石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

135徳本行者と名号塔⑨花押と道歌

2018-06-24 08:36:37 | 六字名号塔

六字名号塔には、普通、六字の下に、サインと花押がある。

徳本名号塔のサインは、縦に読みやすく「徳本」。

その下の花押は、〇に十字を切ったような形です。

この花押について、徳本本人は「鬼殺す心は丸く田のなかに南無阿弥陀仏と浮かぶ月影」の歌が元歌だと説明していると云われています。

これは、鬼の字の冠の部分の田を丸くし、下部の脚を心に変えて、田の中に入れたもの。

澄み切った心で称名する様子を表していると『平塚の石仏』は、解説しています。

「鬼殺す・・・」の歌もそうですが、市井にあって、阿弥陀仏の信仰を分かりやすく教えるのに、徳本行者は、歌を多用しました。

説法において、あるいは画讃として、生涯詠った道歌(道徳歌)は、約1500首。

その平易で直截な内容は、単刀直入に庶民の心に迫り、教化の力となりました。

その道歌の全ては、阿弥陀仏賛歌であり、念仏賛歌でした。

舟はかじ 扇は要 往生は 南無阿弥陀仏と決定(けつじょう)の心

三心も4修も五念も 南無阿弥陀仏 申斗りて 往生ハする

唯申せ よろづの罪は ふかくとも 南無阿弥陀仏に かつ罪はなし

 行者にとって阿弥陀仏は、絶対的存在で、阿弥陀仏を慕い、ひたすら声高にその御名を唱えるのでした。

物知るも 知らずも俱に 隔てなく 救ひ玉ふや 南無阿ミた仏

一筋に 南無阿ミた仏を 唱れば 十方法界 ミだのふところ

阿弥陀仏憧憬の念は、阿弥陀仏を恋人に見立てる恋歌にもなります。

長閑なる 霞の衣 春ハ着て 思ひハ阿ミた 恋は極楽

阿ミた阿ミたと 恋する身にハ 胸に仏の たえまハなひそ

恋人の阿ミたに 惚れてそやされて 連て行そよ そへつ極楽へ 

 「恋人の阿弥陀」なんて、まさに徳本行者の独壇場。

他のどんな上人や祖師たちも想像もつかないこの独特表現は、庶民の心にぐっと刺さって、化益に役立つのでした。

大衆受けするとなれば、卑猥な表現もいとわないのが、徳本流。

徳本が産れ故郷を御尋か 臍の下なる ししか谷なり

念仏は雪隠に居心持 綱にすかりて 息つめはよい

阿弥陀仏を讃え、念仏を勧めるとはいえ、まじめなものばかりではない。

我は只 阿ミた阿ミたと こふれ共 弥陀は唖かよ 物言てくれぬ

無理な事 絵仏木像ハ物いはぬ ただまうさんせ 阿ミた仏々

「弥陀は唖かよ」などという表現は、大衆のハートを射抜き、日課念仏へと人々を導いたのでした。

念仏は 南無阿弥陀ぶと 申さんせ 夫が本願 ほんの念仏

口さきで あミた仏々いへハよい 心なくして いはれるものか

阿弥陀仏賛歌ばかりではく、人の道を教え諭す歌もある。

我か事を云われて 腹が立ならハ 我人言を言ふな語るな

八百の 虚言を上手に並へても 誠壱ツに叶ハさりけり

身ハ軽く 勤ハ堅く 気ハゆるく 食細くして 身こそ安けれ

こうした道歌を、徳本行者は、説法の流れと趣旨に併せて、即興で詠ってみせた。

寺の住職と云えば、輿に乗る人というイメージの時代、雪隠まで比喩に用いて、俗に徹した徳本行者の説法は、とにかく大人気。

どっと笑いの輪が生じて、阿弥陀様を崇め、念仏に誘う説法の場だとは思えない砕けた雰囲気に会場は包まれていました。

≪参考図書≫

◇平塚市博物館『平塚の石仏』平成26年

◇中野尅子『徳本行者』増上寺出版 1978

◇岡村庄造「名号塔の知識⑤徳本弟子および類似名号書体 『日本の石仏』NO137 2011

◇戸松啓真ほか『徳本行者全集』全6巻 山喜坊仏書林 昭和50年ー55年


135 徳本行者と名号塔ー⑧徳本と佐渡

2018-06-17 17:02:49 | 六字名号塔

プロフイールにあるように、私の故郷は、佐渡。

加齢とともに望郷の念は募るばかりで「佐渡」の二文字を目にすると、すぐそこにズームインしてしまいます。

文化13年の徳本行者の信州・上州化益(けやく=人々を教え導いて仏道に入らせること)の旅の記録『応請摂化日鑑』をパラパラとめくっていたら、「佐渡大安寺」が目に飛び込んできた。

文化13年6月12日、信州〇〇に滞在、いつものように近郷近在からのご請待の願いの返事、途切れることのない信者たちへの対応の一部始終が記録される中、

佐渡大安寺へ本仏申上、唐紙壱枚之名号被下候、大安寺歓喜踊躍三拝して頂戴、即剋念仏講中取立百壱人、講中出来即名面帳差出

 佐渡相川の大安寺は、初代佐渡奉行・大久保長安の創建で、浄土宗。

相川の港を一望する一等地の斜面に立つ巨刹です。

寺の檀徒が結集して、講を組み、かねてから徳本名号札授与を願い出ていたものが認められた。

「歓喜踊躍三拝して頂戴」に、はるばる佐渡から来て、願いが叶った歓びが手に取るようにわかります。

更に徳本行者が信州から越中富山に足を延ばした8月19日、今度は「佐州」の文字が・・・

佐州羽田町若林忠三右衛門、村田七兵衛母さの、清右衛門右三人信州より富山江、相廻り当地迄罷出御待申上、

徳本行者は事前に請待の願いのあった者しか会わなかった。

当然面会を拒絶された佐渡の信者たちは、徳本行者の後を追って、富山まで来て、先回りして宿泊地で行者の到着を待っていた。

徳本行者も彼らの熱意にほだされて、会うことにする。

佐渡相川忠右衛門、同所七兵衛母さの、貰金水さらし、葛粉一袋ツ々御供養、今度三人之者御高髪剃願申上願出候、清右衛門共三人六万称相願、

三人はそろって、日課念仏6万遍の実践を行者に誓うのでした。

さらに

佐州河原田浄念寺講中名号を相願、

これは事前に文書で願い出ていた為か、その場で

忠三右衛門へ相渡ス

と名号が手渡されます。

そして5日後、糸魚川で徳本行者と別れて、一行は佐渡へと旅立ちます。

佐渡相川忠三右衛門江三人取名を相渡ス、難有之旨御請申上る、

七兵衛母明日之出立無覚束旨申聞候

 

