石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

55 椀状凹みを探して日光街道を行く(1)日本橋ー杉戸宿

2013-05-16 05:33:58 | 民間信仰

去年の年末、第44回と第45回の2回にわたって「凹み穴のある石造物(板橋編)」をUPした。

「凹み穴」は、石仏、石碑、石塔等の石造物に穿たれた椀状または杯状の穴のこと。

 三学院(蕨市)の子育て地蔵台石の椀状凹み

「凹み穴」が誰の手によって、何時、何のために穿たれたのかは、一切不明です。

私が調べた板橋区の寺社、路傍122個所の石造物では、62基に「凹み穴」がありました。

その報告の最後に、板橋区に「凹み穴」があることは確認できたが、都内の他区ではどうなのか、千葉県、神奈川県など隣県ではどうなのか、調べた上で報告したいと結んであります。

その後、別用で訪れた寺社でたまたま「凹み穴」を見たのは、北区、足立区、荒川区、葛飾区、練馬区、中野区、文京区、品川区、大田区などでした。

埼玉県に接した北部地域が多いのですが、西部の中野区、南部の品川、大田区でも確認されて、都区内全域に「凹み穴」はあると言ってもよさそうです。

では、23区を出るとどうなっているのか。

「凹み穴」は関東ローカルのものなのか、全国的なものなのか、。

東海道か中山道を行けば、その答えが得られそうだが、残念ながら体力とお金がない。

距離が短くて問題はあるが、日光街道でその答えの一端を見出そうというのが、今回のブログの目的です。

街道をゆくのだから、スタート地点は、日本橋。

   船上から見た日本橋

写真は、日本橋川 を行く船から撮った日本橋。

江戸時代の人たちは健脚だった。

日光まで24宿を2泊3日で歩き切ったという。

でも、「あそこが痛い、ここが悪い」と毎日喚いている身としては、歩き通すことなど夢のまた夢。

電車か車で行っては、宿場の寺社を回ろうという心づもり。。

街道の宿場には、その地域の主要な寺社があるので、数は限定的でも大まかな傾向は掴めるはずです。

 

日本橋を出発、小伝馬町から江戸通りに出て、浅草橋を渡る。

(注:地図がほしいところだが、地図が入れられない。いつものことですみません)

小さな神社がいくつかあるけれど無視。

日光街道最初の寺は、何といっても浅草寺でしょう。

     浅草寺(台東区)

2012年正月のブログ「浅草寺の石碑と石仏」の為に撮った400枚程の写真をチェックするが、椀状凹みは見つからない。

でも楽観視していました。

椀状凹みは、石造物の台石に穿たれることが多く、また、手水鉢など普通は撮影の対象とはならないものによく見られるからです。(注:「凹み穴」では穴の状態が分からないので、以降「椀状凹み」を使用します)

案の定、浅草寺に着いて早速、椀状凹みを発見。

仁王門を入って右手の「濡れ仏」・二尊仏の前の手水鉢にありました。

   左 勢至菩薩         右 観音菩薩

私の身長は、165㎝。

写真の手前に横たわるのが手水鉢ですが、目線の上にあって、凹みの有無は分かりません。

デジカメを差し上げてパチリ、穴のあることを確認しました。

となれば、きちんと撮りたい。

野次馬の目を気にしながらよじ登り、見下ろして撮ったのが上の写真です。

その昔、手水鉢は地面に置かれていたのでしょう。

でなければ穴を穿つことは出来ないのですから。

 

浅草寺では、この他、2か所で椀状凹みを見かけました。

いずれも狛犬で、一つは弁天堂で、一つは浅草神社境内で。

 

  弁天堂の狛犬                     狛犬の頭の椀状凹み

なぜか、両方とも頭のてっぺんに凹みがあります。

 

   浅草神社の狛犬               向かって右の狛犬の頭

まさかこれが狛犬のデザインではないだろうとは思うのですが。

 

浅草寺を出ると言問橋西の分岐点。

ここで「待乳山聖天はどっちへ?」と訊いたら、「どっちを行っても同じ」と云われた。

    待乳山聖天

分岐点を三角形の頂点とすると、ほぼ同じくらいの地点を結んだ底辺一杯に待乳山聖天はあるから、この答えは正しいことになる。

分岐点から左の道を待乳山聖天を右に見ながら進むと南千住駅。

  

