石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

126 成田街道の石造物ー11ー(薬円台、滝台)

2016-12-26 11:07:23 | 街道

(*前回がNO9だったから、今回はNO10であるべきなのに、NO11なのは、NO10を不覚にも消去してしまったから。10月の中旬、仕上げて保存しておいたものを、今、upしているのだが、NO10が「記事一覧」にない。前原東5の百庚申や御嶽神社の出羽三山碑群などを経て薬円台に至る間の記録を再作成するには時間がない。とりあえず、NO11をUPしておきます。)

前原東から滝台に入ってすぐ、東福寺の脇に、成田街道に面して4基の石造物がある。

馬頭観音と道標のようだが、よく分からない。

もう十分役目を果たして、粗大ごみになる日も遠くないと思われる。

京成薬園台駅入口のちょっと先を右折。

◇高幢庵(薬円台-4-1)

地名は「薬円台」で、駅名は「薬園台」。

幕府の薬草園があったから、薬園台なのに、戦後の地名改悪で「薬円台」になった。

あまりにばかげていて、腹立たしい。

由緒ある薬園台は、高校と駅の名前に残るだけという。

高幢庵には、その幕府の薬草園の初代管理人で本草楽の大家、丹羽正伯追悼供養塔がある。(写真を撮り損ねた!)

墓地の隅に半ば埋もれたような舟形光背地蔵がおわす。

右に寛保三年(1743)、左に「薬園台村」と刻されている。

これが薬園台村の初出らしいが、薬園の衰退とともに新田開発が進み、薬園台新田と称されるようになる。

成田街道から薬園台駅方向へ。

駅前の住宅地の小路を右左折しながら進むと

◇八幡神社(滝台町98)

いくつかの小祠に囲まれて青面金剛像がある。

中々立派な彫りだが、よく見ると邪鬼の右足が踏んづけているのは、女ではないか。

腰の線は、腰巻の紐か。

芸が細かい。

成田街道に戻って、東へ。

まもなく右に「神明社」の標識が。

入ってゆくと、公園を兼ねた神社の境内が、薄暗く広がっている。

◇神明社(薬円台1-12)

真中に本殿。

伊勢神宮系列の神社らしく「伊勢神宮参拝記念碑」が何基かある。

「三仙元宮」碑や「小御嶽山大権現/大天狗/小天狗」は富士三信仰に関わる石碑と資料にはある。

     三仙元宮碑

 小御嶽山大権現/大天狗/小天狗

小祠が見当たらないと思っていたら、覆屋の中におわした。

疱瘡神の文字も見える。

取手市には、疱瘡神の像塔があるが、他の土地では、文字搭ばかりで、像塔はない(ようだ)。

 

この辺り、歴史ある寺社が少ない。

それもそのはず、ここ薬円台の隣は習志野で、ここら一帯は野生馬が駆け回る牧だった。

開墾して新田と名の付く集落ができたのは、近世になってからのこと。

だから、延喜式神社があると知って、行って見る気になった。

◇二宮神社(三山5-20-1)

下総国の一宮は、香取神宮。

ここは、その二宮で二宮神社。

格式高い神社にふさわしい佇まいで、なんと近隣23か村の総鎮守だとか。

7年ごとの祭りには、神輿が一里以上もある幕張海岸まで浜降りする、古式ゆかしい神事が行われるという。

  千葉日報 2015-10-01より

ポトン、ポトンと音がする。

何だろうと注視していたら、イチョウの大木から銀杏が落ちる音だった。

運悪く頭に落ちたら大変、25mもの上からの落下で痛いのは無論だが、あの臭いが髪について離れない。

東隣には、神宮寺があって、まさに神仏混合時代そのまま。

神社と寺の間を通る道に道標が立っている。

「二宮大明神 是より七町」とあるから、どこか別の場所から移転してきたものらしい。

句碑を兼ねていて「耳なくて きかるるものよ 閑古鳥 遠近庵 三市」とある。

遠近庵(おちこちあん)三市は、ネットで調べてみたら、地元の俳人。

「耳なくて・・・」は、成人になってから聴力を失った自らのこと指すようだ。

「耳が不自由でも、閑古鳥が鳴いているのは、聞こえるよ」。

これだけだと大した句に思えないが、何か深い意味があるのだろうか。

 

