石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

63 上州の閻魔と奪衣婆

2013-09-16 06:27:43 | 民間信仰

思い込みは、困ったものだ。

一度思い込んだら、訂正されることは、まず、ない。

「上州には、閻魔・奪衣婆が多い」。

私の思い込みの、これがその一つ。

多いことは確かなのだが、日本の他地域に比べてダントツに多いかは分からない。

ま、そう思い込んだからと云って、誰に迷惑がかかるわけではなし、どうでもいいことではあるが・・・

思い込みには、きっかけがあった。

3年前の初冬、沼田市から川場村の石仏めぐりをした時、墓地の入り口両側に座す閻魔と奪衣婆をしばしば目にしたのです。

閻魔と奪衣婆が並んで座している姿ばかり見てきた私には、この相対するポジショニングはすごく新鮮でした。

 

                  万福寺(沼田市佐山町)の閻魔(左)と奪衣婆

 それはまるで、そこからが他界であるかのような錯覚を抱かせるのに十分でした。

昔の人には、錯覚どころではなかったに違いありません。

着衣をはく奪され、地獄行きを命じられるその恐怖が、品行方正であろうとする原動力になったはずです。

だからといって、上州人がとりわけ道徳的であるとは聞かないから、私の思い込みは不正解なのだろうか。

その昔、明治、大正といわず、昭和に入っても、日本のそれぞれの集落には、閻魔堂や十王堂、地獄堂などがあった。

今ではほとんどなくなっているか、あっても朽ち果てて、見捨てられてしまっています。

辛うじて、石造物の閻魔や奪衣婆だけがその命を長らえているだけです。

ここで冒頭の思い込み「上州には、閻魔・奪衣婆が多い」を「上州には、野仏の閻魔・奪衣婆が多い」に訂正。

東京の閻魔堂はコンクリート造りで朽ち果てなかったのですが、堂内の閻魔・奪衣婆は目に触れる機会がなく、その存在に気付かないのが普通です。

閻魔・奪衣婆に接する機会の減少とともに人々の地獄観も希薄になり、わずかに「試験地獄」や「ウソをつくと閻魔さまに舌を抜かれる」という言葉が残っているくらいです。

 

では、地獄とは何か。

地獄は極楽の対極に位置し、その思想は平安時代末期、浄土宗により説かれました。

世の中の乱れ、人心の不安の拡大がその背景にあったと言われています。

ベースになったテキストは『地蔵十王経』。

文盲の庶民は、盆や施餓鬼で寺に掲げられた「地獄変相図」を見ることで地獄を知りました。

 

地獄とは何かの前に、『地蔵十王経』に描かれた冥界ガイドを紹介しましよう。

死者はまず死出の山を越えなければならない。

険しい死出の山を越えるとぶつかるのが、三途の川。

三途の川を渡ると、そこには奪衣婆が待ち構えていて、死装束を脱がせられる。

奪衣婆はその衣装を衣領樹(いりょうじゅ)にかける。

枝の垂れ下がり具合で、死者の生前の悪業の軽重が分かる樹木なのだ。

生前の悪業は、次の閻魔庁でも明らかになる。

浄玻璃(じょうはり)鏡に悪業が全部映しだされてしまうからです。

閻魔庁には、この他、悪業を測定する人頭杖や業の秤もあります。

(*上の地獄変相図には全部描かれているので、よくご覧ください)

これをもとに、閻魔大王は、亡者の次の行き先を宣告することになる。

次の行き先とは、生まれ変わるべき世界。

それは六道といわれ、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの世界。

ここで初めて地獄が出てくるが、もう少し冥界話を続けよう。

これまでのプロセスでは、閻魔と奪衣婆しか登場していないが、実は冥界には閻魔の他に9人(?)の判官がいて、これを十王と言います。。

十王は、初七日から三周忌まで、日を決めて亡者の罪業の裁きにあたります。

初七日の担当は、泰広王。

泰広王は三途の川の手前にいるので、支出の旅に出て、亡者が初めて出会う判官です。

この泰広王によって裁かれるのはごくわずか、生前、極善か極悪の亡者だけ、中善、中悪の大多数はすぐには次生が決りません。

『地蔵十王経』では、死亡後まだ次の世の行き先が決まらない期間を「中有(ちゅうう)」と言い、初七日から七日ごとに、二七日(14日)、三七日(21日)、四七日(28日)、五七日(35日)、六七日(42日)、七七日(49日)、百か日、一周忌、三周忌と10回にわたり、10王が次生の審断を下します。

