石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

40 日帰り「鼻の大きな大日さま」巡り(つくば市編)

2012-09-29 10:35:24 | 石仏めぐり

現代は、情報化社会です。

無数の情報が、目と耳を通して、否応なく入ってきます。

だが、その大半はそのまま通り過ぎて、記憶にのこらない。

通り過ぎないで引っ掛かる情報は、衝撃的な内容であるか、自分の興味関心事であることが多い。

私にとって引っ掛かる情報の一つは、下の写真でした。

石仏めぐりを始めると石仏関連の資料を漁る機会が増えてきます。

すると、時々、この石仏写真にお目にかかることになる。

彫技は稚拙で、まるで素人の作品のようだが、ほのぼのとした温かみがある。

異常に大きい鼻が、ユーモラスな雰囲気を醸し出しているけれど、どんな宗教的意味があるのだろうか。

見る度に、気になっていました。

キャプションには、「鼻の大きな大日さま」と書いてある。

大日さまとは、大日如来のこと。

現つくば市を中心とする常総地方にだけ見られる石仏で、しかも江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)に流行り、すたれたものらしい。

だから「常総・寛永期大日石仏」と規定している人もいる。

流行は、地域的なものと時代的なものとがあるが、それが重なった極めて限定的な珍しい石仏だということになります。

そんな珍しいものならば、是非、見てみたい。

そう思いながらも、何年か、過ぎてしまいました。

灼熱の太陽が翳りを見せた9月下旬、思い切って出かけることにした。

行って、よかった。

そこには、魅惑的な大日ワールドがあったのです。

 

これは、その大日ワールドのレポートですが、レポートに入る前に確認しておきたいことがあります。

このブログの読者はわずかですが、その大半は私の友人たちです。

地蔵と観音の区別がつかない友人たちですから、大日如来といってもチンプンカンプンに違いない。

だから、簡単な大日如来講座。

大日如来は、弘法大師・空海が信奉した密教の根本尊です。

ややこしいのは、大日如来にはふたつのタイプがあること。

森羅万象を造り出す「智慧」を表す金剛界大日如来と森羅万象をやさしく包み込む「慈悲」を表す胎蔵界大日如来があるのです。

仏像としての、一番大きな違いは、印相(手指の組み方)。

金剛界大日如来は、右手の拳で左手の人差し指を握る智剣印。

一方、胎蔵界大日如来の印相は、法界定印。

組み合わせた4本の指の上で親指の先が触れ合う形です。

今回、私が巡った「鼻の大きな大日さま」は、なぜか、全部、胎蔵界大日如来でした。

 

では、本編「『鼻の大きな大日さま』日帰りツアー(つくば市)編」 へ。

①東狸穴公会堂(牛久市東狸穴町)

朝8時半、車で到着。

「つくば市と括っておいて、牛久市かよ」と批判の声が上がりそう。

でも、西へ200メートルでつくば市との市境。

大目に見てやってください。

本来なら地図上にピンニングして場所を示すべきなのですが、そんな「高等技術」は持ち合わせていないので、断念。

茨城県と千葉県には、寺や神社跡地を公民館や集会場、研修センターなどに利用する所が多い。

この公会堂は寺院跡か、石仏群がある。

      東狸穴公会堂 玄関の向こうに石仏群が見える

その石仏群とはポツンと離れて、敷地の奥に、「鼻の大きな大日さま」がおわします。

石龕(せきがん)のつもりだろう、3枚の石板を組み合わせて大日さまを囲ってあるのだが、バランスが悪くて今にも崩れ落ちそうだ。

肝心の大日さまの像容がはっきりしない。

彫りが浅いせいか、それとも光量不足で暗いためか。

写真でもはっきりしないのは、撮影技術が下手なだけなのですが。

県道143号線に入り、北上する。

②から⑤までは県道沿いに点在しています。

 

②大井農村集落センター(つくば市大井)

 広い敷地の奥の林の茂みの中に「鼻の大きな大日さま」はいらっしゃる。

スロープに横穴を掘り、コンクリート板で囲った石室の中に安置されている。

これは修験道の行者が捨身求菩提(しゃしんくぼて)の行を積むことにより、即身成仏するために土中に入定する形を象徴している、という人もいます。(*1)

 浮き彫り石仏の頂上には、線彫りの天蓋がうっすらと見える。

頭上には宝冠ではなく、頭襟(ときん)。

鼻は獅子鼻だが、鼻翼が異常に広がっている。

(よく見えないが)胸に瓔珞、両肘を直角に曲げて法界定印を結んでいます。

問題は、なぜ、鼻が大きいのか。

しかし、この問題は、未だ、未解決のようです。

寺院とは無縁な民間信仰ですから、儀軌など無関係。

鼻が大きくて一向に構わないのですが、大きくなくてはならなかった理由があるはずです。

 

③熊野神社(つくば市菅間)

