石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-10

2016-03-28 05:54:17 | 寺町

南寺町通りを顕性寺まで戻って左折すると、前方、道の両側に幟が見えてくる。

右が、お岩稲荷の陽運寺、左がお岩稲荷田宮神社。

ともに「四谷怪談」の主人公お岩の霊を祀っている。

24 日蓮宗・長照山陽運寺(新宿区左門町18)

まずは、手前の陽運寺へ。

「於岩稲荷」の提灯が山門にある。

私が訪れたのは、土曜日の11時頃だったが、若い女性が5、6人別々に参拝しに来ていた。

大分前になるが、以前来た時とは、雰囲気が違うような気がする。

若い女性とお岩との接点が思いつかないから、当惑するばかり。

見ると門前に「縁結び祈願」の朱色の幟がはためいている。

反対側には、青色の「芸道上達祈願」の幟も。

いつからお岩さんは縁結びの神になったのか、不審に思いつつ山門を入る。

と、そこに「お岩さまと縁結び」の説明板が。

「東海道四谷怪談」でおなじみのお岩さん。
 この怖いお岩さんが出てくる四谷怪談は実は後世の人が創作した物語なのを知ってますか。(略)江戸時代に実在した「お岩」は家庭をとても大事にした貞淑な妻だったとも伝えられています。このお岩さまを祀る陽運寺は「えんむすび」の寺としても全国に知られています。悪縁を切り、良縁を結ぶお岩さま。
厄除け、縁結び、芸道上達、また新たに出会いを望まれる方も、ぜひ本堂からご参詣ください。当山

どうやら、お岩さんは貞淑な妻だったから、縁結びの神だと云いたいようだ。

貞淑な妻が縁結びの神になるならば、日本全国に何千万、何億の神がいることになる。

しかも唐突に「厄除け、芸道上達」にもご利益があると云うのだから、面喰らってしまう。

様々なご利益をうたう寺社は無数にあるが、そのいずれも、原初の具体的なご利益事例が信仰の核となっている。

この説明の曖昧さは、どこの誰が縁結びをお岩さんに祈願したら、奇跡的にこのように良縁に恵まれたという事例の提示がないことにある。

それともう一つ。

「えんむすび」の寺として全国に知られている、というが、本当か。

少なくとも私は聞いたことがない。

ありもしないことを断定しないでほしい。

境内に入る。

本堂脇に、定番の絵馬とお守りを売っている。

いずれも「開運」するらしい。

叶玉なるものもある。

玉を投げて、無事、水鉢に入れば、なんと「心願成就」すると言う。

そして更に、願えば幸福まで授けてくれるというから、もうお岩様、様。

凄いのは、そんな個人的な願いばかりではないこと。

ここ陽運山は日蓮宗だから、日蓮大菩薩石塔には「天下泰平国家安全」も刻されている。

恋の悩みから「あべのミクス」の成り行きまで、お岩さんが日蓮さんとともに解決してくれるというのだから、恐れ多くもつい、眉にツバをつけたくなってしまう。

それにしても、縁結びだ、厄除けだ、芸道上達だ、全部まとめて心願成就だとそんなに安請け合いしていいのかと余計な心配をしてしまうのだが、寺のHPを見て驚いた。

ものすごい数の願い事を列挙して、みんな叶えてあげますとおっしゃるのです。

数が多くて、転写するのもひと仕事だが、祈願内容以下の如し。

開運厄除・良縁成就・家内安全・身体健全・芸道上達・商売繁盛・就職成就・立身出世・社運栄昌・事業繁栄・合格成就・交通安全・旅行安全・子宝成就・安産成就・発育増進・除災得幸・当病平癒・寿命延命・悪縁解除・心願成就・家祈祷・地鎮祭・上棟式・開眼供養・閉眼供養・方位除け・鬼門除け等

よくぞこれだけ願懸け四文字熟語を思いついたものと、つい「拍手喝采」のこちらも四文字で。

お岩さんの怨みは、亭主の伊右衛門に騙され、虐殺されたこと。

つまり、ウソは嫌いなのです。

もし、これらの祈願がウソだったら、自分の名をかたる嘘つきと寺にたたるはずです。

そうしたことは聞かないから、もしかしたら、願えば何でも叶えられる???

お岩さんの霊力ここに極まれり、誠にもって、恐れ入谷の鬼子母神でございます。

 25 於岩稲荷田宮神社(新宿区左門町17)

本家騒動、元祖争いは珍しくないが、お岩さんを巡って、あちらはインチキと、寺と神社が罵り合うのは、何か異種格闘技を見るような感じ。

だが、この異種格闘技、お岩稲荷田宮神社に軍配は上がりそうだ。

なにしろ東京都が、ここにお岩の家、田宮家の稲荷があった事を認め、都の史跡に指定しているのです。

文化文政期に江戸文化は爛熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北[金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政12年(1829)11月27日歿]も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祀ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政10年(1827)10月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した。「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治5年ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転(中央区新川の於岩稲荷田宮神社)したが、昭和27年再びここに移転したものである。(昭和43年3月1日建設 東京都教育委員会)

別に役所の肩を持つわけではないが、寺側の劣勢はいなめないでしょう。

このお岩稲荷話が、なんとなくすっきりとしないのは、フィクションとノンフィクションが混在しているからでしょう。

まず、お岩さんが実在の女性だったことは確かです。

巣鴨の妙行寺に墓もある。(左門町から近い南元町にあったが、巣鴨に移転)

   お岩の墓(西巣鴨の妙行寺)

