石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

91 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今(新宿区編)

2014-11-16 06:57:27 | 地蔵菩薩

 修理に出していたパソコンが3週間ぶりに「退院」してきた。

心配していた通り、ピクチュアの画像は消失していた。

写真がなければ、「守屋貞治の石仏かけ巡り見仏記(後編)」は諦めざるをえない。

「三好朋十『武蔵野の地蔵尊』たちの今」に切り替えることに。

今回は、新宿区編。

 

◇猫地蔵/自性院(新宿区西落合1)

 猫寺としては、世田谷区の豪徳寺が有名だが、ここ自性院も負けていない。

北口を入ってすぐの石柱の上に大きな石の猫。

秘仏の猫地蔵は、一年に一度、2月3日に御開帳される。

 

      猫地蔵          猫面地蔵
(2枚の写真はブログ「天空仙人の神社仏閣めぐり」より無断借用)

ややこしいことに、猫地蔵のほかに猫面地蔵もある。

私には、どっちがどうだか区別がつかない。

境内の「猫地蔵詠歌」の2番と3番が猫地蔵と猫面地蔵の由来のようだ。

2 文明9年に政争あり 猫に導かれて福を得る
 道灌公の報恩行 み像祀りしはじめとす

3 後に明和の4年には 貞女の鑑称えんと
 猫面地蔵刻みたり 家は栄ゆる子は育つ

だが、漠として、意をくみがたい。

区教委の説明をつけておく。

猫地蔵
猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、 道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、 猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという話が伝えられている。

猫面地蔵
江戸時代の明和4年(1767)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、 牛込神楽坂の屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。

 

◇淀橋七地蔵/常円寺(新宿区西新宿7)

寺は青梅街道に面していて、道を挟んで南側は新宿高層ビル街。

19世紀と21世紀が混在する稀有な場所です。

 常円寺は日蓮宗寺院。

 「日蓮宗に所属する寺にして地蔵尊を安置してある数は希少で、東京都では2,3か所あるにすぎない」P126 (*ブルー文字は、『武蔵野の地蔵尊』の記述)

 日蓮宗寺院には珍しいお地蔵さんが、常円寺には7基もある。

「昭和4年の夏の頃であった。新宿駅の手荷物係に預けられたトランクが異臭を放ち、開けてみたら子供の絞殺死体が7体詰め込んであった。預け主は偽名を使ったが、警察の調べで判明。不義の子供を養育してやるといって養育費をもらい、嬰児は絞殺するという極悪非道の夫婦だった。


この七地蔵は、子供たちの供養にと、淀橋界隈の住民たちが浄財を喜捨して建てたもの。戒名の代わりに〇の中に▽を彫ってある」。 

当時の新聞を探すも見当たらない。

代わりに昭和5年4月の『東京朝日新聞』に板橋もらい子殺人事件の記事を発見。

「身の毛よだつ」「殺人鬼村」「成金気分で浮かれる」「一年に三人を生んでいる女房」「保釈中にもらい子無残の死」などの見出しが、連日、紙面をにぎわせている。

この板橋もらい子殺人事件が起きたのは、地下鉄「板橋本町駅」近くの岩の坂。

私の家からも500mとは離れていない。

今はこれッポッチも面影はないが、東京でも有数なスラム街だった。

そのスラム街の状況がいかなるものだったかは、このブログの「板橋宿を歩くー10」を読んでほしい。

もらい子殺しも書いてあります。

 

◇名和地蔵/専福寺(新宿区東大久保2)

 西新宿の常円寺は日蓮宗で、日蓮宗寺院には地蔵尊は少ないと書いた。

実は、真宗寺院にも同じことが言える。

新宿区内には、19の真宗寺院があるが、地蔵尊を安置してあるのは、泉福寺と専行寺の2か寺。だいたい真宗系は、弥陀一向の宗旨であって、地蔵尊を安置してある例が非常に少ないが、悲惨な最期を遂げた人、あるいは変死したような不幸の人の供養を目的として境内に石地蔵を造立した例はいくつかある。専福寺もそのひとつである。境内に名和地蔵と云う名の同型の石地蔵が4基ならんでいる。P128