大日さまを探すのに、一苦労。

一発で場所を特定できた人がいたら、「エライ!」と褒めてあげたい。

「鼻の大きな大日さま」は、石室で覆われることなく、野ざらしのまま座していらっしゃいます。

正面に木の幹、右前方に五輪塔があり、雑草と竹の葉が石仏の下三分の一を覆い隠していますが、彫りは深く像は明瞭です。

鼻の横幅が異常に広いのが特徴的か。

こうした素朴で、稚拙な彫技だけれど、どこか魅力的な石仏といえば、修那羅山安宮神社の石仏や加西市・羅漢寺の石仏群を思い出します。

            修那羅山早宮神社の石仏たち

                         羅漢寺(加西市)の石仏たち

付和雷同、横並び思想の我が国にあって、こうした突出した個性、オリジナリティはどうして生まれたものなのか、不思議でなりません。

素朴で実直な農民の信仰にかけるほとばしるような思いが、彫技の巧拙を超えて、見る者に迫ってきます。

遥かなる古(いにしえ)の埴輪の持ち味と底流をともにする石造物であるようにも感じます。

 

④普賢院(つくば市羽成)

山門を入って本堂に向かって左に5基の石造物。

その中央、十九夜塔と馬頭観音文字碑に挟まれて、「鼻の大きな大日さま」がおわします。

近くの雑木林の中の石龕に納められていたものをここに移したのだという。

今は野ざらしだが、像容は明瞭で、右側には「寛永七年」の文字も読める。

18年前の資料でいささか古いのだが、それによれば、茨城県内の寛永期大日如来は

○胎蔵界大日如来 51基(うち鼻の大きなタイプ45基)

○金剛界大日如来 22基(うち鼻の高いタイプ5基)

○大日三尊像(金剛界大日如来、不動明王、隆三世明王) 10基

○種子大日如来 68基

 注目すべきは、「鼻の大きな大日さま」は、寛永4年に初出し、寛永8年には終わっていること。(*2)

わずか5年の流行だったと知れば、なぜ、なぜ、なぜ、と疑問は湧くばかりです。

 

⑤大日塚(つくば市台町)

国道わきの歩道が山なりに盛り上がっている。

その頂点の奥の林に「鼻の大きな大日さま」が座しておられるます。

珍しく「大日如来」の立て看板。

「寛政五年辰戌九月五日」の添え書きも。

今から30年ほど前、地元の石仏愛好家によって「鼻の大きな大日さま」は注目され、世に喧伝されだします。

当時、何人かの人たちが、ばらばらに独自に調査、研究をしていました。

その中の一人、徳原聡行さんは、全くの石仏素人でした。

夏休みの宿題のテーマに「近所の石仏は、どう?」と子どもにアドバイス、一緒に回っている時に「鼻の大きな大日さま」に出会ったといいます。

子どもの宿題が終わった後も、徳原さんは調査、研究を熱心に続け『常総・寛永期の大日石仏』を刊行するまでになります。

ここ大日塚の石仏は、徳原さんが、子供と一緒に初めて出会った「鼻の大きな大日さま」でした。

 

石仏の向こうに4本の柱が所在なさげに立っています。

その中央には、平たい岩。

何か宗教行事の場なんだろうか。

市の教育委員会に訊いて見た。

かつてここには小さな社があったが、3.11地震で崩壊し、柱だけが残ったという返答でした。

「鼻の大きな大日さま」も倒れたはずだと云う。

と、なると誰かが立てなおしたことになる。

供えものの湯のみやペットボトルが多い。

今なお、信奉者がいるということだろうか。

時計を見たら12時10分。

大日塚近くの中華料理店で昼食。

午後は県道143号線から離れて、昼食をとった楼外楼横の道を北上します。

左に並行する形で谷田川が流れているのですが、ほとんど見えません。

 

⑥鹿島神社(つくば市小白硲)

急な石段を上ると正面に社殿。

 その右横の大木の根元に、今にも崩れそうな石室。

中に原型をとどめない「鼻の大きな大日さま」がおわす。

エプロン状のグリーンは、コケだろう。

資料によると「鼻の大きな大日さま」の石材は黒雲母片岩だそうだが、この大日さまは違うのだろうか。

「大日如来」と刻す石碑が真新しいだけに、石仏との対比の落差が激しい。

 

 

⑦鹿島神社(大白硲)

鳥居の右にきっちりコンクリート材で組んだ石室がある。

保存体制はしっかりしているのだが、「鼻の大きな大日さま」の像一面にドロが塗られていて、像容がはっきり見えない。

悪質ないたずらです。

昭和初期まで、石室の前で村人たちは念仏をあげていたと言われています。

当時、石室の前はむしろが垂れ下がっていて中が見えないようになっていた。

「中をのぞくと夜うなされる」と子どもは大人に脅されたという。

のぞいただけでうなされるのだから、ドロなんか塗ったりすれば、ただでは済まないだろう。

ドロ塗り犯人の事後報告を、是非、聞いてみたいものだ。

北上してきた進路を、ここで東に転換。

県道19号と国道408号の中間の島を目指す。

 

