石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

105 あの地蔵尊は今(三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』豊島区編)

2015-06-16 05:44:28 | 地蔵菩薩

「三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今」から「あの地蔵尊は今」へ。

タイトルを変えたが、内容は変わらない。

名著『武蔵野の地蔵尊・都内編 昭和47年』の地蔵を訪ねて、その現状を報告しようという内容。

このシリーズの1回目(NO90・http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=d62f6d4b2172ad9afd6adc3d0c6a6a8f&p=1&disp=30)で、その趣旨を私は次のように書いている。

「石仏だから自然消滅はしないだろうが、40年の年月のなかで、環境が変わり、場所が移動したり、一部が破損したりしているものもあるだろう、そんな近況を付け加えるのも、有意義なことのように思える。思いもしない由来と名前の、いろんな地蔵に会えるのも楽しみだ。」

文京、新宿、板橋、北、荒川区と回って、今回は豊島区。

◇一如地蔵/雑司ヶ谷墓地内法務省墓地(豊島区南池袋4)

雑司ヶ谷霊園事務所の後方に法務省専用の墓地があり、一如地蔵はそこにおわすが、フエンスがあって後姿しか拝めない。

一如地蔵は、市ヶ谷刑務所で死刑に処せられた290名の菩提を弔うため、市ヶ谷刑務所の廃止後、ここに建立された地蔵です。

その事由を書いた石柱が地蔵の傍らにあるが、これも見えるのは背面だけで、肝心の事由は読めない。

従って、『武蔵野の地蔵尊・都内編』から書き写しておく。

一如地蔵尊建立記
 自明寺38年5月至昭和12年5月、32年間於東京市牛込市谷富久町60番地所在市ヶ谷刑務所受刑死者290名之多哀矣哉乃胥謀奉地蔵尊一躯立詣干此地名一如地蔵尊法界総是四恩六道誰非仏子伏願乗彼悲願運此☐魂

 市ヶ谷刑務所の跡地は、自衛隊市ヶ谷駐屯地となっています。

◇地蔵六面搭/雑司ヶ谷墓地(豊島区南池袋4)

雑司ヶ谷墓地管理事務所の入口近くに巨大な石碑が立っている。

「深川共葬墓地合葬之墓」と刻されている。

旧深川区の共同墓地が移転することになり、遺骨をひとまとめにして火葬し、ここ雑司ヶ谷に改葬した。

石碑の隣の半球状の塚が、その合葬塚。

大正11年1月に築かれた旨の刻字がある。

三吉老が注目するのは、その合葬塚の横におわす地蔵六面幢。

天蓋は四角形、蓮台なく短躯の立姿六尊を浮彫りする。そのうち一体は鼓と撥をもち、一体は鐃をもつ異形の塔である。造立年代不明」。

地蔵六面体の横に小さな地蔵墓標が3基、これも深川から移転してきたものだろうか。

うち一体には「寛保元年四月九日」とある。

江戸時代の墓地を旧深川区が引き継いでいたようだ。

 ◇お茶あがれ地蔵/路傍(豊島区上池袋3-18)

東武東上線北池袋駅の東方100mの路傍に名ばかりの辻堂が立っている、との記事にしたがって東へ歩くが、100mを過ぎてもそれらしき堂は見当たらない。

なにしろ半世紀前の記事、変転極まりない東京にあって、石仏が、とりわけ路傍の石仏が記事通りに変わらず存在すること自体が稀有なこと、なくなっていても不思議ではない。。

200mほど歩いて向こうに交番が見えてきた。

交番で訊いて分からなかったら諦めようと思っていたら、なんと交番の手前にお堂はあった。

三吉老は「名ばかりの(みすぼらしい)辻堂」と書いているが、小さいがコンクリート造りのがっしりしたお堂になっている。

コンクリートで改築したようだ。

掃除もされて、造花ではあるが、花も供えられている。

堂内には、90㎝ばかりの地蔵立像と笠付石柱が在す。

どうやら石仏が「お茶あがれ地蔵」らしいが、豊島区の有形文化財に指定されているのは、笠付石柱の文字庚申塔。

宝永元年(1704)建立で、正面に「奉供養庚申石塔息災祈所」と刻されている。

「お茶あがれ地蔵」の由来については、豊島区教育委員会の説明板では「江戸時代に結婚を阻まれ病死した女性の供養のために建立」と簡単な説明だが、三吉さんの『武蔵野の地蔵尊(都内編)』では、もう一つの説話を紹介している。