写真フアイルで浄念寺(佐渡河原田)を探す。

あった。

山門入口の右手に徳本名号塔が立っている。

浄念寺は天正年間、木食弾誓上人がほんの一時期、修行していた寺でした。

佐渡からの4人は、そのことを徳本行者に話しただろうか。

木食弾誓を心の師と仰ぐ徳本行者にとって、弾誓の足跡が遺る場所は聖地であり、一度は訪れてみたい場所だったに違いないからです。

大安寺の講中に与えた名号を彫った石塔は、今、大安寺にはありません。

しかし、相川の水金遊郭跡地の先にある元専修寺境内に残る名号塔が、ほぼ唐紙一枚に相当する大きさで、信州で授与された名号札を彫ったものと思われます。

大安寺の関係者に与えられたものが、なぜ、遊郭跡地にあるのか、理由は不明ですが・・・

念仏の島佐渡には、六字名号塔が数多くありますが、徳本名号塔はこの2基だけ。

(と、断定は軽率ですが)

偶然その来歴が分かって、嬉しいことです。

≪続く≫

 

 

 


135 徳本行者と名号塔ー⑦平塚市の場合その4-

2018-06-10 12:10:21 | 六字名号塔

今年の桜は、早かった。

しかし、金目観音へ行った3月19日、寺の前を流れる金目川両岸の桜は、まだ、開花していなかった。

金目観音は、坂東三十三観音の第7番札所なので、以前、参詣したことがある。

徳本名号塔が2基、金目観音にあると資料で知り、写真フアイルを探すも、見つからない。

写真を撮るのは、被写体に関心があるからで、徳本行者について全く無知だった8年前の私が徳本名号塔にレンズを向けることがなかったのは、至極、当然のことです。

223cmの自然石の中央に南無阿弥陀仏と刻んだ徳本名号塔は、観音堂の左手、広いコンクリートの台座の上にゆったりと立っています。

その真裏の石柱は、前回紹介した徳本上人百回忌供養塔。

立派な徳本名号塔と百回忌供養塔が、ここ金目観音にあるのは、大会(おおがい)念仏西組の、初め念仏の寺だったからです

持参資料には、寺にお願いすれば、大会念仏の諸道具を見せてもらえる、とある。

社務所でその旨お願いする。

応対してくれたご婦人の答えは、しかし、「道具は、ここにはありません」。

徳本行者座像、六字名号掛け軸。鉦、太鼓などの諸道具は、西組のどこかへ運ばれたまま行方不明だというのです。

 

それならば、と西組「しまい念仏」の寺、土屋の大乗院へ。

 

西組は、初大会(はつおおがい)を金目観音で行い、北金目、真田、大根、本町落合など在家の家々を月ごとに回って、1年の最後の「しまい念仏」を大乗院で行った。

         大乗院(土屋)

戦前には、200名を超える講員がいたが、今はほぼ絶滅。

大乗院だけで、細々と念仏をあげるだけになっています。

お彼岸で多忙な住職に訪問の意図を告げると、諸道具は保管してあるとの返事。

快く見せてくれた。

真新しい本堂の左廊下の突き当りに、徳本行者が座しておわします。

天蓋に隠れてお顔は見えにくい。

住職が抱えてきた箱には、掛け軸が何本か入っている。

50代位だろうか、住職が、その意味をご存じない掛け軸もある。

大会念仏も年に1回、本堂でささやかに行うだけで、最盛期のことは知らないという。

徳本行者を描いた絵のある掛け軸もある。

これは、大会念仏の幟。

「大正拾五寅年吉日 中郡西組講中」とある。

十三仏の掛け軸も。

「道具は行方不明」と金目観音のご婦人が云った、その道具一式がこれ。

はじめ念仏の寺が、しまい念仏の寺に電話一本かけさえすれば、道具のありかは確かめられたのに。

それさえもなされなかったというのは、大会念仏は無関心のまま放置されて、すっかり過去の遺物となってしまった、とことになります。

≪続く≫

 

 

 


135 徳本行者と名号塔ー⑦平塚市の場合その3-

2018-06-03 05:42:29 | 六字名号塔

平塚には、徳本念仏講ではあるが、平塚にしかない「大会(おおがい)念仏」という独特な念仏講がありました。

「大会念仏」は、平塚地区を東西南北4つの地区に分け、それぞれの地域で盛大に行われてきました。

宗源寺は、「大会念仏」仲組の中核寺院として知られています。

④宗源寺(纏)

寺の山門横に徳本名号塔。

大会念仏仲組の拠点寺ですから、当然でしょう。

仲組には、徳延村を中心に30か村が組織化されていました。

毎年、1月19日に宗源寺で「初念仏」を行い、徳本行者の座像と念仏諸道具を大八車に載せて、次の村に向かいました。

  大会念仏の徳本行者座像(宗源寺)

こうして次々と村を回って、10月19日に宗源寺で「しまい念仏」を執り行って、大会念仏1年の行事を終了します。

   徳本講ではない念仏講の諸道具(平塚市博物館)

 

昭和50年代まで行われていた大会念仏も、次第に衰退し、今では、1月の初念仏だけが、ひっそりと行われるだけです。

宗源寺の徳本名号塔の注目点は、碑裏の刻字。

「五十回遠忌」と刻まれています。

平塚市には、この他、百回忌供養塔が、金目観音にあります。

このブログ「徳本行者と名号塔」の1回目は「江戸の流行神」でした。

徳本人気は、その騒がれ方が異常で、江戸の流行(はやり)神と云って差支えないと私は、断言しました。

そして、流行神には、「はやれば、すたる」という特徴があって、人気がかげるのも急速であることも付け加えておきました。

「五十回忌」や「百回忌」の供養塔があるということは、徳本行者は、流行神などではないということになります。

一過性の流行どころか、徳本念仏信仰は、地域に浸透し、長い生命力を持ち続けていたことを2基の供養塔は証明していると言っていいでしょう。

徳本人気は流行現象だったと決めつけたことは誤りであった、とお詫びして訂正しなければなりません。

 

宗源寺の墓地にも、2基の徳本名号墓塔があります。

吉沢家の墓域にくっつくように立つ墓は、一つは称善、もう1基は香雲の墓石。

二人とも、徳本行者の弟子です。

称善は、前回のバス停横三叉路に立つ巨大名号塔の願主として、刻されていますが、大会念仏の組織化に助力し、徳本名号塔の造立を積極的に勧めたことで知られています。

徳本行者の説教を聞いて感激した称善は、弟子入りを願うも徳本に聞き入れられませんでした。

自らの熱心さを示すため、男根を切り落として、再び、願い出たという熱血漢。

どれほどの高弟だったかというと、小石川一行院で行われた徳本行者七回忌の法会に、相模の代表として参列を許される、それほどの高弟だったと云われています。

≪続く≫

 

 

 

 

 

 


135 徳本行者と名号塔ー⑦平塚市の場合その2-

2018-05-27 05:44:34 | 六字名号塔

前回は、平塚市最古の徳本名号塔として、大松寺の3基の名号塔のうち中央の石塔を紹介しました。

     大松寺の徳本名号塔3基

市内最古は、文化13年(1816)造立ですが、翌年の文化14年造立の名号塔が2基あります。

②海宝寺(幸町)

