石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

136 目黒不動尊の石造物①

2018-07-01 12:41:14 | 不動明王

仁王門前の、目黒区教育委員会による目黒不動尊の説明板に、まず、目を通していただきたい。

瀧泉寺(目黒不動尊)…『天台宗泰叡山龍泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。その昔、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。平成21年3月目黒区教育委員会』
 太字体の部分を補足する。
家光の寄進による堂塔伽藍の造営は、本堂へ向かう石段・男坂の右手に枝を伸ばす「鷹居(たかすえ)の松」と深い関係がある。
寛永元年(1624)、鷹狩りに来ていた家光一行は、肝心の鷹に逃げられて、意気消沈、近くの目黒不動を訪れた。瀧泉寺の住職の祈祷によって、鷹は境内の松に戻り、家光の声に応じて、その手にとまった。その松が、「鷹居の松」なのです。
 
喜んだ家光は、火災で全山無残な姿の寺容を一新すべく、その費用の寄進を申し出ます。この時、再建された堂塔伽藍は、不動堂を始め50数棟、装いを新たにした目黒不動は、江戸の観光名所となります。
目黒の村滝不動へ、俄かに参詣。諸願成就之由にて、江戸中、老若男女、引もきらず群集す。此所往古より古跡たりといえども、新に人是へ参詣す。」(寛永6年『江城年録』より)
 『江戸名所図会―目黒不動尊―』
「諸願成就の由」とは、「鷹居の松」であったことは、想像にかたくない。
この時、家光、21歳。
同じ寛永年間、鷹狩りに来て休憩していた谷中感応寺(現天王寺)の住職にほれ込んで、約3万坪をポンと下賜している。
いいなあ。
「生まれ変わったら」と問われれば「家光になりたい」とつい、口走ってしまいそう。
≪続く≫
 

36 真宗王国井波の不動明王

2012-08-01 15:32:30 | 不動明王

念願の井波へ行って来た。

井波とは、富山県南砺市井波町のこと。

北陸随一の真宗巨大寺院・瑞泉寺とその門前町で木彫工房が並ぶ井波の八日町通りは、歴史的建造物と歴史的町並み景観が見事な場所です。

 真宗大谷派井波別院瑞泉寺                 門前町八日町通り

念願の、というのは、一度、偶然に通りかかって、井波の雰囲気に魅せられ、再度訪問したいと思っていたからでした。

 門前通りに並ぶ木彫工芸店              獅子頭を彫る職人さん

訪れたのは2012年7月26日。

瑞泉寺も八日町通りも提灯が並びお祭りムード。

たまたま、瑞泉寺の年間最大行事「太子伝会」が7月21日から29日まで行われている最中でした。

瑞泉寺には、本堂の隣に太子堂があります。

この太子堂で、聖徳太子の生涯を描いた8幅の絵伝を使って、僧侶たちが、太子の一生とその遺徳を絵解きするのが太子伝会。

1710年に始まった、300年の伝統行事です。

朝9時半から夜8時半まで、1時間ごと変わり番こに僧侶が絵説き法話をする壮大なイヘントで、私が拝聴した2回の法話は、太子27歳と33歳の逸話がその内容でした。

 太子伝会の法話に耳を傾ける信者たち

驚いたのは、聴衆の数と法話に耳を傾ける彼らの真剣な態度。

三々五々、太子堂に向かう人の流れが絶えません。

みんな近在、近郷からの信者さんたちです。

井波町はもちろん、南砺市、砺波市のどの集落にも「太子伝会」のビラが貼ってありました。

9日間を通して太子堂に集う門徒衆の数は厖大なものでしょう。

何か特典があるわけでもなく、ただ法話を聞くだけの為にお寺に足を運ぶそのことが、葬式でしか寺と関係がない私としては信じられない光景なのでした。

瑞泉寺太子堂には、南無太子二歳像が安置されています。

南無仏と唱え、合掌するいたいけで無心な太子二歳のお姿を像にしたもので、いつもは秘仏として閉扉されています。

その秘仏が開扉されるのが絵説き法話の見どころ。

法話がエンディングを迎えると僧侶の背後の白い布がスルスルと上がって、上半身裸、下半身に赤い袴をつけた南無太子二歳像が姿を現します。

秘仏の公開なのに信者たちがあまり興奮していないのには、訳があります。

それぞれの集落にこの南無太子像の摸刻があり、いつもそれを見慣れているからでした。

 

        砺波市太田65の小堂と六字名号塔        小堂の中の南無太子像摸刻

 

富山県内だけで、丸彫り南無太子石像は147体もあるのだそうです。

 

