石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

124伊勢路の石仏-5(竹成の五百羅漢)

2016-07-26 05:22:32 | 石仏めぐり

また、いつもの言い訳から。

伊勢路の石仏巡り3日目は、津市の兄弟地蔵からスタートした。

兄弟地蔵とは、津市の宝樹寺、栄松寺、光明寺の3寺の地蔵のことで、いずれも正和3年(1314)に造立されている。

制作年が分かるものとしては、三重県最古で、当然、県の文化財に指定されている。

下の写真は、光明寺の地蔵だが、写真が暗い。

暗いはずで、フィルター撮影をしていた。

何かの拍子にカメラのモードダイヤルがFilterに合わさっていたようだ。

三地蔵は顔も似ていて、同一石工の作品ではないかと云われている。

それは、写真を3枚並べれば分かるだろうと思っていたが、これでは使用に堪えないので、残念ながら、カットせざるを得ない。

私のカメラは〇〇チョンカメラで、被写体に向けて、私はシャッターを押すだけ。

明るさもシャッタースピードも、すべてカメラ任せ。

撮った写真を確認することもしない。

フィルター撮影をしていることに気が付いたのは、亀山市関宿の観音山三十三観音の撮影を終えた時。

再び観音山に上る体力もないので、撮影済みの100枚ほどは、使用を諦めることに。

観音山の石仏は、丹波の名工村上佐吉が安政年間(1818-1830)に3年の歳月をかけて制作したと云われる逸品。

暗くて見にくい写真を1枚掲載しておきます。

まるで木彫のようなノミ捌きが見事です。

 

カメラのダイヤルをセットし直し、気分を取り直して、次の目的地へ。

四日市市に近い菰野町竹成にある五百羅漢が最後のポイントです。

大日堂の境内に高さ7mの四角錐の築山を築き、そこに約500基の石仏が安置されている。

五百羅漢は珍しくはないが、それに仏教の諸仏や神道、民間信仰の神々まで含めたバラィテイの多様さは、ここだけのもの。

江戸時代の、コンパクトなテーマパークとでも言うべきだろうか。

五百羅漢の名前は知らなくても、四天王や五智如来、六観音、七福神、十王なら信心深い江戸時代の人たちなら見分けたに違いない。

さしずめクイズの山に入り込んだみたいで、テンションが上がったのではないか。

では、クイズの山へのご案内です。

東側入口から入り、北、西、南へと回る。

どの方面からでも上る小道があるので、最後は頂上へ。

と、書くと仰々しいが、上ると言っても3,4歩、坂道の嫌いな私でも上りを意識せずに済む、その程度の傾斜です。

 

 入口にどーんとおわすのが、

延命地蔵。

二童子を従える地蔵は、珍しい。

その右後方に立っているお方は、ちょっと難しい。

答えは、三蔵法師。

背負っているのは経箱、と聞けば、ははーんと肯く人も多いのでは。

反時計回りに右(北)方向へ進む。

これは、布袋さま。

恵比寿、福禄寿、大黒天とならんで、この辺は七福神ストリート。

南面と東面は、五百羅漢ばかりとなる。

 この五百羅漢は、当地の真言僧神瑞が喜捨を求め、幕末の慶応2年(1866)完成した。

嘉永5年(1852)に発願してから、11年の歳月を要したことになる。

石工は、桑名の藤原朝兵一門。

五百羅漢と言うが、実際には、468基。

明治の廃仏稀釈の被害にあったと伝えられるが、真相は不明。

西面の右隅に坐すのは、

天狗。

お釈迦さまのお弟子さんに囲まれる、思いがけない僥倖に天狗も鼻高々だろう。

 

この辺で、上へ上ってゆく。

これが頂上の風景。

真中に坐すのは、言わずと知れた大日如来。

その周りは、十大弟子と言われているようだが、ちょっとおかしくないか。

中心がお釈迦さまなら分かるが、大日如来を囲む十大弟子なんて変だろう。

 

このクイズは、正解がない。

個々の名前のついた写真資料がないので、Webサイトを見たりしての、私なりの推測で、間違っている可能性は、非常に高い。

「答えが分からないのに、クイズなんてやるな」という声が聞こえて来そう。

間違っていたら、正答を教えてください。

この弟子は、私でも分かった釈迦の高弟の一人。

阿難でしょう。

頂上より一段下に四天王がにらみをきかせている。

右腕を振り上げているので、

持国天のようだが、振りかざしているのは刀ではなさそうだ。

何なんだろうか。

これも四天王の一つ。

広目天ではないか。(だんだん自信がなくなって、疑問形になる)

