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石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

83 佐渡に残る「足尾山」塔(2)

2014-07-16 07:09:30 | 民間信仰

前回は、佐渡に残る「足尾山」塔を8基紹介しました。

紹介したのは、「足尾山」塔が珍しいからです。

関東や東北に、あるにはあるが、ごく少数。

佐渡ほど「密集」してはいません。

その訳は追い追い考えることにして、今回は足尾神社の由来と現状をまず紹介します。

私が足尾神社へ参拝したのは、去年の12月半ば。

新潟県立博物館の企画展「石仏の力」で、佐渡の「足尾山」塔を初めて知った1か月後のことでした。(このブログNO69をご覧ください。)

 

足尾山は、筑波山と加波山の中間にある標高628mの山。

 

石岡から真壁へ抜ける峠道の頂上、上曽峠で右折、山なみの尾根を北進します。

途中、ハングライダーやパラグライダーの離陸場があって、雰囲気は超モダン。

そのパラグライダー離陸場の先のこんもりした山が足尾山。

足尾神社は、この山にあります。

低い一の鳥居をくぐって、参道を登る。

落ち葉の絨毯を踏みしめて上ること5-6分、二の鳥居が見えてきます。

 

広い、ガランとした境内の先にコンクリートブロック。

本殿の基礎だけを残して、建築木材はすべて撤去されています。

 

残骸が侘しさを増福しているようです。

残骸の中央に小さな祠、本殿が再建されるまでの仮宮でしょうか。

天狗のレリーフは、足尾山が修験者の道場だったことを物語っています。

 

足尾神社の祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)の三柱。

創建年代は不明ですが、言い伝えでは、延喜20年(920)、醍醐天皇が霊夢の中でここの神に御足痛の治癒を祈願したところ、たちまち全快されたとのこと。

お喜びになられた天皇は、紙に御足形を印し、「日本最初足尾神社」と書いた勅額を下賜されました。

この時から、足形のお札の頒布が始まり、足の病に悩む崇敬者の参詣が急増します。

全快した信者が、草履やわらじなどの履物を奉納する風習も同時に始まりました。

がらんとした境内の一画がこんもり盛り上がっているのは、奉納された履物の山。

靴やスニーカー、下駄に混じって義足もあります。

 

足尾神社の分社は、茨城県に3、栃木県2、千葉県3、宮城県3、福島県3、山梨県、岡山県、鳥取県に各1、計17社。

境内社は71社を数えるから少なくはないが、分社、境内社とも全体的に活動は停滞的。

足尾山信仰は廃れたと云っても過言ではないでしょう。

石塔数の分布を足尾神社の宮司に尋ねたが、確認していないとのこと。

石仏、石碑の悉皆調査報告書を出している関東の10市町村をチェックしてみたが、「足尾山」塔があるのは、取手市のみでした。

東京23区には、多分、1基もないと思われます。

それだけに遠く離れた佐渡島に数十基もあるというのは、不思議なことと言わざるをえません。

 

足尾神社の由来に続いて、赤泊・徳和の「足尾山大権現」から、佐渡の「足尾山」塔の紹介の続きを始めるのは、手順として正しいように思えます。

なぜなら、「足尾山大権現」は、佐渡で一番古く、一番大きな「足尾山」塔で、足尾山信仰はここから島内に広まったと考えられているからです。

赤泊の海岸から、坂道を紆余曲折しながら上り、途中、2回ほど「足尾山大権現」への行き方を尋ねました。

村人の反応が、他所の村とは違うのです。

「足尾山だったらのう、そこを右へ曲がって・・・」と即答する言葉の中に、「足尾山」塔が村の中心であるかのような、誇らしさが滲んでいました。

その「足尾山大権現」塔は、瓜生の四辻に、道行く人を見下ろすように一際高く立っています。

塔の高さ2m20㎝。

「足尾山大権現」の文字の上に「日本最初」が二文字2列に彫られているのが、珍しい。

碑の右に、「天保九戌年」、左に「九月二十日」、さらにその下、右に「願主」、左に「甚五良父」とある。

「足尾山大権現」塔の右は廻国塔、左は巡礼塔だから村人が本州各地へ足を延ばしていることが分かる。

石塔群の後ろは広い空き地で、その一角にお堂がある。

扁額には「足尾山大権現」の文字。

お堂ではなく、ここは足尾山神社だったのです。

正面の床の間の上に注連縄。

3幅の掛け軸の下に小さな社殿が在す。

掛け軸と足尾神社との関わりについては、不明。

長押には、わらじやぞうりが懸けられているので、ここが足尾神社であることが分かります。

わらじは古くはないので、ここでは足尾山信仰がかろうじて生きているようです。

神社のことを訊きたいと思い、いちばん近い家へ。

なんと臼杵さんというその家が、「足尾山大権現」塔の願主・長五良父の子孫でした。

説明してくれた70代前半と見えるご婦人は、しかし、いきさつについてはほとんど何も知らないようでした。

「昔は足が痛いからとお参りに来る人が多かったが、いまでは、杖をついて足を引きずりながら前を通っても、神社にお参りすることはなくなった。昔に比べればほんのわずかだが、奉納の草履は1年も経つと溜まってしまう。だから希望者に分けて履いてもらっている。先祖がどういうわけで足尾神社を持ち込んだのか、そういうことは役場で聞いてくれれば分かると思う」。

調べたら、あった。

『徳和の口碑・伝説その他』(昭和45年、徳和老人クラブ千歳会発行)

それによれば「臼杵甚五良は足が痛くて困っていた。天保年間、一念発起、六十六部廻国巡礼の旅に出た甚五良は、下野(栃木県)足尾の足尾山権現に参詣した。するとあれだけ苦しんでいた足の痛みがなくなった。足尾山権現の霊厳あらたかに驚いた彼は、御霊を勧請して自宅に奉祀、同時に台座を含めると3mの大石塔も造塔した。この信仰は、小佐渡から国仲へ広がり、最盛期の明治から大正にかけては、島内一円から多くの参詣者が訪れた。人間だけでなく、馬の脚にも効くということで、馬を引いての参詣者もあった」。

この口伝には、間違いがある。

それは、足尾山権現の場所を下野(しもつけ)としていること。

常陸(ひたち)が正しい。

その根拠は、石塔の「日本最初」の4文字。

足尾山神社の由来で紹介したように、この「日本最初」は、醍醐天皇から下賜された勅額に書かれたものでした。

「日本最初」とあれば、常陸の足尾神社を指すことは明白なことなのです。

 

瓜生から65号・真野-赤泊線へ。

上り続けた道が下りになったと思うと開けた地平に出る。

そこが下川茂。

郵便局があり、JAがあり、学校がある。(今は廃校)

学校の前を左に入ると、すぐ「勝泉寺」。

9、勝泉寺(下川茂)

ぽつんと本堂があるだけで、墓地もない。

無住のようです。

もしかしたら、元勝泉寺なのか。

参道入口とおぼしき所に、お地蔵さんに対面して、「足尾山」塔があります。

珍しい配置だ。

「足尾大神」と刻されている。

 

昭和4年の造立は、佐渡で一番新しい部類に入ります。

「足尾大神」の背後に、「ねまり遍路」の石仏が2列に並んでいる。

「ねまる」は「座る」の佐渡ことば。

この石仏群は、四国八十八ケ所の本尊模刻。

この前に座って御詠歌と般若心経を唱えれば、四国を遍路したと同じご利益があると信じられてきました。

佐渡には、こうした「ねまり遍路」が十数か所あります。

石仏ビギナーの頃、離島佐渡ならではの趣向といたく感動したものでした。

その後、全国至る所にあることを知り、がっかりしたものです。

 

下川茂を左折、羽茂へと向かう。

羽茂川沿いのこの道は佐渡らしからぬ、ゆったりとした渓谷美の道。

五所神社を過ぎると次の目的の「足尾山」塔があるはずだが、見つからない。

人に聞いては、行きつ戻りつ。

と、書けば簡単だが、人がいないのだから、訊くだけでも一苦労。

今回の「足尾山塔めぐり」で探しにくさのNO1か。

10、路傍(下川茂)

路傍は路傍でも、県道から入った山道の路傍でした。

人通りは皆無だが、「足尾山」塔があるということは、かつては馬が往来していたのだろう。

草が深くて、文字が読めない。

祝資料には「足尾大明神」と書いてあります。

「足尾大明神」は佐渡に3基あるが、なぜ、大明神なのかは不明。

 

滝平の地蔵院は、私の好きな寺の一つ。

本堂への石段両脇の石柱に地蔵と観音が座す。

その左手の石仏群のなかの、三猿庚申塔が素晴らしい。

上に相輪が聳える石組みの覆い屋の中に浮彫の三猿が在す。

浮彫というよりは、丸彫りに近い。

上に「見ざる」、下に「聞かざる」と「言わざる」。

庚申塔の文字はなく、猿のみ。

おだやかで、とぼけている。

数多くの庚申塔を見てきたが、ダントツのNO1は間違いない、私的には。

11、地蔵院前(滝平)

 肝心の「足尾山」塔は県道から地蔵院への道の途中、8基の石造物群に混じって立っている。

自然石に「足尾大権現」。

「足尾大神」、「足尾大明神」そして「足尾大権現」。

足尾山の神様は、自分の本当の名前は何だろう、といぶかっていることだろう。 

 

12、地蔵堂(飯岡、渡津神社前)

 朱い鳥居は、佐渡国一宮、式内社の渡津神社の一の鳥居。

渓谷を流れてきた羽茂川は、ここから田園風景の中を行く。

その羽茂川にかかる朱色の橋を渡った左にお堂がある。(写真は堂から見た鳥居)

明るい陽光に照らされながらも、お堂には何か不気味さが漂っています。

その傍らにごちゃごちゃと石造物群。

小さな地蔵は、みな、首がない。

不気味さの元は、この首なし地蔵が発しているのだろうか。

一番上の石塔は、ばっさりと斜めに断ち切られています。

白い苔が全体を覆って、文字は読めない。

祝資料には「一神」とある。

切られた上の部分の石には「足」と刻されているとあるので、探してみたが、見つからない。

地震で倒れて割れた、というよりも人為的に切った感じが強い。

首なし地蔵とともに廃仏毀釈の洗礼を受けたものか。

佐渡一宮渡津神社の真ん前だけに、そんな空想に囚われたりもします。

 

羽茂の町を通り抜け、南下して、羽茂海岸へ。

海に出たら左折、赤泊方向へ向かう。

13、羽黒神社(赤名)

赤名の集落はずれに羽黒神社。

鳥居の右側に「秋葉山」や庚申塔と並んで「足尾山」塔がある。

よく見ると、足尾の「お」が変だ。

これでは6画になってしまう。

それとも、こういう字もあるのだろうか。

 

14、白山神社(杉ノ浦)

更に東へ。

三つめのバス停が杉ノ浦。

ここの白山神社にも「足尾山」塔がある。

境内から右へ入った空き地に大振りの石造物群。

ちょっと判読しにくいが、「足尾山」と刻されています。

真ん中で折れて、接着したような跡がみえます。

次のバス停「新保」近くにも「足尾山」塔があると記載されているのだが、近くを探し回るも見当たらず。

諦めた。

祝資料にあって、見当たらない「足尾山」塔は3基。

約25年間の変化としては、少ないのではないか。

赤泊を出て下川茂、渡津線を西へ、羽茂の町から海岸へ出て、再び赤泊へ。

ぐるっと一周して、6基の「足尾山」塔に出会ったことになる。

今度は方向転換して、一気に羽茂を通り過ぎて国道350号線(小木線)の村山へ。

ここから真野まで、「足尾山」塔を探しつつ、北上する予定。

今回で全部紹介したいので、内容をコンパクトにすることに。

15、神明社(下村山)

 つる草が巻き付いて文字が読めない。

むしりとる。

 

足尾神社がある足尾山は、修験の山としても有名でした。

だから、「足尾大権現」は足尾山で山岳修業した行者が佐渡に持ち込んだのではないか、と推測する向きもあるようです。

16、堂(下村山)

 国道に面したお堂だが、さびれ果てている。

六地蔵や光明真言塔と一緒に「足尾神」塔はある。

「捨てられたようにある」といった方がいいかもしれない。

17、路傍(小泊大草道四辻)

 道が交差する茂みの中の個人墓の脇に「足尾神」はある。

「足尾神」を祝さんは「アシオガミ」と 読みを振っています。

ところで倉谷の大わらじは、司馬遼太郎の『街道をゆく』でも取り上げられて有名だが、西三川一帯ではどこでも村境にわらじがかかっています。

よく見てほしい。

木陰の暗がりにわらじが見える。

賽の神の一種だろうが、平成の現代にもこうした習わしが継続されていることが嬉しい。

 18、玉泉寺(椿尾)

 ゲートボールの賑やかな集まりから出てきた人に「玉泉寺はどこ?」。

「知らない。あっちで聞いて」とゲートボール場を指す。

そっちに向かおうとして石柱を何気なく見たら「玉泉寺」の文字。

玉泉寺跡が公園になっているのです。

道路に面して石造物群。

椿尾は石工の村だから、当然、全部、椿尾製ということになります。

その右端に「足尾大権現」。

明治23年の造立だ。

 

椿尾の石切り場を見たくて、どんどん坂を上ってゆく。

坂ばかりで平らなところが少ない。

石を切り出し、彫って、売りに出す。

生産、販売工程が坂を下るようになっているから、石工の村は成り立ってきた。

むしろ坂を利用してきたといっていいのかもしれない。

普通ならとても住みにくい場所なのです。

19、路傍(椿尾・最奥の家の後ろ)

村のどんづまり、そこから石切り場の山へ入る一番上の家の生垣の隅にひょろ長い庚申塔が見えた。

 

写真を撮るべく近づいたら、右端に「足尾山」塔があるのに気付いた。

稚拙な文字で「足尾大権現」。

右に「明治二十二年」、左に「二月十日」と刻されています。

 

20、諏訪神社(田切須)

 諏訪神社は、バス停の真裏にある。

「閑寂」、「寂然」、「落莫」、「蕭然」、「寂寥」・・・どの言葉を使っても、ぴったりするような佇まいなのです。

鳥居と燈籠の間に「足尾大神」(アシオオオカミ)は在します。

足の病を治してほしいと最後の人が手を合わせてから、何十年経ったのだろうか。

今や、ここに「足尾山」塔があることを知る人はいないのてはないか、そんな感慨を抱かせるほど、孤立した侘しさに満ちています。

21、大神宮(真野・新町)

 旧真野町に入る。

旧役場横の大神宮に「足尾山」塔がある。

隷書体で「足尾山神社」。

祝資料には、人力車夫の組合による造立と書いてある。

スジの通った話で、「なるほど」。

22、観音堂(浜中)

観音堂の前にポツンと「足尾山」塔。

4月17日に真言を繰り、7月17日 祭礼と祝資料の備考欄に書いてある。

おそらく今では、行われていないだろう。

23、上の堂(吉岡) 

 無類のヘビ嫌い。

上の堂へは行ったが、「足尾山」塔に近づけない。

 フキの葉の下にヘビがいるようで、足がすくむ。

やっとの思いで近寄って見たら、つる草が巻き付いて「足」しかみえない。

力任せに引っぺがす。

 

 今回巡った「足尾山」塔の中で、「ほったらかし度」NO1か。

 

 24、地蔵堂(吉岡)

石造物群の背後に田植えが終わったばかりの田んぼ。

その奥に竹林と杉林。

どことなく、悠然とした景色は、国分寺が近いせいか。

一番高い石塔は「秋葉山」塔。

佐渡には192基もある。

「秋葉山」塔のおかげで火災を免れたという話は聞かないが、ご利益はあるのだろうか。

「秋葉山」塔の隣に「足尾山」塔。

石塔の大きさで祈願の度合いを計るならば、足痛よりも防火ということになる。

 25、二宮神社(二宮

「足尾山」塔を探して、小佐渡を走り回った。

これで終わりかな、と思ったが、大佐渡側の二宮にもあるのだという。

「二宮神社」は、本線から、かなり、大佐渡山脈の山懐に入った場所にありました。

「足尾山大神」は、桜の枝の下、木陰の暗闇の中にあった。

右が「足尾大神」、左は「猿田彦大神」。

大神が並んで、にらみをきかせている。

26、村上神社(真光寺)

「二宮神社」からさらに山の方へ。

いつの間にか真光寺に入って、村上神社を探す。

何もない境内にポツンと「足尾山大神」。

なぜ、この石塔だけがあるのか、その訳をしりたいものだ。

27、稲葉堂(西二宮)

 西二宮という場所は、佐渡高校のすぐ後ろだった。

すぐ後ろだが、高校在学中、こっちへ来たことがないから、初めて足を踏み入れることになります。

稲葉堂はガランとした広い空地で石塔群がなければ、お堂とはわからない。

並んでいる5基の右端が「足尾山大権現」。

ここにも「ねまり遍路」がある。

石仏それ自体は、比較的新しいもののようだ。

ひび割れもなく、苔もはえていない。

問題は、この前に「ねまる」信者がいないことです。

レゾンデートルなき石仏が辿るのは、廃棄物への道。

 

以上、佐渡に残る「足尾山」塔27基を紹介しました。

勿論、これで全部ではありません。

日程の都合で探すのを諦めざるを得なかったもの、探しても見つけることができなかったものがあります。

以下、そのリスト。

◇「足尾山」ー阿弥陀堂(真野・阿仏房)

◇「足尾子山」-路傍(真野・小川内上坂道脇)

◇「□尾山」ー路傍(真野・三滝不動入口)

◇「足尾大神」-路傍(真野・金山笹川)

◇「足尾大神」-玉泉寺(椿尾)

◇「足尾山」-路傍(小泊旧道奥じょう)

◇「足尾山」-岩屋山(宿根木)

◇「足尾山」-大聖院(堂谷)

◇「足尾山」-集会所(上新谷)

◇「足尾山神社」-路傍(新谷山道脇)

◇「足尾山」-センター(柿野浦)

◇「足尾大明神」-北山神社(牛野尾)

佐渡へ行く機会があったら、このうちいくつかでも、写真を撮るつもりでいます。

 

 

 

 

 


82 佐渡に残る「足尾山」塔(1)

2014-07-01 05:38:52 | 民間信仰

77歳になった。

ただし、数えで。

喜寿を祝う中学校の同期会出席のため佐渡に渡った。

同期会のほか、目的が二つ。

一つは、6月最初の土日夜に行われる、相川の「宵乃舞」を観ること。

相川の、昔ながらの古い街並みを、いくつもの踊連が相川音頭を流し下る。

灯りといえば、提灯のみ。

全体像は闇に沈んで、音曲だけが通り過ぎる。(写真は最も明るい場所での撮影。実際はもっと暗い)

情緒たっぷりの、新しい佐渡の風物詩だった。

 

もう一つは、「足尾山」塔めぐり。

去年、新潟県立博物館の企画展「石仏の力」で足形石造物を初めて見た。

佐渡から出品されたものだった。

その時の驚きについては、このブログNo69でも書いたが、次回、佐渡へ行った時には、是非、現物をみたいものだと思った。

足形石は、「足尾神社」への奉納品。

足尾神社は茨城県石岡市の足尾山にあるが、足尾山信仰は地元ではすっかり途絶えている。

それなのに、なぜか、佐渡には「足尾山」塔が20-30基もあるというのです。

ならば、是非、見て回りたい。

その所在地を知りたいと思い、「石仏の力」展での、佐渡の石仏を担当した佐渡市教育委員会のH氏に連絡した。

H氏は今年3月、定年退職していなかったが、後任のT氏が応対してくれた。

T氏が郵送してくれた足尾山塔資料は、手書き資料のコピー。

これが、信じられないほどの個人的労作だったのです。

A3用紙一杯に手書きされた詳細な石仏地図が数十枚。

  バス路線「本線」沿いの中興あたりの石仏地図。下部横の二重線が本線。右、両津。

バス路線ごとに分類され、石造物所在地には番号がふってある。

島とはいえ、佐渡島は沖縄本島に次ぐ日本2番目の大きな島。

その島のどんな場所であろうとも踏破するということは、想像すらできない難事です。

調査したのは、故・祝(ほうり)勇吉さん。

県立両津高校の教師を退職後、昭和51年(1976)から12年間、バイクで島内を駆け巡り、石仏を記録し続けたという。

潰したバイクは7台というから、凄い。

凄いといえば、祝さんの記録は、地蔵なら地蔵、観音なら聖観音、如意輪観音と石仏の種類ごとに分類し、一基一基の像容、形体、刻文を手書きし、地図の番号順に整理してあること。

 南線沿い「足尾山」塔一覧の一部。

「足尾山」塔だけの分布地図もある。

信じられないほどのきめ細やかさ。

佐渡は「地蔵の島」といわれるほど、地蔵が多い。

祝さんの調査では、その数なんと33416基。

2位の光明真言塔の495基の67倍もある。

その全部を手書きしたかどうかは確認していないので何とも言えないが、 手書きが基本姿勢であったことは確か。

当然、祝さんは写真も撮っています。

    祝資料の足尾山塔の写真

しかし、写真では、刻文が読みづらい。

右、()内の数字は、バス路線ごとの地図上の番号。これは、南線地図の96番。
上の数字は寸法。高さ×横幅×厚さ。
下部の数字は台石の高さ。(トリミングの失敗で下部が切れている)

