石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(dクワドラングルの続き、他)

2016-01-28 07:23:28 | 遺跡巡り

◇ラター・マンダパヤ

帰国後ブログで報告したいと思うから、つい写真を撮るのに夢中になって、ガイド氏の説明は疎かになる。

だから、帰国して写真を見ると、「はて、ここはどこ?あれは何?」となってしまう。

ラター・マンダパヤも例外でなく、ガイド本と突き合わせて、やっと特定できた。

石柱と云えば、素っ気ない四角柱ばかりなのに、ここでは8本ともハスの茎をかたどってある。

彫技は見事で、見惚れるばかり。

不規則に伸びる8本の柱とすっきりした半球体のストゥーパのコントラストが心地よい。

横組みの石垣を支える石柱の先端はハスの蕾でしょう。

極めて特徴的な建造物なのに、何の建物なのか、分かっていない。

ニッサンカ・マーラ王が僧侶の読経を聴いた場所という説があるそうで、だとすれば、礼拝所ということになる。

ここも木造建造物を石柱の上にイメージした方がいいのだが、そうした想像力を旅行者に求めることが、そもそも無理な注文というべきか。

◇トゥパーラーマ

クワドラングルの南の入口から入ると左にある仏堂。

全部レンガ造りで、木造部分がないから、屋根を含め、大半が残っている。

そういえば、屋根がある遺蹟は初めてか。

丁度、外壁が修理中だったが、レンガと漆喰のレリーフは見ごたえがある。

ヒンズーの影響があるのだそうだ。

堂内に入る。

突然の暗さに目が対応できない。

レンガと漆喰造りのブッダ立像があるはずなのに、判らないまま、時間に追われて外に出てしまった。

駐車場はワタダーゲ前の出入り口近くなので、元へ戻る。

出口から出るのかと思って後をついていったら、ガイド氏は左の空き地に入り込む。

「あれがサトゥマハル・プラサーダです」。

焼け焦げたような、先細りの塔が隅っこに立っている。

◇サトゥマハル・プラサーダ

ポロンナルワが上座部仏教の聖都だった頃には、タイやビルマから僧侶が頻繁に訪れていた。

この7層の建物は、タイの寺院に酷似していて、タイ人の手になるものと見られている。

7階ではなく、7層としたのは、建物の中に空間がないから。

仏像を安置するだけの仏堂だったのではないか、いや守衛所だったのだろう、と見解が定まっていないという。

◇ガルポタ(石の本)

石に刻文した石碑はスリランカではよく見かけるが、このstone bookは、一際大きい。

長さ8m、幅1・5m、厚さ45㎝。

大きすぎて立てると上の方が読めないから横たえてある。

内容は、ニッサンカ・マーラ王の偉業。

自ら命じて、自らを褒めたたえる。

鼻持ちならない王様だが、浮彫りの象がめっちゃ可愛いから、ま、いいとするか。

 これで、クワドラングルは終わり。

国宝級の仏教遺跡をぎっしり詰め込んだ「重箱」のような場所だった。

◇ランカティラカ寺院

「寺院とは、こういうもの」と誰もがイメージを持っていると思う。

それがどんなイメージだろうと、ランカティラカを見たら、そのイメージはぶっ飛んでしまうだろう。

日本人のイメージは「古い木造建築」だろうから、まずレンガ造りでOUT。

高さ17.5mなのに、横幅がないからやたら高く感じて、寺というよりは、尖塔の感じが強い。

正面に立つレンガ造りの巨大なブッダ立像を見て、仏教寺院だと初めて納得する人が多い、のではないだろうか。

巨大な仏像だから「大仏」だろう。

「えっこれが大仏さん!?」

日本人はびっくりするが、所変われば品変わる。

ここは、スリランカ。

郷に従わなければ・・・

 

大仏に近づく。

首はない。

欠けた右手の先と足首に近い衣の裾には、赤いレンガがもろ見えで、この像はレンガを積み、漆喰で仕上げるスタッコ造りであることが分かる。

レンガに漆喰の化粧仕上げは石彫より簡単だから、スタッコ建築やスタッコ像はスリランカでは多数見かけるが、ひび割れしやすく、崩壊のスピードも速い。

巨大ブッダ像の足元では、修理用の素材レンガを製造していた。

狭い堂内をぐるっと見渡すと目に入ってくるのが、階段。

これが、すごい。

奥行10㎝、高さ30㎝の急階段。

普通に階段を上ろうとしても上れない。

階段に背を向けた姿勢でしか上れないのです。

つまり、ブッダに相対して、顔を向けたまま上ることになります。

なぜ、こんな階段を作ったのか。

ブッダに対するレスペクトの念が、そうさせたのでした。

「ブッダに背中とかお尻を向けないで上るにはどうするか」、その答えがこの階段でした。

スリランカ旅行にあたり、「仏像をバックに記念写真を撮ってはいけない。仏像に背を向けることになるから」と注意されました。

同じ戒律がここではより厳しく生きていたことになります。

 

ランカティラカ寺院の外壁のレリーフも魅力的。

壁一面に建物や人物が彫られている。

 上は、宮殿。

このブログのポロンナルワ(b宮殿跡)で取り上げた7階建ての宮殿の原型。

レンガの3階まで残ってその上の木造部分は崩れてなくなったと紹介したが、この宮殿は全部レンガ造りのように見える。

もしかすると、違うのかもしれない。

これは、伸びやかな女性像。

清純かと思えば、妖艶。

性的なものに抑制的な仏教寺院らしくない。

ヒンズー教の影響が見え始めているようだ。

 ◇キリ・ヴィハーラ

キリとは、シンハラ語でミルクの意。

母乳の出がよくなるようにとお参りする「母乳の寺」だとはガイド氏の話。

仏塔の白をミルクに見立て、それを母乳に関連付けて祈る、民間信仰はスリランカでも日本でも、そのこじつけ方が似ています。

700年以上も放置されながら、この純白を保ち続けてきたというから、こっちの方が驚き。

「若さを保つ」霊験のある寺として売り出してみてはどうだろうか。


118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(cクワドラングル)

2016-01-25 07:57:01 | 遺跡巡り

◇クワドラングル

クワドラングルとは、四辺形の意。

110m×140mの城壁の中に11もの仏教施設がある。

行政関係の建物などはない。

ポロンナルワの廃墟化とともに密林の中に埋もれ、忘れ去られていたが、19世紀になって発見された。

◇ワタダーゲ(Vatadage)