毘沙門天は、

これだろうし、増長天は、

これだと思うが、正解だろうか。

出題者が、いつの間にか、回答者になっています。

あるWebサイトでは、下の4体は四夜叉としている。

夜叉なんて聞いたこともない。

あわてて『日本石仏図典』を引っ張り出してみたが、載っていない。

そういう情報もあるよ、ということです。

 

東南の角に十王がずらり。

中央奥に坐すのは、

言わずと知れた、閻魔大王。

十王とは離れて、地面に坐すのは、

奪衣婆。

彼らにつきものの道具といえば、

人頭杖と

浄波瑠の鏡。

所で、十王の横、奪衣婆の後ろに立つこの精悍な男は何者だろうか。

 そして、その隣にもう一人、見知らぬ男がいる。

見知らぬのも当たり前、いろいろ資料から推測するところでは、

この五百羅漢を発願し、喜捨に走り回って、完成させた神瑞和尚その人らしいのです。

そろそろ出口へ。

東面は、羅漢さんばかり。

五百羅漢には、家族、兄弟、親戚、知人、友人の誰かにそっくりな像容があると云われる。

羅漢さん以外の石像を探して、そうし愉しみを捨て去ったのは、ちょっと残念でした。

では、最後に、クイズ3問。

これは、誰?

天照大神。

これは、誰?

弥勒菩薩。

これは、誰?

弘法大師。

かなりディスインテリ風なお顔が気になるが…

お堂には、三重県指定文化財の大日如来木像が2体在すが、堂内に上りはしない。

石造物でなければ、県の指定文化財でも無視するのが、「石仏散歩」を制作するブローガーとしての矜持なのです。

 *次の更新日は、8月1日です。

 

 

 

 

 

 

 

 


124伊勢路の石仏-4(石山観音公園)