 

だから、手間暇かけて一体ずつ手書きしたのに違いありません。

T氏から送られてきた「足尾山塔」資料は、祝さんの手書きの石塔とその所在地を示す地図でした。

その資料を手にして、私は言葉を失いました。

「こんな凄い人がいるんだ!」

興奮のあまり、その夜はなかなか寝付けなかったことを覚えています。

 

佐渡の「足尾山塔」の写真は資料としても価値がある、だから「足尾山塔」めぐりをしたいと思っていた私ですが、祝さんの詳細な記録を見て、すっかりその意欲を失くしてしまいます。

12年もかけて調査したものをわずか2,3日で見て回ろうという魂胆が、我がことながら「いじましく」思えたからでした。

でも、見て回りたい気持ちは抑えきれず、6月8日、両津港着岸後、直ちにレンタカーで「足尾山塔」めぐりに出かけました。

助手席には、祝さんの資料を広げて・・・

これは、私の「佐渡に残る足尾山塔めぐり」の記録であり、同時に佐渡の山間僻地の紀行文でもあります。

 

両津から河崎線を水津方向へ。

野崎で右折、城ノ腰へ向かう。

 ①、②、③は、私が回った順番。

道路の両側は一面の水田。

ここらは、「羽茂太郎久知次郎」と称される佐渡の穀倉地帯。

久知というのは、この辺りを支配していた地頭の久知家のこと。

丘陵に入って、祝地図に示された「足尾山」塔を探すが見当たらない。

⑰が最初の目標の「足尾山」塔がある場所。

地図には道路の右側にあるが、結局、道路を左に入った所の墓地にあった。

祝さんが調査してから35年、道路そのものが消滅、新設されている可能性がある。

1、檀塔墓地(城ノ腰)

 久知地頭家の墓がある中世からの墓地の一角に小屋があり、中に「足尾山」塔があった。 

荒れ果てた墓地に似合わない立派な宝篋印塔。

久知家の墓のようだ。

墓地の一角に小屋があり、中に「足尾山」塔。

「足尾山」の「山」がつる草で見えない。

祝資料には、「わらじあり」とあるが、見当たらなかった。

「足尾山」は足が悪い人が祈願するとよくなると信じられた。

治ったらわらじなどの履物を奉納するのが習わしだった。

わらじがない、ということは、35年前には、生きていた信仰が、今では消滅したということになる。

2、一重堂(下久知)

一重(いちえ)堂は、河崎から赤玉へ行く道と長安寺からの道の交差する三叉路にある。

堂と石仏の佇まいは、佐渡でも三指に入るのではないか。

いいムードを醸し出している。

私は2度訪れて、そのたびに、石仏写真を撮ったが、ついぞ、「足尾山」塔には気付かなかった。

この一重堂に、現物を見たいと念じていた足形石があることになっている。

期待は膨らむ。

お堂の左端の石段を上がり、お堂の前を横切って石仏群に向かう。

お堂に寝そべって井戸端会議をしていた高齢の女性たちの視線が一斉に注がれる。

会話が途切れるから、こっちを見ていることが分かるのだ。

「だれらっちゃ?」

「たびのもんらねえかさ」

お堂を過ぎると4つの小堂が並び、その先に七観音の石仏が在す。

手前から3番目が「足尾山」塔の小堂。

石塔と、その石塔に懸けられた半纏が埃にまみれて全体が白っぽく、文字が読めない。

半纏らしき衣類の布を動かしてみる。

「足尾山」の文字が見える。

その右わきに、自然石の「足尾山」もある。

「足尾山」塔の下を見る。

いくつか足形石があった。

定型はないようだ。

みんな違った形。

 

おそらくプロの石工の作品だろう。

石工集落・椿尾か小泊の石工だろうが、足形の注文に面喰ったのではなかろうか。

お手本や前例のないものを彫るのだから、緊張したに違いない。

石工を緊張させた足形が3つもある。

足が悪いので、「足尾山」に祈願したら治った。

そのお礼に、わらじや草履を奉納するのだが、石の足形は珍しい。

おそらく全国でもここだけではないか。

帰り際、暇を持て余して、好奇心一杯の婆さんたちの餌食になった。

「Youは何しにニッポンへ」というテレビ番組があるが、「Youは何しに一重堂へ?」。

餌食になったついでに訊いてみた。

「わらじじゃなくて、どうして石の足形なの?」

80歳代とおぼしき面々は、しかし、「足尾山」そのものがお堂の脇にあることを、誰一人として知らなかった。

「へえ、そんなもん、あるのんか」。

彼女たちが子供の頃、昭和10年代から20年代、すでに「足尾山」信仰はここ下久知ではなくなっていたように思われる。

3、天満宮(河崎)

再び河崎線に戻って、河崎へ。

JAがある。

ということは、河崎の中心地だろうが、そこだけすっぽりと時代が江戸か明治の空間がある。

天満宮だ。

無住の寺社や堂は、どこも時代から取り残された感じがあるが、ここは特に時代遅れの感が強い。

本殿の脇にお地蔵さんと並んで、「足尾山」塔がある。

石塔右側に「明治八年十二月吉日」の文字。

「足尾山」塔の周りには、小さな地蔵がずらり。

この小地蔵は、佐渡特有のもので、いたるところにあるが、ここのは何故か、全部、首がない。

神仏に願いをかけて、成就したら新しい地蔵を奉納し、古い地蔵の首を切る、そうした風習が佐渡にはあったと聞いたことがある。

本当だろうか、でもそうでもないと理解できないほど首なし地蔵は多いのだ。

祝資料には、「(備)わらじ・草履・下駄あり 縁日十一月三日」とある。

注意深く探してみたが、わらじなどは見当たらなかった。

今でも縁日はやっているのだろうか、天満宮の隣の家で声をかけてみた。

返事がない。

玄関は施錠されていないので、中に入って呼んでみるが誰もいないようだ。

今回佐渡のあちこちで同じ経験をした。

鍵をかけずに外出している家が多い。

空き巣や泥棒の心配がないからだろう。

佐渡だからなのか、田舎は日本中どこでも同じなのか、それにしても不用心極まりない。

       河崎海岸から大佐渡を望む

 いったん、両津まで戻って、今度は南線を西へ。

潟上のバス停を左折して、正明寺から田野沢に向かう。

4、地蔵堂(新穂・田野沢)

 かつて堂は地域の拠点だった。

村人の集会場でもあった。

今でも集会場として機能している堂もあるが、久しく人が寄り付かない空き家状態の堂が少なくない。

地蔵講や庚申講が途絶えたからでもある。

地元の人でも、若い人だと堂の場所を尋ねられて返答に窮したりする。

田野沢の地蔵堂もその一つ。

手入れはされているようだが、どことなく侘しさが漂っている。

石段を登ると左に3基の石塔。

その左端が「足尾山」塔だった。

 

右に「明治四十三年」、左に「戌八月立之」と刻されている。

明治から大正にかけて、足尾山信仰がこの地に根付いていたことが分かる。

田野沢から見た大佐渡の山脈。

田植えをした田より、減反で放置され原野に戻りつつある面積の方が広い。

憂うべき日本の農業の姿だが、田んぼが少なくなって面喰っているのは朱鷺かもしれない。

隣の集落、正明寺は、朱鷺放鳥の拠点。

このあたりは、朱鷺の生息地として知られてきた。

無農薬の水田が朱鷺の生息には不可欠とされている。

困ったもんだと朱鷺はつぶやいているのではないか。

 

佐渡といえば、金山と朱鷺だろう。

しかし、私は小学校から高校まで佐渡にいたが、野生の朱鷺を見たことがない。

私の家は大佐渡の金北山の麓、今、佐渡市役所がある旧金井町にあった。

新穂から金井までほんのひと飛びではないか、なぜ、飛んでこないのか、翼が大きいのにやけに行動範囲の狭い鳥だな、とずーっと思っていた。

http://sasaduka.com/art/story/toki01.htmより無断転用

だが、私が間違っていた。

そのニュースを聞いて「えっ、ほんとかよ」と耳を疑った。

それは、最初に放鳥されたグループの何羽かが、越後や信州にいることが確認された、というニュースだった。

その朱鷺が佐渡に戻った、という続報もあった。

朱鷺は飛んで海を越えたのだった、何度も。

それなら金井にも飛んで来ればいいだろう、今でも、そう思っている。

5、路傍(畑野・野田)

 佐渡には二つの山脈がある。

大佐渡山脈と小佐渡山地。

大佐渡の方が山が高く、険しい。

で、あるからか集落は山の麓にあるだけで、山の中にはない。

小佐渡の山は低い。

それだけにかなりの山奥まで人家がある。

その典型は、猿八集落だろう。

「えっ、こんなところに家が」と初めての人は驚くこと請け合い。

次の「足尾山」塔は、その猿八集落への道の途中にあることになっている。

畑野町の信号を左折、松ヶ崎への道の途中、上小倉バス停の先を右に曲がる。

分岐地点に2,3軒の家があるだけで、すぐに山道となって、どこにも人家は見られなくなってしまう。

対向車が来たら訊いてみようと思うが、車は走ってこない。

困ったな、と思っていたら、見通しのいい場所に出た。

農地の向こうに家が1軒、山の麓にたっている。

訊きに行きたいけど遠いな、と躊躇していたら、ご婦人がひとり家から出て、こちらに向かってきた。

農作業に出かけるための様だった。

私と同年輩か。

大声で呼び止めた。

「足尾山」塔については、答えがすぐ返ってきた。

石塔についてこんなにレスポンスが早いのは稀有なことだ。

「もう少し行くとカーブにさしかかり、そこから坂道になる、そのカーブ地点の左にあります。」という。

古代文字ともいわれる異体文字がすぐそばにあるとも教えてくれた。

教えられたとおり、「足尾山」塔は、カーブ地点にあった。

崖のスロープ、人の目の高さくらいにあるので、分かりにくい。

写真上部、光の当たっている葉の下の暗がりに石塔が見える。

彼女に教えて貰わなかったら、決して見つけられなかったことだろう。

「足尾山」ではなく「足尾神」と彫られている。

祝資料では「ここで会った婦人の話では、徳和の足尾山堂より受けたものという」と書かれてある。

徳和の足尾山堂については、次回、触れるが、佐渡で最初に足尾山信仰を持ち込んだお堂で、そこから分祠したものらしい。

それにしても、なぜ、こんな人気のない場所にあるのか。

先ほどの御婦人が嫁いできた約50年前には、このあたりには何軒も家があったというから、人馬の往来も激しかったに違いない。

人通りのないところに石碑、石塔は建てないのが普通だから。

異体文字は、「足尾山」塔の道を挟んで反対側にあった。

 

  小祠の左、黒っぽいのが異体文字の石

近寄って覗き込まなければ、文字があるとは思えない。

 

この道路は、中部北陸自然歩道の一部なので、環境庁による解説版がある。

それによれば「ある古代文字研究家は『ソウルから海を渡ってやってきた』と解読し、島内の書家は「大日霊貴命(おおひるめのむちのかみ)」の異体字で、文盲者がこれを模写したもの、など諸説ある」らしい。

解読に諸説あることも面白いが、こんな山中に人為的な刻字がなぜあるのかも興味深い。

通りかかる人に見てもらいたい、という意思は、石の置かれた場所からは感じられないのです。

6、阿弥陀堂(三宮)

阿弥陀堂を探すのに30分も時間を費やした。

三宮バス停の手前を右折すべきなのに、2-300m手前の、佐渡博物館の横に出る195号線に入り、峡田集落を探し回っていたらしい。

何人かに訊くが、阿弥陀堂を誰も知らない。

「三宮バス停近くの天満宮の隣のお堂」に反応してくれたのは、80歳くらいの女性だった。

「ついてこいっちゃ」。

農作業を止めて、軽い身のこなしで軽トラに乗る。

走り出した軽トラの後を追いかける。

止まった場所は、墓地。

確かに神社とお堂が隣り合っている。

親切な彼女に礼を言って別れ、「足尾山」塔を探す。

塔は、墓地とは切り離された形で、道路を挟んで反対側にあった。

 右端が「足尾山」塔。その左は庚申塔、左端は光明真言百万遍塔。

 

墓標ではない石碑、石塔が並んでいる。

「足尾山」塔の上部には、種字अ(ア)が彫られている。

अは、大日如来の種字のはずだが、と種字一覧を見たら「諸尊通種字」と書いてある。

どの神仏でも通用する種字という意味らしい。

だから「足尾山」にअ。

分かりいいが、適当でいい加減な気がしないでもない。

7、十王堂(真野・合沢)

十王堂は分かりよかった。

南線を左折、合沢集落に入るとすぐ左側にあった。

私は初めて来たが、一目で気に入った。 

掃除が行き届いて、使い込まれてはいるが、清潔なお堂。

お堂の横の広い庭の向こうには、大振りの石碑、石塔が並んでいる。

下久知の一重堂と石塔もいいが、この十王堂と石造物のバランスもすばらしい。

この二つに吉岡の下の堂を加えて、佐渡のお堂ベスト3としたい。

石碑、石塔の前には、生花。

しおれていないから、今日、供えられたのだろう。

お堂の掃除といい、供花といい、信仰が今なお、生き続けていることが分かる。

「足尾山」塔は石塔群の一番右端にあった。

建立は、明治39年11月。

縁日は4月18日と祝資料には付記されている。

今でも行われているとは思われないが、縁日はいつ頃から止めたのか知りたくて、お堂の前の家の呼び鈴を押したが、返事がなく諦めた。

帰ろうとしてお堂を見たら、貼り紙がある。

馬頭観音堂の祭礼予告だった。

明後日の午後3時からとある。

都合がついたら是非見たいもんだと予定表に記入する。

 

時計は、17時半。

今夜は、相川の宵乃舞を観るつもり。

相川にある「足尾山」塔の撮影をしてから踊りを観に行くことにして、一路、相川へ。

8、旅館「山喜」前(相川・鹿伏)

相川の鹿伏にある観光旅館「山喜」に着いたのは、18時ちょっと過ぎ。

 左が「山喜旅館」、石仏群は電柱の前、暗がりの中にある。

まだ、写真を撮るには十分の明るさがある。

「山喜」旅館の前の道を挟んだ海側に、石仏群がある。

地蔵は覆い屋の中におわすが、石碑、石塔はみな露天。

2列に並んだ前列左端が「足尾山」塔だった。

中央に「足尾神」、その右に「天下」、左に「泰平」と刻されている。

嬉しかったのは、わらじが石塔の横に懸けられていること。

祝資料には「大わらじあり」と付記されている。

35年の長い時を経て、こうした風習が今も生きていることに感動すら覚える。

そもそも、わらじを編める人がいることがすばらしい。

85歳以上でないと難しいだろう。

わらじを編める人がいなくなれば、こうした風習も廃れてしまう。

最後にいいものを見た。

収穫大きい一日だった。

さあ、宵乃舞を観に行こう。

 

とりあえず、今回はこれで終わり。

次回は、真野、羽茂、赤泊を回る予定。

茨城県石岡市の「足尾山神社」にも行って来ます。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


79 番外編!縁切り榎の絵馬にみる人生模様

2014-05-17 05:53:28 | 民間信仰

板橋の名所の一つが、縁切り榎。

男女の仲を縁切る願懸けを行う場所として、有名です。

願懸けの人々は祠に手を合わせるのですが、実際の効用は祠に祈るのではなく、榎の木の皮を煎じて飲むことにありました。

江戸時代の板橋ガイドブックには、こう書いてあります。

此榎の皮をそぎとりもらひて家に持ち帰り、水より煎じその者にしらさず飲むしむれバ、男女の縁を切り、夫婦の中自然に飽て離別に及ぶこと神のごとくなり」『游暦雑記』

板橋の木皮の能は医書に漏れ

榎の木皮を煎じて飲めば、縁切りに効用はあるけれど、医書にはそんなことは書いてないよ、とこれは、川柳子の皮肉。

江戸時代の縁切り榎は、その一部が石に埋められて保存されています。

木皮をそぎ取りたくても、これでは不可能。

ならば境内にある榎で我慢するしかない。

3本ある榎の幹、どれも皮を削った跡があります。

「なんとしても、あいつと別れたい」その執念が鋭い刃跡に現れています。

 

縁切り榎は、旧中山道に面しています。

縁切り榎が世に喧伝されたのは、皇女和宮降嫁の大行列迂回事件がきっかけでした。

    行列の再現(大垣市)

嫁入り行列が縁切り榎の前を通るなんて縁起でもないと、ここだけ中山道を通らなかったのです。

そんなに効くのならと訪れる女たちは増えるばかり。

しかし、誰にでも願いが叶ったわけではありません。

ダメだったら、どうするか。

榎で取れぬ去り状を松で取り

「松」とは、縁切り寺として有名な、鎌倉松ケ岡東慶寺のこと。

           東慶寺(鎌倉市)

東慶寺に逃げ込んで、離縁状をものにしたのです。

もちろん「板橋で別れ鎌倉まで行かず」に済んだ運のいい女もいました。

現代なら、さしずめ「板橋で別れ家裁まで行かず」というところでしょうか。

 

狭い境内には、願い事を書いた絵馬がぎっしり。

その数およそ1000枚ほど。

2,3年前からの比較的新しいものばかりです。

たまたま立ち寄って絵馬を見たら、これが面白い。

古典的な男女間のもつれから、いじめやリストラなど現代的な悩みまで、さまざまな人生模様がそこにはありました。

極めて個人的な事柄なので、プラバシーを損なわない様に配慮しながら、絵馬の内容を紹介してゆきましょう。

石仏が出てこない、ブログ「石仏散歩」の番外編です。

 

縁切り榎だから絵馬の内容は、離婚願望がスタンダード。

夫INとの離婚が成立し
 縁が切れますように IM

離婚の願いに付け加える一言に共通点がある。

夫との離婚が成立し
  貧乏生活とも縁が切れますように S美

DVやギャンブル、女、と別れたい原因はさまざまなれど、貧乏は、一番、我慢ならないようだ。

この人は、とにかく離婚を急いでいるらしい。

早く、MIとの離婚が出来ますように。
 早く、縁を切ってほしいです。
 早く、別れられますように MR

同じ言葉を積み重ねると、書き手の気持ちが強調される、そんな文章の典型例か。

夫婦の離婚よりも多いのは、未婚の男女や不倫関係の縁切り願望。

ごたごたした挙句の縁切り榎詣でだから、ほとんどが相手を呼び捨て。

EKさんとの縁が切れますように MA」と、さん付けは例外的存在。

縁切りと言っても、ただ切れればいい、というものではないようです。

Tとの悪縁が静かに切れますように

Yとの縁が完全に切れますように

完全な別れとは「二度と会うことなく、
顔も声もメールも一切関わることない」状態。

しかし、静かで完全な別れは難しい。

未練が残るから。

TS(女)に対するKK(男)の執着、
 未練、思いの一切を切ってください

執着や未練が断ち切れなければ、心配事は増えるばかり。

とりわけストーカーが怖い。

彼女と上手く別れられますように。
 ストーカーされたり、自分の知られたくないことを
 知人にバラす事だけはしないで

男女どちらかが既婚者だと不倫になる。

まず、夫の愛人に別れてくれるよう願う妻の声から。

夫(M男)が浮気相手(S子)と
 早く別れて自宅に帰ってきますように

旦那の浮気相手のOY
 一人で子育てをすると言ったんだから
 別れてくれ

 「一人で子育てをする」決意で、不倫の既婚者の子供を産んだ。

子どもの養育と仕事の両立は、想像以上に難しい。

ついつい父親である不倫相手に助けを求める。

そのことが男の妻は、気に入らない。

「なによ、一人で子供を育てるって言ったじゃないの。
 いつまでも、まつわりつかないでよ」。

榎を薦で囲ってあるのは、和宮下向の際出された、不浄なものは隠すように
との触書が順守されて、今に残っているもの。

夫が愛人と縁切りするのを祈る妻がいれば、愛する彼が妻と離婚するのを切望する女性もいます。

YHがYEと一日でも早く離婚しますように」。

そして必ず次の一言が添えられている。

離婚後YHが私と結婚しますように」。

現代は高齢化社会。

老人だって恋をするし、不倫もする。

SYさん、KMと1日も早く別れて、
 子供とお孫さんのもとへ帰ってください。
  今度こそは妻子のいない良い方と
 ご縁がありますように祈っています

お孫さんのもとへ、に時代か現れている。

それにしても、夫の不倫相手の今後の良縁を祈るなどと心優しい、いい(?)人ですが、これは稀有、大半は罵詈雑言の嵐なのです。

H夫とY子が直ぐにでも離婚しますように。
 Y子が地獄に堕ち、苦しみ、不幸になりますように

IKに不幸を与えてください。
 バイク事故をおこせ。
 ヘルニア再発しろ。
 奥さんの病気悪くなれ

 バイク事故をおこせ、と書きながら、彼の背中にぴったり寄り添っての、かつての  タンデムツアーのワンシーンが、彼女の脳裏をよぎったに違いない。

思い出が楽しければ楽しいほど、怒りは倍増するようだ。

そして、決定打。

AMとIR子に天誅が下りますように

こうした男女間の愛のもつれは、双方に責任があると思うのだが、女性たちはそうは思わない。

男がダメ男だったのが原因だと考えているようなのです。

過去に付き合ったどうしようもない男たちと縁が切れますように

昔のクズ男たちと縁が切れるように

これまでの自分勝手な男たちのような男性に二度と出会わない様に

不誠実な男との出会いの悪縁を切ってください

変な男、ダメな男、危ない男、悪い男との縁が切れますようにおねがいします

5人目の女性は、そうしたダメ男か寄ってくるのは、自分にも原因があると気づいています。

そのような男を惹きよせてしまう私の雰囲気やそういう男に惹かれてしまう私の心と縁がキレイに切れますように

ダメ男との絶縁を希望するのは、同時にそれが貧乏生活との別れをもたらすと思うからです。

FO雄との縁が切れますように。 
 そして貧乏神との縁も切れますように

女性たちにとって、ダメ男と貧乏神は不即不離の関係にあるのです。

 縁切り榎の効用の基本は、男女関係の縁切りですが、人間関係全般にも応用が利くようで、職場の人間関係の悩みが多く寄せられています。

特に多いのが、パワハラ上司との縁切り。

 「クソ上司と縁が切れますように

自分本位の上司Yと1日も早く縁を切りたいです。
 皆一生懸命残業しているのに、うまくいかないと罵声をあびせる。
 仕事でもプライベートでも金輪際関わりたくないです。」 