東の入口から入ると左手にある円形仏堂。

建築主は不明だが、7世紀の造立とみられている。

7世紀と云えば、首都がまだアヌラーダブラにあった時代で、ポロンナルワで最も古い仏教施設。

屋根がある原型の復元模型が、プロンナルワ博物館にある。

円錐形の屋根の下、中央には、ストゥーパ。

それをバックに東西南北にお釈迦さまが座しておわす。

アヌラーダブラのブッダ像にくらべて、顔は丸く、がっしりした肩、ストンと落ちるウエストラインが特徴的。

4体の座像仏は、単体としての個の性格を持つのではなく、仏塔と相まって全体が宇宙的仏教世界を表現している、との解説書がある。

ワタターゲには4か所の入口があるが、いずれの入口にもガードストーンがある。

ガードストーンの最高傑作と云われるのが、東面入口の2体。

右手に吉祥の壺を乗せ、左手に繁栄のシンボルの花の枝。

 

 足下には小人が二人。

小人は富の神クベラの使いで、財宝の守護神だという。

◇ハタダーゲ(Hatadage)

上の写真は、ワタダーゲから見たハタダーゲ。

下は、逆にハタダーゲから見たワタダーゲ。

中心点が直線的につながっているのが判る。

Hataは、シンハラ語で60を意味し、dageは舎利塔をさす。

ハタダーゲは、「60日でできた舎利塔」と云われているが、「舎利、遺物が60個ある舎利塔」という見方もあるんだそうだ。

12世紀にニッサンカ・マーラ王によって建てられ、王権の象徴の仏歯がこの仏歯寺の2階に納められていた。

このレンガ壁の上に、木造のお堂をイメージするといい。

基壇のレプリカのライオンが猫のようだ。

入口右側にニッサンカ・マーラ王の偉業をたたえる碑文がある。

ダーゲの一番奥には、3体の立ブッダ仏陀がおわすが、顔がなかったり、傷つけられたりしている。

これは、侵略してきたタルミ軍の仕業ということになっている。

だとすれば、完全に破壊しなかったのは何故だろうと、新たな疑問が湧いて来る。

◇アタダーゲ(Atadage)

ハタダーゲの左隣にあって、ほぼ同じ構造の舎利堂だったと考えられている。

Ataは数字の8、「8日で建てた舎利堂」か「8つの聖遺物のある舎利堂」の意らしい。

建てたのは、ヴィジャヤバーフ1世王、ハタダーゲ建立の1世紀前、11世紀のことでした。

彼も又、仏歯をこの2階の舎利堂に安置していた。

奥に1体のブッダ立像と座像トルソー2体がおわす。

立像の流れるような衣紋が美しい。

首がない座像は、よく見ると首の部分に穴がある。

頭を差し込むスタイルだったのだろうか。

足形はあるが、身体の部分は見当たらない。

ここにも差し込み穴。

パーツごとに造って、差し込んだと思われる。

アタダーゲの石柱は、54本。

そのすべてに見事な浮彫が彫られている>

アタダーゲの脇に文字碑がある。

文字碑の文字はタミール語で「仏歯を守ったのは、雇われタミール軍で、シンハラ軍ではなかった」と書かれてあるのだとか。

ブッダ像が完全に破壊されなかったことと合わせて、真相を知りたいものです。

 

 

 

 


118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(b宮殿跡)

2016-01-22 06:53:49 | 遺跡巡り

パラークラマ・サムドラ(人造湖)に沿って、北上する。

博物館に寄り道。

整理されて見やすく、分かりよい博物館だ。

当時の石工の道具なども展示されている。

◇パラークラマ・バーフ王の宮殿跡

パラークラマ・バーフ1世の人気は絶大で、日本で云えば、信長、秀吉、家康クラス。

あるいは、その3人をまとめた位の英傑なんだそうだ。

その王が絶頂期の時、建てた宮殿だから、壮大であるのは当然か。

ここでちょっと寄り道。

これからのポロンナルワ遺蹟をよりよく理解するためのポロンナルワ小史です。

「ポロンナルワは、8世紀以降アヌラーダブラのの王たちの避暑地でした。11世紀、南インドのチョーラ朝のタミル人が侵略、彼らは、この地に小都市を作ります。そのタミル族を追い払ったのが、ヴィジャヤバーフ王(1059-1113)。ヴィジャヤバーフ王が築いた基礎をパラークラマバーフ1世大王(1153-1186)が拡大、発展させ、さらにニッサンカマラ王(1187-96)の出現をもってポロンナルワの栄華は頂点に達します。王たちは熱心な仏教徒で、数多くの仏寺、仏塔を造営します。14世紀、チョーラ朝の何度目かの侵略にシンハラ王朝は後退を余儀なくされ、ポロンナルワはジャングルに埋没して、20世紀までその姿を消したままでした」。

再び、宮殿跡に戻ろう。

その壮大さは現在残っているレンガ積みからイメージできる。

現在残っているのは、3階までのレンガ部分。

4階から7階は木造だったので腐れ落ちてしまってないと云えば、その規模がお分かりいただけるだろうか。

部屋数は、1000を超えていたと云われる。

白い部分は漆喰跡。

レンガは漆喰で全面装飾されていたことが判る。

ポロンナルワのテンカティラカ寺院の外壁にこの宮殿が浮彫にされているので、ここに紹介しておきます。

◇水洗トイレ

 宮殿横の住居跡の隅にトイレがある。

ガイド氏は,水洗トイレだと紹介した。

排水溝に跨ってのスタイルは現代でも普遍的なやり方。

スリランカの男性は、小もしゃがんでするから、このトイレは大小兼用。

更に言えば、後始末の左手でのお尻の洗浄もここでやる。

水は桶で持ち込み、お尻を洗ったあと、糞便を流すのに使う。

トイレからの汚水を貯める竪穴が隣接しているが、この形式の浄化槽は現在も健在で、内部は二つに仕切られている。

トイレからの汚水は第一槽に入り、固形物はそこに溜り、水分は仕切りを越えて第二槽に入って地中に浸透してゆく。固形物はバクテリアにより分解されるので、汲み取りは必要ない。

この浄化槽には仕切りが見られなかったが、板だったのだろうか。

 

スリランカの比丘(男僧)は、227か条、比丘尼(尼僧)は311か条の、守るべき戒律があります。

最も厳しいのは、五戒(不邪淫、不偸盗、不殺生、不妄語、不飲酒)で、犯した者には、僧籍離脱の最高罰が科せられることがある。

数ある戒律からトイレに関する戒律をいくつか紹介すると、

〇用を足した後は糞ベラや水で後始末をせよ。
〇トイレの順番は、地位の上下に関係なく早いもの勝ち。
〇トイレに入る時は、咳払いして中に人がいるか確かめること。中にいる人も咳払いで応え  なさい。
〇立小便は厳禁。

戒律というよりも日常のトイレマナーの感じが強い。(蝶谷正明『スリランカ古代装飾トイレの謎』より)