2016-07-19 05:36:10 | 石仏

自らの老化は承知しているが、石仏巡りをしていて、山道のコースを全部回り切れなかったりすると、老化の進行を改めて確認することになります。

万人向けにコースは設定されているはずです。

なのに音をあげるというのは、かなりの「弱者」ということになる。

今回の「石山観音公園」も、半分以上、回れなかった。

「石仏巡り」のリポートとしては、不十分であることを承知の上、お付き合いください。

宿場町関宿の南20キロに「石山観音公園」はある。

駐車場で車を降りると、鬱蒼とした樹々の茂みの暗がりの中に説明板がある。

「山全体がひとつの石よりなっていて、その所々に40体あまりの石仏が彫りつけられている」と説明されている。

説明を読んでもピンと来ないのは、「一つの石」から成っているというくだり。

石の上にこんな森や林があるというの?。

俄かには信じられない思いのまま、石段を上り始める。

10段も上らないうちに、眼前に2基の磨崖仏が現れる。

右の磨崖仏の、台石部分には「第壱番」と右書きされている。

何の一番かというと、西国三十三所観音霊場札所の一番。

この石仏は、那智山寺の本尊、如意輪観音の模刻ということになります。

「石山観音公園」の「観音」は、西国観音霊場の観音を意味し、したがって、今回の目的は、石山全体に点在する33体の模刻石仏を巡ることとなります。

石山観音の制作年代については、文書記録がなく、彫技から推測するところでは、室町から江戸初期と目されているようです。

第一番如意輪観音坐像の左隣には、地蔵立像。

地蔵だから、三十三所札所観音でないことは明白。

像高3.42m、錫杖の形から鎌倉時代のものと推察されると説明板は記す。

つまり、三十三所観音が彫られるずーっと前からここにあった磨崖仏ということになります。

龕を深くして、像を立体的に彫ってあるのが、特徴的です。

この地蔵と同様な磨崖仏が他に2点、阿弥陀如来と聖観音とがあるが、それについては、順番が来たら触れることにします。

整備された道を歩いて行く。

小さな石仏墓標がいくつか、道端に傾いてある。

第二番は、紀伊三井寺の十一面観音。

周囲が陽の光で明るく、像が見にくい。

カメラを近づけたが、どうだろうか、少しは見やすいだろうか。

第三番・粉河寺・千手観音は、光背型石塔。

新しいので、近寄って見ると、台石に「昭和十一年」が読める。

現場にいた時は、気付かなかったが、今写真を見るとバックの龕に千手観音の腕らしいものが見える。

本体が崩れ落ちて、代替仏を置いたのだろうか、現場での観察の至らなさに反省しきり。

同じことは、第四番・施福寺・千手観音にも言える。

東京に帰ってから気が付いても後の祭り。

ほんとに悔しくてなさけない。

なぜか、不動明王がおわす。

観音を見続けた眼には、やけに猛々しく映るような気がする。

 台石の文字は、右書きに2行。

天下泰平
 五穀成就

第五番・藤井寺・千手観音は、3番、4番と同じスタイルだが、

第六番・壺阪寺・千手観音と

第七番・岡寺・如意輪観音は、岩を彫りこんだ真正磨崖仏。

やはり、この方が味わいが深い。

顔が崩れて不明でも、全体が汚れていても、長い時を経たものに、無性に魅せられる。

日本人だなあとつくづく思う。

 

第八番・長谷寺・十一面観音。

第九番・興福寺・不空羂索観音。

第十番・御室戸寺・千手観音。

この辺りまでは、問題なく回れたが、次の11番あたりから怪しくなってくる。

駐車場の説明板に「山全体が一つの石から成り立っていて」という表現があった。

「そんなバカな」とあの時は思っていたが、疑ったことを深く反省するのです。

突如現れた岩山に息を飲むばかり。

それでも第十一番・上醍醐寺・准胝観音はどうにか撮れたけれど、

第十二番・岩間寺・千手観音に近づくのには、決死的覚悟を要した。

やっと近づいても、全景を撮るにはカメラを被写体から離さなければならず、不安定な足場のポジショニングに一苦労。

ここで現場の案内地図を見てほしい。

12番をやっと撮り終え、13番から17番まで撮影することはできたが(写真掲載せず)、問題は、24番から28番の石仏群。

そこに行くには、「馬の背」という岩山の尾根を越さなければならない。

私は、ここで断念して下山、別ルートに回ったので、当然、馬の背の写真はない。

下の写真は、誰かさんのブログから無断借用したものです。

ちゃんとコースを回れなかったから言うわけではないが、このコースは万人向け、誰でもOKのコースではないように思う。

階段を彫るなり、鎖をつけるなり、安全対策をもっとしないと、いずれけが人が出そうな気がする。

馬の背越ぇを断念、出発点まで戻って、コースを逆に上ってゆく。

逆コースだから、最初に出会うのは、第三十三番・谷汲山・十一面観音ということになる。

このまま進めば、もしかすると馬の背の向こう側まで回れたのかも知れないが、一度、途切れた撮影意欲は回復することなく、33番の近くの阿弥陀如来像を見て引き返した。

台座を含め5mの磨崖仏を撮るには、立ち位置が石像に近すぎて、仰ぎ気味のショットにならざるを得ない。

上品下生来迎の阿弥陀如来で、清凉寺式衣文から、鎌倉時代の作とみられている。

何か中途半端で、もやもやした気分を抱きながら、駐車場へと歩を進めた。

駐車場脇に句碑。

「日の巌山
   あきつの翅も
     ひびくべし 草堂」

草堂とは、俳人山口草堂のことか。

 *次回更新は、7月26日です。


124伊勢路の石仏-3(金剛證寺続き)

