石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

124伊勢路の石仏-5(竹成の五百羅漢)

2016-07-26 05:22:32 | 石仏めぐり

また、いつもの言い訳から。

伊勢路の石仏巡り3日目は、津市の兄弟地蔵からスタートした。

兄弟地蔵とは、津市の宝樹寺、栄松寺、光明寺の3寺の地蔵のことで、いずれも正和3年(1314)に造立されている。

制作年が分かるものとしては、三重県最古で、当然、県の文化財に指定されている。

下の写真は、光明寺の地蔵だが、写真が暗い。

暗いはずで、フィルター撮影をしていた。

何かの拍子にカメラのモードダイヤルがFilterに合わさっていたようだ。

三地蔵は顔も似ていて、同一石工の作品ではないかと云われている。

それは、写真を3枚並べれば分かるだろうと思っていたが、これでは使用に堪えないので、残念ながら、カットせざるを得ない。

私のカメラは〇〇チョンカメラで、被写体に向けて、私はシャッターを押すだけ。

明るさもシャッタースピードも、すべてカメラ任せ。

撮った写真を確認することもしない。

フィルター撮影をしていることに気が付いたのは、亀山市関宿の観音山三十三観音の撮影を終えた時。

再び観音山に上る体力もないので、撮影済みの100枚ほどは、使用を諦めることに。

観音山の石仏は、丹波の名工村上佐吉が安政年間(1818-1830)に3年の歳月をかけて制作したと云われる逸品。

暗くて見にくい写真を1枚掲載しておきます。

まるで木彫のようなノミ捌きが見事です。

 

カメラのダイヤルをセットし直し、気分を取り直して、次の目的地へ。

四日市市に近い菰野町竹成にある五百羅漢が最後のポイントです。

大日堂の境内に高さ7mの四角錐の築山を築き、そこに約500基の石仏が安置されている。

五百羅漢は珍しくはないが、それに仏教の諸仏や神道、民間信仰の神々まで含めたバラィテイの多様さは、ここだけのもの。

江戸時代の、コンパクトなテーマパークとでも言うべきだろうか。

五百羅漢の名前は知らなくても、四天王や五智如来、六観音、七福神、十王なら信心深い江戸時代の人たちなら見分けたに違いない。

さしずめクイズの山に入り込んだみたいで、テンションが上がったのではないか。

では、クイズの山へのご案内です。

東側入口から入り、北、西、南へと回る。

どの方面からでも上る小道があるので、最後は頂上へ。

と、書くと仰々しいが、上ると言っても3,4歩、坂道の嫌いな私でも上りを意識せずに済む、その程度の傾斜です。

 

 入口にどーんとおわすのが、

延命地蔵。

二童子を従える地蔵は、珍しい。

その右後方に立っているお方は、ちょっと難しい。

答えは、三蔵法師。

背負っているのは経箱、と聞けば、ははーんと肯く人も多いのでは。

反時計回りに右(北)方向へ進む。

これは、布袋さま。

恵比寿、福禄寿、大黒天とならんで、この辺は七福神ストリート。

南面と東面は、五百羅漢ばかりとなる。

 この五百羅漢は、当地の真言僧神瑞が喜捨を求め、幕末の慶応2年(1866)完成した。

嘉永5年(1852)に発願してから、11年の歳月を要したことになる。

石工は、桑名の藤原朝兵一門。

五百羅漢と言うが、実際には、468基。

明治の廃仏稀釈の被害にあったと伝えられるが、真相は不明。

西面の右隅に坐すのは、

天狗。

お釈迦さまのお弟子さんに囲まれる、思いがけない僥倖に天狗も鼻高々だろう。

 

この辺で、上へ上ってゆく。

これが頂上の風景。

真中に坐すのは、言わずと知れた大日如来。

その周りは、十大弟子と言われているようだが、ちょっとおかしくないか。

中心がお釈迦さまなら分かるが、大日如来を囲む十大弟子なんて変だろう。

 

このクイズは、正解がない。

個々の名前のついた写真資料がないので、Webサイトを見たりしての、私なりの推測で、間違っている可能性は、非常に高い。

「答えが分からないのに、クイズなんてやるな」という声が聞こえて来そう。

間違っていたら、正答を教えてください。

この弟子は、私でも分かった釈迦の高弟の一人。

阿難でしょう。

頂上より一段下に四天王がにらみをきかせている。

右腕を振り上げているので、

持国天のようだが、振りかざしているのは刀ではなさそうだ。

何なんだろうか。

これも四天王の一つ。

広目天ではないか。(だんだん自信がなくなって、疑問形になる)

毘沙門天は、

これだろうし、増長天は、

これだと思うが、正解だろうか。

出題者が、いつの間にか、回答者になっています。

あるWebサイトでは、下の4体は四夜叉としている。

夜叉なんて聞いたこともない。

あわてて『日本石仏図典』を引っ張り出してみたが、載っていない。

そういう情報もあるよ、ということです。

 

東南の角に十王がずらり。

中央奥に坐すのは、

言わずと知れた、閻魔大王。

十王とは離れて、地面に坐すのは、

奪衣婆。

彼らにつきものの道具といえば、

人頭杖と

浄波瑠の鏡。

所で、十王の横、奪衣婆の後ろに立つこの精悍な男は何者だろうか。

 そして、その隣にもう一人、見知らぬ男がいる。

見知らぬのも当たり前、いろいろ資料から推測するところでは、

この五百羅漢を発願し、喜捨に走り回って、完成させた神瑞和尚その人らしいのです。

そろそろ出口へ。

東面は、羅漢さんばかり。

五百羅漢には、家族、兄弟、親戚、知人、友人の誰かにそっくりな像容があると云われる。

羅漢さん以外の石像を探して、そうし愉しみを捨て去ったのは、ちょっと残念でした。

では、最後に、クイズ3問。

これは、誰?

天照大神。

これは、誰?

弥勒菩薩。

これは、誰?

弘法大師。

かなりディスインテリ風なお顔が気になるが…

お堂には、三重県指定文化財の大日如来木像が2体在すが、堂内に上りはしない。

石造物でなければ、県の指定文化財でも無視するのが、「石仏散歩」を制作するブローガーとしての矜持なのです。

 *次の更新日は、8月1日です。

 

 

 

 

 

 

 

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-7-(富士市富士川町)

2016-05-26 06:14:20 | 石仏めぐり

◇路傍石造物群(富士市富士川町)

バスに乗っての移動は楽だが、どこを走っているか分からないのが、難。

随分山道を上ってきたなあ、どこまで行っても家があるなあ、とぼんやり外を見ていたら、停車した。

歩いて更に300mほど上る。

自分独りだったら絶対に来られないだろうし、これからも来ることがないだろう、山の田んぼ道に一握りの石造物群がある

馬頭観音が多いが、中に1基、注目すべき庚申塔がある。

宗清寺で観音、釈迦、青面金剛三尊併記の庚申塔を紹介したが、あの庚申塔と同じ三尊併記で、こちらは、造立年が明暦年間と古い。

しかも、宝篋印塔型庚申塔だから、珍しさも増そうというもの。

説明板の内容以下の通り。

この石塔は、善長163cm、宝篋印塔型で塔身を長くし、宝珠の下に二段の請花を彫り、隅飾突起は外に大きく反り返り開いて、全体的に均整のとれた優美な形をしています。
塔身の正面には
   南無三宝荒神
  本師釈迦牟尼佛
   南無観音菩薩
とあり、この上部の左右に鶏が向き合って刻まれ、塔身左右両側には、明暦戊戌年(1658、万治元年)九月吉祥日とあります。
塔身に、釈迦牟尼仏を本尊にして脇に観音菩薩、三宝荒神(佛、法、僧を守る不浄を嫌うので、古くから家々で竈神として信仰されるが、全身青色を帯びるところから青面金剛ともいわれる)の三尊を刻み、それに二猿を配するのは、江戸時代中期以前の形式の一つであり、庚申信仰の本尊が青面金剛明王に代わる経過を知る貴重な石塔です」。

執筆責任者は白いシールで隠されているが、富士市に合併前の「富士川町教育委員会」と書いてあるはずです。

庚申塔前の燈籠にも「庚申常夜燈」と彫ってある。

バスへ戻る途中、林の茂みから何人かが出てきた。

何があるのだろうと思って入って行ったら、林の暗がりの中にポツンと笠付庚申塔が立っている

先ほどの庚申塔と同じように、こちらも2猿。

寄り道していたら、つい集合時間に遅れて、冷たい視線を浴びながら座席につく。

 ◇木島庚申堂(富士市木島)