ちなみに閻魔王は、五七日が担当日。

最初の頃、「中有」は、七七、49日でした。

それが三周忌まで伸びたのには、人間臭い理由があるのですが、それについては、後述します。

では、いよいよ地獄の話へ。

源信の『往生要集』では、八大地獄があることになっています。

等活・黒縄(こくじよう)・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間(むげん)の八大地獄。

この地獄一つ一つに触れはしませんが、一つだけ重要な事があります。

それは、地獄の責め苦は、繰り返されること。

責め苦で悶死したものは再び蘇生し、同じ責め苦を受ける。

これが成仏するまで無限に繰り返されるのです。

では、亡者を成仏させるにはどうするか。

それには、「地獄の沙汰も金次第」の事情があるのですが、これも後で述べることにします。

以上が冥界と地獄の基本知識。

これを踏まえて、上州の閻魔と奪衣婆を見てゆきましょう。

 

まずは、十王。

いつの頃からか閻魔と奪衣婆だけになってしまったが、元々は十王が揃ってワンセットのものでした。

十王堂などで保存されてきたならともかく、野ざらしの場合は10体揃っていることは、今や珍しい。

東吾妻町植栗の十王は10体あって、揃った十王のように見えます。

しかし、よく見ると、前列向かって左は奪衣婆だし、中央の石仏は顔が二面あります。

 

      奪衣婆                二面人頭杖

これは、人頭杖、別名檀拏幢(だんだどう)でしょう。

人頭杖は、閻魔が亡者を裁くのに使う道具。

蓮台の上に男女の顔が乗っていて、亡者が重罪ならば男が口から火を吹き、無罪ならば女が芳香を放つといわれています。

 

 教学院(練馬)の檀拏幢(だんだどう)

上の左の写真のように頭が二つあるのが普通で、植栗の人頭杖は大胆な省略が、見事な造形を創出しています。

 

人頭杖は、富岡市下黒岩砂田の墓地にもあります。

墓地の奥の石仏の列の左端に 危なかしげに台石に乗っています。

一見、獄門首かと思ってぎょっとする。

 

手前に人頭杖、一つ置いて司録、閻魔、司命。最奥に奪衣婆。

その右手には、閻魔の両側に司録と司命が侍っています。

司録と司命は、閻魔庁の書記官です。

 司録       閻魔          司命

列の最右翼には奪衣婆。

司録や司命、それに奪衣婆は判官ではありません。

閻魔以外の十王は、ここにはいないようです。

皺の下に大きく開いた口から飛び出た2本の歯が奪衣婆の怖さを強調しています。

頭陀袋のような垂れ乳が面白い。

 

前橋市の集香寺へは、閻魔の罪業測定器が揃っているというので、行ってきました。

      集香寺(前橋市)

境内の一隅に3種の罪業測定器がまとめてあります。

左から、浄玻瑠鏡、人頭杖それに業(ごう)の秤。

  

業の秤は、生前、悪業を重ねた亡者が乗ると天秤の片側の大石が羽のように跳ね上がるという秤。

業の秤を『日本石仏図典』で調べていたら、浄玻璃鏡とセットの場合がほとんどで、秤単独例は佐渡の岩屋山洞窟のものだけとの記述がありました。

 岩屋山洞窟(佐渡市宿根木)

岩屋山洞窟には何度も行ったことのある佐渡出身者としては、放っておけない。

業の秤があることなど聞いたことはないが、、もしやと写真フアイルをチェックしたら、あった。

左が、業の秤、右が、人頭杖。

洞窟の中は暗いので、普通はライティングをきちんとしないと撮れない。

たまたま、入口ちかくだったので、ラッキーにも写真が撮れたのですが、それでも感度を上げ過ぎて不自然な写真になっています。。

集香寺を去ろうとして何気なく無縁塔を見たら、上段の五輪塔の背後に十王らしきものが見える。

石段を上って近寄って見る。

1基の奪衣婆と5基の十王がいる。

 

  左の2基 一番左は奪衣婆                 中の2基

      右の3基

閻魔もいるのだろうが、はっきりしない。

左の3体は、石材が違うようだ。

ということは、少なくとも3か所から運ばれてきた十王ということになる。

それでもこうして保存されているのだから、よしとしなければならないだろう。

取り壊され、廃棄物として捨てられるか、土に埋められるか、大半はそうした運命をたどったのですから。

 