4基あるはずの石地蔵を探すが、見当たらない。

観音石仏はある。

墓地も一通り巡って見たが、お地蔵さんはないようだ。

庫裏で訊いてみた。

若い女性が出てきて、「住職が留守なので、詳しいことは分からないが、名和地蔵というお地蔵さんは聞いたことがない」という。

お礼を言って帰ろうとしたら、「そういえば、墓地の一番奥に石仏が固まっているけれど、もしかしたら、あの中にお地蔵さんがあるかも」と教えてくれた。

再び墓地へ。

墓地のどん詰まりに身を寄せて石仏群がある。

その最後列の丸彫りの地蔵4体は、顔かたちが同じ。

名和地蔵に違いない。

名和とは、人の姓。

4体あるのは、母と3人の子どもです。

「明治43年12月21日、盗人が名和家に忍び入った。折柄主人は不在。盗人は物色中、妻浦子さん(28歳)にみつかった。盗人は強盗に早変わり、刃物を使って浦子さんと幼い3人の子供を惨殺し、一物も取らずに逃走した」。

 

 母子4人の冥福を祈って近隣の人たちが浄財を喜捨して造立したのが、この名和地蔵。

近隣の人たちの浄財で造立、というところは、常円寺の淀橋七地蔵と同じだが、淀橋七地蔵は今でも線香と生花が供えられ、丁寧に維持されているのに対し、名和地蔵は見捨てられたように放置されている。

母親と思われる地蔵の頭は修理されているから、見捨てられたわけではなさそうだが・・。

お地蔵さんにも、運、不運があるようだ。

 

◇旭地蔵/成覚寺(新宿2)

成覚寺は、通称「投げ込み寺」。

投げ込まれたのは、遊女の死体だった。

内藤新宿の公認飯盛り女は150人。

宿屋は50軒だったから、1軒当たり3人の遊女を抱えていたことになる。

もちろん、非公認のやみの女もいた。

遊女の扱いは、犬猫同然。

死ねば、着物は剥され、髪飾りは取り外され、さらしもめんにお腰一枚で成覚寺に投げ込まれた。

拾文女郎は、米俵にくるんで投げ込まれた。

投げ込まれた遊女の遺体は、約2200体といわれている。

石段を下りて墓域に入る。

左中央に子供合埋碑。

子供とは、遊女のこと、つまり、遊女供養塔です。

石段のすぐ左下にあるのが、旭地蔵。

旭とは、町名のこと。

地蔵尊は、旭町、新宿高校近くの玉川上水淵に建っていた。

なぜ、玉川上水淵に建っていたかというと、これは玉川上水に身投げした心中者たちの供養塔だからです。

「台石には、寛政、享和、文化などの年に心中した男女の法名が彫り付けてある。願主は惣新宿所在の楼名、客と遊女との心中を、楼主が憐れに思って比翼の共同塚をたててやったのである」P127

 ◇どぶ地蔵・着せ替え地蔵/宗円寺(新宿区市ヶ谷柳町)

 寺は柳町 にある。

昭和のはじめまで寺の前に川が流れ、土手に柳の並木があったから柳町となった。

今は歩道となった暗渠の上を歩く人たちは、足元に水が流れていることを知らない。

どぶ地蔵の名称もこの川に由来する。

川といっても溝のようなもので、当然、どぶ川だった。

このどぶ川に落ちて溺死した人の菩提供養のために造立されたのが、どぶ地蔵。

どぶ川を見たことも臭いをかいだこともない今の若者たちは、どぶ地蔵といわれても何のことやらチンプンカンプンだろう。

寺の前を川が流れ、柳の並木がある写真を区立図書館で探したが、見つけられなかった。

 とぶ地蔵は、着せ替え地蔵と並んでおわす。

西面して丸彫り、左手に童子を抱く座高80㎝ばかりで、台石は六面、西面に子育て地蔵の5字を彫る。

着せ替え地蔵は産婦の家に招かれて安産の日まで滞在し、安産すれば新しく着物を仕立てて着せてもらって寺に戻る。大小二つあって、大きい方はいつも留守居する。

 

