石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

115山梨市の丸石道祖神-6-(後屋敷地区)

2015-11-28 05:31:32 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、加納岩、日下部、日川、後屋敷を各地区ごとに分けて掲載します。
各地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の町村です。なお、岩手地区は、日程の都合で取材していません。

後屋敷地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の後屋敷村。

 

水田と桑園の村は、昭和30年代、果樹栽培へと転換してゆく。

果樹散布の農薬による蚕への薬害がひどくなり、養蚕は廃れてゆくことに。

▼鴨居寺 稲荷神社

台石に「道祖神」ではなく「衛神」と刻されている。

「衛」は「城邑を守る」と辞書にある。

正に道祖神そのものだが、この辺りでは、丸石神は、かつては蚕の守り神として、今は果実の当たり神として信仰されている。

それにしても見事な球体。

人の手が加わっているに違いない。

▼東後屋敷 東組道祖神場

集落の中心にあったが、昭和になって、ここ、清水橋西に移転した。

台石が新しいのは、昭和62年に改築したから。

小正月の道祖神祭では、オコヤは作らず、代わりに道祖神の四方に青竹を立て注連縄を張る。

ドンド焼きの後、子供たちはキッカンジョに出かける。

道祖神の名を記した角燈籠を先頭に各家を回り、「キッカンジョ、キッカンジョ、お祝い申す、オカイコどっさり大当たり」などと唱和する。

今は「オカイコ」が「くだもの」になっている。

版木で刷ったお札を渡し、ご祝儀をいただく。

道祖神祭の後の日曜日、天神祭と称するオヒマチを宿で開く。

宿は、前年に祝ごとのあった家で、費用はキッカンジョのご祝儀をあてる。(『山梨市史民俗調査報告書―後屋敷の民俗ー』より)

▼東後屋敷 西組道祖神場

丸石神の他に、蚕影山、石尊山、二十三夜塔、地蔵などがおわす。

丸石神道祖神の周りに青竹を立て注連縄を張るのは、東組と同じだが、ここでは傍らにオチョウヤ(=オコヤ)を作る。

直ぐ近くの東組と微妙に違うのが面白い。

小なりといえども集落の独自性があるのは、すばらしい。

戦前までは、兵役前の青年がキッカンジョに回り、ご祝儀が少ない時は、「おなおしなって」と3回ほどつり上げることもしばしばだったという。

▼三ケ所 木戸組道祖神場

県道と市道の交差点辻に祀られている。

どこまでが石段で、どこからが台石か、悩んでしまう(ことはないが)。

台石に載せるのではなく、穴を掘って、そこに安置するという丁寧さ。

手厚い保存という意味では、市内NO1だろう。

台石には、私の好きな凹み穴も見える。

▼三ケ所 下新町道祖神場

いかにもムラの辻らしい所に丸石神がある。

左の大きい石碑は「蚕影山」。

丸石神というより「卵石神」と云うべきか。

これほどの楕円形は、これが初めて。

1月14日のドンド焼きは、ここでは水辺近くの畑で行われる。

門付のキッカンジョが終わると社殿に鳥居を取り付けたオチョウヤ(=オコヤ)に火がつけられる。

▼西後屋敷 若松神社

 丸石神の傍の双体像2基も道祖神。

しかし、小正月の道祖神祭では、丸石神がご神体となり、オチョウヤの中に安置される。

台座右側面に「寛政/八年/星舎/丙辰」、左に「正月穀旦」とある。

近くに石棒らしきものがあったので、ぱちり。

これで、「山梨市の丸石道祖神」巡りは終わり。

携行した山梨市の丸石道祖神の悉皆どころか、75%カバー仕切れたかどうか、不満は残るものの、もとより2泊3日のスケジュールで完璧を期する方がおかしい。

ま、こんなものでしょう。

丸石神を見て回りたいという願いは、達成できた。

どこのムラへ行っても、その辻々に丸石神は祀られいる。

ただ祀られているのではなく、小正月の道祖神祭りの主役として、今もなお、現役バリバリの存在であることが素晴らしい。

石仏、石造物巡りをしていて、物足りなさがあるとしたら、それは全て過去の遺物になりかけているということ。

造立されたときの信仰心や熱気は消え失せて、同じ運命をたどるべき石造物は、石であるがゆえに無意味にそこにあり続けている、そんな物悲しさをいつも感じるのです。

庚申塔しかり、馬頭観音しかり、子安搭しかり、あげればきりがない。

丸石神とコンビの蚕影山も同じ。

それだけに現役の神様としての丸石神の「活躍」は、極めて印象的でした。

印象的なシーンがもう一つ。

個人の庭や隣家との境、野墓地などに丸石があるのです。

家の守り神でもあるわけです。

 

最後に、おまけ。

私の愛読するブログの一つに「Cosmos factory」があります。

http://blog.goo.ne.jp/trx_45/e/b3dde08bd4e1d77f46c715e35c9f9d35

筆者は「長野県民俗の会」の会員。

「長野県民俗の会」が、今年、『長野県中・南部の石造物』を刊行したことを、このブログで知り、早速取り寄せました。

民間信仰石造物の宝庫・長野県の石仏、石神が豊富な写真とともに詳しく紹介されていて、いつか、この本を片手にどこかの地域を回りたいと思っています。

その『長野県中・南部の石造物』をペラペラめくっていて、「厄神信仰」というコラムが目に留まりました。

長野県の小正月道祖神祭りの諸相を書いたもので、興味深いので、その一部を転載しておきます。

「南町奉行大岡越前守忠相によって裁かれたしばられ地蔵の話はあまりにも有名であるが、世の中には縄で縛られた地蔵が各地に存在する。地蔵の体を縄で縛ると、苦しみを肩代わりしてくれるという信仰からくるもので、石神や石仏は人々の厄災を無言で負ってくれる存在である。そうした石神長野県では多い。小正月の火祭りでもあるどんど焼きに於いて、道祖神を火の中に入れる風習があった。それは人々の一切の罪や子どもたちの厄病を背負って焼かれるもので、火中に投じられれば割れてしまうこともあった。さすがに痛ましいと思ったのか、火中に投げ入れる道祖神を別に用意するところも多かった。そうした道祖神には自然石が利用され、今でも道祖神の石碑の傍らに特異な形をした石が置かれている例を見ることがある。石造でなくても、そして文字がや石仏の痛ましい姿を見ることもあり、とりわけ何でも言うことを聞いてくれる道祖神が対象となることが刻まれていなくても道祖神の一つとして認識されていたのだが、今は忘れられてしまっていることが多い。