   首切り地蔵             回向院            素盞雄神社

左に首切り地蔵と回向院を見ながら行くと素盞雄神社にぶつかります。

そのどこにも椀状凹みはありません。

   ー千住宿ー

隅田川にかかる千住大橋を渡れば、日光街道初宿の千住宿。

国道4号線と別れて、旧日光街道は北千住のごみごみした町並みに入ります。

      宿場町通り

宿場通りという商店街のようだ。

 

                        横山家住宅

飛脚のタイルと商家造りの旧家が宿場の匂いを放っています。

たまたま最初に入った勝専寺に探していた椀状凹みはあった。

      六地蔵(勝専寺)

六地蔵の足元の、線香置きと供花の花瓶を乗せる石台に穴があいている。

これは幸先がいいと喜んだが、後が続かない。

  

 左が遊女の墓(金蔵寺)      千手元氷川神社        長円寺    

 

  氷川神社            安養院

遊女の墓がある金蔵寺、千住元氷川神社、長円寺、氷川神社、安養院と全て空振り。

    千住新橋

安養院から荒川土手に上がり、千住新橋を渡る。

渡り終えると国道4号線と別れ、荒川沿いに西へ。

    善立寺

善立寺というガランと境内がだっ広い寺を右折、東武伊勢崎線のガードをくぐるとあとは草加まで一直線。

環七を過ぎると国土安穏寺や鷲神社がある。

格式高い寺社だが、椀状凹みはない。

 

 国土安穏寺            鷲神社

私のお気に入りは、六月(ろくがつ)町の炎天寺。

        炎天寺

素敵な町名に個性的な寺号。

一茶が「やせ蛙まけるな一茶ここにあり」と詠んだとかで、境内には句碑と蛙の置物が多い。

石仏、石碑の保存もきちんと行われていて、椀状凹みを期待したが、残念ながらなかった。

しかし、このあと3か寺続いて、椀状凹みに出会うことになるのです。

 

   万福寺の弘法大師碑

炎天寺の隣、万福寺では「弘法大師」碑の台石が穿たれています。

右下の白い部分は穴を埋めたセメントでしょうか。

  

           常楽寺の四国八十八カ所巡礼供養塔

常楽寺では、四国八十八所巡礼供養塔の頭に穴があります。

 

    宝積寺の「南無遍照金剛」塔と台石の凹み

そして、宝積寺、門前の「南無遍照金剛」塔の台石がボコボコです。

これも修理の跡が見られます。

 

道の先に赤と白の高い煙突。

都の清掃工場の煙突だが、それを目指して進むと川にぶつかる。

東京都と埼玉県の境界線の毛長川。

橋を渡って草加市に入る。

そこから7,8分で東武谷塚駅。

駅前の浅間神社に椀状凹みがありました。

 

 浅間神社の手水鉢              椀状凹みと修理跡

手水鉢の椀状凹みはセメントで埋めてあるが、修理の跡は隠しようがないほど歴然としている。

問題は、浅間神社の隣の善福寺の庚申塔。

 

      善福寺の庚申塔と台石の浅い凹み

花立ての穴の横に白い汚れがいくつか見える。

浅い穴に埃がたまって白く見えるのだが、この穴は人為的なものなのかどうか。

こうした疑義が残るものは除外したほうがいいようだ。

 

   ー草加宿ー

やがて道が二股に分かれている。

左が草加宿への道。

  

 市役所内地蔵堂            回向院

 

      東福寺              神明社

市役所敷地内の地蔵堂、回向院、東福寺と宿場を通り過ぎて、神明宮が宿場の最北端になります。

松尾芭蕉像や正岡子規碑を見ながら、望楼へ。

綾瀬川沿いの松並木と一直線に伸びる遊歩道が見えます。

この視界には寺社は皆無。

綾瀬川を超えると越谷市に入ります。

     ー越谷宿ー

越谷市に入るとすぐに、清蔵院。

 

   清蔵院 

そこから蒲生駅、南越谷駅を越え、三つめの越谷駅まで日光街道沿いに寺社はありません。

  

     照蓮院             光明院              香取神社

宿場に入っても南端に照蓮院が、そして北端に光明院、香取神社があるだけで、宿場の中にはこれといった寺社はありません。

もしかしたら、越谷宿には椀状凹みはないかもしれないと思い始めていたその時、見つけました。

香取神社の燈籠に多数の椀状凹み。

 

