石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138 東京都北区の石造物-18b-滝野川3

2020-04-26 06:00:42 | 石造物巡り

新型コロナ感染防止のため外出を自粛しています。そのため、取材が出来ず、ブログを新規に投稿することが難しくなっています。これまで日曜日に更新してきましたが、以後、隔週日曜とします。

 

◇子育て地蔵尊(滝野川3-61-1)

住宅街の一角にある。

堂内には千羽鶴がびっしりと掛けられている。

たまたま若い父親と男の子が、手を合わせていた。

◇陸軍境界石(滝野川3-53)

東京国税局官舎の西側は、工事中だった。

工事の切れ目の壁際の草の中に小さな石柱があって、「陸軍用地」と彫られている。

官舎群は陸軍用地の跡地にあるのが多い。

ここも例外ではないが、陸軍跡地を彷彿とさせるものは皆無で、この小さな境界石が残っていなければ、ここが軍用地であったとは誰も思わないだろう。

◇四本木稲荷神社(滝野川3-61-1)

四本木で「よもとぎ」と呼ぶ。

ここも陸軍用地跡。

しかも陸軍第一造兵廠の守護神社。

世が世なら我々一般人など立ち入ることなど不可能な神域だ。

神社に森は不可欠だが、ここの鬱蒼と、ジャングル化した森は、ただ手入れがされず放置されたもの。

神社への入口は、西と南にあって、

西の鳥居には「昭和十二年」、

南の鳥居には「大正十三年」と刻まれている。

忠魂碑がある。

神社ではよく見かける石碑だが、陸軍の守護神社で見る忠魂碑は存在感がある。

戦争に負けたからこそ、今の平和日本があるとするなら、戦死も無意味ではなかったことになる。

木々までは手が回りかねるようだが、神社はきちんと保存されているやに見える。

◇真言宗豊山派・瀧川山松橋院金剛寺=紅葉寺(滝野川3-88-17)

山門の石柱には「紅葉寺」とあって、金剛寺ではない。

江戸期、紅葉の名所として知られていたという。

どこまで史実かわからないが、弘法大師が遊歴した際に創設された寺、という伝説がある。

山門前に数基の石造物。

古いものに交じって、新しい「水子地蔵」や

七福神の石柱がある。

この同じ場所に「水子地蔵」があったというわけではなく、水子地蔵は境内にあるという宣伝のようだ。

ひと際高い石塔は「西国三十三所供養佛」。

山門を入ると仁王がお出迎え。

石造仁王はありそうでいて、中々お目にかかれない。

本堂へと歩を進めることなく、右の小径に入る。

最初の自然石は句碑。

由(ゆ)可(か)李(り)那(な)く か流(る)や まこ登(と)の 花の宿 為山

私には碑文を読む能力はないので、これは、北区教委『北区の歌碑句碑』からの転載。(以下、同じ)

その隣の細長い石塔は「弘法大師一千百五十年供養塔」。

≪続く≫

 

 


138 東京都北区の石造物-18a-滝野川1、2丁目

2020-04-12 08:31:48 | 石造物巡り

 

 

 

 

◇滝野川不動尊(象頭山本智院観音蜜寺)滝野川 1-58-2

境内は、都電「飛鳥山駅」のホームに接してあるが、金網があって入れない。

遠回りして山門から入る。

がらんとして境内は広くて殺風景。

民家と変わらない庫裡を左に

奥まで行くと本堂がある。

本堂にしては小さいから、これはお堂で、本堂は庫裡と見えた建物だろうか。

石造物もわずか。

狛犬一対と

大日如来1基のみ。

滝野川不動尊の山門に接して右に「身代わり地蔵尊」がある。

堂前の石柱2基には、「江戸三大」、「身代地蔵尊」とあり、

供花が新しい所を見ると篤い信者がいることが分かるが、

謂れなどは、資料不足で一切分からない。

チンチンチンチンと遮断機が下りて、都電が走ってゆく。

◇浄土宗・思惟山正受院浄業三昧寺(滝野川2-49)

寺の名前は、寺号だったり、院号だったり、さまざまだが、ここは「正受院」。

住職が決めるのか、「浄業三昧寺」では長すぎるので、いつのまにか「正受院」になってしまったのか。

独特の鐘楼門があるので、覚えやすい。

6年前にも来たことがあるのを想い出した。

このブログ「石仏散歩」の100回記念として、それまでの石仏巡りを回顧する特集を組んだ。

(「NO100 石仏のある風景 https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/m/201504」 2015-04-01)

