石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

101 石で知る江戸城(三)ー内濠を一周するー

2015-04-16 05:44:41 | 石で知る江戸城

田安門から皇居西側を回って桜田門までのコースは、桜満開の4月第1週、大勢の花見客に混じっての散策となった。

止まることもままならない人ごみで、散策とはいえそうもなかったが・・・。

花見客が入らない写真を撮ることが難しい。

地下鉄「九段坂下駅」を出ると、左に田安門がある。

寛永13年(1636)建造の、江戸城で最も古い門。

国の重要文化財です。

門を入った北の丸公園の西側は、吉宗の次男が興した田安家の敷地でした。

田安門両側の石垣の石は濃淡があり美しい。

桜越しの内濠は一年で最も美しい景色です。

行列に並んで進むとすぐ見えるのが、「常灯明台」。

明治4年(1871)、靖国神社正面、つまり現在地点の道路の向こう側に建てられたもの。

上部が洋風なのは、当時の西洋かぶれの現れだそうです。

建設時は、東京湾を航行する船の灯台の役割を果たしていたというから、隔世の感があります。

続いて銅像が、2基。

手前が品川弥次郎子爵、奥が大山巌公爵像だが、興味がないので、パス。

子爵と公爵、どっちが「おえらいさん」なのかも知らない。

右手に靖国神社を見ながら、行列に従って左の千鳥ヶ淵遊歩道へ。

インド大使館では「さくらフエスティバル」中。

インドの物産とグルメで賑わっていた。

閉鎖的な大使館としては、珍しくオープンなイベント。

千鳥ヶ淵の幅は広い。

北の丸側は石垣ではなく土塁だが、これだけ濠が広く、土塁が高ければ、要塞として十分だろう。

手前に首都高、その奥に濠と北の丸が見えると千鳥ヶ淵も南のはずれ。

お濠の上の高速道路を、江戸城の景色を台無しにするものと見るか、新旧の対比鋭い、いかにも現代東京らしい光景と見るか、議論が分かれそう。

今は、内堀通りから北の丸へと代官通りが伸びているが、昔は千鳥ヶ淵と半蔵濠とは繋がっていた。

代官通りから半蔵門までの遊歩道は、幅が広がって人通りもややゆったりしている。

公園の幅があるから花見のブルーシートが多い。

会社の花見だろうか、場所取りの男が一人ぽつねんと座っている。

中国人観光客がシャッターを切っている。

現代日本を表わす格好の被写体、なかなかのセンスだと感心した。

ところどころに石碑がある。

近寄って見たら「第一東京市立中学校発祥之地」とある。

帰宅して調べたら、九段高校の前身で大正年間ここにあったのだとか。

他にもいくつか公共施設の跡地表示がある。

半蔵門は、天皇家の通行門。

「半蔵」の名は、この門を警固した服部半蔵に由来したもの。

甲州街道の始点でもあります。

下の写真は、半蔵濠から半蔵門の土橋を見たもの。

水面からの高さがかなりのものであることが分かります。

防御の観点からすると必要な高さだったのでしょう。

半蔵門で桜並木は終わり。

歩道はジョギングの人が通り過ぎるだけに。

春色の土手の緑とお濠のブルーが相まってとても都心とは思えない光景が広がる。

このあたりは、江戸城構築の際、谷筋だったものをそのまま利用したものだとか。

土手下の水面近くに一本の柳。

歩道際の説明板によれば、「柳の井戸」で、江戸時代、通行人ののどを潤す湧水として有名でした。

浮世絵に描かれた名水の井戸は、この「柳の井戸」の、道路をはさんで反対側にもある。

「桜の井戸」。

加藤清正の屋敷で清正が掘ったというのだが、殿様が井戸を掘るものか。

その後井伊家の屋敷となったので、井伊大老はこの井戸のそばを通り、桜田門へ向かう途中襲われたことになります。

「桜の井戸」から右手に国会議事堂を見ながら、長い横断歩道を2度渡るとそこが地下鉄「桜田門駅」。

膝痛の私としては、これだけ歩くのが精いっぱい。

2番出口からホームへ。

今日は、これでお終いとします。

 

1週間後、「桜田門駅」3番出口を上る。

出た所が、桜田門の真ん前。

振り返ると桜田通が伸びているが、日本橋が起点になる前は、桜田門が東海道の起点だった。

桜田門は江戸城の城門のなかでも大きい方だが、高麗門そのものは間口が狭い。

高麗門から中を覗くと右に巨大な渡櫓(わたりやぐら)が見える。

門の上の黒っぽい帯状のものは、銃眼。

高麗門を入った侵入者は、ここから一斉射撃されることになる。

井伊大老もここまで逃げ延びれば、一命をとりとめたに違いない。

高麗門があり、渡櫓があるから枡形門なのだが、風変わりなのは、高麗門の正面に石垣がないこと。

石垣は、桜田濠の向こう、西の丸にある。

敵が高麗門を入っても、はるか向こうの高みから攻撃をすればいいわけで、石垣の必要がないのです。

桜田門の石垣は美しい。

 江戸城石垣の大半は伊豆の安山岩だが、ここには花崗岩も使用されてて、石のグラデーションが見事。

田安門といい勝負です。

 

渡櫓をくぐり、直進すると内堀通りにぶつかる。

そこに「特別史跡江戸城跡」の看板。

史跡でも「特別史跡」となると別格。

全国でわずか61か所しかない。

東京都では、3か所、江戸城の他は、浜離宮、小石川後楽園だけです。

内堀通りを右折するとすぐに祝田橋。

         祝田橋

祝田橋のネーミングは、明治39年(1906)、日露戦争の勝利を祝う凱旋パレードのために造られたから。

ちなみに祝田橋の西側、桜田門を望む濠は凱旋濠です。

       凱旋濠

歴史にちなんで濠の名前をつけるのなら、祝田橋の東側は日比谷濠だが、その突当りには第一生命ビルがあるのだから、「GHQ濠」とか「マッカーサー濠」とでもすればいいのに。

「凱旋濠」に対抗して「敗戦濠」でもいいかも。

        日比谷濠(マッカーサー濠?)      