瑞泉寺の正面は、まるで城壁のような石垣に囲まれています。

      瑞泉寺高岡門

加賀越中一向一揆の拠点だったからです。

広大な境内には、しかし、一点の石仏もありません。

これは瑞泉寺だけに見られることではなく、真宗寺院には共通のことなのですが、それは真宗の教えに「およそ造像、墓塔等は弥陀の本願にあらざる所行なり」とあるからです。

「南無阿弥陀仏」と専ら唱えることが真宗信仰の本義で、造像は邪道だというわけです。

敬虔な門徒衆は、当然、この教えに従ったはずです。

ならば、瑞泉寺のお膝元井波の町や近郷の南砺市、砺波市には石仏、石碑はないのだろうか。

あるのです、それが。

しかも、多い。

どんな道を行っても辻々に石仏、石塔が立っていて、とてもここが真宗王国だとは思えません。

           砺波市庄川町                    砺波市中野

まず目につくのは「南無阿弥陀仏」の六字名号塔。

真宗王国なら当然のことでしょう。

特記すべきは、その横にしばしば不動明王がおわすこと。

もう一つ、この地方独特のスタイルがあります。

それは、石仏は堅固な木製かコンクリート製の小堂におさめられていること。

    南砺市東城寺                     砺波市庄川おとし

野ざらしの石仏は滅多にありません。

そして、この小堂にも不動明王が座しているのです。

真宗王国に、なぜ、密教の不動明王が数多く見られるのか。

その答えは、真宗寺院と僧侶たちのありかたにありました。

浄土真宗は、死んだら極楽に行くことを目的とする宗教です。

坊さんは、念仏を唱えるだけで、現世利益の加持祈祷のたぐいは一切行いません。

門徒衆は、極楽往生はしたい、しかし、それ以上に五穀豊穣、無病息災、家内安全を望んだのです。

そこにつけ入ったのが山伏でした。

山伏は僧ではありません。

彼らは、在家の修験者で、山岳で修業することで超自然力を感得する能力と加持祈祷の能力を高めました。

山伏は村人たちから行者さんと呼ばれ、行者たちは村人たちの日常生活のさまざまな相談ごとに応じていました。

山伏の崇拝仏は大日如来で、守護仏は不動明王です。

山伏は、不動明王の絵像や彫像を背中の笈に納めて村里を歩き、祈祷を頼まれると笈を祭壇にして不動明王を安置、修法を行いました。

   井波の町はずれから八乙女山を望む

村人たちにとって不動明王は、身近にあって頼みがいのある、親しみやすい仏様だったのです。

それがどれほど大切なものであったのか、その証拠が瑞泉寺の西のいくつかの集落の神社に現存しています。

神社に不動明王が鎮座しているのです。

                             神明社(南砺市今里)

                            天満宮(南砺市川原崎)

明治維新に伴う神仏分離は山伏たちに壊滅的打撃を与えました。

山伏寺院の神仏習合の祭祀は認められず、多くの山伏たちは野に下って俗人となりました。

やがて神仏分離の嵐が一段落し、社会情勢が落ち着いて来ると、この地帯に独特な動きがみられるようになります。

明治20年を過ぎた頃、神社に不動明王が造立され始めるのです。

村人たちの要望が強かったからでした。

                                            不動堂(南砺市蓮台寺)

                          八幡神社(南砺市東城寺)

 

                             神明社(南砺市沖)

この地域には「神明社」が多い。

正徳2年(1712)の加賀藩寺社奉行の調査では、砺波地域だけで堂営は765社。

最多は神明で247社(32%)。

次いで、八幡111、観音54、諏訪45、五社24、山王26、熊野19、天神18、地蔵16、春日11、などとなっています。

山伏が奉仕する堂営は神明が多く、しかもその山伏は石動山修験の山伏でした。

                     神明宮(南砺市井口川上中)

なぜか、神明社と神明宮があります。

本来は「宮」なのですが、明治5年政府は伊勢神宮など国家管理の神社をすべて「宮」とし、一般のお宮さんは「社」にあらためさせました。

「宮」があるのは、国家の指令がこの地までには行き届かなかったということでしょうか。

以上、もっともらしいことを書き連ねてきましたが、もちろんネタ本があります。

「神社に坐る不動明王たち」西田栄一(『日本の石仏』96号2000年10月)

「真宗地帯の石仏」尾田武雄(『日本の石仏』98号2001年6月)

西田氏によれば、ここに載せた不動明王は、全部、地元庄川の石工森川栄次郎の作品だそうです。

森川栄次郎は、生涯に1000体の石仏を刻んだといわれる名工で、こうして多くの不動明王がこの地に点在するのも彼の存在に負うところが大きいと西田氏は指摘しています。

どの神社の不動明王も、村人たちは火伏せの神として崇めているといわれています。

本来の不動信仰とはまったく異なった火の守護神として祀られていることになります。

勇猛果敢で頼みがいのありそうな不動明王の像容がそうさせるのであり、江戸時代から明治にかけて不動明王に慣れ親しんだ村人たちのDNAがそこに働いているのかもしれません。