 ◇高山卍字地蔵/宗参寺(新宿区弁天町)

 曹洞宗雲居山宗参寺は、境内に名主牛込太郎の墓があるのでその名を知られている。牛込氏は、喜多見、渋谷、葛西氏などとともに江戸の初期における有力者の一人として名高い。

牛込氏の墓の北に隣って南面して高さ1.2mの舟形の光背面に、日月と卍とを彫り、その下に高山院云々と文字を彫り、円頂、立姿の地蔵を浮き彫りにした一塔がある。「干時寛文八申年李右衛門高山院月照宗徹居士信俊逆修云々」と彫る。申の年の開眼であるから日と月とを文字の上に張り付けたのであろう.山鹿素行一家に縁のある石仏である。 P130

 

◇豆腐地蔵/東福院(新宿区若葉町2)

 前回の文京区編でも、喜運寺の豆腐地蔵を取り上げた。

由来は似通っていて、豆腐を買いに来た小坊主を切りつけたら地蔵だった。後悔して善人になった、というような筋書きです。

3体の地蔵の中央、丸彫り、立像が東福院の豆腐地蔵。

東福院の近くの豆腐屋は金貸しもやっていた。

毎晩豆腐を買いにくる坊さんがいた。

豆腐屋の亭主を金の亡者から真人間にするためだった。

坊さんが帰った後、金入れにはいつもシキビの葉があった。

亭主は懲らしめの為、坊さんが木の葉を入れるのを確かめて、坊さんの腕を切り付けた。

血潮はほとばしり、亭主はおそろしくなってその夜は眠られず、翌朝早起きして滴った血潮の跡についていくと、東福院の地蔵堂の前で消えている。堂の中には地蔵の手首が落ちている。びっくり仰天、亭主は腰を抜かしてしまった。悪行を後悔した亭主は生まれ変わって真人間になることを地蔵尊に誓い、地蔵祭を行った。この話は江戸中の評判となり、地蔵尊参詣の人が多くなって豆腐屋は大繁盛した。P132

 

◇成子子育て地蔵/路傍(新宿区西新宿6-9成子天神下)

淀橋七地蔵の常円寺を出て、青梅街道を西へ。

成子坂を下り、成子天神 を過ぎると「成子天神下」の信号がある。

信号を渡る。

左前方、高層ビルの真下にお堂がある。

その一角だけ沈み込んだような異空間。

お堂の存在を知ってか、知らずか、皆一瞥もしないで通り過ぎる。

 

街道筋であるとはいえ、その昔、この辺は追剥が出没する淋しい場所だった。

盆の藪入りで久しぶりに一人息子が家に帰ってくる農家の親父。

息子を歓待してやりたいが、先立つものがない。

ふと悪心を起こして、夕まぐれにまぎれ、旅人を襲い、財布を奪った。

背後から襲われた旅人は即死だった。

家に帰り、財布を取り出した親父は驚いて、財布を落としそうになる。

奉公に出るとき、息子に持たせてやった財布だったから。

父の驚きは言語に絶し、いくら悔やんでも死んだ子は帰り来ない。直ちに一体の地蔵を造って、父は堂守となって一生を終わったという。

昭和50年代まで地蔵講が存在し、バスで長野善光寺に一泊旅行するなど、その活動は活発だったという。

地蔵堂の前の2体の石仏は、空襲で焼けた地蔵堂再建のために地面を掘ったら出てきたのだそうだ。

それは昭和26年(1951)のことだったが、半世紀後の平成14年(2002年)、お堂は耐火構造で新築された。

日本の中でも西新宿ほど激変した町はない。

「昭和」は、すでに、この町のどこにもなくなっている。

しかし、「江戸」は、こうして保存されている。

奇跡というべきではないか、これは。

 

◇咳止め地蔵(カンカン地蔵)/路傍(新宿北新宿2-1)

