思い込みは、困ったものだ。
一度思い込んだら、訂正されることは、まず、ない。
「上州には、閻魔・奪衣婆が多い」。
私の思い込みの、これがその一つ。
多いことは確かなのだが、日本の他地域に比べてダントツに多いかは分からない。
ま、そう思い込んだからと云って、誰に迷惑がかかるわけではなし、どうでもいいことではあるが・・・
思い込みには、きっかけがあった。
3年前の初冬、沼田市から川場村の石仏めぐりをした時、墓地の入り口両側に座す閻魔と奪衣婆をしばしば目にしたのです。
閻魔と奪衣婆が並んで座している姿ばかり見てきた私には、この相対するポジショニングはすごく新鮮でした。
万福寺(沼田市佐山町)の閻魔(左)と奪衣婆
それはまるで、そこからが他界であるかのような錯覚を抱かせるのに十分でした。
昔の人には、錯覚どころではなかったに違いありません。
着衣をはく奪され、地獄行きを命じられるその恐怖が、品行方正であろうとする原動力になったはずです。
だからといって、上州人がとりわけ道徳的であるとは聞かないから、私の思い込みは不正解なのだろうか。
その昔、明治、大正といわず、昭和に入っても、日本のそれぞれの集落には、閻魔堂や十王堂、地獄堂などがあった。
今ではほとんどなくなっているか、あっても朽ち果てて、見捨てられてしまっています。
辛うじて、石造物の閻魔や奪衣婆だけがその命を長らえているだけです。
ここで冒頭の思い込み「上州には、閻魔・奪衣婆が多い」を「上州には、野仏の閻魔・奪衣婆が多い」に訂正。
東京の閻魔堂はコンクリート造りで朽ち果てなかったのですが、堂内の閻魔・奪衣婆は目に触れる機会がなく、その存在に気付かないのが普通です。
閻魔・奪衣婆に接する機会の減少とともに人々の地獄観も希薄になり、わずかに「試験地獄」や「ウソをつくと閻魔さまに舌を抜かれる」という言葉が残っているくらいです。
では、地獄とは何か。
地獄は極楽の対極に位置し、その思想は平安時代末期、浄土宗により説かれました。
世の中の乱れ、人心の不安の拡大がその背景にあったと言われています。
ベースになったテキストは『地蔵十王経』。
文盲の庶民は、盆や施餓鬼で寺に掲げられた「地獄変相図」を見ることで地獄を知りました。
地獄とは何かの前に、『地蔵十王経』に描かれた冥界ガイドを紹介しましよう。
死者はまず死出の山を越えなければならない。
険しい死出の山を越えるとぶつかるのが、三途の川。
三途の川を渡ると、そこには奪衣婆が待ち構えていて、死装束を脱がせられる。
奪衣婆はその衣装を衣領樹(いりょうじゅ)にかける。
枝の垂れ下がり具合で、死者の生前の悪業の軽重が分かる樹木なのだ。
生前の悪業は、次の閻魔庁でも明らかになる。
浄玻璃(じょうはり)鏡に悪業が全部映しだされてしまうからです。
閻魔庁には、この他、悪業を測定する人頭杖や業の秤もあります。
(*上の地獄変相図には全部描かれているので、よくご覧ください)
これをもとに、閻魔大王は、亡者の次の行き先を宣告することになる。
次の行き先とは、生まれ変わるべき世界。
それは六道といわれ、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの世界。
ここで初めて地獄が出てくるが、もう少し冥界話を続けよう。
これまでのプロセスでは、閻魔と奪衣婆しか登場していないが、実は冥界には閻魔の他に9人(?)の判官がいて、これを十王と言います。。
十王は、初七日から三周忌まで、日を決めて亡者の罪業の裁きにあたります。
初七日の担当は、泰広王。
泰広王は三途の川の手前にいるので、支出の旅に出て、亡者が初めて出会う判官です。
この泰広王によって裁かれるのはごくわずか、生前、極善か極悪の亡者だけ、中善、中悪の大多数はすぐには次生が決りません。
『地蔵十王経』では、死亡後まだ次の世の行き先が決まらない期間を「中有(ちゅうう)」と言い、初七日から七日ごとに、二七日(14日)、三七日(21日)、四七日(28日)、五七日(35日)、六七日(42日)、七七日(49日)、百か日、一周忌、三周忌と10回にわたり、10王が次生の審断を下します。
ちなみに閻魔王は、五七日が担当日。