上州の十王で私のイチ押しは、渋川市旧子持村中郷の個人墓地に並ぶ十王。

 

 墓地と畑の間を下半身を地面に埋めたまま十王が整然と並んでいます。

左端は、浄玻璃鏡。

十王の顔はほぼ同じ、目じりがつりあがり、口は横一文字の怒り顔。

向かって右、8体目の隣は写っていませんが、下の写真のように奪衣婆と閻魔がいます。

「何かに似ているな、この奪衣婆は」。

 

石工は、奪衣婆が垂乳であることは熟知していたはずです。

でも、あえて、そうはしなかった。

腕と膝は、まるでロボットみたい。

目は縄文土偶を想起させて、素晴らしい逸品。

どこかの美術館で大勢の人に見てもらいたいものです。

 

次に閻魔と奪衣婆。

上州だけの風習なのか、どこでもそうなのか、少なくとも東京周辺では見かけない、閻魔と奪衣婆が向き合った姿から。

  

    墓地(川場村仲村)

ひどい写真ですみません。

墓地の入口の石段の上、両側に閻魔と奪衣婆が座している。

これが典型例。

 

  岩屋堂(沼田市佐山町)

この岩屋堂への石段両側の閻魔と奪衣婆は、今月(12013-09-01)に撮影したもの。

車で通りかかって気がついたので停車し、撮影したが、カメラを覗きながら「?」。

3年前の11月、同じアングルで撮っていたのでした。 

 

レンズを左に向けると銀杏の葉の絨毯。

美しいので、おまけとして、載せておきます。

 

       龍谷寺(みなかみ市月夜野師)            林昌寺(中之条市)

龍谷寺も林昌寺も閻魔舐めの奪衣婆との2ショット。

閻魔の頭の先に小さく奪衣婆が見えます。

次の東善寺では、石段の上の両側は同じですが、向きが違います。

    東善寺(高崎市旧倉淵村)

相対せず、両者、前を向いています。

これは、次からの横並びスタイルへの移行型というか、相対型と横並び型の中間スタイルといえるでしょう。

 

  三福寺(東吾妻町大柏木)          大運寺(東吾妻町大戸)

 

   桂昌寺(川場村)                  空恵寺(渋川市上白川)

相対型と横並び型の共通点は、向かって右に閻魔、左に奪衣婆という坐り位置。

 

これは現在のひな壇の男雛、女雛の並び方とは反対ですが、江戸時代以前のひな壇の古式スタイルは向かって右が男雛、左が女雛だったそうで、共通した思想がありそうです。

勿論、例外もあります。

 

  長広寺(沼田市)                路傍(高崎市旧倉淵村)

民間信仰に、多数、少数はあっても、正解、不正解はないでしょうから、これもまた、OK。

上の右の写真は、旧倉淵村を走っていたら石仏の頭だけがちらと見えたので、停車して撮ったもの。

背丈を越す夏草に覆われて近寄るのが大変。

石塔も庚申塔や念仏供養塔で、墓標ではない。

寺の跡地にしては狭いし、墓地ではなさそうだ。

近くで農作業をしている老人に訊いて見た。

土葬の時代、ここには土葬に必要な道具を置いておく小屋があったのだそうだ。

なるほど、だから閻魔と奪衣婆がおわすのだと納得。

 

 今回のテーマを「閻魔と奪衣婆」にしたのには、個人的な事情があります。

私は、大学の社会人向け講座を毎年受講していますが、今年、選択したのは『日本霊異記』。

日本最古の仏教説話集で、勧善懲悪のストーリーに満ちています。

当然、地獄話も豊富で、閻魔も常連の登場者。

石仏巡りも、ついつい、冥界関係者に偏るのも無理からぬというものです。

その『日本霊異記』(中)に次のような話があります。

第24話「閻羅王の使の鬼の、召さるる人の賂(まひなひ)を得て許しし縁」。

閻魔王の命を受け、ある男を召しとらえに来た鬼が、その男の差し出した牛を食べて空腹を満たした。鬼はご馳走になったお礼に男と同じ齢の別の男を召しとらえて冥界にもどった、という話。

引き続き、第25話「閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報いし縁」という、召されるのは女性ですが、まったく同じ話が載っています。