パラークラマ・バーフ王閣議場跡

宮殿が、王の私邸ならば、ここ閣議場は、さしずめ仕事場ということになる。

石の基壇の上に木造の3階建て官邸があったとイメージされたい。

各大臣は石柱に彫られたマークに従ってその前に座った。

決定事項の伝達場だったのか、協議をする場だったのか、南インドのチョーラ軍の動向、各地の治水灌漑工事の計画と着手、堕落する仏教界の立て直し、上座部仏教への一本化、ヒンズー教の受け入れ方など懸案事案は尽きることがなかった。

とりわけ南インドのチョーラ軍との戦いは、最大の問題。

当然、政略結婚もありうるわけで、こうした政治世界の変化は、文化にも影響を与えることになります。

この閣議場の入口にもムーンストーンはあるが、生老病死を表わす4種類の動物、馬、獅子、牛、象のうち、牛だけがない。

これはポロンナルワのムーンストーン全体の共通点ですが、ヒンズー教徒のお妃に配慮して、ヒンズー教で大切に扱う牛を踏んづけない様にしたためだと見られています。

仏都ポロンナルワのど真ん中にヒンズー寺院があるのも、同じ理由です。

◇シバア・デーワーラヤNO1

「左に見えるのは、ヒンズー教寺院です」と説明したまま通り過ぎようとするので、あわてて車を止めた。

ガイド氏の言葉のなかに「リンガ」が聞こえたからだが、仏教都市の中のヒンズー教寺院は必見だと思ったからです。

シバア・デーワーラヤ寺院は、ヒンズー教寺院らしからぬ簡素ですっきりした佇まい。

入口から奥に鎮座するリンガがよく見えます。

あるのは、リンガだけで、ヒンズー教の神々の彫刻はどこにも見られない。

ど派手なヒンズー教寺院も、初期の頃は、仏教に遠慮してたからなのでしょうか。

仏都の中のヒンズー寺院は、王の妃がヒンズー教徒だったからと推測したが、別の見方もある。

13世紀、再び、侵略してきた南インドのチョーラ人が建てたというもの。

それならば、こんな遠慮がちに建てなくてもよさそうだが。

≪ポロンナルワのクワドラングルへ続く≫

 

 

 

 

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118スリランカの仏教遺跡巡り(3)ポロンナルワ(a石立像、図書館ほか)

2016-01-19 06:47:52 | 遺跡巡り

旅行3日目。

朝、アヌラーダプラからポロンナルワへ向かう。

旅行中、いつも車の助手席にいた。

行き交う景色を撮るにはいいのだが、予想外に疲れる。

原因は、犬。

道路上にごろんと寝ている。

かと思えば、突然起き上がって、のそのそと横切ったりする。

その度に思わず(ない)ブレーキを踏むから、気が休まらない。

インドでは、牛が同じような格好でいた。

ヒンズー教では、牛は神様だから理解できるが、スリランカの犬は神でもなんでもない。

ただの野良犬なのです。

では、なぜ、犬たちは平気で車が行き交う道路上で寝られるのか。

それはスリランカ人がみんな敬虔な仏教徒だからです。

仏教では、信者が守るべき5つの戒めがあります。

その一つが「不殺生」。

殺していけないのは人間だけではない。

動物も虫も生物すべての命を殺めてはいけません。

蚊に刺されても、叩き潰さない人がスリランカにはいると云われます。

野生の象に命を落とす人が年間100人はいるそうですが、毀された家屋や踏み荒らされた畑を修理するだけで、象を処分しようという話は決してでないのだとか。

交通の邪魔になるから犬を排除しようとは、誰も考えないのです。

こうした現実を目の当たりにすると、日本が、スリランカと同じ仏教の国であることが信じられません。

 

田んぼがある。

稲刈りをしてると思うと、田植えをしていたりする。

当たり前の景色のようだが、本来この辺りは乾燥地帯で、水田には不向きの土地柄だった。

稲作を可能にしたのは、紀元前5、6世紀、インドからもたらされた鉄器と灌漑技術でした。

当時の人工湖沼は今もそのまま現役で、今日の目的地ポロンナルワの繁栄は、巨大な貯水池パラークラマ・サムドラの水の恩恵によるもの、と云って差し支えないでしょう。

人工湖パラクラーマ・サムドラ左側にポロンナルワ遺蹟がある。

パラクラーマは、12世紀にこの灌漑用貯水池を造築した王、パラクラーマ・バーフ1世の名前。

ちなみに「サムドラ」は、海を意味して、その広さ2400ヘクタール、7500ヘクタールの水田耕作を可能にさせました。

パラクラーマ・バーフ1世王は、人工湖を作るとともに、そのほとりに仏教都市を構築し、上座部、大乗、密教の三派に別れ対立していた仏教界を上座部仏教に統一します。

その王の立像が、最初の目的地。

◇石立像

土の道を歩いているつもりだったが、気が付いたら広大な一枚岩の上を歩いていた。

振り返ると、岩だということがよくわかる。

正面に高さ3.6mの男の像が立っている。

どうやら足下の岩と岩質が違うようだ。

白っぽくて、柔らかそう。

この男性立像が、パラークラマ・バーフ1世だとする根拠は、スリランカの旧10ルピー紙幣に王として印刷されていたからです。

しかし、異論もある。

両手で胸の高さに掲げているのは、ヤシの葉に書かれた仏典。

だから王ではなく、学者だとする説も有力だそうで、見出しをあいまいな「石立像」としたのは、こうした事情によるものです。

◇最古の図書館

「石立像」からほんの100mほど南のレンガ遺蹟は、ポトグル・ビハーラ。

パラークラマ・バーフ王が建て、その妃が修繕したというスリランカ最古の図書館です。

よく見かける石段前のムーンストーンと両脇のガードストーンがない。

あって当然のものがないと、何故ないのか、その理由が気になってしまう。

石段を上がると正方形の基壇に円形のレンガ造りの建物。

崩れずに残った建物の一部に湾曲を見るだけですが。

ここには、ヤシの葉に文字を書いた経典が置かれていました。

サルを見るのは初めてではないが、ちょっと多いような気がする。

追っかけまわしたり、喧嘩したり、騒々しいから目立つだけなのかも知れないが・・・

 

 

 

 

 


118 スリランカの仏教遺跡巡り(2)ミヒンタレー

2016-01-16 07:15:38 | 遺跡巡り

アヌラーダプラからミヒンタレーへは、車で30分。

途中、猛烈な土砂降りに。

日本から持参のカッパなどまるで役にたちそうもない。。

その豪雨も5分ほどでピタッとやんだ。

何事もなかったように太陽が照り、道路は乾いている。

 