坂道を延々と上って、集落のどんづまり(?)でバスを降りて、また、歩く。

この辺りはどこも坂ばかり。

好きになれない。

坂道の突当りに石造物群。

観世音菩薩塔3基、巡拝塔4基、題目塔、大乗妙典六十六部塔、三界萬霊塔など全部文字塔ばかり。

目的は、この石仏群ではなく、さらにここから左へ50mの庚申堂。

中に木彫の青面金剛。

頭に髑髏を抱き、目は3眼の憤怒形。

全身ブルーでいかにも青面金剛らしい。

慶安4年(1651)は、静岡県最古の青面金剛像だとか。

道を挟んだ崖下に数基の石造物があり、中に1基、これもまた、三尊併記の笠付文字庚申塔がある。

碑面は

 南無青面金剛 漢文六年(1666)
 本師釈迦牟尼佛
 南無観世音菩薩

この前の室野の庚申塔が「南無三宝荒神」だったのが、ここでは「南無青面金剛」になっている点が違うだけ。

この地域では、一時期、この三尊併記スタイルが流行ったようだ。

バスに戻る途中、みんながカメラを向けている燈籠がある。

燈籠ではあるが、火袋はない。

塔身下に「水神燈/庚申燈」と刻されている。

「これは、山燈籠。水神様と庚申様への参詣道に、両講中が建てたもの」とは、小松光衛さんの説明。

これで全日程終了。

16時、新幹線「新富士駅」で散会。

 ガイド役の佐野さん、井戸さんお疲れさまでした。

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-6-(富士市富士川町)

2016-05-21 05:18:41 | 石仏めぐり

◇曹洞宗 浄厳山宗清寺(静岡県富士市富士川町)

宗清寺を検索したら、寺のHPがあった。

冒頭「四季折々の富士の姿を眺められるお寺」とある。

富士が見えた記憶はないし、勿論、写真フアイルにも富士山は写っていない。

そういえば、朝は快晴だったが、午後から雲が出だして、宗清寺へ行く頃は低い雲が空を覆っていた。

富士山が見えなくて当然だったのです。

ネットから寺と富士山が見える写真を拝借しておく。

山門前両側に4体ずつの六地蔵と庚申塔が1基在す。

元禄年間造立の下の庚申塔は、文字がいっぱい刻字されている。

読みにくいので、井戸資料から碑文を書き写しておく。

  南無大慈悲観世音 旹元禄第十塔日丑年寅月庚申日
卍 南無大師釈迦文佛
  南無青面金剛明王

観音、釈迦、青面金剛の三尊を並列しているのが珍しい。

反対側にも庚申塔はあって、こちらは「南無青面金童子」。

金剛の子供だから金童子か?

境内に入る。

クレーン車が2台稼働中で寺にあるまじき騒音を出している。

背後の崖地の墓地の改造工事だとか。

クレーン車の後ろのお堂に入る。

宝珠を両手に持ってお地蔵さんが、ゆったりと坐していらっしゃる。

堂前の立て看板には「笠被り地蔵」とある。

寺のHPでは、次のように紹介されている。

寛政9年(1797年)10月、中之郷村名主田中傅四郎は、夭折した愛児の供養のため、巨大な地蔵菩薩の石像を寄進しました。
地蔵尊は、頭上に大きな傘(直径1メートル)を被り、慈悲の微笑を漂わせた面相で、手には宝珠をもって、法界定印(薬壺印)を結び、結跏趺坐しています。像高1.5メートル。信州(長野県)高遠の石工又兵衛、金左衛門が製作しました。

信州高遠の石工の作品だと確認したうえで、石の専門家、小松方正さんが一言。

「高遠石工の仕事は、石を探すことから始まるんですよ」。

確かに説明板にも、「原石は由比川上流産」とある。

専門家の補足解説が聞けるのも、石仏協会主催の見学会ならでは。

山門前の説明板は「当町最大の石造佛(ママ)で信州石工の手になる秀作」となっているが、頭でっかちの三頭身で、私には、とても秀作とは思えなかった。

境内に現代石彫が2点あるので、紹介しよう。

まずは、チェロを弾く坊主。

次に抹茶を点てる坊主。

どんな謂れがあるのかと思い、寺に電話したら、なんのことはない、単に「若住職が岡崎で買ってきたもの」だった。

最後に山門への石段の最下段からのショット。

自然石に「よう/おまいり」とある。

中々のアイデア作品で、置いた場所もいい。

私は高評価、花マルをいくつもつけたい。

◇曹洞宗 光福院新豊院(富士市岩淵)

山門前にありふれた六地蔵。

寺のHPでは「江戸時代、村人が死ぬとこの六地蔵の前で葬式をした」とある。

地蔵信仰としてはありうる話だが、実例としては初耳。

立派な結界石塔。

戒律を守らない日本の仏教界だが、飲酒はその最たるものだろう。(新豊院を批判しているのではない。念のため)

山門をくぐると左側に石造物がズラリ。

大半は巡拝塔で、一番奥が庚申塔。

宗清寺にもあった三尊併記形式だが、こちらは、「地蔵菩薩、観音菩薩、青面金剛」の三尊で、お釈迦さまがお地蔵さんに代わっている。

造立は、寛文八年(1668)。

寛文までは、青面金剛に一本化されることはなかったことが分かる。

碑文が読めないので通り過ぎようとしたら「一番上は、烏八臼です」と井戸さんの声。

戻って見るが、そのようでもあり、ようでもない。

曹洞宗寺院だから、烏八臼があってもおかしくはないが。

その隣に仏足石。

『日本石仏図典』には、静岡県に仏足石があるとは書いてない。

寄進されたのが、平成6年。

昭和61年刊の『日本石仏図典』に載ってないのは、当たり前だった。

これはまたノッポな宝篋印塔(文化六年・1809)

高すぎて経文が読めない。

観音堂には「ぽっくり観音」と「縁結び観音」の立札が並んでいる。

老人と若者、二つの世代の信者獲得に寺が知恵を絞ったと見える。

寺の経営も大変だろうが、頼まれる観音様も大変だよなあ。

観音堂の前に珍しい石仏が2体、いや3体か。

まずは、火伏の地蔵。

宝暦九年(1759)、愛宕山から遷したものとか。

甲冑を着けてないから、火伏専門の地蔵のようだ。

もう一体は、水洗い大日如来。

水洗いと云えば、浄行菩薩を思い浮かべるし、西新井大師では、水洗い地蔵も見た。

しかし、水洗い大日如来は、初見。

「腰痛、膝痛、ボケ封じ」に効くとあるが、なぜ大日如来に水を掛けると腰痛が治るのか、そうした謂れはどこにも書いてない。

新しい大日如来の傍には、長年のお勤めを終えてリタイアした古い大日さんが在す。

水を掛け続けられたにしては、黒ずんでいるのが解せない。

観音堂の左の通路の角に道標がある。

「観音道」と読める。

観音堂の背後の山にある西国三十三ケ所ミニ霊場の場所を示す道標。

30mも離れていないのに道標とは大げさだが、これもご愛嬌か。

その奥に並ぶ石碑は全部巡拝塔。

山門を過ぎての巡拝塔が江戸期のものだとすると、こちらは、やや新しい。

明治から昭和にかけてのものが並んでいる。

 観音堂真裏に山に登る小道があり、入口に石柱がある。

「 西国巡礼
 南無観世音菩薩
  三十三所 」

造立は、文化十三年(1816)。

入って行くと三十三所観音が、1基ずつ、あるいは2基並んで、時には5基並列で、山中に点在している。

彫りもシャープ。

石工銘はないらしいが、高遠石工の可能性が高そうだ。

ミニ霊場の一画から本堂裏の山林が見える。

縦に長方形に樹が伐採され、ワイヤーで固定化されている。

寺のHPで知ったのだが、毎年3月中ごろの日曜日に大観音祭が行われ、縦45m、横18mの布に描いた観音様がここに掲揚、御開帳されるのだそうだ。

写真は、寺のHPから借用。

ミニ霊場を回り終えて山を下りるとそこに歴代住職の墓。

無縫塔が並んでいる。

その前になぜか白衣観音がポツネンと佇んでいらっしゃる。

再び本堂前まで戻って、先ほど撮影し忘れた善光寺三尊(寛政七年(1795)を撮る。

撮影し忘れたというよりも。何人かが撮影中で、後回しにしたもの。

バスを降りたら先陣を切って走るか、最後方から行くか、人影のない写真を撮るのは簡単ではない。

石仏、石碑に群れをなしてレンズを向ける姿は、普通の人には、クレージーに映るに違いない。

自分も含めそうした狂態を楽しむ心のゆとりが不可欠のようだ。

 