⑧稲荷神社(つくば市島)

3.11地震の影響は、⑤大日塚で見てきたが、それでも「鼻の大きな大日さま」は、立て直されていた。

だが、ここ稲荷神社では、倒れた当時のまま、放置されています。

お陰で、大日さまが座している蓮華座とその下の鋸紋模様がよく見られはするのですが。

仰向けに横たわる大日さまのお顔は、悲しみに満ちているように私には見えます。

 

 ⑨研修センター(つくば市西岡)

研修センターの奥に5基の石造物。 

中央が「鼻の大きな大日さま」。

他の場所でもそうだが、中央に位置して当然と村人たちは思っているようだ。

保存状態がいい。

右側の「寛永八年」の文字や上部の天蓋、下部の鋸歯模様がよく見える。

しかし、日月は見えない。

資料によれば、「鼻の大きな大日さま」は、造立時の早い順から並べると24番までは、みな、日月が上部に刻されているという。

ところが、寛永六年(1629)2月から、突然、日月は消えてしまうのだそうだ。(*2)

この大日さまは、寛永八年だから、日月はないということになる。

 

 ⑩般若寺(土浦市宍塚)

最後に、つくば市を離れて、今度は土浦市へ。

般若寺の本堂右手、鐘楼のある一角に、ひときわ大きな「鼻の大きな大日さま」がゆったりと座していらっしゃる。

これまで見てきた9基の「鼻の大きな大日さま」の高さは、おしなべて60㎝-80㎝だった。

それに比べて、ここの大日さまは139㎝とほぼ倍の大きさ。

日月もある。

刻字は読めないが、資料には「寛永五年辰戌拾一月十五日」とある。

あと3カ月すると、日月はなくなるのだから、入れるべきかどうか、激論があったのではなかろうか。

これも資料からだが、「奉御湯殿山参詣」とも刻字されているとのこと。

「鼻の大きな大日さま」は湯殿山信仰と深い関わりがあると考えられているらしいのだが、これはその関係を物語る文字と言えるのかも知れない。

時刻は午後4時。

雨が降り出したので引き揚げることに。

途中、大日さまとは無関係な寺社にも立ち寄って、石仏を撮ったため少し遅くなった。

「鼻の大きな大日さま」だけなら、もっと短時間に回れるはずです。

 

持参した資料やガイドは、30年前から20年前のもの。

その後の新しい発見や解明された謎などについては、まったく知らないので、今になればトンチンカンなことを書いているかもしれません。

今後、新しいデータを入手したら、随時、書きなおして行くつもりです。

わずか10基の「鼻の大きな大日さま」を駆け足で巡っただけですが、最後まで残った疑問は「もしかしたら、同一石工の作品ではないか」というもの。

狭い範囲で5年間という限られた期間なら、同一石工もありうるのではないか、専門家の意見を聞いてみたいものです。

 

参考文献

「茨城県谷田部町周辺の胎蔵界大日石仏」佐藤不二也(『日本の石仏』17号、1981.3)

「筑波地方の大日と子安信仰」(『日本の石仏』21号、1982.3)

「茨城県南西部の石仏」佐藤不二也(『日本の石仏』64号、1992.12)

「筑波山麓に観る十界修行の大日如来」山本力(『日本の石仏』73号、1995.3)*1

「寛永の大日石仏を追って十五年」徳原聡行(『日本の石仏』73号、1995.3)*2

 

 


39 My石仏ミス板橋

2012-09-16 05:44:21 | 墓標

今年の夏は、暑かった。

今、74歳。

ギラギラ照りつける太陽にひるんで、外出しなかった。

9月に入っても、気温は下がらない。

外出しないから、更新日が近付くけれどブログに載せる材料がない。

仕方ないから保存フアイルから材料を探すことにした。

選び出したのは、上の一枚。

石仏墓標の如意輪観音像。

私が秘かに「石仏ミス板橋」と呼んでいる美人だ。

彼女の居場所は、板橋区西台の「円福寺」。

「円福寺」は太田道灌開基の曹洞宗寺院です。

本堂に向かって左の通路わきの無縁仏群の中に彼女はいます。

                             最下段、前列右端が「ミス板橋」

身長50㎝、横幅28㎝。

耐久性に優れた小松石らしく、つい最近彫ったかのような保存状態。

まどろんでいるのか、思案中なのか、眼は閉じてはいるけれど、はちきれんばかりの若さがにじみ出ている。

ほとばしる若さを内に秘めて、その秘めた重さにじっと耐える、そんな風情があります。

柔らかいけれど、弾力ある頬。

石であることを忘れさせる皮膚感。

指で突けば、プクンと跳ね返ってきそう。

鼻筋の通った太い鼻。

意志が強そうです。

今にもしゃべりだしそうなおちょぼ口。

子どもの頃は、さぞやおしゃまでお転婆で、口をとがらせて大人をやりこめたに違いない。

なでやかな肩の線に、彼女の優しさを感じます。

頭の宝冠と額の白毫相を除けば、現代少女の彫像としても通用しそうです。

かぎりなく写実的で、かぎりなく美しく、かぎりなく安らかな・・・

大量生産品なので、類型的な像容が多い墓石仏ですが、中には造形の技を超えて見る者を魅惑する作品があります。

これは、その典型例でしょう。

 