二宮神社から来た道を戻って、成田街道の「二宮神社入口」へ。

突当りに奥の不動堂に、たった1基ある石造物は、「聖徳太子」供養塔。

施主は「太子講」。

太子講は、聖徳太子を職能の髪として崇める大工、左官、建具などの職人集団。

定期的に集まっては、太子の掛け軸をかけ、呑みながら労賃の協定を結んだりする。

この碑の背面には51名の名前がある。

彼らは、日露戦争の旅順港攻撃戦となった二〇三高地を六分の一に模した永久堡塁を、訓練のために習志野に建築した際、その工事にたずさわった職人だという。

不動堂から200m東に、船橋市郷土資料館がある。

工事中で閉館していたが、敷地内の明治天皇駐蹕(ひつ)碑は見られた。

明治天皇が、明治6年(1873)、近衛兵の演習を統監された記念碑。

習志野という地名は、この時、勅命によって決められたが、その間の事情は碑文に書いてある。

碑文

(表) 明治天皇駐蹕之処 大正六年十月 元陸軍大将公爵山縣有朋禁書

(背) 習志野原は千葉県に在り。下総国千葉郡の曠野渺漠として小金原に連なり、本より特称なし。明治六年四月二十九日、天王近衛兵を率いて親臨し、この地に露営す。櫛󠄁風沐雨、統監演武、地形尤も練習に適すと認む。五月十三日、名を習志野之原と賜う。永く陸軍操練場習志野之原の名称を定む。茲に於いて今謹んで其の縁由を記す。

 郷土資料館の前は、陸上自衛隊習志野駐屯地。

ここから道路の右側はフエンスが延々と2キロ、船橋市と八千代市の市境まで続く。

左側にも寺社は勿論、馬頭観音、庚申塔、道標などの石造物は皆無。

これほど長い石造物の不毛地帯も珍しい。

市境は、新木戸交差点前。

いよいよ、というべきか、やっと、というべきか、ここから八千代市に入る。

 

 次回更新日は、1月1日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー9-

2016-12-21 07:00:57 | 街道

山門にも、どこにも寺の名前がない。

墓地があるので寺だとは分かるのだが、果たして、ここは「東光寺」なのだろうか。

◇真言宗豊山派・慈明山東光寺(宮本5-13-17)

山門から見えるのは、普通の民家で寺らしくない。

この建物は庫裏で、本堂はこの裏にあったらしいのだが、確認することなく、山門を入った左側の石仏群を見て、帰ってきてしまった。

中央の覆屋の地蔵を挟んで、左に6基、右に4基の石仏が並んでいる。

左は馬頭観音と阿弥陀如来の間に庚申塔が4基、右には、十九夜塔2基と大日如来、阿弥陀如来が1基ずつおわす。

船橋市は、千葉県の中でも馬頭観音がダントツに多い地域と聞いていた。

馬を生産する幕府直轄の牧が市内の中央部を横断していて、馬の保有数は多地域に比べ、抜きんでて多かった。

宿場町として交通の要衝であった船橋は、荷馬車用の馬が不可欠だったから、馬が多くなるのは、必然だったといえる。

しかし、江戸川橋を渡って市川、船橋と石仏を見てきて、実は、馬頭観音に遇うのは、これが初めてのことなのです。

とても意外なことで、不思議でなりません。

◇浄土真宗本願寺派・光雲山了源寺(宮本7-7-1)

石段を上がった山門前の左に、船橋市教委による文化財の説明板がある。

市指定文化財 鐘楼堂跡

江戸時代享保年間(1716-1736)、徳川幕府は、船橋に大砲試射場を設けました。了源寺本堂の南西の丘に砲台の台座があったといわれ、そこから谷津、藤崎方面の松林、原野に向けて試射を行いました。
これを廃止した後、その場所に鐘楼堂が建てられ、幕府から時の鐘として公許されました。その後、明治4年(1871)に廃止されるまで、船橋一帯に時を告げていました。
船橋に宿泊した時に、この鐘の音を聞いて、蜀山人大田南浦が詠んだ自筆の狂歌が了源寺に掛け軸として残されています」(船橋市教育委員会)

蜀山人筆狂歌

下総のくに 船橋の宿 光雲山
了源寺ハ こだかき所にて 富士の
高ねはいふに及ばず 伊豆 さがみ 安房
上総の山々 海上につらなり 眺望いはん
かたなし ここに二六の時をつぐる