 晴海通りを銀座方向に進む。

左は日比谷濠で、右は日比谷公園。

日比谷公園には外濠の跡があるが、それについては、NO62「石で知る江戸城②外濠を歩く」で触れたので、ここでは取り上げない。

ここは、外濠と内濠が最も近接していた地点だった。

日比谷交差点でお濠沿いに北へ進む。

右に帝国劇場を見ながら行くと馬場先門跡。

今は標柱があるのみ。

門の奥に馬場があったから馬場先門。

写真を見れば分かるように現在は濠がここで切れているが、江戸時代は橋が架かっていた。

日露戦争後に橋が埋められ、枡形門も撤去された。

千代田区観光協会のブログでは「日露戦争勝利の提灯行列が、この門にはばまれて大勢の死傷者が出たため、明治39年(1906)に枡形は撤去されました。現在は石垣の一部だけ残っています。」と書かれている。

 

馬場先濠沿いに北に進むと行幸通りにぶつかる。

東方向を見ると正面に小さく東京駅。

はるか向こうの様に見えるがわずか300mに過ぎない。

道路の短さに比べ、横幅が73mと広いのは、中央に天皇が行幸の際に通行する専用道路が走っているから。

わずか300mの道路だが、レッキとした都道で、正式名称は「東京都道404号皇居前東京停車場線」。

濠に面して立つコンクリートの建築物は、何だろうか。

行幸通りが関東大震災後に造られたことを考慮すると、守衛所、と断じてよさそうだ。

それぞれのお濠に1羽か2羽の白鳥がいる。

飛べない様に翼を切ってある、と聞いたことがある。

 

行幸通りを過ぎると和田倉橋はすぐそこ。

和田倉の「倉」は、江戸城建設の際、物資の貯蔵倉庫があったから。

日本橋へとつながる道三堀の起点でもあった。

橋は、木橋。

江戸城内濠に架かる橋としては、平川橋とこの和田倉門橋が今に残る木橋です。

江戸時代の雰囲気が出ています。

橋を渡ると枡形門。

建物はないが、石垣の配置でそれと分かる。

枡形門には珍しく左サイドの渡櫓をくぐるとそこに和田倉噴水公園。

今上天皇ご成婚記念に造られたもの。

木蔭に人影が3人。

喫煙所だった。

外国人旅行者が日本に来て驚くスポットの一つが喫煙所だという。

外国人でも主として中国人かも知れないが。

 

和田倉濠は、日本生命ビルに沿って左折している。

ビルとお濠の間に道はないので、日比谷通りを北上する。

次の交差点を左折するが、この道は日本橋や茅場町を通り永代橋へつながる永代通り。

左折した突当りが大手門になる。

 大手門からの光景。手前が内堀通り、縦に伸びるのが永代通り。

いわずもがな、江戸城正面だから、大手門。

諸大名の登城口だったから、混雑した。

殿の下城を待つ家来ども相手の屋台も出ていたらしい。

大手門の内側は、現在、皇居東御苑として開放されている。

城内石垣も一見に値するが、今回は内濠編なのでパス、回を改めて紹介する。

大手門の南側は桔梗濠、北は大手濠と分かれている。

 

       桔梗濠               大手濠       

凱旋濠、日比谷濠、馬場先濠、和田倉濠と皇居外苑を取り巻く形の濠は、パレスホテルと内堀通りに遮断されて、ジ・エンド。

内堀通りの向こうは、桜田濠、二重橋濠、蛤濠とつながる桔梗濠になっている。

 

大手濠沿いに北へ。

三井物産ビル、東京消防庁、気象庁とかなりの距離を歩く。

所々、県の花のタイルがある。

散り遅れた桜の下で写真を撮っている人たちがいると思ったら、小さな緑地公園だった。

桜をバックに銅像が立っている。

和気清麻呂像。

ネット検索によれば、勤王の忠臣で、昭和16年(1941)ここに建立されたとのこと。

清麿像の前のイチョウは、表皮がはがれ、木肌がむき出しになっている。

樹齢150歳、関東大震災の火災の中唯一生き延びた「震災イチョウ」だとのこと。

緑地公園を出て、前方を見やると横たわっているのが、パレスサイドビル。

次の目的地、平川門は毎日新聞が入るパレスサイドビルの前にある。

 

和田倉門と同じように、平川門も木橋。

銅製の擬宝珠(ぎぼし)には、「寛永元年甲子八月吉日 長谷川越後守」と刻されています。

平川門の構造を文章で伝えることは難しい。

写真でなら分かりやすいものだが、写真でも分かりにくい。

上の写真は、平川橋から西の竹橋方向を望んだもの。

左手の石垣が平川門から竹橋に向かって伸びている。

石垣の向こうは城内と誰もが思う、それが落とし穴。

帯曲輪(おびくるわ)という幅の狭い城郭が平川濠を斜めに竹橋まで横切っているので、帯曲輪の向こう側も濠なのです。

パレスサイドビル9階のレストランから見下ろすと全体の情景が分かるのだが、生憎、日曜日で閉店。

案内図で全体図を把握してください。

 

平川橋を渡る。

普通は、高麗門が正面にあるのに、ここでは橋を渡って右に門がある。

門を入ると右にあるはずの渡櫓が左にあるのも珍しい。

渡櫓の右端にも門があるが、これが有名な不浄門。

平川門の構造を複雑にしたのが、この不浄門です。

不浄というのは、城内の糞尿をこの門から出していたから。

余計なことを付け加えれば、当時、糞尿は畑の肥やしとして有用でした。

死人や罪人もこの不浄門から出されたから、浅野内匠頭や絵島もここを通ったことになります。

渡櫓をくぐって右を振り返ると濠があって帯曲輪が見える。

  右のこんもりした茂みが帯曲輪、奥が竹橋、左の石垣は江戸城石垣

ここで初めて、平川濠の中に帯曲輪が通っていることが分かります。

 