基台を含めての380cmは、市内最高。

六字の文字だけでも93cmあり、これもトップクラス。

講の人数が多かったことを物語っています。

③路傍(徳延304バス停傍)

 三叉路の角に3基の石造物。

お地蔵さんを挟んで、両側が徳本名号塔で、向かって右、背の低い石塔が、文化14年のもの。

写真では、刻字が読みにくいので、採録しておくと

石塔正面「南無阿弥陀仏 徳本(花押)」

台石「当所 念仏講中 世話人
   文化十四丑ノ天十二月吉日
   願主 根誉称善法子

願主として名前がある根誉称善は、ここ徳延村の者で、数多い徳本行者の弟子の中でも高弟と云われる人。

平塚に徳本行者が3回も教化して回ったのは、根誉称善の地元だったから。

この名号塔の他にも、根誉称善を願主とする石塔はいくつもあります。

左の名号塔は、天保3年(1832)造立で、「毎月大会御念仏供養塔」と刻されています。

「大会」は「おおがい」と読み、この地域独特の大掛かりな徳本念仏講の活動形態のこと。

組講中として29か村の村名が刻されていますが、行政村を超えて、多くの村の村人たちが、信仰を通じて結集していたことが分かります。

蛇足を付け加えれば、この石塔の台石には、ボコボコと盃状の穴が開いています。

盃状穴については、以下のブログをご覧ください。

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=0ce43de9227393b5421eb0d968bf2e02&p=9&disp=30

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=2407158064cb1d896350455749ba9642&p=9&disp=30

 ≪続く≫

 


135 徳本行者と名号塔⑦ー平塚市の場合その1

2018-05-20 05:42:30 | 六字名号塔

平塚市には、市の規模に不釣り合いな、立派な博物館があります。

展示も見ごたえがありますが、特筆すべきは市民ボランテイァによる調査活動とその報告書。

中でも、平成26年発刊の『平塚の石仏』は、出色です。

ボランティアにより確認された石仏の数は、3058基。

そのすべてをベースに、地域、年代、種類別に分類し、解説をつけた労作です。

勿論、徳本名号塔にもページが割かれています。

徳本名号塔は市内に28基あり、このうち浄土宗の寺に13基あります。県内の市町村のなかでは最も基数が多く、本市に特徴的な石仏といえます」。

徳本流布教の特徴は、講の人数の多寡によって、与える名号札の大きさを変えることにありました。

大きな名号塔の石塔があるということは、その地に多数の信者を要する徳本講があったことの証です。

平塚市には、とりわけ大きな念仏講が、3つもあり、「大会念仏(おおがいねんぶつ)」と称されて、昭和の時代まで活動していました。

平塚市は、相模地方で、最も徳本講が流行した地域だったのです。

ここでは、市内の9基の徳本名号塔を取り上げ、平塚市での徳本念仏講の活動を見てゆきます。

①大松寺(幸町)

徳本名号塔が3基並んでいる。

3基もあるのは、ここだけ。

特に中央の石塔は、文化13年(1815)の造立で、市内最古。

徳本行者は、文化12,13,14年と立て続けに相模を巡錫、化益して回り、大松寺は宿泊所だった。

行者が来る前に、名号を彫った石塔を用意して、徳本行者に開眼してもらう習わしだったから、この塔も行者は見たことがあるはずです。

この石塔には、もう一つ特徴がある。

それは、四面、それぞれに南無阿弥陀仏が彫られていること。

徳本名号も小さな部分では、違いがあることが見て取れる。

≪続く≫

 

 


135 徳本名号塔-④徳本行者の教化活動その2-

2018-05-13 05:47:15 | 六字名号塔

徳本行者は、まず、日課念仏の意義について話します。

皆、誰でも死ねば、必ず、閻魔王の裁きを受けて地獄へ行かねばならぬ。しかし、今、私が授けるところの念仏を申したならば、閻魔王の前へはやらぬ。地獄へ落とさせはせぬ。日課とは、今日より命終わるときまで、休むことなく念仏を唱えること」と語った後、ひときわ声高く

念仏は弥陀の本願にして諸仏の証誠、釈迦の付属なり。汝ら臨終の晩に至るまで、日課称名し誓って中止せず、能く持つや否や」と参加者への問いかけが発せられる。

     イメージ映像

人々は、皆、口を揃えて「能く持つ」と唱和して、化益の儀式のクライマックスが終わり、次いで、名号札の授与に移ります。

本来念仏は、一人一人の心の中の営みだが、徳本行者は、個人には唱える回数、集団である講組織には、講員の数によって、授与する名号札の大きさを変えるという独特の布教手法を採用した。

名号札は、南無阿弥陀仏が書いてあればいいというものではなく、徳本行者の筆になり、彼の独特な花押があるものでなければならなかった。

小より大を欲しがるのは人の常。

だが、日課念仏を、百遍や千遍課すことは容易だが、一万遍、五万遍となるとそうはいかない。

「ナムアミダブツ」を1回、1秒で唱えるとすると、1分で60回、1時間でも3600回でしかない。

1万遍だと3時間、5万遍だとなんと、毎日、15時間も念仏を唱えることになります。

勿論基本は信仰心にあるが、千遍よりは、1万遍を誓った信者には、見栄えのするより大きな名号札を欲する気持ちがあったことは否めないでしょう。

そうした人々の見栄を利用した巧みな布教手法だったとも言えます。

各地の講も競って名号塔を造立したが、その大きさは一目瞭然、必然的に講員獲得に熱が入ることになります。

名号札の基準は以下の通り。

拝服名号  念仏100-900遍(名号札の大きさ6×1.5cm)
小幅名号札 念仏1000-9000遍 講員50人未満(大幅六つ切り)
中幅名号札 念仏 10000-30000遍 講員50-100人(大幅四つ切と数珠)
直筆名号札 念仏 60000遍 
大幅名号札 講員100人以上(唐紙の半分135×35cm)

名号札を渡しながら、よく次のように言ったと伝えられている。

「百遍の名号は小さい。千遍、六万遍、それぞれの数に応じて褒美にやる名号だから、銭金で買ってはならない。銭金の徳本ではない。御念仏の徳本だ」。

徳本名号札が、巷で、売買されていたことが、この逸話からうかがえる。

それだけ人気の希少品だったこになります。


135 徳本行者と名号塔-④教化活動その1-

2018-05-06 14:25:47 | 六字名号塔

 