 

 

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-5-(静岡市清水区由比町)

2016-05-17 05:57:10 | 石仏めぐり

由比の宿場本陣近くの寿司屋で由比名産「桜エビ丼」の昼食。

午後一番は、これも由比の入山という地区のお堂。

◇入山庚申堂(静岡市清水区由比町入山)

バスは山の中へとんどん上がって、集落のどんづまりでストップ。

かなりの勾配の坂を歩いて庚申堂へ。

年配のご婦人が5,6人屯している。

    後姿は、ガイド役の井戸寛さん

観音の日の集まりだそうだ。

庚申講もやっているという。

江戸、明治の名残がここには、かすかにあることになる。

お堂の横が広い空地になっていて、その奥に観音石仏が3段に並んでいる。

西国三十三所観音で、天保七年(1836)造立。

 石工銘はないが、「信州石工じゃないの」と誰かのつぶやきが聞こえる。

お堂の前にも希少な石仏がある。

「醍醐塔」なるものを、私は初めて見た。

像容は、宝珠を両手で持つ地蔵のようだが、どうなのか。

『日本石仏図典』で「醍醐塔」の項を見る。

「醍醐の味は、微妙第一にしてよく諸病を除き、諸の有情をして身心安楽ならしむ、とあるように、仏教の精髄ともいうべき醍醐塔を造立する功徳の、はかりしれないことを示すものであろうか」。

左端の石仏は、左手の未敷蓮華に右手をそえるように見えるので、聖観音だとばかり思い込んでいた。

「これは馬頭観音だよ」。

誰かの声に振り返ってみる。

たしかに頭上に馬の顔がある。

 

それにしてもこの女人(にしか私には見えないが)のお顔のすばらしいこと。

柔和な佇まいは、見る者すべてに安らぎを与えてくれるようだ。

石仏というより、現代彫刻としても立派に通用する作品に思える。

お堂に集まった女性たちは、眼下の集落の住人。

三十三所観音も、醍醐塔も馬頭観音も、集落の人たちが寄進したものに違いない。

そんなに戸数があるようには見えないから、一戸当たりの負担も少なくなかっただろう。

お金よりも信仰心が上回る、そんな時代がこの集落にはあったことになる。

庚申塔も2基ある。

うち一つが面白い。

なにしろ「南無青面大鬼王」と刻されている。

しかも造立年が、昭和54年(1979)と新しい。

ありふれた「庚申塔」や「青面金剛」ではなく、「南無青面大鬼王」と彫るように石工に発注した人物が、下の集落にいた(いる?)ことが面白い。

どんな人なのか、興味深い。

もう1基も捨てがたい。

一猿一鶏の庚申塔。

写真では、鶏が分からない。

写真が小さくて猿も分かりづらいが、「聞かざる」。

一猿は「聞かざる」ばかりではない。

と、すると「聞かざる」を選んだ根拠があるわけで、タイムスリップして、そこらあたりを訊いてみたいと思う。

 

 

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-4-(静岡市清水区由比町)

2016-05-13 05:14:57 | 石仏めぐり

興津から由比へ。

東海道の宿場を東へと進む。

◇臨済宗妙心寺派金谷山桃源寺(静岡市清水区由比町)

宿場町は道幅が狭い上に駐車場が少ない。

バスを降りて歩いて寺へ行ったら、なんのことはない広い寺の駐車場があった。

山門前に石仏群。

秩父、坂東、西国、四国巡拝供養塔。

宝暦三年(1753)造立。巡拝塔としては大きい方か。

御幣持ち双体道祖神。

井戸さんの配布資料には「当地域では珍、信州石工の置き土産?」とある。珍なのは、双体道祖神なのか、御幣持ちなのか聞き逃した。

地蔵立像。

馬頭観音。

角2本、耳2本とすると牛頭観音になるが・・・

文字馬頭観音の両側に「大日如来」文字碑。

像塔は良く見かけるが、文字「大日如来」は少ないのではないか。

境内に入る。

金毘羅さまを祀る鎮守堂の前に大きな庚申塔がある。

本堂まえには、羅漢さんが在す。

十六羅漢か。

墓地入口に七観音。

彫りがシャープだなと思ったら、高遠石工、北原佐吉の作と銘がある。(写真に撮ったがぼけている)

素晴らしいので七観音全部を載せておく。

   不空羂索観音

   如意輪観音

   准胝観音

  十一面観音

   馬頭観音

    聖観音

   千手観音

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-3-(静岡市清水区興津町)

2016-05-09 05:13:10 | 石仏めぐり

藤枝市から車は、一路、東へ。

静岡市清水区興津町(旧静岡県庵原郡興津町)の清見寺が次の目的地。

◇臨済宗妙心寺派 巨鼇山 清見寺(静岡市清水区興津町)

車を降りて、山門へ向かおうと坂道を上りかけたら、女性メンバーの一人が、「そっちへ行く前に見てもらいたいものがあるの。こっちへ来て」と右側の門へと誘導する。

門前右に石仏が1基在す。

近寄って見る。

彫りのいい千手観音だった。

彫りがいいだけでなく、台石も石仏の像高に不釣り合いな大きさ。

どんな謂れがあるのやら。

彼女を含めて、この寺に来たことのある参加者は数名いそうだが、誰も「来たことがある」とは明かさない。

訊かれないから言わないだけなんだろうが、中々、手ごわい人たちなのです。

改めて総門に向かうべく坂道をのぼる。

すると境内を横切るように線路が走っているのが見える。

タイミングよく姿を現した電車は、カメラの放列の下を走り抜けてゆく。

東海道線が開通したのは、明治22年(1889)だったが、鉄道誘致の運動の一員だった住職は、境内が寸断されることに文句を言うどころか、賠償金を献納したという。(Wikipediaより)