最初の頃、「中有」は、七七、49日でした。
それが三周忌まで伸びたのには、人間臭い理由があるのですが、それについては、後述します。
では、いよいよ地獄の話へ。
源信の『往生要集』では、八大地獄があることになっています。
等活・黒縄(こくじよう)・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間(むげん)の八大地獄。
この地獄一つ一つに触れはしませんが、一つだけ重要な事があります。
それは、地獄の責め苦は、繰り返されること。
責め苦で悶死したものは再び蘇生し、同じ責め苦を受ける。
これが成仏するまで無限に繰り返されるのです。
では、亡者を成仏させるにはどうするか。
それには、「地獄の沙汰も金次第」の事情があるのですが、これも後で述べることにします。
以上が冥界と地獄の基本知識。
これを踏まえて、上州の閻魔と奪衣婆を見てゆきましょう。
まずは、十王。
いつの頃からか閻魔と奪衣婆だけになってしまったが、元々は十王が揃ってワンセットのものでした。
十王堂などで保存されてきたならともかく、野ざらしの場合は10体揃っていることは、今や珍しい。
東吾妻町植栗の十王は10体あって、揃った十王のように見えます。
しかし、よく見ると、前列向かって左は奪衣婆だし、中央の石仏は顔が二面あります。
奪衣婆 二面人頭杖
これは、人頭杖、別名檀拏幢(だんだどう)でしょう。
人頭杖は、閻魔が亡者を裁くのに使う道具。
蓮台の上に男女の顔が乗っていて、亡者が重罪ならば男が口から火を吹き、無罪ならば女が芳香を放つといわれています。
教学院(練馬)の檀拏幢(だんだどう)
上の左の写真のように頭が二つあるのが普通で、植栗の人頭杖は大胆な省略が、見事な造形を創出しています。
人頭杖は、富岡市下黒岩砂田の墓地にもあります。
墓地の奥の石仏の列の左端に 危なかしげに台石に乗っています。
一見、獄門首かと思ってぎょっとする。
手前に人頭杖、一つ置いて司録、閻魔、司命。最奥に奪衣婆。
その右手には、閻魔の両側に司録と司命が侍っています。
司録と司命は、閻魔庁の書記官です。
司録 閻魔 司命
列の最右翼には奪衣婆。
司録や司命、それに奪衣婆は判官ではありません。
閻魔以外の十王は、ここにはいないようです。
皺の下に大きく開いた口から飛び出た2本の歯が奪衣婆の怖さを強調しています。
頭陀袋のような垂れ乳が面白い。
前橋市の集香寺へは、閻魔の罪業測定器が揃っているというので、行ってきました。
集香寺(前橋市)
境内の一隅に3種の罪業測定器がまとめてあります。
左から、浄玻瑠鏡、人頭杖それに業(ごう)の秤。
業の秤は、生前、悪業を重ねた亡者が乗ると天秤の片側の大石が羽のように跳ね上がるという秤。
業の秤を『日本石仏図典』で調べていたら、浄玻璃鏡とセットの場合がほとんどで、秤単独例は佐渡の岩屋山洞窟のものだけとの記述がありました。
岩屋山洞窟(佐渡市宿根木)
岩屋山洞窟には何度も行ったことのある佐渡出身者としては、放っておけない。
業の秤があることなど聞いたことはないが、、もしやと写真フアイルをチェックしたら、あった。
左が、業の秤、右が、人頭杖。
洞窟の中は暗いので、普通はライティングをきちんとしないと撮れない。
たまたま、入口ちかくだったので、ラッキーにも写真が撮れたのですが、それでも感度を上げ過ぎて不自然な写真になっています。。
集香寺を去ろうとして何気なく無縁塔を見たら、上段の五輪塔の背後に十王らしきものが見える。
石段を上って近寄って見る。
1基の奪衣婆と5基の十王がいる。
左の2基 一番左は奪衣婆 中の2基
右の3基
閻魔もいるのだろうが、はっきりしない。
左の3体は、石材が違うようだ。
ということは、少なくとも3か所から運ばれてきた十王ということになる。
それでもこうして保存されているのだから、よしとしなければならないだろう。
取り壊され、廃棄物として捨てられるか、土に埋められるか、大半はそうした運命をたどったのですから。
上州の十王で私のイチ押しは、渋川市旧子持村中郷の個人墓地に並ぶ十王。
墓地と畑の間を下半身を地面に埋めたまま十王が整然と並んでいます。
左端は、浄玻璃鏡。