お岩は、屋敷内に稲荷神社を勧請し、亭主と力を合わせ、田宮家を再興させた。

やっかみ半分、人々は「お岩稲荷」と云うようになる。

と、ここまでは、本当のことらしい。

ところが、お岩さんの死後、約150年後、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』が大当たり、

「お岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」怪談か流布します。

これが史実か創作か、意見が分かれる所。

その頃、「怨みが大きい死者が神になるとその祟りも大きい」は、常識だった。

「お岩稲荷」は祟りがあるぞ、という話は、あっという間に江戸市中に広がった。

フィクションが常識と合体して、「お岩稲荷田宮神社」は誕生しました。

 

境内に入る。

ここにも若い女性の姿が。

幟が参道両側に立ち並ぶところは、陽運寺と似ているが、こっちの方が地味。

商売っけがないように見受けられる。

玉垣の、日本の一流劇場や作家、役者それに古典芸能演者の名前が、田宮神社の本家感を弥増しているようです。

 

 

 

 


119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-9

2016-03-25 05:53:59 | 寺町

21 日蓮宗・平等山本性寺(新宿区須賀町13-3)

本性寺の山門と山門を入って正面の毘沙門堂は、戦災に遭わなかった、四谷では珍しい貴重な建造物です。

毘沙門堂は、総欅造り間口3間、奥行7間の釘は一切使わず、切組造り手斧(ちょうな)削りで建立されている(一部後に改造される)。山門も同様で、門は290年前(延宝の頃、将軍綱吉の頃)、堂は220年前(寛延頃、9代家重将軍の頃)のものであるという。(ブログ「猫のあしあと」より)

毘沙門堂におわす毘沙門天像は別名「北向き毘沙門天」と云われるが、それは北方にある仙台藩の伊達氏が謀反を起こさぬよう、毘沙門天を北向きに安置して祈願していたから。

神田川の掘削工事を命じて、伊達氏の財力の弱化を謀るだけでは、家康は安心できなかったと見える。

墓地に入る。

所々にベンチがおいてある。

墓参者への、寺の気遣いがうれしい。

有名人の墓としては、萩原宗固の墓だろう。

萩原宗固は塙保己一の師だったそうだが、私はしらなかつた。

説明板があるので、書き写しておく。

萩原宗固の墓

江戸中期の国学者、塙保己一の師で歌人でもある。市ヶ谷本村町の鈴木家に生まれ、後に萩原氏の養子となって、本名貞辰、通称七左衛門といい百花庵と号した。幕府の御先手与力を務めたが、病により辞した後は国学を学び、和歌に親しんだ。晩年は四谷荒木町に住み、八十二歳で没した。著書に「一葉集」、「蜻名遺傳」、「蜻蛉日記注釈」などがあり、和歌は冷和泉為村に学び、次のような名吟がある。
「夢なれや枕ならべてねし人も聞かぬ初音の山ほととぎす」。

無縁仏の中に酒樽墓標がある。

いつの時代にものん兵衛はいるから、酒樽の墓は日本中どこにでもある。

3人の戒名の内二人は女性。

女の大酒のみだったのだろうか。

今、流行りのペットの墓もあるが、犬と猫、別々に葬る所にこの寺の特色があるようだ。

           犬の墓

           猫の墓

 

22 真言宗豊山派・金剛山蓮華院顕性寺(新宿区須賀町13-3)

 

顕性寺には、寺宝の「まないた大師」があるのだが、拝見できない。

となると写真の材料としては、門を入って左に立っている標柱だけということになる。

正面は

「 御府内八十八ケ所
 南無大師遍照金剛
  第四十四番   」

右側面に

「文久二壬戌年八月  是ヨリ右江十三丁 千駄ヶ谷聖輪寺
 伊豫国大覚院写   是ヨリ左江二丁 南寺町文殊院   」

御府内八十八ケ所の札所であることを示し、同時に道標も兼ねていることが判る。

なお、右側面にある「文殊院」は二十六番札所で、戒行寺坂にあったが、明治の初め廃寺になって、今はない。

23 日蓮宗・妙性山正覚寺(新宿区須賀町14)

左門町交差点を東に入って、すぐ右にあるビル寺。

大きいが、戦災ですべてを焼失し、古い文化財はない。

寺院斎場を経営し、墓地には真新しい墓が並んでいる。

「〇〇家」以外に斬新な意匠の墓標も散見できる。

紹介しようと写真に撮ってきたが、プライバシーを犯す恐れがあるようなので、掲載を諦めた。


119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-8

2016-03-22 05:21:23 | 寺町

18 曹洞宗・蟠龍山永心寺(須賀町11)

永心寺も寛永11年移転組。

永心寺の山門と本堂は、享保11年(1726)の建築。

修理中に棟木から発見された墨書、棟札から分かった。

四谷寺町でも最も古い建物の一つ。

本堂の間口は七間、奥行き五間半屋根は寄棟作りの瓦葺。
出桁造りの式台玄関で、千鳥破風が屋根についている。
広縁の竹の節欄間、間仕切りの襷欄間、など大胆な構成と古式風の調和が見られ、江戸中期の力強さが感じられる」(安本直弘『その歴史と文化を訪ねて』より)

台石四隅に彫刻が彫られた墓石がある。

十六羅漢だろうか。

永心寺より西へ2軒先、左へ下るのは闇(くらやみ)坂。

標柱に「この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が茂り、薄暗らい坂であったため、こう呼ばれたという(御府内備考)」。

 

坂を覆う樹木などはどこにもなく、闇坂どころか「日照坂」が似合いそう。

松厳寺は坂の途中からも本堂が見えるが、庭らしき境内に巨木は見当たらない。

太平洋戦争の東京大空襲で往時の面影は一変したようです。

 

闇坂の角に「谷石材工業」がある。

「寺町なのに石屋さんがないなあ」と思って歩いてきたが、やっと見つけた。

玄関先に彩色の対の狛犬がおわす。

自信作なのだろう。

手水鉢もある。

19臨済宗・雲龍山松厳寺(新宿区須賀町12-6)