2016-07-13 06:01:02 | 石仏

本堂から右へ、真っ直ぐ進む。

参道は、光り輝く緑に覆われている。

右手の作業所で男が二人材木を削っている。

気にも留めず、通り過ぎたが、彼らが何の作業をしているのか、このあと気付くことになる。

参道を跨いで、白い石門が立ち、その上に朱色の建物。

扁額には「極楽門」とある。

そして、楼門の右脚には「塔婆供養所奥の院」の看板も。

傍らの説明板には、こうある。

この門をくぐった者は、仏さまの慈悲の誓願によって、すべて皆極楽浄土へ往生せしむるという悲願によって建てられたものである」。

主語と述語が交錯する悪文だが、意味は分かる。

本堂前の仏足石では「千年の罪も消滅し」、福丑に触って「福徳智慧増進し、健康になる」現世利益に与ったばかり。

今度は、門をくぐれば「極楽浄土への往生間違いなし」と来世の安寧までも保証される有難さ。

「南無阿弥陀仏」を唱える必要もなく、ただこの門をくぐればいいというのだから、笑いが止まらない。

安請け合いしすぎではないかと心配するのは、根性が曲がっているからだろうか。

また、余計なことで足踏みをした。

本筋に戻そう。

金剛證寺が両部神道に基づく神仏習合の聖地、伊勢神宮の奥の院的存在であることは、先述した。

そして、この極楽門から先は、また別な奥の院となるのです。

この奥の院を支配しているのは、山中他界観と仏教の混合思想。

古来日本では、死者の霊は山中にとどまるとの山中他界が信じられていた。

伊勢地方の人たちにとって山中とは、朝熊岳を意味し、岳参りは先祖参りだった。

この山中他界観に、塔婆を建てて供養することで先祖の霊は成仏するという仏教思想が結びつく。

その具現化が、極楽門から奥の院まで続く卒塔婆の群立光景。

寺に訊いたところでは、その数、およそ2万本。(金剛證寺では「霊」と数えることもあるらしい。つまり、2万霊)

葬儀のあと、寺に申し込めば、戒名と施主名を書いた塔婆を建立してくれる。

ただし、奥の院も格差社会であることは否めず、ピンは50万円(幅580㎝、高さ7.8m)からキリの1万円(幅9㎝、高さ1.8m)まで。

これは、7回忌まで保存(つまり6年間保存)の塔婆料金で、保存期間が3か月未満ならば、5000円から1000円まで、1か月でいいやと思えば、500円で済む。

500円でも50万円でも、先祖の霊を供養することにおいてその効力に差はないのか、あの世に行って見ないことには判らない。

だから、必然、塔婆林は、この世に生きる施主さんの自己PRの場となって、美空ひばりや石原裕次郎、ご当地鳥羽一郎、山川豊の施主名がある塔婆は、最高ランクだった(である)といった都市伝説(田舎伝説?)が流れることになる。

「赤福の塔婆も大きいよ」とすれ違いの地元の人が教えてくれたので、探したが、見つけられなかった。

供養するのは、先祖霊だけではない。

「安全航海/大漁満足/為捕獲魚類一切精霊」とあるのは、漁師が施主の塔婆だろう。

当然、犬猫の卒塔婆もある。

参道わきの作業場で、木材にカンナをかけていたのは、この塔婆作りだったことになる。

 

奥の院に向かって左手の崖地は、墓域になっている。

この五輪塔群は九鬼家の墓地。

九鬼家は、関ヶ原の戦いで親子が東西に分かれ相戦い、敗れた父が伊勢湾の答志島で自害をした。

地元では有名な人物らしいが、私は興味ないので、素通り。

代わりに、興味深い墓があったので、紹介する。

極楽門をくぐってすぐ左、塔婆の壁の手前の墓域にある石碑に目が吸い寄せられる。

「アア
 戦死ヤアワレ
 兵隊ノ死ヌルヤ アワレ
 コラヘキレナイ サビシサヤ
 君ノタメ
 大君ノタメ
 死ンデシマフヤ
 ソノ心ヤ   竹内浩三」

一見、反戦詩のように思える。

右隣には「竹内浩三墓」があり、左側面に字が彫られている。

「  遺稿中ヨリ 昭和十四・一一・二一作
 私の好きな三ツ星さん
 私はいつでも元気です
 いつでも私を見て下さい
 私は諸君に見られても
 はづかしくない生活を
 力一杯やりますよ」

帰宅して、「竹内浩三」をネット検索。

大正10年生まれ、地元伊勢の詩人だった。

昭和20年4月、フィリピンで戦死した(戦死公報)ことになっている。

23歳だった。

いつでも紙があれば、詩を書き留めていたらしい。

徴兵されても。この詩作は続いていたという。

思想的な反戦詩というより、生活詩を書いたら、死ぬのはいやだという心の叫びが文字になった、そんなことのようだ。

石碑は「骨のうたう」という詩の一部。

全文を載せておく。

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

他にも心打つ詩が沢山あるが、その紹介は、このブログの趣旨を外れるのでしません。

関心ある人は、ブログ「五月のようにー天性の詩人竹内浩三」http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/index.html