つまり、冥界では賄賂が効くのです。

品行方正でなければ、閻魔により地獄行きを宣告されること必至の冥界にあって、賄賂OKとは不思議な話ですが、どうやらこの時代、賄賂は罪悪ではなかったようなのです。

「地獄の沙汰も金次第」ですから、地獄の責め苦にあえぐ亡者の成仏も、結局、支払う金額に左右されることになります。

亡者は、お金を持っていないので、支払えない。

では誰が、誰に。

亡者の家族が追善供養として寺に支払うのです。

死亡後、次の世界への行き先が決まらない期間を「中有」ということは、先に述べました。

「中有」の期間を短くし、しかも地獄ではなく、極楽往生するのには、現世の人たちによる追善供養が不可欠だという論理がいつの頃からか、構築されてきます。

困ったことに、成仏できる追善供養の程度は不明のままです。

全ては生者の気持ち次第、というのですから始末が悪い。

七七日(49日)だったはずの「中有」が、百か日になり、一周忌、三周忌まで延長されたのも必然でした。

「まだまだ成仏してないようですよ」と言われれば、家族は供養を重ねるしかありません。

「坊主丸儲け」とは、まさにこのことでしょう。

「坊主丸儲け」に「七分全得」理論が更に拍車をかけました。

追善供養は亡者より生者を大きく利得する行為だ、と説かれ始めます。

「地蔵菩薩本願経」には、追善供養の功徳は、亡者が七分の一、供養した生者が七分の六受け取ると書いてあるというのです。

こうして、生きているうちに自分の追善供養をするという奇妙奇天烈なブームが巻き起こりました。

「逆修」ブームがこれです。

 慈光寺(埼玉県ときがわ町)の逆修板碑

関東の板碑の大半は、逆修だそうですから、「よくぞ坊主に生まれけり」。

思いがけない不労所得に、笑いが止まらなかったことでしょう。

 

造形的には、圧倒的に奪衣婆の方が面白いのだが、なんと云っても閻魔は主役だから、まずは閻魔大王から。

『地蔵十王経』は仏教に、道教と神道を加味してあると言われてます。

特に道教の影響が強くて、それは十王の服に現れています。

    延命寺(板橋区)

これは道教の修行者が着る道服というものです。

頭には末広がりの王冠。

王と書かれていることが多いようです。

眉をあげ、眼を大きく、口を開いて怒っている顔が普通。

右手に笏を持っているか、両手で笏を捧げている。

足は結跏趺坐をしています。

閻魔と他の9人の王との区別はないようです。

石仏の場合は特に見わけがつきにくいので、判別は諦めた方がいい。

では、上州の恐い閻魔ベスト6。

恐いけど可愛いのは、どれ?

  

    東善寺(高崎市旧倉淵村)              大運寺(東吾妻町)  

 

      三福寺(東吾妻町)            玄棟院(渋川市旧子持村) 手が逆

 

   路傍(高崎市旧倉淵村)               長広寺(沼田市)

最後に変わり閻魔を一つ。

  延命寺(川場村)

ピンボケのこの閻魔さまは、庚申塔の主尊。

三猿はいませんが、これは閻魔庚申塔なのです。

 

そして、いよいよ、奪衣婆編。

仏像には、儀軌というお手本がある。

十王に儀軌があっても不思議ではない。

それぞれが似通っているからです。

しかし、奪衣婆に儀軌があるかは疑わしい。

像容があまりに違いすぎるのです。

奪衣婆であることの必要条件は、長い髪と垂れ乳それに立て膝。

片膝を立てるのは、昔のお産スタイルでした。

ですから奪衣婆を安産・子安祈願の神とする地方は、今も、少なくありません。

いずれにしても、奪衣婆ほど、石工が自由な発想で造形できる石造物は少ないでしょう。

あなたが選ぶ、こわ可愛い奪衣婆は、どれ?