石仏についていかに無知だったか、それがどのように成長したかを、正受院の墓地の庚申塔を例に説明したものだった。

もちろん、その阿弥陀如来庚申塔は、そのままおわしますが、この庚申塔だけが正受院の石造物ではないので、もう一度、参道から順にみて回ることに。

鐘楼門は、かなり珍しい。

下から仰ぐと、鐘が見える。

脇には、鐘楼門の説明板がある。

かなりの年代物で、ペンキがはげたり、文字をペンキで塗り潰したりしてあって、ほとんど読めない。

読める部分だけを繋げると「明治35年の制作で、東京では唯一の鐘楼門。釣鐘は195キロ。戦時中、国家に献納した」とあるから、戦後、作り直したものだろうか。

鐘楼門前にあるのは、細工の細かい、銅製阿弥陀如来。

阿弥陀様が多いのは、浄土宗寺院だからだろう。

本堂前、左にある武者姿は、択捉島を探索した近藤重蔵。

彼の人となりと業績について、北区教委は次のように説明している・

石造近藤守重坐像                        正受院本堂前
   坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂
   府」という標柱を建てた近藤守重の肖像です。
   守重は明和八年(1771)江戸町奉行与力の次男として生まれ、家督を継いで、通称を
   重蔵、号を正斎と称しました。
   寛政十年(1798)3月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉
   兵衛の協力で、石像のように、甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力し
   ました。また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政五
   年(1822)から九年までの四年間を正受院の東隣に、瀧野川文庫という書斎を設けて
   住みました。
   石造近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼し
   て製作したと伝えられます。
   平成元年3月                           北区教育委員会

参詣人に若い女性がちらほら。

みんな慈眼堂とその横のお地蔵さんに手を合わせている。

正受院が別名「赤ちゃん寺」と呼ばれるのは、この慈眼堂が赤ちゃん(水子)の供養納骨堂だからでした。

右隣りの地蔵大菩薩の背後には「赤ちゃん供養塔」の石塔が立ち、

真新しい卒塔婆には「〇〇家胎児追善供養」と書かれています。

どこにも名前がないのは、水子だからです。

このお地蔵さんの後ろには、浄土宗寺院なのに、なぜか石仏不動明王群が。

これは、寺の裏手に、かつて「不動の滝」が、あったからです

江戸名所図会には正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として消壁に趨る、此境ハ常に蒼樹蓊鬱として白日をささえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり」とあります。

不動明王が祀られている瀧だから「不動の滝」であり、「不動の滝」だから、またさらにお不動さんが祀られたのでしょう。

 

 

 

 

 

 


138 東京都北区の石造物-14-西ヶ原

2020-04-05 07:55:16 | 石造物巡り

 ▽古川庭園(西ケ原1-27-39)[parts:eNoztDJkhAMmJgNj80Qji6RkV0NjSz0TEz1TMz1zYwM/Y1MQx8hYz8TMQC3K19bQQC04ytbYyEDHyMQAAGNBDCc=]

 

武蔵野台地の傾斜地の上下を、上は鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルにより洋風庭園に、下は、京都の庭師「植治」こと小川治兵衛が手掛けた和風回遊式庭園と和洋を調和させた庭園が見事。

心字池を中心とした和風庭園には、数基の灯籠があるばかりで、石造物はほとんどない。

それぞれの灯籠には、説明板があるので、それをそのまま、付けておきます。

泰平型灯籠
名前の如くどっしりとした形で、蕨手(笠の縁が蕨のように渦巻状に反ったもの)は、角柱の様にごつごつし、竿は太く節も3つある。

 

雪見型灯籠
この灯籠は水辺によく据えられ、その姿が水面に浮いてみえる「浮見」と点灯時にその灯が浮いて見える「浮灯(うきび)」が「雪見」に変化したとする見方がある。

濡鷺(ぬれさぎ)型灯籠
他の形式と比べて笠が厚く、むくり(反り)がない。図柄は「濡れ」を文字で「鷺」を絵で表現するか、「濡鷺」を文字で表現する2種類がある。

もう1基、奥之院型灯籠があるが、なぜか説明板がない。

層塔も1基ある。

十五層塔
その語源はスツーバ(つみかさね)からきていて、現地では仏塔の一種として信仰を集めているが、日本でも石塔は塔婆と同じ考え方で用いられ共通性がある。(奇数積が原則)

庭師小川治兵衛は、平安神宮神苑、円山公園それに京都の財界人別荘庭園などを作庭した庭師の第一人者。

古川庭園には、小川治兵衛らしい石垣が2種見られる。

まずは、一見石垣とは見えない崩石積(くずれいしづみ)