会社名と職場、上司の氏名を明示して、上司の異動を切望する絵馬が何枚もある。

課員や部員の名前が連名で書かれている。

多いのはなんと16人。

絵馬に書くということは、神に願うことだが、同時に、誰かがそれを読むことを承知の上の行為でもある。

つまり覚悟の上の集団的行為なのです。

面白いのは、そろって「嫌なあいつは、異動していなくなれ」と書いてあること。

自分がさっさと異動して、別の職場に移るという発想はないらしい。

「正しいのは私で、悪いのはあいつ。正しい私が異動しなければならないなんて、おかしい」。

多分、そう思っているからでしょう。

上司によるセクハラもあれば、上司との恋愛沙汰もある。

「○○は移動して、いなくなれ」と云う裏には、ドロドロした不倫ドラマがあるのです。

校長MMが◇◇小からいなくなり、私との縁が切れますように」の女教師のケースは、その典型例でしょう。

校長との縁を切りたい女教師がいれば、教師と別れたい女子大生もいます。

M先生と縁を切り、これからの大学生活で良縁にであえますように

先生との腐れ縁を切って、勉学に励むのではないようだ。

大学は、彼女にとって、婚活の場なのです。

上司に話を戻すと、異動を願ったら実現したという報告がある。

上司NSは、クビになりました。ありがとうございました」。

そして、さらに一行。

できれば、店長もいなくなって欲しいのです。」

「呪いハラスメント」とでも呼ぶべきか。

まさに「逆ハラ」現象です。

こうしたお礼の絵馬は、少ないけれど、散見できます。

HKと離婚できました。ありがとうございました

IS(女)との交わりで始まった
 苦悩、悲しみ、損、不快と
 一切の縁が切れました。
 金銭を要求されない縁切りができました。
 ありがとうございました

中には神への願いを撤回する者もいます。

MSとの縁切りを、以前、お願いしましたが、
 取り下げさせていただきます。
 末永く仲良く暮らせるようお見守りください

元の鞘におさまって、ふと、絵馬の文句が気になった。

「まずい」と思って、駆けつけ、縁切りの取り下げを申し出たという次第。

縁切りどころか仲直りをさせてしまって、神としては立つ瀬がない。

その上、「仲良く暮せるよう見守る」ことを求められて、どうしていいかわからず、神は途方にくれるばかりです。

 

「縁切り」はもともと男女の仲を切る意でした。

その切るべき縁は、どんどん広がって、絵馬でよく見かけるのが「過去の自分からの縁切り」。

かつて相思相愛だった二人が憎しみ罵り合うようになったのは、相手がダメ男、バカ女だからでもあるが、自分のダメな部分にも原因があるから。

そうした過去の自分から脱皮して新しい自分にならなければ、未来はない、

そう思う人のなんと多い事か。

想像以上に、まじめな人が多いのに驚いてしまいます。

では、どんな自分から縁を切りたいのか。

意志が弱い」
「気が小さい」
「人の顔色ばかり気にする」
「怠惰な」
「重箱をつつくような性格の」
「ものに執着して捨てられない」
「臆病な」
「若さを才能と錯覚していた」
 「嫉妬、執着心に満ちた」
「マイナス思考、余裕のなさ、心配性の」

 神に祈れば、自己変革ができるのならば、こんな結構なことはない。

しかし、絵馬に書くことで、自分の弱点を再確認出来るのだから、祈ることも全く無意味というわけではなさそうだ。

「過去の自分」に並んで、縁切りしたいもう一つは「病気」。

しかし、病気の種類を挙げても、面白みに欠けるので、これはパス。

今、流行りの「ブラック企業」なる文字も絵馬に見える。

おやっと注視するのだが、よりいい職場を求める気持ちが、今の会社をブラック企業と言わせているだけで、具体的にひどい労働条件を列挙してはいない。

具体性に欠けるのは、「いじめ」も同じ。

新学期になったら、嫌なあいつと別なクラスにならせて」。

何故,嫌なのか、内容がないので、「いじめ」だとは思うがはっきりしない。

言葉は、時代とともに変化してゆく。

「縁切り」の使い方もどんどん変わってゆく。

こんな斬新例がある。

不合格と縁が切れ、合格に恵まれますように

大学入試不合格と縁を切りたい

合格祈願に来て、「不合格」と書くのが面白い。

二重否定だから、肯定の「合格祈願」になるが、どこかおかしい。

縁切り榎だから、「縁切り」は使わなければならないと思い込んでいるからだろうか。

 

 縁切り榎絵馬傑作選

○○会社と縁が切れますように。
  社長の陰毛みたいな毛が
  ヒワイなのでハゲますように。

 社長の愛人だった女性社員の絵馬。怒っても泣いても、ユーモア精神を忘れないのが、すばらしい。

ジャニーズのコンサートの落選と縁が切れますように。

 ドロドロした男女の世界の只中で、無垢な乙女の輝きが。

夫が女装趣味からきっぱり縁がきれますように
 

 どんな女装なのか写真があると神さまも分かりいいのに。

ADとY子の縁談が破談になるよう縁切りをお願いします。
 結婚まで行かずに早く別れますように。縁切りしますように。
 別れますように。結婚しませんように。別れますように。
 うまくいきませんように。別れますように。別れますように。
 子供など産まれませんように。縁切りお願いします。 

  スペースのない札にびっしりと書き込んである。Y子の母親らしい。娘が好きな 男を母親は気に入らない。別れと縁切りを畳みかけるように重ねて、訴求力十分。

KRとの縁を切ってください。
 KRが私たちの前からいなくなります様に
 おねがいします。おねがいします。おねがいします。KM

  夫との縁切りを願う妻の絵馬。おねがいしますの3連発に切実感がにじむ。

パチスロという悪いギャンブルから縁を切りたいです。
 そして夫婦喧嘩のない生活になりたいと願います。
  最後に金運のなさから断ち切ってください。

 ギャンブル依存症を神は救えるか、救えないか、賭けてみたい。

ボッタクリと縁が切れますように。
 歌舞伎町は噂通り危険な街だった。静岡市M

 これは、また異色な絵馬。静岡から来た男は、危険だと噂に聞いていた歌舞伎町の店で、ボッタクられた。噂通り危険な街であることを確認して、ホッとしているようでもある。

3月のはじめ、夫OYとOU子の間を切って下さるようお願いにきたOM子です。まだ0U子から夫のもとにメールが届いています。それに加えK子という女も現れました。どうかお願いです。夫と二人の女の関係を断ち切ってください。いつもくよくよ考え、悲しんだりする私の気持ちが、早くはれるようにお力を貸してください。

夫の女関係の縁切りを頼んだのに、新しい女まで現れた。これは一大事と板橋まで駆けつけて、細かい字でぎっしりと願い事をしたためた。一人でもダメだったのだから、二人となると神様も大変だろうなあ。

甘いお菓子と過食と浪費から
 縁を切らせてください。

 同感!同じ願文を書くつもりでいたら先客がいた。「脂肪からの縁切り」を願う絵馬は、もうありふれた存在なのです。

 

縁切り榎の効力は、神に祈ることではなく、榎の木皮を煎じて飲むことにあった。

それは承知していても、祠があるとつい祠のなかの神に祈ってしまうのは、人情というものだろう。

境内社がどんな神なのか、調べてみた。

祀られているのは、第六天。

「第六天は、仏教では仏道をさまたげる魔王とされる。第六天を祭祀対象とする信仰は、その魔力による願望達成を期待して成立するもの」と『日本石仏図典』にはある。

縁切りを願って手を合わせても、筋違いではない神ということになる。

科学の進歩はめざましい。

人間を取り巻く環境は激変するにちがいない。

しかし、どんな時代になろうとも、縁切り榎の参詣者が絶えることは「絶対に」ありえないと確信をもって断言できる。

男女の仲を、科学は介入できないからです。


63 上州の閻魔と奪衣婆

2013-09-16 06:27:43 | 民間信仰

思い込みは、困ったものだ。

一度思い込んだら、訂正されることは、まず、ない。

「上州には、閻魔・奪衣婆が多い」。

私の思い込みの、これがその一つ。

多いことは確かなのだが、日本の他地域に比べてダントツに多いかは分からない。

ま、そう思い込んだからと云って、誰に迷惑がかかるわけではなし、どうでもいいことではあるが・・・

思い込みには、きっかけがあった。

3年前の初冬、沼田市から川場村の石仏めぐりをした時、墓地の入り口両側に座す閻魔と奪衣婆をしばしば目にしたのです。

閻魔と奪衣婆が並んで座している姿ばかり見てきた私には、この相対するポジショニングはすごく新鮮でした。

 

                  万福寺(沼田市佐山町)の閻魔(左)と奪衣婆

 それはまるで、そこからが他界であるかのような錯覚を抱かせるのに十分でした。

昔の人には、錯覚どころではなかったに違いありません。

着衣をはく奪され、地獄行きを命じられるその恐怖が、品行方正であろうとする原動力になったはずです。

だからといって、上州人がとりわけ道徳的であるとは聞かないから、私の思い込みは不正解なのだろうか。

その昔、明治、大正といわず、昭和に入っても、日本のそれぞれの集落には、閻魔堂や十王堂、地獄堂などがあった。

今ではほとんどなくなっているか、あっても朽ち果てて、見捨てられてしまっています。

辛うじて、石造物の閻魔や奪衣婆だけがその命を長らえているだけです。

ここで冒頭の思い込み「上州には、閻魔・奪衣婆が多い」を「上州には、野仏の閻魔・奪衣婆が多い」に訂正。

東京の閻魔堂はコンクリート造りで朽ち果てなかったのですが、堂内の閻魔・奪衣婆は目に触れる機会がなく、その存在に気付かないのが普通です。

閻魔・奪衣婆に接する機会の減少とともに人々の地獄観も希薄になり、わずかに「試験地獄」や「ウソをつくと閻魔さまに舌を抜かれる」という言葉が残っているくらいです。

 

では、地獄とは何か。

地獄は極楽の対極に位置し、その思想は平安時代末期、浄土宗により説かれました。

世の中の乱れ、人心の不安の拡大がその背景にあったと言われています。

ベースになったテキストは『地蔵十王経』。

文盲の庶民は、盆や施餓鬼で寺に掲げられた「地獄変相図」を見ることで地獄を知りました。

 

地獄とは何かの前に、『地蔵十王経』に描かれた冥界ガイドを紹介しましよう。

死者はまず死出の山を越えなければならない。

険しい死出の山を越えるとぶつかるのが、三途の川。

三途の川を渡ると、そこには奪衣婆が待ち構えていて、死装束を脱がせられる。

奪衣婆はその衣装を衣領樹(いりょうじゅ)にかける。

枝の垂れ下がり具合で、死者の生前の悪業の軽重が分かる樹木なのだ。

生前の悪業は、次の閻魔庁でも明らかになる。

浄玻璃(じょうはり)鏡に悪業が全部映しだされてしまうからです。

閻魔庁には、この他、悪業を測定する人頭杖や業の秤もあります。

(*上の地獄変相図には全部描かれているので、よくご覧ください)

これをもとに、閻魔大王は、亡者の次の行き先を宣告することになる。

次の行き先とは、生まれ変わるべき世界。

それは六道といわれ、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの世界。

ここで初めて地獄が出てくるが、もう少し冥界話を続けよう。

これまでのプロセスでは、閻魔と奪衣婆しか登場していないが、実は冥界には閻魔の他に9人(?)の判官がいて、これを十王と言います。。

十王は、初七日から三周忌まで、日を決めて亡者の罪業の裁きにあたります。

初七日の担当は、泰広王。

泰広王は三途の川の手前にいるので、支出の旅に出て、亡者が初めて出会う判官です。

この泰広王によって裁かれるのはごくわずか、生前、極善か極悪の亡者だけ、中善、中悪の大多数はすぐには次生が決りません。

『地蔵十王経』では、死亡後まだ次の世の行き先が決まらない期間を「中有(ちゅうう)」と言い、初七日から七日ごとに、二七日(14日)、三七日(21日)、四七日(28日)、五七日(35日)、六七日(42日)、七七日(49日)、百か日、一周忌、三周忌と10回にわたり、10王が次生の審断を下します。

ちなみに閻魔王は、五七日が担当日。

最初の頃、「中有」は、七七、49日でした。

それが三周忌まで伸びたのには、人間臭い理由があるのですが、それについては、後述します。

では、いよいよ地獄の話へ。

源信の『往生要集』では、八大地獄があることになっています。

等活・黒縄(こくじよう)・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間(むげん)の八大地獄。

この地獄一つ一つに触れはしませんが、一つだけ重要な事があります。

それは、地獄の責め苦は、繰り返されること。

責め苦で悶死したものは再び蘇生し、同じ責め苦を受ける。

これが成仏するまで無限に繰り返されるのです。

では、亡者を成仏させるにはどうするか。

それには、「地獄の沙汰も金次第」の事情があるのですが、これも後で述べることにします。

以上が冥界と地獄の基本知識。

これを踏まえて、上州の閻魔と奪衣婆を見てゆきましょう。

 

まずは、十王。

いつの頃からか閻魔と奪衣婆だけになってしまったが、元々は十王が揃ってワンセットのものでした。

十王堂などで保存されてきたならともかく、野ざらしの場合は10体揃っていることは、今や珍しい。

東吾妻町植栗の十王は10体あって、揃った十王のように見えます。

しかし、よく見ると、前列向かって左は奪衣婆だし、中央の石仏は顔が二面あります。

 

      奪衣婆                二面人頭杖

これは、人頭杖、別名檀拏幢(だんだどう)でしょう。

人頭杖は、閻魔が亡者を裁くのに使う道具。

蓮台の上に男女の顔が乗っていて、亡者が重罪ならば男が口から火を吹き、無罪ならば女が芳香を放つといわれています。

 

 教学院(練馬)の檀拏幢(だんだどう)

上の左の写真のように頭が二つあるのが普通で、植栗の人頭杖は大胆な省略が、見事な造形を創出しています。

 

人頭杖は、富岡市下黒岩砂田の墓地にもあります。

墓地の奥の石仏の列の左端に 危なかしげに台石に乗っています。

一見、獄門首かと思ってぎょっとする。

 

手前に人頭杖、一つ置いて司録、閻魔、司命。最奥に奪衣婆。

その右手には、閻魔の両側に司録と司命が侍っています。

司録と司命は、閻魔庁の書記官です。

 司録       閻魔          司命

列の最右翼には奪衣婆。

司録や司命、それに奪衣婆は判官ではありません。

閻魔以外の十王は、ここにはいないようです。

皺の下に大きく開いた口から飛び出た2本の歯が奪衣婆の怖さを強調しています。

頭陀袋のような垂れ乳が面白い。

 

前橋市の集香寺へは、閻魔の罪業測定器が揃っているというので、行ってきました。

      集香寺(前橋市)

境内の一隅に3種の罪業測定器がまとめてあります。

左から、浄玻瑠鏡、人頭杖それに業(ごう)の秤。

  

業の秤は、生前、悪業を重ねた亡者が乗ると天秤の片側の大石が羽のように跳ね上がるという秤。

業の秤を『日本石仏図典』で調べていたら、浄玻璃鏡とセットの場合がほとんどで、秤単独例は佐渡の岩屋山洞窟のものだけとの記述がありました。

 岩屋山洞窟(佐渡市宿根木)

岩屋山洞窟には何度も行ったことのある佐渡出身者としては、放っておけない。

業の秤があることなど聞いたことはないが、、もしやと写真フアイルをチェックしたら、あった。

左が、業の秤、右が、人頭杖。

洞窟の中は暗いので、普通はライティングをきちんとしないと撮れない。

たまたま、入口ちかくだったので、ラッキーにも写真が撮れたのですが、それでも感度を上げ過ぎて不自然な写真になっています。。

集香寺を去ろうとして何気なく無縁塔を見たら、上段の五輪塔の背後に十王らしきものが見える。

石段を上って近寄って見る。

1基の奪衣婆と5基の十王がいる。

 

  左の2基 一番左は奪衣婆                 中の2基

      右の3基

閻魔もいるのだろうが、はっきりしない。

左の3体は、石材が違うようだ。

ということは、少なくとも3か所から運ばれてきた十王ということになる。

それでもこうして保存されているのだから、よしとしなければならないだろう。

取り壊され、廃棄物として捨てられるか、土に埋められるか、大半はそうした運命をたどったのですから。

 

上州の十王で私のイチ押しは、渋川市旧子持村中郷の個人墓地に並ぶ十王。

 

 墓地と畑の間を下半身を地面に埋めたまま十王が整然と並んでいます。

左端は、浄玻璃鏡。

十王の顔はほぼ同じ、目じりがつりあがり、口は横一文字の怒り顔。

向かって右、8体目の隣は写っていませんが、下の写真のように奪衣婆と閻魔がいます。

「何かに似ているな、この奪衣婆は」。

 

石工は、奪衣婆が垂乳であることは熟知していたはずです。

でも、あえて、そうはしなかった。

腕と膝は、まるでロボットみたい。

目は縄文土偶を想起させて、素晴らしい逸品。

どこかの美術館で大勢の人に見てもらいたいものです。

 

次に閻魔と奪衣婆。

上州だけの風習なのか、どこでもそうなのか、少なくとも東京周辺では見かけない、閻魔と奪衣婆が向き合った姿から。

  

    墓地(川場村仲村)

ひどい写真ですみません。

墓地の入口の石段の上、両側に閻魔と奪衣婆が座している。

これが典型例。

 

  岩屋堂(沼田市佐山町)

この岩屋堂への石段両側の閻魔と奪衣婆は、今月(12013-09-01)に撮影したもの。

車で通りかかって気がついたので停車し、撮影したが、カメラを覗きながら「?」。

3年前の11月、同じアングルで撮っていたのでした。 

 

レンズを左に向けると銀杏の葉の絨毯。

美しいので、おまけとして、載せておきます。

 

       龍谷寺(みなかみ市月夜野師)            林昌寺(中之条市)

龍谷寺も林昌寺も閻魔舐めの奪衣婆との2ショット。

閻魔の頭の先に小さく奪衣婆が見えます。

次の東善寺では、石段の上の両側は同じですが、向きが違います。

    東善寺(高崎市旧倉淵村)

相対せず、両者、前を向いています。

これは、次からの横並びスタイルへの移行型というか、相対型と横並び型の中間スタイルといえるでしょう。

 

  三福寺(東吾妻町大柏木)          大運寺(東吾妻町大戸)

 

   桂昌寺(川場村)                  空恵寺(渋川市上白川)

相対型と横並び型の共通点は、向かって右に閻魔、左に奪衣婆という坐り位置。

 

これは現在のひな壇の男雛、女雛の並び方とは反対ですが、江戸時代以前のひな壇の古式スタイルは向かって右が男雛、左が女雛だったそうで、共通した思想がありそうです。

勿論、例外もあります。

 

  長広寺(沼田市)                路傍(高崎市旧倉淵村)

民間信仰に、多数、少数はあっても、正解、不正解はないでしょうから、これもまた、OK。

上の右の写真は、旧倉淵村を走っていたら石仏の頭だけがちらと見えたので、停車して撮ったもの。

背丈を越す夏草に覆われて近寄るのが大変。

石塔も庚申塔や念仏供養塔で、墓標ではない。

寺の跡地にしては狭いし、墓地ではなさそうだ。

近くで農作業をしている老人に訊いて見た。

土葬の時代、ここには土葬に必要な道具を置いておく小屋があったのだそうだ。

なるほど、だから閻魔と奪衣婆がおわすのだと納得。

 

