石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

113 東京都大田区の指定文化財石造物(下)-5

2015-10-28 06:43:31 | 文化財

大田区指定文化財庚申塔の続き。

◇庚申供養塔群(東雪谷2-25-1 雪ヶ谷八幡神社)

大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
 雪ヶ谷村の人々によって建てられた庚申供養塔で、もともとは村内各所に建っていたが、後に現地に移された。
 古い順から、天和元年(11681)、元禄四年(1691)、
 同十年(1697)、同十一年(1698)、享保四年(1719)、
 明和七年(1770)、安政四年(1857)の七基でいずれも駒型といわれる型式の石塔である。
 雪ヶ谷村の村民は、ほとんどが日蓮宗の檀徒であるため、同宗の色彩を帯びた塔もある。また明和七年銘の塔は、新田神社への道しるべを兼ねたものである。
 この地域における民間信仰を研究する上で、貴重なものである。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

本殿裏の薄暗い場所に簡素な覆屋が並んでいる。

庚申塔は、年代順に古い方から3基ずつ二つの覆屋に納められている。

天和元年(1681)   元禄4年(1691)   元禄10年(1697)

 元禄11年(1698) 享保4年(1719) 明和7年(1770)

少し離れて祠に1基、これが道標を兼ねた安政4年(1857)のものか。

庚申塔ばかりではない石仏群が遍照院にある。

日蓮宗が多い大田区では、これだけの石仏群でも珍しい。

◇供養塔群(多摩川1-5-14 遍照院)

〈大田区指定 有形民俗文化財〉昭和49年2月2日指定
 これらの供養塔は、いずれも地元の小林村、安方村の村民が寄進造立したもので、江戸時代この地域における民間信仰の様相を示すものとして貴重である。
 特に念仏供養塔は、阿弥陀如来像を陰刻した念仏供養塔としては区内最古のもので、中世板碑の遺風を伝えるものである。
 古くから当寺境内に建てられていたが、寺域が「環八通り」の道路敷地となったため、整備後に現在地に移された。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

 1・庚申供養塔  延宝八年(1680)

 2・念仏供養塔  承応三年(1654)

3・庚申供養塔  延宝八年(1680)


4・廻国供養塔  正徳四年(1714)


5・庚申供養塔  文化五年(1808)

最後に、指定文化財の馬頭観音を紹介する。

◇馬頭観世音供養塔(南千束2-2-7 妙福寺)

 〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日
 天保十一年(1840)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。
 光背をつけた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北 堀之内・碑文谷道」「東 江戸中延」「南 池上・大師道」「西 丸子稲毛」というように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。
 この銘文から、もとは中原街道と碑文谷-池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成十三年に現在地に移設された。
 江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

 本堂に向かって左奥、洗足池が見える地点に馬頭観音はある。

    中央、白く光っているのが洗足池

蛇足だが、日蓮が足を洗った池なので洗足池といい、洗足池に面してある妙福寺は日蓮宗です。

台石を見ると明らかに道標だということが分かる。

大林寺の道標もそうだが、本来あるべき場所から無関係な場所に移転した道標は侘しい。

馬頭観音としては彫りも深く秀作なのに、通行人がいないのは惜しい。≪完≫

 


113 東京都大田区の指定文化財石造物(下)4

2015-10-25 07:20:55 | 文化財

大田区の石造物指定文化財、最後は庚申塔。

◇庚申塔(森北3-5-4 密厳院)

 〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
  石造舟型で、阿弥陀如来像を彫った庚申供養塔としては、時代的に古いものに属し、造型的にもすぐれたものである。
 大きな光背には庚申供養塔のためにつくられた趣意と、その造立年月が記されている。
 この塔は寛文二年(1662)のもので、庚申塔としては本区では二番目に古い。
 また、本塔のように法界定印を結ぶ弥陀の坐像を彫った庚申供養塔は、全国的にも稀といえよう。
 〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

 実はこの阿弥陀如来庚申塔は、このシリーズの1回目でお七地蔵とともに紹介している。

並んで立つ石仏が両方とも区の指定文化財というのは、ここだけだろう。

◇庚申塔(田園調布南24-18 密蔵院)

〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
 寛文二年(1661)に造立された本区最古の庚申供養塔。当時の沼部村村民の有志八名が造立したもの。舟型の石に地蔵菩薩像を彫った形態は、初期の庚申供養塔の様式を示している。
 銘文中の「庚申待」の文字は、本区所在の庚申塔中最初の記載で、庚申待の習俗を知る資料としても貴重である。
 庚申待とは、道教の思想にもとづく民間信仰で、庚申の日に人びとが宿に集まって、徹夜で談笑し、徐厄息災を祈念する風習である。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

◇庚申塔(矢口3-21-15 円応寺)

 

〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
 総高一三八センチ。
 寛文十二年(1672)に、古市場村の人々が建てたものである。
 区内に現存する庚申供養塔のなかで、青面金剛の像を彫った庚申供養塔としては最古のものである。
 板碑型の石碑に青面金剛立像を中心に、日月や鶏、三猿が刻まれ、江戸初期の典型的な様式である。
 銘文は、寛文十二年を「寛文二六年壬子」と積算表示したり、また「六郷荘」という中世的な表記や「古市之跡泥沙・・・」と刻まれていることも注目されるが、風化のため判読不能の部分が多いのは残念である。
 もとは矢口三丁目の旧道沿いに建てられていたが後に現在地に移設された。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

◇庚申燈籠(南馬込1-40-11 神明社)

〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和50年3月19日指定
 享保三年(1718)に、馬込村久保谷の庚申講の人々によって庚申供養のため建てられた燈籠である。
 燈籠型の庚申塔は、他地域にも類例があるが、それは銘文や三猿を彫ったものが多い。しかし、この塔のように竿石の正面に、庚申信仰の本尊である青面金剛を彫ったものは珍しく、貴重である。
 庚申講とは、「庚申の夜、寝てしまうと体内にいる『三尸』という虫が抜け出て、天帝に日頃の罪状を報告され命が縮められてしまう」という言い伝えがあり、そのため眠らずに過ごし、延命招福』を祈ったものである。
 村の仲間が徹夜で酒食をともにすることから、レクレーションや他村の連帯をはまる寄合いにもなった。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

◇庚申塔(南千束2-29-2路傍)

〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和50年3月19日
 文化十一年(1814)に、品川の御忌講(御忌とは法然上人の忌日)という浄土宗を信仰する人々が再建したものである。背面の銘文から、延宝六年(1678)に森氏道円が願主となり建てた旧碑が、何かの事情で失われたものを再建されたことがわかる。
 この塔のような角柱型に文字を刻んだ庚申供養塔は、江戸時代後期によくみられる特色のものである。
 また、向かって右側面に刻まれた銘文により九品仏(浄真寺、世田谷区奥沢)への道しるべを兼ねたものであることがわかる。この地点が中原街道から浄真寺に至る旧道の分岐点に当たることは、古い地図から確認できる。
 江戸時代の民間信仰の様相を示すものとして貴重である。
〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

中原街道に面したマンションの右わきにポツンと立っている。

「従是九品佛」の文字がくっきりと読み取れる。

道標だからだろう、凹み穴がいくつも穿たれている。

≪続く≫


113 東京都大田区の指定文化財石造物(下)-3

2015-10-22 05:46:23 | 文化財

◇日待供養塔(南馬込1-49-1 万福寺)

〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
    日待供養塔

 この供養塔は寛永十五年(1638)に馬込村の人びとが造立した。
 高さ三.一メートル。現在は新しい台石の上にのせられ、総高約四メートル。相輪が大きく、笠石・基礎が比較的小さい、近世初期によく見られる形式の宝篋印塔である。
 昭和三十年頃までは、中馬込三丁目二十五番付近の梶原塚と呼ばれるところに建てられていたが、今は当寺の境内に移されている。
 馬込では大正期まで日待の習俗が行われており、江戸初期から現代まで伝承された民間信仰の資料として貴重である。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

日待とは日の出を待つ意であるが、江戸時代から待は祭だとする説がある。その当否はさておき、日待は本来、人々が一定の日に決められた場所に集まり、夜もすがら忌みごもりなどして日の出を拝した行事であった。」『日本石仏事典』

