡り-12(品川区、大田区、世田谷区、中野区、練馬区)

2018-01-25 15:59:53 | 句碑

東京には坂が多い。

ユニークな坂名もあって、「暗闇坂」などはその最たるもの。

残念なのは、いくつか「暗闇坂」があることで、ここは、京急鮫洲駅前の旧仙台坂の「暗闇坂」。

更に事態を複雑にしているのは、仙台坂は二つあり、しかも新旧があるという念の入れよう。

この旧仙台坂の暗闇坂の左に、芭蕉句碑がある泊船寺がある。

◇臨済宗・泊船寺(品川区東大井4)

山門脇に品川教委による区指定文化財の説明板が2基。

寺宝の芭蕉と服部嵐雪、宝井其角の座像を説明してある。

本堂左の大きな自然石の句碑が芭蕉のそれ。

いかめしき 音やあられの 檜笠

天保14年(1843)の造立。

碑裏には「芭蕉百五拾回忌建之」と刻され、協賛百余人の俳人名が並んでいる。

境内には、句碑が数基あるが、もう1基あるはずの芭蕉句碑が見当たらない。

そんなに広くもない境内を探し回るが発見できず、庫裡の呼び鈴を押す。

なんと庫裡の玄関わきの「芭蕉像安置」碑が、探す句碑だった。

裏面に句があるので、見つけられないのも無理はない。

旅人と 我名よばれん 初しぐれ

解説書によれば、貞享4年(1687)10月11日、『笈の小文』の旅に出る芭蕉の選別会の席上詠まれた句。

碑面の「芭蕉像安置」は、芭蕉百回忌の寛政5年(1793)、泊船寺に芭蕉堂を建て、その堂内に、深川芭蕉庵の柳で刻んだ芭蕉像を安置したことを記念するもの。

芭蕉像には「いつかまた 此木も朽ちん 秋の風」が添えられていたという。

「芭蕉像安置」碑の反対側には、芭蕉賞賛碑がある。

「はせをの前に芭蕉なく
     芭蕉の後にはせをなし
 芭蕉大なるかなはせをの葉」

◇区立児童公園(大田区多摩川2)

 住宅地のど真ん中、滑り台やブランコがある児童公園の片隅にフエンスに囲われた一画があり、2基の石碑がある。

大きい石碑は、明治天皇御製歌碑。

芭蕉の句碑は、その右にややこじんまりと佇んでいる。

梅香に のっと日の出る 山路かな

 行って見はしなかったが、ここから多摩川までは、3-400m。

なんでこの句がここに?と思う。

その疑問に答えるプレートがあった。

その昔、ここらあたりは梅林として有名で、花見客が押し寄せたのだという。

広さ2000坪、300本の梅の木が咲き競いあっていたらしい。

それにしても、芭蕉句碑に似合わない雰囲気だ。

とりあえず、ま、ここに置いておくか、というような投げやりな感じが漂っている。

民間企業の工場敷地に立っていたものを、ここに移転したのだとか。

廃棄されずにこうして保存されていることはうれしいのだが・・・

◇真言宗・真福寺(世田谷区用賀4)

山門の朱色が鮮やか。

地元では「赤門寺」と呼ばれているのだとか。

開基者は、用賀村の開拓者飯田図書。

永禄年間と推定されている。

芭蕉句碑は、六地蔵の左隣にある。

みちの辺の 槿(むくげ)は馬に 喰はれけり

傍らに説明板がある。

芭蕉句碑
江戸時代後期、用賀村大山道沿いで手広く醤油業を営んでいた商人
鈴木六之助(俳号天由)が建立した句碑
道の辺の木槿は馬に喰われけり
松尾芭蕉が貞享元年(1684)秋、
野ざらし紀行の旅に出て、大井川近くで
詠んだ句。        恭靖