 平川門を出て、竹橋方向へ。

 橋のたもとに枝を広げた樹木がある。

その枝の下に、江戸城石垣用石材が三個積み重ねられている。

上の石には刻文がある。

「太田道灌公追慕之碑」と題して、顕彰文が一面を覆うが、注目すべきは次の1行。

「この石材は江戸城虎之門枡形の遺材にして、道灌公当時のものにはあらざるも、因縁深きものにして特に本碑材に選定することとせり」。

 

平川橋から竹橋は指呼の間。

竹製の橋だったから、竹橋と云う説が有力。

白鳥が何かをつついている。

何かと思ったら、死んだ鮒だった。

つついて遊んでいるのであって、食べるのではない。

1mはある鯉も見かけた。

竹橋から平川濠を振り返る。

正面奥に平川橋。

その右に枡形門。

右の石垣が帯曲輪。

このあたりは、外堀(日本橋川)が内堀に最も近接している場所。

外堀の一ツ橋門を敵が突破すれば、そこは内堀、本丸はすぐそこです。

敵の攻撃が本丸に直接及ばない様に、帯曲輪(細長い城郭)を濠の中に設けた、そう解説する向きもあります。

 

竹橋を過ぎると途端に人通りが少なくなる。

ジョガーは皆、北の丸公園へと消えてゆくようだ。

清水門は内濠にかかる門の中で、最も観光客が少ないのではないか。

私も初めて訪れた。

内堀通りから清水門への道は、土橋。

左は清水濠。

右は、牛が淵濠。

牛が淵濠の土塁の上に武道館の屋根が顔をのぞかせている。

高麗門と渡櫓の枡形門のスケールが大きくて、ゆったりしている。

       手前の扉が高麗門、右奥が渡櫓

なにより素晴らしいのが、渡櫓をくぐってUターンする形の雁木坂。

江戸時代そのままの石段だそうで、歴史がにじみ出ている。

雁木坂を上がると左にベンチサイト。

清水門が一望できる絶景ポイント、お勧めです。

 雁木坂の上から北の丸公園に入り、武道館の前を通って、田安門へ向かうこともできるが、今回のテーマは「内濠一周」なので、来た道をもとへ戻り、内堀通りへ出る。

ここから九段坂下交差点までは、ビルに遮られて濠は見えない。

        九段会館

交差点を左折、昭和館のベランダホールから内濠が一望できる。

土塁の下に石垣を組むスタイルは「腰巻石垣」というのだそうだ。

いいネーミングだが、腰巻を知らない日本人も多いようだから、そのうち注釈がつくようになるのだろうか。

濠の突当りの上に白壁がチラリと見えるのが、田安門。

これで江戸城内濠一周は、ゴール。

約8キロ弱か。

このシリース名は「石で知る江戸城」。

だが、石造物があまりにも少なく、タイトルを偽ったようで気が引ける。

次回は、江戸城内跡地へ入ります。

 

私のネタ本は、黒田涼『江戸城を歩く』。

殆ど丸写し、盗作の誹りを免れない。

黒田さん、ごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


62 石で知る江戸城②外濠を歩く(赤坂見附ー新橋ー数寄屋橋ー呉服橋)

2013-09-01 15:28:49 | 石で知る江戸城

前回は、水道橋から飯田橋、四ツ谷、赤坂見附と外濠を反時計回りに廻りました。

今回は、その続き。

スタートは赤坂見附です。

          赤坂見附

 

地震の度に液状化現象が騒がれます。。

「東京に大地震がきたら、溜池界隈のビルは横倒しになるだろう」、そんな言葉がテレビから流れていたのを覚えています。

古地図を見ながら、「そうだよな」と呟いてしまう。

 

思いがけない幅の広がりで、「溜池」が 赤坂見附から東へと台地の下に横たわっています。

埋めたとしても地盤は軟弱で、湿地帯だから液状化は免れないでしょう。。

溜池は、江戸初期、外濠兼用の上水源として造られたものでした。

東端の、溜池(現在の地名)で堰となって外濠に水が流れ落ちていました。

その流れ落ちる水音が大きくて、「赤坂のドンドン」と呼ばれていたということです。

 

上の緑色の地図を見てください。

溜池落とし口を流れ落ちた水は、すぐに左へ、そして右へとほぼ直角に流れを変えてゆきます。

この辺りは虎ノ門になりますが、ここには外濠遺跡が3か所残されています。

その1か所は、文化庁がある文部科学省の敷地。(地図では、赤丸の現在地)

文化財保護・保存の総本山の足元だけに、外濠遺跡の展示と説明には目を見張る素晴らしさがあります。

その説明に従って遺跡を見てゆきましょう。

まず、最初の曲がり角には、櫓(やぐら)台がありました。

現在は三井ビルの前の緑地帯にある石垣がその一部。

 

櫓の代わりに霞が関ビルがそそり立っています。

外濠の隅櫓は、筋違橋門と浅草橋門、それにここ虎ノ門の3か所にありました。

いずれも奥州街道、中山道、東海道に面していて、江戸城防備の要衝でした。

櫓台は外濠の内側にありました。

図では、左下の赤い点がその場所です。

櫓台の前の空き地が外濠を表現しているのですが、実際はもっと幅が広いものでした。

三井ビル全体がすっぽり入る位の幅があったのです。

もう一度、一つ前の復元図を見てください。

復元図では、一番下が櫓台、次が教育会館虎ノ門ホール前の石垣、三番目が地下鉄「虎の門駅」展示室前の石垣、四番目が文科省中庭の石垣と外濠に面して一直線に並んでいます。