        香取神社の燈籠と台石の椀状凹み

なぜかホッと一息。

北越谷駅を通り東武鉄道の踏切を越えた所に変わった庚申塔があります。

土手の向こうは、元荒川。

道路に向いて、石造物が数基立っている。

 

                     道標を兼ねた庚申塔

中の1基が文字庚申塔。

正面は、「青面金剛」で側面が道標という珍品。

道標には「左 じおんじ のじま 道」とある。

そのまま北上、再び、東武鉄道の踏切を越えると大袋駅。

駅の手前に墓地がある。

その片隅に石仏があるのに気がついた。

           大里自治会館

がらんと無意味な広がりは、寺の跡地だろうか。

平屋建ての建物には「大里自治会館」の看板がかかっている。

廃棄仏のように横たわった石造物の傍らに五輪塔や阿弥陀如来がおわす。

青面金剛の台石に椀状凹みがある。

 

         青面金剛石柱の台座と頂部の椀状凹み

台石ばかり注視してうっかり見逃すところだったが、この石塔の頂部にも、また、椀状凹みがあった。

頂部の穴といえば、大里自治会館から歩いて10分ほど北にある香取神社にも同じものがある。

 

                  香取神社の石柱と頂部の椀状凹み

鳥居の前2基の石柱の頂部には、明らかな凹み。

石柱の用途も頂部の穴の意味も、不明です。

 

並行して走っていた国道4号線と合流する。

左手はせんげん台駅だから、1,2分で春日部市に入ります。

春日部市に入っても粕壁宿は遠い。

「かすかべ」の表記は時代とともに変遷して来たらしい。

元々は新田義貞の家臣春日部氏が当地を支配したことから「春日部」の地名が生まれたが、江戸時代以降は、「粕壁」、「糟壁」が交互に使われていたという。

明治になり、粕壁に統一されてきたが、昭和の町村合併で春日部町となったというもの。

     ー粕壁宿ー

北へ進む国道4号と別れて西へと伸びる道が日光街道。

分岐点にあるのが、東陽寺。

 

     国道4号と日光街道の分岐点にある東陽寺

宿場らしい建物が点在しているが、寺社は宿場内にはない。

 

                   粕壁宿の蔵造り旧家

  粕壁宿の裏を流れる大落古利根川

宿場の西のはずれに寺町として集まっている。

              春日部市の寺町

この辺りの寺社は、以前、石仏めぐりで回ったことがある。

  

     普門院              最勝院                大日寺 

だから、保存フアイルの写真をチェックしてみたのだが、椀状凹みは見当たらなかった。

  

     玉蔵院             妙楽院                神明社

 しかし、だからと云って、椀状凹みはこの地域にはないと断言もできないのです。

興味関心がなければ、写真に撮ることもないわけで、もしかしたら、凹みはあるかもしれない。

こうしてどの寺社も、意気の上がらない二度目の訪問となったわけです。

結論から言うと9寺社回って、椀状凹みはゼロ。

写真フアイルで見た通りでした。

がっかりして帰りの電車に乗りましたが、まだ行ったことがない神社があることに気づいて、次の八木崎駅で下車。

これがよかった。

向かったのは、春日部八幡神社。

       春日部八幡神社

いくつもの境内社のなかのひとつ稲荷神社の石段の横に、とろけて原形をとどめない5基の石造物と手水鉢がある。

 

その手水鉢に椀状凹みがあった。

廃棄する予定だが、まだそのまま残してある、そうした古い石造物に椀状凹みはあるようだ。

 

次は、杉戸宿。

東武動物公園駅で下車、大落古利根川を渡って日光街道へ。

    -杉戸宿ー

大落古利根川の右に沿って日光街道が走っている

四つ角の信託銀行が宿場の問屋場(といやば)跡。

     杉戸宿問屋場跡

杉戸町には宿場跡地の説明板がないから、分かりにくい。

町おこしにこうした文化遺産を利用すればいいのに、と思う。

四つ角を右折して春日部方向へ。

来迎院、君近神社、東福寺、稲荷神社と回るが、椀状凹みはない。

  

     来迎寺               君近神社

 

 

    東福寺                愛宕神社

「これはダメかな」とやや捨て鉢な気分で向かった神明神社に、それはあった。

四隅の穴とは別に縁にもいくつか凹みがあるのが分かる。

 