電車を下に見ながら橋を渡って山門へ。

山門は釘を1本も使っていない建築と寺のHPにはある。

山門前の宝篋印塔は、慶安2年(1694)造立。

田中清左衛門尉官藤原長世という人の逆修塔。

右に写っている後姿は、六地蔵を撮っているツアーの仲間。

狭い場所に十数人がどっと押し寄せるのだから、こうしたことは避けがたい。

私の、デブな後姿も誰かの写真に写っているはずです。

山門を入ると左手に鉄分で赤みを帯びた石碑があるのに気付く。

傍らの説明板には「永代接待茶」とある。

碑文は読めるような読めないような按配。

誰が誰に対して茶を接待するのか知りたいが、ネット検索してもヒットしない。

清見寺のHPは立派で見ごたえがあるが、石造物については、完全に無視。

「永代接待茶碑」の由来は、だから知る由もない。

「永代接待茶碑」どころか、五百羅漢も紹介してないのだから、文化財としての石造物に対する寺の偏見は目に余るものがある。

その五百羅漢へ向かう。

左に、丸石神と五重塔が見える。

去年、山梨市で丸石神巡りをした。

寺にある丸石神もいくつかあるが、すべて山門の外。

清見寺のように境内にあるのは珍しい。

いかなる謂れがあるのか、寺に電話したが、「知っているものがいない」とけんもほろろ。

本堂横から後方の斜面いっぱいに五百羅漢が点在している。

壮観だが、五百羅漢なら当然だろう。

とりわけ特別な羅漢ではないようだ。

「これが面白いんですよ」と井戸さんが立ち止まる。

指さす先には、お腹に顔を抱く羅漢がいる。

「らごら尊者と云われてます」。

実は、井戸さんの説明を録音すべくカセットレコーダーを持参、この時も、録音したのだが、機器が粗悪品で、テープが聞き取れない。

ネットで調べたら、「らごら尊者は釈迦の息子。『人はその心の中に必ず仏の心を宿す』を表わしている」とあった。

らごら尊者の前に石の塊がある。

「羅漢を彫りかけて途中で止めたものです」とは、井戸さんの説明。

本堂前のソテツの下にもあって、こちらの方が「彫りかけ」であることが分かる。

この五百羅漢を描いた島崎藤村の小説『桜の実の熟する時』の一節が掲示されている。

書き写そうと思ったが、ただだらだらと長いだけで、作家の文章としての巧みさもないので止めた。

写真を読んでください。

本堂前に戻る。

清見寺は古寺だから堂内には文化財も多いし、庭園も有名だが、ツアー一行は靴を脱いで上がることはしない。

室内に石仏はないからだが、さすが日本石仏協会主催のツアー、徹底している。

本堂前に大きな自然石の石碑があって、「食人之食者死人之事」と刻されている。

「咸臨丸乗組員殉難碑」で、揮毫したのは、榎本武揚。

「人の食を食(は)む者は、人の事に死す」と読み「徳川氏の食を食(は)む者は、徳川氏の為に死す」と云う意だという。

慶応4年(1868)、徳川家は政権を新政府に渡し、最後の将軍慶喜は駿府に移った。

幕臣の多くは、難民となって駿河に流れ込んだが、軍艦で函館に向かう者もいた。

以下裏面碑文から

「房総海ニテ俄ニ颱風ニ遇ヒ艦体毀損シテ遠航スル能ハス」。

清水港での修理中官船の襲撃に遇い、死者が出た。

「死屍海ニ浮ブコト累日、人ノ敢テ之ヲ斂ムルナシ、士人山元長五郎ハ侠士也」。

山本長五郎こと清水次郎長が遺体を引き上げて、この地に葬った、というお話。

上野の山で戦死した彰義隊の隊員の死体も、官軍に遠慮して、誰も埋葬できず、腐臭が山に満ちたと伝えられている。

「官軍だろうが何だろうが、人として全うなことをして何が悪い」、侠客ならではのアクションは世の喝采を浴びた(と思われる)。

と、ついつい、長い文章になった。

現地で読めなかった碑文を、帰宅後、資料で読み解くのは、石仏(石造物)巡りの愉しみの一つです。

初めて知った知識は、つい長めの披露になってしまう、その短所が出たというわけ。

「咸臨丸乗組員殉難碑」の前にも、石碑が2基ある。

1基は句碑。

「秋晴や/三保の松原/一文字」は読めるが、俳人の名前が読めない。

調べたら、なんと、あの大野伴睦だった。

「万木」という俳号の俳人だったことは有名らしいが、私は知らなかった。

新幹線「岐阜羽島駅」誘致で見せた剛腕政治家の顔ばかりが浮かんで、俳人のイメージなど浮かんでこない。

「昔は、ここから三保の松原が見えたんですよ」とは、井口さんの弁。

今や、高速道路や工場群が遮って、海岸線どころか海そのものも見えなくなっている。

「万木」句碑の隣は、やたら文字が多い石碑。

高山樗牛の『清見寺鐘音』なる作品の一節が彫られているらしい。

『清見寺鐘音』の出だしは「夜半のねざめに鐘の音ひゞきぬ。おもへばわれは清見寺のふもとにさすらへる身ぞ。ゆかしの鐘の音や。
 この鐘きかむとて、われ六とせの春秋をあだにくらしき。うれたくもたのしき、今のわが身かな。いざやおもひのまゝに聽きあかむ」だか、自然石に刻されているのは、もっと後半の部分。

「鐘の音はわがおもひを追うて幾たびかひゞきぬ。
うるはしきかな、山や水や、僞りなく、そねみなく、憎みなく、爭ひなし。人は生死のちまたに迷ひ、世は興亡のわだちを廻る。山や、水や、かはるところなきなり。おもへば恥かしきわが身かな。こゝに恨みある身の病を養へばとて、千年の齡、もとより保つべくもあらず、やがて哀れは夢のたゞちに消えて知る人もなき枯骨となりはてなむず。われは薄倖兒、數ならぬ身の世にながらへてまた何の爲すところぞ。さるに、をしむまじき命のなほ捨てがてに、ここに漂浪の旦暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。
 鐘の音はまたいくたびかひゞきわたりぬ。わがおもひいよいよ深うなりつ」。

 

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-2-(静岡県藤枝市)

2016-05-05 05:09:10 | 石仏めぐり

≪鬼岩寺の続き≫

 

ひととおり撮影を終えたので、車に向かおうとしていたら、ガイド役の井戸さんが、「一番重要な石造物があっちにあるんです」と声をあげた。

 指さす方を見ると膨大な数の無縁五輪塔群が横たわっている。

 

 近寄って見る。

 中央に立つ四角柱の一面に「有縁無縁三界萬霊供養之塔」とあり、別面に「田中城武将萬霊位佛果」と読める。

 

 五輪塔の数約400基。

 全て裏山の墓地周辺から掘りだされたもので、まだまだ埋まったままの石塔も数多いのだとか。

 

 いずれも室町から江戸期にかかけて造立され、大半はこの地を支配していた田中藩の武士たちの墓ではないかと推測されている。

 

 

無縁五輪塔群の左端前の覆屋には、いかにも年代物の五輪塔と宝篋印塔がある。

 

 

永徳元年(1381)造立の宝篋印塔。基礎に「矢部隼人佑」の銘あり。矢部氏は今川氏の家来。

 

 

応永元年(1394)造立り宝篋印塔。

 

 

 応安六年(1373年)、鬼岩寺地蔵講が造立した五輪塔。これは、納骨五輪塔と云われ、地輪と台座が接する部分に小さな穴が開いていて、中に遺骨を落とす仕組みになっている。

 

 

下の写真が穴の開いた台座。ここに骨を納めた。

 

 

納骨五輪塔なるものがあるのを私は初めて知った。

 最後におまけ。

 無縁五輪塔群のなかに何故か石仏が一体ある。

 「お、馬頭観音だ」。

 「これは耳としては大きすぎる。角だろう。だから牛頭観音ではないか」。

 さすが「日本石仏協会」の旅、すぐ議論が始まるのが面白い。

 

 ◇満願寺跡(藤枝市西益津田中)

「西益津村役場跡地」に車を停めて、民家裏手の細い路地を通り、田中神社の境内に出る。

田中神社の隣、国道1号線に面した空地が目的地の満願寺跡地。

歴代住職墓地は、木の茂みの暗がりの中にあった。

無縁無縫塔群をバックに立つ、役小角(右)と鬼(左)が目的の被写体。

大ぶりの丸彫りで崩れも少なく、保存状態はいい。

従者の鬼は、前鬼なのか後鬼なのか。

片方がないのは、紛失したのか、予算の制約で造らなかったのか。

紛失するには大きすぎるから、初めから1鬼だったのだろう。

撮影して茂みを出ると空地の向こうの駆けあがりに石造物が見える。

可愛い馬頭観音が2基、その手前の石柱が面白い。

正面に「右修善者為犬霊菩提増進也」とあるので、愛犬の供養塔のようだ。

上へあがってみる。

国道に向かって大きな顕彰碑が立っている。

上横に右から「育英碑」、縦に「故幕府儒官永井東陵先生碑」とあるようだ。

国道沿いの説明板によれば、永井東陵は、江戸の昌平坂学問所の教授。

明治2年、藤枝に移住、この地に「育英学校」を開校した教育者とのこと。

これで、藤枝市の石仏巡りは終わり。

ガイド役が佐野さんから井戸さんに代わる。

 

 

 

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-1-(静岡県藤枝市)

2016-05-01 05:32:41 | 石仏めぐり

日本石仏協会の「一泊石仏見学会」には、過去一度参加したことがある。

その模様は、このブログに、NO42、43「日本石仏協会主催日和田高原石仏巡り」としてアップした。

3年半前の2012年11月のことです。

 

今回参加したのは、静岡県の石仏巡りは初めてだからですが、ガイドに井戸寛さんの名前があったからでもあります。

井戸さんは、静岡県東部を守備範囲として、長年精力的に石仏調査をして来られた方で、その活躍ぶりは『日本の石仏』で存じていました。

井戸さんのガイドなら珍しい石仏に会えるかも、と期待が膨らみます。

2016年4月17日(日)午前10時45分、マイクロバスはJR藤枝駅を出発。

参加者17人。

皆さん、石仏協会の会員で、非会員は私ひとりくらいか。

顔なじみの和気藹々のムードが、部外者の私には、かえって、孤立感を深めるように働く。

初日の見学予定地は、静岡県藤枝市。

藤枝市は、中世には鎌倉往還の、近世では東海道の宿場であり、交通の要として機能してきた。

そうした歴史と伝統が石仏に現れる可能性が高い。

ガイドするのは、地元藤枝市の石材会社の社長、佐藤雅基さん。(井戸さんは、静岡市、富士市を担当)

