石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137文京区の石碑-30-白山神社の2基の石碑と鶏声の井記念碑

2019-07-28 08:42:17 | 石碑

白山神社には、2基の石碑がある。

一つは、鳥居をくぐって、左側の「孫文先生座石」碑。

由緒記
 明治43年5月中旬、神社近くの旧原町の盟友宮崎滔天宅に奇遇していた孫文は、滔天と共に白山神社の境内の石に腰掛けながら語り合った。中国の将来と方策について論じて、時の経つのも忘れた。その時、たまたま夜空に光芒を放つ一条の流れ星を見た。この時、祖国の革命を心に誓ったという。そして彼は、清朝を倒して辛亥革命の最高指導者になり、中国国民党の創設者となった。
 白山神社の清水宮司を中心に有志は、孫文が流星を見て清朝を打倒して新中国国民を救済せんとの決意を固めた場所を、後世にまで明らかにしようとして記念碑を建立した。
  昭和58年6月  白山神社総代 各町会有志建立

 碑文にしては、こなれない文章だが、文意は判る。

境内の石に座りながら宮崎滔天と祖国中国の将来を語り合っていた孫文は、たまたま見た一条の流星に革命者になることを心に誓った、いうもの。

だが、肝心の孫文が座った石がない。

白山神社近くに住んでいた二人だから、夜、境内で話し込んだ可能性はある。

何の確証もない話を「後世にまで明らかにしようと」石碑を建立するとは、なんと大胆な。

こうした「こじつけ伝説」は神社の得意技のひとつで、境内のもう一つの石碑には、その伝説が読み取れる。

◇旗桜の碑

境内社の八幡神社の御神木は、白旗桜と呼ばれる。

白い花で、突然変異なのか花弁の一つがピョコンと立って、まるで旗を立てたかのように見えるので、「白旗桜」。

写真はいずれも他サイトからの無断借用。

(気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録 より)

ごめんなさい。

白旗桜の樹下に由緒記碑がある。

「人皇七十代後冷泉帝永承六年(一〇五一年)四月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義、御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり・・・・・・」

要するに、永承6年(1051)八幡太郎義家が奥州平定の途中、この社に寄り、義家が旗を立てて祈願せられた時の桜ということで「旗桜」だということらしい。

しかし、白山神社が江戸時代初期、小石川植物園の地から当地に移転してきた歴史的事実からすると、八幡太郎義家が旗を立てて祈願したという伝説は、でっちあげというしかない。

旗桜は、江戸三名桜のひとつに数えられ、昭和10年には国の天然記念物に指定された。

 しかし、そのわずか2年後に枯死してしまう。

現在あるものはその後継樹です。

◇鶏声の井記念碑(白山5-13-5 京華女子高前)

 

 白山通りに面して京華女子高があり、道路側の植え込みの中に石碑が1基ある。

 

碑表には、縦書きで

鶏声の井旧跡

白河楽翁公が酒井家隣地一橋
邸に参向の砌鶏声の井戸を
見て詠める歌

筒井筒 いつの暁くみ初めて
  鶏の八声の 名にや立つらん

 そして右側面には

伝ふる所の鶏声の井はこれより正南二十五尺の地点にして人家の床下にあり、原町自治会は久しからずしてその殲滅せんことを慮り昭和3年4月この碑を建つ。伯爵 酒井忠正書」

 石碑は、寿命が長い。

時には、対象の記念物がなくなって、碑だけが残ることもある。

この「鶏声の記念碑」が建てられたのは、昭和3年(1928)だったが、その時既に井戸は、人家の床下に埋まって、人目につくことはなかった。

「このあたりに鶏声の井があったことを喚起するために」建立された石碑は、その後、2回、移転を余儀なくされ、昭和49年、この地に落ち着いた。

「鶏声の井」があった場所とは無関係な場所に立つ記念碑は、存在理由があるのか、疑わしい。

記念碑の傍らの説明板によれば、「その昔、夜、鶏の鳴き声がするので、その葉所を掘ったら、金の鶏が出てきたので、その井戸を鶏声の井と呼び、界隈は「鶏声ケ窪」と呼ばれた。明治2年(1869)、「鶏声暁に告ぐ」から町名を「暁町」にした」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑-29-一葉樋口夏子碑(西片1-17-18)

2019-07-21 08:52:46 | 石碑

白山通りに面した洋服の量販店の前、ウインドーに接した形で、碑はある。

赤い店名の看板がけばけばしくて、一葉碑は沈み込んだように目に付きにくい。

近寄って見る。

◇一葉樋口夏子碑(西片1-17-18)

自然石の「一葉樋口夏子碑」とステンレススチールの「樋口一葉終焉の地」説明板がある。

花が供えられている。

「丸山福山町町会」とある。

「隣に酒うる家あり、女子あまたいて、・・・遊び女に似たり。
 常に文書きて給われとて、わがもとに来る。ぬしはいつも
 変わりて、そのかずはかりがたし(一葉日記「しのぶぐさ」)