スリランカ仏教史の観点からすれば、アヌラーダプラよりミヒンタレーを先に回った方がいい。

なにしろミヒンタレーは、スリランカに最初に仏教が伝えられた場所だからです。

そんな聖地が発掘されたのは、1934年、私が生まれるわずか4年前のことでした。

なんと2200年もの間、ジャングルに埋まったまま気付かれずにいたというのだから、驚く。

新しい話のような、古い話のような・・・

 ◇9世紀の病院跡

駐車場から歩き出して、最初にぶつかるのが、病院跡。

「9世紀の病院跡」とは現場の英語説明板だが、そうすると「2200年ぶりの発掘」と は、整合しないことになる。

ミヒンタレーの歴史を読んで分かったのだが、ここミヒンタレーの仏教施設は、10世紀に破壊され、12世紀に再興、再び、廃墟となっている。

スリランカのどこの王都でも同じような、破壊と再建の繰り返しが、この地でもあったことになる。

小部屋が並んでいる。

個室の病室か。

人型の窪みの石台は、薬草に患者を浸して治療したものだろう。

伝統医療アーユルヴェーダの先駆けのようにも見える。

ミヒンタレー博物館には、外科手術用の用具もあるそうで、当時の先進医療がここで行われていたのはまちがいなさそうだ。

◇シンハ・ポクナ

シンハ=ライオン、ボクナ=沐浴場、だからライオン沐浴場。

立ち上がったライオンの口から出る水で、僧侶が沐浴した施設。

水は、右横の崖地から石組みの水道管を通して流れてきている。

この立ち上がるライオンはスリランカ彫刻の最高傑作と紹介する向きもあるが、立ち上がるポーズは珍しいけれど、彫技レベルはさほどではないように、私には見える。

スリランカでは、ライオンのデザインやレリーフを良く見かけるが、スリランカにライオンはいないし、いたこともない。

インド文化の影響だと思われる。

沐浴場前に住居跡の石柱が立っている。

水浴してさっぱりした体を横たえるお休み処だったのではないか。

説明がないから妄想ばかり湧いて来る。

◇食堂跡

ガイド氏の話では、僧侶たちの食堂ということだったが、説明板には「貧窮院」の食事提供所と書いてある。

一段低い大広間は、水の流れる食器洗い場だったという。

一度に5000人もが食器を洗ったというが、ではどこで食事をしたのか、その場所が見当たらない。

それとも足を水に浸したまま、立ち食いしたのだろうか。

下は、ごはんやおかゆを入れる舟形容器。

 

かなり大量のご飯を蓄えるわけで、ではその炊事場はどこか、となると判らない。

同じような石櫃に見えるが、洗濯板のようなギザギザがあるから、洗濯場ではなかろうか、とこれは私の推理です。

 

食材を保管する倉庫も不可欠で、それがどこにあるのやら、なんとも不可思議な「食堂跡」でした。

◇会議場

食堂の上は、会議場。

10世紀、マヒンダ4世によって建てられた。

スリランカ全土の僧侶の守るべき戒律や規則は、ここで決められていた。

入口の両側に立つ2枚の石版には、その規則が書かれている。

傍らのこじんまりした円錐形は、高僧の墓。

あちこちに点在している。

◇アムバスタレー大塔

 スリランカ旅行で、誤算があったとすれば、それは聖地の多くが山頂や崖上にあったこと。

自慢するわけではないが、極端に「上り」に弱い。

心臓が悪い上に、足も痛む。

都営地下鉄「神保町駅」は、エスカレーターがなく、地上まで階段をあがらなければならない。

途中、3回は立ち止まって休まなければならない身には、この石段はきつかった。

階段を上がる時間より、立ち止まって休む時間を多くして、なんとか頂上に到着。

眼前の白い大塔の立つ場所が、仏教伝来の伝説の場所。

伝説とはこうだ。

「紀元前3世紀、仏教拡大に意欲的なインドのアショカ王(阿育王)は、息子マヒンダをスリランカに派遣した。山で鹿狩りをしていたアヌラーダブラの王、デーヴアナンピヤ・ティッサ王は鹿に導かれるまま、山中でマヒンダに会い、彼の説く仏教の教えに惹かれて帰依し、スリランカ最初の仏教徒となった」。

 ディーバナンピヤ・ティッサ王

その王がイスルムニヤ精舎を建て、マヒンダの妹、つまりアショカ王の娘が持ってきたブッダガヤの菩提樹の分け木がスリー・マハー菩提樹となったことは、前述した。

この伝説と史実を通して浮かび上がるのは、アショカ王の偉大さだろう。

アショカ王は、タイやビルマにも仏教使節を派遣している。

アショカ王がいなければ、仏教は広がらなかったと考えていい。

 

アショカ王の息子、マヒンダ王子はスリランカにそのまま住んで、長老として敬われ、80歳でこの地で亡くなった。

その遺骨は、このアムバスタレー大塔に祀られている。

塔の背後に聳える岩は、マヒンダ長老が瞑想していた場所・インビテーション・ロック。

みんな上ってゆくが、私は、もちろん、敬遠組。

アムバスタレー大塔を挟んで反対側の山頂には、釈迦の毛髪が納められているマハー・サーヤ大塔があるのだが、これも上らなかった(正確には、登ろうとしなかった)。

 青空に溶け込むようにうっすらと見えるのが、マハー・サーヤ大塔

仏教遺跡巡りのレポートとしては、誠に不甲斐なく、情けない。

 

しんどい思いをして石段を上ってきたのには、もう一つの目的があったから。

それは、、レリーフが見事だと評判の仏塔カンタカ・チャイッテヤを観ること。

空が赤みを帯びて夕景になりつつある。

ガイド氏に催促すると「ここではないんです」との答え。

思いもしない事態にがっくり。

「それはないよなあ」とブツブツ言いながら石段を急ぎ足で下りる。

◇カンタカ・チャッテヤ

レンガ造りの仏塔は紀元前60年造立で、スリランカ最古。

他の仏塔のようにすべすべ、さらさらした表面ではなく、ごつごつしている。

積み重ねた基層の段によっては、動物の首がならんでいる。

東西南北に祭壇状のものが張り出していて、象、馬、牛、ライオンが東西南北にレリーフされている。

その配列は、ムーンストーンと同じだ。

つるべ落としのように急激に陽が落ちて、写真も撮れなくなってきた。

近くの巨岩には修行僧が住んだ洞窟がいくつもあるというが、もう撮影するのはあきらめざるを得ない。

街灯が点灯し始め、雨も降りだした。

車に駆け込んで、二日目は、これでジ・エンド。

 

 

 

 


118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(dアバヤギリ大塔)