バスはどんどん山の中へ入ってゆく。

奥地から下りながら順番に石仏を巡って行くプランのようだが、藤枝駅を出る時に降り始めていた雨は、ますます強くなるばかり。

雨に加えて風も強く、豪雨というよりも嵐のような状態。

後で知ったのだが、この日、新幹線は強風でストップ、東京では風で建設中の足場が崩れる事故があった。

それでも予定箇所でバスは停まり、熱心な人たちは石仏写真を撮りに車を下りてゆく。

下の写真は、一瞬、降りやんだ合間のワンカット。

雨は降らなくても、雨に濡れた野草でズボンはビショぬれ。

私は、初日は捨てることにして、以降、車を降りることはなかった。

午後3時、予定を途中で断念、ホテルに向かう。

ホテルに着いたら、皮肉にも、雨はあがった。

 

翌4月18日は、快晴。

予定より出発を早めて、昨日、はしょった場所をまず回ることに。

◇真言宗・楞厳(りょうごん)山鬼岩寺(藤枝市藤枝)

奈良時代の神亀3年(726)、行基、開基の古刹。

古寺だけあって、伝説がある石造物がいくつかある。 

車は、広い境内に停車、降りた所が不動堂の前だった。

まず皆がカメラを向けたのは、自然石。

梵字「カーンマーン」が彫られている。

不動堂の本尊不動明王の梵字です。

不動堂の左にも、「阿字」塔がある。

梵字の「ア」は、大日如来を表わすと説明板がある。

その隣に、馬頭観音。

馬頭観音には、敷居が高そうな場所だが、なにか訳があるのだろうか。

覆屋に見なれない石が三つ。

左の石は「鬼かき石」というらしい。

もちろん、伝説がある。

開基してから百年程過ぎた弘仁年間(810~823)、弘法大師空海が東国行脚の折、この地に寄った。その頃悪い鬼が出て人々を苦しめていた。鬼退治をお願いされた大師は7日間秘咒を加持した。すると一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに鬼が姿をあらわした。大師はこの鬼を裏山の岩穴に封じこめた。翌日から村に鬼は出なくなり、これを機に寺の名を「鬼岩寺」と称し、村の名前も鬼岩寺と称するようになった。「鬼かき石」は、鬼がその爪を研いだ石といわれている。

 地蔵堂がある。

中にまっ黒なお地蔵さん。

本尊は、将軍地蔵尊だが、まっ黒なので黒地蔵尊とも呼ぶ。真言宗には、新仏習合の教えがあり、ご本尊は神では、太郎坊大権現様(福徳の神様)にあたります。」(説明板より)

地蔵堂の左にありきたりの文字庚申塔が2基。

こんなどうでもいいのを撮っていて、肝心の三面地蔵尊を撮り忘れたようだ。

山門左手に小さな祠がある。

格子戸越しに覗いてみる。

なんと犬が、しかも黒い犬がこっちを向いている。

傍らの解説版を読んで、伝説を知った。

昔、鬼岩寺にクロという、とても強い犬がいました。それを聞いた田中城のお殿様は、自分の自慢のシロとかみ合いをさせてみると、クロのそれはそれは強いこと、あっという間に勝負がつきました。愛犬のシロが負けた悔しさに、お殿様はクロを捕まえて打ち首にするように、家来たちに命じました。何十人もの槍や刀を持った侍に追い詰められたクロは、逃げ場を失ってとうとう近くにあった井戸に身を投げてしまいました。その時井戸の中から黒い煙がもうもうと立ち上がり、それが何百何千という黒犬となって、いっせいに吠えたてました。さすがのお殿様もびっくり。やっと自分の身勝手さに気付き、深くクロに詫び、ク ロの霊を慰めるために、黒犬神社を造ってまつりました」。

参拝しての御利益については、

神犬クロの「死して尚負けず」の御利益を!
大小の勝負、縁結び、安産、子育て、盗難除け、日切りの願懸け

とある。

勝負事の御利益は分からないでもないが、なぜ、縁結び、子育てなのか、説明がなく、不可解。

≪続きは次回≫

 


116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-4-

2015-12-12 05:21:05 | 石仏めぐり

通常なら12月10日に(4)を、13日に(5)をUP、12月16日に、新しいテーマの(1)に入るのですが、事情により12月19日まで、このままストップ。20日から新テーマに切り替えます。

◇西台不動尊(板橋区西台1-27)

住宅地の中の小路を入ってゆくと、行き止まりの崖地に不動堂がある。

石標がなければ、決してたどり着けない、それほど意想外の場所なのです。

お堂に上がる石段の左の崖地に石仏が点在している。

欠けたり壊れたりして像容が判らない。

ただ「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」と「制多迦童子」は台座に書いてあるから判る。

両者は不動明王の脇侍であり、八大童子の一つ。

境内に「三十六童子」の石塔がある。

崖地の石仏は36体もないから、多分、八大童子だと思うのだが、自信はない。

お堂の扉が開いている。

普段、堂内の本尊を拝むことはしないのだが、開いているので上がることに。

持参資料には「本尊は1mあまりの木彫立像。12年に一度の御開帳のため普段は拝観できない」と書いてある。

目の前の仏像はいかにも秘仏の本尊のように見えるが、お前立なのだろうか。

お堂を出て、靴を履こうとして目に入ったのが、水かけ不動。

正確に言うと、水かけ不動が立つ石桶の縁の椀状穴。

携行した『続平成の遊暦雑記』の「中台・西台の史跡を訪ねる」にも、この穴についての記述がある。

この窪みは、神社お寺の石段によく見られるもので、昔の子供たちが小石で窪みを作り、その中にヨモギや木の実を入れて浸したり、花を叩いて色を出したりして遊んだ跡だそうです。今は寂しげな場所ですが、昔は子供たちの賑やかな遊び場だったのでしょう」

板橋区内の椀状穴については、NO44,NO45http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/0ce43de9227393b5421eb0d968bf2e02

をご覧いただきたい。

穴はあちらこちらでよく見かけるが、穴に言及した記事はほとんどない。

これだけの文章でも、貴重なのです。

◇御霊地蔵尊(板橋区中台3-24)

御霊地蔵も意外な場所にある。

写真の石段を下り、電信柱の右の瓦屋根の向こう側の奥まった一角に地蔵堂はある。

「御霊」と云うからには、怨みを残して非業の死を遂げた者ということになるが、それは誰なのか。

お堂に掲げられた由来書では、天狗党の残党と推測している。

   妙法尊王攘夷二十八志士之墓

由来書の一部を転載しておく。(原文のまま句読点なし)

江戸末期さしも天険を誇った徳川三百年の封建政策も尊王孤忠の志士等大義名分のもとに大政奉還討幕の義は当時の諸藩の志士の多く京都に集まり同志の公卿と往来し国事を義して水戸藩士の武田耕雲斉正生藤田小四郎等筑波山の拠って正義党を挙げ一味天狗党と称し坂本重松二十五歳を頭に最年少十八歳の一行二十八名にて京都に赴き同志と会見討幕挙兵を約し帰省の途中幕府の詮議捜索厳しく東海道の交通叶わず甲州街道より中山道に至り当地まで忍び到着の砌り幕府の捜索一層厳密となり一行は一歩も動けず此の山中に至り七日七夜協議の結果幕府に召し捕らわれ獄門にさらされるを嫌い二十八名はこの山中にて各々我が身の墓穴を掘り互いに刺し合い刺し違えて安政三年師走八日最後をとげたり(以下略)」

事の発端は、昭和24年、食糧増産のためこの地で開墾していたら、白骨が大量に出てきたこと。

しかるべき識者に問い合わせたら勤王の志士天狗党の遺骨だろうと云われた。

昭和26年には、死者の霊を鎮めるために御霊地蔵を建立、その冥福を祈った。

しかし、その後の調査では、この地で果てたのは、上野戦争で敗れた彰義隊の残党ではないかという説が有効になりつつあるという。

◇延命寺(板橋区中台3-22)