松厳寺の山門は、南寺町通りから少し入った所にある。

閉扉されていて入れないが外から見た限りでは墓地はない。

墓地は、大崎共同墓地にあるらしい。(ブログ「猫のあしあと」より)

 

20 法華宗・正妙山法恩寺(須賀町13)

享保10年(1725)の大火で、一切の文書を焼失、寺の開基もはっきりしないのだと云う。

墓地には、上総の豪族、千葉介常胤の供養塔とその後裔一族の墓があるらしいが、墓地に入る許可を得なかったので、写真はない。

個人的な事情で恐縮だが、私は千葉介常胤なる人物を全く知らない。

以下は、『四谷散歩ーその歴史と文化を訪ねて』からの転載です。

千葉氏は古代末期より中世に到る関東の頭領で、桓武平氏―村岡良文の流れを汲んでいる。当所、今の取手・我孫子一帯を開発して、相馬御厨を本拠とし、代々、千葉介常胤を拝命していた。治承4年(1180)常胤は、頼朝を安房に迎え、各地を転戦して勝利を重ね、源氏再興の原動力となった。この功績により、常胤は下総守護に任ぜられ、このほか伊賀、大隅の守護職も兼ねた。
常胤の子は一族としてそれぞれ独立し、千葉六党として勢力を振るうようになるが、享徳4年(1455)一族の内乱から胤直、胤宣親子が自刃して勢力が衰えた。戦国時代には、後北条氏に属し、天正18年(1590)、秀吉の小田原攻撃により滅亡した」。


119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-7

2016-03-19 06:49:35 | 寺町

16 真宗大谷派・松雲山西応寺(新宿区須賀町11-4)

門前に説明板があって、新宿区指定史跡として、剣客榊原鍵吉の墓があると書いてある。

宗福寺の刀匠源清麿の墓でも書いたが、私は日本刀を作るのも、使うのも興味がない(はっきり言えば、嫌い)なので、墓を探さなかった。

和算学者、藤田雄山の墓は写真に撮ったが、和算の問題を見ただけで、解こうとする気力を失くす身としては、ただひたすらわけもなく,異能の人と崇めるばかりです。

17 曹洞宗・法輪山勝興寺(新宿区須賀町8-7)

参道を行くとゆったりとした大柄なお地蔵さんが迎えてくれる。

四谷寺町17カ寺目にして、初めての等身大以上の石仏。

黒ずんだ濃淡は、戦火によるものだろう。

その後ろに小屋掛けの奪衣婆。

四谷寺町唯一の石造奪衣婆です。

実は、墓地入口に閻魔さまがおわす。

対の形で坐すのが普通なのに、わざわざ離して、しかも閻魔だけ露天で雨風に晒されているのは何故なのだろうか。

奪衣婆の左、こちらも野ざらしの観音さんのお顔がいい、好きだ。

本堂前を横切って墓地へ。

石仏群の中で目立つのは彫の深い如意輪観音。

「珍しい六手の」と書きかけて、おやっと手が止まる。

おかしい。

どうみても本来あるはずの右手の一本がない。

これでは、「五手の」如意輪観音になる。

石工がミスした欠陥石仏なのか、それともしかるべき意味があるものなのか。

墓地に入る。

ある家の墓域に、見事な三面憤怒の馬頭観音がおわす。

20数年可愛がってきた愛馬の死を悼んでの造像だと台石に記されている。

人間の墓と同居する馬頭観音は、初めて見た。

明治という時代を考えると、かなり思い切った所業のように思う。

それだけ家族に愛されたということか。

有名人としては、映画監督、島津保次郎の墓をあげなければならないだろう。

大正、昭和の映画監督で、門下には、五所平之助、吉村公三郎、木下恵介らがいるとWikipediaにあるから、大物監督だったらしいが、残念ながら、私は、島津作品を見たことがないので、書くことがなにもない。

もう一人の有名人は、墓地入口の「山田浅太郎」の墓。

山田浅太郎が誰かすぐわかる人は、かなりの時代小説通と云えよう。

でも「首切り浅次郎」と云えば、「ああ」とうなづく人も多いはず。

正職は、「将軍家御試(おためし)御用役、(将軍家の刀剣の切れ味を試す「様(ためし)斬り」をする役)だが、「様(ためし)斬り」は処刑者の死体で行ったため、しだいに斬首そのものを山田浅右衛門が担当するようになり、「首切り浅右衛門」が一般的になった。

「首切り浅右衛門」については、このブログ「NO38コツ通りと首切り地蔵」http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=0440ed067865ccb36393c38530998fb5&p=6&disp=30

で書いたので、そちらをご覧ください。

ただ、歴代山田浅次郎の墓は、池袋の祥雲寺にあるとばかり思っていて、ここ勝興寺にもあることは、今回初めて知りました。

どうやら6代目までは祥雲寺に、7、8代目は勝興寺にあるということらしい。

ネット検索していたら、「試し切り」という落語があった。

無断転載です、ごめんなさい。

 

五代目落語家柳家小さんの噺「試し切り」。

白井権八と言う名人は遊興費ほしさに辻斬りをしたという。あまりにも腕が上手いので切られた方も分からずに三丁ばかり鼻歌を歌いながら帰り、家の近所に来たので曲がろうと体をひねった瞬間に真っ二つに割れた。そのぐらい上手い人に切られると分からないと言う。