 今回のテーマを「閻魔と奪衣婆」にしたのには、個人的な事情があります。

私は、大学の社会人向け講座を毎年受講していますが、今年、選択したのは『日本霊異記』。

日本最古の仏教説話集で、勧善懲悪のストーリーに満ちています。

当然、地獄話も豊富で、閻魔も常連の登場者。

石仏巡りも、ついつい、冥界関係者に偏るのも無理からぬというものです。

その『日本霊異記』(中)に次のような話があります。

第24話「閻羅王の使の鬼の、召さるる人の賂(まひなひ)を得て許しし縁」。

閻魔王の命を受け、ある男を召しとらえに来た鬼が、その男の差し出した牛を食べて空腹を満たした。鬼はご馳走になったお礼に男と同じ齢の別の男を召しとらえて冥界にもどった、という話。

引き続き、第25話「閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報いし縁」という、召されるのは女性ですが、まったく同じ話が載っています。

つまり、冥界では賄賂が効くのです。

品行方正でなければ、閻魔により地獄行きを宣告されること必至の冥界にあって、賄賂OKとは不思議な話ですが、どうやらこの時代、賄賂は罪悪ではなかったようなのです。

「地獄の沙汰も金次第」ですから、地獄の責め苦にあえぐ亡者の成仏も、結局、支払う金額に左右されることになります。

亡者は、お金を持っていないので、支払えない。

では誰が、誰に。

亡者の家族が追善供養として寺に支払うのです。

死亡後、次の世界への行き先が決まらない期間を「中有」ということは、先に述べました。

「中有」の期間を短くし、しかも地獄ではなく、極楽往生するのには、現世の人たちによる追善供養が不可欠だという論理がいつの頃からか、構築されてきます。

困ったことに、成仏できる追善供養の程度は不明のままです。

全ては生者の気持ち次第、というのですから始末が悪い。

七七日(49日)だったはずの「中有」が、百か日になり、一周忌、三周忌まで延長されたのも必然でした。

「まだまだ成仏してないようですよ」と言われれば、家族は供養を重ねるしかありません。

「坊主丸儲け」とは、まさにこのことでしょう。

「坊主丸儲け」に「七分全得」理論が更に拍車をかけました。

追善供養は亡者より生者を大きく利得する行為だ、と説かれ始めます。

「地蔵菩薩本願経」には、追善供養の功徳は、亡者が七分の一、供養した生者が七分の六受け取ると書いてあるというのです。

こうして、生きているうちに自分の追善供養をするという奇妙奇天烈なブームが巻き起こりました。

「逆修」ブームがこれです。

 慈光寺(埼玉県ときがわ町)の逆修板碑

関東の板碑の大半は、逆修だそうですから、「よくぞ坊主に生まれけり」。

思いがけない不労所得に、笑いが止まらなかったことでしょう。

 

造形的には、圧倒的に奪衣婆の方が面白いのだが、なんと云っても閻魔は主役だから、まずは閻魔大王から。

『地蔵十王経』は仏教に、道教と神道を加味してあると言われてます。

特に道教の影響が強くて、それは十王の服に現れています。

    延命寺(板橋区)

これは道教の修行者が着る道服というものです。

頭には末広がりの王冠。

王と書かれていることが多いようです。

眉をあげ、眼を大きく、口を開いて怒っている顔が普通。

右手に笏を持っているか、両手で笏を捧げている。

足は結跏趺坐をしています。

閻魔と他の9人の王との区別はないようです。

石仏の場合は特に見わけがつきにくいので、判別は諦めた方がいい。

では、上州の恐い閻魔ベスト6。

恐いけど可愛いのは、どれ?

  

    東善寺(高崎市旧倉淵村)              大運寺(東吾妻町)  

 

      三福寺(東吾妻町)            玄棟院(渋川市旧子持村) 手が逆

 

   路傍(高崎市旧倉淵村)               長広寺(沼田市)

最後に変わり閻魔を一つ。

  延命寺(川場村)

ピンボケのこの閻魔さまは、庚申塔の主尊。

三猿はいませんが、これは閻魔庚申塔なのです。

 

そして、いよいよ、奪衣婆編。

仏像には、儀軌というお手本がある。

十王に儀軌があっても不思議ではない。

それぞれが似通っているからです。

しかし、奪衣婆に儀軌があるかは疑わしい。

像容があまりに違いすぎるのです。

奪衣婆であることの必要条件は、長い髪と垂れ乳それに立て膝。

片膝を立てるのは、昔のお産スタイルでした。

ですから奪衣婆を安産・子安祈願の神とする地方は、今も、少なくありません。

いずれにしても、奪衣婆ほど、石工が自由な発想で造形できる石造物は少ないでしょう。

あなたが選ぶ、こわ可愛い奪衣婆は、どれ?

 

    角地蔵(みどり市)                 空恵寺(渋川市)

 

 桂昌寺(川場村)             三福寺(東吾妻町)

 

  大運寺(東吾妻町)            長広寺(沼田市)

 

    長広寺(沼田市)             東善寺(高崎市旧倉淵村) 

            

  墓地(富岡市)         路傍(高崎市旧倉淵町) 背後の木は亡者の衣をかける衣領樹か

 

これらの奪衣婆を見て、恐さよりもユーモラスを感じる人の方が多いのではないだろうか。

三途の川の別名は、葬頭河(そうづか)。

「そうづかの婆さん」は「しょーづかの婆さん」になって、おどろおどろしさを失い、いつしか、風邪を治し、咳を止める神様になって行きます。 

上州にもそうした男女神がいます。

人呼んで「味噌なめじじいと味噌なめ婆あ」。

 

 吉祥寺(川場村)の味噌なめじじい(閻魔)と味噌なめばばあ(奪衣婆)

口の周りに味噌をぬれば、歯痛や風邪が治る と言われています。

 天桂寺(沼田市)の味噌なめじじいとばばあ

もともとは閻魔と奪衣婆でした。

それが、冥界の主というよりは、そこらで野良仕事に精出している老夫婦の風情になってしまった。

そして、いつしか、世は地獄を知らない人ばかりになった。

知らなければ恐がらない。

追善供養など誰もしなくなった。

そもそも追善供養という言葉を知らないのだから、話にならない。

地獄の沙汰もカネ次第と坊主丸儲けを図った壮大な計画も、かくして頓挫する結果となった。

めでたし、めでたし。 

               


60 椀状凹みを探して日光街道を行く(4・最終回)宇都宮宿-日光

2013-08-01 06:59:18 | 民間信仰

「椀状凹みを探して日光街道を行く」の最終回。

椀状凹みが東京と埼玉県にあるのは分かったが、これは地域的な現象なのか否か。

  観明寺(板橋区)の宝筐印塔台石の椀状凹み

椀状凹みを探して、東京から日光まで144キロをチェックしてみようという試み。

せいぜい関東ローカルの傾向が分かるだけで、試みにさほどの意味があるとは思えないが、しないよりはましだろう。

と、いう程度のかったるい、いい加減な調査もやっとゴールの日光に到着する運びとなった。

 

前回は、雀宮駅でレンタサイクルを借り、宇都宮市へ入るところまで報告した。

日光街道と奥州街道が分岐する不動前に到着。

 不動前を左へ。

間もなく東武宇都宮線を越える。

 ー宇都宮宿ー

右手に宇都宮市有形文化財蒲生君平勅旌(せい)碑がある。

  蒲生君平勅旌(せい)碑(花房3)

ここが宇都宮宿の入り口。

木戸や番所があった。

蒲生君平の先祖は蒲生氏郷だという。

会社勤めをしていた頃、同僚に蒲生氏郷の子孫がいた。

殿さまの子孫らしい、おおらかな男だった。

 

日光街道沿いにまず現れるのが、台陽寺。

 

                     台陽寺と参道の子安地蔵(新町1)

 長い参道に子安地蔵尊がおわす。

寺にも地蔵堂にも、椀状凹みは見られない。

今は影も形もないが、かつてこの一帯は寺がひしめいていたという。

宇都宮城下入口の防衛線の役割を果たしていたとあるが、寺が多いと防衛線になるとはどういう事なのか。

 

地図では、台陽寺のワンブロック東に、英厳寺という寺があるので行って見る。

この辺かなと思しき場所を探すが寺らしき建物はない。

ないはずで、戊辰戦争で焼けおち、廃仏毀釈で廃寺になっていた。

石柱には「宇都宮城主戸田家菩提寺」とある。

通路のような、公園のような不思議な空間を行くと正面に亀趺を台石にした墓がある。

 

             宇都宮矦忠列戸田公之墓(花房本町)

「宇都宮矦忠列戸田公之墓」と刻されている。

近くに一族の墓があるらしいのだが、野草が茂っていて見当たらない。

 

日光街道に戻る。

一向寺から報恩寺へ。

 

    一向寺(西原2)                  報恩寺(西原1)

報恩寺の、茅葺の山門がいい。

本堂前には、京都龍安寺の蹲(つくばい)を模した小さな蓮池がある。

上から右回りに、五・隹・疋・矢が配されている。

夫々を真ん中の口につけて「吾唯足知(われただたるをしる)」と読むらしい。

Good design賞をあげたい気分だ。

反対側に「戊辰薩摩藩戦死者之墓」がある。

 戊辰薩摩藩戦死者之墓

慶應4年(1868)4月の戊辰戦争で、宇都宮は2000余戸が灰塵に帰した。

薩摩藩は官軍だから、戦死者はこうして墓を建てられたが、旧幕府軍の戦死者の遺体は意図的に放置された。

賊兵の遺体を集め仮埋葬したのは、住民たちだった。

死臭にたえきれなかったからである。

       戊辰役戦死墓(西原1)

報恩寺の先200mに立つ戊辰役戦死墓は、香華を手向ける人もないまま100年が過ぎた昭和42年、賊軍兵士の霊を本式に供養するために建てられたものである。

この戊辰役戦死墓の道を挟んだ反対側にあるのが、閻魔堂。

      閻魔堂(六道町)

その敷地の一角に3基の六字名号塔が立つ。

 

その真ん中の石塔の台石には、椀状凹みがあるように見えるのだが、そうとは断言できない事情がある。

この石塔の石材は、大谷石であることは明白です。

大谷石は風化するとボコボコと穴があきやすい。

 

上の写真は、閻魔堂の土台の大谷石だが、穴がいくつも開いている。

人工的にあけられた穴ではないことは明らか。

だとすると六字名号塔の台石の穴も椀状凹みなのかどうか疑問符が付くのです。

 

光淋寺には、官軍と賊軍双方の墓が向かい合っている。

 

  戊辰の役官軍因幡藩士之墓           戊辰の役幕府軍桑名藩士之墓

ありうべからず、と云うほかない光景だ。

こんな石碑が立っている。

「討つ人も討たるる人ももろともに同じ御国の為と思えば」

肝心の椀状凹みは、光淋寺にも、観専寺にも安養寺にもない。

 

  観専寺(材木町)                  安養寺(材木町)

 

日光街道に戻って進むと裁判所にぶつかる。

裁判所の前の通りの国道119号を右折、100mほど先の十字路が日光街道と奥州街道の分岐点です。(地図では、三峰神社右の道)

左折すると日光へ向かうのだが、そちらへは行かず、反対の今来た道を戻って、宇都宮城址へ。

800mほどバックすると宇都宮市役所。

市役所を東へ進むと城址公園が見えてくる。

 

宇都宮城は、将軍の日光社参において重要な役割を果たしてきた。

        宇都宮城址(本丸町)

将軍の行列は一日目が岩槻、二日目、古河と宿泊して三日目、宇都宮城に宿泊するのが通例でした。

本陣でもないのに、将軍の宿泊施設であった珍しい城と言えます。

吉宗の社参の行列の人数は13万3000人。

先頭の10時間後に最後尾が江戸城を出立するほどの大人数。

宇都宮城内は、宿泊施設の確保に大わらわでした。

城主戸田家の家臣団の屋敷38軒が将軍近習と大名の下宿にあてられ、不足分は旅籠、大ぶりな町家が充てられたがそれでも収容できず、周辺村落に分散して宿営したと言われている。

無名の従者は野宿を余儀なくされたはずです。

 

119号線に戻って、清住町通りに入るとそこが日光街道。

 ビルとレンガ色の建物との間が日光街道

宝勝寺、延命院、琴平神社、桂林寺と回るが、いずれも椀状凹みはない。

 

  宝勝寺(小幡1)                   延命院(泉町)

 

 

 琴平神社(清住1)             桂林寺(清住1)

桂林寺が宿の北のはずれだから、宇都宮宿には椀状凹みはないないことになる。

日光街道最大の宿場というので期待するものが大きかっただけに、失望も大きい。

急に疲れを覚え出す。

レンタサイクルのバッテリーも底をつき始めたようなので、駅へ向かう事に。

宇都宮宿から離れながらも寺社があれば、停車しては椀状凹みを探す。

真福寺、正行寺、浄鏡寺、二荒神社でも空振り。

 

    真福寺(泉町)                 正行寺(泉町)

 

 

   浄鏡寺(塙田2)                  二荒山神社(塙田2)

これが最後と寄った慈光寺では、山門前の石段の下でつなぎ地蔵が迎えてくれた。

         慈光寺(塙田4)

人々の願いを聞いて浄土につなぎもすれば、地獄の門番として不心得者を見極める役割もするのだという。

椀状凹みを見つけたいという私の願いはお地蔵さんに届いたようで、境内の一角におわす巨大な石仏の台石に凹みがあった。

 

終わり良ければ、すべて良し。

電池切れでひときわ重い自転車を押して駅へ向かった。

 

日を改めて、宇都宮から日光へ向かった。

まずは18番目の宿、徳次郎宿を目指す。

日光街道最大の 宇都宮宿では、とうとう椀状凹みは見つけられなかった。

最後の最後、慈光寺で見つけはしたが、宿場から離れた場所だった。

問題は、宿場にあるかではなく、宇都宮市にあるかだから、目的は達成したと考えてよい。

だが、あるにはあったけれど、その数は少なかったところを見ると、椀状凹みを穿つ風習がこの地方では希薄だったのかもしれない。

そんなことを思いめぐらしながら、ひたすら真っ直ぐ伸びる日光街道を進んでゆく。

薬師堂がどこにあるか、ガソリンスタンドで訊いた。

地図の上では、すぐ傍にあることになっている。

しかし、若い女性の従業員は「知らない」と云うばかり。

ガソリンスタンドの隣は空き地になっている。

道路からやや奥まった場所に薬師堂はあった。

  薬師堂(宇都宮市若草3)

 大きな木の下にあって、垂れ下がる枝や葉で半分は隠れて見えないが、昔からそこにあったのだから、「知らない」という方がおかしい。

しかし、お寺やお堂の在りかを聞いてきちんと答えられる若者は、最近、ほとんどいなくなった。

私は、若者には訊かないことにしている。

訊くだけ無駄だし、不愉快になるからです。

ガソリンスタンドで若い女性に訊いたのは、他の従業員は作業中で、暇そうなのは彼女しかいなかったから。

薬師堂の裏に10基ほどの石仏群があり、その内、十九夜塔と宝筐印塔の台石に椀状凹みがあった。

 

  薬師堂裏の石造物群                   凹みのある十九夜塔台石

 

              宝筐印塔と台石の椀状凹み

宇都宮ではほとんど見られなかったので、なぜかほっと一安心。

面白いことに隣の高尾神社でも椀状凹みがあるのです。

 

                高尾神社と椀状凹みのある手水鉢

手水鉢の縁がぼこぼこになっていました。

 ー徳次郎宿ー

東北自動車道を過ぎるとバス停「下徳次郎」の看板が見えてくる。

  バス停「下徳次郎」(宇都宮市宝木本町)

徳次郎宿は宇都宮から行って、下徳次郎、中徳次郎、上徳次郎と宿が三つに分かれている。

まとめて一つにするか、三つに数えるかで、日光街道の宿場の数は変わることになる。

人馬継立ての問屋場は初め上徳次郎にしかなかった。

享保の頃、中、下が加わって、月に10日ずつ問屋場が場所を変えたのだという。

町並みは約1キロと宿場としては長いが、寺はない。

代わりにというわけではないが、堂や路傍の石仏が目立つ。

 

 六本木の一里塚の十九夜塔とお願い地蔵(宇都宮市石那田) 

 

椀状凹みは、寺院よりもお堂に多いので、もしかしたらとと期待したが、成果はなし。

しかし、徳次郎宿唯一の神社智賀津神社の灯籠に穴があいていた。

  智賀津神社(宇都宮市徳次郎町)

燈籠は、鳥居の前、道路に面してある。

 

凹み穴が大きく、深いのは、燈籠の場所と関係があるようだ。

境内の外で、神主の目の届かないというような・・・

智賀津神社から10分も歩くと上徳次郎宿に入る。

   バス停「上徳次郎」(宇都宮市徳次郎町)

バス停「上徳次郎」あたりが本陣跡地らしいが、どこか特定はできなかった。

 

宇都宮市から日光市へ。

やがて、山口で道が分岐する。

左は4号線、右へ直進すると旧日光街道。

鬱蒼とした杉並木が陽光をさえぎって、やや暗く、涼しい。 

   杉並木街道(日光市山口)

左に石塔、石碑、看板が立っている。

 

まず目につくのが「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」。

日光杉並木街道という名称は、日光、例幣使(壬生)、会津西の3街道の総称で、総延長37キロ。

ギネスブックにも「世界一の並木道」と認定されている。

もう一本は、「杉並木寄進碑」。

杉並木寄進碑(日光市山口)

寄進したのは、徳川家譜代の松平家。

寛永2年(1625)から20数年かけて紀州熊野から取り寄せた杉苗を街道の両側に植え続けた。

その数約5万本。

減り続けて今は1万本を辛うじて超える数となってしまった。

自動車の排気ガスや振動が、減少の原因とされている。

 

 ー大沢宿ー

大沢宿は何度かの火事で昔の面影を失った。

宿場の総鎮守王子神社へ寄ってみる。

 

          王子神社(日光市大沢町)と椀状凹みのある手水鉢

手水鉢の縁に凹みがあるように見える。

王子神社の裏手の竜蔵寺は、社参の際、将軍の休憩所だった。

   竜蔵寺(日光市大沢町)

椀状凹みはない。

日本橋から32番目の大沢の一里塚(別名・水無の一里塚)。

  水無一里塚(日光市水無)

その反対側の地蔵堂に石仏群がおわす。

 地蔵堂と石仏群(日光市水無)

残念ながら椀状凹みは、みつからない。

所々、車道と並行して砂利道の杉並木が走っている。

  未舗装の杉並木道と小川

人通りは皆無。

森閑とした静けさの中で聞こえるのは、川の水音だけ。

 

来迎寺がある。

 来迎寺(日光市森友)

今市に入ったことになる。

 

 ー今市宿ー

今市市は、平成の大合併で日光市になった。

だから日光の表示ばかりで、分かりにくい。

追分地蔵の前の蕎麦屋で昼食。

 

 追分の地蔵(日光市中央町)の前の並木蕎麦

追分は、日光街道と例幣使街道の分岐点。

121号が例幣使街道です。

食事後、如来寺へ向かう。

町の中央に広大な空き地。

作曲家船村徹記念館の建設用地だというが、集客は見込まれるのだろうか。

如来寺は、将軍の休憩所だった格式ある寺。

   如来寺(日光市今市)

これまでの経験から格式高い寺には椀状凹みは少ないことが分かっているので、期待はしていなかったが、観音堂前の手水鉢が穴だらけだった。

 

            如来寺境内の観音堂と手水鉢

 報徳二宮神社がある。

    報徳二宮神社(日光市今市)

二宮尊徳は晩年今市で暮らし、ここで死去したのだという。

今市の総鎮守滝尾神社を過ぎる。

   滝尾神社(日光市瀬川)

どこから日光に入ったのか分からないまま、いつの間にか日光市街へ。

 

 -鉢石宿ー

日光街道最後の宿場鉢石宿は、東武日光駅より上になるらしい。

宿場の「鉢石」の由来は「勝道上人開山ノ時、鉢石町ト名ク、此町ノ北、大谷ノ南岸ニ、鉢ノ形ナル岩アリ、因テ名トス」(『日光山堂舎建立記』)。

   鉢石(日光市上鉢石町)

鉢石は、今でも日光市指定の文化財として残されている。

ところで、日光にも椀状凹みはあるのか。

早速、竜蔵寺へ。

 

                      竜蔵寺と稲荷神社(日光市稲荷町1)

竜蔵寺にはなかったが、裏の稲荷神社に椀状凹みがあった。

境内にずらりと並ぶ庚申塔には見当たらなかったが、手水鉢の縁に穴があいている。

       稲荷神社の庚申塔群

 稲荷神社の椀状凹みのある手水鉢

初めての寺社を探し当てて行くほどの時間がない。

土地勘のある一度行ったことのある場所を回ることに。

星の宮磐裂神社から浄光寺へ。

 