帰途、山門前の長い参道と駅に向かう道との角に「杯状穴」を発見。

「盃状穴」については「凹み穴」と云ったり「椀状凹み」と云ったりして、このブログのNO44,45.55,56,58でも扱っている。ご覧ください。

◇日蓮宗・蓮華寺(中野区江古田1)

 

 中野駅から延びる中野通りが、新青梅街道にぶつかる所に、蓮華寺の石段がある。

日蓮宗寺院にしては、石造物が多い。

芭蕉句碑は、本堂に向かって左の植え込みの中にある。

松の木を挟んで、右に「芭蕉翁」の小碑。

左に1,5mの自然石に句が刻み込まれている。

初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり

私が両親の故郷佐渡へ疎開したのは、昭和20年(1945)3月。

そのまま島の小学校へ入学した。

物資不足で、一クラスに2,3足割り当てのゴム長は、いつも抽選だった。

雨天時の農作業には、蓑を着用した。

蓑を実用した、最後の世代ではなかろうか。

「小蓑」からこんなことが、頭をよぎる。

芭蕉句碑の左、石柵と鉄扉に囲われて、井桁の上の球形は、哲学者井上円了の墓。

蓮華寺の斜め前の哲学堂公園は、東洋大学の創始者井上円了が哲学者養成のために、開設したもの。

 

◇真言宗・南蔵院(練馬区中村1)

 延文2年(1357)中興というから660年の寺歴を有する都内でも古い寺の一つ。

参道を進むと長屋門があり、

その先の鐘楼門は、練馬区の指定文化財。

 

芭蕉句碑は、その鐘楼門の右手、薬師堂の前の石造物群に交じってある。

魚鳥の 心は知らず 年の暮

解説書からの引用。

『方丈記』に「魚は水に飽かず、いをにあらざればその心を知らず。とりは林をねがふ、鳥にあらざればその心を知らず」とあるに拠った句。
魚や鳥ではないから、魚や鳥の楽しみは分からないが、自分は閑居自在の生活に悠々と年忘れの会を楽しんでいる。他人にはこの楽しみはわかるまいの意。

境内の石造物は、どこか外部から持ち込まれたものも多い。

道標などはその最たるもので、「左にはぞうしがや 高田道」、「右に長命寺 福蔵院」とある。

その長命寺が、次の目的地。

◇真言宗・長命寺(練馬区高野台3)

 

 私が石仏巡りを始めたのは、9年前。

若杉慧氏の著作にインスパイアーされ、本に載っている石仏を見て回ったのが、きっかけだった。

若杉氏は練馬区に居住していて、取り上げる石仏は、練馬区や板橋区のものが多かった。

長命寺の石仏を知ったのも、若杉氏の文章だった。

おそらく石仏巡りとして、一番最初に訪れた寺ではなかろうか。

「東の高野山」というのだそうだ。

境内は石仏であふれている。

 

一つの寺で、こんなに石仏が多い寺は、そんなになさそうに思える。

多いだけでなく、珍しい石仏も多い。

               十三仏

 

芭蕉句碑は、「本堂(不動堂)の左前にある。

普通あまり石造物が立つ場所ではないから、一等地と云えるかもしれない。

父母の しきりにこひし 雉子の聲

貞享5年(1688)3月、高野山で詠んだ句。

解説書によれば、『枇杷園随筆』に

 

御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに佇みて、此処はおほくの人のかたみの集まれるところにして、わが先祖の遺髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつれと」

と、その時の感慨を述べているのだそうだ。

「雉子の聲」は、行基菩薩の「山鳥のほろほろと鳴く聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」を踏まえたもの、というから、「なるほど。そうなんだ。へえー」とひたすら関心するばかり。

芭蕉にとって23年ぶりの高野山詣でだった。

芭蕉を俳諧の世界に誘った主君藤堂蝉吟の位牌を納めに高野山に来たことがあった。

当時は、俳諧師になりたい野望はあるものの、芭蕉は、伊賀上野の、俳諧好きの無名な若者にすぎなかった。

それが、23年後、押しも押されぬ宗匠としての参詣。

芭蕉には感慨深いものがあったに違いない。

 