2016-01-13 06:52:40 | 遺跡巡り

トゥパーラーマ大塔の北東は、元王宮跡。

いたるところに石柱が立っていて、小さな寺や住まいかあったことを物語っている。

その一角に人だかり。

◇ムーンストーンの傑作

今は廃寺となった僧院前のムーンストーン見物の人たちだった。

彼らが注視しているのは、スリランカNO1と評価の高いムーンストーンの傑作。

外輪には、炎。

次から次へと燃え上がる欲望を表わしている。

その内側の動物は、仏教での「四苦」、生老病死を表わす。

象は「誕生」、馬は「老齢」、ライオンは「病気」、牛は「死」。

その内側のつる草は、人間の欲望を表現し、次なる嘴にハスの花を咥えるガチョウは、啓示を受けて家族と決別するお釈迦さまを表わしているという。

一番内側のハスの花は、最高潮の物欲なんだそうだ。

物欲と四苦、悟るために克服すべきものを視覚的にみせる仏教芸術です。

信者はこのムーンストーンで履物を脱ぐ。

いわば聖俗の、ここが境界線なのです。

 

◇アバヤギリ大塔

本来、旅行日程には、アバヤギリ大塔は入っていなかった。

上座部仏教(小乗仏教)のスリランカにあって、アバヤギリ大塔は大乗仏教の本山だったと聞き、是非、寄って見たいとガイド氏に頼み、訪れた。

思いがけず小奇麗なダーガバ(仏塔)。

一瞬、別の仏塔ではないかと思った。

事前に見た資料写真は、いずれも屋根に草木が生えて、緑色だったからです。

どうやら数年前、ユネスコによる修復が完成して、現在の姿になったらしい。

白い仏塔より、このこげ茶色の方が、落ち着いた雰囲気があって、私的には好み。

アバヤギリの名称は、二人の人物の名前、アバヤとギリからつけたもの。

アバヤは、この大塔を建てた王。

一方、ギリは、タミル軍に追われ放浪中のアバヤ王を侮蔑したジャイナ教の僧侶の名前だった。

紀元前1世紀、14年ぶりに、この地に凱旋した王は、屈辱の報復にジャイナ教寺院を破壊、その地にこの大塔を建てたと伝えられている。

ダーガバは仏塔、大きいダーガバだから大塔なのだが、日本人には寺院の名前がぴったりくるようだ。

アバヤギリ大寺院。

今はキャンディにある「仏歯」も、当時は、1年に3か月間だけここアバヤギリ大寺院に置かれていたという。

「アバヤギリ大塔は大乗仏教の本山」という言い方は、どうやら不正確らしい。

自由で開放的な雰囲気に満ちた大塔寺院は、外国の僧にも門戸を開き、大乗仏教や密教などを積極的に受け入れる寛大さがあったというのが、正解。

アバ゛ヤギリ大塔は、漢字で「無畏山寺」と書く。

5世紀にここに留学し学んだ中国の学僧法顕は、その著書『仏国記』に、無畏山寺には5000人の僧がいたと記録している。

その中には、日本と関係のある不空三蔵もいた。

不空三蔵は、空海の師・恵果の師。

空海が持ち帰った金剛頂経などの密教経典は、不空がアバヤギリ寺院から中国へ持ち込んだものでした。

仏教世界の中心的研究機関であったアバヤギリ僧院も、10世紀末のアヌラーダプラ陥落とともに破壊の限りが尽くされた。

12世紀に再興されるが、その時すでに首都機能はボロンナルワに移転していて、財政的なひっ迫が復興をないがしろにしてしまう。

マハビハラ(上座部仏教)に宗派統一がなされたばかりだったことも大きく影響した。

いくつかの主要施設は再興されたものの、大多数は今も密林の下に眠ったままなのです。

 午後4時、東京ほどではないが、影が長くなって夕方の気配がする。

次の目的地ミヒンタタレー観光があるから、ガイド氏は落ち着かない。

急いで、アヌラーダブラ最後の観光地へと急ぐ。

◇サマーデイ仏像

疎林のなかに、どっしりと仏さまが座しておわす。

 

高さ約2m、3-4世紀に造られたと見られている。

1886年、ここで発見されたときは、地面に横倒しになって鼻が欠けていたという。

「Samadhi」というシンハラ語は、瞑想の意。

右肩を出し、右腕の下から左の肩に衣を懸ける偏袒右肩で、両手は踝の上で掌を上にして重ね、足は右足を上にして胡坐のように座る勇猛座は、スリランカ座像仏の定番スタイル。

欠けていた鼻の修繕が稚拙で、画竜点睛を欠くというのが、美術専門家の意見らしいが、素人目には素晴らしく見える。

純真でピュアな雰囲気が漂っています。

 

実は、アバヤギリ大塔を離れる際、どこか場所は不明なのだが、一体の野仏と出会った。

いつもの癖でパチリと写真に納めはしたが、その氏素性は不明のままだった。

ところが今、資料を読み進めていて「第2サマデイ」の存在に気付いた。

どうやらこの石仏が「セカンドサマディ」のようなのです。

両手は欠損しているが、元の姿を想像しても、手を踝の上におく禅定三昧のサマデイではないように見える。

日本では釈迦如来に固有な印相とされる転法輪印(説法印)ではないか、とは仏教美術専門家の見解。

その印相の仏像が、ルワンウエリ・サーヤ大塔の仏殿にあったので、参考のために載せておきます。

   左の仏像の印相が転法輪印

私の好みでは、「セカンドサマディ」の方がいい。

一切の夾雑物を排して、すっきりと穏やかに、しかも凛として周囲の空気を支配しているそんな感じがします。

 

 ガイド氏に急かされるまま車へ。

次の目的地ミヒンターレへ急ぐ。

だから巨大な水浴場クッタムポクナは車上から撮影しただけ。

ここは僧侶の水浴場だった。

スリランカ人は水浴が好きで、平均一日に3回は体を洗う。

男でも裸にはならない。

サロンで男は腰から下、女は胸から下を覆って、その中で手を入れて洗う。

特に、女性の、サロンを巻いての脱衣の仕方はお見事。

弥次馬のすけべ心が入り込む余地は皆無です。

これはスリランカだけでなく、中近東から東南アジアの広範囲にみられるスタイル。

 1年中暖かいから、お湯に入ることはない。

水なら野外にどこにでもある。

野外では人の目があるから、いつの間にか、脱衣の名人になるのです。

≪次回は、ミヒンタレー≫


118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(cルワンウエリ・サーヤ大塔)

2016-01-10 07:22:19 | 遺跡巡り

スリー・マハー菩提寺からルワンウェリ・サーヤ大塔へ。

 