火中に入れられるばかりではない。上伊那から下伊那北部にかけての地域では、普段使用しているご飯茶碗に、お金を年の数だけ入れて小正月の14日の晩に道祖神に行き、後ろ向きになって道祖神に茶碗を投げつけ後ろを振り返らずに家に帰るという厄落としが盛んに行われた。投げた茶碗は割れないと厄が落ちないとも言われ、投げつけられる茶碗を身体を張って道祖神は受け止めてくれたのである。誰にも会わずに、そして見られずに落としてこなくてはならないといわれる厄落とし。投げられた銭を子供たちが競って拾いあったといい、拾った銭は癒えに持ち帰らずに使わなくてはいけないともいわれた。現在でも小正月後に道祖神を訪れると、茶碗のかけらと小銭が散らばっている光景を見ることがある。
道祖神へ厄神除けを願う行事も多い。小正月に野沢温泉で行われる火祭りでは、厄年の男たちによって道祖神の社殿が作られ、祭りの当日には厄年以外の村の男たちが火付け役となり、社殿を守ろうとする厄年の男たちと激しい攻防戦が行われる。社殿には各戸で作られた削りかけの男女一対の道祖神が納められ、社殿とともに焼き払われる。火中に投げ込まれる石の道祖神と同様に、厄災一切を引き受けて燃やされるのである。(以下略)」(『長野県中・南部の石造物』より)

 

◇参考図書 

 〇『山梨市史 民俗編』平成17年

 〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

 〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年

〇市史編纂委『山梨市史民俗調査報告書―後屋敷の民俗の民俗ー』平成12年

 

 


115山梨市の丸石道祖神-5-(日下部地区)

2015-11-25 05:56:47 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、加納岩、日下部、日川、後屋敷を各地区ごとに分けて掲載します。
各地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の町村です。なお、岩手地区は、日程の都合で取材していません。

日下部地域は、昭和29年合併して旧山梨市になる前の日下部町。

山梨市の中央部で市役所周辺、JR東山梨駅北側一帯。

▼下井尻424番地路傍

台石に珍しく石工銘が彫られている。

「高遠 石工浅次郎」。

私にもブランド信仰があると見える。

「おっ、高遠の・・・」

それとなく風格がありそうに見えるから面白い。

▼下井尻776番地 西上組道祖神場

この道祖神場のどんど焼きについては、ブログ「山梨県峡東地域の道祖神祭」http://www.digi-ken.org/~archive/kyoto_dosojin.html#simoijiri

に詳しく載っています。「NPO地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブ」の許可を得て、写真と文を紹介します。

山梨市下井尻西上組・どんど焼き

 山梨市下井尻のどんど焼き行事では、「おこや」と呼ばれるわら小屋を作る。同地区の西上組では、伝統的に中学生以下の子供達が組内の家庭を回り、小屋の材料となるわら、竹、薪(ここでは「もしき」と呼ばれる)をもらい集める。この作業を昔は、「木勧進」(「きっかんじょ」と呼ぶ)といったが、現在では、「きっかんじょ」は小正月の前の晩に、組内の家庭を回り、祝い言葉を申して、金銭をもらって歩くことの意味に使われる。祝い言葉は以下の様である。
 「きっかんじょ、きっかんじょ、お祝いもうせ。家内安全、農業繁盛(または商売繁盛)」
 小屋作りのリーダーは「親方」と呼ばれ、中学3年生から選ばれる。親方は、小屋作りの指揮をするほか、きっかんじょで得た祝い金の分配を行う役目もする。

山梨市下井尻西上組の道祖神は、丸石の数の多さと礎石の石組が大きいことで知られる。「おこや」と呼ばれるわら小屋は、道祖神隣の「道祖神場」という専用の空き地が確保されている。
 おこやは、切り妻式で、昭和30年代頃までは、内部にいろりを設けて、餅をやいたり、甘酒を暖めて呑んだり、遊びの場となっていた。現在は、どんど焼きの火勢を強めるため、果樹の剪定枝を詰め込んでいる。

 

 

 山梨市下井尻西上組のどんど焼き行事を記録に残した。(平成13年1月14日夜撮影)

おこやが燃え上がる瞬間

 提供・「NPO地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブ」

 

▼七日市場 辻四つ角 辻組道祖神場

台石も自然石なのは、珍しい。

丸石は加工してあるように見えるがどうだろうか。

▼七日市場664番地 下組道祖神場

逆光の分かりにくい写真だが、この広い空地は祭場専用。

ドンド焼きも火災の心配なく盛大にやれそうだ。

丸石が枠に収まり切れずに転げ落ちている。

それでも丸石を見つけるといそいそと車で持ち帰るんだろうな、この辺の人は。

この「山梨市の丸石道祖神」を初めから読んでくれた人は、お気づきだろうが、燈籠の竿は穴だらけ。

縁石にも穴がある。(「凹み穴」については、当ブログNO44-45、56-60をご覧ください)

市井の石造物なら気兼ねなく穴を穿った、その証拠ではないか。

▼七日市場 七日市場公会堂前中組道祖神場

数ある丸石神の中で、この丸石神が最も有名かも知れない。

なにしろ直径120㎝の巨大自然丸石。

県内最大というから、当然、日本一ということになる。

どこにあったものか。

見つけた者たちの欣喜する姿が目に浮かぶようだ。

ここ七日市場の3組の道祖神祭は、市内でも盛況でオコヤも精巧で傑作だと評判が高い。

祭の写真があるのでお借りした。

七日市場公会堂前の道祖神は、日本全国でも最大級の丸石道祖神をご神体とする。直径110cm、高さ95cmの安山岩自然石が安置されている。

七日市場のどんど焼きでは、わら小屋を作らず、丸石のご神体に常緑樹の枝を飾る。提供・「NPO地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブ」

▼七日市場 石島公会堂北側 石島組道祖神場 

 中組と同じように、丸石神を包むようにオコヤを作っている。

 

  写真提供・「NPO地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブ」5372

こうした立派な小屋を、大人と子供が共同して建て、ドンド焼きで燃やすーそうした年中行事がある日下部の人たちを心から羨ましく思う。

▼小原東 日下部小学校北東の

丸石神と蚕影神がまるで夫婦のように寄り添って祀られている。

養蚕はもうなくなったのだから、蚕影(こかげ)神を祀る必然性はないわけだが、丸石神のある所、蚕影神ありと人々の頭にはセットで刷り込まれているようだ。

▼小原東 朝日天神社

神社の細長い境内の隅に雑然と丸石が積まれている。

台石なのか、丸石神なのか、いささかはっきりしない。

1個の方が神威があるように私には見えるが・・・

 

◇参考図書 

 〇『山梨市史 民俗編』平成17年

 〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

 〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年

 


115山梨市の丸石道祖神-4-(日川地区)

2015-11-22 05:50:18 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、加納岩、日下部、日川、後屋敷を各地区ごとに分けて掲載します。
各地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の町村です。なお、岩手地区は、日程の都合で取材していません。

 