をご覧ください。

駐車場へ向かう道の途中に石仏群。

中に1基、興味ある石塔があった。

「奉納 大乗妙典六十六部
 内宮外宮朝熊岳千日参」。

享保9年(1724)、志州坂崎村の沙門自性という人が造立したものだが、注目は、千日参りの内容。

沙門自性なる出家者が、伊勢神宮の内宮、外宮を参詣し、朝熊岳を上って金剛證寺にお参りすることを千日続けたということ。

千日参りは全国各地にあるが、特定の神社か寺院を参詣するもので、神社と寺院混在のコースはめずらしいと言えるのではないか。

その1基おいた左にも「千日参」の石塔がある。

 

最後に、「おちんこ地蔵」。

旧参道を上り切った、山門前の石仏群の中にある。

文字通りオチンチンをもろ出ししたお地蔵さんだが、右に「大乗妙典」、左に「二千部供養」とある。

いかなる謂れがあるものか、寺に訊いたが、分からないとのことだった。

看板には、「子宝授け」の地蔵とあるが、像容と効能がストレート過ぎて、ひねりがなさすぎる。

オチンチンだけに限って言えば、前の地蔵の方が明らかに巨根。

願うなら、粗チンより、巨根の方が「効く」ように思うけれど、こんなことを云うから「不謹慎だ」と叱られることになる。

*次回の更新は、7月19日です。

 

 

 

 

 

 

 

 


124伊勢路の石仏-2(金剛證寺)

2016-07-07 06:07:18 | 羅漢

午前9時。

伊勢志摩スカイラインを金剛證寺へ向けて走る。

対向車は皆無。

頂上の展望台の下方に寺はあった。

寺は、臨済宗勝峰山兜率院金剛證寺と号し、6世紀半ばの創建。

空海が中興したとも伝えられ、当初は真言宗寺院だった。

伊勢神宮の北東に位置し、伊勢神宮の鬼門を守る寺として名を馳せ、お伊勢参りの後当寺へ向かうのが定番コースとなった。

「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」と、伊勢音頭にあるほど。

「朝熊」は「あさま」と呼び、金剛證寺のある朝熊山を指す。

仁王門をくぐって境内へ。

「左さんけい道」なる道標が立っている。

その背後の池には、ハスの花が咲いている。

池の名は「連珠池」。

弘法大師が掘ったとの伝説があるそうな。

連珠池に掛かる太鼓橋は、結界を意味し、橋の向こうのお堂には、雨宝童子がおわす。

説明板には、こうある。

雨宝堂
 池の向こう岸(彼岸)にたつ御堂は、神仏習合思想の神像雨宝童子尊を祀る。この神像は、大日如来の化身である天照大神が日向の国(宮崎県)に降り立った十六歳の御姿を、弘法大師が感得して刻まれたと言い伝えられ、国の重文である」。

「大日如来の化身である天照大神」は、両部神道思想を反映したもの。

両部神道は、密教の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想。密教では、宇宙は大日如来の顕現であるとする。それは大日如来を中心にした金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の儀軌として表現されている。この金剛界と胎蔵界の両部の曼荼羅に描かれた仏菩薩を本地とし、日本の神々を垂迹として解釈した。
両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神は胎蔵界の大日如来であり、一方、伊勢外宮の豊受大神は、金剛界の大日如来であるとする。内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成しているとした」。(Wikipediaより)

伊勢神宮に関係する寺どころか、天照大神の本地はここの大日如来だとふんぞり返った感じがするが、今や禅寺となって、大日如来のお姿を見ることはない。

地蔵堂の前に一石六地蔵があるので、近寄って見る。

単なる一石六地蔵ではなく、「重軽地蔵」だった。

説明板の説明は、こうだ。

厄除け六地蔵尊(重軽地蔵尊)
 まず、お地蔵さまを持ちあげて静かに置きます。次に左へ三回まわしながら、ご真言を三回、オンカカビサンマエイソワカを唱えます。祈念のあと再度お地蔵さまを持ちあげてください。最初より軽く感じましたら、お願い事をお聞きとどけてくださいましたことになります」。