  星宮への石段(日光市上鉢石町)       浄光寺(日光市本町)

門前の庚申塔群に椀状凹みがないのでがっかり。

      浄光寺山門前の庚申塔群

最後に寄ったのが磐裂神社。

   石造物だらけの磐裂神社(日光市本町)

石碑、石塔の宝庫なので1基位は椀状凹みがあるのではないかと期待していたが、残念な結果に終わった。

日光市内をもう6,7個所回ってみたかったが、東京に帰るので、諦める。

 

東京から日光まで、日光街道の宿場を中心に椀状凹みを探しての旅はこれで終わり。

終わっての感想は、「昔の人はすごい!」。

将軍の社参ですら3泊4日。

一般人は、なんと日光まで2泊3日で到達していたのです。

一日、12里、48キロ歩く計算になります。

信じられない。

 

旅の目的であった椀状凹みについては、日光まで途切れることなく、その痕跡を確認することが出来ました。

その目的や理由は分かりませんが、石造物に穴を穿つ風習が東京、埼玉、茨城、栃木の都県に広がっていたことになります。

恐らく全国的に椀状凹みはあるものと思われますが、断言はできません。

 

日本橋から日光まで、日光街道沿いに立ち寄った場所は、154か所。

寺院88(19)、神社46(17)、堂15(6)、公民館(寺跡)1(1)、路傍4(1)。

( )内は、椀状凹みがあった個所。

総数44基。

その内訳は

手水鉢     18(寺3、神社15)

狛犬        2

燈籠        3(神社3)

石塔・石碑    5(弘法大師碑、四国四十八ケ所巡礼供養塔、南無遍照金剛塔、普門品供養塔、石経供養塔)

地蔵        3 

宝筐印塔     4

庚申塔       3

十九夜塔     12

廿三夜塔      1

道標         3 (*道標を兼ねた地蔵と庚申塔あり。それぞれのカテゴリーに入れてあるので2基重複)

不明         2

(注:手水鉢と狛犬を除いて、椀状凹みは石造物の台石に穿たれている。石仏、石碑本体に傷はない)

以上のことから、おおまかに言えることは次の通り。

①椀状凹みは、社寺の山門、鳥居の前の石造物に多く見られる。
 石を穿っていても、住職や宮司に叱られない場所ということか。
 手水鉢は境内にあるが、祭事と深い関わりがあるわけではない。(祭祀の前の禊の代わりだから、無関係ではないが)

②社寺にある庚申塔、十九夜塔は、元々は、集落の路傍にあった。
  造立者は集落の講中だから、凹みを穿っても誰からも文句は言われなかった。
  道標の凹みも同じことである。

③墓地の墓に椀状凹みはない。

板橋区の椀状凹みのある石造物32基を加えると、これまで76基もの椀状凹みのある石造物を見てきたことになります。

にもかかわらず、なぜ石に穴を掘るのか、その理由については、まったく見当がつきません。

椀状凹みを探して東海道や中山道を京都まで上ってみるのも一興ですが、多分、理由は解明されないでしょう。

何かスッキリしない状態ですが、椀状凹み探しは今回で一応終わりと云う事にしようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


58 椀状凹みを探して日光街道を行く(3)間々田宿ー雀宮宿

2013-07-01 05:43:56 | 民間信仰

「椀状凹みを探して日光街道を行」って小山市へ。

面白いような面白くないような、落ち着かない気分。

大体、これぐらい実物をみてくれば、共通点だとかに気付くものだけれど、さっぱりその気配はない。

椀状凹みを穿った理由が分からないまま実物を探し続けることに、果たして意味はあるのだろうか。

もともと少ないブログの閲覧者数は減少する一方。

閲覧する魅力に乏しいことが、はっきりして来たようだ。

途中でやめるのは簡単だが、投げ出したからといって気分が晴れることはなさそう。

物事を途中で投げ出すことは、性分に合わないからです。

だから、このまま突っ走るだけ。

ゴールの日光まで、あと、2回、お付き合いください。

 

  ー間々田宿ー

 小山市に入って約2キロ、JR間々田駅の手前にあるのが仏光寺。

   仏光寺(小山市南乙女)

山門を入って左手の2基の十九夜塔に椀状凹みがある。

 

   仏光寺の2基の十九夜塔         

石塔は真っ黒で文字は読めない。

被写体と背景の明暗の差が激しいから仕方ない、というのは言い訳で、要するに撮るのが下手なのです。

間々田駅からの駅前通りとぶつかったら左へ。

乙女不動尊へ向かう。

地図では,泉竜寺と表示されている。

 乙女不動尊(小山市乙女)

乙女と不動明王、これほどミスマッチな名前も珍しい。

しかし、乙女は地名だから、これはこれで至極当然な名称なのです。

朱塗りの仁王門の前の宝筐印塔に椀状凹みが見られる。

 

宝筐印塔の功徳は「礼拝供養すれば八十億劫生死重罪が消滅し、災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わる」ことにある。

が、そのためには陀羅尼経を書写して塔中に納めなければならない。

穴を穿っても功徳はある、とはどこにも書いてないのだから、椀状凹みは不思議なのだ。

再び4号線に戻って北上。

左に朱塗りの山門。

 龍昌寺(小山市乙女)

龍昌寺だ。

人が大勢いて山門は通れないから、山門脇から境内に入る。

 境内で祭の蛇を作っている人たち

藁が散らばる中で人々が長い竹に藁を巻きつけている。

訊いたら、1週間先の5月5日に行われるジャガマイタ(蛇祭」の蛇を作っているとのこと。

人々の奇異な視線を背中に感じながら十九夜塔に近づくと、探していたものがあった。

 

見事な椀状凹みが穿たれている。

ジャガマイタは、間々田八幡神社の例大祭で、国の重要無形文化財に指定されている。

     パパの日記 http://knakamura.exblog.jp/12629226/より無断借用

では、と八幡神社に寄り道。

天平年間創立で日光例幣使も参拝というので、椀状凹みを期待したがどこにも見当たらない。

  間々田八幡神社(小山市間々田)

広い境内で、探し回るのに疲れてしまった。

 

日光街道に戻ると「東京から72㎞」の標識がある。

   間々田宿本陣跡(小山市間々田)

そこが間々田宿の本陣跡。

日光街道の中間地点だから間々田、という説があるそうだが、本当だろうか。

幕末期の記録では、宿の長さ1.1キロ、人口947人、旅籠50軒とあるという。

宿のはずれの道の両側に寺がある。

右の行泉寺には石造物は皆無。

  行泉寺(小山市間々田)

左の浄光院には本堂脇に10数基の石造物群がコの字型に並んでいる。

 

   浄光院(小山市間々田)

その中の1基にくっきりした椀状凹み。

他の石造物にはなくて何故この十九夜塔だけにあるのか。

推測だが、これらの石造物は元々別々の場所にあったのではないか。

道路拡張や土地開発などで移転を余儀なくされ、この寺に持ち込まれたのだろう。

場所と造立の趣旨が異なれば、椀状凹みもあったりなかったりするのは、当然だ。

浄光院の裏でも住民による蛇作りが行われていた。

浄光院から淡々とひたすら北上する。

 

 ー小山宿ー

小山市街に入る。

駅前の265号線辺りが小山宿の本陣跡らしいのだが、標識は皆無で全く見当がつかない。

では、教育委員会作成の説明板がないのかというとそんなことはない。

小山市街で最初に訪れた持宝寺の梵鐘には説明板がある。

 

梵鐘は小山市指定の文化財だからだろうが、無指定でも本陣跡くらい明示すればよかろう。

初めの印象が悪かったので、小山市での椀状凹み探しも熱が入らない。

訪れた順番に列挙しておく。

    

     持宝寺(宮本町3)                須賀神社(宮本町1)

 

  妙建寺(宮本町1)

 

妙建寺の石経供養塔の台座に穴がある。

太陽が真上から照りつけて陰影に乏しいから、凹みがあることが写真では分かりづらい。

 

   愛宕神社(宮本町1)                  常光寺(宮本町3)

 

  光照寺(城山町3)                元須賀神社(城山町2)

 

  天翁院(本郷町1)                 宝性院(本郷町2)

  興法寺(本郷町2)

小山の町を歩き回っても椀状凹みは見つからない。

もうこれが最後と心に決めた興法寺で やっと見つけた。

十九夜塔の台石に穴がぽっかり空いている。

 

駅へ向かうつもりで日光街道に出たら、道の向こうに鳥居が見える。

  愛宕神社(本郷町3)

「これが最後」とつぶやきながら、鳥居をくぐる。

これは何というものだろうか。

推測だが、多分、燈籠の基盤に、凹みがあった。

 

小山市街を離れること約1.5キロ。

次の宿場の新田宿よりは、まだ小山宿に近い地点に観音堂がある。

工事中で、シートに包まれて堂の全容は見えない。

 

    観音堂(小山市喜沢)            左の2基は十九夜塔、右端の地蔵が道標

堂の横に4基の石造物。

向かって右端の地蔵の台石には、右へ奥州海道、左へ日光海道と刻されている。

 

元々はここから約1キロ先の喜沢の追分にあった道標。

道標だから、誰からも苦情が出ないからだろうか、ぼこぼこに穴が開いている。

 

  地蔵の最下部の台座の凹み            蓮華座の凹み

 

ー新田宿ー

いつのまにか新田宿に入っていたらしい。

 国道4号線の日光街道新田宿場付近 向こうが宇都宮方向

もともと日光街道で最も小さな宿場だった。

町並みの長さわずか330m。

人口244人。

旅籠11軒。

地図では、板橋医院の道路の反対側が本陣跡。

写真では、信号左の屋根付き四脚門が本陣の門と見られている。

寺社もなく、薬師堂があるのみ。

     薬師堂(小山市羽川)

堂前の十九夜塔と雨引観音が唯一の石造物だが、椀状凹みはない。

 

小山市から下野市へ入る。

駅前の信号を右折するとJR小金井駅。

信号から3分ほどで小金井の一里塚がある。

この一里塚は国指定の史蹟。

下野市教委の説明板を載せておく。

 

ー小金井宿ー

一里塚から5分も歩けば、小金井宿。

本陣大越家の四脚門や道の反対側の白壁の見世蔵に往時の面影が残っている。

地図上では、4号線の「4」の字の辺り。

 

 本陣大越家(下野市小金井1)          見世蔵(下野市小金井1)

見世蔵の屋根にはブルーシートが懸けられているが、3.11地震で壊れたのだろうか。

寺社としては、将軍社参の際に休憩御座所だった慈眼寺と小金井宿の総鎮守金井神社がある。

 

 慈眼寺(下野市小金井1)             金井神社(下野市小金井1)

慈眼寺は将軍社参の際、昼休所に充てられたが、そのために「御社参前後三十日余寺明渡し(『日光社参覚書』)ている。

山門前には石造物がずらりと並んでいて、期待したが椀状凹みはなし。

金井神社の手水鉢に椀状凹みがあった。

 激しい凹み方で、一部は崩れている。

 

JR自治医大駅を過ぎると「下野薬師寺跡」の文字が目に入ってきた。

どうしようかと思ったが、2度と来ることはないので、行って見ることに。

 広大な敷地に整然と並ぶ回廊の跡。

      下野薬師寺の回廊跡

東大寺(奈良県)、筑紫観世音寺(福岡県)と共に天下の三戒壇であったというが、なるほど。

         六角堂

仏教が国家護持のためにあったことが分かる気がします。

周囲の安国寺、八幡宮、にも寄ってみたが、肝心の椀状凹みはどこにもなかった。

 

          安国寺                   八幡神社

再び国道4号線に戻る。

やがて道路の右側に松並木が現れる。

  松並木(下野市祇園)

現在は、JRの線路と国道の間に柵で囲われているが、かつては松並木の間を街道が通っていたに違いない。

だが、これが間違いだと後で分かった。

実は旧日光街道は4号線の西に並行する形で畑の中を走っていた。

日光街道は、4号線とくっついたり離れたり。

たまたま離れている区間だったのに気付かなかったのだが、ではこの松並木は何なのか。

 

夕顔橋というロマンチツクな地名は、国道4号と国道352号線の交差点。

交通の要所らしく、十九夜塔など9基の石造物が道路に背を向けて立っていらっしゃる。

     夕顔橋の石仏群(下野市下石橋)

みんなどこかから移転されてきたものらしく、台石はなく、コンクリートの上に直接置かれている。

椀状凹みは台石に穿たれることが多いから、台石がない状態では椀状凹みがあったかどうかは分からない。

 

夕顔橋から約2キロでJR石橋駅。

国道4号線と駅前通りが交差するあたりが石橋宿の中心地だった。

    石橋宿界隈(下野市石橋)

石橋宿は江戸から15番目の宿場。

町並みの長さ約600メートルに家が97軒、旅籠30軒があり、414人がいたと記録されています。

道路の向こう、車が2台停まっているのが脇本陣跡。

駅からの道と4号線の交差点角です。

 石橋宿脇本陣跡(下野市石橋)

石橋宿には、愛宕神社と開運寺があるがどちらにも椀状凹みはない。

 

         愛宕神社                     開運寺

ただし、開運寺で面白いものを見つけた。

手水鉢の縁に細長い凹みがある。

   すじ状の凹みがある手水鉢(開運寺)

どこかで見かけたような気がする、と思ったが、その通り。

このブログ「石仏散歩」のNO44「凹み穴のある石造物(東京・板橋区その1」の冒頭部分に出てくる蕨市の三蔵院の手水鉢とそっくりなのです。

  三蔵院(蕨市)のすじ状凹み

三蔵院の手水鉢は、次のような文脈の中で登場します。

これまで石造物の凹みは「盃状穴」と命名されてきたが、この手水鉢の凹みは「盃状」ではない。

「盃状穴」で括れないのだから、「凹み石」と呼びたいと提唱したのが、堀江清隆氏。

堀江氏は、『蕨市立歴史民俗資料館紀要』(2011.3)の「石造物に見られる凹み再考」でそのように提案し、私もその説に同調して「凹み穴」を使用することにしました。

しかし、開運寺の手水鉢を見たことで、私は見解を変えることにしました。

これは手水鉢の模様ではないかと思うのです。(その根拠を提示できないのは、なさけないのですが)

だから、NO55からは「凹み穴」ではなく「椀状凹み」を使用しています。

 

地図を少し下へ下げてほしい。

石橋駅があるのは、下野市。

そこから4号線をちょっと上がると下古山の信号があり、そこが上三川町との境界線。

だが、1キロも行かないうちに再び下野市に入り、さらに500mほどで今度は宇都宮市になる。

 

目まぐるしく行政区画が変わって、「どうなってるの?」

 

雀宮という地名がなんとなく好きだ。

江戸から16番目の宿場、雀宮宿は、JR雀宮からの駅前通りが4号線にぶつかった辺りになる。

栃木県に入ってからは、JR東北本線の西側に日光街道は走っているから、どこの宿場も駅の西に位置している。

インターネットで調べたら、宇都宮市がレンタサイクルを事業展開していることが分かった。

雀宮駅で借りて、宇都宮駅で返却もOKというので、雀宮宿と宇都宮宿は自転車で回ることに。

 

雀宮宿も他と同様、宿場の雰囲気は皆無。

本陣跡の石柱はあるものの、ガランとした駐車場で、趣はない。

それでも本陣跡を表示してあるだけ、ましというべきか。

4号線の反対側の黒塀に白壁の豪邸は、仮本陣跡。

   雀宮宿仮本陣跡

本陣と脇本陣では賄いきれない時の補佐役本陣だったが、こっちの方が往時の面影を残している。

東京から100キロきたことになる。

雀宮宿に寺社は二つ。

正光寺と雀宮神社。

 

          正光寺                   雀宮神社

双方に椀状凹みは、ない。

雀宮神社には、多くの言い伝えがあるが、いずれもロマンに彩られている。

その一つを紹介しよう。

長徳元年(995)、陸奥の守に任ぜられた藤原実方を追って来た妻の綾女が、この地で病死します。

彼女の持参していた宝珠を埋め、神としたのが、神社の始まり。

実方も赴任地の陸奥で死ぬのですが、その霊魂は雀となってこの地に飛来して来ます。

雀宮神社のこれが謂れ、ロマンチックな話です。

 

電動自転車を軽くこぎながら北上、薬師堂や菅原神社にも立ち寄るが収穫はなし。

 

   薬師堂(台新田1)              菅原神社(台新田1)

左手にスバルの工場が見えてきた。

   富士重工業栃木スバル(陽南1)

小学校からの友達がここに勤めていた。

退職後も宇都宮にいたが、数年前の夏、睡眠中に亡くなった。

熱中症によるものと説明を受けたが、今でも、不可解のまま。

軽く黙とうして通り過ぎる。

 

いつの間にか道路も歩道も広くなっている。

日光線を過ぎると道路が分岐している。

 不動前の追分 右、奥州街道 左、日光街道(不動前3)

不動堂がある三差路が不動前。

日光街道と奥州街道の、ここが追分。

日光街道は左へ。

日光街道最大の宿場、宇都宮宿はここから始まるのですが、それは次回に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


56 椀状凹みを探して日光街道を行く(2)幸手宿ー野木宿

2013-06-01 05:46:31 | 民間信仰

前回は、杉戸宿まで。

今回は、6番目の宿場、幸手宿から。

 ー幸手宿ー

杉戸宿に比べ、2倍以上の規模で、日光街道でも上位4番手につける大きな宿場だった。

杉戸町から幸手市に入り、4号線と別れて左へ進むとT字路にぶつかる。

 左が日光街道、右、御成街道

川口、鳩ケ谷、岩槻から来た御成道(日光参拝に将軍が通った道)が、ここで日光街道と合流する。

合流地点の道沿いに石仏墓標が列を成している。

塀の中は墓地。

椀状凹みがありそうな雰囲気だが、探しても見当たらない。

 

     神宮寺               薬師堂

神宮寺、薬師堂を左に見て、東武日光線の踏切を過ぎると、さっき別れた4号線と再び合流する。

  左、4号線  右、日光街道 手前が宇都宮方向

4号線との合流と別れは、宇都宮まで延々と繰り返されます。

道路わきの電柱にブルーテープが張ってある。

「何だろう?」と近寄ってみたら、昭和22年、台風で利根川が決壊した時の浸水の深さを表示したものだった。

宿に入ってすぐ右に神明神社。

        神明神社

江戸時代はここに高札場があった。

「たにし不動尊」と呼ばれる不動尊が境内にある。

たにしを描いた絵馬を奉納すると眼病が治ると言われているらしい。

だとすると眼医者は失業してしまう。

眼科医の友人の顔がちらりとよぎる。

ここの手水鉢に穴を穿った跡がある。

幸手駅への道を過ぎると宿場のメイン通りに差し掛かる。

 

      担景寺              常光寺

担景寺、常光寺を過ぎると問屋場跡や本陣跡など往時の賑わいが感じられる一角がある。

 

    問屋場跡の公園                  本陣跡のうなぎ屋

街道から左にそれて、幸宮神社、雷電神社へ。

 

  幸宮神社             雷電神社

雷電神社はかつての幸手領の総鎮守。

 

   雷電神社本殿                 凹みのある手水鉢

日本武尊が東征の際、ここに農業神を祀ったという記述があるのだそうだ。

広い境内に捨てられたようにある手水鉢に凹みがあった。

格式でいえば、聖福寺も負けていない。

菊の文様の勅使門がある。

歴代将軍が東照宮参詣の際、必ず休憩したからだという。

 境内は広いが無縁墓標ばかりで、椀状凹みはない。

宿場の突きあたりにある正福寺にもなかった。

 日光街道が右へ曲がる突き当たりに燈籠。

 そこが正福寺の参道入り口。

駅へ戻る途中、浅間神社に立ち寄った。

        浅間神社

寄り道してよかった。

手水鉢に椀状凹みがあった。 

 

私は幸手駅から帰宅したが、日光街道は正福寺の前を右へまがり、すぐ左へ。

一直線に北上すると権現堂堤が右手に見えて来る。

さくら堤と言われるように花見の名所。

             権現堂さくら堤

菜の花の黄色と桜のピンクのコントラストが見事です。

    ー栗橋宿ー

右手に流れる権現堂川に沿って約50分、東北新幹線をくぐり、4号線と別れて左の路を行くとそこが栗橋宿の入り口。

 

     栗橋宿南端                     焙烙地蔵堂

焙烙地蔵 は利根川の関所を通らずに渡り、関所破りとして火あぶりの刑に処せられた者を供養する目的で立てられた。

焙烙(ほうろく)は、米、ゴマ、豆などを炒る素焼きの土鍋のこと。

火あぶりの刑が焙烙で跳ねる豆に似ていたから、焙烙地蔵と名付けられた。

栗橋宿は狭い。

寺も、浄信寺、顕正寺、深広寺、福寿院と4寺だけ。

 

    浄信寺                顕正寺

 

    深広寺               福寿院

いずれの寺にも、椀状凹みは見当たらなかった。

深広寺の境内に立つ21基の六角六字名号塔は壮観だ。

 