十王の顔はほぼ同じ、目じりがつりあがり、口は横一文字の怒り顔。
向かって右、8体目の隣は写っていませんが、下の写真のように奪衣婆と閻魔がいます。
「何かに似ているな、この奪衣婆は」。
石工は、奪衣婆が垂乳であることは熟知していたはずです。
でも、あえて、そうはしなかった。
腕と膝は、まるでロボットみたい。
目は縄文土偶を想起させて、素晴らしい逸品。
どこかの美術館で大勢の人に見てもらいたいものです。
次に閻魔と奪衣婆。
上州だけの風習なのか、どこでもそうなのか、少なくとも東京周辺では見かけない、閻魔と奪衣婆が向き合った姿から。
墓地(川場村仲村)
ひどい写真ですみません。
墓地の入口の石段の上、両側に閻魔と奪衣婆が座している。
これが典型例。
岩屋堂(沼田市佐山町)
この岩屋堂への石段両側の閻魔と奪衣婆は、今月(12013-09-01)に撮影したもの。
車で通りかかって気がついたので停車し、撮影したが、カメラを覗きながら「?」。
3年前の11月、同じアングルで撮っていたのでした。
レンズを左に向けると銀杏の葉の絨毯。
美しいので、おまけとして、載せておきます。
龍谷寺(みなかみ市月夜野師) 林昌寺(中之条市)
龍谷寺も林昌寺も閻魔舐めの奪衣婆との2ショット。
閻魔の頭の先に小さく奪衣婆が見えます。
次の東善寺では、石段の上の両側は同じですが、向きが違います。
東善寺(高崎市旧倉淵村)
相対せず、両者、前を向いています。
これは、次からの横並びスタイルへの移行型というか、相対型と横並び型の中間スタイルといえるでしょう。
三福寺(東吾妻町大柏木) 大運寺(東吾妻町大戸)
桂昌寺(川場村) 空恵寺(渋川市上白川)
相対型と横並び型の共通点は、向かって右に閻魔、左に奪衣婆という坐り位置。
これは現在のひな壇の男雛、女雛の並び方とは反対ですが、江戸時代以前のひな壇の古式スタイルは向かって右が男雛、左が女雛だったそうで、共通した思想がありそうです。
勿論、例外もあります。
長広寺(沼田市) 路傍(高崎市旧倉淵村)
民間信仰に、多数、少数はあっても、正解、不正解はないでしょうから、これもまた、OK。
上の右の写真は、旧倉淵村を走っていたら石仏の頭だけがちらと見えたので、停車して撮ったもの。
背丈を越す夏草に覆われて近寄るのが大変。
石塔も庚申塔や念仏供養塔で、墓標ではない。
寺の跡地にしては狭いし、墓地ではなさそうだ。
近くで農作業をしている老人に訊いて見た。
土葬の時代、ここには土葬に必要な道具を置いておく小屋があったのだそうだ。
なるほど、だから閻魔と奪衣婆がおわすのだと納得。
今回のテーマを「閻魔と奪衣婆」にしたのには、個人的な事情があります。
私は、大学の社会人向け講座を毎年受講していますが、今年、選択したのは『日本霊異記』。
日本最古の仏教説話集で、勧善懲悪のストーリーに満ちています。
当然、地獄話も豊富で、閻魔も常連の登場者。
石仏巡りも、ついつい、冥界関係者に偏るのも無理からぬというものです。
その『日本霊異記』(中)に次のような話があります。
第24話「閻羅王の使の鬼の、召さるる人の賂(まひなひ)を得て許しし縁」。
閻魔王の命を受け、ある男を召しとらえに来た鬼が、その男の差し出した牛を食べて空腹を満たした。鬼はご馳走になったお礼に男と同じ齢の別の男を召しとらえて冥界にもどった、という話。
引き続き、第25話「閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報いし縁」という、召されるのは女性ですが、まったく同じ話が載っています。
つまり、冥界では賄賂が効くのです。
品行方正でなければ、閻魔により地獄行きを宣告されること必至の冥界にあって、賄賂OKとは不思議な話ですが、どうやらこの時代、賄賂は罪悪ではなかったようなのです。
「地獄の沙汰も金次第」ですから、地獄の責め苦にあえぐ亡者の成仏も、結局、支払う金額に左右されることになります。
亡者は、お金を持っていないので、支払えない。
では誰が、誰に。
亡者の家族が追善供養として寺に支払うのです。
死亡後、次の世界への行き先が決まらない期間を「中有」ということは、先に述べました。