鐘楼ありきとききて

煩悩の眠をさます時の鐘
きくやわたりに船橋の寺
            蜀山人

富士山から伊豆、相模、安房、上総の山々まで、境内から眺望できたという。

上は、現在の眺望。

すぐそばの大神宮すらおぼつかない。

蜀山人は、本当に伊豆、相模を見たのだろうか。

296号に出ると、大神宮の北の西福寺が見えてくる。

◇真言宗豊山派・船橋山清浄心院西福寺(宮本6-16-1)

門前に「南無大師遍照金剛」の石塔。

側面に「吉橋組聯合准四国八十八ケ所/第三十八番 上州蹉陀山写/当所 五日市信者中」とある。

この准四国霊場は船橋とその周辺を巡るものだが、さらに「汎く弘法大師信仰に利便あらしめんとし」て、平成元年(1989)、「境内に新たに四国八十八ケ所霊場を勧請創設した」。

よって「この霊石に触れ、南無大師遍照金剛の宝号を唱えて巡錫せば、忽ちに多大なる利祥霊験を蒙らんこと疑いなし」。

現代的デザインの六地蔵は、子供が健やかに育ち、富と福を未来永劫に招くようにと、「ふくふく地蔵」というのだそうです。

 船橋宿と船橋大神宮とその周辺の石造物紹介は、これで終わり。

296号線を真っ直ぐ東へ進みます。

「まっすぐ」と云ったのは、この道路はかつての「東金御成道路」で、船橋―東金間37キロはほぼ直線で結ばれているので有名です。

道路造営を命じたのは、家康。

目的は、九十九里方面での鷹狩りというから、剛毅なことです。

更に剛毅なのは、周辺の農民が駆り出され、一晩で完成したから、「提灯街道」、「一夜街道」と呼ばれるのだそうです。

習志野市との市境を超えて再び、船橋市に入るとすぐの三叉路がそのものズバリ「成田街道入口」。

◇成田山道標(前原西1-23)

 

ここで東金街道と分かれ、成田街道になる。

標識の下に、昔の道標。

なぜか火消しの纏風デザインで「左 成田山道」、「右 従是房総街道」(*房総街道=成田街道)と刻まれています。

この分岐点から100mくらいか、路傍に石仏群。

◇路傍の石仏群(前原1-17)

覆屋に5基の庚申塔と道標が1基おわす。

路傍でこれだけ石仏が揃っているのも珍しい。

笠付き青面金剛像の上部は、日月ではなく、火焔。

不動明王を思わせて、さすが成田街道入口にふさわしい。

また、右端の道標は、上に陽刻の不動明王が座して、これこそ成田街道ならではの道標か。

安永六年(1777)に造立されています。

 回更新日は、12月26日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 


126 成田街道の石造物ー8-

2016-12-16 08:00:08 | 街道

本町通りの南側本町3丁目は寺町だが、北側の本町4丁目には、神社が多い。

森田呉服店からほんの20-30m東にあるのが、

◇厳島神社(本町4-35)

祭神の三女神は、海女を支配した宗像氏の祖先神で、海上交通の守護神として海老川沿いの回船業者や漁民の信仰を集めて来た。(宮原武夫『船橋市の歴史散歩』より)

狭い境内には、石造物は、燈籠、手水鉢、社殿再建記念碑、狛犬の定番があるのみ。

(644)

次の信号を左折すると正面に朱色の鳥居が見えます。

◇御蔵稲荷神社(本町4-31)

「御蔵」は、飢饉に備えて幕府が建てた穀物倉庫。

3度の大飢饉もこの御蔵のおかげで切り抜けられたと謝恩の意で建てられた神社。

神社の由来の説明板になぜか、河童の銅板画が嵌め込まれています。

帰宅して調べたら、海老川には、昔から河童伝説があるのだとか。

尻に青黒い印をつけておけば、河童に襲われないのだそうです。

◇東照宮(本町4-29)

家康、秀忠親子が鷹狩りのための休憩・宿泊施設として慶長年間に建てたのが、船橋御殿。

その跡地に、家康を祭神とした東照宮が建てられた。

全国に500社ある東照宮の中で、最小と言われている。

◇道祖神社(本町4-31)