これで「東京の芭蕉句碑巡り」を終える。

正確には「東京23区の芭蕉句碑」とすべきだった。

多摩地区にも約20基を超える芭蕉句碑があるのだが、最近、車の運転に自信がなくなり、多摩地区の句碑巡りはあきらめざるを得なかった。

所在地を資料から転載しておく。

◇ひょろひょろとなお露けしやをみなへし
        (国分寺市西恋ケ窪1-27 熊野神社)
◇象潟や雨に西施がねむの花
        (調布市深大寺元町5-15 深大寺延命観音)
◇しばらくは花の上なる月夜かな
        (日野市百草560 百草園)
◇春もややけしきととのふ月と梅
        (同上)
◇名月にふもとの霧や田のくもり
        (日野市高幡733 高幡不動尊)
◇蝶の飛ばかり野中の日かげ哉
        (八王子市新町5 永福稲荷)
◇西行の草履もかかれ松の露
        (八王子市寺町72 長心寺)
◇先祝へ梅を心の冬こもり
        (八王子市北野町550-1 北野天満宮)
◇ひばりより上にやすらふとおけかな
        (八王子市裏高尾町957 浅川老人ホーム清明園)
◇しばらくは花の上なる月夜かな
        (八王子市下恩方町246 三叉路ロータリー)
◇先たのむ椎の木もあり夏木立
        (八王子市鑓水80 永泉寺)
◇旅人と我が名呼ばれん初しぐれ
        (町田市成瀬5038路傍)
◇此のあたり目に見ゆるものは皆涼し
        (稲城市大丸233 但馬稲荷)
◇名月に麓のきりや田のくもり
        (稲城市東長沼2117 常楽寺)
◇暫くは花の上なる月夜かな
        (羽村市川崎2-8 宗禅寺)
◇春もややけしきととのふ月と梅
        (福生市福生1081 福生神明社)
◇玉川の水におぼれそをみなへし
         (青梅市滝ノ上町1316 常保寺)
◇梅か香にのっと日の出る山路かな
        (青梅市天ケ瀬1032 金剛寺)
◇行春に和歌の浦にて追付たり
        (青梅市本町220 金刀比羅神社)
◇梅が香にのっと日の出る山路哉
        (青梅市梅郷 吉野街道路傍)
◇やまなかや菊は手折らじ湯の匂ひ
                       (奥多摩町原5 奥多摩水と緑のふれあい館敷地内)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-11(港区・中央区)

2018-01-15 08:32:20 | 句碑

 渋谷駅から銀座線で「表参道駅」へ。

目指す善光寺は駅北側すぐの所にある。

◇浄土宗・善光寺(港区北青山3)

善光寺は、信州長野の善光寺別院。

 

尼寺だそうだ。

江戸川柳の「青山は馬に曳かれて善光寺」は、この寺のこと。

「牛に曳かれて善光寺参り」のもじりであることは言うまでもない。

門前は馬や馬車が激しく往来する八王子街道だった。

広い境内の左側に石造物がかたまってある。

句碑があるとすれば、このあたりだが、探してもない。

墓地の入口まで入ってみたが、いくらなんでも墓地にはありそうもないので、Uターン。

では、どこにあるのか。

墓地入口の家に人の気配がする。

思い切って尋ねたら、親切に案内してくれた。

本堂の左、竹塀に囲われた一画があり、格子戸をくぐると庫裡だろうか、瀟洒な家屋と庭園がある。

 

句碑は、その家の玄関前にあった。

山路きて なにやらゆかし すみれ草

この寺とは無関係の句。

貞享2年(1685)、江戸に帰る芭蕉が、東海道の山科から大津へ向かう山道で詠んだものとされている。

案内してくれたご婦人に、句碑建立の理由を尋ねようと振り向いたら、写真を撮っている間に姿を消していた。

 