ゴミ一つない道を歩く。

人通りは多いのに、静かだ。

大都市の、世界共通の喧噪を除けば、この国は、静かで穏やかな空気が支配している。

ルワンウエリ・サーヤ大塔

日本の寺ならば、さしずめ山門か。

正面にアヌラーダブラのシンボル、ルワンウエリ・サヤ大塔が聳えている。

その高さ55m、紀元前2世紀造立だが、古さを感じさせないのは、毎年、壁を塗り替えて、純白さを保っているからです。

小人のいるガードストーンを見ながら石段を上がる。

 

上がった広場が仏塔の基壇になっています。

そして基壇の外回りには、象がズラリ。

 

重い仏塔を群象が支えているイメージを作り出しているが、実際に巨大な仏塔の沈下を防ぐには地面を深く掘り下げ、砕石や粘土、鉄の網、樹脂などをきっちり詰め込んで、象に踏み固めさせたと云われている。

つまり象の力なくしてこの塔はありえなかったわけで、こうしたモニュメントがあってもなんら不思議ではないのです。

塔に近づいて、上を見上げる。

塔の先端は、見えない。

「一足分下がって見上げてみて」とガイド氏のことば。

わずか20㎝ほど離れることで、先端が見えるようになる。

「どこでやっても同じこと」だそうだ。

 

仏塔は、もともと釈尊やその高弟の遺骨(舎利)を祀る記念建造物。

スリランカでは、インド、ミャンマー、タイなどと同じくストゥーパ(仏舎利塔)となり、中国、朝鮮、日本では三重塔、五重塔として変化します。

世界中でも、こと仏塔の高さ、巨大さではスリランカが群をぬいている。

どうやらスリランカの人たちは、高い場所に聖なる神秘を感得する性向があるようだ。

大塔の周りは、歩いて回れます。

所々に仏殿があって、各国からの仏像が展示されている。

これはミャンマーからの仏陀像。

塔の内部にも多数の仏像があり、一番中枢の場所は、ローマ皇帝アウグストスに謁見したスリランカ国王の使者がローマから持ち帰った地中海の珊瑚で飾られている、という。

ローマ皇帝の名前なんかが出始めると、つい眉につばしたくなるが、どうやら嘘ではなさそう。

となると、我々はとんでもない遺蹟にいることになり、つい感激してしまう。

何度も繰り返すが、スリランカでは時代の古さを感じ取ることは難しい。

ここルワンワリサーヤ大塔のように毎年塗り替えられているからでもあるが、遺跡がお祈りの場として現役であることも大きい。

毎年塗り替えられているペンキは、大塔のすぐ脇で作られている。

白壁だから、白ければいいと云うものではないんだそうだ。

むしろブルーがかるように仕上げたほうが、塗った時に白く見えるのだそうで、青い貝殻を潰して塗料の材料にするのだという。

塗り替える作業は、僧侶とボランティアの在家信者。

女性は参加できない。

 

急に騒々しくなった、と思ったら、五色の長い布を頭上に掲げて、大勢の人たちが基壇の上を歩いて来る。

人々が集まってきて、布に合掌したりしている。

ガイド氏の説明では、今、塔に巻いてある赤の布を、近く、この五色に代える予定で、村をあげて五色の布を寄進しに来たグループだそうだ。

とにかくスリランカでは、信者たちの寄進行為がすさまじい。

◇トゥパーラーマ大塔

 ルワンウエリ・サーヤ大塔の北500mにある。

アヌラダープラ最古のストゥーパで、釈迦の鎖骨も祀られているのに、ルワンウエリ・サーヤ大塔などよりも重要視されないのは何故なのか。

ガイド氏にうっかり訊き忘れてしまったが、多分、それはルワンウエリ・サーヤ大塔が上座部仏教の本山だったからに違いない。

紀元前1世紀、それまで口伝だった経典をシンハラ語に書き写すという画期的な出来事は、ルワンウエリ・サーヤ大塔で行われた。

タイやミャンマーなどの仏教は、ルワンウエリ・サーヤ大塔の流れを汲んでいる。

トゥーパーラーマ大塔については、もう一つ、疑問がある。

 

釈迦の歯は、キャンデイの「仏歯寺」に国宝並みの扱いで保護されているというのに、釈迦の鎖骨を収めたトゥパーラーマ大塔は、ほとんど注目されることなく、存在している。

 

何故だろうか。

「仏教の教義は、釈迦の言葉で伝えられた。言葉は、口から発せられる」。

だから、「骨よりも歯の方が重視されるのです」とは、ガイド氏の説明。

仮に、彼の説明が正解でも、その差は大きすぎはしないだろうか。

日本にこの舎利があれば、国宝間違いない。

スリランカの仏教遺跡の「凄さ」が垣間見える出来事です。

 

 

 


118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(bスリー・マハー菩提樹)

2016-01-07 07:23:11 | 遺跡巡り

駐車場で裸足になって、参道を菩提樹に向かって歩く。

犬が2匹、熟睡している。

いや、涅槃する犬というべきか。

犬は悟りを開かない、とは限らないのだから。

問題は、スリランカには涅槃する犬が多すぎること。

 

いつもの癖で、石造物があるとつい無意識にカメラを向けてしまう。

手前に伸びるレンガ壁はかなり古そうだ。

菩提樹がここに植えられたのは、紀元前3世紀のことだから、古さの基準がべらぼうでいつのことか想像もつかない。

ゲート脇の売店。

供花用の花を売っている。

どこかで養殖栽培しているのだろう。

1包み100ルピー(100円弱)。

 

菩提樹は、白壁の建物で囲われている。

もちろんムーンストーンもあるし、

ガードストーンもある。

 