腰痛治癒を願って持ちあげた同行者は、危うく腰痛を再発するところだった。

地蔵堂の右隣に、木製の彫刻物がある。

蓮の花と葉で造った「蓮華庚申」との説明されている。

下部の三猿は分かるが、その上部は何度見てもさっぱり不可解。

そもそも、蓮の花と葉で庚申を造る必要性が分からないのだから、無理もない。

連珠池に面して、三重塔と五重塔が立っている。

銅製の三重塔には大日如来が安置せられ、元禄四年(1691)武州江戸神明前幸田元精の発願により一部の神宮関係の人達によって建設され開眼供養の時には、神官達も法会に参加したといわれています。(ブログ「神旅 仏旅 むすび旅」よりhttp://ameblo.jp/taishi6764/entry-11934156225.html

なぜか、仏足石もある。

立派な覆屋の中にあって、説明板には「日本最古、奈良薬師寺の仏足石の模刻」とある。

仏足石の奥に立つ石碑は、薬師寺の仏足跡歌碑(国宝)の模刻。

仏賛歌の歌3首が、万葉仮名で刻されている。

勿論私に読み取る能力はないので、Wikipediaから引用しておきます。

 歌1番の原文

 美阿止都久留 伊志乃比鼻伎波 阿米尓伊多利 都知佐閇由須礼 知々波々賀多米尓 毛呂比止 乃多米尓

1番の読み方

御跡(みあと)作(つく)る 石(いし)の響(ひび)きは 天(あめ)に到(いた)り 地(つち)さへ揺(ゆ)すれ 父母(ちちはは)がために 諸人(もろひと)の為(ため)に

1番の大意

父母のために、また衆生のために仏足跡を刻むその石の響きは天地を震い、諸天諸仏も感応あれと祈ろう

2番の原文

弥蘇知阿麻利 布多都乃加多知 夜蘇久佐等 曾太礼留比止乃 布美志阿止々己呂 麻礼尓母阿留可毛

2番の読み方

三十(みそち)余(あま)り 二(ふた)つの相(かたち) 八十(やそ)種(くさ)と 具足(そだ)れる人(ひと)の 踏(ふ)みし跡処(あとどころ) 希(まれ)にも有(あ)るかも

2番の大意

三十二相八十種好が具わった人(釈迦)の踏んだ跡は、たいへん珍しく、ありがたいものである。

17番の原文

於保美阿止乎 美尓久留比止 伊尓志加多 知与乃都美佐閇 保呂止曾伊布 乃曾久止叙伎久

17番の読み方

大(おほ)御跡(みあと)を 見(み)に来(く)る人(ひと)の 去(い)にし方(かた) 千歳(ちよ)の罪(つみ)さへ 滅(ほろ)ぶとぞ言(い)ふ 除(のぞ)くとぞ聞(き)く

17番の大意

一たび仏足跡を拝めば、過去千歳の罪も消滅するのである。(Wikipedia「仏足跡歌碑」より」)

仏像が彫られる前、釈迦を偲ぶものとして仏足石は敬われた。

紀元前の仏教遺跡が点在するスリランカで、仏足跡をよく見かけたのを思い出す。

それにしても「一たび仏足石を拝めば、過去千歳の罪も消滅する」とは、凄い。

オーバーな表現は万葉の時代からあったんだと、今も昔も人間は変わらないなあと、つくづく思うのです。

このオーバーな表現には、石段を上がった本堂前でも出会います。

頭上に大黒様を戴いた「福丑」の説明は「一度この福丑に触れれば、心清く意志堅固となり、福徳智慧増進し、身体健康の御利益が授けられます」。

わずか数十m、仏足石を拝み、福丑に触れれば、千年の罪を逃れ、福徳智慧が増し、健康になるというのだから、言うことなし。

念仏修行もせず、寺への寄進をしなくてもOKなのだから、これほどの易行はない。

怠惰だが信じやすい人には、是非、お勧めです。

ちなみに「福丑」の対面には「智慧寅」がいて、こちらは「慈愛と威徳」をお授け下さいます。

今、本堂の写真を何気なく見ていたら、天水桶に葵の御紋らしきものがあるのに気付いた。

アップにしてみる。

確かに葵の御紋。

Wikipediaによれば、「元禄14年(1701)、綱吉の母桂昌院により、本堂は修復された」とあるから、その関係かもしれない。

瓦や暖簾、各所に御紋はあるそうだが、知らなかったので、写真を撮らなかった。

偶然写っていた天水桶の一枚だけです。

*次回の更新は、7月13日です。

 