上は、国立教育会館虎ノ門ホール前の石垣。

道路の向こうのビルは三井ビルで、歩道橋の端の下に櫓台があります。

ビルの前の茂みの下です。

櫓台が虎ノ門ホール前の石垣の延長線上にあることがよく分かります。

この石垣の前に外濠の水面があったことを想像してください。

で、その水面は、地面より高いですか、それとも、低いでしょうか。

その答えは、地下鉄「虎ノ門駅」の外堀跡地下展示室で確かめることができます。

展示室は、11番出口のエレベーター坑の背後にあって、左の階段を上ってゆきます。

展示室の外に石垣があるのがガラス越しに見えます。

面白いのは、ガラス面の下面が濠の水面になるように設定されていること。

しゃがんで水面から見上げれば、ミズスマシやゲンゴロウの目線で石垣を見ることになるのです。

発掘、復元された石垣の高さは7.4mですが、実際には9m程度はあったと思われています。

矢羽の刻印は、豊後佐伯藩毛利高直の印。

この個所が豊後佐伯藩の担当区域だったことを示しています。

展示室には大きなパネルが3枚。

外濠の歴史、石垣建設の技術、虎ノ門の石垣遺跡について、丁寧に説明しています。

石垣普請に先立っての、伊豆での石切りや石の運搬、船による輸送などの諸相も線画で見ることができます。

 

       石持棒による運搬                   石の加工

     修羅による大石の運搬

展示室から地上に出て右へ、文科省の中庭に、また石垣があります。

中庭の一角を掘り下げて、長さ35m、高さ4.5mの石垣の観察スペースが設けられています。

 

 

この写真では石垣の右手がお濠だったことになりますが、そちら側には「江戸城外堀跡の発掘調査」の全容が提示され、遺跡の保護と展示の模範形を見る思いです。

 

文科省の中庭を横切って右折すると国道1号にぶつかります。

外濠は国道を渡り、右の日土地ビルの下を東に流れていました。

  左、郵政ビル   右、日土地ビル

千代田区と港区の区境も外濠の跡に沿っています。

古地図では、途中でちょっと外濠が左に曲がり、また東へと伸びています。

この屈曲は、現在でも同じ。

右に大同ビルを見て進んで行くと、東京桜田ビルにぶつかります。

ぶつかって、左に少し曲がり、また東進することになるのですが、これは古地図そっくりの曲がりです。

当然、区の境界線も曲がっています。

こうした曲折はもちろん意図的に設けられました。

濠の向こうからの敵に対して、側面から砲撃できるからです。

この東京桜田ビルの隣は、場外馬券場があるJRA本部の建物ですが、このビルの建設中に出土した外濠の石垣が世田谷区の馬事公苑に復元されています。

 

    ウインズ新橋             馬事公苑に移築された出土した石垣

ウインズ新橋の先の日比谷セントラルビルにも、小規模ながら石垣が保存されています。

  日比谷セントラルビルの保存石垣

廃棄された石垣に比べれば、ほんのわずかですが、ビル街で「江戸時代」に遭遇するのは楽しいことです。

石垣保存に努力した関係者に拍手。

第一ホテルの地下を通って、外濠は、幸橋で二手に分かれていました。

ん。

 一筋は直進して、浜離宮へ。

ここから先は、外濠ではありますが、汐留川と呼ばれていました。

もう一筋は、幸橋から左折、北方向の数寄屋橋門、呉服橋門へと向かってゆきます。

 

これは幸橋御門。

手前が幸橋です。

普請を命じられたのは、熊本藩細川忠利。

藩主は、寛永12年(1635)秋、普請衆を熊本から江戸に向かわせます。

約半月後には江戸についていますから信じられない徒歩力。

普請は翌寛永13年正月に開始され、40日で完成をみます。

土橋も同時並行で造られました。

 

今、幸橋の痕跡は皆無。

ただ、JR高架橋にその名を残すのみです。

 

では、直進して浜離宮方向へ進みましょう。

ガードをくぐると左手に、土橋。

 

信号や交番、高速入り口に「土橋」の名はありますが、土橋そのものはありません。

「土橋はどこらあたりか」と質問しても、交番のお巡りさんは困惑するばかり。

汐留川の跡をたどるのは簡単、高速道路の下を行けばよい。

まもなく新橋。

土橋より新しい橋だから「あたらし橋」。

汐留川から新橋を望む(明治32年・1900)

ここには、芝口御門という門がありました。

幕府の威信を朝鮮特使に見せつけるために造られた枡形門でしたが、わずか15年で焼失、再建されませんでした。

享保年間のことです。

だから高速道路沿い北側の道は「御門通り」です。

 高速道路沿いに行くと浜御殿(今の浜離宮)に着く。

 

写真の左が汐留川、正面が枡形門。

右の写真、橋の下東に伸びるのが築地川です。

36見附最大の枡形門は、今も健在。

現在、汐留川は暗渠となっていますが、ここ浜離宮の橋の前で流れ出ています。

写真右の開口個所がそれ。

そして、奥の方狭くなって、汐留川は流れてゆきます。

昔の姿はどこにもありません。

むしろ築地川の方が広々と往時を偲ばせています。

 

再び、第一ホテル前まで戻って、二手に分かれたもう一筋の外濠を数寄屋橋方向にたどって行きましょう。

右側の高架にはJR線とその横には高速道路が走っています。

 

その下は、かつては外濠でした。

線路の向こうの濠は、戦後まで残っていました。

都心の高速道路のほとんどは外濠跡にありますが、これは東京大空襲で出た残骸の捨て場所として外濠が利用され、その埋立地の上に高速道路が建設されたものです。

第一ホテル前を北へ、最初の高架をくぐると「新幸橋」の碑があります。

ここはコリドー街ですが、その通りの裏に車も通れる空間が沈んでいます。

その佇まいはまるで川底の様、外濠の底なのでしょう。

誰かに聞いて見たくてもすれ違う人は皆無。

銀座のど真ん中の怪しい異空間です。

その異空間通路が上りつめた所が山下橋ガード。

昔は山下門があった場所です。

左の幸橋からきた外濠は、この山下橋で左右に分かれます。

地図で上方に向かうと日比谷見附へ。

右下の北方角は数寄屋橋門へと向かっています。

写真は大正時代、泰明小学校から撮影したもの。

外濠にかかっているのが山下橋。

列車の後ろが帝国ホテル。

高架をくぐって直進すると、今の日比谷公園にぶつかります。

上の写真は、反対側の日比谷公園から見た山下橋方向の光景。

右が帝国ホテル、左が宝塚劇場です。

ここから90度レンズを振ったのが、下の写真。

横断歩道のラインあたりから濠は左折、日比谷公園の中へと入っていってました。

  日比谷公園の心字池

日比谷公園の「心字池」とその東側の石垣は、昔の外濠そのまま。

石垣のはずれは、日比谷見附。

 