今、気付いたのだが、菩提樹堂の中で、菩提樹を見上げ、祈る信者たちの写真が、ない。

 これは、菩提樹堂を出た場所の写真。

狭い空間なので写真の撮りようがなかった。

暗い部屋にいる信者、明るい樹木、コントラストが激しくて撮影を断念した。

熱心に祈る彼らの姿に気後れして、シャッターを押せなかった。

多分、3つが重なってのことだろうと思う。

弥次馬なりの良心が働いたということか。

なにしろ、ここは、スリランカの聖地中の聖地。

信者たちは、菩提樹に瞑想する仏陀その人を感得しつつ拝み、祈ります。

元はといえば、インドのブッダガヤで瞑想にふける仏陀を、その木蔭で、悟りを開かせやすくした木、それが菩提樹でした。

その菩提樹の分け木をインドのアショーカ王の王女がスリランカに運び、手渡されたデーワーナンピャ・ティッサ王がここに植樹したというわけ。

紀元前3世紀のことです。

菩提樹になじみがない日本人にはピンと来ないが、スリランカの仏教徒にとって、菩提樹は「生きている聖遺物」。

寺院である条件の一つは、境内に菩提樹があること。

仏塔、仏像も不可欠で、この3要素が揃って、初めて寺院と認められるのです。

弥次馬の私が気後れして写真もろくに撮れないほど熱心に祈る人たちは、スリランカ各地から遠路はるばるやってきた巡礼者たち。

徒歩で、あるいはバスで、人家の軒先で横になり、あるいは野宿し、やっと念願の聖樹とご対面できたのですから、真剣にならざるをえない。

本場インドのブッダガヤの菩提樹は枯れてしまって、その遺伝子を残す樹木はこの菩提樹だけといわれています。

2300年もの古木は、大木をイメージさせるが、実際は、今にもポキンと折れそうなほどの幹の細さ。

スリランカの総ての菩提樹は、この聖樹の子孫だと云われているそうだが、なるほど、とへそ曲がりの私でも納得してしまう話です。

 聖なる菩提樹の霊厳は、子授け。

     自らの経験を語るガイドさん

「結婚後7年、子供が生まれなかったのに、ここへきてお祈りしたら、子供を授かった」とそのご利益を語ってくれたのは、ガイドさん。

祈りが通じて、願いが達せられたら、ワウ(旗の連なり)を鉄柵に縛って、お礼の報告をするのだとか。

見ていると、次々とワウをしばりつける人が後を絶ちません。

菩提樹の霊厳はあらたか、ということになります。

 ◇ローハ・パサーダ

スリー・マハー菩提樹を後にして右手にあるのが、ローハ・パサーダ(青銅殿)。

スリランカの遺蹟の呼称は、何通りもあって紛らわしい。

ちなみに「Loha Pasada(ローハ・パサーダ)」はパーリ語、シンハラ語では「Lova maha paya(ローハ マハ パヤ)となり、英語では、Brazen Palaceとなる。

紀元前2世紀にに建てられた僧院跡で、規則的に並んだ石柱が印象的。

残された石柱は、40本40列の1600本。

1600本の石柱が支えていた建物は9階建ての木造建築だったという。

1000もの部屋は、金銀、サンゴ、宝石で飾られ、バルコニーと窓の手すりには銀が嵌め込まれて、およそ僧院には似つかわしくない華美な建物でした。

屋根が青銅で葺かれていたので「青銅宮殿」と呼ばれていたといいます。

 

 


118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(aイスルムニヤ精舎ー2)

2016-01-04 06:07:16 | 遺跡巡り

本堂を出ると左に池が広がっている。

コイン投げに興じる人たちがいる。

コイン投げの目標の穴の下に、象のレリーフが見える。

鼻で体に水をかけている構図。

よく見ると左にも2頭、こちらに歩いているようだ。

なぜ岩に象を彫りこんだのか、その真意は計りかねるが、宗教とは無縁な、自由な題材にスリランカ人が愛してやまない象を取り上げ、のびのびと闊達にノミを振るう石工の楽しそうな姿が目に浮かぶ。

2頭の象の上には、男と馬。

6世紀頃の制作とみられているが、だとすると法隆寺壁画より1世紀も前のことになる。

男は「嵐の神」で馬は「光」を表わすのだとか。

その伸びやかなタッチは、古さを感じさせない。

この3点のレリーフは、スリランカを代表する傑作として有名だが、実はこの他にも何点かの作品が見つかっています。

寺院北側の王宮庭園で発見されたレリーフは、現在、宝物館で展示されている。

 

そのどれもが宗教とは無縁なテーマであることが面白い。

仏都アヌラ-ダプラにあって、無宗教的レプリカがなぜ彫られたのか、それは謎のままです。

代表作は「恋人たち」(4-6世紀)。

男は、紀元前2世紀、この地を治めたドッタガーマニ王の息子サーリ王子。

女はその恋人マーラ。

低いカーストのマーラを妻とするため、王位継承を捨てた王子の物語は、長く語り継がれて来た。

豊満な美女マーラに寄り添いながら、得意げに愛の歌を唄う王子。

純愛かつエロチックな彫像の主人公はこの二人で決定かと思われるが、異論がないわけではない。

戦場から休暇で家に帰った戦士と妻という説は、男の衣服と背後の剣と盾を根拠とする。

シバ神とその妻パールバーティ、とする説もある。

チベット仏教の文殊菩薩だという見立てがあれば、インドネシア仏教芸術ではありふれた構図だという人もいるらしい。

異説が多いということは、作品が古くて、傑作であることの証。

同レベルの彫技と思われる作品を何点か載せておくので、鑑賞ください。

 

            王と妃

        王妃

          富の守護神ガナ

無宗教のレプリカばかり、と書いたが、訂正がある。

明らかに仏陀像と思われる座像があるからです。

首から上がなく、衣紋も消え、印相もはっきりしないが、スリランカではごく当たり前の禅定三昧、瞑想中のブッダ坐像であることは間違いない。

それにしてもこの佇まいはただ者ではない。

あらゆる夾雑物を排して、すっきりと穏やかで格調高く厳か。

色彩がないのが非スリランカ的で、だから、日本人好みの石仏だと云えるかもしれない。

少なくとも私は好きだ。

宝物館を出ると石柱と石仏があるので、いつもの癖で、ついパチリ。

寺院の境内にこうした石仏がある風景は、しかしながら、このあと1回も見ることがなかった。

あるとすれば仏陀像で、それは寺院にも各家庭にもおわすけれど、石仏として庭や路傍にあることはないようだ。

人の列が大きな岩をくぐって続いている。

本堂上の展望台からは、アヌラーダプラを俯瞰することができる。

世界遺産の古都は、緑の樹海の中にすっぽりと包まれてその片鱗さえも見せていない。

精舎の隣は、水田。

田植えしたばかりの田んぼだが、今年何回目の田植えなのだろうか。

「三毛作が普通です」とはガイド氏の答え。 

≪次回は、スリー・マハ菩提樹≫

            

 


118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(aイスルムニヤ精舎)

2016-01-01 07:39:25 | 遺跡巡り

明けましておめでとうございます。

新年幕開けは、表題のごとく、スリランカの仏教関連世界遺産巡り。

ひょんなことから、去年の暮、スリランカへ旅行してきたので、その報告です。

ひょんなことというのは、旅行に誘ってくれたのが、娘だったこと。

娘と云っても52歳のおばさんですが。

「どこか暖かい所へ」というので、バリ島などをイメージしていたら、行き先はスリランカだという。

候補地としてまるで思いもしない国で驚いたが、私の石仏趣味を計算のうえでの選択だったらしい。

これが見事に的中、大満足の石仏巡りとなりました。

 