道祖神だから村境にあったのだろうが、繁華街のど真ん中で、そうした意味合いを探すのは難しい。

石仏としての道祖神は見当たらなくて、覆屋には、馬頭観音と愛染明王がおわします。

特に愛染明王は、逸品。

犬か狼か、珍しい狛犬と思ったら、三峯神社が境内社でした。

2795

旧道に戻り東へ行くとすぐ海老川にぶつかります。

◇海老川

   川の左が五日市村、右が九日市村

宿場があった川の西側は、九日市村。

東は、五日市村でした。

橋の欄干から船の舳先が突き出ている。

港として賑わっていたシンボルでしょうか。

海老川の両岸には倉庫蔵が立ち並び、川は物資を積んだ廻船で混みあっていました。

もちろん人の往来も激しく、船橋―日本橋間は、順風で2時間、昭和初期でも毎日2回の定期船が走っていた。(『船橋の歴史散歩』)

海老川を渡ると先方に木々の茂みと鳥居、鳥居の奥に急な石段が見えてきます。

◇意富比(おおひ)神社=船橋大神宮(宮本5-2-1)

石段を上がる。

実は、ここは裏門で正門は、京成大神宮下駅側にある。

裏門を上がるとさっき海老川橋で見たのと同じ船の舳先が突き出た境内社がある。

舟玉神社。

船橋の漁師たちから、篤い信仰を寄せられる神社なんだそうだ。

漁師の信頼を集めていたといえば、灯台として機能していた灯明台をあげなければならない。

船橋の歴史から戊辰戦争は外せないが、その市川・船橋戦争で、幕府軍がこもった大神宮は、官軍の大砲攻撃で炎上、灯明台も焼失した。

明治13年(1880)に再建され、明治28年まで、24mの高さから船橋海岸6海里(11キロ)先まで照らし続けていた。

社務所横の境内社の列に石塔が1基。

これも漁師がらみの石塔です。

「東西二十間
 永代敷石講 六人網元中」

敷石寄進はめずらしくないが、それが「六人網元」となると、がぜん漁師村の船橋らしくなる。

六人網とは、六人の漁師が三艘の舟に分乗し、二艘が広げた巻き網に、一艘が船べりや水面を叩いてイワシの魚群を追い込む漁法のこと。(『船橋の歴史散歩』)

石塔の寄進者銘から、万延元年(1860)、船橋には23人の、六人網元がいたことがわかります。

広い境内には、台石を重ねた高い燈籠が何対かと、記念碑が何枚かあるだけで、これと云って特に注視すべき石造物はない。

百度石が、忘れ去られたように参道の脇にあるので、パチリ。

船橋市全体でも、百度石は、これを含めて2基しかないのだそうです。

いつ行っても清掃が行き届いていて、清々しい気分になれる神社です。

 

 

 次回更新日は、12月21日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 


126 成田街道の石造物ー7-

2016-12-11 06:09:25 | 街道

旧道をひたすら東へ。

覆屋があり、中の石仏がこっちを向いている。

「こっち」は東へ歩いているのだから、「西向き地蔵」となる。

◇西向き地蔵(本町2)

この西向き地蔵の場所が、船橋宿の西の入口でした。

宿場の入口には、どこにもお地蔵さんがおわしたが、この西向き地蔵もその一つ。

造立は、万治元年(1658)、施主は念仏講中12人と女人16人。

360年にわたり、往き交う人たちを見守ってきたことになります。

船橋は、江戸から下総・上総・常陸・安房四か国への通路にあたり、人足15人、馬15疋が常時準備されていました。

しかし、道中奉行管轄外で、正式な宿場ではなかったのです。

旧道から再び、千葉街道へ。

 ◇旅籠佐渡屋跡(湊町2-6-33)

船橋宿の旅籠といえば、佐渡屋。

旧道に面したNTTが、佐渡屋の跡地。

 「当村宿駅也。旅の往来、日夜引きも切らず。当領一の繁盛也。旅籠屋凡そ十八九軒。此内、佐渡屋は商人宿也」。(『葛飾誌略』より)

「船橋。佐渡屋早し。海老屋宜し。八兵衛は江戸や、佐倉や」。(『房総三州漫録』より)

佐渡屋では何が早かったのだろうか。

「八兵衛」とは、遊女のこと。

船橋宿の旅籠の飯盛り女は「しべー、しべー」と客を誘った。

往きに、しぺー、帰りに、しべーで「八兵衛」となった。

「成田山には男女二人連れでお参りしないほうがいい」というのは、船橋の八兵衛さんと遊べないから、だそうです。

NTT(佐渡屋跡地)の後方にあるのが、旅館玉川。

◇玉川旅館の船着き場(湊町2-6-25)