徳本行者が晩年になって江戸に下向したのは、日蓮宗に傾きかけている江戸城内のムードを本来の浄土宗に立ち戻らせる使命を与えられたからでした。

と、同時に、わずか4年という短期間ながら、各地を巡錫し、積極的に化益(けやく)=(教化して、人々を善に導き、利益を与えること)活動を続けます。

文化11年9月16日ー10月23日 箱根で湯治しながら阿弥陀寺での化益。
  12年5月27日ー5月30日 下総での化益
    8月26日ー10月24日 伊豆、相模
  13年2月17日ー3月7日  下総
    3月20日ー9月7日  信州、飛騨、越中、加賀
  14年1月23日ー4月2日  下総、下野、上野
    7月17日ー10月10日 下総
    11月2日ー12月10日川越、相模

徳本行者の化益は、すべて、各地の信者の要請によってなされた。

行く先々で案内の者が待ち受け、沿道には人々が並び、会場となる寺の境内は信者で溢れていました。

      イメージ映像

徳本行者の、この一連の教化の旅は、毎日、克明に記録されています。

記録には二通りあって、徳本行者側の記録と化益を授与された側の記録。

化益の段取りは、基本は同じだが、細部は場所によって異なります。

ここでは、文化11年11月7日の川越大蓮寺での化益を中心に、文化14年11月19日の相模当麻無量光寺と文化13年8月6日、信州飯田の峯高寺での化益の一部を交えて、化益の段取りと内容を見てゆきます。

  大蓮寺(川越市)

11月6日の夜、徳本上人大蓮の台へ御着あり、其途中送り迎ひの人々幾万人たること計かたし、夜に入御むかひのてうちん(提灯)昼を欺がごとし」

大蓮寺の徳本名号塔。側面に「徳本上人御化益霊場」とある

当麻無量光寺の化益の日は、雪が降った。

折悪しく雪降り来り、寒気も一入強くなりしかども、本堂は勿論の事、堂外の輩まで一人も帰るものなく、頭に雪を頂きながら静まり返りて聴受」していたことが記録されている。

多数の群集は敬虔な念仏者ばかりではなかった。

野次馬も多数いたはずです。

なのに、雪の降りしきる中、一人も帰るものがいなかったのは、徳本行者の説教がみんなの心を捉えたからだといっていいでしょう。

 本堂に入り、高座に着座した徳本行者は、まず十念(南無阿弥陀仏を10回唱える)した後、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」(弥陀の光明は遍く十方世界を照らし、念仏の衆生は摂取してすてたまわず)と唱える。ここから長線香2本が尽きるまで、念仏をあげ、「願以此功徳平等施一切同発菩提心往生安楽国」(願わくばこの功徳をもって一切に施し、同じく菩提心を発して安楽国に往生せん)を参会者と唱和した。

 再び、十念をしたのち、化益のメインイベント日課念仏の授与に移ります。

(続く)

 


135 徳本行者と名号塔-③生い立ちと修行ー

2018-04-29 10:10:26 | 六字名号塔

徳本行者は、生き仏として抜群の人気を誇った。

俳人一茶がその説教を2度も聞きに行ったことは、先述した。

では、流行神としてもてはやされた徳本行者とはいかなる人か。

その生い立ちと厳しい山岳修行を振り返ってみたい。

徳本行者は、現在の和歌山県日高町の農家の長男として、宝暦8年(1758)6月22日、誕生。

          徳本行者生家

2歳の時、名月を指して南無阿弥陀仏を唱えたなど、偉人としての伝説には事欠きません。

9歳になって、両親に出家を請うが許されず、自ら日課念仏(毎日、回数を決めて唱える念仏のこと)の修行を始めた。

27歳になって、念願の出家を許され、財部往生寺の大円大徳和尚より得度を受けます。

本格的な修行は、29歳になってから。

千津川上流の渓谷に入り、穀絶ちの木食戒を始めます。

渓谷の岩の上に草庵を結び、麻縄を袈裟とし、腰巻を巻いた乞食同然の姿で、食事は雑穀の粉を一日1合水で飲むだけ、ワラビや木の実も重要な食材でした。

徳本行者が木食僧と云われる所以です。

夜が明けての、水垢離が一日の修行の始まり。

木魚をたたいてひたすら念仏を唱え、五体投地を一日、1万回もするという荒行を6年間続けます。(五体投地1回につき7-8秒はかかりそうだが、5秒と早くみつもっても1時間720回、10時間で7200回でしかない。毎日1万回の6年は信じられない)

その頃の逸話が、江戸後期の『わすれのこり』に掲載されている。

太守(紀州八代藩主重倫)ここに狩し給ふに、谷を隔てて石上に端座合掌して念仏するものあり、髪髭ながくのびて身にはみるのごときものをまとひ、人とも獣ともわかたず、近臣をして射るさしめ給ふに皆当たらず、太守驚きたまひて、自ら其来歴を問ひたまふに、答ふるところ少しも滞りなく、生まれながらの活僧成として、城中に止めて厚くもてなしたまふ」。

この逸話は、徳本行者が師と仰ぐ木食弾誓の箱根山中で大久保小田原城主に矢を射られた逸話とそっくり。(このブログ「石仏散歩」のNO64『それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たち(2)』https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/c/1a136ffe02c24259f3a352a979b1a1da

を参照ください。)

その後も紀州を中心に各地を転々としながら、修行を続けるが、55歳の時、紀州10代藩主治宝公から、幕府の重大事解決への助力を依頼されます。

重大事とは、11代将軍家斉が、側室お美代の方の願いを受けて、日蓮宗寺院を将軍家の祈祷寺にすることにしたこと。

      将軍家斉

これに危惧を覚えた増上寺の和尚が、徳川家本来の浄土宗に戻すべく、念仏行者徳本に依頼します。

57歳という晩年になって、江戸へと下向した背景には、こうした事情があったのでした。

文化11年戌年の7月始方より、江戸四里四方老若男女大に群集することこそできたる。其ゆえは紀州の山奥に壱人の聖あり、其名を徳本という。彼僧すでに7,8年以前小石川の伝通院へ来りて、日課念仏を人々にすすめ、十念を授ることにて有けるに、ことし又来りて前の如し。しかるに7月中旬より日に日に参詣の者多くしてい幾千ということなし。されば我も人も授かりて極楽に往生せんと、老いとなく若きとなく日夜朝暮伝通院に充満せり。夫れ故に、月の五の日斗出席して押し合い、押し合い、上が上に群集するほどに、其庭にて悶絶せし老人も少なからず、。今日はかしこの諸候へまねかれ、一ツ橋の御館へ行給ふとて其日をよく聞き知りて往還につづく人さながら山をなす。そもそもこの徳本という僧は不食の疾にて、幼稚の時より五穀を嫌ひただ一向専念に仏名を唱へ、更に世事にかかわらず」(『我衣』より)

もともと徳本行者が江戸に下向したのは、日蓮宗に傾きかけた大奥のムードを本来の浄土宗に戻すというミッションにあった。

    泉蔵寺(秦野市)の石像

そのため徳本行者は、増上寺で数多くの大奥の女中に説教し、且つ、紀州、一ツ橋などの親藩諸侯の屋敷にも通っていた。

大奥の女中たちに説教したと云っても、別間にあってのことは無論のことです。

徳本固より一間に容ることを禁じて婦人は皆下の間にありしに、徳本出ると年寄り衆も女臈も皆下の間に平服し首を挙ぐる者なし」(『甲子夜話』より)

