石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

103 大分県の磨崖仏(2)大分市、宇佐市安心院町、国東半島

2015-05-16 07:08:34 | 磨崖仏

若杉慧は青春小説の作家だと思い込んでいた。

『青春前期』や『エデンの海』は中学生の頃、村の図書館で借りて読んだ覚えがある。

私の中では、石坂洋次郎と同列の作家だった。

60年後、石仏に興味を持つようになり、『野の佛』を手にした時も同名別人だとばかり思っていた。

だから、同一人物と知って、その意外性に驚いた。

石仏に関する書物は少なくないが、その中で愛読書をあげろと云われれば、躊躇なく若杉作品をあげるだろう。

無名の路傍の石仏に注ぐ暖かいまなざし、野の仏の魅力を的確に描く筆力、豊かな仏教知識に裏打ちされた洞察力、それらすべてが相まって、若杉石仏ワールドの魅力は醸成されている。

愛読書だから、若杉慧『石佛のこころ』の表紙の写真は、大分市元町磨崖仏の「岩薬師」であることは知っていた。

 「石佛の王者」と題して、氏は岩薬師を次のように書いている。

「優劣そのいずれも私にはわかち難いゆえ、日本石佛の三王者と呼びたいものは、三体とも豊後にある。平安時代の作といわれ、みな自然の崖に彫りつけたものだ。こういうのを磨崖佛と呼ぶ。臼杵にあるホキ阿弥陀如来と古園大日如来とはすでに小著に掲げたことはあるが、ここ大分市元町にある岩薬師と呼ばれているものは、写真としてかかげるのは私にはこれが初めてである。位置が高いのと覆堂の中なのではなはだ暗く、これまで写真にとれなかったのである。」

 臼杵のホキ阿弥陀仏と古園大日如来は、前日、観た。

さすが国宝と唸った。(その模様は、前回、NO102「大分県の磨崖仏①臼杵市、豊後大野市」をご覧ください)

その2仏と甲乙つけがたいと若杉氏が云うのだから、優品に間違いない。

期待はふくらむばかり。

大分市の繁華街のちょっとはずれ、段丘上の高台に、国道とJRの線路を見下ろすように、岩薬師はあった。

思いがけない立派な覆堂に入る。

 台座込みで5mを超すという巨像がどっしりと坐していらっしゃるが、一見、違和感を感ずるのは、体中に張り付けられた白い絆創膏状のもの。

ホカロン薬師とでもいおうか。

帰京後、大分市教育委員会に問い合わせた所、このホカロンは和紙だという。

「岩壁から滲出する塩分が石仏の崩壊を促進していることが分かった。その塩分を吸い取るために和紙を張っている。もう10年ほどになる」という説明。

 

幸いなことに、お顔にはホカロンは張られていない。

右頬を大きく欠損してはいるが、端正な顔立ちであることが良く分かる。

「螺髪は細かく整然と並び、顔は、眉長く伏し目に、鼻と口はやや小さく、二重あごは堂々として、淡麗な中に静寂の趣をたたえた表情である」(谷口鉄雄『日本の石佛』)

臼杵石仏がそうであったように、この岩薬師も、また、岩から彫りだしたとは思えないノミ捌きです。

とりわけ螺髪一つ一つに見られる丹念さは舌を巻くばかり。

 

 次の目的地「岩屋寺磨崖仏」は、「元町磨崖仏」から直線だと300mも離れていない。

直線的には行けないから、遠回りして向かう。

 

交通量が多い道路の三叉路に面して、横長の覆屋がたっている。

石段を上り、中を覗く。

「無残」としかいいようがない。

あるいは「無惨」か。

全部で17躯の磨崖仏が並んでいるはずなのに、一躯を除いて、どれもみな原型をとどめていない。

 右に見える立像は、唯一残った十一面観音像。他も顔、肩など上半身はかすかに見える。

その「原型をとどめていない」様を写真に撮ったつもりだったが、今、見ると白い靄のようなものが画面全体を覆って無残さがはっきりしない。

もちろん靄ではなく白い岩石なのだが、これが崩れ落ちた石像の像容を曖昧にしている。

無惨さがもっと分かり良い写真はないか、ネットで探してみたが、概ね、似たり寄ったり。

私の下手な撮影技術のせいばかりとはいいきれないようだ。

この崩壊現象は、50年前、すでに生じていたようで、若杉氏は『野の佛』で「流亡涅槃佛」と命名してこのように記している。

「道の上の崖の肌に、なるほど佛らしき輪郭が十何体かならんでいて、面貌をわずかにとどめたのは二体しかありません。その意味ではやや失望を感じましたが、尚しばらく見ているうち、こんどは別の感慨をおぼえはじめました。
石佛の生命は風化にあるとはかねてから私の考え方です。人は感傷と笑うかもしれませんが、万有の無常をもってその教えとする佛が、みずからの様相においてその相を示しているのは感傷を超えた何ものかを感じないではいられません。(中略)ものはすべて滅びないがゆえに、魅力をもつのではありません。滅びて二度と還り来ぬがゆえに永遠の魅力をもつのです。そこで私はこの磨崖仏を『流亡涅槃佛』と名づけました」。

若杉氏のこの文章を読んだうえで、岩屋寺の立派な覆屋を見ると何をいまさら保護、保存するのかと思ってしまいます。

余りにも崩壊が激しくて、国の史跡指定は取り消され、県の指定文化財に格下げされたんだとか、指定の格下げ基準のサンプルとして保存しているのか。

磨崖仏の右側に長方形のくぼみが蜂の巣状に開いた岩が二つ並んでいる。

千佛龕(がん)と云って、一個一個のくぼみに粘土の仏が座していた。

もちろん、粘土の仏は、今、一体もないが・・・

 