元禄年間、借金に苦しんだ板橋の宿場女郎が夜逃げをした。池袋村まで来たが、それ以上歩けなくなり、農家の戸を叩いた。女郎はお茶を、お茶を、と二言、三言云ったが、農家ではどうすることもできず、ついに女は死んでしまった。その後、毎晩、女の死んだ時刻になると、お茶を、お茶をという声が聞こえるようになり、恐れおののいた村人たちは地蔵を造って女の冥福を祈った」。

三吉老の記事では「堂内に2基の丸彫り地蔵が安置してある。うち1基には庚申と彫ってあり、残る1基は女郎供養のお茶あがれ地蔵である。」と書いてある。

はて、さて、これは困ったことになった。

何がこまったか、というと三吉老が「堂内には2基の丸彫り地蔵がある」と書いているのに、堂内には、丸彫り地蔵は1躯のみ、残りは庚申塔ではあるが、地蔵庚申塔ではなく、文字庚申塔があるだけ。

三吉さんが現場を見ないで書いたとは信じがたい。

と、なると庚申と彫った丸彫り地蔵は何らかの理由で撤去され、代わりに文字庚申塔が持ち込まれたことになる。

しかし、そうした由緒あやしき石造物を豊島区が有形文化財に指定するだろうか。

疑問だらけの、お茶あがれ地蔵堂なのでした。

 

◇高尾地蔵/西方寺(豊島区西巣鴨4-8)

高尾とは、吉原の遊女・二代目万治高尾太夫のこと。

高尾地蔵については、当ブログNO17「シリーズ東京の寺町①―豊島区西巣鴨その1-」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/4044a88502b87ae8fcafad5fb01c77c2

をご覧いただきたい。

その際、書き落としたことがあるので、それを付け加えておきます。

高尾地蔵の前に、顔と前足の一部を欠いた動物がいます。

猫です。

頭の横に上げた左前足があれば、招き猫とすぐ分かるのですが、肝心の前足がないので、甚だ分かりにくい。

この猫、もともとは西方寺正門の壁の上にありました。

石門は南面し、一柱に招き猫の像を安置する」(『武蔵野の地蔵尊・都内編』より)

   HP「ねこれくと」より無断借用

ネット検索でみると2002年には壁の上にあったものが、2005年には高尾地蔵の前に移されているようです。

移さざるを得ない事情は何だったか、気になります。

この招き猫は、寺が日本堤からここ西巣鴨へ移転してきた時、一緒に移ってきたものでした。

浄閑寺と並んで、投げ込み寺と呼ばれた西方寺ですから、当然、この猫にも遊女がらみの伝説があります。

三浦屋の抱え娼妓のうちに猫を可愛がっていた一人がいた。或る日、不浄に入ろうとしたところ、日ごろ可愛がっていた猫が着物の裾をくわえてなかなか内に入れさせない。扉をあけてむりに中にはいってみたら、一匹の蛇がいて遊女にとびかかろうとする。猫は躍って蛇を食い殺した。」(『武蔵野の地蔵尊・都内編』より

◇燈籠地蔵/善養寺(豊島区西巣鴨4-8)

本堂の左、墓地への道に道標があり「元下谷坂本町善養寺道」と読める。

明治41年、下谷から現在地へ移転してきた。

「寺は太平洋戦争の戦禍をまぬがれ、多数の寺宝を所蔵する。
 地獄曼荼羅 木彫派風地蔵 六地蔵碑 燈籠地蔵二 地蔵掛け軸三副
 このほか、墓地には緒方乾山墓、新門辰五郎先祖代々墓、八万四千体地蔵のうちの4基などがある。」(『武蔵野の地蔵尊・都内編』より)