上は、文京区制作の旧町名案内の文面の一部。

この地は、今は西片だが、昭和39年までは「円山福山町」だった。

 

まずは、自然石の碑から。

一葉樋口夏子の碑

 花ははやく咲て散がた はやかりけり あやにくに雨風のみつヾきたるに 
かぢ町の方上都合ならず からくして十五円持参いよいよ転居の事定まる 
家は本郷の丸山福山町とて阿倍邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが
有けり守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず 
家賃は月三円也たかけれどもこゝとさだむ 店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すも 
わづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也 五月一日 小雨成しかど転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ

 上一葉女史の明治廿七年四月廿八日五月一日の日記より筆跡を写して記念とす

 

この碑の左隣に、ステンレス板を折って、上面と縦面の両面を使っての説明板がある。

まずは、上面から、

 樋口一葉の本名は奈津。なつ、夏子とも称した。明治5年(1872)東京府内幸町(現・千代田区内幸町)に生まれ、明治29年(1896)この地で、短い生涯を閉じた。文京区在住は十余年をかぞえる。明治9年(1876)4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ごした。一葉はこの家を懐かしみ”桜木の宿”と呼んだ。父の死後戸主になった一葉は、明治23年(1890)9月本郷菊坂町(現・本郷4丁目31・32)に母と妹の3人で移り住んだ。作家半井桃水に師事し「文学界」同人と交流のあった時期であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。                    終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年(1894)5月のことである。守喜(もりき)という鰻屋の離れで、家は六畳と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、”奇跡の二年”と呼ばれている。「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶことができる。

正面向きの縦書きは、右隣りの一葉樋口夏子碑の変体仮名を現用仮名に変えて読みやすくしたもの。

 

原文と同じく縦書きにしてある。

現用仮名にしてあっても、私は、すんなり読むことができない。

「変体仮名だから読めなくて」と言い訳することもできない有様で、なさけないこと夥しい。

 

 


137文京区の石碑ー28-童謡関連顕彰碑2基(吉祥寺 本駒込3-19-17)

2019-07-14 08:31:38 | 石碑

 

本駒込の吉祥寺は、曹洞宗の檀林としての巨刹で、墓地に五輪塔が目立つのは、大名家の墓域が多いからだとは知っていた。

だからそうした格式とはちょっと無縁な、童謡関連の顕彰碑が2基も境内にあるとは意外だった。

2基の石碑は、本堂に向かって右の墓域の前面に前後するように立っている。

前のやや小ぶりな自然石は、作曲家・河村光陽記念碑。

表面は横書きで

 

河村光陽先生記念碑

童謡一路

 かもめの水兵さん

     武内敏子作詞
     河村光陽作曲

この武内、河村コンビの作品は、「赤い帽子白い帽子」、「うれしいひなまつり」、「グッドバイ」、「船頭さん」、「りんごのひとりごと」など多数。

その大半は、河村の長女が歌ってレコードになったが、次女のピアノ、三女のバイオリンを加えた

フアミリー演奏会の四季をするのが、晩年の彼の楽しみだったという。

この碑の造立は昭和33年(1958)、その30年後、後方の小出浩平顕彰歌碑が建てられた。

高さ160cm、幅190cmの堂々たる石碑の前面には、童謡「こいのぼり」の譜面がはめ込まれている。

作詞・作曲者は小出浩平とあるのは、この碑が小出浩平顕彰碑であるのだから当然のことだが、実はこれには異論があって、作詞・近藤宮子、作曲・不明とするのが、現状では正解らしい。

というのは、この作詞作曲をめぐって裁判が行われ、小出氏の関与が否定されているからです。

この裁判については、池田小百合「なっとく童謡・唱歌」http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00showa1.htm

 に詳しく解説されているので、参照ください。

 

顕彰碑にケチをつけた形になったが、氏の略歴が碑裏に刻されているので、そのまま載せておきます。

 

1、明治30年8月14日、新潟県南魚沼郡塩沢町仙石に生まれた。舞子小学校、高田師範学校を経て、大正14年東京音楽学校卒業。
1 南西小学校、香川師範学校、東京赤坂小学校、城東小学校歴任。昭和12年学習院大学教授になり、皇太子殿下(昭和天皇)、義宮電化の音楽御教育係りを拝命、昭和39年三室戸学院理事、東邦音楽大学副学長の要職につき、日本音楽協会を始め、多数の会の会長として活躍。
1、この間に、日本で最初の学年別基礎獅童 レコードによる鑑賞指導、楽器指導、創作指導を音楽教育に取り入れ、わが国音楽教育を一変させた。
また、唱歌新教授法、合唱曲集等の多数の著書や雑誌を編集、こいのぼり、おしし等の愛唱歌、900余の校歌の作曲、NHK、TBSその他多数のコンクールの創始、審査、更に放送、講演等により、日本の音楽教育を今日あせしめた功績は絶大である。
よって茲に歌碑を建立し顕彰する次第である。
   昭和54年11月18日 小出浩平先生顕彰碑建立実行委員会 合成青出書