上の写真で、玉川旅館の向こうに見える高層ビル群は、みな、昔は海だった所です。

その証拠が、玉川旅館の庭にある。

この石段は、庭から舟に乗る船着き場の跡。

石段を下りて舟に乗る。

宿泊客が釣りなどの舟遊びを愉しんだのでした。

下は反対側からの写真。

つまり、かつては海だった所から撮ったものです。

 

東に向かうと、旧道と千葉街道に挟まれた本町3に寺町があります。

ろくな石造物がないので、個々の寺の紹介はカット。

スポットを当てるのは、不動院だけ。

◇真言宗豊山派・海應山不動院(本町3-4-6)

門前にある大仏は、釈迦如来坐像。

船橋市の文化財に指定されているが、市教委が書いたその指定理由は、以下の通り。

船橋の海は、江戸時代初めころから半ば近くにかけて幕府に魚介を献上する「御菜浦」とされた好漁場でした。
元禄16(1703)年の大地震による海底地形の変化などで、翌年から魚介の献上は中止され、代金納になりました。その後この漁場を巡って、近隣(堀江・猫実・谷津・鷺沼など)の漁師たちと多くの争いが起こりました。
文政7(1824)年、船橋村と猫実村(現在の浦安市)との漁場の境界を巡る争いが続いていた時、船橋漁師の占有漁場の船が侵入してきました。その中に、一橋家の幟を立てた船があり、乗っていた侍を船橋の漁師が殴打し、幟を奪ってしまいました。大きな事件であったことから、船橋の猟師総代3名が入牢させられました。1名は牢死し、1名は牢を出て間もなく死亡しました。そのため、延享3(1746)の津波による溺死者と、漁場を守り死んでいった漁師総代の供養をあわせて行うようになったのです。
大仏追善供養は事件の翌年の文政8(1825)年以来、毎年1月28日(明治以降は2月28日)に行われるようになりました。本来この大仏は、津波によって溺死した漁師や住民の供養のため、延享3年に建立された石造釈迦如来坐像です。供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつけます。これは牢内で食が乏しかった苦労をなぐさめるためといわれています。大仏の西側には漁師総代2名の供養碑が建てられています。(船橋市教育委員会掲示より)

大仏の台石には、盃状穴がある。

成田街道では、これで3例目。

どこにでもあるものだと再確認する。

 大仏の背後には、犠牲になった二人の漁師の供養塔がある。

台石の「漁〇講中」が、いかにも漁師村の九日市村らしい。

大ぶりな庚申塔に挟まれて立つ六観音石幢の念仏搭が珍しい。

たまたまこちらを向いているのは、千手観音。

女念仏講中によって、元禄14年(1701)に建てられています。

 

旧道に戻る。

千葉銀行の前身は、旅館「桜屋」。

明治天皇は、陸軍の演習視察などで10回ほど桜屋に宿泊している。

だから、「明治天皇船橋行在所」のステンレス製標柱が、銀行の前の一角に道路に面してある。

この界隈は高いビルばかりで、宿場の往時の面影は見られない。

唯一、和菓子の広瀬直船堂と森田呉服店にその片鱗を見るばかり。

店の前を掃除しているのは、森田呉服店の御主人。

昭和34年の船橋本町通りのスケッチを染めた手ぬぐいを販売していたので、一枚購入してきた。

これが半世紀前の町の姿だから、江戸、明治の面影は探してもないわけです。

 

 次回更新日は、12月16日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 


126 成田街道の石造物ー6-(西船4―海神1)

2016-12-06 09:02:19 | 街道

葛羅の井から国道14号に戻る。

宝成寺を通り、京成線にぶつかったら、線路沿いに左折、正延寺による。(地図では+をワンクリックすると寺名が出る)

◇真言宗豊山派・山野山正延寺(西船3-3-4)

寺のすぐ前を京成電車が走っています。

境内には、石造物が溢れている。

まず目につくのは、四国八十八か所のミニチュア。

弘法大師がすっくと立つ巨岩石を88本の札所の石柱が取り囲んでいます。

1周するのに10秒もかからない。

それで八十八霊場のお砂踏みをし、参拝したことになるのだから、有難い限り。

現地を回った巡拝記念碑も、当然、ある。

傍らに、十九夜塔の如意輪観音が5基、ずらりとならんでいる。

「全国的には二十三夜塔が多いが、千葉県では、十九夜塔が圧倒的に多く、船橋市も例外ではない。88基の十九夜塔を数える。うち83基は如意輪観音半跏思惟像で、その大半は女人講による造立。十九夜講の普及は、女性の娯楽の場の増大を意味し、如意輪観音像造立は女性の経済力を示している。
そして、十九夜塔が女人講として定着した時、女性に最も大切な出産・育児という現世利益を求め、如意輪観音に乳児を抱かせて子安観音なる仏を創作し、子安講へと移行したわけである」(『』船橋市の石造文化財 船橋市史資料(1)」より)