新身(あらみ)が入るとその切れ味を試したくなるのはごく自然なこと。わらの束を切るのでは物足りないし、動物では刀が汚れてまずい。そこで、夜、覆面をして伺っていると、年寄りが近づいてくるが、老人は先が短く不憫だからと見逃す。若いのがくると先があるのだからと見逃し、女が来るともったいないと見逃し、あきらめて、橋のたもとまで来るとコモをかぶった乞食が寝ていた。こ奴なら良いだろうと腰をひねって気合いもろとも切り捨てた。刃こぼれもせず良い刀であった。 翌日その事を同僚に自慢すると、同僚も出かけていった。今夜も同じ所に乞食が寝ていたので、同じように気合いもろとも刀を振り下ろし、ツツツと2~3間後ずさりをすると、乞食がコモを跳ね上げて、「誰だ、毎晩来て叩くのは!」 

 ブログ「麹町ウおーかー(麹町遊歩人)」より

 

 

 


119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-6

2016-03-16 05:56:29 | 寺町

妙行寺から観音通りの四つ角まで来て、東へ。

谷底を歩いているから、坂ばかり目につく。

坂の名前が〇〇寺坂と寺がついているのが、いかにも寺町らしい。

次の戒行寺坂は、なんなく見つかった。

戒行寺坂は、別名、油揚坂という。

坂の途中に豆腐屋があって、美味い油揚が人気だったので、こう呼ばれたが、この豆腐屋が東福院の豆腐地蔵の事件現場だった

13 浄土宗・成道山一燈寺(新宿区須賀町10)

左に窓の少ない黒いビル。

門柱に「浄土宗一燈寺」とあるので、初めて寺だと分かる。

門が開いているので、中に入って見る。

燈籠がポツンとあるだけで、寺らしきものは、見事に何もない。

ブログ「猫のあしあと」http://www.tesshow.jp/shinjuku/temple_suga_itto.html

によれば、「昭和29年、角井一燈氏により創建」とある。

昭和29年というと私が高校に入学した時、ついこの間のようでもあり、大昔のようでもある。

でも寺の創建としては、新しい方だろう。

一燈寺という寺号はいいな、と思ったが、創建者の名前だったとは。

一燈寺の隣のマンションを挟んだ坂上は、宗福寺の参道。

14 曹洞宗・日照山宗福寺(新宿区須賀町10-2)

参道入口に石塔が2基。

左「四谷正宗 源清麿先生墓所」
右「江戸刀匠 水心子正秀先生墓所」

どうやら刀匠の墓が宗福寺にあるようなのだが、日本刀について全く興味がなく、だから当然知識もないわけで、何も書くことがない。

たまたま、新宿区教委の説明板があるので、自分の勉強を兼ねて書き写しておく。

新宿区指定史跡 源清麿の墓

 江戸後期の刀鍛冶の名匠源清麿は、本名を山村還といい、文化9年(1812)信州小諸に   生まれた。
 はじめ上田の刀匠河村壽隆について鍛冶を学び、天保6年(1835)江戸に出て幕臣窪田清音のもとで兵学を学ぶ傍ら刀工として精進した。
 その後四谷北伊賀町(現在の三栄町の一部)に居をかまえて刀剣の製作に励み、名も源清麿と改めた。新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として、天保・弘化年間(1830-46)に活躍した。その刀の切れ味は正宗のようだといわれ、「四谷正宗」と呼ばれた。
安政元年(1854)11月14日、42歳で没した」。

参道の右側に銅製十一面観音がある。

三猿庚申塔も。

三猿だけの庚申塔は稀有ではないが、かなり少ない。

そして、六地蔵。

四谷寺町を歩いて14カ寺目にして、初の六地蔵ということになる。

どこの寺の墓地にもあるのが、どうしてここではこんなに少ないのか。

六地蔵と思ったら、お地蔵さんは8つ。

よく見たら左の2体は台石が違う。

どこか他所から運び込んだものだろうか。

涎かけの色を変えるといいのに。

本堂前左に、四谷正宗・源清麿の墓がある。

左から2基目の自然石がそれで、正面右から

「      信州小諸人 世俗号四谷正宗
       俗名 山浦環
 大道院義心居士
       刀名 源清麿
       安政元甲寅年十一月五日
            行年四十二歳」と刻されている。

四谷正宗は、刀剣博物館や国立博物館にも保存、展示されているという。

他に刀剣学者内田疎夫と清麿の師・水心子正秀の墓が並んでいるが、これ以上、刀剣については触れない。

本堂の後ろは墓地。

崖の斜面だから下の方は見下ろす感じ。3593

15 日蓮宗・妙天山戒行寺(新宿区須賀町9-3)

戒行寺坂を上がると右に、坂の名の由来の、戒行寺がある。

本堂前に池波正太郎の『鬼平犯科帳』で有名な「火付け盗賊改め」長谷川平蔵の供養塔がある。

「鬼平」は池波氏の造語、そえいうあだ名があったわけではない。

平蔵が火付け改めに任ぜられたのは、天明6年(1786)だが、当時江戸には浪人や無宿人などの犯罪予備軍が屯し、盗みの手口も、「殺して奪う」から「火をつけて奪う」になっていた。

町奉行とは別に、刑事専門の火付け盗賊改めが設けられたのは、こうした時代の要請があったからです。

平蔵は火付け盗賊改めに9年間在籍し、犯罪者の摘発や犯罪防止に功績を残した。

在職中、50歳の若さで死去した。

出世しないまま亡くなったが、一説には、清廉潔白ではなかったから、だと云われている。

 

 

 


119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-5

2016-03-13 08:01:57 | 寺町

11 日蓮宗・高見山日宗寺(新宿区若葉2-3)

真英寺の真向かいに日宗寺はある。

小湊の誕生寺の末寺で、他寺と同様、寛永11年の移転組。

高見山というと青森出身の朴訥なお相撲さんを思い浮かべるが、彼は四谷に同名の寺があることを知っているのだろうか。

この情報化時代、私は「知っている」方に懸けるが、あなたはどうですか。

日蓮宗寺院でよく見かける浄行(じょうぎょう)菩薩がおわす。

正確にば、日蓮宗寺院で「しか見かけない」というべきか。

薬師如来が説法をしていた時、大地が割れ、浄行菩薩ら4菩薩を筆頭に無数の菩薩が湧き出た。彼らは、釈迦亡き後の末法の世において仏法を護持するものとされ、日蓮は自らを浄行菩薩になぞらえていた。(Wikipediaより)