咳止め地蔵へ行った時、別名カンカン地蔵だということを知らなかったので、ポンチョ風の黄色の布をめくってみることはしなかった。

めくってみれば、お地蔵さんの体はあちこち欠けていたはずです。

カンカン地蔵のカンカンは、小石で石仏を叩く音のこと。

浅草寺にあるカンカン地蔵は、みんなが叩くので、原型をとどめていない。

   浅草寺のカンカン地蔵

「いや、そうではない。カンカンは、咳をするコンコンが変化したものだ」という説もあるようだ。

なにしろ造立されたのが、宝永5年(1708)のこと。

前年の富士山大爆発による大量の降灰でのどを痛める人が続出し、咳止めを御利益とする地蔵の造立は村の総意によるものだった、というのです。

成子坂下の子育て地蔵尊でも書いたが、西新宿は淀橋浄水場跡地が新宿副都心として再開発され、過去を遮断した高層ビル街となった。

しかし、咳止め地蔵尊がおわす北新宿2丁目と西新宿8丁目は、21世紀になっても「昭和」の匂いが漂う一画でした。

銭湯があり、牛乳屋があり、駄菓子屋があった。

当然のことながら、この地域にも開発の波は押し寄せてくる。

平成6年(1994)に始まった再開発計画は昭和的なるものを一新する。

地蔵堂の移転も平成18年(2006)に行われた。

東京にかぎらず、全国的に都市再開発によって消滅していった石仏は数知れない。

淀橋咳止め地蔵がなくならないで、昔より立派なお堂に安置されていることは、現代の不思議というほかはないだろう。

素通りする人が圧倒的に多いが、なかには立ち止まって手を合わせる人もいる。

若者の姿もある。

「なぜ?」と訊かれて、若者本人もその理由を答えられないだろうが、それは彼や彼女が「日本人」だから、としかいいようがない。

未来的な超高層ビル街でも、ここは正に「日本」なのだから。

 

◇地蔵坂由来の地蔵/光照寺(新宿区袋町)

 新宿区には、由緒ある町名が多い。

「袋町」とはどんな由来があるのだろうか。

知りたくなるだけでもいい。

それに比べ、戦後つけられた、栄町、幸町、平和台、青葉台などという町名のいかにくだらない事か。

JR飯田橋駅西口を出て、神楽坂を上る。

毘沙門天を過ぎて最初の小路を左に入る。

坂だ。

坂の名前は、地蔵坂。

新宿区役所が立てた坂名標識には「坂の上の光照寺にある三井寺から移された子安地蔵にちなんでつけられた」とあるが、もっとこみいった言い伝えがある。

光照寺の子安観音は、お産と子供の病気に効験があると人気になり、寺は参詣者で賑わった。

 境内にあるこの地蔵が、タヌキが化けた子安地蔵なのかは不明。
 多分、違うのではないか。

困ったのは寺の境内に住むタヌキたち。

めったに穴から出ることができない。

考えたのが、地蔵に化けて坂を上ってくる参詣人を脅かそうというもの。

この地蔵、突然笑い出したりするので、気味悪がって、夜は人通りが絶えた。

タヌキが地蔵に化けて出た坂だから、地蔵坂というわけ。

地蔵坂には、こんなおまけ話もある。

この話を聞いたお侍が、日暮れに坂を通りかかったら、錫杖をガシャンガシャンといわせながらお地蔵さんが下りてくる。

これこそ例の化け地蔵と侍は刀を抜いて切りつけた。

すると地蔵、はっしと錫杖で受け止め「これ、何をなさる」と戒めた。

よく見ると切り付けた相手はタヌキではなく、昵懇の仲間の武士だった、というもの。

懇意な友人にタヌキが化けたのか、本人だったのか、分からないところがミソ。

この項だけは『武蔵野の地蔵尊』からの引用ではない。

宝暦年間(1751-1764)に出版された『鶏鳴旧蹟志』に載っている話です。

≪参考図書≫

○三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』有峰書店 昭和47年

○安本直弘『四谷散歩』みくに書房 1989年

○芳賀善次郎『新宿の散歩道』三交社 昭和48年

○長澤利明『江戸東京の庶民信仰』三祢井書店 平成8年

○長澤利明『東京の民間信仰』三祢井書店 平成元年

 

 

 


90 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今(文京区編)