 

経歴を書き写しながら疑問を抱いたのは、これだけの要職を経た人物が、作りもしない童謡「こいのぼり」の作詞作曲者として認めるよう裁判を起こすものだろうか、ということ。

複雑な事情が背後にあるようだが、深入りするつもりはない。

 

◇松尾水(南谷寺 本駒込1-20-20)

 南谷寺は、目赤不動としてよく知られている。

本堂左の墓地の中に「松尾水」碑がある。

「松尾水」が酒作りに最適な水であることを知る者は、そう多くはなさそうだ。

「松尾」は、京都の酒の神「松尾神社」の松尾です。

墓地の一画に八角形の金属製の蓋をかぶせた井戸があり、この井戸の水が松尾水だというもの。

深さ約13mの井戸は、今は枯れてしまっている。

地下鉄工事が影響したものとみられている。

この石碑が珍しいのは「松尾水」なる碑文だが、この井戸の寄進者と碑文の書家が、明治時代の東京の有名な起業家であることも忘れてはならない。

井戸の寄進者神谷傳蔵は醸造家で、あの「電気ブラン」の生みの親。

浅草の神谷バーでは、今なお、電気ブランが売られている。

一方、碑文の書家は、守田宝丹。

「宝丹」は商品名でもあって、芳香解毒剤「宝丹」は、明治時代爆発的に売れた。

実業家として成功した守田治兵衛(宝丹)は、東京府会議員になる。

彼は書家としても有名で、神谷傳蔵とともに南谷寺本尊の目赤不動の熱烈信者だった関係で、この「松尾水」碑が造立されることになる。

 

 

 


137 文京区の石碑-27-高島秋帆墓と顕彰碑(向丘1-11-3大円寺)と戦没軍馬犬鳩慰霊碑(光源寺)

2019-07-07 08:07:29 | 石碑

高島秋帆と聞いて何者か分かる人は、そんなに多くはないように思う。

なのに私が知っているのは、私が板橋区民だから。

板橋区の高島平という地名は、高島秋帆の指導の下初の洋式砲術の演習を行った徳丸ケ原を、彼の名に因んで改名したもの。

◇高島秋帆の墓と顕彰碑

墓は、大円寺の墓地の奥まった一角にある。

碑表が崩れて、高島の高だけが辛うじて読み取れるだけ。

もうすぐ前面が崩落しそうだ。

 

顕彰碑は、本堂前左にある。

全文漢文で私には読めないが、最上段は、右から縦に二文字ずつ左へ「火砲/中興/洋兵/開祖」とあるようだ。

高島秋帆(寛政10・1798-慶応2・1866)は、長崎生まれ。砲術師範役の父の職を継ぎ、砲術を研究、日本初の西洋砲術を考案した。

天保12(1841)年、幕命により、徳丸ケ原で砲術演習を行った。

しかし、翌年、様式砲術訓練は謀反の企てがあるからだ、というざん訴により投獄され、10年間の蟄居を言い渡される。

11年の蟄居の後、再び、幕府の講武所(のちの陸軍所)の教授を任ぜられ、慶応2年(1866)、現職のまま、病死した。

 

戦没軍馬犬鳩慰霊碑(向丘2-38-22 光源寺)

 

光源寺は、駒込大観音で有名だが、私には、ユニークな千手観音石仏がある寺として、記憶されている。

千手がまるで羽のように刻されて、忘れがたい造詣です。

その光源寺の境内、道路に背を向けた形で立つのが「戦没軍馬犬鳩慰霊碑 」。

この慰霊碑の特異性は、軍馬だけでなく、軍犬や軍鳩も慰霊の対象となっていること。

犬の有用性については、警察犬や入管麻薬犬などで、誰でも知っているが、鳩が通信手段として使われていたことは、年代によっては知らない人が多いだろう。

敵の鳩交信を妨げるべく、ヒトラードイツ軍は鷹を放ったという。

鷹から逃げるうちに、方向感覚が狂って帰れなくなるらしい。

軍犬の弱点は、大きな音に弱いこと。

私は、何匹か犬を飼っていたが、どの犬も雷を怖がった。

雷が鳴ると机の下に潜り込んで、震えている。

体格のいい秋田犬も同様で、体の大小は関係ない。

大砲や爆弾が落ちる戦場では、音におびえて、犬は役に立たなかったと云われている。

それでも多数の軍犬が満州にはいたが、敗戦と同時に始まった本土引き上げに、人間と一緒に連れ戻された犬は皆無だった。

だから、この「慰霊」碑は、謝罪の意が込められている。