墓地には、『広辞苑』の編者・新村出の墓がある。

「にいむらいずる」だとばかり思っていたが、「しんむらいずる」が正しいらしい。

これもWikipediaの受け売りだが、「出」という名は父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名された、のだそうだ。

辞書編纂者の苦労話は、三浦しおんの『船を編む』でよく分かったが、偏執狂でないと務まらないだろうとも思った。

新村出は、「超」がつく偏執狂だったに違いない。

墓域奥に「日本醫史學會 東京名墓顕彰會」なる石柱を見つけた。

背後の墓銘は「瑞仙隠殿法印楽義居士」。

資料には、江戸中期、幕府の医官を務めた栗本瑞見とあるが、どういう人か私は全く知らない。

「四谷寺町ー1」の西念寺には、天正12年と元和6年の墓石があることを記したが、日宗寺にも「元和二丙辰二月」の墓がある。

元和年間の墓など探せばいくでもありそうだが、まず滅多にお目にかかれない。

貴重品なのです。

人間の墓地にペットの墓があることは、最近珍しくなくなってきたが、「猫塚」は珍しい。

浄行菩薩の前の塀際には、昭和の終わりころまで、池があって清水が湧いていた。

鮫河橋から赤坂御所内を通り溜池に注ぐ鮫河の源流だったというから、信じられない気がする。

なお、境内には句碑があるが、私には読めない。

原句を教えてもらうべく寺に電話をしたら、「忙しいから」とガチャと電話を切られた。

 

日宗寺を出て、右へ。

やがて観音坂にぶつかる。

左へ坂を上れば真成院だが、そっちへは行かず右へ。

突当りの急な石段を上がると、そこが須賀神社。

12 須賀神社(新宿区須賀町5)

須賀神社は、四谷18ケ町の総鎮守。

外堀普請の為、他寺とともにこの地に引っ越してきた「寛永11年移転組」。

移転してきた時は、稲荷神社だったが、すぐに神田明神摂社の牛頭天王と合祀、「稲荷天王」と称された。

その名残は、神社前の「天王坂」に残っている。

明治初期の神仏分離令で、社号を須賀神社に改名した。

天保年間に描かれた「三十六歌仙絵」が戦火を免れ、社宝として保存されている。

本殿左脇に36枚のコピーが展示されている。

下の写真は、本殿内に掲げられた8人の歌仙絵と天井格子絵。(須賀神社HPより)

境内には、町火消「く組」の火の見梯子と半鐘がある。

高台だから昔からこの地にあったのだろうかと思ったが、調べたらそうではないことが判った。

老爺の胸像がある。

近寄って見たら、30年の長きにわたり須賀神社の氏子総代を務めた人の顕彰碑だった。

氏子総代の顕彰碑は、あるようでない、極めて珍しい事例といえよう。

須賀神社の女坂を下りてゆくとすぐ下に妙行寺がある。

12 日蓮宗・稲荷山妙光寺(新宿区若葉2-4)

須賀神社の真下にあって、稲荷山と号するのだから、妙行寺は、てっきり須賀神社の別当かと思ったが、なんの関係もなかった。

境内に、長文の縁起が掲示されている。

それによると、江戸城拡張工事という理由は同じながら、慶長19年と他寺とは違った時期に移転してきたらしい。

かつては赤門の寺だったが、それは檀徒の娘が大奥に入り、その関係で幕府から許されて赤門になったという。

彫刻は、かの有名な甚五郎作だったらしいが、すべて戦塵と化した。

境内、墓地にこれといった石造物はない。

わずかに、すらりと伸びた青石の自然石「南無妙法蓮華経」塔が人目をひくばかり。

四谷寺町を歩いて気付くのは、手押しポンプが現役であること。

あちこちの寺の墓地入口で見かけた。

良質の地下水に恵まれているからか。

浅い地層に水流があるからか。

物を大事にする風習があるからか。

昭和生まれとしては、そこにあるだけで、やたら嬉しくなる、ポンプなのです。

 

 

 


119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-4

2016-03-10 05:50:15 | 寺町

東福院坂を上ったら、そのまま新宿通りへ。

左折して次の信号を左へと坂を下りる。

信号に「津之守坂入口」とあるが、この坂は円通寺坂。

津之守坂は、新宿通りの反対側、三菱UFJ横の道のこと。

下りてすぐ左に「祥山寺」の標識がある。

7、臨済宗・瑞鶏山祥山寺(新宿区若葉1-1)

洒落た石段を上がると空地かと思う境内が広がっている。

正面の建物が本堂らしいが、寺らしくないので、境内も単なる空地に見える。

右手に墓地があるから寺に違いない。

祥山寺も寛永11年の引っ越し組です。

この界隈は、江戸時代、伊賀衆が住んでいたことは前にも触れた。

祥山寺は伊賀忍者の菩提寺で、忍者寺とも呼ばれた。

境内のお地蔵さんは、だから、忍者地蔵というのだそうだ。

忍者に憧れて来日する外国人が多いらしいが、この忍者地蔵の情報はネット検索で入手できるのだろうか。

忍者の寺の他に、祥山寺にはもう一つ別な顔がある。

それは、新宿区の指定史跡でもある「三銭学校」。

学習院初等科下の鮫が橋付近は、有名な貧民窟だった。

天獄と地獄が一望できる稀有な場所でもあった。

この貧民窟の子供たちの学校をつくるべく四谷寺町の住職たちが立ち上がったのは、明治21年(1888)。

リーダーは、祥山寺住職の小嶋栄年だった。

集まった500円を基金に、授業料無料、教科書、学用品貸与の学校が開校した。

しかし、基金を使い果たして4年で廃校となる。

貧民窟ばかりでなく、界隈の商店の小僧たちも通っていたため、再興の嘆願が相次いだ。

小嶋住職は同志と相談の上、有志1000人が毎月一人3銭を拠出する3銭学校を開校することに。

1か月30円の寄付金をもとに再び無料学校は、開かれた。

校舎は祥山寺、教員は小嶋住職ご自身。

出家者が弱者救済に乗り出すと云う、仏教界にとっても忘れがたい画期的な出来事でした。

 8、日蓮宗・大黒山円通寺(新宿区須賀町2-2)