2014-11-01 05:52:10 | 地蔵菩薩

パソコンが故障した。

買って1年も経っていない。

写真を外部メディアに保存できないまま、修理に出したので、予定していた「守屋貞治の石仏かけ巡り見仏記(後編)」はあきらめざるを得なくなった。

さあ、困った。

急きょ変更しうるネタはないだろうか。

書棚を眺めていて目についたのが『武蔵野の地蔵尊』3冊。

三吉朋十氏が50年の歳月をかけ採訪した武蔵野一帯の地蔵尊一千体の記録労作。

3冊目の刊行は、1975年、三吉氏93歳のことだった。

40年前、93歳だった人の著書にしては写真は多いが、それでも掲載地蔵の三分の一くらいか。

全部の写真を撮ってみてはどうだろうか。

石仏だから自然消滅はしないだろうが、40年の年月のなかで、環境が変わり、場所が移動したり、一部が破損したりしているものもあるだろう、そんな近況を付け加えるのも、有意義なことのように思える。

思いもしない由来と名前の、いろんな地蔵に会えるのも楽しみだ。

思い立ったが吉日、『武蔵野の地蔵尊(都内編)』を手に地下鉄に飛び乗った。

まずは、文京区の地蔵からです。

三田線「白山駅」で下車、白山通りの坂道を下り、最初の信号を左に入る。

100mほど進むと、そこが円乗寺。

(*文中、青色文字は『武蔵野の地蔵尊』の記述)
(*石仏でない木彫地蔵は、除外)
(*このパソコンは、借り物)

 

◇お七地蔵/円乗寺(文京区白山1)

「寺は太平洋戦争で全焼したあとは、復興容易ならず、仮堂のままである。その後に寺の入口の路傍に地蔵堂を立て、石彫の地蔵と一幅の地蔵尊掛軸とをかけて、お七の供養をしている」(都内版P88、以下同じ)

小ぶりながらも本堂は復旧している。

入口の地蔵堂の前は「南無八百屋於七地蔵」の朱色の幟が林立して、けばけばしい。

 

この於七地蔵を拝んで立ち去る参拝者がいるようだが、境内にはお七の墓がある。

本堂前、参道左の3基の石塔の中央が、それ。

 原型がまるで分らないほど破損している。

芸妓などが削って、墓石の粉を持ち帰ったためという。

 

 

右の石碑は、お七を演じて好評を博した歌舞伎役者岩井半四郎が寛政年間(1789-1801)に建てたもの。

西鶴の『好色五人女』や歌舞伎で、お七物語は広がりを見せたが、同時に異説も生まれた。

その最たるものは、吉三伝説。

もともと吉三は、お七と恋人左門の仲介者だった。

話の本筋は以下の通り。

天和元年(1681)、本郷追分の八百屋が火事になり、一家は菩提寺の円乗寺に避難する。時にお七、16歳。お七は、寺に身を寄せていた旗本小堀左門と懇ろになり、翌春再建された家に戻るも左門のことが忘れられない。二人の仲を取り持ったのが、吉三。葬式の死装束を寺から引き取る湯棺買いを商いとしていた。「家さえ焼ければ、また円乗寺に行ける」と吉三にそそのかされたお七は自宅に放火、捕らわれて、火あぶりの刑に処せられた。

異説では、吉三郎は寺小姓で、お七の恋人になっている。

目黒行人坂の大円寺の吉三の浮彫は、この異説に基づくもの。

 

 大円寺

上は、大円寺境内に立つ西運(吉三)像。お七の死後、僧になった吉三こと西運は、お七の菩提を弔う念仏堂を建立するため、目黒行人坂から浅草観音までの往復十里(約40km)を念仏を唱え日参し続け、27年5ヶ月かけて念願の念仏堂を建立したと伝えられている。これはその日参する姿。

 

円乗寺を出て左へ、坂を上る。

坂の名前は「お七坂」。

坂を上って白山通りを左折すると大円寺の巨大な標柱が見えてくる。

側面に「ほうろく地蔵尊」の文字。

朱色の山門の背後のビルは、都立向丘高校です。

◇ほうろく地蔵/大円寺(文京区向丘1)