 

 

 

 


124伊勢路の石仏-1(伊勢神宮)

2016-07-01 05:25:59 | 石仏

2016年6月上旬、伊勢神宮に参拝してきた。

伊勢志摩サミットで何度かテレビで見たことが、引き金だった。

天皇家の神社が、大和ではなく、何故、伊勢にあるのか、かねてからの疑問の答えが、現地に身を置くことで、少しでも得られたら、という期待があった。

これは、その行き帰りで散見した石仏報告です。

伊勢神宮へは、高校の修学旅行以来、60年ぶりの参詣。

何一つ記憶にないのは、興味がなかったからだろう。

今回は、外宮から内宮へ回ったが、修学旅行では、内宮だけだったような気がする。

で、肝心の石造物はというと、内宮、外宮両方の境内に、ほぼ皆無なのです。

燈籠はすべて木製、神社境内に多い顕彰碑、句碑の類もない。

唯一それらしいのは、外宮御神楽殿前の手水鉢。

広義では、石段や石垣も石造物に入る、とすれば他にもいくつかあることはある。

石造物がないのは、20年ごとの式年遷宮と関係があるのではないか。

新しく作り替えるには、石造物は寿命が長すぎて、不適切ということになる。

 

参詣を終えて、門前の「おはらい町」へ。

中でも賑わう「おかげ横丁」で、名物「伊勢うどん」を食す。

柔らかくて太いうどんに黒い溜り醤油のかけ汁、具はネギだけという面妖なもの。

これをぐちゃぐちゃかき混ぜる。

これが意外に美味かった。

名物に美味いものもあるのです。

 

内宮駐車場を出るとすぐ「猿田彦神社」の幟が目に入る。

立派な庚申塔でもあるのかなと立ち寄って見たが、石造物は何もない。

辛うじて狛犬があるだけ。

千木(社殿の屋根の両端に交差し突き出ている部分)で、その社殿が、内宮系か外宮系か分かる、と聞いたばかりなので、つい、屋根を見上げてしまう。

この社殿の千木(ちぎ)は、先端が水平、かつ、穴が二つ半なので、内宮系。

 

鳥羽のホテルへ行くには、少し時間が早い。

ガイドブックに松尾観音寺があるので、そこに向かう。

松尾観音寺は、和銅4年(712)、行基創設の単立寺院。

日本最古の厄除け寺院として有名だという。

境内入口右側に石造物群。

中にしゃくれた顔のお地蔵さん。

まるで永六輔氏みたいだ。

台石に「日本廻国供養」とある。

2基ある「千日参 供養」は、厄除け祈願でこの寺に千日参詣したということだろう。

御利益はあったのだろうか。

宝篋印塔の造立年は不明だが、すっきりと優美。

庚申堂があるので、のぞいて見る。

前掛けで像容は不明だが、ありふれた庚申塔のようだ。

本堂に入る。

本尊十一面観音お前立の前の床板に、龍の顔が浮き出ている。

もともと龍神伝説のある寺なので、10年前、この模様が出現したときは、大騒ぎになったという。

 

今夜の宿は、鳥羽市の南、相差(おうさつ)港を見下ろす高台のホテル。

眼下の海では、海女さん100人が現役で潜っているのだという。

翌朝、8時の朝食まで町を散策。

「女の願いを叶える」石神さんで、手水鉢に盃状穴を発見。(*盃状穴については、このブログNO44,45,55,56,58を参照ください)

盃状穴も珍しいが、特筆すべきは、説明板があること。

盃状穴についての説明板を私は初めて見た。

全文を書き写しておく。

この手水鉢は文政四年(1821)の銘があり、周りに大小合わせて約30の盃状穴が穿たれている。


病気の治癒や子宝に恵まれ子孫繁栄や不滅のシンボルとして信仰されてきた盃状穴は、神社寺院の境内の置石や手水鉢の縁、燈籠の台石などに彫り付けられている小さな窪みで、直径も深さも数センチ、小さな盃状の形状から盃状穴と呼ばれ、古墳の石棺蓋石からも発見されている。
盃状穴信仰は江戸時代に広く流布して、全国に遺される盃状穴の信仰は、明治維新後も残り、昭和初期まで造られていたと言われます」。

(次回更新日は、7月7日です。)