                 神明神社と椀状凹みのある手水鉢

杉戸宿には、もう一カ所、椀状凹みのある場所があった。

宝性院。

         宝性院

墓地の壁に沿って無縁墓が並んでいる。

その一角に六地蔵と並んで1体の地蔵が立っていらっしゃる。

 

           地蔵菩薩と台石の椀状凹み

その台石に穿たれた跡がある。

和尚に訊いたら、以前は山門を入った場所におわしたのだそうだ。

杉戸の街中では、日光道中の文字を目にしなかったが、思いがけず、宝性寺の境内で見かけた。

道標を兼ねた馬頭観音で、「馬頭観音」も「日光道中」も惚れ惚れするようなおおらかな字。

出来ることなら日光街道に面して立っていてほしい、とこれは私の勝手な願いです。

 

次回は、栗橋宿から。

どうも日光まで、椀状凹みはありそうな気がするが果たしてどうなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


54 那須の多頭馬頭観音

2013-05-01 05:43:11 | 馬頭観音

情報化社会下の現代人の不幸は、何を見ても驚かないことだろう。

事前に写真やビデオで見ているから、現場では初めて見る気がしない。

でも、去年の秋、木曽の開田高原ではびっくりした。

頭が二つも、三つもある馬頭観音を、初めて見たからです。

  

                    木曽町開田高原の多頭馬頭観音

頭が三つと云っても儀軌にある三面馬頭観音ではなく、観音様の頭の上に馬の首が並ぶもの。

帰宅してから調べてみたら、開田高原の多頭馬頭観音は有名で、知らなかったのが不思議なくらいでした。

この時、同時に知ったのは、同じ多頭馬頭観音が那須地方にもあると云う事。

ならば行って見なくては、と4月中旬、車で出かけた。

東北自動車道を矢板ICで降りる。

矢板から那須まで一般道を走り、どこから多頭馬頭観音が出始めるのかを確認したい為。

まず、向かったのが矢板市上伊佐野にある矢板市郷土資料館。

    矢板市郷土資料館

ここで『矢板の石仏と塔碑(矢板市教育委員会)』を購入。

開いて見て、郷土資料館の敷地にも石仏があることを知る。

早速、行って見る。

昔の塩原への街道に面した土手に石仏群がある。

廿三夜塔や庚申塔に交じって、半数は馬頭観音。

文字塔と像塔の割合は、半分ずつくらい。

文字塔には「牡馬頭観世音、牝馬頭観世音」と刻した碑があり、像塔には寒念仏供養塔を兼ねたものがある。

 

「牡馬頭観世音 牝馬頭観世音」       寒念仏供養塔の馬頭観音

文字塔でも像塔でも、施主名と像立年月はきちんと銘記されているが、肝心の多頭馬頭観音はなし。

 

64基もの馬頭観音が一か所にあると聞き、平野集落へ。

集落の入り口の道路際の広場に馬頭観音が一列に整列している。

         矢板市平野東野の馬頭観音群

大半は文字塔で「馬頭観音」か「馬頭尊」。

像塔は64基中、わずか5基を数えるのみ。

1基「牛頭尊」があり、異彩を放っている。

昭和51年10月という設立念時は、64基中最も新しい。

解説板によると、この道は塩原、会津への道筋で、木材運搬に馬たちは従事していたらしい。

昭和50年代にはトラック輸送が主流となり、馬は皆無となって、飼育されるのは牛だけになっていたはずである。

この道筋には、何カ所もこうした馬頭観音群があるというので、進んで見る。

500mも行かない場所に、それはあった。

二股分岐点に20基ほどの馬頭観音群。

          矢板市平野上坪

中央の像塔の他は全部文字塔ばかり。

当然、多頭馬頭観音はありません。

 

ここらで馬頭観音について復習をしておこう。

馬頭観世音菩薩は、仏教における六観音の一つ。

六道のうち畜生道に配されるので、馬の無病息災を祈願し、死馬を供養する仏とされるが、本来は人間の守護仏で、儀軌の三面憤怒身はその呪力の強力なることの表現だとされています。

しかし、石仏としては、こうした憤怒馬頭観音像はごく少数で、温和な慈悲菩薩相馬頭観音が圧倒的に多いのです。

 

 三面忿怒馬頭観音 大円寺(杉並区)   慈悲菩薩相馬頭観音 岩屋堂観音(本庄市)                

これは、近世以降、馬が農耕や運搬に重要な存在となると、日本古来からの作神としての馬信仰が仏教本来の教義から逸脱した民間信仰としての馬頭観音信仰へと発展したことを表しています。