祥山寺を出て、坂を下りる。

  坂下からの景色。車の向こうの白塀が円通寺。

すぐ右に、坂名となった円通寺があるが、ビル寺で墓地に行くには、ビルの駐車場を通らなければならない。

本堂と思われる側の扉は閉まったまま。

持参資料には、この寺には、日蓮上人作といわれる「厄除け大黒天」が祀られていると記載がある。

9 浄土宗・五劫山思惟院法蔵寺(新宿区若葉1-1)

円通寺の向かいにある。

天正18年(1590)開基の頃は、寺領の北は新宿通りまで及ぶ広さがあったが、寛永の幕府による用地召し上げで一挙に狭くなったという。

境内に入ると2基の地蔵が目に入る。

右の地蔵は、左手に子供を抱いている。

台石に親子地蔵とある。

墓地入れ口に立派な宝篋印塔があって、脇の石碑に「法蔵寺開基 西松平福鎌家」と刻されている。

すぐそばに二基の巨大な六字名号塔。

大きい方は、寛文4年(1664)造立、

やや小さい、笠付きは、宝暦5年(1755)造立。

どんな謂れがあるのか寺に尋ねたが、電話に出た女性は、六字名号塔も知らなかった。

10 真宗大谷派・慈眼山真英寺(新宿区若葉2-1)

 円通寺坂を下りきって道なりに左へ曲がると左に「真英寺」の石柱。

その横に石段があるので、上がってゆく。

屋上には本堂と墓地だけ。

石造物が皆無なのが、いかにも真宗寺院らしい。

本堂の濡れ縁に上がって、寺町の俯瞰を撮る。

俯瞰といっても、谷の一番底なので、広がりはたいしたことはない。

中央に見える道路は、写真右方角から円通寺坂を下ってきて、道なりに左へ曲がったところ。

ぐにゃぐにゃ曲がっているのは、入江の先端がここまで伸びていた跡です。

 


119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-3

2016-03-07 05:51:35 | 寺町

観音坂を下りて右へ。

次の坂、東福院坂を上ると右手に愛染院がある。

  右上に伸びるのが、東福院坂(天王坂

赤レンガが美しい。

旧日本陸軍で多用されていたレンガなので、旧軍施設が隣接してあったのかと思ったが、大正年間、当時流行りの建築資材だったから使用したまで、とは寺の説明。

5 真言宗豊山派・独鈷山愛染院光明寺(新宿区若葉2-8-3)

この寺は、寺号の「光明寺」ではなく、院号の「愛染院」が呼称として使われる。

四谷寺町でも、寺号ではなく、院号で呼ぶ寺はいくつもあるが、それは何故なのだろう?

どこかの寺で訊いてみなくては。

 愛染院は、慶長16年(1611)、麹町に創立され、江戸城下の都市計画に基づき、寛永11年(1634)、この地に移転してきた。

 西念寺も同じだが、寛永11年移転組が四谷寺町には多い。

 四谷寺町にしては広い参道を行くと梵鐘がある。

太平洋戦争時、軍に供出したが、後に返還された。

しかし、鐘楼は戦火で焼失、納まる場所を失ったまま、ここに置かれている。

その隣に庚申塔が2基。

四谷寺町全体で4基しかない(ように思う)。

数が少ないから珍しいが、この、猿の上に青面金剛が立つ姿は、構図としても珍しい。

三猿の一つではなく、御幣を抱える御幣持ちの猿か。

墓域奥に、塙保己一の墓がある。

世に信じられない話は多々あるが、塙保己一の記憶力もその一つ。

6万巻の書物を暗記していたという。

江戸表六番丁に「和漢講談所」を設立、目あきに講義していた。

ある夜、源氏物語の講義中、風で蝋燭の火か消えた。

   塙保己一史料館前の銅像

騒がしくなった座を前に「さても目あきとは不便なものだ」と云ったとか。

「番丁で眼あき盲に道を聞き」という川柳は、この当時のもの。

私は、渋谷区にある塙保己一史料館で、『群書類従』の膨大な版木をみたことがある。

国の重要文化財の版木が、実は、ここ愛染院に保管されていたことを今回、初めて知った。

保管していた倉庫が、大正大震災で崩壊、辛うじて無事だった版木は、現在の渋谷区東町の「塙保己一資料館」へ移されたと云う。

この塙保己一の墓は、新宿区の史跡に指定されているが、愛染院には指定史跡がもう一つある。

高松喜六の墓が史跡なのだが、高松喜六の知名度はごく低いと思われるので、説明板を引用しておく。

内藤新宿の生みの親喜六は、もとは喜兵衛といい、浅草の名主であった。喜六は、当時、甲州街道の宿場が日本橋を出発してから4里(約16㎞)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄10年(1697)に同志4人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する誓願を提出した。
翌年、許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。喜六は、正徳3年(1713)8月に没したが、高松家は代々、内藤新宿の名主を務めた。
墓石は高さ80㎝で、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。」