石仏、磨崖仏の形容詞というと、「厳かな」、「端正な」、「慈悲深い」、「穏やかな」、「巨きな」などが頭に浮かぶ。

だが、高瀬磨崖仏は、ちょっと違う。

「楽しげな」、「エキゾチックな」、「鮮やかなな」、「動きのある」という形容詞がピッタリだ。

高瀬磨崖仏は、大分市の西南、霊山山麓の凝灰岩層をほりぬいた岩窟のなかにある。

岩窟のなかだったので、雨にぬれず、彩色が色落ちしなかった。

磨崖仏は、5躯。

左から、深沙大将、大威徳明王、大日如来、如意輪観音、馬頭観音と並んでいる。

 深沙大将         大威徳明王

 

大日如来       如意輪観音    馬頭観音

この組み合わせにどんな意味があるのかは、誰にも分らないのだそうだ。

わざわざ彫るのだから、意味や意義があってのことと思うが、不思議だ。

像容が風変わりで鮮やか、ひときわ人目を惹くのは、左の2体、深沙大将と大威徳明王。

 深沙大将        大威徳明王

大威徳明王を、私は初めて見た。

それほど珍しい仏なのに、後述するように、この後訪れた国東半島で大威徳明王を3体も見ることになる。

大威徳明王を祈願する、この地方ならではの理由がありそうだ。

像容は、六面六臂六足で水牛に跨るという異形。

 

六面六臂はいくらてもあるが、六足の仏は珍しい。(写真では、右足3本が見える)

それぞれの磨崖仏の前に仏名と説明の看板がある。

大威徳明王の説明は「怨敵一切の賊を残らず滅ぼしてしまうということで、戦時中は『戦勝祈願』の仏様として
信仰が厚かった」とある。

像容の威容さをバックの火焔の朱色が強調している。

全体に線が細く、マンガチックで面白い。

忘れられない石仏です。

大威徳明王が私にとっての初見ならば、深沙大将は初耳の仏。

こんな名前の仏があると初めて知った。

説明板には「頭髪は赤く彩色された炎髪を逆立て額に髑髏胸にも髑髏の瓔珞をつけ腹にも童女の顔を描き、左手、躰、足にも蛇を巻き付かせている。非常に珍しい仏像で仏法の守護祈願の仏ともいわれ、鬼神とも呼ばれています。印度に赴く三蔵法師を守護する強い佛ともいわれている」。

誰が書いたのか、すこぶる悪文。

意味不明な個所を手直ししたが、それでもまだ分かりにくい。

『日本石仏図典』を開いてみる。

深沙大将は「じんじゃだいしょう」と読むらしい。

「梵名不詳。経軌にも種子を示さない。多聞天の化身という」とあって、「石仏としてはきわめて稀である。大分市高瀬の磨崖仏の浮彫像が有名。他に福島県金山町と広島県三原市龍泉寺に見られ、いずれも磨崖仏である」と書かれている。

この磨崖仏を深沙大将としたのは誰か知らないが、異説もあるらしい。

軍茶利明王説、穣倶利童女説、烏枢沙摩大将説、青面金剛説など学者によって諸説あるという。

それぞれの像容を高瀬磨崖仏と比べながら見ている時、ちょっとした発見があった。

青面金剛のすがたは「全身青色、目の赤いこと血のごとくして三眼、頂に髑髏を戴き、頭髪は火焔のごとくさか立ち・・・」という説明を読んでいて、はっと気づいて振り返ってみたのが下のお面。

私の部屋の入口上部に掲げてあるお面です。

20年ほど前、モンゴルで買ったもの。

当時は石仏など全く興味がなく、このお面も部屋の装飾品として購入、仏の面であるとはつゆ知らなかった。

①全身青色、②赤い目、③三眼、④額に髑髏、とあるところまではピッタリだが、角のある青面金剛もあるのか、ちょっと疑問。

モンゴルの青面金剛だったらうれしいのに。

帰ろうとして、一番手前の農家の横を通り過ぎようとしていたら、そこの主に呼び止められた。

県の文化財サポーター委嘱書類を示す永富さん

高瀬磨崖仏はその農家の所有地にあるのだという。

県の文化財サポーターに任ぜられているとかで、饒舌に磨崖仏談義を始めるのだった。

 

高速道路に入り、宇佐市へ向かう。

霧が濃く、ノロノロ運転。

竹田城の雲海が日本のマチュピチとしてテレビで何度も紹介されているが、この辺りはどこでも霧が発生しやすいらしい。

次の磨崖仏は、楢本磨崖仏。

平成の大合併で宇佐市になったが、もともとは「安心院町」にあった。

難読地名は多いが、「安心院」はトップ10に入るだろう。

「安心院」は「あじむ」と読む。

その「安心院町」の楢本磨崖仏に到着。

ナビの指示通りに行ったので、どこをどう走ったかは知らない。

遅咲きの桜の背後、小高い横長の台地に44体の磨崖仏が雑然とおわす。

44体という数字は、説明板の仏名を数えたもの。

現場は雑然としていて、説明を読んでも仏を特定できない。

写真を克明にとって後で説明と照らし合わせれば判るだろうと考えたが甘かった。

辛うじて中央に不動明王、右に多聞天、左に地蔵菩薩の三尊を特定できたくらい。

 地蔵菩薩    不動明王     多聞天

 木の枝やシダに隠れて仏像がはっきりしないが、それはそれでいい。

旧安心院町は、磨崖仏を覆屋で保護しようとはしなかったらしい。

合併後の宇佐市もその方針を継続しているようだ。

 