 本堂に向かって左の崖下にある池に石造不動三尊。

小さいながらも脇侍もちゃんと彫ってある。

墓地への入口に石仏群。

開発で行き場を失った石仏たちの安住の地。

二石六地蔵は、元々ここにおわしたものか。

庚申塔は6基あるが、一番古い天和3年(1683)のものだけは、板橋区有形登録文化財。

       右端が、区の登録文化財庚申塔

道標を兼ねた庚申塔が2基、文字馬頭観音が1基ある。

 上は、宝暦3年(1753)の道標庚申塔。
 右側面に「此方 ねっぱミち」、左側面に「此方 富士道」と彫られている。

上は、天保14年(1843)の道標馬頭観音。

(右)西練馬ふじ大山道
(正面)天保十四卯年三月吉日 羽藤観世音
(左)岩淵川口道
(裏)南板橋道

宝篋印塔は、村の万人講中と庚申講中が建てたもの。(*万人講とは「牛を亡くした時、近隣の世話役が中心となって、講帳を回して広く喜捨を募るもので、寄進一万人を目標とするから万人講という。信仰行為であると同時に、経済的な相互扶助の機能を持つもので、集められた浄財を法要や石塔造立の費用に充てるとともに、次に牛を買い入れる資金とした。」『続日本石仏図典』より)

その隣の小祠は、近くの石神井山の石神井大権現が祀られている。

百日咳、はしかなどに霊験あらたかと伝えられる(という)。

 

◇二股の地蔵尊(板橋区中台1-48)

前を行く女性がふと立ち止まった、と思ったら頭を垂れて合掌しだした。

そこが目的のお地蔵さんだった。

今でも信仰する人がいるようだ。

供花も新しい。

子安地蔵だそうだが、子供の姿はない。

頭に被っているのは、笠のようだが、厚くて重そう、まるで罰ゲームみたいだ。

天明4年の造立、ということは、天明の大飢饉の最中建てたことになる。

前年の浅間山大噴火の余波も続いていて、自然の猛威に人々は打ちのめされていた。

「なんとかして下さい、お地蔵さん」。

他力本願しか、残された道はなかった。

覆屋の隣に馬頭観音と、庚申塔。

いずれも道標を兼ねている。

道標の方向と地名が違うのは、別々の場所にあったものをここに集めたから。

何が悲しいと云って、本来の場所から移転させられた道標ほど悲しいものはない。

存在意義は皆無、むしろ間違った道案内をするのだから、マイナス評価とならざるをえない。


116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-3-

2015-12-08 04:32:48 | 石仏めぐり

円福寺の塀沿いに徳丸方向へ。

最初の道を右へ下ると法蔵庵に着く。

谷越えに円福寺が見える。

◇法蔵庵(板橋区西台3-35)

無住の寺のようだが、資料によると昔から円福寺持ちだという。

門前に六地蔵(造立享保6年ー14年)と青面金剛庚申塔。

正徳6年(1716)造立の青面金剛は彫りが深く、日月、二鶏、三猿がくっきり。

足下の鬼の尻の割れ目が生々しい。

右側に「武州豊嶋郡西台郷田端村講中」とある。

法蔵庵から緩やかな坂道を下ってゆくと右に急な石段があり、その上に京徳観音堂がある。

◇京徳観音堂(板橋区西台3-53-26)

「京徳」とは優美だが、この辺りの小字名だったとか。

観音堂に掛かる鰐口には「教徳寺」と刻されている。

廃寺となった教徳寺に代わって、現在は、円福寺がお堂を管理している。

「教徳」は、参道の急な石段わきの地蔵の刻銘「西台村教徳念仏講中」にもある。

人間くさい地蔵の顔だが、首がとれて、別な顔をのっけたものか。

この地蔵尊より10m先の覆屋に2基の庚申塔と馬頭観音1基がある。

小さい庚申塔は風化が激しく、読み取れるのは、「願主福太郎」だけ。

青面金剛陽刻の方は、宝永四年(1707)造立、台石の銘「西台京徳村庚申講中」からこの辺りは、京徳村だったことが判る。

文化十五年(1818)造立の馬頭観音には「施主荻野万吉」の文字。

この界隈は、坂道だらけ。

万吉さんちの馬は、難儀の一生を送ったに違いない。

 

38段の石段を上る。

本堂に向かって左側に、右から小堂、覆屋、無縁墓群が並んでいる。

 

小堂の中の石仏は、薬師如来。

その昔、「目の薬師」として人気があり、「め」の絵馬が堂を覆うように掛けられていたらしいのだが、今は一枚もない。

西台4の「耳だれ庚申塔」に祈願達成の柄杓が奉納されているのとは、対照的だ。

 堂横の覆屋に立つのは、馬頭観音。

馬頭観音は、屋根があって辛うじて雨露をしのげているが、その隣の、人間様の無縁墓は野ざらし。

この放置されたかのような石造物群に、板橋区の登録文化財が4基もある。

まず奥列にせせこましく並ぶ2基の宝篋印塔がそれ。

造立、延文6年(1361)は、板橋区で2番目に古い宝篋印塔となる。

南北朝時代、この地を支配していた豪族の遺品ではないかと推測されているらしい。

向こう側の、宝珠が欠けているものには「逆修 性阿弥陀佛」の銘が、手前のものには「逆修道用」の刻文がある。

両方とも延文六年七月十三日と記されている。

残りの登録文化財は、武士の墓2基。

2列目の右端に「源姓井上氏帯刀正昭墓」。

 

前列左端に「井上右京正員之墓」。

二人は父子で、父正昭の父、井上正就は、家光に将軍を譲り、西の丸から幕政を仕切っていた秀忠を補佐する老中の一人。

 江戸城殿中での刃傷事件としては、浅野内匠頭が吉良上野介を切り付けた「忠臣蔵」が有名だが、その70年前にも同様な殿中刀傷事件があって、老中正就は切りつけられた被害者。

寛永5年(1628)のことだった。

当時、テレビのワイドショーがあれば、一週間ぶっとおしでトップニュースとして放送され、視聴率を稼いだに違いない。

それほどのスキャンダルだった。

『徳川大猷院殿御実記巻十二』での事件の記述は「十日目付豊島刑部少輔信満西城において遺恨あるよしいひて不慮に宿老井上主計頭正就を刺殺す。小十人番士青木久左衛門義精駆来て刑部少輔をいだきとめしが、其の身も深手負て営中にて死す。(略)豊島が正就を怨みけるは、婚約異変の事よりといへり」。

「婚約異変の事」というのは、老中井上正就の息子の縁談話のもつれを指す。

殿中で切り付けた豊島明重は、正就の息子と大坂町奉行の娘との縁談の仲人を務めることになっていた。

しかし、進んでいたこの縁組を正就が一方的に破棄したことで、事件は起きた。

破棄したのは、大奥の実力者春日の局から、出羽山形二十万石城主鳥居忠政の娘と縁組するようにとの「上意」があったからだったが、仲人役の豊島は「小身の大坂町奉行より、大身の山形城主に目がくらんだ」と怨みを抱き刀傷に及んだというもの。

家光の時代、武勲や戦功での取り立てはなくなり、家格がものをいうようになっていた。

中級旗本の大坂町奉行より、譜代大名の鳥居山形城主との縁組を正就が優先するのは、お家のことを考えれば当然のことだった。

そして、豊島明重にとっても、老中井上家との縁組の仲人を務めることは、家格をあげるチャンスでもあった。

時代が色濃く反映した事件ということになる。

殿中刀傷事件の主人公井上老中の息子と孫の墓が、なぜ、京徳観音堂にあるかは不明だという。

≪続く≫

 


116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-2-

2015-12-04 07:01:19 | 石仏めぐり

町内だから、日曜寺と智清寺は別として、板橋区内で私が足しげく通った寺と云えば、文殊院(仲宿)、東光寺(板橋4)、延命寺(志村2)、安養院(東新2)、乗蓮寺(赤塚5)、松月院(赤塚8)などか。

石仏撮影では、南蔵院(蓮沼町)、長徳寺(大原町)、常楽院(前野町)は外せないが、とりわけ円福寺(西台3)には魅力的な如意輪観音像が数多くおわします。

このブログ「No100石仏のある風景」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/6962990491edd8313e0f1ede19035789

でも書きましたが、私の石仏入門の手引き書は佐久間阿佐緒『東京の石仏』でした。

佐久間氏の石仏の評価ポイントは、彫像としての美しさ、可愛さにあります。

佐久間氏に感化されて、当初、「如意輪観音ミス板橋」探しに熱中したものです。

私が選んだ「如意輪観音ミス板橋」は、円福寺の無縁仏群にいらっしゃいます。

美人というよりは、おきゃんで小生意気な江戸っ娘という風情。

どんな女性だったのか、私の推測を「NO39My石仏ミス板橋」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/d5c117a3e324a4662fc41af6a5d11be6

