石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138東京都北区の石造物-18b-滝野川3の続き

2020-05-24 06:05:41 | 石造物巡り

新型コロナ感染防止のため外出を自粛しています。そのため、取材が出来ず、ブログを新規に投稿することが難しくなっています。これまで日曜日に更新してきましたが、以後、隔週日曜とします。

本来なら、前々回に続き、今回の編集内容を投稿すべきところを18cを間違って投稿してしまいました。改めて金剛寺続編を投稿します

 

◇滝川山松橋院金剛寺(紅葉寺)の続き

 

更に句碑がもう1基。

白露や 無明の
 夢乃さ免(め)し庵」 村雨軒化風

句碑や歌碑の他、狂歌、川柳碑もある。

玄朱亭の狂歌碑

花笠をぬふ
梅や那(な)幾(き)春能(の)もやふを
よ勢(せ)き連(れ)の谷濃(の)戸尓(に)
者(は)類(る)鶯乃(の)聲     玄朱亭印肉墨

 

柳袋川柳碑

 

銘文

己れ嘉永五乃ハる五世川柳翁の門に入り松楽堂寿鶴と号し狂句道に遊び明治廿八年八世川柳翁の前号を嗣き古とし七十有一乃高齢尓達し自可(みずか)ら此碑を建出

落葉盤(は)おしむ那(な)
あと耳(に)芽能(の)春支度  二世括◇舎 柳袋
(狂歌、川柳ともに『北区の歌碑句碑』より)

 

参道右手にあるのが弁天堂。

紅葉寺の弁財天は「岩屋弁天」、「松橋弁天」と呼ばれていたという。

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本堂前を右折、きれいに手入れされた植え込みの中に七福神がおわします。

       大黒天

        恵比寿

       福禄寿

     寿老人

        布袋

      毘沙門天

これで六福神。

なぜか弁財天がいない。

弁天堂の弁財天と関係があるのだろうか。6396

水子地蔵がおわす。

立像の足元に赤子が纏わりつく姿をよく見かけるが、これは、左の手のひらに赤子を乗せていらっしゃる。

三途の川で、折角積んだ小石を鬼に蹴散らかされて、地蔵に救済を懇願しているそんな光景に見える。

そのまま本堂のガラス戸を左に見ながら進む。

右の植え込みの中に数基の石造物がある。

富士講からみの石碑が2基。

一つは、富士講歌碑。

一眠利(り)
永き浮世を
夢尓(に)左(さ)へ
見し白妙(しろたえ)能(の)
婦(ふ)し尓(に)ま可(か)勢(せ)天(て)
  三代目伊藤廣山  樫秀吉謹書也

 

そしてもう1基は、三角形のお結び型石塔。

富士山を模しているのだろうか。

        食行三代目伊藤
三(みつ)玉能(の)ひかりの本を
堂(た)ち伊(い)傳(で)て
ここ路(ろ)
安(やす)久(く)茂(も)西の浄土へ

これは、富士講先達・伊藤参翁こと安藤冨五郎の顕彰碑で、碑の涌きに区教委の説明板があるので、書き写しておきます。

富士講先達の安藤冨五郎顕彰碑

ここにある富士山をかたどった記念碑は富士講の先達として活躍した安藤冨五郎の顕彰碑です。碑の表側には参という文字を丸で囲んだ講紋及び「三国の光の本をたちいでて こころやすくも西の浄土へ」という天保八年□月十二日に没した伊藤参翁の和歌の讃が刻まれています。裏側の人物誌によれば、冨五郎は宝暦五年(1755)、滝野川村に生まれたが、青少年時代から富士信仰の修行をおこない、丸参講という講組織を作って富士信仰を広めるのに努力した。その甲斐あってか、中興の祖である食行身禄(伊藤伊兵衛)の弟子の小泉文六郎から身禄が姓とした伊藤という姓を許されて伊藤参翁と称した。富士への登山・修行は五十回に及び、富士信仰にかかわる多くの人々から敬われ、八十歳を超えてもなお、顔立ちは早春の山の枯れ草を焼く野火や紅色の雲のように活気に満ち、嘘や偽りのない美しさを保っていたとあります。

冨五郎が生きた時代、富士信仰は、政治経済の混乱や封建的な身分制秩序による苦難から人々が救われるには男女の平等や日常生活のうえでの人として守るべき規範を実践し、これによって弥勒の世を実現するべきだという信仰思想に触発され、人々のあいだに急速にひろまりました。

   平成七年三月  東京都北区教育委員会 7866

紅葉寺には、富士塚はない。

それなのに、なぜ、富士講関係の石碑が2基もあるのか。

のっぽの石柱は、「弘法大師一千百五十年祈念塔」。

本堂前まで戻る。

仏足跡がある。

もちろんお釈迦様の足跡だが、日本ではあまり見かけない。

スリランカに行ったことがあるが、上座部仏教(小乗仏教)のかの国では、歯とか骨とか聖体の一部を崇める風習がある。

仏足跡もあちこちで見た。

本堂前に大きな弘法大師修行像。

弘法大師が全国錫巡中に、ここ紅葉寺を開祖したという言い伝えがあるのだそうだから、むべなるかな。

 