下市磨崖仏へ行く前に腹ごしらえと思って、道の駅へ。

安心院はすっぽん養殖の町と聞いていたので、スッポンを食べることに。

メニューを見たら「スッポンそば」と「スッポンポンそば」がある。

違いを訊いたら、「スッポンポンそば」はスッポンのだしだけ、「スッポンそば」だと身も入るのだという。

「スッポンそば」を注文、900円。

2円切手大のスッポン片が数えられる位浮かんでいる。

産地とはいえ桁を一桁多くしなくては、まともなスッポン料理は味わえないことを学習した。

「スッポンポンそば」とネーミングはいいのになあ。

ビニールハウスの列があったら、安心院ではスッポンの養殖場と思って間違いない。

安心院一の養殖場の裏にある神社の境内崖地に下市磨崖仏はある。

三女神社はやや荒れ放題。

掃除が行き届かないようだ。

本殿に向かって左の崖に磨崖仏は見える。

屋根などはない。

安山岩の柱状節理に薄肉彫りされているので、見逃しやすい。

崩れ落ちたものもあるが、状態良く残っているものもある。

向かって右から並べておく。

 薬師如来       阿弥陀如来       観世音菩薩

コンガラ童子   不動明王

上の5仏は、14世紀後半の造顕、下の阿弥陀如来は、13世紀と説明板にある。

小祠があるから、この後ろには磨崖仏がおわすはずだが、私には見分けられない。

資料には、阿弥陀如来とある。

「この磨崖仏の造顕には宇佐神宮が関わった可能性がある」とは説明板での宇佐市教育委員会の見解。

ついに、宇佐神宮の文化圏に入って来たことになる。

 

国東半島の磨崖仏、石仏めぐりをするにあたって、資料を漁った。

どの資料にも共通しているのは、六郷満山(国東半島は六つの郷に別れ、それぞれの郷の寺を統べる寺院組織)は神仏習合で、その元締めは宇佐神宮だと書いてあること。

生来、神社に縁遠く積極的に参拝することはないのだが、今回は外すわけにはいかないだろう。

宇佐神宮に向かう。

だがその前にちょっと寄り道。

東光寺の五百羅漢を見たかった。

ちょっとそこらにいるお百姓さんの顔々々・・・

 

親しみやすい羅漢さんだった。

 

宇佐神宮に到着。

駐車場の広大さに、まず呑まれた。

さすが4万八幡宮の総本宮。

広い、広い。

本殿までが遠くて、石段の途中でへたりこんだ。

本殿をお参りしようとしたら、御祭神が三つもある。

参拝の仕方も「ニ拝四拍手一拝」だという。

出雲大社も同じらしい。

「格が違うんだよ、うちは」、そう言ってる気がする。

天皇家にとっても伊勢神宮に次ぐ位の神社だから、当然か。

大和朝廷が国家的宗教として仏教を篤く信奉していた時、宇佐八幡宮は神宮寺としての弥勒寺を建立して、それに呼応した。

八幡神像がわが国で初めて造られたのも宇佐神宮だった。

こうしてローカル神だった宇佐八幡信仰は、国家的信仰へと発展するとともに、地元の国東半島に独特な神仏習合文化を生み出して行くのです。

 

今夜の宿は「蕗薹」。

国宝大堂を有する「富貴(ふき)寺」の隣にあるから「蕗(ふき)薹」。

手打ち蕎麦と温泉を楽しめる快適旅館だった。

翌朝、8時に宿を出て、熊野磨崖仏へ。

有名観光スポットだから観光客が絶えない。

人が入らない磨崖仏の写真を撮るには、早朝しかないという読みはピタリ的中した。

拝観料を支払いながら受付で訊いたら、先客は一人だという。

緩やかな坂道を上る。

舗装こそされてないが、歩きいい道だ。

併行する小川の川床は石だらけ。

どのガイド本も熊野磨崖仏への乱積み石段を難関としてあげている。

「この川底がかつての乱積み石段だったのだろうか、今は歩道が整備されて助かったなあ」。

それでもきつい。

顎を出しながら上って行ったら「ガーン!」。

石だらけの急坂が、目に飛び込んできた。

これが、有名な、あの乱積み石段だった。

大小あるものの、どれも角のとれた丸石。

河原の石に違いないが、誰が運んで、積み上げたのだろうか。

誰もが抱く疑問には、ちゃんと答えが用意されている。

「鬼伝説」があるのだ。

「獣を喰って暮らしていた鬼が神様に願い出た。『獣を喰いつくしたので、人間を喰ってもいいだろうか』。
神は云った。『この山道に石をつんで百段の石段を築いたら許そう』。石は遠くの川から運んでこなければならず、一夜のうちに築けるはずがなかったからです。だが、鬼は頑張ります。みるみるうちに石段は積み上がり、あと一段で百段というとき、神は鶏の声をまねて夜明けの時を告げたのでした。最後の石を担いだまま、鬼はくたばってしまいました」。

「普通は15分位でしょうか」と受付の人が云ってた乱積み石段を25分かけて、よろよろと上った。

途中で若い男とすれ違う。

これで誰もいない写真が撮れそうだ。

あと数段と云う所で、左へ延びる道がある。

こっちの方が踏みならされて大勢通っているようだ。

左折して坂道を上がる。

急に視界が広がって、右にそびえる岩壁に巨大な不動明王が目に入って来る。

ありふれた表現で恐縮だが、「感動の一瞬」だった。

早朝の森閑とした山中を支配する峻厳な空気におののき、身が引き締まる思いがする。

峻厳な、と書いたが、不動明王のお顔はおだやかに微笑んでいる。

憤怒顔でないのは、普光寺のお不動さんと同じ。

この微笑不動明王は、大分県の磨崖仏不動明王の共通点だそうです。

目を右に転ずると大日如来もおわす。

不動明王と違って、こちらは厳めしい表情。

首から下が風化して印相が分からない。

頭髪が螺髪だから、阿弥陀如来や薬師如来と考えるのが普通だが、なぜか、地元では、昔から、大日如来として敬われて来た。

薬師如来を大日如来となぜ見立ててきたのか、微笑不動明王と並ぶ、大分県磨崖仏の永遠の謎といえるでしょう。

熊野磨崖仏に来て、私なりに得心したことが一つ。

奈良や近江の磨崖仏を訪ねて、どこでも抱いた疑問は、「仏の慈悲を多くの人々に与えるには、あまりにも辺鄙すぎる場所ではないか。それとも昔は人通りの多い道だったのだろうか」というものでした。