民衆から圧倒的な支持を受けていたかに思える徳本行者だが、権力の中枢との関係性が深まれば深まるほど、念仏講の民衆性を弱める結果になったと批判する向きもあります。

 


135 徳本行者と名号塔ー②一茶と徳本ー

2018-04-22 08:30:04 | 六字名号塔

一茶が徳本行者の声咳に接したのは、文化元年(1804)3月のことでした。

     霊山寺(墨田区)

此日、此聖人、霊山寺(本所太平町)にて教化し玉ふとて、貴賤群集大かたならず、かかる折に通りかかれるも、神仏の引会(ひきあわせ)にやと道場に上がれば、人の申(まうす)にたがはず、結跏趺坐のありさまも凡人にかはれり。声は飄々と風の竹木を吹(ふく)がごとし。かかるさまは昔物がたりに見聞くのみ。目の前に逢ひ奉ることのうれしさよ。
雀子も梅に口明く念仏哉

実は、一茶はこの13年後、徳本行者から念願の十念を受けている。

場所は、長野善光寺。

一茶は54歳、江戸俳壇を去って、郷里に居を移したばかりでした。

一茶の『七番日記』文化13年(1816)4月の欄に

廿一アサノニ入
 二晴 徳本十念
 三晴 夜戌刻小雨 南原文五郎出火
    徳本廿日ヨリ廿二日迄西丁西方寺、廿三日東門丁寛慶寺ニ入賀(駕)」

さらに、5月、
 四日晴 六川ニ入 酉剋雷不止
     徳本墨坂入浄雲寺
 七日雨又晴
     徳本上人 小布施竜雲寺に入

文化13年4月22日、西方寺で、徳本行者から十念(南無阿弥陀仏を10回唱えること)を受けたことがこれで判ります。

西方寺は、正治元年(1199)、法然が善光寺参詣の折、創立したという由緒ある寺。

徳本行者の長野教化の旅は、『関東摂化蓮華勝会』に詳しい。

それによれば、21日には西方寺の本堂(横12間、縦9間)、庭およそ25間四方はほぼ満杯、入れずに帰ったもの約3割という混雑で、善光寺町始まって以来の騒ぎだったと記してある。

徳本行者が、20日から22日までの3日間で、授与した名号札(南無阿弥陀仏)は、小幅名号1万6043枚。

徳本行者は名号を信者に与えたが、念仏講は講員の数で、個人には日課念仏の回数で、名号札の大きさを分けていた。

ちなみに、小幅名号は、講員(50人未満)、個人は念仏(千-9千遍)に与えるもので「大幅の六つ切り名号」。

中幅名号札(講員50-99人、念仏1万―3万遍) 大幅の四つ切名号と数珠。

直筆名号札(念仏6万遍)

大幅名号塔(講員100人以上) 唐紙の半分の135×35cm。

8月中頃まで信州を強化して回ったが、その間配布した名号の刷り物は、約22万枚という膨大な数に達している。

芭蕉が生涯に詠んだ句は、約1000句。

蕪村は、約3000句。

それに対して、一茶はほぼ2万句と云われています。

多作ではあるが、関心ないものは詠まない、とすれば、徳本行者に関する句が14句もあるのは、一茶が徳本に惹かれていた証左のように思われます。

文化13年(1816)、信州に居を移したとはいえ、その直後、一茶は、江戸、房総へと長旅に出ます。

信州に帰ってきて、8月の最初の句は、

空っ坊な 徳本堂や 秋の風

1年ぶりに西方寺へ行って、あの時の大群衆を想い出しての句。

他に、「徳本上人」と題した句の中から、

ナムナムと口を明けたる蛙かな

上人の口真似してやなく蛙

名月や箕ではかり込御賽銭

庶民の野次馬一茶は、寺の賽銭がやたら気になるらしく、賽銭の句が何句かある。

いずれも賽銭をうらやましがる句ばかりだが、徳本行者は集まった賽銭に無関心で、場所を提供した寺にそのまま与えたといわれている。

果たして一茶は、そのことを知っていたのかどうか。

 

 

 

 

 

 


135 徳本行者と名号塔ー①江戸の流行神ー

2018-04-15 06:36:40 | 六字名号塔

今回のテーマは、徳本(とくほん)名号塔。

徳本は、江戸時代後期の木食行者で、日課念仏の普及に努めたカリスマ宗教実践者。

    宗源寺(平塚市)所蔵の徳本行者座像

名号塔は、六字名号、すなわち「南無阿弥陀仏」の石塔のことで、この場合は、徳本行者の独特な書体の「南無阿弥陀仏」を彫った石塔を指します。

徳本行者の生地であり修行地でもあった紀州に徳本名号塔が多いのは当然ですが、50歳半ばの晩年江戸に下向、関東、信州等を数度にわたり巡錫したので、小田原、相模、武蔵、信州、下総に今でも数多くの徳本名号塔が残っています。

しかし、と、ここからがいいわけですが、私の写真フアイルには、紀州や信州の写真はありません。

わずかに相模と江戸の徳本名号塔が、20数基あるだけです。

タイトルに「徳本名号塔」とつけるには、お粗末な限りですが、肝心なのは、徳本行者の魅力を伝えること。

必然的に文章が多くなりますが、ご容赦ください。

 

「鰯の頭も信心から」。

江戸時代、民衆支配の走狗と堕した既成宗教に背を向けた大衆の心をつかんだのは、現世利益を満たすと噂の流行神(はやりがみ)でした。

「はやれ」ぱ「すたる」。

すたれたかと思うと、また、流行りだす。

流行神とは、そのようなものなのです。

「立花候下屋敷に稲荷の宮有、此屋敷拝領已来勧請有けるよし、宮の床下に狐穴ありて、狐四五匹もこれあるや、白昼にも屋敷中を走り廻るよし、享和三亥年、いかなる故ありにしや諸人参詣群集し、近辺酒食の肆夥しく出来、賑やかにありしか、半年も過ぎれば、参詣人まれにて、元の田舎のごとし、俄かに盛るものひさしからすといふ理なり」(小川顕道『塵塚談』)

厳しい修行を経て、奇蹟を生じて見せる霊力を保持した山岳修行の行者=木食行者も人々から崇敬される「生き仏」であり、行く先々、人々が群がったという点では、流行神と云っていいでしょう。

江戸時代前期の木食弾誓や但唱はその典型例ですが、幕末の生き仏といえば、徳本行者をあげて差支えはないでしょう。

『増訂武江年表』の文化11年の項に

七月頃より、徳本上人、小石川伝通院にて諸人に十念(南無阿弥陀仏を十回唱えること)を授らる、貴賤の参詣群集夥し」とあるように、徳本の説教を聞きたくて集まった人たちで、本堂の床板が抜けることもあったほど、その人気は群を抜いていました。