 2基の燈籠地蔵のうち1基は、新門辰五郎の実家町田家墓地の一隅にあることを確認できたが、もう1基(六態の地蔵尊が彫りつけてあり、火袋は八面にして灯明可能)がどうしても見つけられない。

庫裏の呼び鈴を押したら、住職が出てきた。

趣旨をあかし、場所を問うたら「あがれ」との無言の所作。

ついて行くと庫裏の中庭の一隅を指して「あれがそう」と云う。

外からはまるで見えないので、これではいくら探しても見当たらないわけだ。

三吉老によれば、三韓(新羅、百済、高句麗)渡来の燈籠だそうだから年代ものということになる。

その傍らに寛永寺の寄進燈籠も1基見える。

寄進燈籠マニアは、ここに1基あることを知っているのだろうか。

境内にある八万四千体地蔵のうち4基については、当ブログNO8「八万四千体地蔵」

http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/feb66aaf533d9d82f5cd67bfede1bbe4

 をご覧ください。

4年前、ブログなるものを始めたばかりの作品で、久しぶりに読み返してみて感慨深いものがあった。

境内には「茶筅塚」なる珍しい石碑もある。

「緒方乾山の墓があるので茶道関係者が建てたもの」とは住職の弁。

傍らに「有難や茶碗たのしみ一生を道の教えで我ら極楽」の碑もある。

もう一度、新門辰五郎に話を戻すと、善養寺墓地にある町田家の墓は、辰五郎の実家の墓で、彼自身の墓は善養寺の裏隣りの盛雲寺にある。

盛雲寺もまた善養寺と同じく、明治41年、上野下谷から移転してきた寺です。

当ブログNO17「シリーズ東京の寺町①―豊島区西巣鴨その1-」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/4044a88502b87ae8fcafad5fb01c77c2

 でも書いたことだが、私自身は新門辰五郎について全く知識がない。

三吉老の筆になる新門辰五郎小伝は次の通り。

けだし、辰五郎は江戸末期における侠客の一人であり、浅草消防の組頭でもあり、三千人の子分がいたという。齢七十歳のときに、戊辰の役に彰義隊にくみして官軍に抗し、また弘化の大火には佃島の油庫を守って焼失からまぬかれさせたという逸話がある」。

 南千住の円通寺には、彰義隊の墓標群があるが、その中に新門辰五郎の名を刻む碑もある。

◇江戸六地蔵/真性寺(豊島区巣鴨3-2)

江戸六地蔵とは、宝永から享保にかけて江戸の出入口六か所に造られた銅製地蔵菩薩坐像のこと。

言い出しっぺは深川の坊主、地蔵坊正元。

地蔵祈願で病が治癒したことから篤く地蔵を信仰するようになった正元は、六地蔵建立を発願し、江戸市中から浄財を集め、実現させた。

記録に残る寄進者数は、7万2000人。

真性寺の地蔵は、中山道に面していて、江戸六地蔵の第4番にあたる。

ちなみに、1番は品川寺(東海道)品川区南品川3

2番 東禅寺(奥州街道)台東区東浅草2

3番 太宗寺(甲州街道)新宿区新宿2

5番 霊厳寺(水戸街道)江東区白河1

6番 永代寺(千葉街道)江東区富岡1 は、廃仏毀釈で廃棄、残っていない。

 

参拝者の数は、圧倒的に巣鴨・真性寺に軍配があがるようだ。

とげぬき地蔵への参詣客で、ついでに江戸六地蔵をお参りしようという者が跡をたたない。

いつも線香の煙がたえないようだ。

突然話が変わって恐縮だが、私の田舎は佐渡。

佐渡ではいまも百万遍念仏が行われている地区がある。

大勢で大数珠を繰りまわしながら念仏を唱える光景は、佐渡の新春の風物詩です。

その百万遍念仏が、ここ真性寺では、今も毎年6月24日に行われている。

江戸六地蔵の脇に立つ「陰光地蔵尊」の文字碑は、この百万遍念仏に関わるもの。

長文の碑の刻文を要約すると「天保10年から大正10年までの80年間、父が50年、息子が30年、一度も休むことなく百万遍念仏の音頭取りを続けてこられたのは、ひとえにお地蔵さんのお蔭」と感謝の念が書いてある。