熊野磨崖仏は、明らかに誰も来ない場所です。

この大日如来も不動明王も、一般大衆を教化するために造顕されたものでないことは明白です。

では、誰が何のために。

それは密教系山岳修行者の修行のためと考えるのが自然でしょう。

大分県磨崖仏の多くは、平安時代に造られている。

それは、密教が風靡していた頃と時を一にします。

密教では作仏も修法の一つでした。

行者が岩壁に仏様を示現するために自らノミをふるう、そのことが修行だったのです。

稚拙な磨崖仏があるのはそのためですが、彫技と信仰心は比例するわけではないから、当然のことです。

大分県、とりわけここ国東半島は六郷満山(六つの郷の総ての仏教寺院組織)が密教修験の行場でした。

磨崖仏を造顕する岩壁が豊富だったことも見逃せません。

 

乱積み石段の上り下りで、一日の体力を使い果たしてしまった感じ。

次の鍋山磨崖仏へは百段もの階段を上がらなければならないと知って、パスしようかと思った。

県道から階段を、ゆっくりと実にゆっくりと上り始める。

へとへとになって上りつめた場所は、広場と云うより崖地のでっぱり。

修験者の行場だったに違いない。

ご対面したのは、お不動さんと二童子。

風化が進んで、左肩にかかる弁髪や利剣を掲げる右腕と利剣は見て取れるが、顔は判然としない。

二童子も不動明王の両足を抱える形でぴったりと寄り添っているように見える。

 

「熊野磨崖仏」と「楢本磨崖仏」の2か所で、まだ午前中だというのに、足を痛めて、もう階段は登れそうにない。

だから、元宮磨崖仏の覆屋が道路脇にあると分かって、ホッとした。

階段なしで拝観できるのは嬉しいが、こんな平地で行者の修行になるのか不審に思ったりもする。

中尊はお不動さん、向かって右に多聞天、左に持国天、さらにその左にお地蔵さんという奇天烈な配列。

辛うじて私が見分けられるのは、不動明王だけ。

現地説明板には「右端は毘沙門天、多聞天ともいう」とある。

不動明王の右にコンガラ童子は見えるが、左にいるはずのセイタカ童子は欠落してその姿はない。

左端は、説明板では、「声聞形尊像、或は地蔵菩薩?」と疑問符がついている。

右4躯は鎌倉末期、左の地蔵?は室町時代の作と説明されている。

国東磨崖仏としては、後期に属する磨崖仏ということになる。

元宮磨崖仏の左隣は、八幡社。

境内に仁王がおわす。

「国東半島は神仏混合の土地」を想起させる光景です。

国東半島固有の石像仁王については、回を改めて取り上げます。

 

さて、次はどこへ行こうか。

国東半島は磨崖仏の宝庫だから、候補地はいくらでもある。

でも六郷満山は山の中。

どの磨崖仏も藪をかきわけ、崖を上らなければならない。

しかし、今日は、足が痛くて上がることは無理だから、諦めざるを得ない。

まことになさけない話だ。

山道や石段を上らないで済む磨崖仏を探してみた。

あった!

天念寺川中不動明王なら階段なしでもOKだということが分かった。

車窓から「宇佐神宮 六郷満山霊場」の幟が見えると思ったら、そこが天念寺だった。

寺の前に天念寺川が流れている。

その川をせき止めるかのように巨岩が突き出している。

近寄って見る。

巨岩に縦長の長方形を彫り、そこに不動明王と二童子を浮彫りしてある。

不動明王のお顔は、珍しく微笑んでない。

厳めしいが、怖くはなく、素朴で朴訥な味わいが捨てがたい。

朴訥といえば、左のセイタカ童子はまるでそこらの悪ガキみたいだ。

露天にあるのに石像の崩れは少なく、彫技もまあまあだが、この川中不動尊の何よりの価値は、そのシチュエーションにある。

新緑を映す川中に屹立する不動明王は、意表をついて、きわめて斬新。

お不動さんに正対する形で川中に伸びた岩の先の祭壇に立って拝む。

行者たちの修行もここで行われたに違いない。

 

 

 ≪参考図書≫

◇大嶽順公「国東文化と石仏」昭和45年 木耳社

◇渡辺克己「豊後の磨崖仏散歩」昭和54年 双林社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


102 大分県の磨崖仏(1)臼杵市、豊後大野市

2015-05-01 10:54:25 | 磨崖仏

このブログは、弁解から始まることが多い。

弁解が多いということは、心理学的にはどういう性格の人間ということになるのだろうか。

自己正当化が強い、自己防衛が激しい人間、ということか。

潔い人間ではなさそうだ。

で、今回の弁解は何かというと、写真で綴るブログなのに写真写りが悪く見苦しいのは、安物カメラとヘボな腕前のせいばかりではなく、被写体の状況も影響しているのですよ、と云いたいということ。

今回のテーマは磨崖仏。

露天のものもあるが、多くは覆屋の下にある。

        高瀬磨崖仏(大分市)   

人工照明などないから自然光だけが頼りだが、曇天や雨天だと全体的に暗い。

晴天で下半身に光は差しても、上半身は暗いままだから、顔がつぶれた写真になる。

そんな写真ばかりであることを、まず、お断りしておく。

 

大分県に向かったのは、4月下旬。

天気予報は全国的に雨。

雨雲が九州南部と四国から本州へと流れ込んでいるが、なぜか大分県だけは雨雲が薄い。

大分空港からレンタカーで、臼杵市を目指す。

臼杵市には、磨崖仏では全国で唯一の国宝に指定された臼杵石仏があるからです。

臼杵石仏は分かりいい。

「石仏旅館」が目に入ったら、もう着いたも同然。

「石仏旅館」の横が、臼杵石仏の駐車場です。

それにしても「石仏旅館」とは!