枡形門の石垣の上から皇居を望めば、内濠はすぐそこ、手の届きそうな感じです。

 

山下橋へ戻って、今度は数寄屋橋方向へ。

JR線と高速道路の間の狭い道を入って行きます。

有楽町ー新橋間の高架鉄道が開通したのは、明治43年。

この写真は、開通直後のもの。

左が帝国ホテル、右前方が山下橋です。

この赤レンガ高架橋脚は、なんと今でも残っているのです。

逆方向からのショット。

左が高速道路、正面が帝国ホテル。

右の赤レンガはJR線高架橋脚です。

振り返れば、そこが数寄屋橋。

数寄屋橋といえば「君の名は」。

作者菊田一夫の「数寄屋橋ここにあり」の碑が数寄屋橋公園にあります。

 

「君の名は」は、私の中学生時代の放送です。

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」の冒頭ナレーションは、忘れえません。

放送中、女湯はガラガラになると言われ、まちこ巻が一躍、流行ファッションとなりました。

主人公の真知子と春樹が再会を約束した数寄屋橋は、帝劇と朝日新聞の前にありました。

 朝日新聞社は今のマリオン。

外濠の形に高速道路が走っているのが、よく分かります。

東京はどこも激しく変貌してきました。

数寄屋橋界隈はその最たるものの一か所。

昔の面影は微塵もありませんが、晴海通りの立体交差道路の壁に昔の数寄屋橋の写真が嵌めこんであります。

毎日、何十万人と行き交う通行人で、この写真に気付いて、立ち止まって見る人は何人いるのでしょうか。

私がいた30分間では、ひとりも見かけませんでした。

写真は風雨にさらされ、ドロがついて汚れたまま。

洗う人もなく、放置されています。

なにか物悲しい風景です。

 

数寄屋橋公園から晴海通りを渡り、首都高速沿いに外堀通りを行くと鍛冶橋通りと交差します。

写真では手前に横切るのが外堀通り。

右の青と白のバスが走っているのが鍛冶橋通り。

中央向こうに横たわるのが東京国際フォーラムです。

国際フォーラムは、西新宿に移転する前の都庁舎跡地に建っています。

鍛冶橋で思い出しましたが、私が民放テレビの新人として配属されたのが、都庁の鍛冶橋クラブ。

東京オリンピック開催でてんやわんやの喧騒を、おろおろと眺めているばかりの無能記者でした。

鍛冶橋が歴史ある御門の跡地だとは知らず、変わったクラブ名だな、と思っていたものです。

 

今、鍛冶橋はある人たちに有名な遺跡のあった場所になっています。

ある人たちと云うのは、江戸城や外濠などに興味を抱く人たち。

鍛冶橋の北側パシフイックセンチュリープレイスの建設工事で、外濠の石垣が170メートルにわたって発掘されました。

古地図では、松平三河守上屋敷あたり。

 

 写真は、「考古歴史紀行」http://homepage1.nifty.com/rekisi-iv/index.htmより借用

丸の内一丁目遺跡と名付けられ、出土した石垣は、現在、小石川後楽園の築地塀に再利用されています。

その模様は、このブログNO59「石で知る江戸城①外濠を歩く」で紹介しているので、ご覧ください。

この丸の内一丁目遺跡が注目されたのは、発掘史学と文献史学のコラボレーションが花咲いたこと。

文献の記録が発掘で確認されたことは、大きな成果でした。

 

鍛冶橋から外堀通りを北へ。

東京駅を左に見て行くと呉服橋交差点に差し掛かります。

呉服橋を渡った西詰には呉服橋御門があり、御門の左手に北町奉行がありました。

          呉服橋と御門

     右が呉服橋御門 左端の橋は道三堀にかかる銭瓶橋 

現在の交差点に立って、往時を偲び、橋のある光景をイメージすることはできません。

交差点と高速道路インターの「呉服橋」の名が、昔を思い出させてくれるだけです。

高速道路といえば、この呉服橋から土橋経由汐留までの首都高速道路は、戦災瓦礫の埋立地として利用された外濠の跡地の上を走っています。

舟運から自動車輸送に変わった、時代のターニングポイントの象徴でもあります。

 呉服橋を過ぎるとすぐ水路の十字路になります。

上(西)には道三堀の銭瓶橋が、右(東)には日本橋川の一石橋が、そしてこの地図ではカットされていますが、北には日本橋川の常磐橋がかかっています。

道三堀は、家康の江戸開府の最初の土木工事として極めて重要な水路です。

家康が江戸開府した頃、江戸城の前は遠浅の葦が茂る入江でした。

神田山を削ってこの入江を埋め立てると同時に、この日比谷入江に流入していた平川の流れを堰き止める必要がありました。

平川の流路を変えるために掘られたのが、今の日本橋川(A’ーB)です。

江戸城建設のためには、大量の建築資材と生活物資が必要でした。

その物資を大手門まで運びいれる舟が往来できる堀がまず掘られます。

それが道三堀でした。

天正18年(1590)のことです。

道三堀両側には、材木町や舟町が出来、江戸最初の町並みとなって行きます。

江戸城建設資材搬入の為の道三堀は内堀に直結していました。

和田倉門橋から、今の銀行協会の下を通って一石橋前まで、道三堀はカーブをしながら伸びています。

 和田倉橋の左の赤レンガビルが銀行協会

今回のブログのため3回も現地を歩いて見ましたが、堀跡は特定できませんでした。

ただ、新大手町ビルの脇に堀跡を示す立て看板があるだけ。

この地点が、カーブのどのあたりなのかは分かりません。

一石橋の反対側のどこかに道三堀は開口していたはずですが、今となっては見当もつきません。

 一石橋から道三堀を見る 右は常磐橋

 上の写真と同じ地点(?)から撮ったもの

 どこに道三堀が流れ込んでいたのか、説明がほしいものです。

ここで外濠は日本橋川と合流することに。

日本橋川については、後日、ブログにまとめることにして、今回はこれでジ・エンド。 

 