「山門のうちに西面して丸彫り、円頂、立高1.05mの珠杖をもった”焙烙地蔵”という名の石仏を安置し、いつも頭上にほうろくをのせてある。脳を病み、あるいは首から上に病のある人がほうろくに祈願の目的を墨書して、これを尊頭にのせて祈願するとなおるという」(P96)

祈願者は今も絶えないようだ。

目算するところ約500枚もの焙烙(ほうろく)が重ねてある。

いずれにも脳の病が墨書されている。

焙烙は1枚、2000円。

寺では、病名と奉納者名を書いて、祈祷の上、尊頭にのせるという。

平成の世の中、焙烙を知らない世代の方が多くなった。

老婆心ながら説明すれば、焙烙とは「物を煎るための素焼の土鍋」。

では、その焙烙が、なぜ、お地蔵さんの頭にのっているのか。

これには、深遠なわけがあるのです。

中国の殷の時代、焙烙の刑という残虐無比な刑罰があった。

炎の上に油を塗った銅板をおき、罪人を歩かせるというもの。

熱いから飛び跳ねる、その姿が焙烙ではじけるゴマなどに似て、焙烙の刑と称された。

生きたまま焼かれる刑は、日本では、火あぶりの刑。

火あぶりの刑といえば、すぐに思い出されるのは、お七。

お七を供養したい仏心があっても、火付け人お七の供養地蔵とわかっては、公儀に穏便に済むわけがない。

お七地蔵とわからないカムフラージュが、このほうろく地蔵にはなされたというわけ。

「ほうろく地蔵はお七の身代わり地蔵」という言い伝えが、今もなお、生き続けているのです。

地蔵堂の前には、庚申塔が3基ある。

この庚申塔もお七に関連があるといえなくもありません。

庚申塔がかつてあった場所は、本郷追分。

本郷追分には、お七が放火した自宅の八百屋がありました。

 

白山通りから住宅地を右左折しながら本郷通りへ。

本郷通りに面して「親鸞研究センター」がある。

 

目的の正行寺はその隣だが、浄土宗寺院です。

◇咳止め唐辛子地蔵/正行寺(文京区向丘1)

太平洋戦争に罹災し、今なお仮堂のままである」と昭和47年刊の『武蔵野の地蔵尊(都内編)』には書いてあるが、昭和59年、本堂は再建され、面目を一新した。

「境内には東面して一宇の仮堂があり」、三吉老が目にしたのは下の写真の光景だったはず。

誰にも顧みられない、わびしさにお堂は包まれていました

今回、2年半ぶりに訪れたら、お堂も新しくなり、境内の雰囲気も明るくなっている。

堂内に坐するのは、怖そうな眼をした男。

「唐辛子地蔵」と云うのだそうだが、とても地蔵には見えない。

覚宝院という名の、耳の不自由な修験者だと山中笑の記録にはあると三吉老はいう。(*山中笑は民俗学者、筆名共古)

覚宝院の石像あり、咳の願掛けに霊験ありと信仰する者多し。願う者は口上にてはせず、書面にしたため堂内に納め置くこととす」。

口上ではなく、書面にするのは、覚宝院が「ツ〇ボ」だったからだが、書面ならハガキでもよかろうと願いをハガキに書いて郵送する横着者が出始めた。

住所がなく「追分覚宝院様」や「たうがらし地蔵様」の宛名だけのハガキもあったらしい。

それでも届くのは、明治七ふしぎの一つと山中笑は言ったという。

ハガキの内容は、例えば、以下の如し。

「セキデナンギイタシコマリオリ三日カンノウチニオナオシ下サレ度候ナオリシタイオレイニ来リマス
                明治三十三年一月六日生 浅草西鳥越八番地 小池松義」

なお、「とうがらし地蔵」の由来については、次のような記述がある。

「この石仏(覚宝院)は唐辛子を好まるとて小さき徳利へ唐辛子2,3本をさして供ずる者あり」。

古いお堂の時は、石仏の前に唐辛子が確かに供えられていた。

が、新しい堂内には唐辛子はどこにも見られない。

唐辛子を供えることくらい容易だろう。

是非、復活してほしいと寺の関係者にお願いしたい。

 