スバリなネーミングに脱帽、だから旅は楽しい。

臼杵石仏は臼杵市の西、深田という水田地帯の西の崖地にある。

              HP「国宝臼杵石仏」より転用

1か所ではなく、4か所に分散していて、入口からの道順で云えば、ホキ2、ホキ1、山王山、古園の4つの磨崖仏群に。

杉並木の緩やかな参道の坂道を上るとすぐそこにホキ石仏群が在します。

ホキとカタカナ表示だと何だか外国の磨崖仏みたいだが、崖地を意味する地名だとか。

石仏群は、また、いくつかの龕ごとに別れています。

龕(がん)とは見かけない字ですが、辞書には「断崖を掘って,仏像などを安置する場所」とあります。

最初に出会うホキ第2群の龕には、9体の阿弥陀像が。

 

9体というより正式には九品(くぼん)というべきで、上品上生から下品下生まで9つの印相を持つ阿弥陀さまがいらっしゃいます。

なぜ、9つもの印相があるかというと、阿弥陀さまがお迎えする極楽には9段階の階層があるから。

「やれやれ、やっと極楽に着いた」と思っても、そこもまた格差社会だったというわけ。

 ご託はさておき、阿弥陀さまへ話を戻すと、中央の一尊だけが座像で、残りは左右に4体ずつお立ちになっていらっしゃる。

肝心の印相は腕や手首が欠けて不明、特に中央座像と向かって左側の4体の崩壊がひどいようです。

臼杵の岩崖が軟質の凝灰岩であることも崩壊促進の原因でした。

軟質だから彫りやすい、だが、崩れやすくもあったわけです。

 

隣の龕には阿弥陀三尊。

中央の阿弥陀如来は、臼杵石仏最大の磨崖仏で、像高285㎝。

右の脇侍は、観音、左は勢至の両菩薩立像で儀軌通り。

3体とも下半身がボロボロなのは、かつて露天だった時、崖の水が通り抜け腐食を進めたからでした。

仰ぎ見る阿弥陀さまのお顔は、慈顔というよりは峻厳さに満ちています。

墨で形取った眉や目が厳しさを強めているようです。

崖から離れてまるで丸彫りの石仏みたい、頭だけの写真を見て、これが磨崖仏だと言い切れる人は少ないでしょう。

それほど木彫仏そっくりの傑作。

制作年代、制作者とも資料がなくて不明ですが、木彫仏師の指導のもとに制作されたのではないかとの見方が有力のようです。

観光バスの一団が来たら、ひたすら通り過ぎるのを待つ。

五輪塔が覆屋の前庭に並んでいる。

 

どこかこの辺りで掘り出されたものだろうか。

観光客は誰一人見向きもしないが、時間つぶしの対象としては恰好な存在だった。

 