     深広寺の六角名号塔

神社は宿本陣跡に近い八坂神社だけ。

 

       八坂神社                   神使の鯉

狛犬がいるべき場所に鯉。

祭神の素盞鳴命の像が洪水の時鯉に守られてこの地に流れ着いたので、鯉は神使となった。

広い境内をくまなく探したが、椀状凹みはなし。

栗橋宿は椀状凹みがない初めての宿場となった。

関所跡碑が利根川堤防に立っている。

    栗橋関所址碑

 本陣もこのあたりにあったらしいのだが、スーパー堤防に作り直すために、昔の面影は壊滅している。

   本陣跡遺跡発掘現場

現在、掘り返しているのは本陣跡、というのが久喜市文化財担当者の説明だった。

背後の堤防を上って行くと利根川がゆったりと流れている。

 

  利根川にかかる利根川橋           県境の表示

利根川橋の途中で茨城県の表示。

中田宿(古河市)に入ることになる。

   ー中田宿ー

昔は橋などないから、渡しだった。

川の対岸の栗橋と中田。

二つ合わせて、栗橋・中田宿と一つの宿駅とされた。

このあたりの利根川は、「房川(ぼうせん)」と呼ばれ、房川渡関所が設けられた。

通行手形を持たず関所破りをすれば重罪。

焙烙地蔵があるということは、火あぶり、磔が絶えなかったという事だろう。

利根川河畔にあった中田宿場は、度重なる河川工事のため移転を余儀なくされ、今は跡かたもない。

道路右の河川敷に中田宿はあった。

利根川橋を渡り最初の分岐を右折。坂を下りて古河市中田集落へ。

地図の228号線がその道。

 

 

移転先の現在地、古河市中田にも古い建物は皆無。

集落の真ん中を日光街道がまっすぐ伸びているばかりです。

  集落の真ん中を旧日光街道が走る

調査すべき寺社はわずか。

いずれの寺社にも椀状凹みは見当たらなかった。

 

   光了寺              本願寺            

 

 

    顕正寺             弦巻八幡宮               

栗橋宿に続いての空振り。

もしかして椀状凹みはなくなったのだろうか。

でも調査数が少ないので、そうともいえなさそうだ。

古河市の寺社に期待をかけて中田宿を後にした。

 

    ー古河宿ー

 中田宿から約7キロ、淡々と歩いて古河宿へ。

古河市の中核区域は、歴史的文化遺産を大切にする城下町。

道路も整備されて、歩きやすい。

訪れた順に紹介してゆくが、順番に意味はない。

Googleの地図を載せておく。

地図に載っていない寺社もある。

そのつもりで動かしてみてほしい。

 

 

      長谷観音(長谷町5)

長谷観音は、鎌倉、大和と並ぶ日本三大長谷観音が謳い文句。

さぞかし大きいだろうと思っていたので、小さいのに拍子抜け。

椀状凹みを探そうにも石造物がない。

 

古河市が好きな理由の一つに昔からの町名が残っていること。

平和台だとか希望が丘だとか、寝ぼけた町名はない。

         肴町

城下町の色彩濃い肴町を通り左折すると福法寺。

寺門は古河城乾門だったという。

福法寺の隣が了正寺。

  

 福法寺(中央町3-9)                 了正寺(中央町3-9)

素敵な煉瓦の門と塀があるので、写真をパチリ。

看板を確かめたら、古河第一小学校だった。

            古河第一小学校

宗願寺は古河第一小学校の生徒たちの歌声が聞こえる場所にある。

境内はあまり手を入れてないようなので、椀状凹みを期待したがなかった。

 

 宗源寺(中央町2-8)               妙光寺(中央町2-6

隣の妙光寺は日蓮宗だから、石造物は少ない。

永井寺は初期古河藩主永井家の菩提寺。

  

    永井寺(西町9)

木陰に石造物が点在しているが、椀状凹みはない。

 

頼政神社のご神体は、源頼政。

     頼政神社(錦町9)

治承4年(1180年)宇治で平家との戦いに敗れ自刃した源頼政の首を従者がたずさえて逃れ、古河に葬ったものと言い伝えられている。

社殿は、古河城最北端の土塁の上にあって、ひっそりとしている。

椀状凹みがありそうな雰囲気なのだが・・・・

 

隆岩寺はご朱印寺。

  隆岩寺(中央町1-7)

ちりひとつなく清掃されている。

椀状凹みは、ない。

 

昼食に一旦古河駅前まで戻る。

食事後、駅前の西光寺、浄円寺から回り始めた。

 

西光寺(本町1)の古河大仏       浄円寺

西光寺には古河大仏がおわす。

またもや椀状凹みは見つけられず。

古河市の寺社めぐりをしているわけではないから、そろそろいらいらし出す。

そのいらいらが次の八幡神社で解消した。

    八幡神社(本町2)の手水鉢

手水鉢に凹みがある。

 

尊勝院と神宮寺は、初代古河公方となった足利成氏が本拠を鎌倉から古河に移した際、ともに鎌倉から移って来た。

 

 尊勝院(本町1-4)          神宮寺(横山町1-1

この界隈は古河宿の中心街。

JR古河駅から西へ。

日光街道にぶつかった所が本陣跡。

 

       道路向こうが本陣跡           本陣跡石碑

 そこを右折して次の信号を左折すると右に神宮寺が見える。

ほんのちょっと先を右へ曲がるとブロック道の旧日光街道が真っ直ぐ北へと伸びている。

 

       よこまち柳通り

多くはないが、宿場の雰囲気を残す建物もある。

600メートル程進んで県道261号線と再合流する地点が古河宿の北の端。

商店が少なくて、歩いていても面白みにかける旧街道です。

宿場のはずれを左に曲がると本成寺。

 

    本成寺(横山町3-4)                 参道の無縁墓標

赤門と門前の参道に並ぶ無縁墓標のボリュームが印象的です。

境内の手水鉢には、椀状凹みがあるように見えるのだが、はっきりしないので?を付けておく。

  本成寺の手水鉢 椀状凹みがあるようだが・・・

中々目的の椀状凹みに出会わない。

次の雀神社はその昔この地方の総鎮守だったというので、期待が高まる。

  雀神社(宮前町4)

彩色の狛犬がいる。

    親子の狛犬

広い境内を丁寧に探し回ったが、椀状凹みはないようだった。 

 

古河市内を椀状凹みを探して随分歩き回った。

収穫は一か所のみ。

駅に向かう途中、これが最後と心に決めて、徳星寺に寄る。

    徳星寺(横山町3-3)

がまんのし甲斐があった。

椀状凹みを見つけたのです。

宝筐印塔に、しかも2基。

1基は、山門前左手の石造物群の中に立っていらっしゃる。

 

  山門前左の宝筐印塔

  宝筐印塔台石の椀状凹み

誰が見ても明らかな椀状凹みがある。

この、誰が見ても、というのが重要なのだ。

もう1基は駐車場の隅にあって、凹みが浅いので、誰が見ても、というわけにはいかないが、椀状凹みと認めてもよさそうだ。

 

  駐車場の宝筐印塔とその台石の椀状凹み

終わりよければ、全てよし。

駅前の蕎麦屋でビールで祝杯をあげて帰宅する。

 

初めの予定では、大きな宿場だけを調べるつもりでいた。

と、すると古河宿の次は小山宿ということになる。

その間には、野木宿と間々田宿がある。

実際には、東北本線の間々田駅で降りて、間々田宿から小山宿へ向かった。

間々田宿を飛ばして小山宿へ直接入っても良かったのだが、出来るだけ丁寧に調査したいと思ったからです。

そうすると一か所だけチェックしなかった野木宿が気になって仕方ない。

後になって野木宿へも行くことになり、結局、全宿場調査と云う事になってしまいます。

 

茨城県古河市から栃木県の南端、野木町へ。

県境を越えるとすぐ左に野木神社の鳥居が見える。

 

       野木神社の鳥居           長い参道、神社はまだまだ見えない

ものすごく長い参道の奥に本殿。

          野木神社本殿

この日は東京を午前5時半に出たので、野木神社に着いたのは午前7時だった。

誰もいないはずの境内に人の気配がする。

近寄ってみたら、みんな望遠レンズで上を覗いている。

 

  望遠レンズをのぞく人たち          樹齢600年のケヤキ

肉眼では見えないので、何をしてるのかと訊いたら、フクロウを観察しているのだという。

練馬ナンバーの車もあるから東京から来ている人もいるらしい。

物好きな連中だなと呆れたが、石造物の穴を探しに来るお前は変人ではないのかと問われると返事に窮する。

目くそ鼻くそとはこのことか。

 ー野木宿ー

地図に戻って、少しばかり上に移動してほしい。

満願寺があり、浄光院が見えるはずだが、野木神社鳥居からわずか1キロの範囲が野木宿ということになる。

「日光道中野木宿」の説明板がある。

 

     野木宿本陣跡                脇本陣跡   

説明板のある場所が本陣跡で、道路の向こうが脇本陣跡。

子孫だろうか、いずれも熊倉という表札がかかっている。

野木町教育委員会の説明板によれば、天保14年(1843)、野木宿の人口は527人。

本陣1、脇本陣1、旅籠2という極小の宿場だったという。

       野木宿メインストリート

その為、助郷が不可欠で近隣23の集落はその負担に悲鳴をあげたらしい。

満願寺と浄光寺の門前に大きめの十九夜塔が立っている。

十九夜塔は、女人講。

 

 満願寺の十九夜塔         浄光院の十九夜塔

栃木県南部は特に多く、廿三夜塔602基に対し十九夜塔1599基という調査報告(『下野の野仏』もある。

宿場のはずれの観音堂にも十九夜塔はあるが、その台石には椀状穿凹がある。

 

 観音堂の十九夜塔         台石の椀状凹み

その対面にも石造物群があるが、その中の普門品供養塔は台石が二段いずれもボコボコの状態だ。

 

  普門品供養塔               台石の凹み

松原という信号地点表示を過ぎる。

     信号「松原」

今の町並みからは信じられないが、かつてはこの辺りは松並木だった。

清川八郎という人の『西遊草』には「宿(古河)を出、十八丁にて野木宿なる弊邑にて馬をかへ、松原を歩む、並木にてきれいなり」とある。

この辺りは、石塔があれば十九夜塔と思って差し支えない。

松原から約2キロ、愛宕神社裏の観音堂脇の3基の石塔の内2基は十九夜塔。

 奥の2基が十九夜塔、手前廿三夜塔

中の1基は、よくぞここまでと感心するほど穴が深い。

 十九夜塔の椀状凹み

廿三夜塔にも椀状穿凹がある。

 

            廿三夜塔とその台石の凹み            

寺や神社の石造物を傷つけるのは気が引けるけれど、自分たちが建てた夜待塔なら、気兼ねせずに穿つことが出来るということなのか。

野木町と小山市の境界線の手前、左に法恩寺、右に友沼八幡神社があるが、その両方に椀状凹みがあった。

法恩寺門前には石塔群があるが、その中の十九夜塔に凹みがある。

恐らくどこか別の場所にあったものを移動したものらしい。

 

              法恩寺前の石造物群と凹みのある十九夜塔

寺のものではない、自分たちの、という意識がここにも垣間見られるようだ。

友沼八幡神社の手水鉢にも凹みがある。

それより気になるのは、狛犬の背中。

  友沼八幡神社の狛犬

べったり白く塗られたセメントは、背中の穴を塞いだものと見えるがどうだろうか。

 

大きな宿場だけにしないで良かった。

野木宿は、宿場としては小さいけれど、椀状凹みが沢山あった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


55 椀状凹みを探して日光街道を行く(1)日本橋ー杉戸宿

2013-05-16 05:33:58 | 民間信仰

去年の年末、第44回と第45回の2回にわたって「凹み穴のある石造物(板橋編)」をUPした。

「凹み穴」は、石仏、石碑、石塔等の石造物に穿たれた椀状または杯状の穴のこと。

 三学院(蕨市)の子育て地蔵台石の椀状凹み

「凹み穴」が誰の手によって、何時、何のために穿たれたのかは、一切不明です。

私が調べた板橋区の寺社、路傍122個所の石造物では、62基に「凹み穴」がありました。

その報告の最後に、板橋区に「凹み穴」があることは確認できたが、都内の他区ではどうなのか、千葉県、神奈川県など隣県ではどうなのか、調べた上で報告したいと結んであります。

その後、別用で訪れた寺社でたまたま「凹み穴」を見たのは、北区、足立区、荒川区、葛飾区、練馬区、中野区、文京区、品川区、大田区などでした。

埼玉県に接した北部地域が多いのですが、西部の中野区、南部の品川、大田区でも確認されて、都区内全域に「凹み穴」はあると言ってもよさそうです。

では、23区を出るとどうなっているのか。

「凹み穴」は関東ローカルのものなのか、全国的なものなのか、。

東海道か中山道を行けば、その答えが得られそうだが、残念ながら体力とお金がない。

距離が短くて問題はあるが、日光街道でその答えの一端を見出そうというのが、今回のブログの目的です。

街道をゆくのだから、スタート地点は、日本橋。

   船上から見た日本橋

写真は、日本橋川 を行く船から撮った日本橋。

江戸時代の人たちは健脚だった。

日光まで24宿を2泊3日で歩き切ったという。

でも、「あそこが痛い、ここが悪い」と毎日喚いている身としては、歩き通すことなど夢のまた夢。

電車か車で行っては、宿場の寺社を回ろうという心づもり。。

街道の宿場には、その地域の主要な寺社があるので、数は限定的でも大まかな傾向は掴めるはずです。

 

日本橋を出発、小伝馬町から江戸通りに出て、浅草橋を渡る。

(注:地図がほしいところだが、地図が入れられない。いつものことですみません)

小さな神社がいくつかあるけれど無視。

日光街道最初の寺は、何といっても浅草寺でしょう。

     浅草寺(台東区)

2012年正月のブログ「浅草寺の石碑と石仏」の為に撮った400枚程の写真をチェックするが、椀状凹みは見つからない。

でも楽観視していました。

椀状凹みは、石造物の台石に穿たれることが多く、また、手水鉢など普通は撮影の対象とはならないものによく見られるからです。(注:「凹み穴」では穴の状態が分からないので、以降「椀状凹み」を使用します)

案の定、浅草寺に着いて早速、椀状凹みを発見。

仁王門を入って右手の「濡れ仏」・二尊仏の前の手水鉢にありました。

   左 勢至菩薩         右 観音菩薩

私の身長は、165㎝。

写真の手前に横たわるのが手水鉢ですが、目線の上にあって、凹みの有無は分かりません。

デジカメを差し上げてパチリ、穴のあることを確認しました。

となれば、きちんと撮りたい。

野次馬の目を気にしながらよじ登り、見下ろして撮ったのが上の写真です。

その昔、手水鉢は地面に置かれていたのでしょう。

でなければ穴を穿つことは出来ないのですから。

 

浅草寺では、この他、2か所で椀状凹みを見かけました。

いずれも狛犬で、一つは弁天堂で、一つは浅草神社境内で。

 

  弁天堂の狛犬                     狛犬の頭の椀状凹み

なぜか、両方とも頭のてっぺんに凹みがあります。

 

   浅草神社の狛犬               向かって右の狛犬の頭

まさかこれが狛犬のデザインではないだろうとは思うのですが。

 

浅草寺を出ると言問橋西の分岐点。

ここで「待乳山聖天はどっちへ?」と訊いたら、「どっちを行っても同じ」と云われた。

    待乳山聖天

分岐点を三角形の頂点とすると、ほぼ同じくらいの地点を結んだ底辺一杯に待乳山聖天はあるから、この答えは正しいことになる。

分岐点から左の道を待乳山聖天を右に見ながら進むと南千住駅。

  

   首切り地蔵             回向院            素盞雄神社

左に首切り地蔵と回向院を見ながら行くと素盞雄神社にぶつかります。

そのどこにも椀状凹みはありません。

   ー千住宿ー

隅田川にかかる千住大橋を渡れば、日光街道初宿の千住宿。

国道4号線と別れて、旧日光街道は北千住のごみごみした町並みに入ります。

      宿場町通り

宿場通りという商店街のようだ。

 

                        横山家住宅

飛脚のタイルと商家造りの旧家が宿場の匂いを放っています。

たまたま最初に入った勝専寺に探していた椀状凹みはあった。

      六地蔵(勝専寺)

六地蔵の足元の、線香置きと供花の花瓶を乗せる石台に穴があいている。

これは幸先がいいと喜んだが、後が続かない。

  

 左が遊女の墓(金蔵寺)      千手元氷川神社        長円寺    

 

  氷川神社            安養院

遊女の墓がある金蔵寺、千住元氷川神社、長円寺、氷川神社、安養院と全て空振り。

    千住新橋

安養院から荒川土手に上がり、千住新橋を渡る。

渡り終えると国道4号線と別れ、荒川沿いに西へ。

    善立寺

善立寺というガランと境内がだっ広い寺を右折、東武伊勢崎線のガードをくぐるとあとは草加まで一直線。

環七を過ぎると国土安穏寺や鷲神社がある。

格式高い寺社だが、椀状凹みはない。

 

 国土安穏寺            鷲神社

私のお気に入りは、六月(ろくがつ)町の炎天寺。

        炎天寺

素敵な町名に個性的な寺号。

一茶が「やせ蛙まけるな一茶ここにあり」と詠んだとかで、境内には句碑と蛙の置物が多い。

石仏、石碑の保存もきちんと行われていて、椀状凹みを期待したが、残念ながらなかった。

しかし、このあと3か寺続いて、椀状凹みに出会うことになるのです。

 

   万福寺の弘法大師碑

炎天寺の隣、万福寺では「弘法大師」碑の台石が穿たれています。

右下の白い部分は穴を埋めたセメントでしょうか。

  

           常楽寺の四国八十八カ所巡礼供養塔

常楽寺では、四国八十八所巡礼供養塔の頭に穴があります。

 

    宝積寺の「南無遍照金剛」塔と台石の凹み

そして、宝積寺、門前の「南無遍照金剛」塔の台石がボコボコです。

これも修理の跡が見られます。

 

道の先に赤と白の高い煙突。

都の清掃工場の煙突だが、それを目指して進むと川にぶつかる。

東京都と埼玉県の境界線の毛長川。

橋を渡って草加市に入る。

そこから7,8分で東武谷塚駅。

駅前の浅間神社に椀状凹みがありました。

 

 浅間神社の手水鉢              椀状凹みと修理跡

手水鉢の椀状凹みはセメントで埋めてあるが、修理の跡は隠しようがないほど歴然としている。

問題は、浅間神社の隣の善福寺の庚申塔。

 

      善福寺の庚申塔と台石の浅い凹み

花立ての穴の横に白い汚れがいくつか見える。

浅い穴に埃がたまって白く見えるのだが、この穴は人為的なものなのかどうか。

こうした疑義が残るものは除外したほうがいいようだ。

 

   ー草加宿ー

やがて道が二股に分かれている。

左が草加宿への道。

  

 市役所内地蔵堂            回向院

 

      東福寺              神明社

市役所敷地内の地蔵堂、回向院、東福寺と宿場を通り過ぎて、神明宮が宿場の最北端になります。

松尾芭蕉像や正岡子規碑を見ながら、望楼へ。

綾瀬川沿いの松並木と一直線に伸びる遊歩道が見えます。

この視界には寺社は皆無。

綾瀬川を超えると越谷市に入ります。

     ー越谷宿ー

越谷市に入るとすぐに、清蔵院。

 

   清蔵院 

そこから蒲生駅、南越谷駅を越え、三つめの越谷駅まで日光街道沿いに寺社はありません。

  

     照蓮院             光明院              香取神社

宿場に入っても南端に照蓮院が、そして北端に光明院、香取神社があるだけで、宿場の中にはこれといった寺社はありません。

もしかしたら、越谷宿には椀状凹みはないかもしれないと思い始めていたその時、見つけました。

香取神社の燈籠に多数の椀状凹み。

 

        香取神社の燈籠と台石の椀状凹み

なぜかホッと一息。

北越谷駅を通り東武鉄道の踏切を越えた所に変わった庚申塔があります。

土手の向こうは、元荒川。

道路に向いて、石造物が数基立っている。

 

                     道標を兼ねた庚申塔

中の1基が文字庚申塔。

正面は、「青面金剛」で側面が道標という珍品。

道標には「左 じおんじ のじま 道」とある。

そのまま北上、再び、東武鉄道の踏切を越えると大袋駅。

駅の手前に墓地がある。

その片隅に石仏があるのに気がついた。

           大里自治会館

がらんと無意味な広がりは、寺の跡地だろうか。

平屋建ての建物には「大里自治会館」の看板がかかっている。

廃棄仏のように横たわった石造物の傍らに五輪塔や阿弥陀如来がおわす。

青面金剛の台石に椀状凹みがある。

 

         青面金剛石柱の台座と頂部の椀状凹み

台石ばかり注視してうっかり見逃すところだったが、この石塔の頂部にも、また、椀状凹みがあった。

頂部の穴といえば、大里自治会館から歩いて10分ほど北にある香取神社にも同じものがある。

 