これもまた地蔵信仰の一つなのです。

◇一石六地蔵/西福寺(豊島区駒込6-11)

通用門を入って右側に西面して高さ1.6m、舟形光背の面に、円頂、立姿六態の地蔵を一列に浮彫りした一碑が建つ。明暦元年の造立で施主は10人」。

確かに西面して一石六地蔵があるが、無縁塔の前列の横にあるので、まるで無縁仏のようだ。

この碑の面白さは、その像容や彫技にあるのではない。

高さと像容が極めて酷似したものが練馬区の寺にあるので、それが面白い。

造立も明暦元年と同じなので、同一石工の作品ではないかと云われている。

練馬区の寺は、金乗院 (練馬区錦2)。

境内の一石六地蔵の写真がこれ。

アップにすれば比べやすいかもしれないので・・・

        西福寺

       金乗院

 こうして比べてみると雰囲気は似ているが、像容は、かなり違うようだ。

三吉老は、同一石工の作と断じているが。

◇十二地蔵碑/路傍(豊島区駒込5-4染井墓地入口近く)

実は、西福寺と金乗院の一石六地蔵に雰囲気の似た地蔵碑が染井墓地入口近くにある。

雰囲気は似ているが、ただしこちらは二段二列に二組の六地蔵が刻されている。

六地蔵を二倍にすれば、御利益や効能も倍加するというのだろうか。

珍しいので、これ1基だけかと思ったら、埼玉県幸手町の路傍に一面3体、四面12体の地蔵幢があると三吉老は云う。

近いうちに幸手市まで探しに行くつもり。

 

 

 

 