本郷通りを渡って、浄心寺へ。

この界隈は寺町だから、やたら寺が多い。

大円寺、正行寺と浄心寺の位置関係が分かる地図を載せておく。

 

 

 ◇雷よけ地蔵/浄心寺(文京区向丘2)

「大正のはじめころ、大雷雨があった。浄心寺の墓地に落雷し、立木が裂け、石仏が崩れた。2基の石地蔵の1基は砕けたが、ほかの1基は無事だった。人々はこれを雷除け地蔵と呼んだ。落ちない地蔵尊ということで、受験生に人気となり、一時は大勢が参詣した」( p94)

雷よけ地蔵を探して、広い墓地を歩きまわるが、見当たらない。

 

墓地を清掃している老人に訊いてみた

「雷よけ地蔵」という名前を耳にしたことがないと言う。

でも寺が管理している墓域に1基だけお地蔵さんがあるというので行ってみた。

墓地の北隅に、無縫塔、阿弥陀如来と並んで丸彫りの地蔵がおわす。

寺が管理しているだけあって、供花が新しい。

これが「雷よけ地蔵」だろう、間違いないように私には思える。

寺を出て、バスを待つ間、ふと大きなお地蔵さんが立っているのが目に入った。

台石に「春日のお局さんの御愛祈のお地蔵さん」とある。

どういう謂れがあるのか、証拠となる文書はあるのか、寺に電話で問い合わせてみたが、「ただ言い伝えです」と素っ気ない。

もともとこの寺にあったものか、他所から持ち込まれたものか、それすらも分からないらしい。

 

◇豆腐地蔵/喜運寺(文京区白山2)

          喜連寺(文京区白山2)

喜運寺の本堂には、豆腐地蔵尊という木彫りの秘仏が、門前にはお前立と称する石彫地蔵があったが、太平洋戦争で崩壊してしまった」。 

三吉老は昭和47年刊行の『武蔵野の地蔵尊』で、こう書いているが、昭和53年、寺が建てた豆腐地蔵由来碑では、「豆腐地蔵は石仏で、震災、戦災を免れて本堂にあるが、秘仏なので非公開である」と説明されている。

  豆腐地蔵由来碑

となると、本堂前の「延命豆腐地蔵尊」は、お前立ということか。

「都内には豆腐地蔵のある寺は、ここ喜運寺のほか、杉並区の長延寺と長竜寺の3か寺にあるが、その由来は大体同じ」らしい。

『武蔵野の地蔵尊(都内編』での由来は、長文なので、大幅に縮小して載せておく

「小坊主が豆腐を買いに来た日の売り上げには、木の葉が混じっていた。てっきりキツネの仕業と睨んだ豆腐屋の吉兵衛は、坊主の後をつけ、豆腐切り包丁で肩を切りつけた。ギャッという叫び声とともに坊主の姿は消え、後に血のついた石片が転がっていた。血のしたたりをたどってたどり着いたのは、喜運寺。堂の中のお地蔵さんの肩から下が欠けていた。
 "キツネだとばかり思い込んで、とんでもないことをした。お許しください"と吉兵衛は、毎日、お地蔵さんに豆腐をお供えした。この話が江戸中で評判となり、寺の門前に開業した地蔵屋という屋号の豆腐屋は大繁盛した」。(p90)

 

◇甘酒地蔵/日輪寺(文京区小日向1)