四角錐の無縁塔の上部には、地蔵が取り囲むように三界萬霊塔が立ち、さらにその上に地蔵菩薩が立つという念の入れよう。

墓域に、寛文期の墓標に挟まれて、元和四年と寛永十一年を刻する舟形地蔵菩薩がおわします。

元和期の石仏は極上のレアもの。

宝くじに当選したような気分です。

正延寺を出て、線路沿いに左へ。

◇踏切横の慰霊碑

遮断機のある踏切を渡ったところに、お地蔵さんがおわして、その隣には「無縁横死者霊」なる石碑。

昭和18年(1943)、踏切事故で13歳の少年が亡くなった。

その死を悼んで、平成18年、兄弟が建てた慰霊碑のようだ。

千葉街道の国道14号に着いたら左へ。

約1キロほど何もない。

のたのたと東へ歩を進める。

前かがみで小股に靴を道に引きずるように歩くから、「のたのた」という表現がぴったり。

次の目的地、「龍神社」に近づくと、下手な歌が聞こえてくる。

神社の前の町会の集会場で、老人会のカラオケ大会が行われていた。

真昼の、しらふの耳には、どの歌もまぬけな雑音でしかない。

◇龍神社(海人6-2-28)

集会場の入口の横に角柱道標がひっそりとたっています。

左が集会場、道標は、「龍神社」石柱と松の木の間にある。

正面「難陀龍神宮 弘法大師/加持石芋/かたはよし道」
右「歳▢▢天保九(1839)年十一月吉日」

龍神社は、海上守護の神社で、社殿は海に向かって建てられていた、と資料にはあるが、海に面していたことが今は信じられない。

かつて行徳街道からの参道が、ここまで伸びていたという。

境内には、柵で囲われ、ネットに覆われた池がある。

石芋の伝説の池は、この池と思われる。

「昔、弘法大師が、この池で芋を洗っている老婆に一ついただきたいと願ったが、これは固くて食えないからと老婆は断った。翌日、芋は石になって本当に食えなくなった」。

「神塚」なる珍しい石塔がある。

太平洋戦争中、大日本国防婦人会が、出征兵士の無事帰還を祈って奉納した髪を祈念する石塔。

日本民俗では、女性の髪には、男性に豊穣と幸運を与える霊力があると信じられてきたのです。

再び、国道に戻って、東へ。

国道14号と旧街道の分岐点に、赤門の寺がある。

◇真言宗豊山派・龍王山海蔵寺大覚院(海人6-1-9)

院号より寺号が先にくるの例を初めて知った。

神仏混合の時代、龍神社の別当だったから、山号に「龍」がある。

「赤門」の前には出羽三山塔。

出羽三山のうち、羽黒山は聖観音、月山は阿弥陀如来、湯殿山は大日如来を主尊とするが、江戸時代は湯殿山中心で「湯殿山 月山 羽黒山」の文字碑が標準でした。

出羽三山塔は、船橋では、江戸時代に33基、明治以降に78基建てられていますが、昭和に入ってからも42基建てられていて、歴史的には、新しい石塔になります。

門前には、廻国供養塔も2基あります。

廻国塔は、法華経を全国六十六か所の霊場に納めるために廻国し、その目的達成を記念する石塔。

2基の内、左がこの目的達成記念廻国塔。

右は、旅をして回る六十六部行者に宿を提供するなどした援助者の記録。

「五千人供養」は、五千人宿泊させたという意味。

「百番巡礼」の文字があるが、これは西国、坂東、秩父百観音霊場のこと。

船橋宿の通過は、坂東二十九番千葉寺、二十八番滑川観音と十三番浅草寺との往還か。

 境内には、ミニ四国八十八か所が設けられています。

中央の弘法大師をぐるっと回るように石畳の道が敷かれ、その石の一つ一つに書かれている数字が札所の番号で、これを踏んで回ればお砂踏みをしたことになる、というシステム。

 

大覚院の先、塘路の右の小路を入ると「入日神社入口」の看板が。

◇入日神社(海神3-7-8)