その人気ぶりを目の当たりにした野次馬有名人がいる。

一茶。

一茶の信仰心については、小林計一郎氏が『小林一茶』の中で次のように指摘している。

一茶は信仰心が深く、神仏に対して、いつも敬虔の念を失わなかった。しかしその信仰は庶民的な俗信であって、参詣も物見遊山を兼ねている事が多かった。好んで参詣していたのは、願い事がかなうという理由で当時流行している神仏が多かった

流行神が大好きだった一茶が、幕末の生き仏、徳本行者とどのように接したのか、それは次回をお楽しみに。


68 佐渡の弾誓(たんせい)と浄厳名号塔

2013-12-01 06:40:14 | 六字名号塔

名号塔とは、「南無阿弥陀仏」の六字名号を彫った石塔のこと。

     路傍(高山市)

「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏に帰依する、という意味で、この念仏称名は、阿弥陀仏を本尊とし、信仰の中核とする浄土宗、真宗、一向宗では特に重視されています。

高名な宗教活動家の揮毫は特に尊ばれ、石に刻まれて、石塔として今に残るものも少なくありません。

季刊誌『日本の石仏』では、岡村庄造氏の「名号塔の知識」を連載中ですが、その趣旨は、各宗教家の書体の変化と変遷を示そうというものです。

連載の②の内容は、「弾誓と後継者」。

ここで岡村氏は「江戸期の名号塔は、徳本が群を抜いていて、その前は祐天が多いが、更に遡ると弾誓にたどり着く。一遍から遡ること三百年余、江戸期のオリジナル名号塔は弾誓に始まると言ってよいだろう」と述べています。

徳本や祐天は知っている『日本の石仏』の読者でも、弾誓(たんせい)となると知る人はごく少数ではないでしょうか。

弾誓は、歴史の教科書には決して登場しない、体制外の偉大な実践的宗教活動家でした。

世に知られていない弾誓を私が知っているのは、私の田舎が佐渡が島だからです。

弾誓と佐渡との関係については、このブログ『石仏散歩』の「41それは佐渡から始まったー木食弾誓と後継者たち一①」で、そして、佐渡を出てからの足跡は、NO64でまとめてあります。

是非、ご覧ください。

弾誓は、生涯に400万幅もの名号札を揮毫したと言われます。

その割には、石塔で残っている名号塔は数多くありません。

名号塔は制作年を必ずしも刻してないのて゛、断定はできませんが、佐渡の修行地のものが最も古いと考えるのが自然でしょう。

 佐渡の修行地と言えば、外海府の檀特山と岩屋口の洞窟でしょう。

とりわけ岩屋口の洞窟は、弾誓が仏頭伝授で即身成仏を果たし、生き仏としてこの世に生まれ変わった重要な場所です。

見上げるような垂直な巨大岩壁の下に、岩窟が二つ並んでいます。

海から行くと奥の洞窟の入り口には観音堂があり、見上げると岩壁に「南無阿弥陀仏」の文字。

 

地元では、この名号を「弘法大師の投げ筆」と呼んでいますが、文字の特徴は明らかに弾誓の名号であることを物語っています。

ところで二つある洞窟のもう一つの岩壁にも六字名号が彫られています。

こちらの名号の書き手は、浄厳上人。

弾誓上人を慕って、天保元年(1830)、埼玉県児玉町から佐渡に来た木食行者で、始祖弾誓から数えて七代目の弟子に当たります。

今回のブログのタイトルは「佐渡の弾誓と浄厳名号塔」。

弾誓から浄厳まで、約10人くらいの弟子が入れ替わり立ち替わり佐渡を訪れています。

しかし、弾誓と浄厳以外の名号塔は、佐渡では見かけません。

あるのかもしれませんが、私は知りません。

と、いうことで、佐渡にあるわずかな弾誓の名号塔と点在する浄厳名号塔の紹介が今回の目的です。

 

佐渡の大佐渡山地の先端地域が、木食弾誓の修行地でした。

 

大佐渡山地の西が外海府、東が内海府で、人家は海岸沿いにしかありません。

当然、外海府の真更川集落と内海府の北小浦集落を結ぶ山越えの道路には、人家は一軒もないことになります。

そうした人里離れた山中の山居という場所にポツンと寺があります。

「光明仏寺」。

光明仏とは弾誓のことですから、「弾誓寺」でもあります。

山中の寺は、日本中いくらでもあるでしょう。

しかし、その大半は、寺の立地としての、必然の景観やシチュエーションにあるはずです。

「光明仏寺」は、見通しがきかない、さえない疎林の中にあって、誰もが「えっ、なんでこんな所に?」と驚いてしまうような場所にあるのです。

建てたのは二代担唱と三代長音。

この場所を選んだのは、ここが師・弾誓の修行地だったから。

元和六年(1620)のことです。

以降、潰れては立て直しを繰り返し、天保年間に浄厳により再興されたのでした。

現在、光明仏寺は無住、雨漏りがしない程度に補修されています。

寺へ進む。

境内より一段下の場所に数基の石碑と石仏。

この石塔は、光明仏とあるから、明らかに弾誓の名号塔です。

左側の4基の石仏のうち名号塔の真横、合掌しているのは弾誓本人ではないでしょうか。

 

弾誓名号塔の、1基おいて右には浄厳の名号塔。

 

浄厳名号塔は、境内にもう1基あります。

本堂に上がる。

荒れ放題で、白壁は落書きで一杯。

戦前の落書きもありますから、道徳心の乱れは最近に始まったわけではなさそうです。

 

光明仏寺から西へ数百メートル。

ここでも「えっ、こんな所に!」と誰もが驚く場所があります。

山の中に忽然と現れる池。

「山居の池」です。

「山居」は山岳修行者のいる所の意。

弾誓の修行地だったから山居と呼ぶようになったのでしょうか。

この山居の池の入り口にも浄厳名号塔があります。

正面に「南無阿弥陀仏」と浄厳の名。

左側面に天保八年(1837)十月十五日。

十月十五日は、弾誓が岩屋口の洞窟で開眼した重要な記念日です。

右側面には「浄土鎮西白旗一向専修仏道場」。

鎌倉時代に良忠上人が九州で開いた浄土教鎮西派のここが道場であるという意。

そして、背面には「鳥井氏先祖代々有縁無縁一切精霊」と「願主鳥井作右衛門光久」の文字。

鳥井氏は佐渡奉行所の役人(田中圭一『地蔵の島木食の島』)だそうで、体制内にも弾誓教の支持者がいたことが分かります。

    復元佐渡奉行所(相川)

佐渡奉行所の役人に弾誓教の支持者がいたことに注目するのは、弾誓とその後継者たちの支持者には反体制派の人たちが多いと思っていたからです。

天保の時代、相次ぐ天災で全国的な米不足が毎年のように人々を苦しめました。

佐渡でも天保9年(1838)、一国一揆が起きています。

一揆にはやる人たちが密談を交わした場所は、相川「弾誓寺」でした。

      弾誓寺(相川)