 6・新義真言宗・宝珠山東福院(新宿区若葉2-2)

愛染院を出て、東福院坂を上る。

この坂は、天王坂とも呼ばれるが、それは、坂を下ったつき当たりの須賀神社がその昔牛頭天王と称していたから。

坂をほぼ上り切った左に、東福院はある。

ここも寛永11年の移転組。

まず自然石に彫られた「弘法大師」文字碑が目につく。

よく見たら、ここが御府内八十八ケ所第二十一番札所であることの標識だった。

永代供養塔の聖観音銅像がすっくとお立ちになっている。

その左、本堂前には、3基の地蔵菩薩がおわす。

真中の、一段と高い地蔵が、かの有名?な「豆腐地蔵」。

左手の手首から先がないが、これが事の由来を物語っている。

安永年間(1772-81)、この坂下に豆腐屋があった。豆腐屋の主人は陰で金貸しをやり、女を囲う悪徳商人だった。
常連客に出家者がいたが、出家が払う銭は、いつも木の葉に変わった。これは狐狸の仕業と思った主人は、ある日、豆腐を受け取って金を払おうと差し出した出家の右手首を包丁で切り落とした。
出家者の姿は、こつぜんと消えた。
翌朝、滴り落ちた血の跡を辿ってゆくと、東福院に左手首のない地蔵が立っていた。
豆腐屋は改心して信仰に励み、一方、お地蔵さんは、手首をさするとハレモノが治るとの噂で一躍名物地蔵となった」。

切り落とされた手首もあったが、さきの戦災で行方不明になったという。

持参資料には、東福院には2基の庚申塔があると書いてある。

だが、探しても見当たらない。

後日、電話して確認した。

「戦時中の空襲のどさくさにまぎれてなくなった」との返事。

 

ここまでは、実は、ほぼひと月前に書き終えていた。

一昨日、写真フアイルに6年前の四谷寺町巡りの写真があることに気付いた。

東福寺には、確かに庚申塔がある。

墓地への狭い通路脇にあるのが分かる。

      2010-04-30撮影

今もその通路があるのかどうかは、正面から見るだけでは分からない。

寺を改築した時に通路も、庚申塔も姿を消したのだろうか。

「こうして石仏はなくなって行くんだ」と いう実例にぶつかったようで、淋しい。

 

 

 

 

 


119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-2

2016-03-04 05:54:12 | 遺跡巡り

西念寺を出て左折、突当りを左へ曲がり、すぐ右へ曲がると新宿通りへ向かう道になる。

左の電信柱の背後は西念寺の塀、右に曲がると新宿通りへ。

この道は、女性の権利に関わる事件や人物と縁が深い。

寺町とは無関係だが、ちょっと寄り道をしよう。

「敵討ち」は知ってても「妻敵(めがたき)討ち」となるとどうか。

妻が不義を働いたとき、その相手を討ち取ることを「妻敵討ち」と云った。

享保の時代、この道で、妻敵討ちがあった。

不義はご法度で、駆け落ちは命がけの時代だったが、そこは人の世、抜け道はちゃんとあったらしい。

「間男七両二歩」とか、浮気の代償として七両二歩を夫に払えば、見逃してもらえたという。

夫にとっても、妻のスキャンダルは外聞が悪い。

できるだけ内聞にしたいから、事件になることは少なかった。

駆け落ちの家老の妻と家臣の男は、七両二歩をケチったのか、大胆不敵だったのか、あえて「事件」となる道を選んだ。

表ざたになったがために、家老はいやいやながらも間男を探すことになる。

そして、3年後、この道で膏薬売りに変装していた間男は、家老とバッタリ出会い、逃げるところを背後から斬り付けられてしまう。

もちろん、不義の妻もつかまり、奉行所で死罪を申し付けられるたという。

 

不義密通の妻を女権論と組み合わせるのは、いささか無理がある。

しかし、この界隈にフエミニストたちが住んでいたのは事実です。

「元始、女性は太陽だった」の平塚らいちょうと女性運動家・市川房江が間借りをしていたのはこの通りの家で、主婦連の奥むめおの自宅も若葉にあった。

再び西念寺へ戻る。

西念寺の塀沿いに西へ進むと左に坂が見える。1380

観音坂と標識にはあって、以下の説明がある。

「この坂の西脇にある真成院の潮踏(塩踏)観音にちなんでこう名付けられた。潮踏観音は、潮干観音とも呼ばれ、また、江戸時代には西念寺の表門が、この坂に面していたので西念寺坂ともいう」。

坂を下りると右手に見えてくるのが、

◇真言宗豊山派・放光山蓮乗院千眼寺(新宿区若葉2-8-6)

民家のような建物が庫裏で、正面が本堂だろう。

扉は開いているが、ちょっと入るのをためらう気分。

朱色の「南無遍照金剛」が目につくなあと思っていたら、御府内八十八ケ所霊場の83番札所だという。

ちなみに蓮乗院の下の真成院は、第39番札所。

いつも不思議に思うのだが、隣り合っているのだから連番にすればいいのに、なぜ、離れているのだろうか。

◇浄土宗・信壽院楽生庵(新宿区若葉2-9)

蓮乗院の真向かいが、信壽院。

こちらは扉も閉まっている。

一見狭そうな感じだが、向かいの真成院ビルの上から見た所では、結構広い。

◇真言宗・金鶏山真成院(新宿区若葉2-7-8)