                  香取神社の石柱と頂部の椀状凹み

鳥居の前2基の石柱の頂部には、明らかな凹み。

石柱の用途も頂部の穴の意味も、不明です。

 

並行して走っていた国道4号線と合流する。

左手はせんげん台駅だから、1,2分で春日部市に入ります。

春日部市に入っても粕壁宿は遠い。

「かすかべ」の表記は時代とともに変遷して来たらしい。

元々は新田義貞の家臣春日部氏が当地を支配したことから「春日部」の地名が生まれたが、江戸時代以降は、「粕壁」、「糟壁」が交互に使われていたという。

明治になり、粕壁に統一されてきたが、昭和の町村合併で春日部町となったというもの。

     ー粕壁宿ー

北へ進む国道4号と別れて西へと伸びる道が日光街道。

分岐点にあるのが、東陽寺。

 

     国道4号と日光街道の分岐点にある東陽寺

宿場らしい建物が点在しているが、寺社は宿場内にはない。

 

                   粕壁宿の蔵造り旧家

  粕壁宿の裏を流れる大落古利根川

宿場の西のはずれに寺町として集まっている。

              春日部市の寺町

この辺りの寺社は、以前、石仏めぐりで回ったことがある。

  

     普門院              最勝院                大日寺 

だから、保存フアイルの写真をチェックしてみたのだが、椀状凹みは見当たらなかった。

  

     玉蔵院             妙楽院                神明社

 しかし、だからと云って、椀状凹みはこの地域にはないと断言もできないのです。

興味関心がなければ、写真に撮ることもないわけで、もしかしたら、凹みはあるかもしれない。

こうしてどの寺社も、意気の上がらない二度目の訪問となったわけです。

結論から言うと9寺社回って、椀状凹みはゼロ。

写真フアイルで見た通りでした。

がっかりして帰りの電車に乗りましたが、まだ行ったことがない神社があることに気づいて、次の八木崎駅で下車。

これがよかった。

向かったのは、春日部八幡神社。

       春日部八幡神社

いくつもの境内社のなかのひとつ稲荷神社の石段の横に、とろけて原形をとどめない5基の石造物と手水鉢がある。

 

その手水鉢に椀状凹みがあった。

廃棄する予定だが、まだそのまま残してある、そうした古い石造物に椀状凹みはあるようだ。

 

次は、杉戸宿。

東武動物公園駅で下車、大落古利根川を渡って日光街道へ。

    -杉戸宿ー

大落古利根川の右に沿って日光街道が走っている

四つ角の信託銀行が宿場の問屋場(といやば)跡。

     杉戸宿問屋場跡

杉戸町には宿場跡地の説明板がないから、分かりにくい。

町おこしにこうした文化遺産を利用すればいいのに、と思う。

四つ角を右折して春日部方向へ。

来迎院、君近神社、東福寺、稲荷神社と回るが、椀状凹みはない。

  

     来迎寺               君近神社

 

 

    東福寺                愛宕神社

「これはダメかな」とやや捨て鉢な気分で向かった神明神社に、それはあった。

四隅の穴とは別に縁にもいくつか凹みがあるのが分かる。

 

                 神明神社と椀状凹みのある手水鉢

杉戸宿には、もう一カ所、椀状凹みのある場所があった。

宝性院。

         宝性院

墓地の壁に沿って無縁墓が並んでいる。

その一角に六地蔵と並んで1体の地蔵が立っていらっしゃる。

 

           地蔵菩薩と台石の椀状凹み

その台石に穿たれた跡がある。

和尚に訊いたら、以前は山門を入った場所におわしたのだそうだ。

杉戸の街中では、日光道中の文字を目にしなかったが、思いがけず、宝性寺の境内で見かけた。

道標を兼ねた馬頭観音で、「馬頭観音」も「日光道中」も惚れ惚れするようなおおらかな字。

出来ることなら日光街道に面して立っていてほしい、とこれは私の勝手な願いです。

 

次回は、栗橋宿から。

どうも日光まで、椀状凹みはありそうな気がするが果たしてどうなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


45 凹み穴のある石造物(東京・板橋区その2)

2012-12-15 07:28:15 | 民間信仰

前回は、「盃状穴」を知った経緯と板橋区の「凹み石(盃状穴)」を調べようと思った動機を述べ、板橋区の「板橋」、「常盤台」、「高島平」の3エリアの調査結果を報告しました。

今回は「志村エリア」と「赤塚エリア」。

板橋区でも石仏の多い地区です。

前回後、更に調査を続行、神社23→23(12)、寺院21→31(11)、堂16→17(5)、路傍の石仏(庚申塔、馬頭観音、地蔵など)25→48(4)、道標2→3と調査地点が増えました。

( )内は、凹み石のあるもの。

場所によっては、複数基の凹み穴のある石造物があるので、総基数は62基となった。

前回より、15基増えたことになります。

C 志村エリア

 http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27634_2.pdf

(板橋区産業経済部くらしと観光課作成の地図を借用)

1 稲荷神社(宮元町55)

 

 稲荷神社(宮元町55)           右は寛政6年(1794)造立

本殿向かって左に2基の青面金剛庚申塔。

右の小さな方の台石に凹みがある。

たまたま神主がいたので、穴の謂れを訊きたいと思い呼び止めた。

凹み穴を見てポツリ。

「こんな穴があるなんて知らなかった」。

初めて見る人に謂れを訊いても無駄なので、質問はなし。

2 南蔵院(蓮沼町48)

参道右手の石造物のなかに、弘法大師碑。

 

その台石に凹みがある。

本堂前のお地蔵さんにも見られます。

 

度重なる荒川の洪水から逃れる形で、蓮沼村が台地下からこの地に移転してきたのが、享保13年(1728)。

南蔵院も村と共に移って来た。

この地蔵立像の造立は、宝永年間だから、台地下から移って来たことになります。

凹み穴は、この地に来てから穿たれたのか、それとも移転前だったのか、気になります。

3 長徳寺(大原町40)

2基に凹みが見られる。

1基は、参道左の石仏群の最奥にある六十六部供養塔。

 

本堂側から撮影。手前が六十六部供養塔。

 六十六部供養塔台石の後ろ部分の凹み

『板橋の史跡を訪れる』によれば、もともと清水町にあって、中山道に面していたという。

もう1基は、山門の右横の石仏群にある青面金剛庚申塔。

 

 馬頭八臂青面金剛庚申塔(宝永7年・1710)

青面金剛なのに、馬頭であるのが珍しい。

この台石にも凹みがあります。 

4 常楽院(前野町4-20)

山門の両脇に石仏が多数並んでいる。

向かって右の石仏群のなかでもひと際高い笠掛け地蔵の台石に凹みがある。

 

 

延命鶴亀地蔵(安永5年・1776)

左は墓標石仏群。

     山門左に並ぶ墓標石仏群

数は多いが、凹みのある石仏はない。

墓標を傷つけない、そうした暗黙のルールがあったのだろうか。

5 熊野神社(前野町5-36)

 手水石と力石に凹みがある。

手水石はすごい。

        嘉永3年(1850)

まるで模様かと思うほど杯みたいな穴が掘られている。

27個もある。

力石の凹みも歴然としている。

しかし、こちらの力石は、どうだろうか。

中央やや右上部に1個、左上部に3個の穴があるようだが、写りが悪くてはっきりしない。

そもそも人為的な穴なのか、疑問があります。

6 西台不動堂(西台1-29)

円福寺前の坂道を下りると左に「西薹不動尊」の標石。

 

細い道を行くと急な石段があって、その上に不動堂がひっそりとある。

 西台不動堂(本尊の不動明王は、12年に一度開帳の秘仏)

堂前の手水石が凹み穴だらけ。

 

5の熊野神社の手水石といい勝負といえようか。

誰が穿ったのか、その信仰心というか情熱に感心し、呆れてしまうのです。

8 天祖神社(西台2-6)

参道脇、本殿に向かって左の燈籠に凹みが見える。

 

穴があるのは基礎の部分だが、アップにするとかえって分かりにくいようだ。

この神社には、力石があちこちに置かれている。

その内の1個に凹みがある。

これは何というものか。

 

本殿横に放置されたように横たわる細長いベンチ状の石。

凹みが点々とあるのが分かる。

9 京徳観音堂(西台3-5)

京徳は、旧小字名。

堂の創建は延享元年(1744)なのに、何故か、南北朝時代(延文6年・1361)の宝筐印塔が2基ある。

 

      京徳観音堂               南北時代の宝筐印塔

観音堂へ登る石段横に回国供養塔と地蔵立像。

 

                                        文化15年(1818)

地蔵には「西台村教徳念仏講中」と銘がある。

その地蔵の台石に穴が掘られている。

変わっているのは、石段にも凹み穴があること。

「お地蔵さんには掘る余地がないから、石段に掘っちゃえ」。

粗忽者は、いつの世にもいるものらしい。

 10 稲荷神社(若木1-13)

 

本殿横の手水石。

  安政4年(1857)

上縁前面に凹み穴がある。

お役御免のようだが、現役なのだろうか。

問題は、力石。

小さな穴が開いてはいるが、自然のものか、人為的な穴か、判断がつかない。

11 路傍の庚申塔(志村2-7)

旧中山道から相模国大山へ向かう大山道の、ここが分岐点。

道標と庚申塔が並んでいるが、道標は、店の看板が邪魔して見にくい。

無粋で無神経と批判されても仕方がないだろう。

庚申塔の台石に凹みがある。

 

 万延元年(1860)

庚申塔の左面には「これより富士山大山道」と刻まれていて、道標を兼ねていたことが分かる。

12 龍福寺(小豆沢4-16)

北区との区境に近い小豆沢の龍福寺へ。

 龍福寺は、通称「板碑の寺」。

山門入って左に3基の板碑がある。

中央の大きな板碑は、梵字の弥陀三尊板碑。

建長7年(1255)造立は、区内で2番目に古い。

板橋区有形文化財に指定されている。

目的の凹み穴は、山門脇に立つ地蔵立像にある。

 

  正徳6年(1716)

近くの深坂という場所から移転して来た、と資料にはある。

 石仏は、どっしりと存在しています。

だから、その場所に昔からあるように思ってしまうのですが、そうでない方が多いようです。

特に整然と並んでいる場合は、要注意。

開発とともに居場所がなくなり、寺に持ち込まれて並べられている石仏が少なくありません。

D 赤塚エリア

 http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27636_4.pdf

(板橋区産業経済部くらしと観光課作成の地図を借用)

1 路傍の庚申塔(徳丸5-14)

石川公園の茂みの中にある。

見つけられず諦めて帰ろうとして車に乗ったら、目の前にあった。

 

  嘉永5年(1852)

台石にも凹みはあるが、圧巻は頂部。

杯と云うよりは、お椀のような穴がボコボコ開いていて、壮観。

「左 ねりま いたばし道」とあり、道標を兼ねていたのが、ここに移されたもの。

2 路傍の庚申塔(徳丸6-6)

三面馬頭観音と並んで立っている。

だが、凹みがあるのは、庚申塔だけ。

 

  享保8年(1723)

なぜ、馬頭観音にはないのか、その辺が面白い。

2基とも、もとは北野神社参道の上り口にあったが、昭和3年に区画整理のため現在地に移転してきたという。

3 路傍の庚申塔(徳丸6-53)

民家の庭先にコンクリート壁て囲われてあるが、周囲の風景に溶け込んでいない。

 

                                        文久2年(1862)

凹みは、向かって右側面にある。

台座に「右 ねりま江戸道」と刻されていて、道標にもなっていたことが分かる。

4 大門観音堂(大門2)

まるで私が撮影に行くのを予知していたかのようだった。

手水石が、初冬の午後の射光に浮き上がっている。

 

  スポットライトがあたって、廃棄物同然の石造物も、この瞬間、光り輝いていた。

5 諏訪神社(大門11-1)

国の重文に指定されている「田遊び」の神社。

力石が3個転がっている。

その内の1個に穴がある。

6 徳丸北野神社(徳丸6-34)

鳥居の台石に凹みがある。

 

   宝暦5年(1755)

手水石にも疵のような跡があるが、凹み穴としていいものだろうか。

徳丸北野神社には、手水石が2盤あるが、これは文久3年(1863)の新しい方。

このところ、記述がそっけないのは、1記事内に全部を収めたいから。

写真と文章を意識的に簡素化しています。

7 氷川神社(赤塚4-22)

赤塚氷川神社には、手水石が三盤ある。

 明治31年(1898)、凹みがない手水石

現役は明治31年造立のものだが、他の2盤は『いたばしの文化財シリーズ「狛犬・鳥居・灯篭・手水鉢」』に載っていないので、造立年は不明。

明治時代よりは古いと思われる。

 

その2盤に、いずれも凹みが確認できる。

8 松月院(赤塚8-4)

板橋区の中で格式の高い寺の一つ。

凹みのある石造物は、2基ある。

一つは中雀門左奥の覆屋におわすお地蔵さん。

4体の内、手前から3番目の地蔵は、塩地蔵。

供えてある塩を舐めると歯痛が治ると言われているようだが、塩は見当たらないから、廃業したのだろう。

肝心の凹みは、最奥のお地蔵さんにある。

 

 元禄7年(1694)

これら4体の石仏は、もともとここにあったものではないと思われるが、どこにあったかは分からない。

もう一体の、凹みのある石仏は、参道左手にひと際高く立つお地蔵さん。

 

  享保9年(1724)

台石2段にわたって凹み穴が見られます。

 ここで疑問が一つ。

格式高い寺の石仏を疵つけて、寺は叱責しなかったのだろうか。

石を穿つのですから、寺の目を盗んでというわけにはいかない。

となると、穴を掘る行為を寺は黙認していたことになる。

寺が認めるのですから、それは単なる遊びではなく、寺も認める「有意義な行為」だったに違いありません。

では、その「有意義な行為」とは何だったのか。

「石造物の台石の上で、石でたたいたり、こすったりしたよもぎをご飯に入れて食べると、病気にならない、身体の悪いところが治るという風習」(『蕨の石造物』堀江清隆「凹みのある石造物」)

「盃状穴の習俗は古代からの呪術の一つで、北欧スカンジナビアに発生し、極東シベリア、韓国を経て仏教習合して我が国に伝来したという説もある。病気回復、子孫繁栄、五穀豊穣を願った庶民の意図といえましょうか」(『岩槻史林』中村守「岩槻の盃状穴」)

「子どもたちが野の草花を摘んでは縁石の上に置き、道端の石を拾ってその草花をコツコツとたたきながらままごと遊びに興じたその跡(しきふるさと史話)より」
「神仏を信仰する講中などの多くの人が、巡礼とか巡拝した時、信仰の確認のために石でコツコツ叩き、やがて穴になったものと思われる」(『郷土志木』井上国夫「話題の石造物の盃状穴について」)

いずれも、古くからの言い伝えや古老の話で、確たる証拠はない。

結論的には、凹み穴の目的は不明なのです。

私の調べた板橋区では、凹み穴のある石造物の造立時期は、全部、江戸時代でした。

岩槻の調査報告では、大正11年(1929)の石造物に盃状穴が見られるそうですから、凹みを穿つ行為は、近世から近代にかけて行われてきたことになります。

問題なのは、凹み石に関する文献資料が一切ないこと。

庶民の、様々な、些細な営為まで記録に残っていることを考えると、これは信じられないことです。

この文献資料不在ということにも、凹み石の面白さがあると云えるでしょう。

文献がない、と云っても、それは、凹み石についての記述を意識的に探す人がいなかったからかも知れません。

私は、古文書は読めないので、明治時代の小説などを注意して読んで見るつもりでいます。

9 松月院大堂(赤塚6-40)

 そろそろ容量が一杯になったので、凹み穴だけを載せる。

 

    手水石 延宝7年(1679)                 力石

10 三畝院(赤塚5-5)

施錠されていて境内には入れない。

門扉越しに眺めるところでは、石仏群奥の3体に凹みがあるように見える。

私のバ○○○ンカメラの3倍ズームではこれが一杯。

凹み穴に見えるがどうだろうか。

2回にわたっての「凹み穴のある石造物(板橋編1.2)はこれで終わり。

神社12(26)、寺11(23)、堂5(9)、路傍の庚申塔4(4)、計62基となった。

凹み石かどうか疑いのあるもの4個(全部力石)は除いてある。

なお、5高島平エリアは、容量の関係で前篇に載せておきます。

これで、凹み石が板橋区にあることは確認できた。

多分、横並びで埼玉県に接する練馬区や北区、足立区にもあるだろうことは推察される。

では、千葉県ではどうなのか。

千葉県に接する葛飾、江戸川に凹み石はあるのか。

さらに、都内の南限は、どこなのか。

文京区や新宿区、港区まで足を延ばして見るつもりでいる。

来春、その結果をUPする予定です。

 

参考図書

○岩槻市林NO37(2010.6)

       NO38(2011.6)

       NO39(2012.6)

○郷土志木39号(2010.1)

○蕨市立歴史民俗資料館紀要(2011.3)

○いたばしの石造文化財その1「庚申塔」(平成7年)

○いたばしの石造文化財その4「石仏」(平成7年)

○いたばしの金石文(昭和60年)

○いたばしの文化財その3「狛犬、鳥居、燈籠、手水鉢」(昭和54年)

○板橋の史跡を尋ねる(平成14年)

 


44 凹み穴のある石造物(東京・板橋区その1)

2012-11-27 16:42:23 | 民間信仰

「はいじょうけつ」と耳にして、それが何を意味するか分かる人はほとんどいないでしょう。

「盃状穴」という文字を見ても、その形状をイメージできる人は少ないはずです。

私は、写真を見て、初めて分かりました。

    『岩槻史林』37号(20106)より

写真を見た場所は、浦和にある埼玉県立図書館。

郷土資料室で資料を探している時、ふと手にした『岩槻史林』に「盃状穴」はありました。

「盃状穴」とは、石造物の基礎台に掘り窪められた、さかずきのような穴を意味します。

『岩槻史林』によれば、「盃状穴」の命名者は、考古学者の国分直一氏。

昭和55年、山口県山口市で古墳時代の石棺にある穴を見つけ、「盃状穴」と命名したのだそうです。

形状を比較的正確に表現してはいますが、学者らしい無味乾燥で面白みに欠ける命名です。

『岩槻史林』は「盃状穴」シリーズを3回にわたり掲載、1回目で岩槻には55基の石造物に「盃状穴」があることを報告し、2,3回で若干の追加と春日部、大宮など周辺地域の調査結果を載せています。

他の自治体ではどうなのか、ラックにあるいくつかの紀要をパラパラめくってみたら、ありました。

志木市郷土史研究会の『郷土志木』(2010.1)に井上国夫「話題の石造物の盃状穴について」。

『蕨市立歴史民俗資料館紀要』(2011.3)の堀江清隆「石造物に見られる凹み再考」。

どうやら、埼玉県下では、数年前から「盃状穴」が一部の人たちの間で秘かなブームになってきていたようなのです。

ブームには、乗ってみたい。

それには、実物を見ておかなくては。

と、いうことで、早速、蕨市へ。

堀江氏の「石造物に見られる凹み再考」には、蕨市の凹み石マップがついていたからです。

ところで、堀江氏は「盃状穴」ではなく、「凹み石」と表現しています。

それは「盃状穴」ではカバーできない窪みがあるという 理由からのようです。

その具体例として堀江氏が挙げるのが、三蔵院(蕨市中央2-30)の手水石。

   三蔵院の手水石 弘化3年(1846)

このV字型のすじ状の凹みは、盃状穴とは云えないでしょう。

だから私も「盃状穴」ではなく、「凹み」とか「凹み石」、「凹み穴」という言葉を使用することにします。。

もちろん、大半は盃状穴で、その典型例は、三学院(蕨市北町3-2)参道の子育て地蔵の台石。

 

  三学院の子育て地蔵(元禄7年・1694)

大小40個もの穴が穿たれています。

ところで、石で叩いてこんな穴があくものだろうか。

私の、石仏先生K氏に訊いてみました。

K氏は『日本の石仏』に「石を知る」シリーズを連載する石の専門家です。

「石の中で一番硬いのはそこらに転がっている石。長い年月、転がって、転がって磨滅した石の芯だからすごく硬い。そうした石でコツコツ叩けば、こんな穴をあけるのは難しいことではない」という返事でした。

三学院には、台石のような平面だけでなく、垂直面にも凹み穴があります。

三学院の常夜燈(元禄14年・1701)

子育て地蔵前の2基の常夜燈の竿石には、凹みが多数見られます。

問題は、これらの穴を、誰が何の目的で穿ったかということ。

その推論のいくつかは後述しますが、結論的には、目的は不明ということのようです。

堀江氏の報告で、私の目を引いたのが次の一行。

「戸田市、鳩ケ谷市、板橋区、北区などでも同様な凹みがある石造物が残されている」。

この一行に触発されて、板橋区の凹み石を調べてみることにしました。

板橋区在住の石仏フリークとして、当然の反応でしょう。

調べたのは、区内の神社22、寺院21、地蔵堂、不動堂などの堂18、路傍の庚申塔14、馬頭観音9、弁財天2、道標3。

ただし、路傍の庚申塔、馬頭観音は区内に60基以上あるので、半分以下しか調べていません。

うち、凹み石があったのは、神社12、寺院11、堂4、路傍の庚申塔1。

1か所で複数基の凹み石がある寺社もあるので、総基数47。

この報告は、47基の凹みのある石造物の写真がメインです。

論文ではないので、石造物や凹み穴の寸法は、計測していません。

造立年は判明しているものは付記してありますが、大半は不明です。

調査に利用したのは、『いたばしまちあるきマップ』(板橋区くらしと観光課発行)。

『いたばしまちあるきマップ』は「板橋エリア」、「常盤台エリア」、「志村エリア」、「高島平エリア」、「赤塚エリア」の5地域に分かれているので、この報告もエリア別にけてあります

 板橋区の凹み穴のある石造物

A 板橋エリア

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27529_4.pdf
(板橋区産業経済部くらしと観光課作成の地図を借用)

1、観明寺(板橋3-25)

本堂左手前にある宝筐印塔の塔身の下の基礎にかなり大きな凹みがいくつもある。

 

    観明寺の宝筐印塔

凹みが掘られた事由の一つに「子供が野の草花を縁石に置き、道端の石でコツコツ叩きながらままごと遊びをした跡」(『しきふるさと史話』)があるが、この基礎の高さでは、子どもの仕業とは考えにくい。

凹みのある宝筐印塔は、板橋区では、この一例のみ。

2 智清寺(大和町37)

山門を入ると左に石仏群。

      智清寺(大和町37)

小屋掛けの2体の地蔵のうち、左の大きな地蔵の台石に椀状の穴がある。

 

地蔵は8体あるのに、凹みがあるのはこの1体だけ。

理由があるのだろうが、推測の仕様もない。

これは他の寺社の場合も同様です。

本堂脇の墓地への通路左には、木下藤吉郎出世稲荷の幟がはためいている。

その社の脇に転がっている台石のような石造物にも凹みがあります。

 

 木下藤吉郎出世稲荷                 社の左に放置されたままの台石状石造物

    大小17個の穴がある台石?