小乗仏教の国、紅茶の産出国くらいしかスリランカについての知識のないまま、12月中旬、バンダラナイケ空港に着陸。

入管に向かう通路の正面でお釈迦さまがお出迎え。

さすが仏教大国です。

翌日、アヌラーダブラへの車中、ガイド氏が説明した1951年のサンフランシスコ対日講和条約秘話も印象的でした。

日本の分割統治を主張するソ連などに対して、セイロンのジャワワルダネ全権は「憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む」と仏陀の言葉を引用し、賠償請求権を放棄しました。

この言葉によって日本は分割統治されずにすみます。

この史実は、スリランカでは教科書に載っていて、スリランカ人なら知らない人はいないそうですが、恩恵をこうむった日本ではほとんど知られていません。

私が感銘を受けたのは、そうした世界的な会議で、仏典の一節をさらりと口にするスリランカのリーダーの文化度の高さです。

       スリランカ国会議事堂

仏教が生活の中に組み込まれ、溶け込んでいる国でなければ、こうした人物は輩出しないでしょう。

「憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む」。

 近隣のどこかの国の人たちに耳を傾けてほしいことばです。

もちろん日本人の私たちもですが・・・

 

スリランカは北海道の8割ほどの広さに8つの世界遺産があります。

今回の旅行は、そのうち仏教関連世界遺産5か所を回ろうと云うもの。

コロンボ⇒アヌラーダブラ(+ミヒンターレ)⇒ボロンナルワ⇒シギリヤ⇒ダンブッラ⇒キャンディ⇒コロンボ

 

北から南への仏教遺跡の連なりは、他国からの侵略軍に敗北して、山地の内奥へと拠点を移しつつ、後退し続けたスリランカ仏教王国の足跡でもあります。

 

ニゴンボのホテルを朝8時に出発、午後2時近く、アヌラーダプラに到着。

真冬の東京から来て、一転、炎天下の長時間ドライブは77歳の身にこたえる。

しかし、「疲れた」などと云っていられない。

なにしろ旅行プランでは、アヌラーダプラ観光にかける時間は、わずか1時間半。

世界遺産の宝の山に入るのに、いくらなんでもそれでは短時間すぎるとガイドさんに頼んでちょっと延長してもらったばかり。

紀元前4世紀、バンドゥカバヤ王がここに都を定め、西暦993年に南インドのタミル国家の侵略を受けるまで、およそ1400年もの間、アヌラーダプラは仏教徒政治の中心地として栄えてきました。

紀元前3世紀に仏教が伝来してからは、歴代の王は仏教保護に努め、仏塔や寺院を建築、これらの遺蹟は40平方キロにわたり点在しています。

駆け足観光は、その遺蹟地帯を南から北に走り抜けることに。

まずは、南端のイスルムニヤ精舎(しょうじゃ)へ。

精舎とは聞きなれない言葉ですが、「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」(平家物語)のあの精舎です。

◇イスルムニャ精舎

スリランカで初めて仏教を受容したデーバアナンピヤ・ティッサ王が、アヌラーダプラを仏都とすべく、その第一歩として建てたのが、イスルムニヤ精舎。

 

スリー・マハ菩提樹も仏歯も、当初はここにありました。

精舎が創立されたのは、紀元前3世紀、スリランカに仏教が伝わった直後のことです。

日本では、縄文時代の終わりころということになります。

当時の日本にとっての先進国・中国に仏教が伝わったのは、1世紀ですから、それよりもずっと昔のこと。

そんな凄い史跡にいるんだと思うと、なんとなくゾクゾクする。

料金所の傍の塀には履物がズラリ。

スリランカの寺院では、裸足、脱帽が決まり。

ただし、靴下はOKです。

料金所で入場料を払うガイド氏。

スリランカの人たちはタダ。

外国観光客からだけの徴収です。

このイスルムニャ精舎だけなら200ルピー(約200円弱)、アヌラーダプラ全体の観光入場料はUS25$だということを帰国後知った。

食事も観光もすべてガイドまかせの「殿さま観光」は、楽と云えば楽だが、こうした金銭感覚に疎くなるのが欠点でしょう。

まずは、本堂へ。

本堂は、アヌラーダプラでは珍しい石窟寺院。

屋根付きの建物で石窟を覆った形になっています。

本堂へ上がる石段の前にスリランカ寺院では定番のムーンストーンがある。

ムーンストーンは、花崗岩か石灰岩にデザインを浮き彫りした半円形の敷石。

参拝者のための清め石で、裸足でこの石に乗り、浮彫の聖獣を見ながら、心を清め、鎮めさせる役割がある。

いかなる寺院でもムーンストーンから奥は聖域ということになります。

そして、石段の最下段手前両側にあるのが、ガードストーン。

本尊を外部の悪魔から守る守門神で、日本で云えば、さしずめ仁王様か。

このムーンストーンとガードストーンについては、のちほど何度か取り上げる予定。

本堂に入る。

正面にお釈迦さまが横になっておわす。

いわゆる「寝釈迦」だが、これは「横臥像」なのか「涅槃像」なのか。

ガイド氏は「両足の指が重なって揃っていなければ、涅槃像」だと云う。

 ほんのわずか、上の左足が後ろにずれているようだ。

しかし、涅槃像ではない横臥像にいかなる意味があるのだろう。

 それにしても「寝釈迦」さまの朱色は、どぎつすぎはしないか。

日本人がスリランカの仏像を見て誤解する条件の一つが彩色。

色落ちすればすぐ塗り替えるスリランカでは、ピカピカの仏さまであっても新しいとは限らない。

彩色が落ち、木肌に虫食いの跡が残る木像仏にわびさびを感じる日本人は、ピカピカの仏さまには厳かさを感じない。

「なんだこんな新しい仏像」とつい軽視しがちなので、要注意。

更に注意を喚起するとすれば、これは磨崖仏であること。

ほとんど丸彫りに近いので、つい忘れがちになるが、背後の岩を彫ったもの、背中の一部はつながっているはずです。

重機もない時代、どこか別の場所で彫って運んできたと考える方が不自然でしょう。

もう一つ、余計な情報を付け加えれば、この本堂の総ての石像の彩色は、日本の浅草寺の援助でおこなわれているのだとか。

日本の寺にふさわしい援助は他にもあろうかと思われるが、ま、余計なお節介でしょうか。

「寝釈迦」の頭の横の4体の仏像は、中の朱色の衣の座像と立像は、ゴータマ・シッタルーダ(悟りを得る前のお釈迦さま)。向かって右は、高弟シャリープトラ(舎利発)、左の茶色の衣は、高弟アーナンダ(阿難陀)。

その隣のブルーの装いの男は、このイスルムニャ精舎の創立者・デーバアナンピヤ・ティッサ王と云われています。≪続く≫