 参考図書・サイト

○北原糸子『江戸の城づくり』 筑摩書房 2012

○鈴木理生『幻の江戸百年』 筑摩書房 1991

○内藤昌『江戸の町(上下)』 草思社 1982

○黒田涼『江戸城を歩く』 詳伝社2009

○北原糸子『江戸城外堀物語』 筑摩書房 1999

○芳賀ひらく『江戸東京地形の謎』 二見書房 2013

○石黒敬章『よみがえる明治の東京』 角川書店 1992

○石黒敬章『大日本名所一覧』 平凡社 2001

○石黒敬章『明治の東京写真』 角川学芸出版 2011

▽大江戸歴史散歩を楽しむ会 http://wako226.exblog.jp/

 ▽江戸城/史跡めぐり http://homepage3.nifty.com/oohasi/

(古い写真は、全部、無断借用です。著作権侵害のご指摘あれば、すぐ削除します)

 

 


59 石で知る江戸城(1)外濠を歩く(飯田橋ー市ヶ谷ー四谷ー赤坂)

2013-07-16 05:47:34 | 石で知る江戸城

 東京に住んでいながら、江戸城についてはほとんど知らない。

江戸城を少しでも知りたい、というのがこのブログのきっかけです。

それも石を介して。

誤解しないでほしいのですが、したり顔で断言しているからと云って、その事柄に熟知しているわけではありません。

これは個人的な勉強のまとめであって、初めて知ったことばかりなのです。

このことは、今回だけに限らず、「石仏散歩」の全ての記事について言えることなのですが。

 

江戸城シリーズを水道橋から始めるのは、格別な意味があるわけではありません。

地下鉄三田線の利用者として、それが手っとり早いからです。

地下鉄「水道橋駅」からJR「水道橋駅」へ向かう。

橋の途中に銅のレリーフがあります。

地名の由来となった水道管(懸樋)を渡す橋、水道橋を描いた江戸名所図会が浮き彫りにされています。

レリーフの、これが元絵。

神田上水は江戸最古の水道で、現在の江戸川橋付近で取水され、ここで神田川をまたいで、城中と日本橋、神田方面へと流れ込んでいました。

木製の橋の上を走る懸樋は、番屋で守られていました。

その再現模型が江戸東京博物館にあります。

模型ではない、神田上水の実物大復元石樋も、東京都水道歴史館で見ることができます。

石樋は幅1m50㎝、石垣の高さ1m50㎝。

厚さ30㎝の蓋石が被せられていました。

神田上水は家康の江戸入府とともに開削されました。

江戸城周辺では井戸を掘っても塩水で、飲料水確保が緊急課題だったからです。

水道橋駅の南は、三崎町ですが、三崎=岬、家康入府の頃はここらまで海辺でした。

当然、現在のように深い神田川はここには流れていませんでした。

神田川からのお茶の水橋は見上げるばかり。

両岸は切り立った崖のようですが、これは人工的に掘削された川なのです。

お茶の水橋、橋の下に駅のホームが見える

 神田川(左土手上は順天堂病院)

 神田川掘削の目的は、三つ。

①大雨の度、氾濫し、江戸城本丸前を水浸しにしていた平川(小石川方面から飯田橋経由で日比谷入江に流れ込んでいた)の流れを変えて、隅田川に注ぐようにする。

②平川の流れをストップすることで、大手町あたりを洪水から解放すると同時に、掘削した大量の土砂を日比谷入江の埋め立てに利用する。(現在の日本橋、大手町、日比谷など東京の中心地は、この造成工事で出現したもの)

③江戸城北側の本郷台地には外堀がない。神田川を江戸城防備のための外堀とする。

完成したのは元和6年(1620)。

工事を担当したのは、仙台藩。

江戸城を北から攻めるとすれば、それは伊達政宗しかありえなかったわけですから、神田川掘削をすることで政宗は幕府に忠誠心を示したことになります。

 

水道橋に戻って、200メートルほど上流へ。

神田川へ出っ張った所が、市兵衛河岸。

                   市兵衛河岸

河岸とは、物資輸送のために水際に作られた物揚げ場で、江戸湾や利根川から隅田川経由の荷舟がここ市兵衛河岸から神楽河岸(飯田橋)あたりまで頻繁にやってきました。

市兵衛河岸は、現在、防災時の船着き場になっていて、平常時は施錠されていて入れません。

外堀通りを飯田橋方向へ。

飯田橋ハローワークを右折すれば、すぐ小石川後楽園です。

用があるのは、庭園ではなくて、外壁。

築地塀の下の石垣が注目ポイントです。

旧都庁舎近くの鍛冶橋で発掘された外堀の石垣を再利用したもので、石に刻まれたマークは工事担当大名家の印(しるし)です。

「山」印は山崎甲斐守、右端真ん中の双葉マークは、豊後佐伯の毛利家 の刻印。

各大名家は工事範囲を決められていました。

他家と接する所も石垣ですから、直線的に分けることは不可能で、必然、石が組み合わさった形になります。

その組み合わさり、重なり合った石がどちらの藩のものか明示するのが刻印の役割でした。

それと盗難防止。

石は、各藩が伊豆から苦労して運び込んだもの。

工事現場は各藩が入り乱れていたから、印のない石はすぐ盗まれる。

採石後、その場で刻印されて、江戸に持ち込まれていました。

伊豆の採石場跡地では、各藩の刻印石材が今でも転がっています。

 