日本石仏事典には、日待塔の主尊として大日如来ほか8種類の刻像塔をあげ、文字塔も庚申塔など5種類の日待塔を紹介しているが、宝篋印塔の日待塔は載っていない。

極めて珍しい石塔のようだ。

その隣に一石六地蔵がある。

万福寺は、崖地の高低さを巧みに利用して、立体感のある境内となっている。

山門は、都内では希少価値となった茅葺屋根。

◇桃雲寺再興記念碑(山王3-29-8 新井宿薬師堂)

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    桃雲寺再興記念碑

 当地(新井宿村)の領主、木原木工義久が、村内の古寺を再興し、家祖吉次の号をとって桃雲寺と命名した。この事績を後世に伝えるため嗣子木原内匠義永が、寛文四年(1664)に建立したのが当記念碑で、撰文は林春斎である。
 碑文は木原氏累代の世系と、当時の近郊の様子を知る好資料であり、江戸初期の記念碑としても様式上注目される。
 桃雲寺は、明治十三年(1880)八月に馬込万福寺と併合され廃寺となったが、現在は境内地若干と薬師堂のみが残されている。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

JR大森駅西口前のバス通りを下って、すぐ右に入った場所に薬師堂はある。

そこだけ違う時代の空気が流れているかのように、ひっそりとお堂は佇んでいる。

お堂の前に2基の石塔。

2基とも大田区指定文化財で、そのうちの1基、富士講碑については、「112東京23区の石造物指定文化財)大田区ー4)で取り上げた。

今回は、別の1基、桃雲寺再興記念碑。

説明板を読んでも、知らない人名と場所ばかりで、まったく興味が持てない。

肝心の碑文を読む能力がないから、初めから勝負はついているのです。
          


113 東京都大田区の指定文化財石造物(下)-2

2015-10-19 05:40:54 | 文化財

このシリーズの(大田区ー4)で西六郷の安養寺の富士講碑を取り上げたが、安養寺にはほかに二つの指定文化財がある。

その一つが「銀杏折取禁制碑」。

世の中広しといえども類似の石塔は皆無、と断言できる、それほどの珍品。

◇銀杏折取禁制碑 西六郷2-33-10 安養寺

 大田区指定 有形文化財〉  昭和51年2月25日指定
    銀杏折取禁制碑

 碑の高さ一四八センチ、幅二七センチ、厚さ一八センチ。
 薬師堂前には、古くから乳いちょうが二株あり、人びとは昔から、これに折れば乳がでると信じ、いちょうの下垂の乳部を削り取るものが多かった。
 碑はその行為を禁止するため、元禄三年(1690)に当寺の住職によって建てられたもので、一種の聖域保護の禁制碑として注目される。
 大田南畝(蜀山人と号す、1749~1823)は『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん大木の銀杏二本ならびてたてり、かのちゝというものあまたありて目を驚かす」と記している。
 現在の樹は、その木の実より生じたものという。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

蜀山人が見た2本の銀杏の巨木は、今、1本になっている。

巨木の前の石塔には「此禁制石薬師如来夢想ニ而起立之者也」とある。

もう一つは、山門横の道標。

◇古川薬師道 道標 西六郷2-33-10 安養寺

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和50年3月19日指定
    古川薬師道 道標

 延宝二年(1674)に、東海道筋の雑色から多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべで、のち区画整理にため、現在の安養寺(古川薬師)門前に移された。
 正面と両側に、古川薬師への分かれ道であることを示す銘文が刻まれている。
 東海道の道筋に建てられた道標では、区内に残る二基のうちの一基であり、江戸時代の交通史研究上貴重である。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

古河薬師とは、現在の安養寺のこと。

道標が指し示す目標地点にある道標は、哀しい。

存在が無意味だから。

台石にいくつもの凹み穴。

殆どの道標にこの凹み穴が見られる。

誰に気兼ねなく穴を穿てたということか。

今回では、池上本門寺参道に立つ題目塔に穴が見られた。

(凹み穴については、このブログNO44、45、55、56、58、60参照されたい)

安養院に近い宝幢院にも指定文化財がある。

◇水船 西六郷2-52-1 宝幢院

 〈大田区指定 有形文化財〉  昭和50年3月19日
    水 船(手水石)