104 国東半島六郷満山の石造物

2015-06-01 05:24:03 | 石仏めぐり

「六郷満山」という言葉が、好きだ。

今回、国東半島の磨崖仏めぐりをするにあたり、下調べをしていて「六郷満山」に出会った。

国東半島の六つの郷、すなわち来縄(こなわ)、田染(たしむ)、安岐、武蔵、国東、伊美(いみ)にある寺個々を六郷山と称し、それらの寺を総称して「六郷満山」と呼ぶ。

つまり、一山一ケ寺を六郷山〇〇寺と呼び、その集合体を「六郷満山」とするわけです。

              六郷満山総持院両子寺参道

六郷満山の最盛期は、平安時代でした。

国東半島は宇佐神宮の神領地であり、宇佐八幡神宮の応現たる仁聞菩薩は、六郷に65カ寺を建立、法華経仏国土建設を目指します。

それは古来からの山岳仏教が宇佐八幡信仰や天台系修験と融合した神仏混合文化圏の造建でした。

今日残されている文化財の数々は、当時の隆盛を物語るもの。

前回の磨崖仏はその一例ですが、今回は、六郷満山の石仏、石碑、石塔などの石造物を寺ごとに見てゆきます。

といっても、私が2日間で回った限られた数の寺だけですが。

まずは、富貴寺から。

なにしろ六郷満山唯一の国宝のある寺、冒頭に紹介するに足る有資格寺です。

 ◇天台宗蓮華山富貴寺(豊後高田市田染蕗)*紹介文は、富貴寺パンフレットから。堂内の木彫仏像ばかりでなく、境内の石造物までも紹介する稀有なパンフレットなので。

蓮華山富貴寺は、六郷満山のなかで、満山を総括した西叡山高山寺の末寺の一つ、天台宗に属しています。

       大嶽順公『国東文化と石仏』より借用

寺伝によると、養老2年(718)仁聞菩薩の開基といわれています。

国宝・大堂は平安末期、浄土思想阿弥陀信仰全盛期に建立された西国唯一の阿弥陀堂、九州最古の建造物です。

総素木(しらき)造りで、縁を廻らし、上に宝形造りの屋根をいただく、その簡素な形、優美な屋根の線それらがどっしりとした安定感を与えています。

大堂の周りの草叢には朽ちかけた五輪塔がごろごろ。

石というより土化していて、目を凝らさないと分からない。

こうしたなにげない箇所に寺の歴史が滲んでいます。

国東塔も2基あります。

国東塔とは、国東半島に特有な形の宝塔のこと。

大は無銘ですが、その右の小には慶長8年(1603)と墨書されています。

国東塔の向こうに見える石祠には、弁財天が在します。

平安、鎌倉などの石造物に混じっているので注目されるが、江戸中期のもので、ありふれた作品。

大堂西側には、笠塔婆。

いずれも、施主「広増」と彫られている。

右から2番目、笠のない笠塔婆は、このなかで最古、仁治2年(1241)造立ですから、鎌倉前期の作ということになります。

苔むして一見石仏と判りにくいが、石垣の上に並ぶのは十王像。

右端は奪衣婆です。

いったん、ここで参道入口の石段までもどります。

参道上り口にそびえるのは、六面に地蔵を刻む六地蔵石幢。

石段両側にある石殿にはいずれも十王が刻まれている。

 

青面金剛庚申塔は享保15年(1730)の平凡なもの。

石段を上がった山門には、石造仁王。

六郷満山石造物の特徴の一つは、石の仁王さん。

  

148か所に321体の石像仁王像があると云われています。

◇天台宗今熊野山胎蔵寺(豊後高田市田染平野)

熊野磨崖仏参拝料金所が胎蔵寺の真下にあり、磨崖仏への道が寺の横からスタートする。

しかも寺の山号は「今熊野山」だから、熊野磨崖仏は胎蔵寺が管理しているもの、と思うのも無理からぬことです。

しかし、両者はまったくの無関係、参拝料を徴収しているのは熊野社、誤解のないように。

胎蔵寺への石段を上ったところに仁王さんが2体。

筋肉隆々、力自慢の仁王さんです。

本堂のまえには、動物を浮き彫りにした石塔が円形にならんでいます。

その数12基、十二支像石塔群でした。

 なぜか、牛も虎もウサギも銀色に光っている。

寺が配布する護符なる開運祈願シールを参拝者が自分の干支に張ったもの。

宝くじ当選祈願護符もやってるとか、「アイデア豊か、商売上手な」お寺さんのようだが、なにしろ当今、田舎での寺院経営はことの他難儀だそうで・・・

かくしてお不動さんもピカピカ、厳かさに欠けるとみるのは私だけか。

◇真木大堂&古代公園(豊後高田市田染真木)

真木大堂とは、六郷満山65カ寺の本山本寺として36坊を有した最大寺院伝乗寺のことです。

伝乗寺は約700年前に焼失したが、大堂周辺には、今でも石碑、石塔が多数散乱し、往時の隆盛が偲ばれます。

         旧本堂

収蔵庫には、国の重文指定の仏像6躯がありますが、撮影不可なので、隣の古代公園へ。

 古代公園は国東半島全域に広がる六郷満山の石造物遺産を一か所に集め、鑑賞しやすいようにと造園したもの。

国東塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、笠塔婆、庚申塔、石祠、石殿などがあります。

事前の下調べをしていたら、「古代公園は石があるばかりでつまらなかった」というコメントがあった。

石造物に興味がなければ、確かにつまらない場所に違いない。

だが私には、面白かった。

そのいくつかを紹介します。

≪国東塔≫

国東塔は宝塔の一種で、一般の宝塔が台座を有さないのに対して、国東塔は基礎と塔身の間に反花または蓮華座、ものによっては双方からなる台座を有するのが外観上の最大の特徴である。その目的は、納経、家門の繁栄祈願、墓標、逆修(死後の冥福を祈って仏事を行うこと)などのためとされる。(ウイキペディアより)

≪五輪塔≫

形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝殊型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。(ウイキペディア)国東全域では万に近い数があるものとみられている。

 

≪宝篋印塔≫

名称は、銭弘俶塔に宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、石造宝篋印塔で実際に塔内から陀羅尼が発見された例はない。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。日本では鎌倉初期頃から制作されたと見られ、中期以後に造立が盛んになった。(ウイキペディア)国東半島には約60基ある。

≪板碑≫

国東半島は、九州型板碑の発祥地であり、最盛地。その種類、数量、刑場、内容等において他地方の追随を許さない。(大嶽順公『国東文化と石仏』)