 ホキ第2群を出て、石段を上がるとホキ第1群。

最初に目に入るのが、地蔵十王像。

覆屋の右端にあって、外光が差し込み、今回撮った写真の中では出色の出来栄えとなった。

中央に地蔵、両側に5体ずつ衣冠束帯で笏を捧げる十王の組み合わせ。

十王は冥界における10人の裁判官のこと。

死者の生前の罪の多少で地獄などその行き先を、十王が決めた。

遺族による追善供養の多寡も十王の心情を左右すると信じられた。

十王信仰のもととなった「地蔵十王経」は平安時代末期から鎌倉時代初期に膾炙したもので、この十王磨崖仏も鎌倉初期の作とみられている。

中央の地蔵もあまり見かけないお姿です。

普通は錫杖を持つ右手は胸の前で施無畏印を結び、左手には宝珠を持ち、右足を組み、左足を下げた半架の姿勢。

錫杖を持つようになるのは、鎌倉以降と云われるそうですから、鎌倉初期と推定される制作年第代と符号しないでもありません。

光背の黄土色、衣の朱色など彩色も臼杵石仏中、最も鮮やかに残っています。

臼杵石仏の紹介で、ことをややこしくしているのは、道順とは逆に石仏群と龕の番号が付いていること。

今紹介した地蔵十王像は、ホキ石仏第1群(第2群ではない!)で最初に出会う龕なので、第1龕かと思うのですが、実は第4龕。

第1群には4つの龕があって、左から1,2,3,4と番号がつけられているからです。

だから次の龕は第3で、3から1までは、三尊形式の龕が並びます。

第3龕は、中央に大日如来、右に釈迦、左、阿弥陀という珍しい組み合わせ。

注目すべきは、三尊が座り、前に垂れ下っている裳懸座(もかけざ)の下の穴。

お骨を入れた、いや、経本を入れた穴だ、と議論があるのだとか。

第1、第2ともに三尊形式だが、とにかく写真が最悪で、はっきりしない。

はっきりしないということでは、なぜこうした三尊をいくつも彫りだしたのか、その目的もはっきりしない。

個々は素晴らしい磨崖仏で、もし、単独でどこかの山中にあれば、人々の注目を集めるに違わない優品でありながら、似たような仏が並んでいては、目立つこともない。

観光客も立ち止まることなく、通り過ぎてゆく。

臼杵石仏の不幸は、仲間が多すぎることなのです。

「バーミヤン」は、今や中華料理のチエーン店名としてしか知られてないが、その昔、アフガニスタンの山地に花咲く仏国土だった。

1000をも超える石窟寺院と巨大大仏、無数の磨崖仏を誇る仏教徒の聖地でした。

臼杵石仏は、ジャパニーズ バーミヤンを目指したものか、それとも、敦煌の再現か、数多くの磨崖仏を前に、そんな夢想にかられるのです。

ホキ石仏第1群を出ると右に坂道があり、傍らに「重要文化財特別史跡 五輪塔」の標柱がある。

 藤の花の下でツツジが咲き乱れる山道、その真下はホキ1群の岩窟になるのですが、を上ると覆屋があって、そこに2基の一石五輪塔が立っています。

大きい方の高さは151㎝、水輪が球形ではなく、空輪を欠いて、五輪塔とは一見思えません。

資料によれば「嘉応弐年(1170)七月二十三日」と刻されているのだとか。

小さい五輪塔には「承安二年(1172)八月十五日」とあるそうで、大きい方の2年後の造立ということになります。

承安2年と云えば、平清盛の時代、ここ臼杵ではピカピカの真新しい磨崖仏の傍らで、新しい龕が削られていた頃と思われます。

再び石仏順路に戻って、次の山王山石仏群へ。

あっちにもこっちにもタケノコが生えている。

ある資料には「山王山の石仏を地元の人は『かくれ地蔵』と呼んでいます。かつて石仏のあたりは竹藪で石仏は藪のうしろに隠れているようであったからです」とある。

今は、竹藪は切り払われて、仏たちの見通しは格段に良くなっている。

観光客が去るのを待って、階段を上る。

三尊だが中央の釈迦如来だけが一際大きく、左右の阿弥陀と薬師はその存在に気付かないほど小さい。

阿弥陀と薬師となにげなく書いたが、資料にそう書いてあるからで、実際は同じ所作をしていて、みな同じに見える。

地元の人が「地蔵さん」と呼んでいたのも分かる気がします。

釈迦如来のお顔はふっくらと優しい。

臼杵石仏のなかで、親しみやすさダントツのNO1か。

山王山から最後の古園石仏群へ向かう途中、左手にはホキ石仏第2群の建物全体が姿を現します。

山王山とホキ1,2群とはこのくらいの距離で相対し、これから行く古園は山王山の裏にあります。

 

 

 

古園石仏群は、大日如来を中心に左右6体ずつ、計13仏が一列に並んでいる。

私のカメラでは、全景は撮れないので、下の写真は借用したもの。

中でも中央の大日如来は、日本人なら一度は写真を見たことがあるはずです。

ただし、見た写真は下の写真だった可能性が高い。

大日如来を初め十三仏が現在の様に展示されたのは、保存修復を終えた平成6年(1994)のことでした。

それまでは、転げ落ちた大日如来の頭部は胴体から切り離されて置かれていました。

昭和30年代、臼杵を訪れた若杉慧氏は、古園の石仏の惨状を次のように書いています。

 「さてここを下りて谷間になった田の畦道を通り、山すそを一まわりして木下闇をぬけて登ると半ば洞窟めいた崖のもと、累々たる墓石のように多数の石仏の並んだ、というより転がった所に来ました。さきの丘とちがってここは日かげ暗く、樹が覆いかぶさり、陰森の気がただよっています。四斗樽ほどの大きな仏頭が、背後になかば壊滅した石仏群をしたがえ、みずからは首だけになって前面にすわっています。たとえば全滅した部隊の部隊長が自らの首を切って、ここに据えたとでもいう感じ。実はこの大日如来の胴体は奥の岩壁の中央に今でも鎮座しているのですが、首だけ落ちてころんだので元に戻すことなく、ここに据えたのだという案内人の説明でした。」(若杉慧『野の佛』創元社 昭和38年より)

古園石仏群入口にある保存修復工事についての説明板を書き写しておきます。

「臼杵磨崖仏は、柔らかい石質の阿蘇溶結凝灰岩に高肉彫りされています。柔らかい石質彫刻に適している反面壊れやすく、地下水や表面温度等の変化によって風化が進行していきます。特に古園石仏は仏像の下半部分に岩がなかったこともあり、地下水が常にしみだし、湿潤な状態になっていました。このためコケ類が繁殖し、風化を進行させる要因の一つとなっていました。そこで臼杵市は、国、県の補助を受け、文化庁の指導のもとに平成3年(1991)度から5年度までの3カ年間保存修復を行いました。
亀裂を生じた岩盤には、彫刻面を避けて27本のアンカーボルトを打ち込んで崩落を防ぐとともに、風化した龕部全体に樹脂を含浸させ、石質硬化を図りました。この他、コケ類除去、地下水排水工事、石積工事、滑落した仏像片の復位などを行いました。さらに、この修理工事と併行して平成4年度から2カ年で保存修理の効果を高めるため、防災施設としての収蔵庫(覆屋)設置工事も行いました。    臼杵市教育委員会」