彼女の命日は、享保19年12月18日。

江戸の石仏墓標は、元禄から享保年間にかけて、ひとつのピークを迎えます。

それは武門社会から町人経済社会へと江戸の町が変わって行くのと軌を一にするものでした。

江戸時代、墓には、身分制による厳しい不文律があった。

武家の墓は台石の上に石塔、石碑が立つ墓でしたが、町民の墓は地面に直か建ての一石墓しか許されなかったのです。

        武家の墓 大円寺(文京区)

金持ちの町民たちは考える。

一石墓で武家墓を凌ぐにはどうするか。

仏像を彫った細工墓が、かくして流行することになるのです。

 墓標仏として選ばれたのは、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、地蔵菩薩、観音菩薩など。

 釈迦如来 宗慶寺(文京区)         阿弥陀如来 西門寺(足立区)

 大日如来 円乗院(さいたま市)         地蔵菩薩 不動院(足立区) 

  聖観音菩薩 大秀寺(葛飾区)

 

女性の墓には観音さまが多いのですが、とりわけ人気があったのが如意輪観音でした。

               円福寺(板橋区)

本来、仏様は中性的であるはずですが、、如意輪観音の姿態は女性的で、そこが好まれたのでしょうか。

女性が集う十九夜塔の主尊が如意輪観音であることも同じ理由でしょう。

女性的な造形であるだけに、墓石仏は、故人の面影が偲ばれがちで、哀切感がまつわりつくことになります。

 

では、彼女はどんな女性だったのか。

戒名は「妙寥禅定尼」。

同じ無縁仏群の中に、同一石工の手になると思われる享保19年の如意輪観音像がありますが、こちらは「理音智聲信女」。

曹洞宗の戒名としては、「禅定尼」は「信女」より位が高く、江戸時代では武家か武家に出入りしていた町人で、寺に多大な寄進をした旦那とその係累に許された位号でした。

信心深いことも要件の一つ。

江戸時代の板橋地方は、天領、大名領、旗本領、寺領が複雑に入り組んでいました。

西台は、天領でした。

米と野菜畑の純農村。

西台の代官屋敷に出入りする名主かその係累が、彼女の生家だったと思われます。

 

本来、仏には眉がない。

ですから石仏からこんなことを類推するのは邪道なのですが、彼女には黒々とした眉があるように見えます。

引き眉(眉を剃る)でないということは、未婚の16,17歳の女性を意味します。

記録では、享保18年、19年と疫病が猛威をふるったとあります。

疱瘡(天然痘)にかかって死亡したのか。

あるいは麻疹(はしか)が悪化して老咳(結核)になったのでしょうか。

戒名に「寥」の文字があります。

若い娘の前に洋々とと広がっていた未来が、思いがけない病で、突然、閉じてしまう。

残された親の切なく、侘しい心が「寥」に込められているように思えます。

 

 当時、石仏墓標は全部既製品でした。

同一石工の作品と思われる2体は、顔を除いてほぼ似通っています。

「円福寺」に出入りの石屋が、たまたま亡くなった娘を知っていて、既製品の顔を彫り直した。

肖像があまりに似ているので、両親は驚いた。

私の想像は、膨らむばかりです。

美人というよりも、顔立ちのはっきりした、しゃしゃきした物言いの、17歳の名主の娘。

おきゃんで、おしゃまな小娘から脱皮したばかりの小粋で、信心深い若い女性でもあります。

私が、「石仏のミス板橋」と勝手に認定する女性像は、まとめれば、こんなところでしょうか。

 

愛嬌はこぼれてへらぬ宝也
(こぼれるばかりの愛嬌は、いくら振りまいても減ることのない娘の宝)

うちわではにくらしい程たたかれず
(夏の夕、ひやかす男をうちわでたたいて怒ってみせる娘は猫にしゃべる)

くどかれて娘は猫にものを言い
(「いやだねえ、三毛、こんな人」。恥じらいが清らかな媚態になっている)

抱いた子にたたかせてみる惚れた人
子をだけば男にものが言い安し
(面と向かっては何も言えなくても近所の子を抱いていれば気がおおきくなる、が)

借りた子に乳(ち)をさがされてちぢむなり

そうした娘にも好きな男ができる。
白状をむすめは乳母にしてもらひ
(好いた男のことなど親に話せない。お嬢様の窮状を救うのは、百戦錬磨の乳母)

そして、めでたく縁談へと。
はだかでといへば娘はをかしがり
(「支度はいらないからはだかで来て」と仲人。「はだか」という言葉に過敏に反応する若い娘の羞恥心が初々しい)