崩石積(くずれいしづみ)
石を垂直に積む方法は数あるが、これは京都で発達した伝統的な工法である。石と石がかみ合って崩れそうで崩れない姿が美しいとされる。当庭園においても小川治兵衛の力作となっている。

もう一つは、洋風庭園の下の崖地の黒っぽい石積。

黒ボク石積
富士山の溶岩で、多孔質で軽く、加工もしやすい。山の雰囲気が出るため、主に関東で石組みとして用いられることが多いが、石垣状のものは珍しい。

 

古川庭園を出て、塀沿いに左へ進む。

塀が折れた所の一つ先の小路を左折、住宅道路の中に石柱が立っていて、「六阿弥陀三番目 無量寺」と刻されている。

これが無量寺の参道ということになる。

寺の気配はどこにもなく、ちょっと信じがたい気持ち。

そのまま坂を下りてゆくと墓地に出て、その墓地を過ぎると石垣と石塀に挟まれた道路に出る。

右は、無量寺の塀です。

▽真言宗豊山派・仏宝山西光院無量寺(西ヶ原1-24)

 

 無量寺には、門が3つある。

多分山門は、本堂に一番近い門で、真ん中が大門だろうとは思うが、この一番最初の門は何と呼ぶのだろうか。

寺に電話したが、檀徒ではないと言ったら、こたえられないと言う。

その門脇にも、先ほどの石柱と同じ「六阿弥陀三番目 無量寺」の石柱がある。

盃状穴が見られるから、どこか他所から移転してきたものか。

参道左の地蔵菩薩立像は、台石に「供養佛」とある。

その隣の覆い屋は地蔵堂で、提灯には「ことぶき地蔵尊」と書かれている。

かつては、古川庭園のあるブロックの東南角にあって、六の日には縁日が開かれ、賑わっていた。

交通安全と商店街の商売繁盛を記念すべく、昭和28年(1953)、無量寺におわした子育て地蔵を遷座したもので、交通事故激減に伴い、平成27年(2015)、再び、元の場所に戻されたものです。

大門前右側のお地蔵さんの台石にも「右ハ/六阿弥陀道三番」と刻されている。

門をくぐると左にあるのが「弘法大師」文字塔。

そして、三つ目の門。

ここにも「六阿弥陀第三番目無量寺」の石塔が。

「もう分かったよ」とついつぶやく。

江戸の町のどこかの辻にあったものだろう。

六阿弥陀巡りの人気の高さを、何基もある道標が物語っている。

 境内は、深い緑に覆われて、とても東京都心とは思えない静寂を醸し出している。

ドナルドキーン氏が「日本で最も美しい寺」と云ったとか。

鐘楼の下には、

六字名号塔が。

本堂も、樹木に遮られて、全景は見えない。

六阿弥陀で有名なので、阿弥陀様が本尊かとだれしも思うが、本尊は不動明王。

ある夜、忍び込んだ盗賊が、本尊の不動明王の前で金縛りにあったように、動けなくなったことから、「足止め不動」と言われるようになった。

本堂前には、宝篋印塔と

「西国三番紀乃国粉河寺写」の文字塔が見られる。

上中里の城官寺にある「西国六番壺坂寺写」と同類の石塔です。

三界万霊塔の前には六地蔵がおわします。

そして、なぜか、ポツンと聖観音立像。

▽曹洞宗・補陀山昌林寺(西ヶ原3-12-6)

 道路から引っ込んだ高台にあって、分かりにくい。

山門脇に古い石塔、「西国第五番/河内国葛井寺写」とある。

城官寺、無量寺にもあった西国三十三番写しの石柱です。

境内に入る。

どこか異国情緒あふれる雰囲気、中国風か。

「師孝門」と刻された石柱の傍に

孔子像2体。

墓地への入口になっている。

六地蔵が普通の墓地入口だとすると風変わりは免れない。

何故、孔子像なのか、、説明があると親切なのだが。

もう1基、説明がほしいのが、「石庭追慕」。

わざわざ石碑にするのだから、しかるべき事由があるはず。

境内で目立つのは、聖観世音立像銅像。

足元に「百寿観世音」とある。

本堂も変わっている。

その本堂前の石柱には、「南無末木観世音菩薩」と刻されているが、

この「末木」は本尊に関わるもので、行基が六阿弥陀を彫刻した際、残った木材で彫ったのが、昌林寺の本尊、「木残」観世音ともいわれます。

 


 

 


 


138 東京都北区の石造物42(田端3,4丁目)

2020-04-01 09:47:36 | 石造物巡り

◇田端不動尊(田端3-14-1)