次の「海蔵寺」も北青山、青山通りを東へ歩く。

「外苑前駅」一つ手前の外苑西通りを左折すると右に海蔵寺はある。

◇黄檗宗・海蔵寺(港区北青山2)

朱色の山門が異彩を放っている。

句碑は、山門をくぐって左にある。

夏来ても ただ一つ葉の 一葉かな」

「一葉」は、葉がたった一枚のシダ類の名前。

句碑の左に少しばかり植えてある。

(夏が来て草木は茂るのに、一葉だけは相変わらず一枚だけの葉だなあ)

よく見ると新旧2基の句碑が重なるように立っている。

古い方には上部に斜めに亀裂が入っている。

二つに割れたので建て直したのだろうか。

句碑の左には、区指定の庚申塔があるが、寛政年間の建立で、これといって特徴はないようだ。

港区には、もう1基、増上寺裏の宝珠院にもある。

◇浄土宗・宝珠院(港区芝公園4)

 増上寺の伽藍の一つだったという。

だからか増上寺の境内を通って行ける。

                 増上寺 

宝珠院を見下ろす坂の紅葉が美しい。

本尊は弁財天。

港区の七福神の一つで、朱色の幟がはためいている。

句碑は、半ば埋もれた形で、目立たなく控えめに塀際にある。

古池や 蛙飛こむ 水の音

あちらこちらにある有名句で、注釈は無用だろう。

碑裏には、「文化十年(1813)」とあるが、造立者と建立事由は不明。

実は、持参資料にはもう1基、

あれほどの 雲を起こすや 雨蛙

があることになっている。

しかし、見当たらない。

たまたま境内を掃除中の人たちがいるので、そのリーダーらしき人に訊いたが分からないという。

広い境内でもないので、見つからないということは、存在しないということだろう。

本尊が弁財天だからか、立派な蛇の石像がある。

宝珠院の面白いところは、蛇だけにとどまらず、蛙となめくじもいて、これを「三すくみ」として紹介していること。

解説板がある。

これは「ヘビがカエルを食べる。カエルがナメクジを食べる。ナメクジがヘビを溶かす。」という三すくみを意味しています。物事が動かなくなる。総じて、平和を願うお寺の願いが表現されています。

「三すくみ」が平和の意とは知らなかった。

こじつけのようでもあるが・・・

◇浄土真宗・築地本願寺(中央区築地3)

 築地本願寺は、工事の真っ最中だった。

インフォメーションセンターを建築中で、本堂前の左側は高い工事用塀で仕切られている。

境内に入る。

境内は装いを一新して、広い境内の、新大橋通りに面した一角は石碑、石仏等の石造物コーナーになっている。

 芭蕉句碑があるとすれば、ここだと思うが、それらしき石造物はない。

寺の関係者とおぼしき男性に訊く。

「以前は本堂に向かって左の茂みの中にありましたが、今は工事中で・・・」

「工事が終われば、前の場所に戻るんですか」

「さあ、分かりません。うちのお偉いさんは、文化財的なことに無関心ですから」

11月半ば過ぎ、築地本願寺のインフオメーションセンターの工事が終わったとのテレビニュースを観た。

飛んで行って句碑を探したが、やはりない。

広報の担当者に電話したら

「もう句碑はありません。寺と直接関係はないものなので、工事をきっかけに廃棄しました」。

廃棄された句碑の写真をネットから無断転載しておく。

春もやや けしきととのふ 月と梅」

向島百花園、龍厳禅寺にも同じ句碑があったかに記憶する。

◇浄土真宗・法重寺(中央区築地3)