まず、写真を見てほしい。

          甘酒地蔵

これが地蔵尊に見えるだろうか。

「甘酒地蔵がお地蔵ならば、蝶々トンボも鳥のうち・・・」と呟いてしまいそうだ。

訳を知るとこれは和服を着た特定の婦人像だと分かる。

それならば、「〇〇像」といえばいいのに、地蔵とするところに、庶民の地蔵信仰の幅の広さと奥深さがあるように思う。

甘酒地蔵の由来は、もちろん、『武蔵野の地蔵尊』に載っているが、今回は矢田挿雲『江戸から東京へ 第五巻』からの引用。

「本堂に向かって、左方にある、一老婆の坐せる石像が、音に響ける甘酒地蔵である。生前は与力某の妻であったが、血族が死に絶えて孤独となり、自分も重い喘息に悩まされていた。咳に苦しむ人を治してあげたいと念じ、余財を甘酒に代え、自宅の門前で接待を始めた。ばあさんの死後、婆さんの家のツゲの木に甘酒のビンをつるして祈願すれば、咳の病は治るという噂が広まり、誰からともなく、婆さんを甘酒地蔵というようになった。日露戦争の頃、日輪寺の住職が石像を刻し、境内においた。爾来、信仰ますます盛んで、痰持、咳持、百日咳が不思議に治り、御礼の甘酒や白酒の寄進が相次いでいる」。

 

◇縛られ地蔵/林泉寺(文京区小日向3)

寺は、拓殖大学の向かい側の台地にある。

境内への石段の踊り場に、縄でぐるぐる巻きにされた石仏がある。

通称、縛られ地蔵尊。

縛られ地蔵としては、葛飾区の南蔵院にあるのが有名で、ここ林泉寺にもあることはあまり知られていない。縁起は双方ともに同じようであって、どれが大岡政談に伝えられる地蔵であるかは疑問である。p107

確かに、傍らの文京区教育委の説明でも、巷間伝えられる大岡政談をあげ、南蔵院にも同じ縛られ地蔵と逸話があるとして、どちらが正統かは言及していない。

 

◇歯痛地蔵/源覚寺(文京区小石川2)

 源覚寺と聞いてピンと来ない人も、コンニャク閻魔と云えば分かる、眼病と厄除けに霊験あらたかなエンマさまの寺。

しかし、三吉老はエンマさまには目もくれない。

「戦災でつんぼ歯痛地蔵堂も焼けてしまった。地蔵尊は壊れなかったが濡れ仏のまま境内の元の場所に寂しく立っており、近所に歯医者があるためか、祈願に来る人もめったにいない。
焼け残った石地蔵は、一つは船底型に円頂の地蔵尊を浮き彫りし、他の1基は丸彫りで立高60センチばかり、歯痛に利益があった。つんぼであるから願い事は一切紙片に書いて柱に釘打ちをしておき、痛みがなおったら釘をぬいてあげる」 (P92)

焼け残ったという歯痛地蔵を探すが見つからない。

狭い境内だから見落とすはずはない、おかしいなと思いながら庫裏のベルを押す。

出てきたご婦人は、「塩地蔵がそうです」とそっけない。

せめて「塩地蔵がそうですよ」と言ってくれればいいのに。

塩地蔵はお堂のなかに確かに2基あるが、頭が塩でコーティングされていて、地蔵なのかどうかも分からない。

「塩地蔵」の説明板にも「歯痛に効く」とは書いてない。

「歯痛に効能あり」と付け加えてはどうか。

「塩地蔵 歯痛地蔵」で検索したら、日本歯科医師会のブログhttps://www.jda.or.jp/park/knowledge/index12_9.html「歯の神様」として取り上げられていた。

「昔は、歯磨き剤の代わりに塩が用いられており、現在でも殺菌や消炎にも効用があると言われています」とその効能は、歯科医師会のお墨付き。

このブログでもNO24,25で「東京とその近郊の塩地蔵図鑑(1)(2)」として塩地蔵を巡った。

その経験では、歯痛よりイボとりに効能ありとする塩地蔵の方が多かった記憶がある。

 

〇三吉朋十『武蔵野の地蔵尊(都内編)』(昭和47年 有峰書店)

〇矢田挿雲『江戸から東京へ 第五巻』(昭和28年 再建社)

〇山本傅『東京の縁日風土記』(昭和57年 堅省堂)

〇長澤利明『東京の民間信仰』(平成元年 三祢井書店)

〇長澤利明『江戸東京の庶民信仰』(平成8年 三祢井書店)

〇岸乃青柳『東京のお寺・神社謎とき散歩』(平成10年 廣済堂出版)

〇小石川仏教会『小石川の寺院 上巻』(平成14年 西田書店)

〇鈴木一夫『江戸・もうひとつの風景 大江戸寺社繁盛記』(1998年 読売新聞社)