もう一度、全景を見てほしい。

 岩壁から彫りだしたというよりも、丸彫りの石仏が岩壁を背に並んでいるという感じが強い。

つまり磨崖仏というよりは、石仏に近い。

それだけ彫技が高かったということになる。

丸彫りに近い高肉彫りにこだわったのは、指導者が木彫仏師だったからだろうか。

だから、岩質に精通してなくて、彫りやすい軟質の凝灰岩を選んで、自然崩壊を念頭に入れてなかったのではないか。

偉そうなことを云ってゴメンなさい。

でも、現場でそう思ったのです。

もう一つ、現場では自然に受け止めていたものが、実は、それほど自然なことではなかったということを帰宅してから知りました。

Wikipediaで「臼杵磨崖仏」を見ていたら、古園大日如来の頭部を仏体に乗せて修復することには、異論があったというのです。

もともと自然に還るべき磨崖仏を人工的に修復し保存するのは、本来の趣旨に悖るという見方です。

修復大日如来を当然の様に見てきた私としては、虚をつかれる思いがしました。

そういえば、磨崖仏にそもそも屋根などついていなかったのだから屋根をつけるべきではないという意見もあります。

若杉慧氏もその一人。

「元来野の佛なるものは雨ざらしになっているのが本来のすがたでしょう。屋根をかぶせることは、尊ぶ心根はよいとしても私は賛成しません。こんにちのようにバス、自動車などの往来が頻繁になってきますと屋根があるため、かえって灰のようなほこりを厚くかぶって、石佛というより灰佛のようなすがたになってしまいます。雨が降っても灌頂してくれないからです。屋根のない佛には、日は照るし、雨は洗うし、トンボも来てとまるし、たとい小鳥が糞をしていっても微笑をくずさないところに野の佛本来の面目はあり、その糞もやがては露や雨が洗い去ってくれるのです」(前掲書)

引用したからと云って同意したわけではありまん。

世の中には、いろんな意見があることを示しただけ。

私は、屋根をつけることに賛成です。

今でも磨崖仏が制作されているのなら、古い磨崖仏が自然に戻ってゆくままに放置しても構いませんが、限定的に古いものしかないのだから、その姿をできるだけ長く維持するように努力する必要はあると思います。

屋根をつけることで全体の景観を損ねても、崩壊の進行を防げるならばつけた方がいい。

屋根をつけるのが遅かったため、崩壊が進んだ磨崖仏を、今回、いくつも見てきたから、特にそう思うのかもしれません。

 

臼杵石仏にはいくつもの謎があるが、最大の謎は「誰が何の目的で造営したのか」だろう。

目的はジャパニーズバーミヤンの建設だったのではないか、と私の夢想については前述した。

バーミヤン仏国土は、言い換えれば「祇園精舎」。

臼杵石仏は祇園精舎建設だったとする伝説があります。

しかも、伝説の主人公の石像が、臼杵石仏の前に広がる石仏公園の向こうの満月寺にあるというのです。

      山の裾、中央に見える屋根が満月寺

なら、満月寺に行って見なくては。

本堂に向かって右の崖穴に3体の石仏。

左が、蓮城法師。満月寺の開山者で、臼杵石仏を彫ったとされる人物。

中央は、真名野長者。臼杵石仏造営の発起人でスポンサー。

右は、真名野長者の妻、玉津姫。長者夫婦の娘の供養のために臼杵石仏は造られた、というのです。

では、ロマンチックではあるが、説得力に欠ける伝説の始まり、はじまり・・・・

敏達天皇(572-585)の頃のこと、豊後の国に炭焼き小五郎という青年がいました。ある日、美しい娘が小五郎を訪ねてきます。彼女の顔には、痣がありました。娘は小五郎に事情を打ち明けます。「私は奈良の三輪山に住む玉津姫といいます。顔の痣を治したい一心で三輪明神参りをしてきましたが、満願の夜、お告げがありました。そのお告げは『豊後の国の炭焼き小五郎と夫婦になれば、願いはかなえられるだろう』というものでした。姫の懸命の頼みを小五郎は受け入れて、二人は結婚します。

 

    炭焼き小五郎長者        小五郎の妻・玉津姫     
まもなく、玉のような女の子が生まれます。玉世姫と名付けられたこの姫の美しさは、都にまでその噂が届き、欽明天皇の皇子橘豊日皇子はわざわざ豊後にまで足を運んできて、一目ぼれ。
玉世姫が懐妊すると都に帰る皇子は長者夫婦に次のように命じます。「男の子だったら世継ぎにするから都へ連れてくるように。女の子だったら母親の玉世姫だけが都に来るように」。生まれたのは女の子でした。赤子を残して船で旅立つ娘を長者夫婦は涙で見送ります。
これが長者夫婦と娘の玉世姫との永遠の別れでした。玉世姫を乗せた船は遭難してしまうからです。悲嘆にくれる長者夫婦の心を癒したのは、蓮城法師の法話でした。法話に登場する祇園精舎に感銘を受けた長者は、娘・玉世姫を供養するため、臼杵に祇園精舎を造ることにします。こうしてできたのが、臼杵磨崖仏でした、めでたし、めでたし・・・

この話は、実は、大きな欠陥がある。

祇園精舎の実現には膨大な費用がかかる。

長者とはいえ、炭焼長者では、とても実現できる話ではない。

おかしいではないかという指摘はごもっともで、実はストーリーの大切な部分がすっぽり抜けていたのです。

「奈良から来て小五郎と結婚した玉津姫は、持参金の黄金を渡します。しかし、小五郎はその黄金を池の鴨めがけて投げつけるのでした。驚いた姫が『何をなさいますか、もったいない』と嘆くと、小五郎は『こんな石なら池の底にいっぱいあるよ』と笑うのでした。これが三輪明神お告げの「金亀ケ淵」でした。この池で顔を洗うと姫の痣はみるみるうちに消え、長者と姫は仲睦まじく暮しました」。

つまり、黄金は池の底にくさるほどあったのです。

臼杵石仏造営のスポンサー炭焼き小五郎の財政的疑問はこれでクリアになりました。

ではこれでこの伝説は信じられるかと云うとNO。

伝説は6世紀、臼杵石仏群の造営は12世紀と推測されるから、時代が大きく食い違う。

創作話ではあるが、臼杵石仏にふさわしい、スケールの大きなロマンチックフオークロアだと私は思うのですが、どうでしょうか。

 