 

    角地蔵(みどり市)                 空恵寺(渋川市)

 

 桂昌寺(川場村)             三福寺(東吾妻町)

 

  大運寺(東吾妻町)            長広寺(沼田市)

 

    長広寺(沼田市)             東善寺(高崎市旧倉淵村) 

            

  墓地(富岡市)         路傍(高崎市旧倉淵町) 背後の木は亡者の衣をかける衣領樹か

 

これらの奪衣婆を見て、恐さよりもユーモラスを感じる人の方が多いのではないだろうか。

三途の川の別名は、葬頭河(そうづか)。

「そうづかの婆さん」は「しょーづかの婆さん」になって、おどろおどろしさを失い、いつしか、風邪を治し、咳を止める神様になって行きます。 

上州にもそうした男女神がいます。

人呼んで「味噌なめじじいと味噌なめ婆あ」。

 

 吉祥寺(川場村)の味噌なめじじい(閻魔)と味噌なめばばあ(奪衣婆)

口の周りに味噌をぬれば、歯痛や風邪が治る と言われています。

 天桂寺(沼田市)の味噌なめじじいとばばあ

もともとは閻魔と奪衣婆でした。

それが、冥界の主というよりは、そこらで野良仕事に精出している老夫婦の風情になってしまった。

そして、いつしか、世は地獄を知らない人ばかりになった。

知らなければ恐がらない。

追善供養など誰もしなくなった。

そもそも追善供養という言葉を知らないのだから、話にならない。

地獄の沙汰もカネ次第と坊主丸儲けを図った壮大な計画も、かくして頓挫する結果となった。

めでたし、めでたし。 

               


62 石で知る江戸城②外濠を歩く(赤坂見附ー新橋ー数寄屋橋ー呉服橋)

2013-09-01 15:28:49 | 石で知る江戸城

前回は、水道橋から飯田橋、四ツ谷、赤坂見附と外濠を反時計回りに廻りました。

今回は、その続き。

スタートは赤坂見附です。

          赤坂見附

 

地震の度に液状化現象が騒がれます。。

「東京に大地震がきたら、溜池界隈のビルは横倒しになるだろう」、そんな言葉がテレビから流れていたのを覚えています。

古地図を見ながら、「そうだよな」と呟いてしまう。

 

思いがけない幅の広がりで、「溜池」が 赤坂見附から東へと台地の下に横たわっています。

埋めたとしても地盤は軟弱で、湿地帯だから液状化は免れないでしょう。。

溜池は、江戸初期、外濠兼用の上水源として造られたものでした。

東端の、溜池(現在の地名)で堰となって外濠に水が流れ落ちていました。

その流れ落ちる水音が大きくて、「赤坂のドンドン」と呼ばれていたということです。

 

上の緑色の地図を見てください。

溜池落とし口を流れ落ちた水は、すぐに左へ、そして右へとほぼ直角に流れを変えてゆきます。

この辺りは虎ノ門になりますが、ここには外濠遺跡が3か所残されています。

その1か所は、文化庁がある文部科学省の敷地。(地図では、赤丸の現在地)

文化財保護・保存の総本山の足元だけに、外濠遺跡の展示と説明には目を見張る素晴らしさがあります。

その説明に従って遺跡を見てゆきましょう。

まず、最初の曲がり角には、櫓(やぐら)台がありました。

現在は三井ビルの前の緑地帯にある石垣がその一部。

 

櫓の代わりに霞が関ビルがそそり立っています。

外濠の隅櫓は、筋違橋門と浅草橋門、それにここ虎ノ門の3か所にありました。

いずれも奥州街道、中山道、東海道に面していて、江戸城防備の要衝でした。

櫓台は外濠の内側にありました。

図では、左下の赤い点がその場所です。

櫓台の前の空き地が外濠を表現しているのですが、実際はもっと幅が広いものでした。

三井ビル全体がすっぽり入る位の幅があったのです。

もう一度、一つ前の復元図を見てください。

復元図では、一番下が櫓台、次が教育会館虎ノ門ホール前の石垣、三番目が地下鉄「虎の門駅」展示室前の石垣、四番目が文科省中庭の石垣と外濠に面して一直線に並んでいます。