日川地区は、北の重川、南の日川に挟まれた扇状地で、市内で最も標高が低く、平坦な地域です。

江戸時代から、米と養蚕の村だったが、昭和30年代半ば、急速に桃と葡萄栽培に切り替わります。

道祖神は、11か所に祀られていて、全部、丸石。

▼歌田 金桜神社

約80個もの小丸石に大きいのが4個載っている。

80個というのは、私が、今回、回った丸石道祖神の中では最多。

昔はこの境内でドンド焼きも行われていたが、火災を心配して、日川と重川の河川敷へ場所を変えた。(日川は、地域名は「ひかわ」、川名は「にっかわ」と呼ぶ)

▼歌田 東晨洋酒西 

    丸石道祖神は社の左、杉の木の下にある。

今は子供の遊び場となった神社の境内の片隅にひっそりとある。

大きな丸石が2個ごろんと転がっている。

自然石にしては、いささか丸すぎるようだ

ドンド焼きは、日川の河川敷で行われる。

松の枝やブドウのせん定陀を積み重ねたお椀型のオコヤを、午後3時ころ、消防団立ち合いのもと火入れが始まる。

▼歌田 重川遊園地北

 重川の堤防の石仏群の中にある。

ひときわ大きいのは、右から「水天宮」、「蚕神」、「馬頭観音像」。

蚕神の前に丸石が1個、これが道祖神のようだ。

馬頭観音の前には、陽石もある。

ドンド焼きは、1月14日、背後の重川河川敷で行われる。

御幣の御神体をオコヤに移し、参加者にお神酒と尾頭付きが配られると火が点火される。

ドンド焼きが終わると子供による巡行が始まるが、その前にオヤド(お宿)で腹ごしらえ。

オヤドは、子供の年長者(中3)の家がなる。

巡行は、午後4時半から。

裃と袴をつけた中1男の道祖神を先頭に、獅子、太鼓、鉦が続き、その後を大勢の子供たちがぞろぞろとついてゆく。

キッカンジョに似ているが、キッカンジョではなく、獅子舞行事。

 

 

小正月での獅子舞(山梨市塩平地区)ー「山梨の観光情報(牧丘タクシーのブログ)より」

各家の玄関先で子供たちは「オシシの年始だよ。悪魔払いて舞い込め。無病息災家内安全、果実大当たり」の掛け声をかける。

子供が差し出す祝儀かごに、家人がご祝儀(1000-3000円)を入れる。

地区180戸の門付が終わるのは、日が変わった午前0時過ぎ、こうしてにぎやかに歌田の小正月は終わるのでした。

▼中村 出雲神社

5段重ねの台石の上に小さい丸石13個と大きいのが1個、セメントでくっつけられて載っている。

ドンド焼きはするが、子供たちによるキッカンジョはやっていないそうだ。

▼中村 石尊山前広場

石尊山広場なのに、巨大な「蚕影山」ばかりが写っていて、丸石道祖神の影が薄い。

反対側からの写真も載せておく。

石尊大権現を祀る石尊堂があるはずだが、見当たらない。

昔はこの辺りまで、切れた堤防から日川の水が流れてきたから、水の神の石尊山を祀ったのだろう。

▼下栗原 天神社上町道祖神場

 およそ30個の丸石がセメントで固められてある。

陽石が突き出しているが、上の写真では分かりにくいので、分かりいいのを載せておく。

小正月の祭では、丸石を四方竹で囲って注連縄をはる。

色とりどりのオシンメイ(幣紙)を飾り、お神酒、供物をあげて拝礼する習わし。

▼下栗原 大宮五所大神社

7月に行われる大宮御所大神社最大の神事、水害防止祈願祭は、日川の氾濫を怖れるこの地域の人たちの気持ちを反映している。

ここの丸石道祖神も多くの丸石で構成されている。

境内社と肩を並べて、堂々たる「神様」ぶりです。

▼一町田中 水上稲荷社

神社というより城郭のようだが、それもそのはず、甲斐領主田安家の本陣跡。

田安家の守護神水上稲荷社だけがここに残った。

丸石道祖神は、1個、馬頭観音と並んで、在す。

ドンド焼きはここではなく、白山神社の境内で行われている。

子供たちによる祝儀集めのキッカンジョは、ドンド焼きの1週間前に行われる。

オコヤ作りは、大人と子供の共同作業で、3mのドーム型を作る。

高いのは、かつては子供たちが中に入って遊んだ名残りだとか。

≪続き≫

◇参考図書 

 〇『山梨市史 民俗編』平成17年

 〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

 〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年

〇市史編纂委『山梨市史民俗調査報告書―日川の民俗ー』平成13年

 

 


115山梨市の丸石道祖神-3-(加納岩地区)

2015-11-19 05:42:56 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、加納岩、日下部、日川、後屋敷を各地区ごとに分けて掲載します。
各地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の町村です。なお、岩手地区は、日程の都合で取材していません。

加納岩(かのいわ)地区は、昭和29年合併前の加納岩町。JR山梨市駅周辺、笛吹川左岸、重川右岸にあたる。

地区には、16か所に道祖神があるが、道祖神祭で小屋掛けをするのは、2か所だけとなっている。(平成17年刊行『山梨市史 民俗編』P416)

都市化が進んだ地区と云えるのかもしれない。

▼大野 1124番地路傍 下組道祖神場

4段重ねの台石に直径48㎝の丸石神がどっしりと安定した形でおわす。

裏面に「大正五年九月改築」とある。

改築されたのは台石なのか、丸石か。

横に「蚕大神」。

バックは果樹園。

山梨市の典型的景色と云えよう。

▼大野 市営大野団地南側 西組道祖神場

道祖神祭で小屋掛けをする祭場が少なくなった、と市史には書いてあるが、こうした風景を見ると、それも時代の趨勢かと思ってしまう。

▼大野 402番地路傍上組道祖神場

道路ミラーがあるので丸石神の高さが分かる。

158㎝もの高さがある。

真円ではないが、なめらかな球体。

文久三年(1863)造立というから、石工が細工したものか。

▼大野 12番地路傍 北組道祖神場

大野北組では、旧来の慣習を引き継いでいる。供物としてアズキメシを焚き、握り飯を道祖神祭の参加者に配る。また、当番家をヤドにして、オヒマチが行われる。この折、道祖神場から、真ん中に安置されている丸石を運び、サンダワラに御幣を挿した船にのせ床の間に祀っておく。」(『山梨市史 民俗編』P417)

▼大野 天神社 南組道祖神場

天神社の境内地を区切って、その外側に丸石道祖神はおわす。

神は神でも、道祖神は、境内社にはならない(なれない?)のだろう。

3個の丸石の上に1個、4個の丸石神は今回、他にもう1基だけ見た。

▼下神内川586番地 中組道祖神場

        かのがわ古道

下神内川の道祖神は、かのがわ(神内川)古道沿いにある。

かのがわ古道は、昭和30年代の旧山梨市のこの界隈を再現したもので、道の両側に石仏が点在している。

          中組道祖神場

中組道祖神場には、丸石神もあるが、ここの御神体は男女双体像。

かのがわ古道が観光客を意識して造られたためか、市が設置した説明板がある。

文字で「道祖神場」と表記してあるのは、初めて見た。

道脇の小川の流れに従って進んでゆくと右手に2個の丸石が見える。

しっかりした石組みの土台の上にあるので、誰もが丸石道祖神だと思うだろうが、市の説明板は、それを否定している。

その説明が実証的で、かつ面白い。

道祖神場は、除け地(租税免除の土地)であるのが普通だが、天保9年(1838)の下神内川村村監明細帳には、この場所は除け地として扱われていない。従ってここは道祖神場ではない。道祖神ではない丸石信仰なのか、他から持ってきたものか、分からない