石仏として像立され始めるのは、近世中期。

死馬の墓標として造立されるようになります。

場所は、馬捨て場、血取り場、峠や山道、村はずれの追分など。

初期は像塔が多いが、次第に文字塔に移り変わってゆく。

ピークは明治時代。

大正、昭和になっても造立されるが、昭和も30年代の車時代到来と同時に馬が激減、馬頭観音造立も皆無となる。

開発ブームとともに邪魔者となった石仏は、一か所に集められることに。

こうした石仏群としては、馬頭観音が圧倒的に多い。

ちなみに矢板市では、地蔵208、十九夜塔82、庚申塔74基に対して馬頭観音363基とダントツの一位。

 

矢板市から県道30号線を走り、那須塩原市に入る。

那須塩原市に入ってすぐ左の嶽山箒根神社へ。

神社前に馬頭観音群がある。

  

            嶽山箒根神社前(那須塩原市)

きちんと整列した石仏の前には、道路。

道路の向こうには水田が広がり、右手奥には集落が見える。

生前、どの馬もこの道を行き来していたのではないか。

石仏群の横に、ひときわ大きな石碑。

「愛馬之碑」とある。

さらにその横にちょっと離れて庚申塔が1基。

像塔と文字塔が半分ずつくらいか。

文字塔には、「馬力神」や「先馬代々馬頭尊」がある。

「馬力神」は、力強い馬を讃えて神の字を贈ったものという。

「馬頭観世音」、「馬頭尊」以外のこうした文字塔については、後でまとめて表示します。 

ここまで目的とする多頭馬頭観音は見かけない。

 

午後1時過ぎ、ポツンと佇む蕎麦屋で昼食。

勘定をしながら「ここはどこか?」と訊く。

「高林」という地名を耳にしながら車を走らせたら、左手に石碑があるのに気付いてストップ。

馬小屋でもあったのだろうか、それらしき広がりの奥に2基の石碑が立っている。

近づいて見たら、探していた三頭馬頭観音だった。

 

馬頭観音だから、馬頭を頭上に頂くのは当然だが、普通は一馬頭のみ。

複数の馬頭を乗せるのは、事故か病気で一度に2頭も3頭も亡くした場合だと言われている。

ほのぼのしたデザインの蔭に飼主の悲痛な思いが込められているのです。

 

この後のことは思い出したくもない。

馬頭観音群があるという場所を2,3か所探すも見つけられない。

標識がない上に、訊きたいけれど人影は見当たらないからまったくのお手上げ。

気が付いたらいつの間にか、那須町へ入り込んでいた。

偶然見つけた馬頭観音を撮っていたらお年寄りが来て、立ち話。

 

自分の家の馬頭観音だが、明治のころのことで、馬の死因は分からないとのこと。

「ここへ行けば馬頭観音が沢山あるよ」と親切に教えてくれた。

言われたとおりに?行って見るが、行きつけない。

右左折を一本間違うととんでもない方向に行ってしまう。

茫漠たる荒野の中で途方に暮れて、この日は終わり。

雨が降り出した。

弱り目にたたり目とは、このことか。

 かつての馬の放牧場。場所がどこか、まったく不明

 

翌朝、5時半起床。

ペンションの朝食は8時半からだというので、車で出かける。

目的地は、小深堀地区。

石仏愛好家の間では、「馬頭観音通り」で知られる名所。

道路際に馬頭観音が群れを成しているから、昨日のようなことはなくすぐ分かるはずと思っていたが、その通りだった。

最初の群は、火の見櫓の下に20基ほどが雑然と座していらっしゃった。

         那須町小深掘

 20基のうち8基が多頭馬頭観音で、内訳は3馬頭が5基、5馬頭が2基、7馬頭が1基。

細長い自然石に草書体で「馬頭観世音」と刻し、上に3馬頭を配する優雅な石碑がある。

5馬頭の1基は、慶応4年造立で、7馬頭は文久2年とある。

 

何があったのだろう。

全財産を失う悲劇から馬主は立ち直れたのだろうか。

文字碑にも面白いのがある。

「馬頭観世音」の併記は、2馬頭と同意義ということだろう。馬頭観音群の前は牧場で、柵で囲ってある。

 柵の向こうは馬房のようだが、馬の代わりに車が入っていた。

 

次の群は100メートルも離れてなく、あった。

駆けあがりの裾に煤けた感じで一列に並んでいる。

 