柳樽ちいさい恋はけちらかし
(柳樽は結納に贈る酒樽。あれやこれや、ままごとじみた恋もあったけれど・・・)

「石仏ミス板橋」もこうした道を歩むはずだった。だが、病がすべてを狂わせた。
死んでから親は添わせてやりたがり

今は、墓石仏として「円福寺」におわすのだが、なにしろ曹洞宗寺院だから
あいそうのわるい石碑を禅は建て
(酒気帯びで寺へ入ってはいかんと「不許葷酒入山門」の石碑が門前に立っている)

 

 円福寺山門前

 

私は今、某カルチャーセンターの「石仏めぐり」の講座を受講しています。

その講師のKさんは、日本石仏協会の古参幹部で板橋の歴史にも詳しい専門家です。

「石仏ミス板橋」の人物像のヒントを得たいと思い、時間を割いてもらいお会いしました。

Kさんは穏やかな人柄ですから、頭から拒絶するなどということはないのですが、私の求めにやんわりとNOと云うのです。

「石仏に魅せられたからと云って、抒情的な情念で石仏との交流を図ろうとする石仏愛好家が多いけれど、史実を無視したそうしたアプローチは無意味だからやめたほうがいい」。

「石仏に故人の面影を探すなんていうことは、徒労だ。大量生産の既製品の石仏に特定の個人の肖像があるはずがない」。

「あなたは、円福寺に出入りの石屋がたまたま名主の娘を知っていたからと想像するけれど、当時、この広い板橋に石屋はたった3軒しかなかった。蕨の石屋が板橋に入り込んでいたぐらいで、石屋が故人を知っていたなどと想像するのには無理がある」。

正しい意見に反論の余地はありません。

ありがたい助言に謝意を表して別れました。

にもかかわらず、このブログ「My石仏ミス板橋」を書いたのは、急きょ変更して締め切りに間に合う他のテーマが見当たらなかったからです。

だから、せめてタイトルを変えたい。

「妄想?!My石仏ミス板橋」。

 

 

川柳は『江戸川柳を楽しむ』神田忙人・朝日選書より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


38 コツ通りと首切り地蔵(小塚原仕置場跡)

2012-09-01 05:53:06 | 史跡

上の写真は、JR「南千住駅」と地下鉄日比谷線「南千住駅」の西側を走る旧日光街道。

看板下部に「コツ通り商店街」とある。

あなたは「コツ通り」の「コツ」とは何だと思いますか。

「コツコツ努力する」、「ハイヒールの音がコツコツと夜道に響いた」のコツではなさそうだ。

コツと発音する漢字としては、忽然や祖忽の「忽」と「骨」がある。

「通り」を形容するのには「骨」の方がいいようだが、「骨通り」なんてあるのだろうか。

しかも商店街の通りの名前なのです。

でも、こんなヒントを聞けば納得するかもしれません。

「南千住駅」の旧日光街道の反対側は、江戸時代の仕置場(処刑場)跡地で、どこを掘っても人骨が出てくるという噂がある。

人骨が出るのは噂ではなく事実ですから、「骨通り」説はますます有力視されるのですが、荒川区の教育委員会の文化財担当官はこれを真っ向から否定します。

仕置場は、小塚原(こつかっぱら)にありました。

その頭の二文字をとっての「コツ通り」であるというのが、彼らの見解です。

何故なら、と担当官はその理由を述べます。

仕置場がここに設置される200年も前から、この地は「小塚原」と呼ばれていて、「骨」とは全く無縁だったというのです。

あなたは、これで納得しましたか。

でも、と私は思うのです。

「こつかっぱら」を略して「コツ」というのは、日本語の感覚としてちょっと変ではないか。

「コツカ」なら分かるけれど、「コツ」と呼ぶのには抵抗があるのです。

人骨だらけだから「コツ通り」、この方が自然だと思うのですが、どうでしょうか。

 

 ここで、まず、仕置場とはどんな所か説明しておきましょう。

仕置場は、町奉行所による刑罰の執行場所であり、牢死、死罪、行き倒れなどの埋葬地でした。

また、試し切りや解剖の場でもあり、徳川家の馬の埋葬地でもありました。

次は、文化年間、コツ通りから仕置場を見た人の文章です。

「刑罪場あり。方三、四拾間。平原只草茫々として、路傍には死刑のものの捨札横たわり、西の方にハ、牛馬の死骸にや、数千の烏むらがりて、啄(ついばみ)喰らふその容体(ありさま)嘆息するに堪えたり」。(捨札とは、罪状書のこと)

 左隅に首切り地蔵、中央左、獄門台の首、右ページ左下、捨札、右の小屋は小屋。

下の写真は、小塚原仕置場跡地を俯瞰したもの。

 