「入日神社」とは、また、優雅な名前だが、実はこの神社は、船橋大神宮(意富比(おほひ)神社)の元宮で東の意富比(おほひ=大日)に対して、西の入日神社と云われています。

なんとヤマトタケル東征伝説とも関わりがあって、船橋の沖合で苦戦していた尊が、舟に八咫鏡そっくりの鏡を見つけ、勇気百倍忽ち賊を討つことができたので、この鏡をこの入日神社に奉納した。鏡は、後に意富比(船橋大神宮)に移したから、意富比神宮の元宮は、入日神社だということになるというお話。

だからか、句碑が1基あって、句頭に「意富比神社」を、句末に作者の俳名「秋身庵光年」を読み込んだ、ちょっと風変わりで、凝った句碑です。

意富比神社を    に叶ふ月を迎ふや里の
冠り吾が俳号を   貴さは花の余徳か桜の
踏み四季の五章   隣みな羽子の睦みや松の
に赤心を表わして  前の冴や御留守も灯の
          篭りのかかりのあとや去年今

最近、ボケを自覚するのは、地図を見て目的地を探せない時。

若い時にはなかったことが、しばしば起きるのです。

次の念仏堂も地図だけでは到達できず、3人もの人に聞いてやっとたどり着いた始末。(6000字)

◇浄土宗・念仏堂(海神1-17-16)

念仏堂への道の左側に石仏群。

なぜか阿弥陀さんよりお地蔵さんが、圧倒的に多い。

一番手前は、宝永六年(1709)の地蔵座像。

その隣の延命地蔵2体は、両方とも享保4年(1719)の造立。

持参資料によれば、六地蔵のうちの2体だそうで、仲間の3体は、次に寄る地蔵院にあるのだとか。

お堂は、二つあって、念仏堂は奥。

手前のお堂は、観音堂。

その観音堂の前にあるのが、市内最古の道標。

元禄7年(1694)の駒形道標で、行徳街道が成田街道に合流する三叉路に立っていたが、道路拡張でここに移転されたもの。

刻字は読めないので、説明板の写真を載せておきます。

 ◇真言宗豊山派・勝軍山地蔵院(海神1-21-22)

墓地への入口の右、本堂前の一画に石仏が集められている。

十九夜塔が2基。

いずれも「女人講」の文字が読み取れる。

後列で窮屈そうに身を縮めている宝篋印塔は、元文3年(1739)のもの。

念仏堂にあった六地蔵の残りの3体を探すが見つけられなかった。

どうでもいいことですが、ちょっと気がかりです。

 

次回更新日は、12月11日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー5-(船橋市「京成中山駅」-「京成西船橋駅」)

2016-12-01 06:29:22 | 街道

法華経寺の参道から国道14号(千葉街道=成田街道)に出て、左折。

100mも行かないで稲荷神社入口の看板がある。

◇稲荷神社(船橋市本中山1-2-16)

週末の祭礼の準備で氏子が10人ほど忙しそうに動いている。

境内裏の「狐塚」は、大正5年、京成線が船橋まで延長したことで、電車に轢かれて死んだ狐の霊を慰めるものだそうです。

死を悼んでというより、祟りを怖れてのことでしょうか。

柵の向こうに線路が見えます。

◇日蓮宗宝珠山多聞寺(船橋市東中山15-13)

新しい慈母観音以外、これといった石造物はない。

説明板があり、「昔、日蓮聖人が船出をしていった二子ケ浦という由緒ある地に建立された寺」と書いてある。

山門から見下ろすと国道の向こうに池が見える。

しかし、この池は「双子藤の池」で、「双子浦の池」は100mほど東にある。

◇二子浦の池(東中山1-330-2)

柵の向こうは雑草がはびこって、全景は見えないが、大した広さでないことは判る。

日蓮が鎌倉へここから船出をした、というが、現状からは想像もできない。

ここから先は海だったのだろうか。

文化7年(1810)の『葛飾志略』には「昔はここから行徳の堀江村まで渡し舟があり、また鎌倉まで出勤する武士の船路であった」と書かれている。

その鎌倉への船上で、富木常忍は日蓮と会った、ということになります。

◇路傍の庚申塔(東中山1-5)

羽黒神社への道の角に庚申塔が立っている。

庚申塔の右側に「日月は水明の如し」、左に「能く諸の幽明を除く」と刻まれています。

造立は、文政六年(1823)。

台石にいくつもの盃状穴を見つけて、嬉しくなる。

成田街道沿いでは、これが2か所目。(*1か所目は、「126成田街道の石造物ー3-」の胡録神社の項をご覧ください)