       那須町小深堀

向こうに鯉のぼりが見える。

マンションのベランダから垂れ下がっている鯉のぼりを見慣れた目には、広大な屋敷にへんぽんと翻る姿は鯉のぼりのイメージそのもの。

 単頭馬から7頭馬まであるが、7頭馬頭観音は「馬」の文字が7個並ぶというユニークなもの。

 「馬」を頭にした7頭馬頭観音

 ここにも「馬頭観音」併記の文字塔がある。

 

 草書体馬頭観音併記の墓標

変わっているのは双体馬頭観音があること。

 

      双体馬頭観音

双頭馬頭観音ではなく、双体にしたのは何故だろう。

横並び思想が強い水田単作地帯に比べて、馬農家には個性の強い施主がいたようだ。

馬への愛情の強さを競い合った結果の表現に思える。

線彫りの馬もいる。

     線彫り馬の馬頭観音

風雨に晒されてすっかり色が落ちてしまっているけれど、元は鮮やかな朱色だったはずである。

晴天を祈願して朱色に塗ったと伝えられている。

これが黒だと雨を祈願するのだそうだ。

簡単な線画のようだが、躍動感溢れる佳品だ。

像塔は江戸期の造立が多く、文字塔は明治以降が多いが、ここの文字塔には馬の名前を彫ったものが散見できる。

 

これも馬主の愛情表現なのです。

 

小深堀から大深堀へ。

桜の古木があり、その下に22基の馬頭観音がいらっしゃる。

 

           那須町大深堀

念仏塔と庚申塔がひと際大きく、馬頭観音は小さいのばかり。

黒っぽいのは、野焼きの痕。

22基の内訳は、単頭2、双頭5,3頭7、4頭1,5頭6、馬の浮彫1。

文字塔はない。

いかにも那須の馬頭観音群らしい。

単頭の1基は、朱色がまだ少し残っている。

元はみんな朱色だった。

華やかだったにちがいない。

5頭の頭の配置がそれぞれ異なるのも面白い。

  

 

他と同じようにしようという配慮はないようだ。

むしろ他と違う独自色を模索しているかに見える。

唯一の馬の浮彫は、種付馬。

「種馬幸雲號」と名刻されている。

 種馬だから別格扱いなのだろう。

石工は似せるのに苦労したに違いない。

 上手くはないが、躍動感がある。

 

地図に「生駒神社」があるので、探しさがして行って見る。

長い参道の曲がり角に馬頭観音碑が5基。

  石碑の右の道路の奥が神社

「馬」文字頭もある。

本殿周りにはもっとたくさんあるかと期待していたが、何もない。

    生駒神社(那須町小深堀)

最盛期には馬を連れて参拝したのだろう、それらしい広場がポカンと広がっていた。

 

ペンションに戻り、朝食を食べる。

9時、さて、どこに行こうか。

昨日、行き着けなかった場所をもう一度トライすることにして、教えてくれた老人の家を尋ねる。

道筋を再確認して慎重に雑木林の中を進む。

人家は一軒もない。

こんな所に馬頭観音群があるのだろうかといぶかり始めていたら、あった。

道路際の広場に面して、32基の馬頭観音がひっそりと佇んでいた。

   馬頭観音群(那須町高久乙のどこか)

文字塔はたった1基、大半は像塔です。

単頭5、双頭4、3頭10、4頭2、5頭8、不明1(上部破損で)、文字塔1。

なぜか聖観音立像が1体いらっしゃる。

 

     聖観音           

馬というよりは、ネズミに見える石碑もある。

倒れたり、苔が生えたりしてはいないのは、定期的に管理する人がいるからだろう。

 

念願果たせて大満足。

集落まで下りて、農作業中の人に話を聞く。

戦前は軍馬の放牧場が近くにあり、各農家でも数頭の馬を飼っていたとのこと。

朝、放牧場まで連れて行って放し、夕方、連れ戻すのだが、利口な馬はさっさと家に帰って来ていたそうだ。

那須地方は火山灰土で地味が悪く、今は農業技術の躍進で田畑も開墾されているが、戦前は放牧場としてしか価値がなかった。

農家にとっては馬の飼育だけが現金収入の唯一の手段だったわけです。

馬は大切な財産で、大切に飼育し、死ねば石碑を建てて供養したので、馬頭観音碑は増えるばかり。

だから、馬頭観音群はあちこちにある、というので、一か所教えてもらう。

今回も途中で道を誤ったようだ。

何キロも走りまわって、馬頭観音群にぶつかったが多分、教えてもらった群ではないだろう。

三差路の角、畑をバックに松並木の下に整然と並んでいた。

  馬頭観音群(那須町高久乙)