 なにげなく置かれている石仏にも珍品がある。

これは、三体馬頭観音。

三面馬頭観音は珍しくないが、三体馬頭観音は極めて珍しい。

三体馬頭観音の背後の自然石と丸石は屋敷神なのだそうだ。

自然石は、石棒の様にも見えるが、どうなのか。

 ▼上神内川 1214番地 育成会館広場

『山梨市の石造物 平成13年』の写真では2個の丸石が、枠内に大きいのが4個、小さいのが3個、それに枠外に大1個、計8個の丸石があった。 

「山梨市の丸石道祖神(八幡地区)で詳述したが、ここでもう一度、道祖神祭の段取りをおさらいしておく。

祭場によって少しずつ違う上に、時代によっても異なった。

これは戦前の一般的な祭の流れだと思ってください。

(1)1月7日、子供たちが門松を集める。
(2)1月11日、集めた門松などで小屋を造り、高いさおに竹のヤナギをあしらい、おこん袋をぶら下げてオヤマをたてる。一方、子供たちは各戸を回り、金銭や菓子を集めて歩く。
(3)14日、集めた金品を道祖神に供え、夕方、小屋や門松を燃やすドンド焼きをする。繭玉団子を焼いて食べて健康を祈り、習字を燃やして書道の上達を願う。

▼上神内川1110番地路傍

 

 この写真の狙いは、道祖神はどんな場所にあるのかを分かってもらうこと。

道路に面していて、ちょっと凹んだ場所。

火を燃やしても安全な場所。

人が集まりやすい場所。

▼上神内川842番地 道祖神場

 道祖神がどんな場所にあるかを書いたばかりだが、こんな恵まれた道祖神場もある。

果樹園への私道を兼ねた区切られた広い空間。

車が通らないから子供たちは安心して騒ぐことが出来る。

道祖神の右の石碑は、「蚕影山」と「石尊山」。

「石尊山」の本社は相模大山の阿夫利神社。

山梨市には、石尊神社がいくつかあります。

「蚕影山」と「石尊山」の間の突起物と小さな丸石は何だろうか。

男と女と私は見たが、どう思いますか。

これで加納岩地区は終わり。

急速な市街化で大規模な火祭り(ドンド焼き)が出来なくなるとともに低調でつまらない祭りは廃れる一方だ、と『山梨市史』はまとめているが、その対策案は出されていない。

もうお手上げということなのだろうか。

≪続き≫

 ◇参考図書 

 〇『山梨市史 民俗編』平成17年

 〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

 〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年

 

 


115 山梨市の丸石道祖神-2-(山梨地区)

2015-11-16 05:32:32 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、加納岩、日下部、日川、後屋敷を各地区ごとに分けて掲載します。
各地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の町村です。なお、岩手地区は、日程の都合で取材していません。