住宅に挟まれて、宅地1軒分の広さに不動明王が祀られている。

築山の頂上に、お不動さん。

朱色の光背は、火焔光。

眷属のせいたか童子と

かんたか童子もいらっしゃる。

うっかりして引きの写真がないので、分からないが、当たり前の街並みの家と家との間にある。

なぜこんな場所に、と不思議に思う。

元々は、田端駅東口にあったのだが、鉄道拡張の為谷田川畔に移され、そこも又、改修工事で追われて、昭和10年(1935)、現在地に移されてきたのだという。

◇田端日枝神社(田端3-20-2)

細い路地、と錯覚する参道。

両側に民家が並び、その奥に鳥居が見えるので、ああ、あれが神社だと分かるが、よく見ると、参道入口に標識が目立つことなく、立っている。

石段の前の鳥居は、上部に三角の屋根を戴く山王鳥居。

石段を上がる。

石造物らしきものは狛犬だけかと思っていたが、

かなり大きな石祠がこの神社の本殿なのだそうです。

石段を上がって正面の木造社は、拝殿なんだとか。

現地ではそのことを知らずに撮影していたので、本殿石祠の撮り方がなんとなく、杜撰でした。反省。

◇法華宗陣門流・教風山普光院大久寺(田端3-21-1)

小田原城主大久保家と伊勢亀山城主石川家、両家の菩提寺で、大正年間、上台寺と合併云々と謂れにあるが、複雑ですんなりと頭に入ってこない。

本堂左わきに墓地への通路があるが、そこに石造物が並んでいる。

ひときわ目立つのは、3本の石柱の中に立つ石像らしきもの。

摩滅して像なのかも判然としない。

傍らの石柱には「日蓮大士おこしかけ石/伊豆連着寺より将〇」とある。

寺の説明では、大久寺再建にあたり、伊豆の連着寺にあった「おこしかけの石」を割って、その半分を寄贈されたものという。

本堂左隅に石板が置かれている。

石川家墓所の改葬の際発見されたもので、凸面には、故人の名前、生年月日等の情報を刻し、

凹面には「このしたにはかあり あわれみてほることなかれ」と彫ってある。

庚申塔もある。

1基は、元禄3年(1700)造立のありきたりのものだが、

もう1基は、きわめて珍品。

2匹の猿を擬人化した台石、だが上にあるべき庚申塔はない。

一説では、上に乗っていた庚申塔は、日枝神社のご神体になったことになっている。

造立年が慶安3年(1650)というのは、北区で最古の部類になる。

墓地には、大きな宝篋印塔が並び、いかにも大名家の墓地らしい雰囲気がある。

大きいだけに、倒れると再建に苦労するようだ。

倒壊したのは、3.11地震というから、9年間、このまま放置されていることになる。

墓の持ち主とは連絡が取れず、寺で処理しようにも、費用が莫大で、というな諸般の事情があるからだろう。

◇上田端八幡神社(田端4-18-1)

一の鳥居から二の鳥居までは、がらんとしている。

石造物も、鳥居と狛犬の他は見るものがない。

境内社に白髭神社。

ご神体は、今はなき杉の木。

この杉の枝ぶりが、松とよく似ていたので、「松だ」、「いや、杉だ」と武士が言い争い、斬り合いになったという伝説がある。

◇真言宗霊厳寺派・和光山興源院大龍寺(田端4-18-4)

別名「子規寺」と呼ばれるのは、正岡子規の墓があるから。

観光名所めいて、墓地には人が絶えることがない。

山門を入ると句碑が1基。

しかし、青蘿という俳人は、江戸時代の人で、子規とは無縁。

散(ちる)者(は)那(な)能(の)花よ利(り)
 起(おこ)流(る)あらし可(か)南(な)

と、資料にはある。

山門入って右側の隅に、背の高い宝篋印塔と

層塔が高さを競い合うように立っている。

墓地に入る。

子規の墓は、正面奥の塀、右側にある。

子規が火葬を嫌っていたので、土葬のできたこの場所に葬られたと言われている。

銅板に墓誌が刻まれている。

「子規居士之墓

正岡常規 又ノ名ハ處之助 又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋主人 又ノ名 ハ竹ノ里人 伊豫松山ニ生レ 東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治◇◇年◇月◇日没ス 享年三十◇ 月給四十圓」

この墓誌は二代目。

最初の墓誌は盗難に遭った。

マニアというか、おたくというか、墓誌まで持ち去ろうとするのだから、フアン心理はこわい。

子規の墓の奥、一段と上がった墓域に、歴代住職の墓。

無縁塔や宝篋印塔が整然と並んでいる。