蓮乗院の下、信壽院の向かいの8階建てビルは、一見、寺らしくはないが、青と赤の幟が林立していて、寺だと分かる。

これだけ幟があると、信仰よりは、商売に力点があるように感ずるのは私だけだろうか。

寺のパンフには、「癌の駆け込み寺」とある。

「難病平癒の祈願所」の文字もある。

死に対する恐怖心を和らげる力が宗教にあるとは思うが、難病を平癒することができるとは私は思わない。

坂に面して掲示板があり、維摩経の一節が掲示されている。

海に沈む宝は
 もぐらなければ
 得られないように
 迷いの泥海の中に
 入らなければ
 悟りは得られない

青色の幟には「潮干観世音」とあるので、お寺に断わって、ビル最上階の観音堂へ。

内陣へは上がれないので、詳しくは分からないが、十一面観音のようだ。

縁起書によれば、「昔はこの辺りは海岸で、潮の干満によって観音像の台石が濡れたり、乾いたりしたので、潮踏観音と呼ばれるようになった」とのこと。

その台石は、享保10年(1725)の火災で焼失してしまって、今はない。

『江戸名所図会』にも潮干観音は描かれている。

「聖天」の文字が見えるが、これも真成院。

戦前まで、この寺には歓喜天が祀られていた。

歓喜天は、もとバラモン教の神で、象頭人身の男女が抱き合うエロチックな護法神。

災いを除き、福をもたらす「聖天さま」として、人気があった。

寺の玄関前には延命地蔵や稲荷神社に並んで、線刻像がある。

浅い線彫りで像がはっきり見えない。

寺に訊いたら、上が十一面観音、下右が、弘法大師、下左が地蔵菩薩だとのこと。

これはこれなりに珍しい組み合わせということになる。

 

観音坂を下りて右へ。

次の坂、東福院坂を上ると右手に愛染院がある。

赤レンガが美しい。

旧日本陸軍で多用されていたので、旧軍施設がこの地に隣接してあったのかと思ったが、大正年間、当時流行りの建築資材だったから使用したまで、とは寺の説明。

 

 

 

 

 

 

 


119シリーズ東京の寺町(8)四谷寺町-1

2016-03-01 05:56:19 | 寺町

今回は、四谷寺町めぐり。

南は、JR中央線四ツ谷駅と信濃町駅間の線路、北は新宿通り、その間の、新宿区若葉、須賀町が対象区域。

私が西念寺を訪れたのは平日の午前11時だったが、先客が一人、門前にいた。

帰ろうとしたら、別な男ともすれ違った。

二人とも目的は服部半蔵の墓のようだった。

東京の寺めぐりをしていて、人と出会うことはめったにない。

二人もいるなんて珍しいが、ふらりと訪れるのに恰好の地に、寺はあるのです。

四ツ谷駅から新宿通りを西へ、3本目の小路を左折してぶつかったところが西念寺。

 徒歩5,6分くらいか。

◇1 浄土宗・専称院安養院西念寺(新宿区若葉2-9)

 西念寺の開基者は、徳川家康の家臣、服部半蔵。

文禄2年(1593)、麹町清水谷に設けられたが、寛永11年(1634)に当地に移転した。

開基者服部半蔵の墓は、本堂の右、墓地の入口にある。

宝篋印塔の台石には「安誉西念大禅定門」とあり、法名が寺号になっていることが読み取れる。

墓は、新宿区の史跡に指定されているので、教委による説明板がある。

服部半蔵(1542-96)は、本名を正成といい、徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将である。
『鬼の半蔵』として知られ、元亀3年(1572)三方ケ原の戦い、天正18年(1590)、小田原攻めで攻をあげ知行8000石を賜り、同年の家康の江戸入府後は、江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。

  Wikipediaより借用

半蔵は、天正7年(1579)、家康の長男信康が切腹する際、介錯役を命じられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提を弔うため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。

文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内命をうけたが、慶長元年(1596)11月、55歳で没した。

西念寺は、半蔵の死後完成し、寛永11年(1634)江戸城の外堀拡張、新設の際、現在地に移転したものである

 「槍の半蔵」の槍も保存されている。

ブログ「四谷を散歩」より無断借用

私は見ていないが、本堂に置かれた槍は、安政地震で先が30㎝、昭和20年の東京空襲で手元が150㎝なくなったが、それでもまだ2.4mもあるという。

半蔵の家来である伊賀者200人は、半蔵門の近くに居住していた。

西念寺界隈の旧町名「南伊賀町」は、伊賀同心に因るものです。

 

半蔵の墓の後方、本堂右横裏には、服部半蔵が菩提を弔った家康の長子信康の供養塔がある。

地輪の刻銘「清瀧寺 前三州達岩 善通大居士」の清瀧寺は、信康の法号。

これもまた説明板を写しておく。

西念寺を開山した服部半蔵が、徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の菩提をとむらうため、文禄2年(1593)に建立した五輪塔形の供養塔で、高さは269㎝である。
信康は、永禄2年(1559)に生まれ、幼少時は今川氏の人質として駿府で過ごした。永禄10年(1567)に岡崎に帰り、織田信長の娘をめとり、元亀元年(1570)に岡崎城主になったが、天正7年(1579)に武田勝頼と内通したとの嫌疑により、家康から切腹を命じられた。
服部半蔵は、この時介錯を果たせず、後に信康供養のため出家した。
なお、西念寺には『岡崎信康廟修補記』が残されており、文化11年(1814)に補修が行われていることがわかる」。

信康切腹の折、介錯役だった半蔵は信康の無残な姿を見るにしのびず刀を投げ出してしまい、介錯できなかった。

これは家康の命に反することになるが、「主君を思う心は見事」と逆に家康から褒められたという。

 

墓地を歩く。

古そうな板碑型墓標がある。

見ると「天正十二年」や「元和六年」と読める。

清水谷からこの地に移転するにあたって、運び込まれた墓石に違いない。

都内の墓石でも、最も古いものの一つではないか。

天正年間の墓は、少なくとも私は初めて見た。

もしかしたら、墓ではないのかもしれないが。