再び、外堀通りに戻って、飯田橋へ。

神田川は飯田橋交差点下を急激に右折します。

 飯田橋から右折、江戸川橋方向へ伸びる神田川

首都高の真下が川の流れだと思えばいいでしょう。

隅田川からきた荷舟は、ここで右折することなく、直進。

そこが行きどまりの牛込揚場で、飯田濠でした。

町名変更で由緒ある地名がどんどん消滅してゆく中、新宿区だけは昔の町名が残っています。

今は暗渠となり、親水公園となった飯田濠の西側は「揚場町」、東は「神楽河岸」という町名ですから、すばらしい。

 飯田濠跡の親水公園

ただし、神楽河岸の人口はゼロ、町名だけです。

親水公園を過ぎると左手にこんもりとした茂みの一角。

封鎖されていて、中にはいれません。

29年前の、文字の消えかかった説明板によれば、「昭和47年(1972)、飯田濠を埋め立てる際、濠を一部保存のため復元したが、この茂みの石垣は江戸時代のまま」だそうです。

信号「神楽坂下」を左折、飯田橋駅西口出口の手前にRAMRAへ入る橋があります。

   RAMRAへの橋

この橋から下の眺めも江戸時代と変わりません。

 

 左はJR飯田橋駅 外濠から水が       鹿鳴館秘蔵写真帖(明治元年)橋の左が牛込見附。

 流れ込んでいる

落差も水量もほぼ同じ、違うのは流れ込むのが飯田濠ではなく、暗渠だということでしょうか。

 

飯田橋といえば、巨大な石組の牛込見附は見逃せません。

「見附」は「見つける」の意。

見張り番が常駐する門のことで、江戸城三十六見附と云いますが、この場合の三十六はManyの意味です。

敵の侵入を防ぐ防御施設ですから、堅牢であることは勿論、簡単に通り抜け出来ない構造になっていました。

その構造は「枡形」門。

内枡形の概観(上から見た図)

HP「城」http://www.hat.hi-ho.ne.jp/moch/castle/castle_klg03.htmより無断借用。

四辺を石垣で枡のように囲い、直線的には通り抜けられないようになっていました。

飯田橋駅西口前の通りの両側に聳える石垣は、枡形門の相向かう2辺。

現地に立つ千代田区の説明板が分かりやすい。

オレンジ色線が江戸時代の牛込見附。

神楽坂方面から向かうと道路を塞ぐ形で石垣があったことが分かります。

下の写真でいえば、道の両側に立つ建物を繋ぐ形で石垣がそそり立っていました。

この枡形は明治35年(1902)撤去されましたが、その石垣の一部が交番の横に転がっています。

側面下部に「阿波の守」とあるのは、この枡形門を建造したのが阿波藩であったことを物語っています。

牛込見附門が建造されたのは、寛永13年(1636)。

江戸城構築の総仕上げとしての最後の天下普請でした。

阿波藩では、牛込門建造に必要な石材の切り出しに、前年の寛永12年、伊豆へ数百人の人夫を国元から送りこみ、切りだした石を江戸へ送り始めます。

普請費用の借金を京都の商人に申し込む一方、石積みの技術に長けた穴太(あのう)石工の確保に努めます。

こうした周到な準備の上、普請は寛永13年1月8日にスタート、40日と云う短期間で完成しました。

藩主蜂須賀忠英自らが現場で陣頭指揮を取るという藩をあげての一大イベントでした。

天下普請は、諸大名にとって徳川家への忠誠心を表す格好な場でした。

巧名は、普請の出来栄えにかかっていましたから、諸大名は資金と労力を惜しみなく投じました。

牛込枡形門の石の大きさ、精緻な石組に阿波藩の心意気が読みとれます。

幕府からすれば、天下普請に参加、競合させることで諸大名の財力をそぐという目的をなんなく達成したことになります。

 

外濠を右に見下ろしながら市ヶ谷方面へ土手を進みます。

この辺りは、牛込濠。

ここから、新見附濠、市ヶ谷濠、真田濠、弁慶濠と外濠は続きます。

かつては14キロありましたが、現在、外濠の長さは4キロ。

法政大学を過ぎるとまもなく市ヶ谷。

市ヶ谷にも枡形門がありましたが、その痕跡は皆無です。

しかし、意外な場所に石垣が残っています。

市ヶ谷と云えば、釣り堀。

 

 手前が釣り堀 その奥が外濠

外濠の釣り堀を駅のホームから見たことのある人は多いでしょう。

この釣り堀へ下りる道の右側の石垣は、江戸時代のままです。

注意して見るといくつもの異なった藩の刻印が見えるはずです。

 

意外な場所といえば、市ヶ谷にはもう一か所石垣が見える場所があります。

東京メトロ南北線市ヶ谷駅構内の「江戸歴史散歩コーナー」。

    江戸歴史散歩コーナー

地下鉄工事で出土した外濠の石垣を移築再現するとともに、築城工事の記録や絵図を解説とともに多数展示しています。

 

 再現された石垣 藩の刻印もある      石を切り出す際に穿たれた矢穴

巨石の運搬風景など興味深い屏風絵などもありますが、照明が暗くてよく見えないのが残念。

 石曳図屏風(箱根町指定文化財) 修羅で巨石を運んでいる

床に広がる江戸古地図の上を、女子高生がキャッキャッいいながら飛び跳ねていました。

自分たちの学校の場所を見つけたんでしょうか。

 

四谷駅に向かいます。

市ヶ谷駅を出た時は、外濠には満面の水がありました。

 

 市ヶ谷駅を出たところ 右端が市ヶ谷橋

それが四ツ谷駅に着くと、いつのまにか水はありません。

   四ツ谷駅東の橋から市ヶ谷方向を望む

もう一度、市ヶ谷駅に戻り、Uターン。

濠の水がなくなる瞬間を狙ったのですが、木の茂みが邪魔をして、撮れません。

 