ここの特徴は、5頭以上の多頭馬頭観音が多いこと。

なんと10馬頭や12馬頭馬頭観音がおわす。

 

   10頭馬頭観音             12頭馬頭観音

馬頭観音1万5000基を調査した栗田直次郎『馬と石造馬頭観音』でも、9頭馬頭観音を珍しいと紹介しているのだから、これは新発見か。

ここにも「牛頭観世音」が見える。

    牛頭観世音

昭和54年造立だから、この中では最も新しい。

世の中は広い。

像塔の「牛頭観音」もある。

私が見たのは、長野県松本市山辺。

    角のある牛頭観音(松本市山辺)

耳が4つある変わった馬頭観音だと思っていたら、上の二つは耳ではなく、角だとのこと。

だから、馬ではなく、牛だというのだが、石工がへたくそで牛に見えないのが惜しい。

横道にそれたついでに言うと、「豚頭観音」があるということで、所沢まで出かけたことがある。

探しても見当たらない。

畑の区画整理で邪魔になり、2か月前廃棄したということだった。

「豚頭観音」は、他にもあるようだが、まだ確認していない。

 

那須の多頭馬頭観音を見たいという願望は、これで果たせたことになる。

まだ探せばいくらでもあるだろうが、私はこれで大満足。

那須町役場で教育委員会発行の『那須の石仏』でも入手して帰るつもりで、役場のある黒田原を目指す。

途中、道路際に石仏群があるので、急停車。

  道路際の馬頭観音群(那須町寺個丙)

全部、馬頭観音で、7「馬」文字馬頭観音も7頭馬頭観音もある。

 

   7馬馬頭観音                 7頭馬頭観音

これが昨日だったら興奮しただろうが、今日は落ち着いたもの。

我ながら感情の起伏の激しさに驚いてしまう。

この場所は、神社の跡地なのだろうか。

少し奥まった場所に笹と縄で囲われて、馬頭観音が2基おわす。

 黒田原に着いたが、役場に直行せず「長久寺」へ。

   長久寺(那須町豊原甲)

資料では馬頭観音群があると書いてある。

山門を入って右に石仏が列を成している。

夜待塔や庚申塔、地蔵などもあるが、馬頭観音が圧倒的に多い。

先に挙げた栗田直次郎『馬と石像馬頭観音』で紹介されていた9頭馬頭観音がある。

 

 9頭馬頭観音            彩色馬頭観音

色彩馬頭観音がきれいだ。

昔は、みんなこんなに色鮮やかに立っていらっしゃった筈である。

こちらは 川越市で見かけた彩色馬頭観音。

 彩色馬頭観音(川越市)

土地は変われども、朱色は同じようだ。

石仏群の一番奥にひと際大きく聳えるのは「産馬大神」。

墓標として使われる「馬頭観音」や「馬頭尊」に対して、馬を神として敬う言葉がある。

「産馬大神」もその一つで、財産である仔馬の安産を祈願する神。

那須塩原市の嶽山箒根神社前の馬頭観音群の中にあった「馬力神」も馬を神としている。

    馬力神(那須塩原市)

「馬力神」はあちこちでよく見かける神だ。

 

  馬力神(大田原市)     馬力神(太子町)

那須町高久乙にあるのは「 生駒大神」。

矢板市玉田の生駒神社が本宮で、生駒講が各地にあり、代参する風習があった。

 生駒大神(那須町)

「生馬大神」があるのは、佐野市田沼町。

 生馬大神(佐野市)

 太子町には「生馬大神」から「生」を取った「馬大神」と、「大」を取った「生馬神」がある。

 

 馬大神(太子町)       生馬大神(太子町)

いずれも個人ではなく、地域の人たちが集まって造立するもの。

「勝善神」もよく見かける。

   勝善神(矢板市)

名馬の誕生を祈願するもので、岩手県水沢の駒が岳にある駒形神社が本宮。

勝善(しょうぜん)は蒼前(そうぜん)のなまり。

蒼前とは、膝から下が白い葦毛の馬のこと。

葦毛の馬は八歳になると白馬になると信じられ、名馬誕生を祈願した。(中島昭『おおひらの野仏』より)