で展開しています。

生前の彼女を知っていた石工が彫ったものではないか、との私の推測に、そんなことは決してありえないと私の石仏の先生・小松光衛さんが言下に否定されたことが記憶に残っています。

そして、円福寺には、「烏八臼(うはっきゅう)」でも何度か訪れました。

滅多に見ることのない烏八臼墓標が、ここ円福寺には東京都内で最も多くあると云われています。

烏八臼は「ウハッキュウ」と読み、戒名の上に彫られて、罪滅成仏の功徳を与える文字記号ですが、その意味合いははっきりせず、未だに10を超える字義解説があるくらいです。

「NO12謎の烏八臼」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/f2cc6b4f647adf4f93183e423cb0ab6d

をご覧ください。

美人の如意輪観音や烏八臼を探しに何度も円福寺へ行きながらも、そこに板橋区の指定、登録文化財があることに全く気付きませんでした。

昭和58年板橋区指定有形文化財の雲版と昭和60年に板橋区で登録された月待画像板碑。

円福寺へ行って、探すも見当たらない。

清掃中の作業員に訊く。

本堂にあって見られないが、レプリカなら板橋区立郷土資料館にあるとのこと。

早速、赤塚の郷土資料館へ。

板碑と雲版が隣り合って展示されています。

上部の肩左右からの切れ込みがあって、雲の形に似ているから「雲版」と呼ばれるらしい。

説明文を書き写しておく。

明徳二年銘雲版
  明徳二年(1391)青銅製 高さ37.7㎝ 幅35.5㎝ 撞座径(つきざけい)7㎝

 雲版は寺で食事や法要の開始を知らせるために木槌で敲く道具。円福寺の雲版は上部に懸け穴があり、下部中央に連座の撞き座がある。元々は武蔵野国高麗郡所在の寺にあったものと思われる。いつ頃円福寺に伝来したかは不明。この雲版には同寺開基の太田道灌が茶室で使用したとの伝承がある」

もともとは中国の楽器で、役所で人々を呼び集めるために使われたものらしい。日本には、鎌倉時代、禅宗とともに伝えられ、主に禅寺で使われてきたが、浄土宗や日蓮宗、あるいは茶室などでも使われてきたのだそうです。

月待画像板碑は、阿弥陀如来像が浮彫されたもの。

梵字板碑ばかりの中で、仏像線彫画像の板碑は極めて珍しい(とされる)。

線彫りの像はどうにか見えるが、下部の文字は読み取れない。

本来は縦書きなので、横書きは不自然だが、碑文は下記の通り。

                    光明遍照十万世界
 (日)                道秀宮犬女切▢弥
             足机     文明十七年乙巳
 (阿弥陀尊図像)    具      奉月待供養結集
             三前     霜月二十二日
 (月)                道乗弥五郎五郎三郎
                    念仏衆生摂取不捨

 

上部には、右に太陽、左に二十三夜の月が刻まれ、中央に蓮座に乗る阿弥陀如来が線彫されている。来迎の弥陀で、印は上品下生。像の下に燭台と香炉と花瓶を載せた三具足がある。

光明遍照の偈は、「観無量寿経」からのもの。

道秀、宮犬女、切口弥、道乗、弥五郎、五郎三郎の六人は、月待ちの講員。

この碑が造立された文明17年といえば、円福寺の開基者、太田道灌が存命していた。

なお、宮犬女は、女性の名前。

月待というのは、旧暦二十三夜などの晩、講員が月の出るまで念仏をあげ、詩歌を作り、飲食を使、月がのぼると心願の達成を祈る催しで、文明の当時には、太田道灌や連歌師宗祇などもこの会を催した。(『続 平成の遊暦雑記』から)

円福寺には、もう一つ、区指定の文化財がある。

境内に高くそびえる樹齢400年の高野槇。

円福寺が、川越からこの地に移転してきたとき、高野山から移植してきたと云われる霊木。

その霊木の下のケージには、孔雀が2羽いる。

お釈迦さまが蛇に襲われたとき、蛇を食べて助けたのが孔雀だったという仏話に従って飼っているとのこと。

≪続く≫

 


116東京都板橋区西台、中台の寺社と石仏巡り-1-

2015-12-01 05:14:39 | 石仏めぐり

恐らく誰一人として、今回のテーマに興味を持たないだろう、と思います。

なにしろ、板橋区の特定地域の寺社と石仏めぐり。

これといって価値のある石造物があるわけでもなく、ただひたすら普通でありふれたものばかりなのです。

それなのに何故?

答えは単純、窮余の一策だからです。

これといったテーマが思い浮かばない。

締め切りは迫る。

さあ、困った。

手近ででっち上げるとしたら、近所の石仏巡りしかない。

で、「板橋区の西台、中台の寺社と石仏めぐり」というわけ。

「御用とお急ぎでない方」だけ、お付き合いください。

西台、中台の「台」は、台地のことです。

台地だから、そこよりも低い低地があるわけで、その間には必ず坂がある。

坂道だらけの石仏巡りか、嫌だなと思いながら、東武東上線上板橋駅から東に向って出発。

「上板橋」は、我が青春時代のホームグランド。

大学の寮が、カミイタ(上板)にあった。

寮とは名ばかり、陸軍の軍馬の馬房を改造したバラックで、馬房の間仕切りはそのまま、床板を張って畳を敷いた8畳に4人が入居。

押入れがないから布団は敷きっぱなし。

入寮してひと月ほどしたら、集団赤痢が発生した。

同室の2人が都立豊島病院に隔離入院したが、私ともう一人は罹らなかった。

消毒液の刺激臭で、夜、寝られなかった記憶がある。

今から60年前の事です。

寮の跡地は、現在「平和公園」というとぼけた名前の公園になっています。

平和公園の北側に走るのが富士見通り。

その富士見通りを西に行くと岐路にぶつかり、そこに庚申塔があります。

新田前庚申塔(板橋区若木1-7)

新田と云うから、かつては一面の田んぼだったのでしょう。

そんな光景を想像できないほど周囲の景観が激変する中、ひとり庚申塔だけが往時を偲ばせています。

建てたのは、中臺村新田講中拾人。

ちょっと珍しいのは、道標を兼ねていること。

右は西台、左は下練馬方面。

下練馬宿からは「大山道」と呼ばれ、参詣者が往き来するので「道者街道」と呼ばれていました。

岐路を右へ。

環八陸橋を渡り、突き当たりを右折して進むと二股にまた庚申塔がある。

耳だれ庚申塔(板橋区西台4-9)

立派な笠つき青面金剛像だったらしいのだが、今はその面影もない。

資料によれば、側面に「嘉永七甲寅年正月 願主 内田弥市右衛門」とあるという。

庚申塔の背後に柄杓が奉納されている。

この庚申さまの効用は中耳炎だそうで、祈って治ると柄杓に穴をあけて奉納するのだとか。

柄杓があるのだから、中耳炎が治った人がいることになる。

≪続く≫

 

 


110 比叡山延暦寺の石造物(六)横川

2015-09-13 05:44:03 | 石仏めぐり

このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの6回目です。

最後の目的地横川バス停に到着。

横川の入口前に一対の石灯籠がデンと座っている。

入るとすぐに石仏が目に飛び込んでくる。

きちんとした石組みの上におわすのだが、ありふれた石仏のようだ。

こうした下界ではありきたりの石仏が、比叡山ではことさら目につくのは、その数が少ないからです。

なぜ少ないのか。

寺の本堂の奥におわす仏像を気安くお参りできない庶民のために、石仏は作られました。

比叡山の僧侶たちは、拝むべき仏さまに苦労はしません。

石仏は不要でした。

だから比叡山に石仏は少ない(と思うのです)。

そんなことを思いながら、鮮やかな朱色の懸崖作りの中堂に近づいて行って、驚いた。

西国三十三観音石仏があったのです。

一応三十三観音全部を写真に納めましたが、載せるのはごく一部にしておきます。

横川中堂から東へ。

道の左側、ちょっと奥まったところに虚子の句碑があるのは知っていたのだが、三十三観音を撮るのに夢中で、帰りに寄るつもりでパス。

これが誤算だった。

三十三観音はぐるっと山を一周して、横川中堂の背後に出るコースで、虚子の句碑には寄らずじまい。

従って下の3枚の写真は借り物。(HP「質素な写真展示室http://susono.jugem.jp/?eid=2087より)