上は、国立教育会館虎ノ門ホール前の石垣。

道路の向こうのビルは三井ビルで、歩道橋の端の下に櫓台があります。

ビルの前の茂みの下です。

櫓台が虎ノ門ホール前の石垣の延長線上にあることがよく分かります。

この石垣の前に外濠の水面があったことを想像してください。

で、その水面は、地面より高いですか、それとも、低いでしょうか。

その答えは、地下鉄「虎ノ門駅」の外堀跡地下展示室で確かめることができます。

展示室は、11番出口のエレベーター坑の背後にあって、左の階段を上ってゆきます。

展示室の外に石垣があるのがガラス越しに見えます。

面白いのは、ガラス面の下面が濠の水面になるように設定されていること。

しゃがんで水面から見上げれば、ミズスマシやゲンゴロウの目線で石垣を見ることになるのです。

発掘、復元された石垣の高さは7.4mですが、実際には9m程度はあったと思われています。

矢羽の刻印は、豊後佐伯藩毛利高直の印。

この個所が豊後佐伯藩の担当区域だったことを示しています。

展示室には大きなパネルが3枚。

外濠の歴史、石垣建設の技術、虎ノ門の石垣遺跡について、丁寧に説明しています。

石垣普請に先立っての、伊豆での石切りや石の運搬、船による輸送などの諸相も線画で見ることができます。

 

       石持棒による運搬                   石の加工

     修羅による大石の運搬

展示室から地上に出て右へ、文科省の中庭に、また石垣があります。

中庭の一角を掘り下げて、長さ35m、高さ4.5mの石垣の観察スペースが設けられています。

 

 

この写真では石垣の右手がお濠だったことになりますが、そちら側には「江戸城外堀跡の発掘調査」の全容が提示され、遺跡の保護と展示の模範形を見る思いです。

 

文科省の中庭を横切って右折すると国道1号にぶつかります。

外濠は国道を渡り、右の日土地ビルの下を東に流れていました。

  左、郵政ビル   右、日土地ビル

千代田区と港区の区境も外濠の跡に沿っています。

古地図では、途中でちょっと外濠が左に曲がり、また東へと伸びています。

この屈曲は、現在でも同じ。

右に大同ビルを見て進んで行くと、東京桜田ビルにぶつかります。

ぶつかって、左に少し曲がり、また東進することになるのですが、これは古地図そっくりの曲がりです。

当然、区の境界線も曲がっています。

こうした曲折はもちろん意図的に設けられました。

濠の向こうからの敵に対して、側面から砲撃できるからです。

この東京桜田ビルの隣は、場外馬券場があるJRA本部の建物ですが、このビルの建設中に出土した外濠の石垣が世田谷区の馬事公苑に復元されています。

 

    ウインズ新橋             馬事公苑に移築された出土した石垣

ウインズ新橋の先の日比谷セントラルビルにも、小規模ながら石垣が保存されています。

  日比谷セントラルビルの保存石垣

廃棄された石垣に比べれば、ほんのわずかですが、ビル街で「江戸時代」に遭遇するのは楽しいことです。

石垣保存に努力した関係者に拍手。

第一ホテルの地下を通って、外濠は、幸橋で二手に分かれていました。

ん。

 一筋は直進して、浜離宮へ。

ここから先は、外濠ではありますが、汐留川と呼ばれていました。

もう一筋は、幸橋から左折、北方向の数寄屋橋門、呉服橋門へと向かってゆきます。

 

これは幸橋御門。

手前が幸橋です。

普請を命じられたのは、熊本藩細川忠利。

藩主は、寛永12年(1635)秋、普請衆を熊本から江戸に向かわせます。

約半月後には江戸についていますから信じられない徒歩力。

普請は翌寛永13年正月に開始され、40日で完成をみます。

土橋も同時並行で造られました。

 

今、幸橋の痕跡は皆無。

ただ、JR高架橋にその名を残すのみです。

 

では、直進して浜離宮方向へ進みましょう。

ガードをくぐると左手に、土橋。

 

信号や交番、高速入り口に「土橋」の名はありますが、土橋そのものはありません。

「土橋はどこらあたりか」と質問しても、交番のお巡りさんは困惑するばかり。

汐留川の跡をたどるのは簡単、高速道路の下を行けばよい。

まもなく新橋。

土橋より新しい橋だから「あたらし橋」。

汐留川から新橋を望む(明治32年・1900)

ここには、芝口御門という門がありました。

幕府の威信を朝鮮特使に見せつけるために造られた枡形門でしたが、わずか15年で焼失、再建されませんでした。

享保年間のことです。

だから高速道路沿い北側の道は「御門通り」です。

 高速道路沿いに行くと浜御殿(今の浜離宮)に着く。

 

写真の左が汐留川、正面が枡形門。

右の写真、橋の下東に伸びるのが築地川です。

36見附最大の枡形門は、今も健在。

現在、汐留川は暗渠となっていますが、ここ浜離宮の橋の前で流れ出ています。

写真右の開口個所がそれ。

そして、奥の方狭くなって、汐留川は流れてゆきます。

昔の姿はどこにもありません。

むしろ築地川の方が広々と往時を偲ばせています。

 