山梨市には、丸石道祖神が約100基あると云われている。

今回、私が撮影したのは、75基。

手始めに伝統民俗が色濃く残っていると思われる八幡地区での丸石道祖神18基を紹介し、ドンド焼きなどの道祖神祭のありようを併せて、前回、まとめて掲載した。

ぼんやりとではあるが、丸石神のイメージは伝えられたように思う。

私自身の好奇心も満たされ、初期の目的は達せられた。

あとは、変わり種丸石神を紹介して終わりにしようかと思うのだが、少々気になることがある。

それは、ネット検索してみて分かったことだが、意外にも丸石神の写真資料が少ないということ。

少ないというのは、情報化社会の現代では、という意味だが。

であるならば、撮影した全部の丸石神を掲載するのも無意味ではないように思える。

何の変哲もない、ありふれた丸石神ばかりではあるが・・・

私はテレビ制作の仕事をしていた。

番組の質は、取材してきた素材をいかに捨てるかにかかっていた。

捨てないで全部詰め込むなんていうのは、自殺行為に等しかった。

だから撮影してきた写真を全部載せるというのには、抵抗感があるけれど、今回は例外と割り切ることにする。

お読みになるあなたも、資料写真はすっ飛ばしてご覧ください。

☐山梨市山梨地区

山梨地区は、八幡地区の南にあって、同じように西に伸びている。

地区の東を南北にフルーツラインが走っている。

南面した傾斜地はすべて果樹園。

▼万力1262番地

新しい。

台座裏面に「平成十年十二月吉日寄進」とある。

寄進者の「ストーン望月」は、石材屋か。

見事に真円だが、さすが石屋さん、と思って電話して見たら、中国からの輸入品だという。

今や、丸石神を造る地元の石屋はないだろうとのことだった。

▼落合297番地小田屋道祖神場

向こうに横切るのが、西関東自動車道。

反対側からの写真は、蚕影山(こかげさん)と秋葉山の恒例コンビの向こうにぶどう園が見える。

どこを向いても果樹園ばかりなのです。

丸石の数が多い。

1個の丸石神が普通だがが、こうした複数個も珍しくない。

何個だろうが、とんちゃくしない、おおらかと云えばおおらか、いい加減といえばいい加減な神様なのです。

『山梨市の石造物』では、その数約50個とある。

実際に数えたのかな。

▼上岩下 岩下温泉前路傍

かつて台座にセメント付けされていたらしい。

その台座ごと薄く剥がされて、新しい台座に載せてある。

自然石なのに見事に丸い、惚れ惚れしてしまう。

同時に神聖さも、ある。

正方体や三角錐ではなく、球体に神の依代を古代人が見たとしても、当然のことのように思う。

 ▼上岩下 湯前寺入口山寺組道祖神場

 湯前寺という寺の境内の端っこにある。

台形の自然石に丸石が大小13個ごろんと転がっているだけ。

前の「岩下温泉前の丸石神」には、神聖さを感じるが、こちらにはそうしたオーラを私は感じない。

1個の方がすっきりして、神々しいように思う。

どうですか、あなたは。

▼山根1392番地 山根5組道祖神場

道祖神の前の石柱は、幟立て。

コンクリートの広場は、ここでドンド焼きをするからだろう。

ここの丸石神も複数個(18個)。

山梨地区に入ってから、多数の丸石道祖神ばかりとなった。

地域色がこんなところにも表れている。

▼山根天狗橋北 山根1組道祖神場

山根の集落は入り組んでいる上、道路が狭い。

運転が下手くそで、駐車スペースもないから、道祖神を探すのも、撮影のため車を停めるのも一苦労。

この道祖神撮影のため、隣の家の庭に駐車させてもらえないか、頼んだ。

私と同年輩くらいの主が、目的を聞いて、彼の車であとの2か所を案内してくれるという。

ありがたいことで、お礼を云って、軽トラの助手席に乗り込んだ。

▼山根1006番地 山根1組道祖神場

 「これから行く祭場には、珍しいものがあるんだ」。

運転しながら、男は云う。

「珍しいんだけれど、本来の姿だと思うよ」とも云う。

着いてみて、意味が分かった。

陽石が丸石の前に突き出している。

水石の道祖神祭でのオコヤから「象の鼻」が突き出ていることは、「NO114 山梨市の丸石道祖神(八幡地区ー4)」で書いた。

「象の鼻」が男根であることは、明白である。

道祖神が塞の神の他に、性神でもあるのは、陽石を見れば納得できる。

古代から、人々の願いは、安定した生活の維持と繁栄だった。

繁栄は、同族繁栄も意味し、それは性行為によってもたらされるから、陽陰石信仰が生まれた。

陽石が山梨県に多くみられるのは、丸石神もそうなのだが、古代の信仰形態がそのまま残っているからではないか。

 

▼山根 山根公民館裏側 3組4組道祖神場

民家の庭に入り込んだ形で、紙垂(しで)がないと道祖神場だとは分からないだろう。

前が川なので、ドンド焼きには恰好の場所なのかもしれない。

1個でも堂々たる丸石神として通用しそうな、大きめの丸石が10個ほど積み上げられている。

▼矢坪 老人憩いの家脇 下組道祖神場

公民館や憩いの家は、昔、お堂だったところが多い。

だから石仏があるだが、ここの丸石神の隣の石仏は白ずくめで珍しい。

頭に帽子、胸に前掛け、腰に注連縄を巻いている。

新仏が出たときの、この地方の伝統作法かと思ったが、死者が出たという話は聞かないそうで、では何のための白装束かと疑問は増すばかり。

老人憩いの家は、県道から入り込んだ坂道を上った所にある。

撮影を終え、来た道をバックしようとして、気が付いた。

次の中組道祖神場は、憩いの家の背後の山にあるようなのだ。

丸石と石仏の前を通り、幅の狭い道を左に曲がり、急な坂道を上がる。

ほんの50mもしない場所に、中組道祖神場はあった。

矢坪 1123番地 矢坪中組道祖神場

 「えっ、こんなところでドンド焼きをやるの?」。

極めて狭い道路のふくらみに、ぼたもち状の丸石神がある。

台石正面に「道祖神」。

左側面に「天保/三壬/辰/霜月/吉日」とある。

▼矢坪 天神社 矢坪上組道祖神場

 

写真左奥にちらと見える建物は、どんづまりにある寺。

左隅に塀が少し見えるのが、最も高く、最も奥にある人家。

丸石神は大きい真円。

人工球体だろう。

「平成6年上組氏子一同」と造立者が刻まれている。

一同と云っても10軒を超えることはなさそうだが・・・

道祖神から道路に出て、下を見ると甲府盆地を真下に見下ろすような感覚にとらわれる。

 

ここから一挙に下って国道140号線へ。

雁坂みちを山梨市内中央へ進む。

▼落合 落合警察官駐在所前

「にこやかにかわすあいさつ人の道」の立て看板。

「事故のことを考えて無事帰る」の幟。

横には「祈願 交通安全」の石碑。

まるで交通安全に特化したかのような丸石神だが、駐在所の敷地では仕方ないか。

約60個もの丸石があるので、うっかり間違えてしまうが、道祖神は石祠なのです。

台座裏面に「大正四年一月 高等二年生 落合組一同」とある。

真裏に山梨小学校がある。

山梨尋常高等小学校2年落合組があったのだろうか。

それとも落合道祖神場の成員のメインは、尋常高等小学校2年生だということか。

いずれにせよ、石祠の造立、寄進にはちょっと幼すぎるようだが。

▼上岩下24番地 常性寺東

 常性寺の境内、墓地を探すも道祖神はない。

改めて資料を見直す。

常性寺東とある。

とにかくぐるっと寺を回ることに。

あった。

寺の塀に沿うように二本の幟立に挟まれて、ちょこんと石祠道祖神がある。

個人的な趣味で恐縮だが、山梨では、道祖神はやはり丸石神に限るようだ。

▼正徳寺1105番地道祖神場

お堂の横に「蚕影山」と「庚申塔」の石塔。

その隣に60個もの丸石道祖神。

絵のような丸石道祖神場です。

絵のようなと云えば、このお堂を東方向から見るとこんな絵のような景色。

60個もの丸石神から3本の陽石が屹立している。

注連縄だろうか、締められて凛々しい。

ここにも多数の凹み穴。

(「凹み穴」については、当ブログNO44-45、56-60をご覧ください)

これで、山梨地区の丸石道祖神を見てきたことになるが、今から12年前の山梨市の刊行物『山梨市の石造物』によれば、山梨地区19か所の道祖神場では、オコヤを作る所はないらしい。

オコヤを作り、燃やすことは、祭りのハイライトだから、それがないのは、祭の縮小を意味する。

原因の一つは、明治政府の文明開化路線に沿うべく、旧来の生活習慣を廃止、禁止する県の布達、禁令にあったと市史は指摘している。

ここ正徳寺集落で道祖神祭をめぐって、「開花派=文明開化派」と「旧弊連=伝統派」との若者連の対立、いがみあいを『山梨日日新聞』(明治21年1月26日)は次の様に伝えている。

「旧弊連の若者は他村で盛んに祭りをするのに我が組ばかり廃止しては、若衆の肩身が狭いとか、巾が利かぬとか、妙な処へ力瘤を入れて、是非とも祭りをせねばならぬと主張し、他へ相談もなく夜中に道祖神の前にお山となん云える物を飾り立て、昔用いた獅子道具を担ぎ出したので、開花党の方で承知せず、たとえ旧弊連が集まりて遣ることにしても、正徳寺組の若者中で道祖神祭りを執行したと云う時は、幾らか此方も関係のあるように世間で見られて迷惑すると懸合付け、双方ゴタゴタしている中に祭礼はすんでも、お祭党と非祭党の軋轢はいまももって纏まりがつかず、せっかくもんちゃく中なりという。」

 

◇参考図書 

〇『山梨市史 民俗編』平成17年

〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年

 

 

 

 

 


114山梨市の丸石道祖神(八幡地区-5)

2015-11-13 05:37:52 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、日川、日下部、後屋敷、加納岩を各地区ごとに分けて掲載します。
八幡地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の東山梨郡八幡村のこと。南、北、江曽原、市川、大工、堀内、水口、切差の8集落から成る。


▼水口 山口バス停脇

 山口の道祖神も上之山と同じ安永五年(1779)造立だが、こちらは一月吉日、小正月に間に合わせたのだろうか。

山口のオコヤには象の鼻はつけないことは前段で書いたが、オコヤ正面の窓にぶら下げる大福帳には男女の性器や交合の絵が描かれているのだとか。

山口のオコヤ(地域資料デジタル化アーカイブズ提供)