 右端に緑の水面が見える            左の写真の一枚前 茶色のビルの前には
 上の茶色のビルに注目              満面の水 ビルを過ぎると水はなくなるようだ

その名も「外濠公園運動場」が見える時は、電車も濠の中を走っています。

四ツ谷駅は、すっぽりと濠に包まれた形で存在しています。

      四ツ谷駅 向こうのビルは上智大学

 四谷見附の枡形門は、皇居に向かってJR四ツ谷駅の左側の道路を塞ぐ形でありました。

 

         四谷見附門                右のドームが四ツ谷駅 左の茂みが門の石垣

その石垣の一部が、主婦会館の前に残っています。

   四谷見附枡形門の石垣

これまで、牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠と外濠沿いに西に向かってきました。

見た目では分かりませんが、それぞれの濠の水位は異なっているのです。

牛込濠が一番低く、市ヶ谷濠が一番高い水位なのです。

この地形からすると、四谷駅を含め上智大学グランドがある真田濠が市ヶ谷濠よりも高いことは当然でしょう。

(水位の高さは、牛込濠3.4m、市ヶ谷濠10.9m、真田濠19.0m)

水位が高いということは、海抜が高いということです。

この海抜が高いということから、四谷門には、江戸城内で不可欠なものを配給する重要施設が置かれていました。

城内で不可欠ななものとは、水。

ポンプがない時代、水は高い地点から低い地点へと傾斜を利用して行き渡らせていました。

標高が一番高い四谷門が、水道網の根幹だったのは、地形からして当然のことでした。

 このブログ冒頭に、懸樋を渡す水道橋のレリーフを紹介しましたが、あれは神田上水を城内に導くものでした。

しかし、やがてこの神田上水だけでは城内の水需要を賄いきれないようになります。

そこで手を付けたのが、玉川上水。

多摩川の羽村から延々約40キロの導水路を、2年の突貫工事で承応2年(1653)に完成させます。

 

 四谷大木戸跡碑 ここに水番所があった 敷地の四谷区民センター裏には玉川上水を偲ぶ水の流れがある

玉川上水は、上が開いた水路で、四谷大木戸まで到達し、そこからは木や石で造られた水道管で地下を走り、四谷に流れつきました。

 

水道本管石枡(清水谷公園)   左の石枡から上の木樋を通して水が分配されていた(東京都水道歴史館)

四谷門で水道は細かく枝分かれして城内各所に配給されてゆきます。

地中深くに網の目のように水道管が走り、要所要所で桶状に囲われた井戸があり、そこから人々は水を汲んだのです。

 井戸の仕組み(東京都水道歴史館)

 

寛永13年(1636)の天下普請は、空前絶後の規模で実施されました。

石垣築造組は62大名、外濠の掘り方組は58大名、計120家の大名が動員されています。

牛込見附を築造したのは阿波藩だったように、石垣組には中国、四国、九州の諸大名、いわゆる西国大名が、一方、掘り方組には、東北、関東、北信越の東国大名がその任に当てられました。

作業開始は寛永13年3月9日。

掘削作業は、難航しました。

掘った土の捨て場が遠いことと予想外の出水が工事の遅延と労働力の不足を招いたのです。

各藩とも急いで地元から数百人単位の応援を頼まざるをえませんでした。

天下普請の一部始終は幕府の公式記録『徳川実紀』に記録されています。

将軍家光は工事現場に何度か足を運び、褒賞を与えていますが、その数は石垣組の西国大名に多く、作業が過酷であった掘り方の東国大名にはおろそかだったと言われています。

家光の時代になっても西国大名には気づかいが必要だったことが窺えます。

 

では、四ツ谷駅から西の真田濠(真田藩が掘削した)を見て回りましょう。

地下鉄四ツ谷駅を出て、その名も「外堀」通りを迎賓館方向へ。

雑草の間から真田濠が見られます。

線路は地下鉄丸ノ内線。

その向こうに広がるのは上智大学グランドです。

突然、江戸時代が出現。

迎賓館東門は、紀州藩中屋敷の門を移築したもの。

その先の信号「紀之国坂」を左折すると真田濠が全貌を現わします。

 

  信号「紀之国坂」             南端から見た真田濠 右のビルは上智大学

これだけの広さと深さの濠を人力だけで3カ月ほどで掘り下げ、土を運び上げたのですから、驚きです。

反対側を振り返るとはるか眼下に弁慶濠が光っています。

 喰違門跡付近から弁慶濠を望む

真田濠がいかに標高が高いかがよく分かります。

このあたり、道が緩やかなカーブを描いていますが、江戸時代はここに「喰違門」(くいちがいもん)がありました。

 

     喰違門跡                     江戸時代の喰違門(『絵本江戸土産』より)

城内への直進を防ぐために普通は枡形門でしたが、ここでは土塁が左右から前後に道を塞ぐように出ていました。

 千代田区教委による説明板より

その形から「喰違」と称されるようになったのです。

 

外堀通りを下って弁慶濠へ。

赤坂見附門跡は、地下鉄「赤坂見附」からちょっと離れています。

その昔は大山通り、今は246号線の坂の途中左の茂みの中に枡形門の石垣があります。

 

 赤坂見附門 造築は寛永13年(1636)、筑前福岡藩。左の歩道橋の先の茂みの中に石垣はある。

坂の名前は「富士見坂」ですが、都内の他の富士見坂同様、富士山は見えません。

     歩道橋から西を望む

赤坂見附枡形門は弁慶濠の突き当たり、高速道路のトンネル入口の真上にあります。

 

 なぜ、坂の途中に門を構えたのでしょうか。

古地図を見ると赤坂門は、弁慶濠と溜池に挟まれた道を塞ぐ形でありました。

 では、なぜ、弁慶濠と溜池を直線的に繋がなかったのでしょうか。

その理由はこの辺りは元々湿地帯で、石垣を組むには余りにも地盤が軟弱過ぎたからだと言われています。