「馬頭大士」の「大士」は、仏、菩薩の尊称だから、「馬頭観音菩薩」の意。

 馬頭大士(高崎市倉淵町)

「馬櫪尊」の馬櫪は、馬の飼い葉桶を指す。

 馬櫪神(那須町高瀬) はっきりしないが『芦野の石仏』にはそう書いてある。

この他、「馬頭大神」、「白馬大士」、「駒形霊王」、「駒形大明神」等など多種多様な表現がある。(栗田直次郎『馬と石像馬頭観音』より)

 回り道をした。

長久寺から那須町役場へ。

教育委員会を尋ねたが、石仏のことは芦野の「那須歴史探訪館」で訊いてほしいとのこと。

再び芦野へと車を走らせる。

「那須歴史探訪館」は総ガラス張りの超モダンな建物。

    那須町歴史探訪館

歴史探訪館が出版した『芦野の石造物』はあるのだが、個々の石造物の場所が記載されていない。

場所を明記すると文化財が盗難に遭う恐れがあるので、あえて書いてないのだと説明を受けた。

興味ある石造物がいくつかあるのだが、場所が分からないのでは探しようがない。

仕方なく、寺まわりをすることに。

最初に訪れた「三光寺」の駐車場に石碑が3本立っていた。

中が「生馬大神」、向かって右が「征馬大神」。

「征馬大神」には、昭和13年、軍馬として徴用された91頭の馬名と飼主の名が刻まれている。

昭和13年は、私の生まれた年だから、75年前のことになる。

軍馬に関する石碑も多いので、ここで少し紹介しておく。

昭和13年は、日中戦争が始まっていた。

私の家から近くのお寺には、「日支事変軍用馬」の供養塔がある。

       寿徳寺(北区)

変わっているのは、馬だけではなく、「頭鳩犬戦傷病亡」と彫ってあること。

「軍馬之碑」や「出征軍馬忠霊碑」なと゛戦争を特定しないものは良く見かけるが、「日露戦役軍馬之霊」と限定するのは珍しい。

  西林寺(佐野市)

塩尻市の観音堂には、日清、日露両戦役で戦死した軍馬供養の「征清軍馬之碑」と「征露戦死軍馬碑」とがある。

 

 征清軍馬之碑 (塩尻市)                征露戦死軍馬碑(塩尻市)

厚木市の飯山観音には「為農耕馬出征軍馬供養」と刻した石碑がある。

 

     飯山観音(厚木市

農耕にともに汗を流した愛馬が軍馬として徴用され戦死した、そのことを悼む供養塔だが、設立者は北海道根室国野付郡別海村の個人。

北海道の人がなぜ厚木市の寺に供養塔を建てたのか、その理由は分からない。

この他、軍馬供養塔としては、「軍馬忠霊之碑」、「軍馬霊祭碑」、「軍馬之供養塔」、「軍馬慰霊碑」、「軍馬碑」、「愛馬碑」などが各地に散見される。

これで、那須の多頭馬頭観音巡りと馬頭観音の異称、軍馬供養塔のあれこれについての報告を終える。

多頭馬頭観音めぐりが大雑把で、いい加減過ぎた。

反省しています。

 

最後に一言。

私が好きな馬の石碑が2基ある。

一つは、埼玉県富士見市の観音堂境内に立つ馬頭観音供養塔。

  観音堂(富士見市)

稚拙ながら飼主の愛馬心が迸っている像塔です。

六地蔵のとなりに小さな板碑と並んで、元禄から300年間、村の移り変わりを見てきたことになります。

もう一つは、馬方に手綱を引かれる馬。

   猿江稲荷神社(江東区)

馬方と馬、二石が一体となって意味を成す素晴らしい作品で、江東区猿江の「猿江稲荷神社」におわします。

写真の手前にコップなど邪魔なものがあるのは、カギが掛っていてどけることが出来ないから。

以前は境内に野ざらしで立っていたのだが、今回行って見たら、小詞の中に安置されていた。

この写真は、狭い桟の間から撮ったもので、陰影がなく、文字も像もはっきりしない。

貴重な文化財であることは理解しているが、これは少し過保護ではないか。

馬頭観音碑は野仏であるからいい。

盗難を恐れるのなら、レプリカでも仕方ない。

野ざらしに戻してほしいと思うのです。