道祖神は、子作りの神であり、性神でもあることがよく分かる。

 山口組オコヤの大福帳(地域資料デジタル化アーカイブズ提供)

1月14日の道祖神祭りのハイライトは、ドンド焼きだが、その前に、子供たちによる「きっかんじょ」が行われる。

「地域資料デジタルアーカイブズ甲斐之倉」http://www.digiken.org/~archive/index.html。では、「きっかんじょ」をこんな風に紹介している。

山梨市下井尻のどんど焼き行事では、「おこや」と呼ばれるわら小屋を作る。同地区の西上組では、伝統的に中学生以下の子供達が組内の家庭を回り、小屋の材料となるわら、竹、薪(ここでは「もしき」と呼ばれる)をもらい集める。この作業を昔は、「木勧進」(「きっかんじょ」と呼ぶ)といったが、現在では、「きっかんじょ」は小正月の前の晩に、組内の家庭を回り、祝い言葉を申して、金銭をもらって歩くことの意味に使われる。祝い言葉は以下の様である。
 「きっかんじょ、きっかんじょ、お祝いもうせ。家内安全、農業繁盛(または商売繁盛)」
 小屋作りのリーダーは「親方」と呼ばれ、中学3年生から選ばれる。親方は、小屋作りの指揮をするほか、きっかんじょで得た祝い金の分配を行う役目もする。

 「きっかんじょ」は子供が主役の地域が多いが、山口では大人も参加する。

子供たちが手造りの神輿を担ぎ、その後を太鼓を担いだ青年たちがついて、家々を門付けして回る。。

太鼓は道祖神祭専用の太鼓で、叩き言葉は「トンコロッペイサン トンコロッベイサン」。

門付の家の前で「おめしとごいす。今年も豊作万作なるように、お蚕大当たり、養蚕満足」とか口上を述べるが、養蚕が行われなくなって、「果物大当たり」に代わってきているのだそうだ。

神輿を担いだ子供たちは、土足のまま家にあがり、囲炉裏を3回回る。

家人が盆の上に賽銭を載せて差し出すと、代わりに札を置いて行く。

大人が参加する山口では、性的なはやし言葉も飛び交う。

「14日15日、おっかさんはどこだ 納戸の隅で ぼぼの毛をそろした 何本そろした 33本そろした もう1本足らんぞ お祝いもうせ」。

▼水口 丸山道祖神場

 写真では分かりにくいが、燈籠の左下に丸石道祖神はある。

左は、青面金剛。

山梨市に来て初めてお目にかかった。

丸石神の台石は、穴だらけでひどい有様。

凹み穴の写真を集めている私は、逸品が撮れてにんまりだが。

丸石を傷つけないのは、神様だからだろう。

やみくもに石を穿っているのではない、きちんとした分別のある大人の所業なのです。

道祖神場の前は、観光ぶどう園。

 丸山ではオコヤではなく、オチョウヤと呼ぶ小屋を道祖神を囲むように建て、正面からはご神体の丸石神が見えるようにしてある。

小正月のハイライト、ドンド焼きは家々から持ち寄った古い神札や門松、それにオチョウヤもバラバラにして燃やす。

 

ドンド焼きは長い伝統行事だから、いくつもの効能伝説がある。

〇ドンド焼きで焼いた繭玉団子を食べると虫歯にならない。

ドンド焼きで繭玉を焼く(山梨市下井尻)ー地域資料デジタル化アーカイブズ提供

〇ドンド焼きに投じた書初めが高く舞い上がれば、習字が上達する。

書初めを燃やす(山梨市下井尻)ー地域資料デジタル化アーカイブズ提供ー

〇焼け跡の灰を水に溶かし家の周りにまくと魔除けになる。

〇ドンド焼きの火に当たった夫婦がその夜交わると良い子が生まれる。

夜の火祭りは、子供たちに鮮烈な故郷イメージを焼き付ける。

大人になっても、そのイメージは消えることはない。

是非とも存続させたい伝統行事だが、主役の子供がいないムラでは、やむなく廃止に追い込まれるケースが相次いでいるようだ。

水口の奥の切差という集落にも道祖神はあるのだが、双体道祖神と石祠道祖神ばかりで、丸石道祖神はないと持参資料にあるので、行かずしまいに。

次回からは、山梨地区に入ります。

≪続く≫

 

◇参考図書 

 〇『山梨市史 民俗編』平成17年

 〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

 〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年

〇市史編纂委『山梨市史民俗調査報告書―水口の民俗ー』平成11年

 


114山梨市の丸石道祖神(八幡地区-4)

2015-11-11 05:46:07 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、日川、日下部、後屋敷、加納岩を各地区ごとに分けて掲載します。
八幡地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の東山梨郡八幡村のこと。南、北、江曽原、市川、大工、堀内、水口、切差の8集落から成る。


堀口から再び県道へ戻って西へ。

水口集落に入る。

標高550mくらい。

写真の地点はまだ広がりがあるが、山峡の村で周囲は山ばかり。

江戸時代、幕府直轄の山林だった。

 山梨市でも最奥の集落で、道祖神祭りも昔のまま行われているという。

山梨市が刊行した『山梨市民俗調査報告書ー水口の民俗ー』を参考に水口の道祖神を見て回りたい。

▼水口中組道祖神場(首地蔵横)

 水口に入ると携行資料の『山梨市の石造物』での道祖神の住所表記は、番地ではなく、道祖神場になっている。

道祖神場というのは、そこにある道祖神を囲んで道祖神祭が行われる場所で、住民にとっては、住居表示より〇〇道祖神場の方が分かりいいに違いない。

目的の中組道祖神場に着いて、アッとつぶやいた。

ここへは以前来たことがあるからです。

丸石神の向こうの首地蔵の撮影に来たのは、一昨年の2月。

その模様は、当ブログNO49「山梨県のデカ地蔵」に載っています。

首地蔵の巨石が道路にはみ出して、車の通行の邪魔になっていることは、明らかだが、移転しようとすると関係者の身に異変が起きる。

首地蔵の祟りだと恐れて、だから、誰も動かそうとしないのだそうだ。

首地蔵と丸石道祖神の背後の大きな建物は、今や無人の養蚕農家。

地域産業を担ったこんな大きな建物が廃屋になりつつあるなんて、世の中、どうかしているとしか思えない。

「一億総活躍」大臣なのか「地方創生」大臣なのか、どっちでもいいけど、早くなんとかしなさい。

首地蔵にいいつけるよ。

▼水口 上之山道祖神場

 上之山の道祖神は、石龕の中に丸石神が鎮座している。

台座に「安永五年(1776)申年十一月」とある。

山梨県民にとって道祖神といえば、小正月の道祖神祭りを思い浮かべるだろう。

子供の頃の記憶に残る地域の行事としてもトップランクではなかろうか。

1月14日の祭本番に備えて、前日にオコヤ(お小屋)造りが行われる。

オコヤは14日のドンド焼きで燃やしてしまうが、道祖神祭りのメインをなすもので、夫々の祭場でそのスタイルは異なっている。

上之山では、まずオトコシ(男衆)が山へ行って杉の枝打ちをする。

道祖神の石龕を竹で覆い、そこを杉枝で葺いてゆく。

 この写真を含め白黒写真は『山梨市史民俗調査報告書』より転載

山梨市全体で見れば、昔はオコヤの材料は稲わらだったが、果樹に転換したため、藁不足となり、剪定された果樹の枝木を使用する祭場が多い。

上之山では、「象の鼻」と呼ばれる男根がつくと出来上がり。

「象の鼻」と呼ぶかどうかはさておき、男根イメージの棒状のものがつくオコヤは少なくなりつつある。

 山梨県牧丘町のオカリヤ(地域資料デジタルアーカイブズ提供)