138 東京都北区の石造-18c-滝野川4丁目

2020-05-10 08:17:00 | 石造物巡り

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◇真言宗豊山派・南照山観音院寿徳寺(滝野川4-22-2)

山門右に新選組近藤勇の線刻画がある。

寺は近藤勇の菩提寺であり、JR板橋駅前の近藤勇墓地は、寿徳寺の境外地です。

左の小堂には、お不動さん。

その左には「西国十二番/近江岩間寺うつし」の石柱が。

山門を入る。

数年前までは、いつも閉じられていた。

正面に本堂。

階段の手すりの朱色がアクセントをつけている。

階段の両側に立つ仁王には、金網が被せられている。

本堂に向かって左の庫裡前には、異国風仏像がおわす。

向かって右が、インド国サールナート出土/アショーカ王石柱頭部。

左が、釈尊初転法輪像。

「平成十三年十二月八日開眼」と間に立つ石柱に刻されている。

インドやスリランカへ住職が仏教の地順礼に行った、その記念に建てたもの。

ちなみに「初転法輪」とは、お釈迦様が初めて仏教の教義(法輪)を人々に説いたこと。

その時のお姿が「初転法輪像」です。

余談ですが、現在の寿徳寺の住職は、女性。

不明な石造物について訊きに行ったら、女の人が出てこられたので、記憶にある。

初転法輪像の左奥におわすのは、聖徳太子立像。

極めて珍しい丸彫りの太子像です。

台石には「天皇陛下/玉體安穏/皇軍海陸/武運長久/国民豊楽/天下泰平/五穀成就」とある。

戦前教育での聖徳太子のイメージはこうだったのだろうか。

 

本堂の左を墓地へ。

無縁仏塔がある。

突き当りに石造物が並べられてある。

目立つのは、日清、日露戦役の傷病者供養塔。

右から「日清事変戦病死者供養塔」、中が「日清日露戦役戦病死者為供養」、左は「日支事変軍用馬頭鳩大戦傷病亡供養塔」。

数が多いので、全部紹介できない。

一つ二つ、選んで紹介すると、「水神大六天尊護防空守護」。

太平洋戦争中の米軍の空襲防御を祈願するものか。

もう一つ、「帝釈天三猴」。

私にとっては、懐かしい石碑。

なぜなら、このブログ「石仏散歩」の第1回のタイトルが「帝釈天三猴」、まさにこの文字塔を取り上げて、私が石仏に関心を持つ経緯を述べているからです。

https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/a1a290af21dc961d542fdca3834e7bb0

寺を出る。

石神井川までのゆるやかな坂道は「谷津観音坂」。

      坂下から寿徳寺を臨む

このブログは「石仏散歩」なので、木彫像はどんなに有名であっても取り上げない。

だから、寿徳寺の本尊子育て観音については、触れなかった。

木の皮を煎じて飲むと母乳の出がよくなる銀杏の木とともに、子育て観音(子安観音)目当ての参拝客が、かつてはひきもきらずだったという。

それは、俳句にも詠まれるほどの人気だった。

秋たつや 子安詣の 名の束 河東碧梧桐

谷津観音坂を下る。

思いもしなかった景色が広がって、初めての人は驚くに違いない。

なにしろ本物の大仏が座していらっしゃるのだから。

しかし、大仏を詠んだ明治時代の句はない。

なぜなら平成20年に造立されたばかりだからです。

 

大仏は、正式には、谷津大観音というのだそうだ。

寿徳寺が出した説明板がある。

世界平和  萬民豊楽  子孫繁栄  諸願成就

   谷津大観音は、南照山観音院寿徳寺第二十四世住職新井慧誉和尚の発願によるもので、第
   二十五世新井京誉がその志を引き継ぎ寿徳寺の寺域である当地に建立着手しました。
   寿徳寺がまつる御本尊は聖観世音菩薩であり、谷津の観音様として親しまれておりますこ
   とから谷津大観音と呼称します。
   大仏を正面から拝せる、石神井川にかかる観音橋のたもとから一筋の光明が生まれること
   でしょう。
   平成二十年十二月吉祥日 開眼供養            當山第二十五世 新井京誉

    
概要 唐金鋳造 佛身四・五米
    
   総高石台共七・七米 唐金重量五t
    
設計施工 翠雲堂  監修 鏡恒夫  原型製作 渡邊雅文
    
こちらの蓮華は大観音様がお持ちの蓮華と同寸です。
    
泥中より美しく咲く蓮華にどうぞ触れ合って下さい。 
 

しばらく橋の上から見ていると、通りかかった人の半数以上は、頭を下げ、合掌してゆくのが分かる。

庶民の生活に溶け込んだ大仏さまといえようか。