 

≪庚申塔≫

ここ古代公園では見られないが、国東半島に多い石仏として、大嶽順公氏は、「牛乗大日」、「妙見菩薩」、「役行者」、「十王石像」、「聖徳太子像」、「弘法大師像」をあげている。もちろん、「仁王石像」も多い。

◇天台宗金剛山長安寺(豊後高田市加礼川)

 

六郷満山の中山本寺で、養老2年(718年)に仁聞菩薩によって聞基されたと伝えられる古刹である。六郷満山を統括していた西叡山高山寺が平安時代に衰退したのに伴い、鎌倉時代に入ると六郷満山の100以上の寺院を統括する地位を占めた。(ウイキペディア)

長安寺には2対4基の石造仁王がおわします。

下は収蔵庫前。文政12年(1829)造立。

仁王の足元に坐す狛犬がいい。

本堂横にも仁王が1対在しますが、光線の具合が悪くて写真を見ても分かりにくい。

 

正徳5年(1715)建立。豊後高田市では最古。

このほか、大分県指定文化財の国東塔があるはずだが、石段を上がる元気がなくてあきらめた。

◇天台宗大岩屋山応暦寺(豊後高田市大岩屋)

応暦寺は、奈良時代の養老2年(718)に宇佐八幡宮の応現たる仁聞菩薩により開基、六郷満山中山本寺10カ寺の一つで、最盛時には末寺、末坊25を擁したと伝えられる。(略)平安、鎌倉を始め各時代の文化財は、今も多く残され、境内外は石仏の宝庫として特殊な石造に接することが出来る。(山門前の説明板より)

応暦寺にも二組の仁王がいる。

まずは、山門脇の一対。

 

そして、西国三十三観音堂前にも一対。

 

いずれも痩せてあばら骨が浮き出ている。

仁王のあばら骨は珍しくはないが、それにしても極端。

こんな貧弱な体で、守護神として仏敵をやっつけることができるのだろうか、不安です。

境内の一隅にある石殿には聖徳太子の表示。

 

更なる珍品は、「隠れ切支丹」五輪塔。

 

十字がどこかに刻まれているのだとか。

16世紀、豊後は大友宗麟キリシタン大名の領地でした。

キリスト教弾圧の時代になって、信者は、隠れ切支丹として創意工夫をこらすようになります。

応暦寺にある役行者像もその一つ。

どう見てもご婦人としか思えません。

ながらく「マリア様」と言い伝えられてきたそうです。

役行者でないことは確かでしょう。

応暦寺の近くにある庚申塔も隠れ切支丹の匂いがします。

 HP「じなしの山歩記と国東半島ミュージアム」より無断借用

青面金剛というよりも異国の宣教師風たたずまいです。

応暦寺の裏山には「堂の迫磨崖仏」があるというので歩き出すが、緩やかな上りなのに足が動かない。

同行の妻にカメラを託してリターンを待つ。

古色蒼然たる五輪塔に囲まれて待つこと20分、彼女の第一声は「だめだった」。

道沿いの崖地中腹にある覆屋に磨崖仏があるらしいことは分かるが、よじ登ることができないので、撮影は諦めたとのこと。

            堂の迫磨崖仏

下から見る角度では、磨崖仏の一部は見えるはずだが、ひさしの出た屋根で光線が遮られ内部の様子は全く確認できない。

◇天台宗夷山霊仙寺(豊後高田市夷)

奇岩の連なりは耶馬溪にちなんで夷耶馬。

その夷耶馬の東の谷に軒を接して寺が二つ、神社が一つ並んでいます。

            HP「九州の観光と温泉」より無断借用

左から、霊仙寺、実相院、六所神社。

もともとは全部霊仙寺だったとか、なにしろ六郷満山でも屈指の大寺でした。

その霊仙寺の山門に仁王が一対。

日陰にあるので見分けにくい。

下にアップにして並べておきます。

 