再び、第一ホテル前まで戻って、二手に分かれたもう一筋の外濠を数寄屋橋方向にたどって行きましょう。

右側の高架にはJR線とその横には高速道路が走っています。

 

その下は、かつては外濠でした。

線路の向こうの濠は、戦後まで残っていました。

都心の高速道路のほとんどは外濠跡にありますが、これは東京大空襲で出た残骸の捨て場所として外濠が利用され、その埋立地の上に高速道路が建設されたものです。

第一ホテル前を北へ、最初の高架をくぐると「新幸橋」の碑があります。

ここはコリドー街ですが、その通りの裏に車も通れる空間が沈んでいます。

その佇まいはまるで川底の様、外濠の底なのでしょう。

誰かに聞いて見たくてもすれ違う人は皆無。

銀座のど真ん中の怪しい異空間です。

その異空間通路が上りつめた所が山下橋ガード。

昔は山下門があった場所です。

左の幸橋からきた外濠は、この山下橋で左右に分かれます。

地図で上方に向かうと日比谷見附へ。

右下の北方角は数寄屋橋門へと向かっています。

写真は大正時代、泰明小学校から撮影したもの。

外濠にかかっているのが山下橋。

列車の後ろが帝国ホテル。

高架をくぐって直進すると、今の日比谷公園にぶつかります。

上の写真は、反対側の日比谷公園から見た山下橋方向の光景。

右が帝国ホテル、左が宝塚劇場です。

ここから90度レンズを振ったのが、下の写真。

横断歩道のラインあたりから濠は左折、日比谷公園の中へと入っていってました。

  日比谷公園の心字池

日比谷公園の「心字池」とその東側の石垣は、昔の外濠そのまま。

石垣のはずれは、日比谷見附。

 

枡形門の石垣の上から皇居を望めば、内濠はすぐそこ、手の届きそうな感じです。

 

山下橋へ戻って、今度は数寄屋橋方向へ。

JR線と高速道路の間の狭い道を入って行きます。

有楽町ー新橋間の高架鉄道が開通したのは、明治43年。

この写真は、開通直後のもの。

左が帝国ホテル、右前方が山下橋です。

この赤レンガ高架橋脚は、なんと今でも残っているのです。

逆方向からのショット。

左が高速道路、正面が帝国ホテル。

右の赤レンガはJR線高架橋脚です。

振り返れば、そこが数寄屋橋。

数寄屋橋といえば「君の名は」。

作者菊田一夫の「数寄屋橋ここにあり」の碑が数寄屋橋公園にあります。

 

「君の名は」は、私の中学生時代の放送です。

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」の冒頭ナレーションは、忘れえません。

放送中、女湯はガラガラになると言われ、まちこ巻が一躍、流行ファッションとなりました。

主人公の真知子と春樹が再会を約束した数寄屋橋は、帝劇と朝日新聞の前にありました。

 朝日新聞社は今のマリオン。

外濠の形に高速道路が走っているのが、よく分かります。

東京はどこも激しく変貌してきました。

数寄屋橋界隈はその最たるものの一か所。

昔の面影は微塵もありませんが、晴海通りの立体交差道路の壁に昔の数寄屋橋の写真が嵌めこんであります。

毎日、何十万人と行き交う通行人で、この写真に気付いて、立ち止まって見る人は何人いるのでしょうか。

私がいた30分間では、ひとりも見かけませんでした。

写真は風雨にさらされ、ドロがついて汚れたまま。

洗う人もなく、放置されています。

なにか物悲しい風景です。

 

数寄屋橋公園から晴海通りを渡り、首都高速沿いに外堀通りを行くと鍛冶橋通りと交差します。

写真では手前に横切るのが外堀通り。

右の青と白のバスが走っているのが鍛冶橋通り。

中央向こうに横たわるのが東京国際フォーラムです。

国際フォーラムは、西新宿に移転する前の都庁舎跡地に建っています。

鍛冶橋で思い出しましたが、私が民放テレビの新人として配属されたのが、都庁の鍛冶橋クラブ。

東京オリンピック開催でてんやわんやの喧騒を、おろおろと眺めているばかりの無能記者でした。

鍛冶橋が歴史ある御門の跡地だとは知らず、変わったクラブ名だな、と思っていたものです。

 