◇浄土宗・薬王山東明寺(東中山1-1-8)

門前の石塔に掘られた「行基菩薩作 部田(へた)薬師如来」は、本尊。

墓地に寛文4年(1664)の地蔵墓標がある。

やがて道は、中山競馬場への道と交差する。

交差点を過ぎると葛飾神社が左に。

◇葛飾神社(西船5-3-8)

この神社は、大正5年(1916)、西船6丁目の葛羅の井付近から移転してきた。

移転後の御神体は、熊野大神など3神ですが、移転前は葛羅の井そのものがご神体でした。

道標が2基ある。

1基は「是よりかつしか大明神」と刻んだ角柱。

もう1基は高い円柱で「一郡惣社葛飾大明神道/従是一町余」と刻されています。

この道標は、千葉街道にあったものをここに移転してきたもの。

神社の東隣は、勝間多公園。

◇勝間田公園(西船5-2)

勝間田公園は、その昔、勝間田の池という溜池でした。

昭和44年(1969)、池は埋め立てられますが、公園の隅に池の痕跡を残しています。

句碑と歌碑が1基ずつ。

まず句碑から。

「秋刀魚焼く 羅漢のごとき 吾が貌みよ」。

俳人・田中牛次郎は『千葉日報』の選者。

自然石の歌碑には

「しげやまの尾根をはひゆく
 雲見れば晴れたるかたに
 移りつつあり 松平」

家人・松平公平は、県立船橋高校の教諭。

勝間田公園のすぐ東、京成西船駅に向かう道の三叉路に石造物が囲われてある。

◇路傍の庚申塔と道標(西船4-16-8)

中央の庚申塔は寛政12年(1800)に造立。

台石に「是よりかまかや道」と彫られています。

これは燈籠だろうか。

下に三猿がいるので、庚申塔でもあるようだ。

細長い角柱には「無線電信所道」とあり、大正6年、行田に建てられた無線電信所への道標。

この無線電信所から、真珠湾攻撃の暗号「ニイタカヤマノボレ」が打電されました。

ここから国道14号を離れて、北上、葛羅の井へ。

途中、京成線を渡った先にある宝成寺に立ち寄る。

◇曹洞宗・茂春山宝成(ほうじょう)寺(西船6-2-30)

本堂に向かって左に石造物群。

地蔵立像の手、指が大きい。

地元の石工の作品か。

一方、無縁塔の中央奥に坐す如意輪観音や地蔵は江戸石工の手になるものと思われる。

墓地にある巨大な墓石は、当地栗原地方の藩主成瀬家の墓で、千葉県最大。

宝成寺の「成」は、成瀬からとったものという。

 

宝成寺からさらに北上すると右手の大木の下にあるのが、葛羅の井。

◇葛羅の井(西船6-174-1)

先に取り上げた葛飾神宮は、かつてここにあった。

葛飾大明神の御神体は、遊水池そのもの。

今はまるで個人の庭先にあるかのように見える。

どんな日照りでも枯れず、井戸さらいをすれば必ず雨が降るので「雨乞いの井戸」とも呼ばれました。

寛延2年(1749)の『葛飾記』には、次のように書かれています。

「神社は大社ではない。社地は唐竹の藪である。藪の中に葛の井という井戸があり、この水を飲めば瘧(マラリアの類)はたちどころに癒えるという。また、俗にこの井は、竜宮まで抜け透っているという」。

池の辺にひざ丈くらいの石塔があって、「葛羅之井」と彫られています。

側面の碑文は蜀山人が書いたもの。

原文は漢文だが、書き下し文は次の通り。

「下総の勝鹿(葛飾)、郷は栗原に隷(つ)く、神は瓊杵(にぎ)を祀り、地は醴泉(れいせん)、を出す。豊姫が鑑とする所は、神龍の淵なり。大旱にも涸れず、湛えてこれ円(まどか)なり。名づけて葛羅という。たえざること連綿たり」。

永井荷風が、昭和21年(1946)から市川や八幡に住んでいたことは、先述しましたが、この辺りも荷風の散歩道で、彼が『葛飾土産』でここ葛羅の井を紹介したため、顧みられることなく、放置されていた名所が甦った、と船橋市教委の説明板にはあります。

作家の文章の一行が名所を蘇らす、なんて、昔の作家の影響力の大きさに驚いてしまいます。

次回更新日は、12月06日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html