境内に入ると巨大な地蔵がお立ちになっています。

背丈4.8mは九州最大。

その巨大地蔵の両脇にも仁王がいます。

巨大地蔵は、隣の実相院にもおわして、こちらは、ほっかむり地蔵。

どいなかフアッションだが、これが「かわいい」ともてはやされる?のだから、若い女の子の心理は分からない。

その傍らにひっそりと国東塔が立っています。

石なのに柔らかく、丸みがあって、どっしりと安定感がある。

すばらしい。

◇旧千燈寺跡(国見市国見町千燈)

千燈寺は、六郷満山の諸寺を創建した仁聞(仁聞菩薩)が、718年に六郷満山の中で最初に創建した寺院。かつては六郷満山の中山本寺で、16の末寺を有し六郷満山の中核を成す寺院として栄え、「西の高野山」とも称された。しかし、天正年間に大友宗麟による焼き討ちに遭って大規模な伽藍は焼失してしまった。(ウイキペディア)

城壁のような石垣を左にみて、石段を上がる。

上がったところが旧千燈寺の伽藍跡、一対の仁王が出迎えます。

丸彫りではなく、一枚岩の半肉彫りであるのが珍しい。

仁王以外何もない境内にぽつんと石碑が立っている。

「仁王教塔」と読める。

仁王とは無関係の教義だとか、初めて知った。

仁王経(にんのうぎょう[1][2]、にんのうきょう[3])は、大乗仏教における経典のひとつ。仁王般若経とも称される。なお、この経典は仏教における国王のあり方について述べた経典であり、天部に分類される仁王(=二王:仁王尊)について述べた経典ではない。(ウイキペディア)

ここから500m進むと奥の院、さらにその先に1000基もの五輪塔が林立する墓地があるのだが、はなから行く気はない。

足の痛さが坂道を前にするとつい拒否反応を起こしてしまう。

せめて10年前に来ていればなあと、後悔先に立たず。

◇愛犬・愛猫の墓/路傍の野墓地(国見市国見町)

 旧千燈寺を出て、次の岩戸寺へ向け走りだす。

右手に野墓地が見えてきて、「おやっ?」と思い、急ブレーキ。

立派な無縫塔の横に犬と猫が並んで座っている。

犬や猫の墓は珍しくないが、こうして犬と猫が一緒の墓は初めて。

飼主の愛情の深さに感じ入りつつ、「いいなあ」とパチリ。

 

国東半島は、すり鉢をひっくり返したような山地。

頂上から八方に川が流れて谷をなし、谷と谷との間には峻厳な山や崖が聳えて、すぐそこの隣の谷に行くのにも、いったん海岸まで下り、また川沿いに登らなければならない。

谷と谷、峰と峯を横切る横断道路ができるまで、実に不便な場所だった。

私は、海岸まで下ることなしに、新緑の山道を横に走って、岩戸寺へ。

◇天台宗立石山岩戸寺(国東市国東町岩戸寺)

新緑の木々に飲み込まれるように仁王さまがいらっしゃる。

右側の阿形像には文明10年(1478年)の銘があり、在銘の丸彫り仁王像としては日本最古のものです。

鳥居をくぐって石段を上る。

六郷満山では、鳥居は珍しくない。

 

神仏習合文化の典型、国東半島のどこにでもある。

石段の右手に国東塔が、ある。

丸みが少なくて、一見、宝篋印塔のよう。

弘安2年の銘があり、国東半島の中では最古、国の重要文化財です。

傍らに立つ説明板の一部を転写しておく。

「(略)銘文に
 如法経奉納石塔一碁
 右志者為当山平安仏法興隆
 廣作修善乃至法界平等利益
 弘安六年 九月日
 大勧進金剛仏子尊忍
 造立者  千日坊
 とあり、弘安の役直後の危機感、末法の世の
 不安から法華経弘宣の為に之を書き写して奉
 納された供養塔である」

若杉慧氏はこう書いている。

「いろんな石塔を見てよく思うのだが、そのどれを好むかによってその人の性格はある程度判断できるのではあるまいか。石塔はそれだけ性格的である。私は現在この国東塔をもっとも好む」(『石仏のこころ』から)