これが何か、ご存じの方教えてください。

3 日曜寺(大和町42)

山門前に2基の凹みのある石碑が立っている。

          日曜寺(大和町42)

左の1基は、禁制の碑。

 禁制碑 (文化11年・1815)

「不許葷辛酒肉入門内」。

真言宗寺院で見かけるのは、珍しい。

その台石に穴がある。

実は、日曜寺は、我が家から100mくらいのご近所さん。

毎日、脇の道を通り、時には境内に入ることもあるのだが、この凹み穴には全く気付かなかった。

注意力散漫といえばそれまでだが、目が向くのは像容であり、刻文であって、台石は無視されるのが普通。

それが証拠に、1979年創刊、143号を重ねる『日本の石仏』でも凹み石の記事は一切見られない。

穴を穿つ行為は、単なる遊びではなく、民間信仰と関わりのあることにちがいありません。

そうした視点からの論及があってもよさそうなのに、とこれは外野からの感想です。

閑話休題。

右の石柱には「開運愛染明王」とある。

 標柱・道標(寛政11年・1799)

 これは、日曜寺の本尊が愛染明王だからです。

 ここにも凹み穴が見られます。

 

  標柱・道標(寛政11年・1799)

面白いのは、これが道標を兼ねていること。

左側面に「是より二丁日曜律寺」と刻されています。

元は旧中山道と愛染通りの角にあったものを昭和30年にここに移築したと『いたばしの金石文』(板橋区教育委員会)にあります。

お経なのか、呪文なのか、歌なのか、そうした言葉を発しながら石を叩く姿が、寺社の門前や境内ではなく、道端でも繰り広げられていたことになります。

4 氷川神社(双葉町43)

この神社もご近所さん。

       氷川神社(双葉町43)

某国営テレビの「紅白歌合戦」が終わって、初詣に行くと既に長蛇の列。

年年参拝者が増えているようです。

境内にある4基の庚申塔のうち最も古いものの台座に凹みがある。

 

   庚申塔(宝永7年・1710)

左側面に「右祢りま道」とあるから道標でもあったらしい。

訊いたら旧中山道と練馬道の分岐点にあったとのこと。

日曜寺の標石と同じく道端にあったことになります。

子どもが石を叩いて遊んでいたという古老の話が捨てがたくなる。

この庚申塔の真向かいにある手水石にもお椀穴があります。

    手水石(元治元年・1864)

神社の凹みのある石造物としては、手水石が最も多いので、これから続々と登場することになります。

この氷川神社には、手水石が、もう1盤あります。

稲荷社への参道傍らに捨てられたように横たわっている。

       寛政4年(1792)

縁は四辺に穴があいている。

水穴には、水ではなく、落ち葉がつまって溢れんばかり。

5 満福寺(中板橋29)

 川越街道からちょっと入った場所にある万龍寺は境内がせまく、民家風の建物があるだけ。

     万福寺(中板橋29)

門扉を開けて中に入ると右に石仏群。

 左から享保3年(1718)、正徳3年(1713)、享保7年(1722)

六地蔵の中の3体の台石に凹み穴がある。

 

上の2枚は、3体の地蔵の台石と台石をまたいで撮った写真。

土が入り、草が生えて、その上、落ち葉が塞いでいるので分かりにくいが、凹み穴なのです。

 

B 常盤台エリア

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27635_2.pdf

1 轡神社(仲町46)

戦前は、近郷近在はもとより全国から参詣者があり賑わったと資料にあるのが、うそみたいなこじんまりとした神社。

        轡神社(仲町46)

小児の百日咳に霊験あらたかと云う。

凹みのある石造物にここの狛犬を挙げるのは、問題があるかも知れません。

       大正9年(1920)

というのは、穴は開いていないからです。

しかし、穴を埋めたと思われる痕跡はあるのです。

 狛犬の台座に見える緑の修理の跡

グリーンに見える個所は、セメントで穴を塞いだ跡ではないか、そう私には見えるのですが。

もし、これが凹み穴だとすれば、重要なヒントが浮かびあがってきます。

建立が大正9年ですから、その頃まで穴を開ける風習が残っていたことになるからです。

轡神社近くの専称院前の小屋掛け地蔵菩薩の台石もあやしい。

 専称院前の地蔵(安永8年・1779)

下の写真は、地蔵に向かって左側の台石を上から撮ったもの。

台石の上にべったりとセメト状のものが塗られているようです。

この地蔵は旧川越街道と子易道の分岐点にあったものです。

こういう穿鑿を始めるときりがない。

穴でないものは全て排除したほうがいいのかもしれません。

2 西光寺(大谷口2-3)

凹みのある墓標が、ここ西光寺にある。

 

      西光寺(大谷口2-3)               百観音巡礼塔・墓標(天明元年・1781)

板橋区では、この1基のみ。

ただし、墓標ではあるが、観音百霊場巡礼塔でもあります。

墓標には凹み穴はないというのは、それなりの決りがあったからだろう。

石仏ならなんでも、穴を開けてよいということではなさそうだ。

3 氷川神社(大谷口上町89)

 神社の石造物で、凹み穴が多いのは、手水石と力石。

「岩槻の盃状穴」の調査では、全数55基の内、22神社に、手水石13、力石15と、この二つが断然多い。

板橋区は、それほど多くはないが、手水石は6神社に6、1堂に1の計7盤、力石は7神社に7個ある。

大谷口の氷川神社には、手水石と力石の両方に凹みがみられます。

 

                                 天保8年(1837)

  4 長命寺(東山町48)

環七と川越街道の交差点角に寺はある。

 

 墓地への通路右側に石仏群。

その手前3体の地蔵、それぞれの台座に凹みがあります。

 

   地蔵菩薩 (享保5年・1720)        左の地蔵の台石

 

 地蔵菩薩(正徳5年・1715)

 

 地蔵菩薩(宝永8年・1711)

地蔵の銘に「長福寺」とあるので、宝永年間より前に、なんらかの理由で寺名が変更されて「長命寺」になったものと思われます。

5 氷川神社(東新町2-16)

板橋区内には氷川神社が7社ある。

その内の1社。

      氷川神社(東新町2-16)

広い境内の片隅にある資料館前に力石が6個。

一番手前の力石に凹みがあるが、やや小さい。

しかし、奥の列の真ん中の石の凹みは明らかです。

E 高島平エリア

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27637_4.pdf

本来なら次回「凹み穴のある石造物(東京・板橋その2)」に載せるべき「高島平エリア」ですが、その2の容量が大きくなりすぎるようので、変更して、こちらに追加しておきます。

高島平には、寺社はわずか。

凹み石があるのは、蓮根の氷川神社1社だけです。

1 氷川神社(蓮根2-6)

鳥居をくぐると左に石のベンチがある。

江戸時代には何て呼んだのだろうか。

 

ベンチは、ボコボコと穴が開いていて、いかにも座り心地が悪そう。

御嶽社を祀る溶岩塚には、力石が5個はめ込まれています。

 

その1個に凹みがあるが、穴は一つだけ。

3盤ある手水石の内、2盤に凹み穴があります。

 

写真左の手水石には、お椀状穴に加えてすじ状の掘り込みがあります。

高島エリアの凹み穴のある石造物は、これで全部。

 「志村エリア」、「赤塚エリア」は次回、12月16日にUPします。

それまで、回り損ねた石造物探索をして、少しでも完成度を高めるつもりです。

 

参考図書

○岩槻市林NO37(2010.6)

       NO38(2011.6)

       NO39(2012.6)

○郷土志木39号(2010.1)

○蕨市立歴史民俗資料館紀要(2011.3)

○いたばしの石造文化財その1「庚申塔」(平成7年)

○いたばしの石造文化財その4「石仏」(平成7年)

○いたばしの金石文(昭和60年)

○板橋の史跡を尋ねる(平成14年)

 

 

 

 

 

 

 

 


26 石工の想像力は自由に羽ばたいたかー疱瘡神像編ー

2012-02-23 09:23:59 | 民間信仰

「疱瘡神」は「ほうそうしん」ではなく「ほうそうがみ」」と読む(らしい)。

天然痘がこの世からなくなって30年余、いまや「しん」か「がみ」どころか、「疱瘡」を「ほうそう」と読むこともできない世代が多数になりつつある時代となった。

そういう現代にあって、「疱瘡神」が厳然と存在する世界がある。

石仏、石造物の世界である。

その昔、破格の感染力と致死力(40%)で、疱瘡は人々を恐怖に陥れた。

文久2年(1862)の麻疹(はしか)の大流行による江戸の死者は、26万人。

ちなみに江戸最大の火災、明暦の大火(1657)での焼死者は約10万、関東大震災約6万、昭和20年3月10日の東京大空襲、推定10万人と比べてもその大量死はけた外れの規模だった。

それは悪鬼の為せる業だと誰もが恐れた。

悪鬼を「疱瘡神」として見たて、村境に「疱瘡神」塔を建てて、村に入って来ないように念じた。

入って来た「疱瘡神」は、すべからく出てゆくように追い払いの儀式を行った。

「疱瘡神送り」で検索したら、大和郡山在住のご夫婦のサイトに「疱瘡神送り」を再現した写真があった。

 大和郡山市の「疱瘡神送り」

『民間信仰辞典』には、こう書いてある。

「大阪地方では赤飯の握り飯をつくり、それを桟俵に載せ、赤い弊帛を立て、蓮根などを供えて道の辻に送り出す」。

その写真の隣には、上田市立博物館の企画展で展示された「疱瘡神送り」の写真がある。

 長野県上田市の「疱瘡神送り」

いずれも朱色が目立つが、これは「疱瘡神」が赤を嫌うという伝承があるためで、「疱瘡

神除け」のお守りは赤一色のものが多い。

「疱瘡神」塔は全国各地に見られるが、ほとんど文字塔であることが共通点。

  神明神社(野田市)

埼玉県にも89基の「疱瘡神」塔があるが、全部文字塔ばかりである。(『石仏雑記ノート1』石川博司)

  下之氷川神社(志木市)

志木市には疱瘡で亡くなった子供の墓標がある。

 疱瘡で死んだ子供の墓。左上部は賽の河原の子供二人。

「疱瘡」の「疱」という字が辛うじて残っているが、これは法名の「疱維童子」の一部。

上部の浮彫は、賽の河原で石を積んでいる子供だというが、軟石のため像が崩れて不鮮明。

江戸期、夭折はそれ自体が親不孝とみなされ、墓を建てることも少なかった。

疱瘡に子供の命を奪われたことが、施主田中源佐衛門には心残りだった。

不条理な災難を忘れないための、これは怨念の墓標なのです。

本題に戻ろう。

全国の「疱瘡神」は、ほとんどみんな文字塔だと書いた。

だが、物事には必ず例外がある。

茨城県取手市には、なんと「疱瘡神像」塔がある。

しかも複数個あるのだ。

 疱瘡神像塔(水神社・取手市)

取手市は利根川に接している。

この利根川下流は、こと石造物についていえば、地方色豊かな特異地域と言って差し支えない。

千葉県東部の東総地方には、赤子を抱いた観音さまの子安観音が多い。

子安観音(賢徳寺・銚子市)

東総は、馬に乗った馬頭観音の分布地帯でもある。

馬乗り馬頭観音(路傍・銚子市)

ちょっと上流の野田市は、猿田彦像の密集地帯として有名だ。

猿田彦像(須賀神社・野田市)

取手市の疱瘡神像も利根川下流の特異石仏の一つと言えよう。

『取手市史(石造遺物編)』によれば、疱瘡神像は20体。

(注:藤代町と合併したので、現在は25基ということになる)

 造立は1710年から1890年までの180年間。

中心は1800-1830の文化・文政期だった。

造立主体は、女人講中。

疱瘡が子供のかかりやすい病気なので、母親の願いをこめて造立されたものと思われる。

なぜ、取手市に「疱瘡神像」塔があるのか、その理由は定かではない。

文字が読めない人たちから像塔要求が強く出されたのだろうか。

「馬頭観音や弁天様には石像があるのに、なんで疱瘡神には神像がないんだ?」

「疱瘡神像」の注文を受けて、石工たちは頭を抱えたに違いない。

馬頭観音や弁財天は仏像だ。

仏像には儀軌(お手本)があるから刻像は問題ないが、「疱瘡神」には儀軌はない。

「疱瘡神」はどんな姿をしているのか、石工は何人もの神官や住職に訊いたはずである。

だが誰もはっきりした姿を提示できなかった。

では、石工はどうしたか。

彼の出した結論は、その作品にある。

見てみよう。

 取手市最初の疱瘡神「浅間神社」    2番目「鹿島神社」(安永5年・1776)
(享保4年・1719)

 ①しめ縄の上に左は「疱瘡神」、右は「疱瘡守」の文字。

②男女神坐像。右の男神は右肩に幣束を、女神は徳利を持っている。

③右は赤く彩色されていた痕跡がある。赤は疱瘡神の特徴的な色。

二つの作品は細部こそ違え、雰囲気はよく似ている。

石工の頭には、下のような道祖神のイメージがあったのではなかろうか。

  双体道祖神(群馬県六合村、現中条町)

「疱瘡神」は疫病神である。

疫病神が入らないように村の入り口に「疱瘡神」塔は立てられた。

つまり、「疱瘡神」は塞の神でもあった。

塞神(さいのかみ)と言えば、道祖神、それも双体道祖神を誰もが思い浮かべるに違いない。

石工が「疱瘡神」として男女神を取り入れても不自然ではない訳が、そこにはあったことになる。

 

 3番目に古い「青龍神社」(寛政11年     4番「屋敷集会場」(文化2年・1805)
 1801)
 19世紀初頭のこの二つの「疱瘡神像」塔は、同一石工ではないかと思うほど構図が似ている。

男神は立ち、女神は座っている。

男神が幣束を持ち、女神が徳利らしきものを持っているのは、1,2番と同じ。

4番の中央に「三玉大明神」の文字。

「三玉大明神」とは、岐阜県大垣市の浄土宗「大運寺」で生まれたお狐様のことで、その神体に疱瘡除けの秘法が書かれているとのことから、日本各地から信仰を集めたと言われている。

5番、「鷲神社」(文政6年・1823)     6番、「鹿島神社」(天保3年・1862)

5番、6番は再び坐像に戻って、文字の台石の上に座している。

しめ縄があるかないかだけで、構図も雰囲気もよく似通っている。

取手市の「疱瘡神像」塔のうち、設立年が分かる塔だけを並べたらこういう結果になった。

偶然かも知れないが、年代が近接する二つの像が酷似しているというのは面白い。

後者が前者をまねたのではなかろうか。

ところで全体に共通したことがあるのだが、それは下の2体の双体道祖神を見てから触れることにしたい。

  長野県塩尻市                  長野県安曇野市

お分かりだろうか。

双体道祖神は男女仲好く頬を寄せ合い、手を取り合っているが、「疱瘡神像」塔はいずれも男女が離れていて、よそよそしい。

恐ろしい天然痘から村の人たちを守るという重大な使命の前には、いちゃついた男女神は不似合いだと、これは石工の倫理観のなせる業だと思いたい。

命題は「石工の想像力は自由に羽ばたいたか」であった。

儀軌がないのだから、もっと奔放に想像をめぐらしてほしかった、と思う。

悪鬼なのだから、鬼のバリエーションもあったのではないか。

それよりももっと空想の神がいい。

仕事人から芸術家になれるチャンスが彼にはあったのに、残念なことだった。

わき道にそれるが、取手市には東京芸大がある。

芸大の学生による「疱瘡神像」コンテストをやってみてはどうだろうか。

町おこしの一助になりそうな気がするのだが。

 

ところで女神が持っている徳利はどういう意味なのだろうか。

琉球には次のような歌がある。

「歌や三味線に踊りはねしちゅて清(ちゅ)ら瘡のお伽遊ぶうれしや」

「歌や三味線につれて踊ったりはねたりしながら疱瘡神のお相手をして遊ぶのはうれしい」という歌で「清(ちゅ)ら瘡」は「疱瘡神」を意味している。

琉歌には、疱瘡神だけをまとめた冊子があるくらい、沖縄の人たちの疱瘡への関心は高かった。伊計島では、疱瘡神を迎える宿を決め、夜伽して疱瘡神をもてなし、病が軽くすむように祈願し、流行期をすぎると、浜辺に豚の頭を供え、疱瘡神を送ったという。『日本の神々(谷川健一』より。

茨城県岩間町の年中行事の4月の欄には、つい近年まで、疱瘡囃子という行事があった。

種痘を受けた子供の家で太鼓をたたいて種痘が根付くように祈る行事だったそうだが、これは江戸時代の疱瘡祝とどこか似ているところがある。

疱瘡祝は子供が3歳になった時、疱瘡にもかからず無事成長したことを祝う儀式だった。

年々派手になる疱瘡祝を苦々しく思っているお上が出した触書がある。

「婚礼、出産、疱瘡祝の節村中男女集り分限不相応の賄いを費し候儀仕らず候様、縁者或は組合等ばかり相寄り万事手軽に取計い申す可き事」(「大藤家文書」茨城県谷田部町)

質素倹約令を出さなければならないほど、疱瘡祝は盛大に行われていたようだ。

牛久町の代々名主を務めてきた某家には、「文久二年疱瘡祝諸掛入用帳」なる文書が残されている。

「一 四百文 酒代 一 三百文 すし代(略) 惣〆金 三両壱分三朱ト三百四十四文」とある。(『茨城の民俗23号』)

疱瘡神は疫病神だから、「触らぬ神に祟りなし」が基本であった。

「瘡も触らなければうつらず」である。

しかし、疱瘡に罹らなければ、盛大に疱瘡神にお礼をのべた。

お祝いに酒はつき物である。

女神が徳利を持っていて何の不思議はないのです。

 

今回、「疱瘡神像」塔を求めて3回取手市に行った。

小文間という農村地帯を歩いていた時、ぽつんと佇む道標に出会った。

東西を走る国道に北からの農道がぶつかる所に道標はあって、「右 成田山 左 取手町」と表示してある。

石碑のメインをなすのは「開運不動明王」の文字。

その上に「麻疹」「疱瘡」の2文字が見える。

「麻疹」と「疱瘡」にご利益のあるお不動さんがこの近くにあることになる。

寄り道してみた。

3,400m先の坂道の途中に「大聖寺」はあった。

無住の寺で聞くべき人もいないので、「麻疹」と「疱瘡」に関わる痕跡を探したが、見当たらなかった。

国道に戻る途中、畑仕事をしているご婦人に声をかけた。

「あのお不動さんのことですが・・・」

「ああ、あれははしか不動といって、昔は大勢の人がお参りにきたもんですよ。私も子供のころはよく親に連れてこられました」。

腰を曲げて作業をしながら、こちらを見ることもなく、ご婦人ははしか不動の思い出話をポツンポツンとする。

もう、とうに忘れ去って思い出すこともなかったのに、きっかけを与えられて、記憶がどこからともなく蘇って来たかのように。

疱瘡とか麻疹は、今やそんな位置づけなんだなと改めて気付いたのでした。