今、鍛冶橋はある人たちに有名な遺跡のあった場所になっています。

ある人たちと云うのは、江戸城や外濠などに興味を抱く人たち。

鍛冶橋の北側パシフイックセンチュリープレイスの建設工事で、外濠の石垣が170メートルにわたって発掘されました。

古地図では、松平三河守上屋敷あたり。

 

 写真は、「考古歴史紀行」http://homepage1.nifty.com/rekisi-iv/index.htmより借用

丸の内一丁目遺跡と名付けられ、出土した石垣は、現在、小石川後楽園の築地塀に再利用されています。

その模様は、このブログNO59「石で知る江戸城①外濠を歩く」で紹介しているので、ご覧ください。

この丸の内一丁目遺跡が注目されたのは、発掘史学と文献史学のコラボレーションが花咲いたこと。

文献の記録が発掘で確認されたことは、大きな成果でした。

 

鍛冶橋から外堀通りを北へ。

東京駅を左に見て行くと呉服橋交差点に差し掛かります。

呉服橋を渡った西詰には呉服橋御門があり、御門の左手に北町奉行がありました。

          呉服橋と御門

     右が呉服橋御門 左端の橋は道三堀にかかる銭瓶橋 

現在の交差点に立って、往時を偲び、橋のある光景をイメージすることはできません。

交差点と高速道路インターの「呉服橋」の名が、昔を思い出させてくれるだけです。

高速道路といえば、この呉服橋から土橋経由汐留までの首都高速道路は、戦災瓦礫の埋立地として利用された外濠の跡地の上を走っています。

舟運から自動車輸送に変わった、時代のターニングポイントの象徴でもあります。

 呉服橋を過ぎるとすぐ水路の十字路になります。

上(西)には道三堀の銭瓶橋が、右(東)には日本橋川の一石橋が、そしてこの地図ではカットされていますが、北には日本橋川の常磐橋がかかっています。

道三堀は、家康の江戸開府の最初の土木工事として極めて重要な水路です。

家康が江戸開府した頃、江戸城の前は遠浅の葦が茂る入江でした。

神田山を削ってこの入江を埋め立てると同時に、この日比谷入江に流入していた平川の流れを堰き止める必要がありました。

平川の流路を変えるために掘られたのが、今の日本橋川(A’ーB)です。

江戸城建設のためには、大量の建築資材と生活物資が必要でした。

その物資を大手門まで運びいれる舟が往来できる堀がまず掘られます。

それが道三堀でした。

天正18年(1590)のことです。

道三堀両側には、材木町や舟町が出来、江戸最初の町並みとなって行きます。

江戸城建設資材搬入の為の道三堀は内堀に直結していました。

和田倉門橋から、今の銀行協会の下を通って一石橋前まで、道三堀はカーブをしながら伸びています。

 和田倉橋の左の赤レンガビルが銀行協会

今回のブログのため3回も現地を歩いて見ましたが、堀跡は特定できませんでした。

ただ、新大手町ビルの脇に堀跡を示す立て看板があるだけ。

この地点が、カーブのどのあたりなのかは分かりません。

一石橋の反対側のどこかに道三堀は開口していたはずですが、今となっては見当もつきません。

 一石橋から道三堀を見る 右は常磐橋

 上の写真と同じ地点(?)から撮ったもの

 どこに道三堀が流れ込んでいたのか、説明がほしいものです。

ここで外濠は日本橋川と合流することに。

日本橋川については、後日、ブログにまとめることにして、今回はこれでジ・エンド。 

 

 参考図書・サイト

○北原糸子『江戸の城づくり』 筑摩書房 2012

○鈴木理生『幻の江戸百年』 筑摩書房 1991

○内藤昌『江戸の町(上下)』 草思社 1982

○黒田涼『江戸城を歩く』 詳伝社2009

○北原糸子『江戸城外堀物語』 筑摩書房 1999

○芳賀ひらく『江戸東京地形の謎』 二見書房 2013

○石黒敬章『よみがえる明治の東京』 角川書店 1992

○石黒敬章『大日本名所一覧』 平凡社 2001

○石黒敬章『明治の東京写真』 角川学芸出版 2011

▽大江戸歴史散歩を楽しむ会 http://wako226.exblog.jp/

 ▽江戸城/史跡めぐり http://homepage3.nifty.com/oohasi/

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