「弾誓寺」は、駆け込み寺だったのです。

 

反体制派の人たちと弾誓教の関係が読みとれる石碑があります。

河崎の菊池源右衛門家には、2基の石塔がある。

 

1基は「南無阿弥陀仏法国光明仏」。

法国光明仏即ち弾誓に帰依していた源右衛門が、この碑を建立したのは、天保十三年寅年七月二十二日。

そして、もう1基は、一国百万遍念仏の記念碑。

「弘化四年(1847) 
 弥陀名号一億二十五万千九百遍
 光明真言一千九百十一万九千二百遍
 世話人 安兵衛 新穂村 五郎左衛門 
 国中村々請事」

 一国念仏は、佐渡の村々の念仏講が日を決めて一斉に行う百万遍念仏で、念仏を唱えることで一国一揆の犠牲者を供養するものでした。

人が集まれば、お上への不満が出る。

そうした不満、要望をまとめて奉行所との折衝に当たったのが、世話人でした。

源右衛門は、その世話人の一人だったわけです。(詳しくは、このブログ「57佐渡の百万遍供養塔」をご覧ください)

この一国念仏記念塔の下部には、弾誓塔と彫られています。

弾誓上人の帰依者源右衛門に協力して一国百万遍念仏を組織、指導したのは浄厳だったと見られています。

 

 浄厳は、寛政二年(1790)、今の埼玉県鴻巣で生まれ、子供の頃、寺に預けられ、使い走りをします。

貧乏な生家の食い扶持を減らすためでした。

長じて一人前の坊主として認められると埼玉県児玉町小平の岩屋堂に籠り、木食修行に励むとともに念仏修行にも精を出し、浄土宗鎮西白旗派精進社勇誉進阿瑞厳浄厳と名乗ります。

佐渡に渡ったのは、文政十年(1827)、浄厳36歳のことでした。

佐渡奉行所の地役人が書いた『浮世噺』には「文政他国より行者来る。海府・光明仏と申す所に永居の噂」とある。

佐渡へ向かったのは、そこが弾誓の修行地だったからですが、浄厳が弾誓をどうして知ったかは分かっていません。

人づてに聞いたとすると、弾誓伝説は200年の時をこえて各地に行き渡っていたことになります。

佐渡に渡った浄厳は、まず、山居の光明仏寺再建を手がけます。

再建は、もちろん、島民の協力なくしてはできません。

その援助の中心的存在が真更川集落の名主土屋三十郎家でした。

浄厳は、夏は再建なった光明仏寺で、冬は真更川の西光庵で、佐渡滞在の9年間、過ごしました。

西光庵は土屋家の敷地に建つ地蔵堂で、堂前には浄厳名号塔が、今でも残っています。

光明仏寺で、あるいは西光庵でひたすら念仏を唱え続けるていた浄厳も、やがて、外海府の村々を托鉢して回るようになります。

「南無阿弥陀仏」を唱えつつ、家ごとに軒先に立ち、念仏の功徳を説き、日課念仏をみんなに勧めました。

浄厳と村人たちの交流が深まると、浄厳に書いてもらった六字名号を石塔にする念仏講が出始めます。

そしてあっという間に外海府の村々に名号塔が行き渡ります。

名号塔が外海府に集中しているのは、浄厳が光明仏寺や西光庵を朝出て、日帰りできる範囲だからでしょう。

村人たちは、願い事があるたびに、真言を繰り、念仏を唱えながら石塔に手を合わせたのでした。

 

ということで、やっと、本来のテーマへ。

外海府に今も残る浄厳名号塔です。

≪沢根≫

      大乗寺(沢根)

外海府と言いながら沢根から始めるのは、いささか気が引けますが。

なぜなら、外海府は相川より北の地域で、沢根は南ですから、外海府にはならない。

しかし、なにしろ素晴らしくいい名号塔なのです。

自然石で彫りが深く、すべてが明瞭にわかります。

文字の部分、部分が尖っているので、剣先名号塔とか利剣名号塔とか呼ばれています。

『佐渡相川郷土史事典』から引用しておきます。

浄厳利剣名号塔(じょうごんりけんみょうごうとう)

 お不動さんが持っている剣が利剣で、煩悩を突き破る剣といわれる。利剣について、中国浄土教の大成者「善導」は、「阿弥陀仏には、罪業を断つすぐれた徳が具わっており、その利剣は阿弥陀仏の名号のみである」と説かれておることから、南無阿弥陀仏の六字名号には、鋭い剣の形をした名号も書かれてある。また、江戸時代の本には、弘法大師が書いた利剣名号が伝えられており、徳本も書いているが、利剣名号を残した人の数は少ない。だが浄厳名号塔には、利剣名号が二二基を数え、数多く残されているのが特徴といえる。
 
≪相川≫
 
 
 
                   
                      総源寺(相川・下山之神)
               

 南無阿弥陀仏の右に「天下和順」、左に「日月清明」とある。

左側面には「浄土鎮西白旗流一向念仏道場」。

右側面の「王誉妙龍龍興高天」は、「王誉妙龍」が女の、「龍興高天」は男の戒名を指す。

池の大蛇や龍が高僧の教化で人間になるという浄土宗固有の説話で、山居の池の大蛇とおせんの言い伝えに酷似している。

山居の池での高僧は、まぎれもなく弾誓上人。

弾誓の威徳を男女の龍であらわしたものか。

≪相川≫

   広源寺(南沢)

石塔の半分が埋まっているが、字体から浄厳名号塔とわかる。

裏面には「精蓮社浄厳」。

真影に書かれた名前「捨世隠者沙門精蓮社勇誉進阿大瑞厳浄厳大比丘行者」からとったもの。

≪南片辺≫

 南片辺の町の背後の崖地に上る。

能登瓦の屋根ごしに海がチラと見える。

家並みの背後の崖地、その中腹のちょっとした広場にお堂がある。

 

堂前に並ぶ数基の石造物の中に浄厳名号塔はあります。

ひっそりかんとしていて何か月も誰も来ていないように思うが、箒の跡があり、供花は新しいから毎日お参りする人がいるようだ。

≪北片辺≫

 相川から来て北片辺の街並みが切れた所が「夕鶴の里」。

道を挟んで海側に集落の共同墓地がある。

 お盆でもないのに、どの墓の前にも新しい花が供えられている。

漁に出た男たちの無事を祈るのが女たちの務めなんだそうだ。

浄厳名号塔は六地蔵の脇に在ります。

 

墓地の奥に白い衣の石仏がおわす。

墓掃除をしていた女性に訊いたら、新仏のしるしだという。

≪石花≫

 外海府はリアス式海岸。

小さな湾が続いている。

岬を下り下りると集落があって、集落の中央には川が流れている。

その繰り返し。

石花の浄厳名号塔は、石花川橋のたもと、県道に面して立ってらっしゃる。

隣に秋葉山」。

秋葉山は、佐渡で人気があった防火の神。

 