水口ではまだ健在で、東組では藁縄、中ノ組、中島組では青笹で男根を作る。

 東組のオコヤと「象の鼻」

しかし、山口や切差には「象の鼻」はない。

オコヤ造りと並行してオヤマタテも行われる。

オヤマタテは、ご神木のオヤマザオを立てること。

オヤマザオは杉の木に青竹のヒゴを巻き付け、紙飾りをあしらったもの。

水口でも上之山だけにしか見られなくなったという。

≪続く≫

◇参考図書 

〇『山梨市史 民俗編』平成17年

〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年

〇市史編纂委『山梨市史民俗調査報告書―水口の民俗ー』平成11年


114山梨市の丸石道祖神(八幡地区ー3)

2015-11-07 05:31:31 | 民俗

 2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、日川、日下部、後屋敷、加納岩を各地区ごとに分けて掲載します。
八幡地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の東山梨郡八幡村のこと。南、北、江曽原、市川、大工、堀内、水口、切差の8集落から成る。


 ▼市川695番地路傍

 幅の狭い坂道だから、車が来たらすぐ動かさなければならない。

ドアをあけたまま、カメラを持って飛び出し、シャッターを押したら、すぐ戻る。

実物の記憶はまるでない。

写真を見て「あ、こんなだったんだ」。

台石に、明和三年(1766)と刻されているという。

山梨市でも古い道祖神の一つ。

後ろの物置に「果実豊作」と書いた行灯が転がっている。

道祖神祭で使ったものだろうか。

▼市川2131番地

         丸石道祖神      蚕影山

逆光で分かりにくいのを承知の上で、この写真を選んだ。

甲府盆地を見下しながら、石神たちが日向ぼっこをしているようで、味わい深い。

人の背中にはその人の人生がにじみ出ていると云われるが、石碑、石仏も同様か。

▼大工 伝送寺参道入口

 上に伸びているのは、伝送寺の参道。

燈籠が山門代わりか。

その前に丸石道祖神が在す。

燈籠の向こうは寺の私有地だからなのか、道祖神は仏教とは無関係だからこちら側にあるのか。

両者には明らかに一線が画されているのに、現代人の目には、燈籠も道祖神も同じにみえてしまう。

 ▼大工バス停

村の四辻に、蚕の神・蚕影山と火伏の神・秋葉山に挟まれて村の守護神・丸石道祖神がおわす。

民間信仰として最高のトリオで、これ以上の願望は、他力本願に過ぎるだろう。

絵に描いたような光景で、この写真が撮れただけで、今回の山梨市丸石神巡りは成果があったと満足。

バス停の横の観世音碑にも強く惹かれるものがあった。

 台石がボロボロに打ち抉られている。

私が探している凹み穴のようだが、これほど深く大きくえぐられたのは珍しい。(「凹み穴」については、当ブログNO44-45、56-60をご覧ください)

 ▼大工 旧駐在所隣

バス停前の坂を下りてゆくと旧駐在所跡に出る。

野草が猛々しく群生する空き地に蚕影山碑がある。

ということは、丸石道祖神もあるはずだが、見えない。

中に入り込んで草を分けてまで探さなかったので、断言はできないが、なさそうに思う。

と、書いて、こうも思うのです。

「あんな重い石を誰がわざわざ運びだすのだろうか」。

きちんと探せばあるように、今度は思う。

なんという優柔不断さ。

なさけない。

原因は、草を分けても探さなかった私にあるのだから、文句も言えないが。

▼大工 天神社

立派な神社が打ち捨てられたようにひっそりとある。

鳥居をくぐると右側に石祠群。

石祠そのものが道祖神になっている。 

中に石棒があると資料にはあるが、確認できなかった

▼堀内1874番地路傍

 堀内の、甲府盆地を見下ろす見晴らしのいい場所に石祠道祖神がある。

刻銘の万治三年(1660)により、山梨市最古の道祖神とされているが、平成17年刊の『山梨市史民俗編』では、これに異を唱えている。

それは明らかに古すぎるうえに、年紀銘文が石祠の前石柱に刻まれているなどの不自然さがあって、後補されたものと見ざるをえない。確実な線で市内最古級といえるものは、下井尻東組の元文二年(1737)銘のものということになろう」(『山梨市史 民俗編』より)

私の目を引いたのは、石祠全体に掘られた穴。

屋根から台石まで穴だらけ。

もともとこうした凹み穴は、寺社の境内にある石造物に穿たれることは少なく、路傍の庚申塔、道祖神、道標などに多い。

それにしても、この石祠道祖神の傷つけられ方はひどい。

誰が何の目的で穴を穿ったのか、分からないままで、もどかしい限り。(「凹み穴」については、当ブログNO44-45、56-60をご覧ください)

山梨県の石仏研究者といえば、中沢厚氏を外せないが、彼の『山梨県の道祖神』にこの石祠道祖神のページがあるので転載しておく。

かつて昭和十六年の秋、東山梨郡牧丘町の西保各村の調査を終え、切差峠を八幡村に越えてきたときのことである。堀の内まで来たとき、筆者を従えた武田博士が「あっ、これは君大変なものがあるよ」と振り返って言った。見ると小さな丸石3個を納めた石祠の正面に「奉立万治三庚子二月日」という造立年がはっきり読み取れるではないか。道祖神の石祠・石像を問わず、造立年の残されたものでは最古のもの、現在もこれを越えるものが発見されていないのだからすばらしい発見だったわけである。(中略)この祠は屋根といわず台石と云わず、長年子供らが石ころを握ってコツンコツンとつつきくぼめて、原型を止めないほどである」(『山梨県の道祖神P36』

中沢氏は、最古の道祖神発見で興奮しているが、私は「子供らが石ころを握ってコツンコツンとつきくぼめ」という一文に興奮を抑えきれない。

石碑、石仏の台石に穴を穿つ行為をこんなに明瞭に書いた文章は初めてお目にかかるからです。

≪続く≫

◇参考図書 

〇『山梨市史 民俗編』平成17年

〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年


114山梨市の丸石道祖神(八幡地区ー2)