法重寺の住所が築地本願寺と同じなのは、法重寺が築地本願寺の子院だから。

築地本願寺の南通用門の脇にある。

壁面の「法重寺」の文字がなければ、寺とは気づかない、そんな建物です。

句碑は寺の西南の角、道路に面したいい場所を占めているのだが、なにせ、植え込みの勢いが強くて、碑の三分の二は葉っぱに覆われて句の全体は読めない。

大津絵の 筆のはじめは 何仏

右手で草を押さえつけ、左手でシャッターを押したのが、下の写真。

「筆のはじめ」は「書初め」のこと。

大津絵は、大津の追分名物の土産絵で、「鬼の念仏」、「藤娘」などとともに弥陀三尊、十三仏などの仏画も多く描かれた。

正月三が日は、仏様にはノータッチという習俗があったそうで、だから「初仕事の四日、書初めに大津絵の絵師が描くのは何仏だろう」と解説書にはある。

この句は、大津に滞在して新年を迎えた芭蕉が、四日に詠んだもの。

句の前書きに「三日口閉じて、題正月四日」とある。

更に「俳諧は万事作り過ぎたるは道に叶わず、其形之まま又は我心之儘を作りたるを能きと存候」と前書きは続く(らしい)。(碑では全く読めないが、資料によれば)

 

 


132東京の芭蕉句碑巡り-10(新宿区・渋谷区)

2018-01-05 10:33:23 | 句碑

久しぶりに花園神社へ。

赤テントとかゴールデン街と聞くと花園神社を想い出す。

40年も50年も前のことです。

◇花園神社(新宿区新宿5)

花園神社には、芭蕉の句碑が2基あることになっている。

威徳稲荷の横にあるらしいのだが、両脇はトタン小屋の建設中で、音が騒々しく、句碑を読むなどという雰囲気ではない。

雰囲気だけではなく、トタン板が遮蔽して、1基は辛うじて読めるが、もう1基は左の一行が見えるだけ。

祭まで1か月もあるというのに、酉の市の準備が始まっていたのです。

パイプの支柱が何本も立っていて、無粋なムードの句碑は、

春なれや 名もなき山の 朝かすみ はせを

前書きに「南良(なら)ごえ」とある(のだそうだ)ように、貞享2年(1685)、伊勢から奈良に出る途中、名もなき山に薄霞がかかって、おもわず、春だなあと詠嘆した句(と解説にある)。

碑裏には、28人の句がびっしりと並んでいる(らしい)が、裏には回り込めないので、写真はない。

もう1基は、元々は「春なれや・・」の句碑の向かい側にあったのだが、今はすぐ灯籠を挟んで右側に立っている。

と、言っても句の下五でそれと判るだけで、句碑の全体は隠れて見えない。

蓬莱に きかばや伊勢の 初たより はせを

元禄7年(1694)元旦に深川芭蕉庵で詠んだ句。

元禄7年といえば、芭蕉の没年。

そう思えば、感慨もひとしおです。

「蓬莱」とは、三方に歯朶、海老、栗などを盛って、蓬莱山に見立てた正月の飾り物。

その蓬莱に伊勢神宮の神々しい正月の儀式を想い出し、伊勢からの初便りが待ち遠しいと読んだもの(という)。

建立したのは「内藤新宿惣旅籠中」。

花園神社は、内藤新宿の総鎮守でした。

花園神社から明治通りを北上、「東新宿駅」で大江戸線に乗り、「牛込柳町駅」で下車、地上に出たすぐ横が次の目的地。

◇日蓮宗・瑞光寺(新宿区原町2)

 