≪後尾≫

 後尾の集落へ入るカーブ左に共同墓地がある。

墓地を俯瞰する高みに浄厳名号塔は、ここでも秋葉山とともにおわす。

海に突き出た岩、岩と道路との間に墓地、典型的な外海府の風景です。

外海府の寺には墓地はありません。

境内が狭いからです。

各家の墓は田んぼや海辺にあるのが普通です。

 

≪北川内≫

 外海府の道路は海沿いに走っている。

集落は道路より山側にあって、中を狭い旧道が走っている。

北川内の浄厳名号塔の1基は、旧道に面して立っています。

うす暗い街並みの中で、供花がある、そこだけが明るい雰囲気を醸し出しています。

この名号塔の脇を山側に入って行くと墓地。

その墓地にも2基の浄厳名号塔があります。

 

2基とも個人の墓域にあって、集落の念仏講によって建てられたものではありません。

 

背面には「先祖代々六観音属血類部類一切精霊」とあり、その家系の戒名で埋め尽くされています。

 

≪高千千本≫

 千本の共同墓地にも浄厳名号塔が゛あるが、北川内の墓地とは違って、個人のものではない。

集落で建てたものならば、墓地ではないところに立てそうなものだが。

ほかの場所にあったものが何らかの事情で墓地に移されたのだろうか。

 

外海府の浄厳名号塔はこれで終わり。

沢根や相川を除くと南片辺から高千千本まで、長い海岸線のほんの一区間に集中していることが判る。

真更川に近い、関、大倉、小田、石名、小野見になぜないのか。

また、真更川から北の、願や弾崎、あるいは内海府の北小浦、虫崎、歌見あたりに見られないのも不思議です。

浄厳は、当然、このあたりも教化して回っていたと思われるからです。

真更川に近いところでは、岩谷口の洞窟前の墓地の1基と真更川の浄厳の本拠地西光庵前の1基があるだけです。

≪岩谷口≫

 

  

       岩谷口洞窟の入り口の名主船登家の墓域にある浄厳名号塔 。  

             

      真更川の地蔵堂西光庵と堂前の浄厳名号塔。

 

 扁額の文字は浄厳の書。

堂内は浄厳時代のまま変わっていないものと思われます。

 

外海府での浄厳の評判は、早晩、国仲(大佐渡と小佐渡山地に挟まれた平野)にも届きます。

やがて浄土宗寺院からの依頼を受け、彼は国仲でも日課念仏の普及に努めます。

拠点としたのは、吉井本郷の阿弥陀堂。

 

阿弥陀堂は、もちろん、吉井のほかの場所にも、浄厳名号塔が残っています。

 

浄厳が実践的宗教活動家としてすごいのは、その影響力があとあとまで村々に残ったことにあります。

これまで十数基の浄厳名号塔を見てきましたが、建立年が刻されている9基は、いずれも浄厳が佐渡を去ってから建てられたものです。

石塔を建立するのは、百姓たちにとって容易なことではありませんでした。

本人はもうとっくにいないのに、その人となりに魅了され、その教えに敬服して、それを記念すべく費用を拠出して浄厳揮毫の六字名号を石に彫り付けたのでした。

浄厳が佐渡を離れたのは、天保7年(1836)のこと。

 その20年後の安政3年(1856)、吉井本郷の村人たちから佐渡奉行所に提出された文書があります。

文書名は「浄厳菩薩戒日課念仏受者帳」。

それによれば、安政3年2月18日、吉井本郷の西方庵に集まったのは228人。

地元の吉井本郷はもちろん、、三瀬川、舟津、横谷、安養寺、西方村、水渡田村、大和田村など15もの村から来た人たちで堂はいっぱいでした。

浄土宗、禅宗、真言宗と宗派はバラバラ、彼らは日課として各自千遍もの念仏を唱えました。

浄厳は、浄土宗鎮西白旗流一向専修念仏の道場主でありながら、真言宗信徒が真言を繰るのも拒まず、念仏を共にしたのは、祖師弾誓の精神そのものでもあります。

佐渡は、百万遍念仏供養塔が多い島ですが(NO57 佐渡の百万遍供養塔をご覧ください)、吉井地区に特に多いのは、おそらく浄厳の影響によるものでしょう。

 

 天保8年(1837)、島を離れた浄厳は、茨城県江戸崎の大念寺へと向かいます。

大念寺から茨城県瓜連町の常福寺、そこから鎌倉の光明寺へと階段を上り、最終的には浄土宗総本山知恩院の大僧正としてその生を全うします。

 安政6年(1859)示寂、享年70歳でした。

浄厳示寂の報せを受けて、佐渡ではいかなる動きがあったのか、記録はありません。

でも、おそらく、外海府で、相川で、国仲で、大念仏が催されたのではないでしょうか。

 

 ここで、おまけを一つ。

題して「佐渡にある徳本(とくごう)名号塔」。

名号塔といえば、独特な筆跡の徳本名号塔が有名で、中国地方から東北地方南部にかけて広範囲に分布しています。

それは徳本の精力的な布教活動の結果ですが、徳本名号塔のもう一つの特徴は、その大半が彼の死後造立されたものであること。

それは、徳本念仏が組織化され、永続したことを物語っていて、佐渡における浄厳名号塔造立と同じパターンであるのが、面白い。

浄厳と同じといえば、徳本が信者に勧めたのが日課念仏の実践だったこと。

当然、一日に唱える名号数の多いことに価値があるので、徳本が頒った名号幅は口唱数によって差異がありました。

普通は揮毫の刷り物ですが、一日に何万回も唱える者には直筆の名号が与えられたと言われています。

徳本が布教に来るのを待ちきれず、布教先に彼を追いかけて、名号を求める者もいました。

その中に佐渡人がいたことが、徳本の日記『応請摂化日鑑』に記されています。

時は文化13年(1810)、徳本が信州から越中に向かっている時でした。

「五月十二日、佐渡大安寺(相川)へ本仏申し上げ、唐紙一枚の名号下され候、大安寺歓喜雀躍三拝して頂戴、・・・」

8月19日、越中富山にあった徳本のもとに再び、佐渡人が現れます。

「佐州羽田町(相川)若林忠三右衛門、村田七兵衛母さの、清右衛門、右三人信州より富山へ相回り統治までまかり出御待ち申し上げ・・・」

そして翌20日には「佐州河原田浄(常)念寺講中、名号を相願う、忠三右衛門へ相渡しつかわす」。

こうして得た徳本名号を石塔にしたのが、下の2基ではないかと、私は思うのですが。

 

    専光寺跡(旧相川町柴町)                                 常念寺(旧佐和田町)

 大安寺(旧相川町)に徳本名号塔はありません。

ほかに見かけることがあったら、ここに追加しておきます。