車に戻ると午後1時。

雨模様ではあるが、「時々小雨」なので、次の目的地、朝地町の普光寺磨崖仏へナビをセットする。

                    庚申懇話会『石仏を歩く』より転用

ナビ任せで、どこをどう走ったものかわからないまま、「普光寺駐車場」と看板のある広い駐車場に着いた。

駐車場の周りを見渡しても磨崖仏は見えない。

一番近い農家で訊いて分かったのだが、普光寺までは300mほど歩かなければならなかった。

右手は崖地、左は新緑のブッシュの坂道を下って行く。

眼下に普光寺の山門と本堂が見えてくる。

 下の谷から普光寺を見上げた光景。

山門を入ると、突然、視界が開けてくる。

緑いっぱいの谷間、谷間の向こうは岩壁がそびえ、ポッカリと黒く空いた岩窟が二つある。

「ン?岩窟の左の黄土色の崖の模様は何だ?不動明王か、びっくりしたな、もう」

私は、正面の岩壁に磨崖仏があることを知っていたから、すぐ分かったが、そうした事前情報なしにこの地に立った人はこんな感じを抱くだろう。

人間の目は、なにか見たいものがあればズーム機能が働くが、平常はワイドレンズのまま。

こんな場所に磨崖仏があるとは想像しないから、当然のこと。

上の写真がそんな感じか。

あれは磨崖仏だと気付いた後は、下のように見えるはずです。

谷へ下りて、磨崖仏へ近づく。

大きい!

6.8mの中尊・不動明王の両脇にやや小さ目なセイタカ、コンガラの2童子が立っている。

「これぞ磨崖仏!」。

不動明王だから、本来筋肉質であるはずなのに、ややメタボ体型。

ガントルガ・ガンエルデネに似ていなくもない。

ガントルガ・ガンエルデネは、照の富士のモンゴル名。

不動明王らしからぬ優しい顔も照の富士のようだ。

辛うじて太い鼻とかみしめた牙が憤怒の形相を示しているが、いかんせん目が優しすぎる。

これでは、「仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する者を力ずくで止めさせる」不動明王の使命を全うできるか甚だ心もとない。

彫り手は、はじめから、こうした顔を意図してたのだろうか。

彼は出来栄えに満足して、死んで行ったのだろうか。

私はテレビ番組制作の仕事をしていた。

毎回仕上げた番組は、欠陥だらけで不満足の塊だった。

しかし、放送されればそれで終わり。

すべては雲散霧消して悔いを残すこともなかった。

生放送だったから再放送されることもなかった。

テレビは私の性分にあっていたと言い切れる。

映画だとこうはいかない。

上映期間は長く、不満足な作品はいつまでも上映される。

あそこをこうすればよかった、ここはカットしたかった、そうした思いにさいなまされ続けることになる。

建築家は最悪だ。

自分の作品が半永久的に残ることになる。

若気の至りの観念的で非実用的な建築物も壊すわけにはいかない。

だからなのか、建築家には、自信過剰で自己愛に満ちた人が多いようだ。

磨崖仏も建築に似ている。

造り手はよほどの自信家でないと務まらないだろう。

自信家は、また、結果オーライなような気がする。

儀軌と違って、優しいお不動さんになった。

でも、みんなの評判はいい。

「そうだ、初めからこれを造りたかったんだ、俺は。」

彼に後悔の2文字は無縁である。

微笑みながら人生に満足して死んでいったに違いない。

 

さて、つぎはどこへ行こうか。

候補地はいくらでもある。

なにしろここ大野川流域は、日本屈指の磨崖仏銀座なのです。

時計を見ると午後3時過ぎ。

6時には別府につきたい。

と、すると許される時間はあと1時間。

普光寺磨崖仏から一番近い緒方宮迫東西磨崖仏へ行くことに。

東西磨崖仏というのは、宮迫と云う地区の東と西の2か所に磨崖仏があるからです。

まず、東磨崖仏へ。

両側を低い山に囲まれた水田が少しずつ高くなって奥へ延びています。

その水田を見下ろす崖地の中腹に予想外に立派な覆屋が建っている。

石段を上がると、真ん中に如来型の座像がどっしりと構え、右は不動明王が、左は私にはわからない脇侍が立っています。

と、緒方宮迫磨崖仏の「見仏記」はここまで。

雨こそ降らないが、雲が低く垂れこめて、3時半だというのに、夕暮れのように暗い。

覆屋の中は更に暗くて、肉眼でも仏像が闇に溶けてはっきり見えない。

撮った写真は、案の定、下半身だけがボヤーっと写っているだけでお顔は闇の中。

下の写真は、不動明王。

なぜかこれだけきちんと撮れているので載せておく。

折角なので、西磨崖仏へも足を運んだが、条件は同じ。

明るかったらさぞ美しいだろうと思われる朱色がかすかに認められるだけでした。

東西磨崖仏とも、朝のある時間だけ光が窟内まで差し込んで、仏たちを浮き上がらせるのだそうです。

そうした一瞬を狙って夜明け前から現地で待つ、そんなゆとりある旅をしてみたいな、と思うのですが、多分、無理でしょう。

経済的余裕がないからですが、せせこましい旅が性に合っているからでもあります。

磨崖仏銀座の大野川流域に折角来たので、もう一日あれば「せせこましく」全部回れるのにと後ろ髪を引かれる思いで、今夜の宿、別府の温泉街へ向かいます。

次回は、大分市から国東半島の磨崖仏「見仏記」です。

 

≪参考図書≫

▽ 服部邦夫『石仏残影』木耳社 昭和47年

▽ 佐藤宗太郎『石仏の旅』芸艸堂昭和56年

▽ 若杉慧『野の佛』創元社 昭和38年

▽ 渡辺克己『豊後の磨崖仏散歩』双林社 昭和54年

▽ 庚申懇話会『石仏を歩く』日本交通公社 1994年

▽ 逸見泰子『磨崖仏紀行』平凡社 1987年

▽ 若杉慧『石佛のこころ』鹿島出版会 昭和42年