「中有」の期間を短くし、しかも地獄ではなく、極楽往生するのには、現世の人たちによる追善供養が不可欠だという論理がいつの頃からか、構築されてきます。
困ったことに、成仏できる追善供養の程度は不明のままです。
全ては生者の気持ち次第、というのですから始末が悪い。
七七日(49日)だったはずの「中有」が、百か日になり、一周忌、三周忌まで延長されたのも必然でした。
「まだまだ成仏してないようですよ」と言われれば、家族は供養を重ねるしかありません。
「坊主丸儲け」とは、まさにこのことでしょう。
「坊主丸儲け」に「七分全得」理論が更に拍車をかけました。
追善供養は亡者より生者を大きく利得する行為だ、と説かれ始めます。
「地蔵菩薩本願経」には、追善供養の功徳は、亡者が七分の一、供養した生者が七分の六受け取ると書いてあるというのです。
こうして、生きているうちに自分の追善供養をするという奇妙奇天烈なブームが巻き起こりました。
「逆修」ブームがこれです。
慈光寺(埼玉県ときがわ町)の逆修板碑
関東の板碑の大半は、逆修だそうですから、「よくぞ坊主に生まれけり」。
思いがけない不労所得に、笑いが止まらなかったことでしょう。
造形的には、圧倒的に奪衣婆の方が面白いのだが、なんと云っても閻魔は主役だから、まずは閻魔大王から。
『地蔵十王経』は仏教に、道教と神道を加味してあると言われてます。
特に道教の影響が強くて、それは十王の服に現れています。
延命寺(板橋区)
これは道教の修行者が着る道服というものです。
頭には末広がりの王冠。
王と書かれていることが多いようです。
眉をあげ、眼を大きく、口を開いて怒っている顔が普通。
右手に笏を持っているか、両手で笏を捧げている。
足は結跏趺坐をしています。
閻魔と他の9人の王との区別はないようです。
石仏の場合は特に見わけがつきにくいので、判別は諦めた方がいい。
では、上州の恐い閻魔ベスト6。
恐いけど可愛いのは、どれ?
東善寺(高崎市旧倉淵村) 大運寺(東吾妻町)
三福寺(東吾妻町) 玄棟院(渋川市旧子持村) 手が逆
路傍(高崎市旧倉淵村) 長広寺(沼田市)
最後に変わり閻魔を一つ。
延命寺(川場村)
ピンボケのこの閻魔さまは、庚申塔の主尊。
三猿はいませんが、これは閻魔庚申塔なのです。
そして、いよいよ、奪衣婆編。
仏像には、儀軌というお手本がある。
十王に儀軌があっても不思議ではない。
それぞれが似通っているからです。
しかし、奪衣婆に儀軌があるかは疑わしい。
像容があまりに違いすぎるのです。
奪衣婆であることの必要条件は、長い髪と垂れ乳それに立て膝。
片膝を立てるのは、昔のお産スタイルでした。
ですから奪衣婆を安産・子安祈願の神とする地方は、今も、少なくありません。
いずれにしても、奪衣婆ほど、石工が自由な発想で造形できる石造物は少ないでしょう。
あなたが選ぶ、こわ可愛い奪衣婆は、どれ?
角地蔵(みどり市) 空恵寺(渋川市)
桂昌寺(川場村) 三福寺(東吾妻町)
大運寺(東吾妻町) 長広寺(沼田市)
長広寺(沼田市) 東善寺(高崎市旧倉淵村)
墓地(富岡市) 路傍(高崎市旧倉淵町) 背後の木は亡者の衣をかける衣領樹か
これらの奪衣婆を見て、恐さよりもユーモラスを感じる人の方が多いのではないだろうか。
三途の川の別名は、葬頭河(そうづか)。
「そうづかの婆さん」は「しょーづかの婆さん」になって、おどろおどろしさを失い、いつしか、風邪を治し、咳を止める神様になって行きます。
上州にもそうした男女神がいます。
人呼んで「味噌なめじじいと味噌なめ婆あ」。
吉祥寺(川場村)の味噌なめじじい(閻魔)と味噌なめばばあ(奪衣婆)
口の周りに味噌をぬれば、歯痛や風邪が治る と言われています。
天桂寺(沼田市)の味噌なめじじいとばばあ
もともとは閻魔と奪衣婆でした。
それが、冥界の主というよりは、そこらで野良仕事に精出している老夫婦の風情になってしまった。
そして、いつしか、世は地獄を知らない人ばかりになった。
知らなければ恐がらない。
追善供養など誰もしなくなった。
そもそも追善供養という言葉を知らないのだから、話にならない。
地獄の沙汰もカネ次第と坊主丸儲けを図った壮大な計画も、かくして頓挫する結果となった。
めでたし、めでたし。