電車が通過中の線路がJR常磐線。

下部の高架線は地下鉄日比谷線で高架の下はJR貨物線です。

JR常磐線上部の墓地が回向院、常磐線と日比谷線の間が延命寺の境内と墓地。

撮影した場所は都営アパートの10階からですが、小塚原仕置場は、このアパートの敷地から回向院までの範囲に広がっていました。

 都営アパートは926,928番に建っている

その広さ2000坪、間口60間(110m)、奥行き30間(55m)でした。

俯瞰写真右側の茶色のビルに面しているのが、旧日光街道、問題のコツ通りです。

回向院から貨物線の下まで、仕置場はコツ通りに面していました。

獄門台の晒し首は、見せしめの為ですから、道路から見えなければ意味がなかったのです。

茶色のビルの手前の白い建物が延命寺、その前で背中を見せて座しているのが、小塚原仕置場のシンボル首切り地蔵です。

小塚原仕置場のいかなる絵図にも、首切り地蔵は必ず描かれています。

『安政戊午頃痢流行記』 左下隅に首切り地蔵の左半身が見える。

ただし、場所が今とは違います。

もともとは、写真下部のJR貨物線の線路上にありました。

線路敷設の邪魔になると言う事で、現在地に引っ越してきました。

明治時代のことです。

常磐線、貨物線敷設時の人骨出土は、想像するだにすさまじい光景だったに違いありません。

埋葬された死体は年に約1000体。

その220年間分ですから、厖大な量です。

磔、獄門の場合は三日晒の上、「取捨」(死体に土をかける)されましたが、これだと犬が掘り起こすので、実際には4尺(1.2m)ほど掘り下げて埋葬していました。

それでも3,4年で一巡して、前の遺体の上に埋めなければならなかったといいます。

線路工事で掘り起こして出るのは、大量の骨とほんの少しばかりの土でした。

昭和30年代にも、同じ光景が繰り広げられました。

国鉄南千住駅の高架化と地下鉄日比谷線の開通、その工事の度ごとに骨が一杯掘出されました。

上は『日本行刑史(滝川政次郎)』掲載の写真。

延命寺の首切り地蔵の前に人骨が山のように積まれています。

昭和35年6月撮影とキャプションにあります。

昭和40年代には、魔の踏切の立体交差、コツ通りの貨物線下トンネル化、道路の拡張化などで、また、どっと骨が出ます。

道路拡張で回向院も境内を削られ、昭和49年改築現ビルが落成しますが、その際、削られた場所から樽詰の頭蓋骨が200ほど出ています。

改築された現回向院とその前のコツ通り

人骨出土騒ぎは、平成になっても続きます。

平成10年(1998)からの常磐新線つくばエキスプレス工事は地下トンネルでしたから、出るわ出るわ。

荒川区の小塚原刑場跡地発掘調査速報によれば、約130㎡の現場から出た頭蓋骨は200点、四肢骨1700点。

 『杉田玄白と小塚原の仕置場』(荒川区教育委員会)より

棺や早桶に納められているものは皆無で、そのまま土に埋められている遺体ばかりだったそうです。

以上は、「コツ通り」の「コツ」は人骨説、の補強例でした。

 

話変わって、下の2枚の写真、どこが違うかすぐ分かりますか。

「コツ通り」から延命寺境内を撮ったもの。

左が2012年5月25日、右は2012年8月23日の撮影です。

そうです、左の写真には首切り地蔵のお姿がありません。

実は、去年の3.11東日本大震災で、お地蔵さんの左腕が落下、胴体部分がずれるという憂慮すべき事態が発生しました。

余震があれば崩落の危険もあったのです。

崩落の危険を避けるために、寺では、お地蔵さんを一度解体し、改めて復元する道を選びました。

クレーンで吊り下げられる地蔵の頭

そして、2012年8月23日、首切り地蔵は無事復元されました。

復元された首切り地蔵(2012.8.23)

解体して分かったことがあります。

首切り地蔵は、これまで、27個のブロックの組み合わせと言われてきましたが、本体25個、台座8個の石材ブロックからできていることが判明しました。

台座正面には、右から「天下泰平」、「奉納経」、「国土安泰」の文字が見られます。

「経」は「法華経」のこと。

日本全国66カ所を巡礼し、法華経を書写して奉納して建てられる石塔によく見られる銘文です。

実は、首切り地蔵の前には巨大な題目塔(元禄11年・1698造立)が立っています。

 

大正時代までここには法華庵というお堂がありました。

回向院の他に法華経信者が小塚原仕置場の無縁仏供養に関わっていたことになります。

それを裏付ける冊子もある。

『江戸繁昌記』(天保7年・1836)には「小塚原仕置場では、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経が競うように唱えられている」と紹介されています。

なお、『小塚原法華庵略縁記』によれば、法華庵は日蓮ゆかりの佐渡塚原根本三昧堂の写し霊場であるとのこと。

佐渡の二文字があれば、つい興奮してしまう私の悪い癖で、これは余計な寄り道、付け足しでした。

 