国東塔の反対側には、草葺の講堂があり、屋根の葺き替えをし終わったばかりだった。

草葺きとは思えないなめらかな曲線にうっとり。

日本の美と匠の技がひっそりと生き続けていることに感激しきり。

いまの世の中、ビル建築よりもこうした手作りの建造物の方が費用がかさむだろう。

山中の岩戸寺にそれほど檀徒数があるとは思えない。

修繕改築費はどうして捻出しているのか、他人事ながら心配です。

 

石段を鳥居まで下る。

鳥居の手前の石垣塀の上に石仏が並んでいる。

その中にすばらしい石仏を発見。

仁王や国東塔もいいが、私にとっては、この石仏が最高。

仁王や国東塔はどのブログでもみられるが、これは決して見られない。

男女の双体道祖神はいくらでもあるが、子供連れのものは他にないでしょう。

しかし、これが道祖神かどうかは不明。

もしかしたら夫婦と子供の墓標かもしれない。

いずれにせよ珍品まちがいなし、ついつい興奮してしまう私なのでした。

◇天台宗峨眉山文殊仙寺(国東市国東大恩寺)

国東半島のほぼ中央に位置する文殊山 (617m) の東北側の中腹にある古刹。 役行者により創建されたとされ、六郷満山の末山本寺として江戸時代には杵築藩能見松平家の祈願所として栄えた。(ウイキペディア)

文殊仙寺に到着。

まず仁王を撮る。

筋骨たくましく力感あふれる造容。

寺では、1370年代後半の造立としている。

阿吽両像の間に石段が伸びている。

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山門は見えないが、山門まで300段あるのだそうだ。

石段を上ることは念頭にないから、さっさと車に乗り込んだ。

少し走ったら、道に迷った。

行き止まりの広場に車が2,3台駐車していて、女性がひとり草むしりをしている。

「両子寺へ行きたいんですが、ここはどこですか」と訊いたら「文殊仙寺です」と云う。

これには驚いた。

目の前の小さな門を入ると300段の石段の上の山門に行くことができるという

事前のネット検索でも300段の石段のきつさばかりが強調されていて、山門横に駐車場があるという情報にはお目にかからなかった。

神のお導きか、いや、寺だから仏のお助けか、信じられない幸運に感謝しつつ境内へ。

まず、目に入るがノッポの宝篋印塔。

高さ9メートルは、日本一だとか。

天保年間(1830-44)に7年間かけ、のべ1万3800人の力で造立したと伝えられています。

山門をくぐるとまたも石段。

今はもう、観念して上がるしかない。

階段両側は、お地蔵さんや国東塔など石造物だらけ。

 

やっと奥の院に到着。

文殊堂の脇の岩窟には、寺の開基者役行者像がおわす。

女性的な応暦寺の役行者とはえらい違いです。

目を上に転じると十六羅漢(がおわすはず)。

が、パッと見、わからない。

写真の撮り方が悪いのではなく、肉眼でもこのように見えるのです。

文殊仙寺には宿坊もあって、宿泊も可。

ただし、勤行、座禅、峰入りの修行などをすることが条件。

「宿泊したいのですが、足が悪くて、正座することもあぐらをかくこともできません、それでもOKでしょうか」と

電話したら、「それでは修行に参加できません。民宿にお泊りになったらいかがでしょう」と断られた。

断られはしたが、仏教行事に参加、体験することを優先する寺の姿勢に、すがすがしさを覚えたのでした。

◇天台宗足曳山両子(ふたご)寺(国東市安岐町両子)

半球体の国東半島の中央、頂点に聳えるのが、両子山(721m)。

両子(ふたご)寺は、その中腹にあって、六郷満山の総持院。

修行の中心地として全山を統括してきました。

山の頂点から眼下の寺を見下ろす両子寺が、寺格的にも最高位というのは、すっきりとして判りいい。

参道入口に立つ仁王は、国東半島最大級、筋骨隆々としてほれぼれとするお姿です。

両子寺参拝はここからスタートするのですが、私はここで退散。

下の写真がその理由を物語ってくれています。

景色としては、趣のある素敵な石段なのですが・・・

そして、これは序の口、奥の院まで延々とつづくのです。