 白河石(火成岩)でできており、横六七センチ、幅三二センチ、高さ二六センチ。
 制作年代は寛永二十年(1643)二月二十八日。在銘の水船としては区内最古と思われる。
 もと当院境内にあった熊野社の手洗であったが、明治元年(1868)の神仏分離で、社は六郷神社に合祀された。
 その折、この水船は当寺に残され、本堂前に置かれていたが、近年造園の都合上、現位置に移された。
〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

境内には、四国八十八ケ所ミニ霊場かある。

案内板には「緒砂踏み巡拝処」とある。

砂は、当院住職が四国遍路から持ち帰ったものだとか。

平成産のピカピカミニ霊場です。

≪続く≫


     


113 東京都大田区の指定文化財石造物(下)-1

2015-10-16 06:36:48 | 文化財

加藤清正正室層塔の開眼は本門寺十五代日樹によってなされているが、他の2点の石造物も日樹がらみのもの。

不受不施派のリーダーとして幕府ににらまれ信州飯田に流された日樹は、隠れキリシタンのように身分を隠した多数の信者にとって「英雄」だった。

 (「不受不施派(ふじゅふせは)とは、日蓮教義である法華経信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないという不受不施義を守ろうと、かつて存在した宗派の名称である。」Wikipediaより)

日樹五輪塔の奉加者に名を刻むことは、時代を考えれば、各自の決断があってのことだった。 

◇日樹五輪塔(池上1-1-1 池上本門寺)

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    日樹聖人五輪塔

 この塔は、本門寺山内最大の五輪石塔で、総高約四メートル、戦災による破損がいちじるしく、造立年紀銘は見えないが、上から三段目の火輪斜面に「日樹(花押)]の署名が刻まれている。
 したがって、本塔は、日樹が不受不施事件で信州に流される寛永七年(1630)より前の造立である。
 しかも、地輪をはじめ、塔の全面に数百名の奉加者の名を刻みつけてあることは、日樹とその信者層、ひいては江戸初期の池上本門寺外護者の実態と、不受不施史研究上、極めて有力な資料である。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕
 

 再び加藤清正正室層塔がある墓域に戻ろう。

清正正室層塔の手前にあるのが、これまた層塔で、こっちは加賀藩前田家関係の石塔。

◇前田利家室層塔(池上1-1-1 池上本門寺)  

    右後方が加藤清正正室層塔。   

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    前田利家室層塔



 この塔は、前田利家の側室、寿福院が、元和八年(1622)に、自身の逆修供養のために建てた十一種の層塔である。このことは当寺十五世(復暦)日樹の銘文でわかる。
 寿福院は、三代加賀藩主、利常の生母で、秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために、江戸に差し出され、人質となった。
 現在、相輪と上部の数層を失って、わずか五重を残すのみである。屋蓋の反り具合からみて様式的に古い形を示し、注目される。
 なお天保四年(1833)の修復銘もある。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

寿福院が逆修塔としてこの層塔を建てた元和8年(1622)には、江戸城での受不施派(久遠寺など)と不受不施派(本門寺など)の対決は、幕府が受不施派の勝利を宣告していた。

つまり幕府の方針は決まっていたことになる。

外様大名の側室である寿福院が、不受不施派の日樹の開眼で層塔を造立することは何の問題もなかったのだろうか。

珍しく石仏が2体、層塔の前にある。

右の如意輪観音は、百観音霊場巡拝塔だが、寿福院とどんな関係のある人なのか。

本門寺ではないが、近在の日蓮宗寺院に日樹関係の指定文化財石塔があるので付け加えておく。

◇日樹聖人供養塔(中央6-6-5 長勝寺)

 車の奥、2基のうち右が日樹供養塔

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    日樹聖人供養塔



 幕府の施物は、信仰による布施でないとして、これを受けることを拒否し、純信性を唱え、日蓮宗内に受・不受両論の対立をもたらした不受不施派の巨頭、池上本門寺十五世、長遠院日樹(1574~1631)の供養塔である。
 寛永七年(1630)受側を代表する身延と不受を主張する池上は公庭に対決し、(身池対論)幕府の裁許により池上方は破れ、日樹は信州飯田に流された。
 この塔は、日樹の三十三回忌に、近在の信徒集団によって建てられたことが、銘文によって知られ、日樹流罪後も不受不施信仰がこの地に根強く存在していた事実を立証する。〔大田区教育委員会設置の標識板より