このブログのタイトルは「石仏散歩」ですから、石仏、石造物の紹介は欠かせません。

巨大な題目塔の後ろの馬頭観世音碑は、ちょっと風変わりな石碑です。

題目塔の裏の馬頭観世音碑

万延元年(1860)に村田清道という人が建立したものですが、裏面に「乗馬供養塔」とあります。

ブロック塀が背後にぴったりと立っていて、刻文を読むことが出来ないのは残念ですが、使役馬ではなく、乗馬であることが珍しい。

もう一つ珍しいのは、個人の持ち馬を葬り、供養していること。

江戸時代、死んだ牛馬は特定の捨て場に持ち込まれ、その埋葬処理などはが行いました。

彼らは皮を剥いで皮革に加工する権利を有していました。

小塚原に埋葬された牛馬も、例外なく、皮を剥がれていたことになります。

皮を剥がされずに埋葬されたのは、将軍家とその関連家の馬のみ。

その際、将軍家は金1000疋(2両2分)を穢多頭の弾左衛門に下賜したと言われています。

村田清道なる人物が将軍家と無関係だとするならば、いかなる事情でこうした例外的事例が生じたのか、さぞや巨額な裏金が動いたのではなかろうかと、これはゲスの勘ぐりでした。

あえて余計な話を付け加えれば、JRAの競走馬で墓標があるのは10頭に満たないでしょう。

みんな馬肉になってしまいます。

ダービー優勝馬でもこの宿命を免れません。

 

話を小塚原仕置場に戻しましょう。

処刑、埋葬が小塚原仕置場の主な役割ですが、試し切りの場所としても機能していました。

刀は武士の象徴です。

江戸期も後半になると装飾的存在になるのですが、それでも刀の価値は「切れること」にありました。

その判断は、実際に死体を切ることで下されました。

  『徳川幕府刑事図譜』より様斬(ためしぎり)の図

試し切りには、刑死者の男の死体が用いられました。

土壇に置かれた首なし死体を試し切りしたのは、山田浅右衛門とその一門の者たち。

試し切りの後、刀は刀工のもとに戻されて、切断面に山田浅右衛門の名が刻まれ、品質を保証されることになります。

八代目山田浅右衛門山田源蔵の切断銘

人切り浅右衛門が昵懇にしていた武家に外務官僚川路左衛門尉聖謨がいます。

その川路が、嘉永6年(1853)、ロシアとの通商交渉の席上、ロシア使節団に日本刀一振りを贈答しました。

「此刀にて、ためしに人を切みるに、三人並べてこころよく胴切りにし、車骨を瓜の如くに切りたり」。

驚いたロシア人の「人を生きたまま切るのか」という質問に「刑人の屍を切る也。これをタメシと申候。かかる切るる刀さすは日本の常なり」と答えたと云います。『長崎物語(川路聖謨)』より

川路聖謨と聞けば、あの佐渡奉行の、と連想してしまう佐渡大好き人間である私の、つい余計な逸話の披露でした。

山田浅右衛門は士分ですらなく、浪人の身分でしたが、莫大な資産家でもありました。

浅右衛門之碑(「詳雲寺」豊島区西池袋)

その富は、家業である刀剣の鑑定と罪人の処刑だけでは達成できない巨額な金額だったと言われています。

物見高いは江戸町人、おいしい話は逃しません。

「朝右衛門きもをつぶして銭をとり」
「どろ坊の肝玉で喰ふ浅右衛門」

山田家には、胆蔵(きもぐら)があり、大甕には人間の脳みそが詰まっている、また張り巡らされた綱には一寸ばかりの茄子の如き人の肝がつり下げられている、と云う噂が流れていました。

それは噂ではなく、事実でした。

しかも「山田丸」、「浅右衛門丸」、「人丹」などと称して山田家から売り出されていた薬は、とんでもない高値でした。

人間の胆嚢が原料の人胆丸

薬の原料である人間のパーツは独占的に、しかも無料で入手できるのですから、笑いが止まらない。

死体を切るという怪しげな所業をしながら抜け目なく財を成す、人々に揶揄られても仕方ないでしょう。

 

最後に回向院。

小塚原回向院

小塚原仕置場での刑死者を供養するため、寛文7年(1667)、両国回向院の別院として建てられました。

仕置場の北に位置します。

コツ通りからビル寺院の、1階吹き抜け参道兼駐車場を過ぎると墓域にぶつかります。

墓域は2分されていて、左は一般、右が史跡エリアとなっています。

史跡エリアには、安政の大獄、桜田門外の変、外国公使襲撃などで刑死した幕末の志士88基の墓碑や鼠小僧次郎吉や高橋お伝などの著名悪党の墓が並んでいますが、数が多いので、あえてパス、2点の石碑だけ取り上げます。

 左 志士の墓                    右 盗賊等の墓

一つは首塚。

 首塚(別名 供養塔)