2015-11-04 06:06:38 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、日川、日下部、後屋敷、加納岩を各地区ごとに分けて掲載します。
八幡地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の東山梨郡八幡村のこと。南、北、江曽原、市川、大工、堀内、水口、切差の8集落から成る。

 

▼南1337番地路傍

丁度、丸石だけが日陰になって按配がよろしくない。

陽が差すまで待てる、おおらかな人間に憧れるが死ぬまでダメだろう。

戦前、この中組道祖神はなかった。

上組か下組道祖神祭に参加していたが、自分たちのが欲しいということで、戦後、ここに造立した。

光を受けて丸い石が転がっている。

どこかで丸い石を見つければ、つい、持ち帰ってしまうんだろうか、山梨県民は。

 ▼北 元JA八幡北支所西側

 

道祖神や庚申塔は、その性質から人の集まりやすい場所にあることが多い。

現代、人が集まる場所にあるのはごみ置き場。

神とごみが並ぶ風景は、今や日常化してなんの違和感もない。

ここから左へカメラを向けたのが下の写真。

のんびりとして、人影はない。

人の集まる場所に神とごみが同居、と書いたが、そもそも人が集まることはあるのだろうか。

 ▼江曽原橋北詰

上の写真には、大事なポイントが3点ある。

一つは、道祖神が丸石ではなく、男女双体像であること。

なぜ、丸石ではなく、双体像なのか、設置理由を知りたいものだ。

二つめは、巨大な「蚕影山(こかげさん)」碑。

「蚕影山」は、文字通り蚕の神様。

本社は、茨城県つくば市にある。

これまでは、偶然にも丸石神道祖神単独の写真ばかりだったが、山梨市では、丸石神と蚕神がセットになっている祭場が圧倒的に多い。

山梨市の中でも、とりわけここ八幡地域は、養蚕が盛んな地域だった。

江戸時代後期から昭和30年代まで、地域の主産業は養蚕だった。

今では全滅して果樹栽培に切り替わっているが、昔の面影は農家の建物に色濃く反映している。

注目ポイント3点目は、「蚕影山」碑背後の農家の建物。

やたらに大きな建物であるのは、2階が蚕室だったからです。

▼江曽原835番地路傍

江曽原橋を渡って緩やかな坂道を上って集落に入る。

奥まった農家の庭先に丸石道祖神が在す。

傍らに双体道祖神が見える。

像容は磨滅して辛うじてそれと判るくらい。

丸石神の台石には「道祖神」の文字。

右側面には「寛政/七乙卯/仲冬/願主/若衆中」とある。

写真を撮っていたら農家の御主人が出てきた。

「昔はもっと広かった」と立ち位置でその広さを教えてくれる。

ご主人の背後の隣家は、広い蚕室の2階屋。

「無用の長物」とはこのことか。

物がなしい風景です。

▼市川608番地路傍

ちょっと広いが四辻の一画。

初めて丸石4個の道祖神に出会う。

今回、山梨市の丸石神めぐりでは、1個から約80個のものまであった。

何個でなければならない、という決まりはないようだ。

台座裏面に「文化十三子年師走吉日」と横書きされている。

傍らの石碑は「蚕影大神」。

≪続く≫

◇参考図書 

〇『山梨市史 民俗編』平成17年

〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年

 


114 山梨市の丸石道祖神(八幡地区ー1)

2015-11-01 05:49:02 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、日川、日下部、後屋敷、加納岩を各地区ごとに分けて掲載します。

2015年10月初旬、連日の、日本人ノーベル賞受賞で国中が沸いた。

「微生物のお蔭です」と受賞者の一人が云えば、「宇宙の謎解きは面白い。わくわくします」ともう一人が云う。

確かに宇宙には謎が満ちていそうだ。

そこへ行くと、人間の営みの所産である石造物には、謎は少ないように思える。

宇宙に比べ謎は圧倒的に少ないが、それでも謎の石造物はある。

たとえば、山梨県特有の丸石神。

集落の辻々に、台座の上にごろんと丸い石が座している。

県民はこの丸石を道祖神として崇めているが、本宮もなく、神主も不在、宗旨は一切不明と云う謎だらけの御神体なのです。

「謎めいた」という形容詞は「美人」にかかると、言葉がとたんに生き生きする。

美人でなくても謎めいたものは面白い。

ならば、丸石神巡りをするしかない。

早速、山梨県に行くことにする。

闇雲に県内を歩き回っても仕方ないので、県立博物館の学芸員に電話、丸石神マップのある市町村があるか尋ねた。

推薦されたのは、山梨市。

市の刊行物『山梨市の石造物』に簡単なマップと丸石神全部の所在地が記載してあるので、車載ナビで回るには 恰好な携行資料だろうというのが、推薦理由だった。

山梨市は、甲府市の東に位置して、人口3万5000人。

甲州ワインの産地として有名です。

丸石神分布の最も濃密な地帯でもあるとこれは学芸員の言葉。

早速、山梨市の丸石神巡りに入りたいが、その前に一つお断り。

現山梨市は、平成の大合併で、平成17年、東山梨郡牧丘町と三富村を吸収したが、推薦資料『山梨市の石造物』は合併以前の刊行物なので、この地域は含まれていません。

対象地域は、日川、加納岩、後屋敷、日下部、岩手、八幡、山梨の7地域。

いずれも昭和29年(1954)に合併して山梨市(旧)となる前の7町村です。

まずは、八幡地区へ。

八幡地区は、7地域の中で最も面積が広く、西へ行くほど山がちになり、山梨市で最も「田舎度」が高いと思われる地域。

「田舎度」が高いということは、昔からの習俗、風習が今も息づいている可能性が高いということで、丸石神巡りには最適地だということになります。

☐山梨市八幡地区

▼南1387番地路傍

写真右前方の家の裏道で住民と思われる女性に訪ねた。

「この近くに丸石神はありませんか」。

40年近く住んでいるという彼女の答えは「知らない」。

実は、50mも離れていないこの場所に、丸石神はあった。

無関心にも程があるとあきれたが、私の質問の仕方がまずかった。

長野県で男女の双体像が道祖神であるように、山梨県では丸石が道祖神であるのは常識。

他の形態の道祖神を知らない県民は、丸石神とは云わず、道祖神と呼ぶのが普通なのでした。

道祖神は、昔からサヘノカミ、どうろく神などと呼ばれ、旅行安全、防災、縁結び、子供の神様として、集落の辻や境界に祀られてきました。

だから丸石神もそうした場所に多く見られます。

▼南209番地路傍

 

 左の家の日陰の中にあって、わかりにくい。

県道にかかる橋の横にある。

本来はこの北50mにあったのを移転してきたという。

≪続く≫

◇参考図書 

〇『山梨市史 民俗編』平成17年

〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年