落雷での横川中堂焼失にあたり、多額の寄付をしたことで、昭和28年、虚子の墓がここに建てられた。

昭和になっての逆修塔は、極めて珍しい。

当然、句碑もある。

「清浄な 月を見にけり 峰の寺 虚子

虚子の次女、星野立子の句碑も。

御僧に 別れ惜しなや 百千鳥

道が突き当たる。

右に行けば、恵心堂、左は元三大師堂へ。

右へ折れ、恵心堂の手前の秘宝館へ寄ってみる。

秘宝館は閉館しているが、石造物がいくつかあるようだ。

歌碑が2基。

一つは、米沢吾亦紅の歌。

「春月の湖の全貌となりにけり 吾亦紅

もう1基は不明。

広い庭の一隅に並ぶのは、海軍通信学校学生の慰霊塔。

由緒ある恵心堂には触れずに、兵学校学徒の慰霊碑を取り上げるのは、石造物に特化したブログだからだが、いささかやりすぎの感なきにしもあらず。

 最後に元三大師堂へ。

何故か、良源上人と元三大師が同一人物であることをすぐ忘れてしまう。

比叡山中興の師であり、偉大な宗教家なのに、正月三日が誕生日だから元三大師と呼ばれ、その逸話のそれぞれがご利益と結びついて、民間信仰に不可欠の存在であることはすごいことです。

大師堂の前の石柱には「おみくじ発祥の地」と刻されている。

角大師のお札もそうですが、豆大師、降魔大師、鬼大師、木葉大師、鈴振り大師など、庶民受けする坊さんだったことは間違いない。

庶民受けするということは、偉ぶらないこと。

大師堂裏手の山中にある元三大師廟の墓は、至って質素。

とても中興の祖の墓とは思えません。

「簡素な石塔を置いて墓とせよ。決して掃除はするな」と言い遺したとか。

立派な大師堂よりこちらの墓参がお勧めです。

 


110 比叡山延暦寺の石造物(五)西塔

2015-09-10 07:04:55 | 石仏めぐり

 

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と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの5回目です。

 

 常行堂からの石段を下りると、そこが釈迦堂の境内。

降りたら左へ。

正面に坐しておわすのは、お釈迦さま。

釈迦堂の向かって左には、真新しい石仏がある。

「平和地蔵」だというが、右手を突き上げているお地蔵さんは初めて見た。

横の倒れかけた石柱は「黒谷青龍寺」の道標。

黒谷青龍寺への道を挟んで宝篋印塔が1基。

釈迦堂の右側には、なんと涎かけ石仏群。

意想外だったので、びっくり。

その右隣の自然石は、歌碑。

近寄って見ると九条武子の文字が読める。

この院櫺子の端に
 せきれいの巣あり
 ひな三つ 母まちて鳴く」 

少し離れると歌碑だとは見えない石造物に存在価値はあるだろうか。

そこへゆくとすぐ近くの牧水の歌碑は実に分かりよい。

歌碑は読めてなんぼ、と思ったらいい。

比叡山の
   
古りぬる寺の
       木がくれの
    庭の筧を
      聞きつつ眠る
           牧水

 残るは釈迦堂裏の弥勒菩薩座像のみ。

細い山道を歩き出したが、バスの時間が気になって断念、引き返した。

弥勒菩薩の写真はネットで探せばいくらでもあるので、なくてもいいが、その近くの相輪塔へは行っておきたかった。

『続日本石仏図典』によれば、相輪塔は最澄が日本に持ち込んだもので、天台宗寺院にわずかあるばかり。

それも青銅製が多く石像は珍しいのだという。

この写真は、借り物。

  HP「エマ・ムーの日本仏塔訪問日記」より無断借用

バスに乗って気が付いたが、西塔での聖地・浄土院(伝教大師御廟)に寄るのを忘れていた。

歩くのが遅くて、ついついバスの時間が気になり、バス停に直行することになる。

 

次の目的地は、横川(よかわ)だが、途中の峰道バス停で下車。

琵琶湖を一望するレストランで昼食。

レストランの反対側に立つのは、伝教大師像。

高さ11m、根本中堂開山1200年を記念して、昭和67年(1987)建てられた。

傍らに伝教大師御歌碑。

「新しく後のみ代の仏までも 光伝えよ法のともしび」。

バス通りの反対側に「黒谷青龍寺参道」の石柱がある。

せめて「青龍寺」や「無動寺谷」にも行ってから、比叡山の石造物を語るべきではないか、そんな声が聞こえてきそうで、落ち着かない。

≪続く≫

 

 

 


110 比叡山延暦寺の石造物(四)西塔

2015-09-07 06:45:07 | 石仏めぐり

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と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの4回目です

シャトルバスで西塔へ。

 

受付付近には、石燈籠が数基ある。

参道を下ってゆくと三叉路。

右は浄土院、左はにない堂経由釈迦堂へ。

その分岐点にあるのが、五重照隅塔。

「個々人が思いやりの心を持って一隅を照らす人になる」という願いが込められているのだそうです。

その傍らにあるのが、「弁慶の飛び六法 勧進帳を観て」なる詩碑。

一つの傷も胸の騒ぎもなく 真に為し
 
をうして終った 
 独り凝って動かず
 晴れ渡る安宅の空に
  知らず知らず涙が滲じむ 
 沁み徹る人生の味 
 成就の味 
       草野天平

作者の草野天平は、詩人草野心平の弟。

昭和25年、比叡山に篭って詩作していたが、2年後死亡したことで、ここに詩碑が建てられた。

弁慶のにない堂がこのすぐ先にあるから、この地が選ばれたのだろう。

詩碑の横には、いかにも比叡山らしい石碑。

「伝教大師御遺誠
 我が志を述べよ
  天台座主大僧正孝淳」

台石に「天台宗檀信徒会」とある。

参道左に「聖光院跡 親鸞聖人住持の寺」なる石碑が立っている。

わずか9歳で出家した親鸞は、ここ聖光院に住して修行に励んでいた。

聖光院跡に隣接する広場には「親鸞聖人御修行の地」なる石碑が立っている。

 門徒衆にとっては、この変哲もない空地が聖地ということになる。

にない堂に向かって坂を上る。

歌碑がある。

しづやかに輪廻生死の
 世なりけり はるくるそらの
 かすみしてけり  雄郎

雄郎とは、歌人米田雄郎のこと。

東近江市の極楽寺住職で、短歌結社「好日」社の主宰。

この碑は、昭和33年(1958)に建てられたが、病弱な雄郎は医者に、除幕式出席を止められた。

しかし、「除幕式に出て死ぬのなら本望」と駕籠に乗って出席したという逸話がある。

 歌碑の背後にポツンと2基の小五輪塔。

比叡山に来て、初めての五輪塔です。

注意してみないと見逃してしまいそうなほど、風景に溶け込んでいる。

 

にない堂は、相似形のお堂が渡り廊下でつながっている。

向かって左が常行道、右が法華堂。

渡り廊下を天秤棒にして弁慶が担いだので「にない堂」というのだそうだ。

修行中の親鸞は、左の常行堂の堂守を長年務めていたと伝えられている。

にない堂の渡り廊下をくぐって石段を下へ。

根本中堂と同じく、釈迦堂も眼下に沈んである。

石段の途中左にお堂。

恵亮堂は、恵亮和尚(800-859)を祀るお堂。

和尚は大楽大師と称し、修力霊験に優れていた」とは、説明板の内容。

境内の左に在す宝篋印塔風石塔は寿塔。

寿塔とは、生前自ら建てる墓のこと。

建てたのは、円戒国師こと真盛上人。

20年間、この地で修学されていた上人は、10年に及ぶ応仁・文明の乱による惨状を見るに忍びず、
社会浄化に身を挺するために3000宗徒との交わりを辞し、この寿塔を建てられた。決死の覚悟の表明である」(説明板)
寿塔の横に、珍しく2体の石仏。 

左はお地蔵さんのようだが、右は何か。

印相は、阿弥陀さまのようだが・・・

恵亮堂境内には、野鳥観察の中西悟堂の歌碑があったらしいのだが、なんとうかつにも見逃してしまった。

天台宗学林を卒業し、野鳥研究に転じたという中西悟堂の歌は、

樹之雫(きのしずく)しきりに落つる暁闇(ぎょうあん)
             比叡をこめて啼く(な)くほととぎす」

なんだそうだ。