史跡エリアの右の通路の左側におわす観音様ですが、別名「供養塔」と呼ばれてきました。

刻文は「為前亡後滅等往詣楽邦也」、「為殃罰殺害諸無魂離苦得楽也」。

『橋本佐内と小塚原の仕置場』のコラム執筆者亀川泰照氏はこれを「生きとし生けるもの、あるいは悪鬼・夜叉といった人にあらざる存在に至るまで、全て極楽浄土へ往生させ、また悪報や禍により亡くなった諸々の魂を苦しみから解放し往生を得る」と読んで、この碑は無縁の霊を供養する目的で建てられた首塚であると断定しています。

小塚原仕置場の雑務を取り仕切っていたのが、非差別民のであったため、刻文の「」の二文字をこれと関連付けて「合葬墓」と誤って解釈されたのではないかというのです。

もう一つは「千人塚」。

       千人塚

回向院には『千人髑髏回向誌』が残されています。

商人がスポンサーになって千人塚を建て、無縁の供養をした記録です。

「笹乃雪喜三郎」とありますが、これは今も根岸に店を構える豆腐専門店「笹乃雪」のことでしょうか。

千人塚はその昔、何基もあったそうですが、今は回向院の一般墓地の南側に1基残っているだけです。

 

そして、回向院といえば、観臓記念碑。

       観臓記念碑

小塚原仕置場が近代医学の原点であったことを物語るモニュメント。

碑文の書き出しはこうです。

「蘭学を生んだ解体の記念に
 1771年・明和8年3月4日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分けを見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持ってきて、その図を実物とひきくらべ、その正確なのに驚いた」。

3人は日本医学の為に日本語訳の刊行を決意し、苦心の末、3年後の安永3年に『解体新書』を発刊するのです。

重要なポイントは2点。

解剖された遺体は刑死者のものであったこと。

だから小塚原仕置場で実施されたのでした。

もう1点は、杉田玄白等は腑分けを「見た」のであって、「した」のではないこと。

実際に解剖に当たったのは、90歳の老人でした。

しかも老人は、非差別民のという身分でした。

当時、腑分けの経験があるのはだけだったのです。

『蘭学事始』で杉田玄白は、老人が「若きより腑分けハ度々手にかけ、数人を解たり」と語ったと回顧しています。

 

                            杉田玄白の墓(「栄閑院」港区愛宕)

そして、老人は次々と臓器を指し示し、これまで「腑分けの度に医師かたに品々をさし示したれとも誰一人某は何、此れは何々なりと疑われた方はなかった」と云ったとも書き記しています。

この時点ではの老人の方が医者よりも正確な人体の知識があったわけで、この言葉は幕府の医師批判にもなりうる、と『杉田玄白と小塚原の仕置場』の執筆者は指摘するのです。

 

 明治12年(1879)、小塚原仕置場は刑罰執行の場としての機能を終えます。

刑死者の埋葬地としての機能も雑司ヶ谷墓地への移転で完全に停止しました。

機能停止までの間の変化としては、まず、明治7年に、仕置場が高さ6尺の塀で囲われたことをあげなければなりません。

その背景には、法思想の変遷がありました。

獄門・晒し首は、死後なお見せしめの辱めを与える刑でしたから、それまでの仕置場に遮蔽物はありません。

刑の執行で罪は消滅するという近代法の思想が、塀を構築させたのです。

解剖の世界にも変化が生じました。

解剖の場所は仕置場から、医学教育の場へと移り、解剖は基礎医学の一分野として確立します。

解剖遺体も刑死者から献体へと移行してゆきます。

自らの意思で死後の献体を申し出た美幾(みき)女の墓が念速寺(文京区)にあります。

明治2年(1869)のことです。

遺体を傷つけることへの強い抵抗心が社会全般に行き渡っていた時代でした。

墓には「特志解剖第1号」とあります。

こうした歴史上の断片がモニュメントとして残っていることを見て、石造物の良さを改めて再確認するのです。

 

参考図書(というよりは丸写しネタ本)
『橋本佐内と小塚原の仕置場』(荒川区教育委員会2009)
『杉田玄白と小塚原の仕置場』(荒川区教育委員会2008)
『大江戸死体考』(氏家幹人 1999)
『日本行刑史』(滝川政次郎)
『甦る江戸』(江戸遺跡研究会)
『荒川区史跡散歩』(高田隆成)
『日光街道を歩く』(横山吉男)
『東京骨灰紀行』(小沢信夫)

 

このブログを見た友人から次のようなメールがありました。

「昨日、偶々俳句の「ごづ(牛頭)」という言葉を

広辞苑で引こうとしたら、その語はなかったのですが

「こつ」という語が目に入りました。

開いてみると、

 こつ【小塚】

江戸千住の岡場所、小塚原の通称。伎、小

袖曽我薊色縫「三次がーの馴染は、二枚が

けの熱燗だな」とありました。

すでにご承知のことと思い、かつまた荒川区教委の

担当者の話にもあったのかもしれませんが、

偶然見つけたので念の為おしらせします」。

 

私の思い違いが明白なようですが、

間違いも、また愛嬌。

いつものことです。

本文を訂正することなく、そのままにしておきます。

間違いを指摘してくれた友人に感謝。(2012-09-13)