 本堂の前、右の植え込みの中に句碑はある。

百年((ももとせ)の 景色を庭の 落ち葉かな

 誰がいつ、何のために建てたのか、不明の句碑だとか。

でも、芭蕉がいつ、どこで詠んだかわ分かっている。

元禄4年(1691)10月、江戸に戻る途中、芭蕉は寝滋賀県彦根市の明照寺(めんじょうじ)を訪れた。

住職の李由が芭蕉の門弟だったからです。

寺の庭には落ち葉が降り積もり、その光景に、百年もの長い年月を感じて詠んだ句。

明照寺の当時のままという庭には、芭蕉の形見の檜笠を埋めた笠塚はあるが、肝心の句碑はなく、なぜか、新宿の瑞光寺にポツンと立っている、のです。

新宿区の次は渋谷区。

渋谷駅から300mのすぐ近くに芭蕉句碑がある。

◇御嶽神社(渋谷区渋1)

 

55年前、宮益坂は私の通勤路だった。

でも、御嶽神社は記憶にない。

奥まった上方にあったからだろうか。

坂に面して急な長い石段があって、上がると正面に本殿。

高いマンションビルに押しつぶされそうに建っている。

狛犬は、日本犬だとか。珍しい。

芭蕉句碑は、社務所の左の狭い空き地にある。

眼にかかる 時や殊更 さ月不二

豊島区の学習院大学にも同じ句碑があった。

「箱根の関を越えて」、詠んだ句で、「殊更」というのは、五月の雨の季節であきらめていたのに、思いがけない晴れ間で嬉しいことの強調(だそうです)。

宮益坂は「富士見坂」とも呼ばれ、富士山が良く見えた。

ちなみに都内の富士見坂は、23か所。

特に御嶽神社の境内からの眺望は良かった。

富士山を詠んだ句碑の建立地として最適地と建立されたのも当然か。

今では四方をビルに囲まれて、どっちが富士山かその方角さえも分からないことになっている。

 

渋谷駅近くの句碑としては、もう1か所ある。

◇金王八幡神社(渋谷区渋谷3)

 

訪れた日は、秋祭りの前日。

街角にテントが張られ、町会の人たちが準備に大わらわ。

神社の周囲も屋台の店が店開きで慌ただしい雰囲気だった。

広い境内で句碑を探すのは大変そうなので、社務所に直行。

「そこにあります」。

社務所のすぐそば、本殿の右に句碑はあった。

しばらくは 花のうえなる 月夜かな

社務所に戻って句碑建立の事由を尋ねた。

「江戸時代から名木として有名な金王桜があるからでしょう」。

見れば、句碑を包み込むように桜の枝が広がっている。

長州緋桜という種類で、一枝に一重と八重が混在する珍しい桜だとか。

渋谷区の指定天然記念物だそうだ。

桜満開の写真を無断借用して載せておきます。

 渋谷区には、もう1基、芭蕉句碑がある。

荘厳寺がある渋谷区本町は、都庁舎の西、新宿区と中野区に挟まれて、「エッ、ここが渋谷区なの?」とついつぶやいてしまう、そんな場所である。

◇真言宗・荘厳寺(渋谷区本町2)

 

「荘厳寺」(しょうごんじ)は、私にとって懐かしい名前です。

私は8年前に石仏に興味を抱き始めるのだが、その初期のガイダンスの役目を果たしたのが、佐久間阿佐緒『江戸の石仏』、『東京の石仏』だった。

そして、その両方に「荘厳寺」の石仏がしばしば登場する。

ちなみに『東京の石仏』の1ページ目は、荘厳寺の聖観音像の写真です。

山門横に解説板がある。

 

墓地への通路の左側に、俳人松尾芭蕉の

暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履

という句を刻んだ碑があることなどから、江戸時代には市中からこのあたりまで、人の往来がかなりあったと思われます。 渋谷区教育委員会

真言宗寺院らしく、境内には石造物が沢山ある。

庫裡の横に墓地への入口がある。

そんなに広くもない入口を何度か探し回るも句碑は見当たらない。

たまたま庫裡の裏口が開いていて、中に人の気配があるので、聞いてみた。

「解説板の書き方が間違っていてすみません」とわざわざ案内してくれたのは、本堂右手の植え込み。

容のいい自然石の句碑が立っている。

「暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履」