日樹が伊那に流されたとき、不受不施派の祖日奥も流されたが、彼はすでに死んでいたので、遺骨を流罪に処したという。

こうした幕府のやり方に抗議して、不受不施派の僧侶が何人も自刃したというからまるで武士の世界。

         長勝寺

信者は隠れキリシタンりように地下に潜っていた。

こうした供養塔を造立することは、お上を刺激しなかったのだろうか。

≪続く≫

 

 

 

 


112 東京都大田区の指定文化財石造物(上)ー5

2015-10-12 05:45:22 | 文化財

東京には、23区それぞれが指定する文化財石造物が多数あります。その指定文化財石造物を通して各区の歴史と民俗に触れようという企画、1回目は大田区です。件数が多いので、(上、下)編2回に分けて連載します。なお、青色文字は大田区教育委員会の解説文の写し

「大田区の指定文化財石造物」の1回目にも書いたことだが、日蓮宗寺院には石造物は少ない。

そうは云っても、日蓮宗大本山池上本門寺となると別格。

石造物だけで、6点の区指定の文化財があります。

まずは、総門をくぐると正面に立ちはだかるようにある石段がそれ。

◇石段(池上1-1-1 池上本門寺)

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    石 段

 この石段は、加藤清正(1562~1611)の寄進によって造営されたと伝えられ、「法化径」宝塔品の偈文九六字にちなみ、九六段に構築され、別称を「此径難持坂」という。 
 なお、元禄の頃(1688~1703)に改修されているが、造営当時の祖型を残しており、貴重な石造遺構である。清正は慶長十一年(1606)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、この石段もそのころの所産と思われる。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕
          

法華経宝塔品偈文を国立国会図書館の電子図書で見つけた。

96文字全文を載せておく。

「此径難持」坂は、偈文の書き出しであることが分かる。

  法華経宝塔品偈文釈

此経難持 若暫持者 我即歓喜
諸仏亦然 如是之人 諸仏所歎
是則勇猛 是則精進 是名持戒
行頭陀者 則為疾得 無上仏道
能於来世 読持此経 是真佛子
往淳善他 佛滅度後 能解其義
是諸天人 世間之眼 於恐畏世
能須臾説 一切天人 皆応供養

加藤清正は、築城の名手とうたわれた。

だから石段寄進もうなづけるものがある。

その実質的作業は、穴太(あのう)衆が担った。

穴太衆については、このブログ「109 比叡山延暦寺の門前町坂本の石造物」で触れているので、ご覧ください。

加藤清正がらみの石造物が他に2点、文化財に指定されている。

加藤清正が日蓮宗に深く帰依していた証左ということか。

◇加藤清正供養塔(池上1-1-1 池上本門

 〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    加藤清正供養塔

 山内最大級の宝篋印塔であり、塔身・笠・相輪が完備している。
この供養塔は加藤清正(1562~1611)の息女で紀伊頼宣の室(夫人)瑤林院(1601~66)が父清正の満三十八年目の忌日に当たる慶安二年(1649)、その供養のため造立したものである。
 清正は、安土桃山時代の武将として有名であるが、熱心な日蓮宗信者でもあった。加藤清正父娘の信仰心と孝養心が、うかがえる供養塔である。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

この加藤清正供養塔は本門寺本殿に向かって左にあるが、右には清正の正室正応院の逆修層塔がある。

◇加藤清正正室層塔(池上1-1-1 池上本門寺)

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    加藤清正室層塔

 この塔は、江戸時代初期に造立された軒の美しい層塔である。現在では相輪も失われ、八層を残すのみとなっている。初層塔身の銘文によれば、寛永三年(1626)に十一層の石塔として建てられた。
 加藤清正(1562~1611)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(1601~53)の母である正応院が、生前に自分のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るという逆修供養のために建てたものである。本門寺一五代日樹が開眼している。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

清正供養塔は、正室層塔の23年後に娘によって造立された。

どうせなら、夫婦相並んでいた方が良かろうにと思うのだが、いかなる事情があったものやら。

≪続く≫ 

 

 

 


112 東京都大田区の指定文化財石造物(上)ー4

2015-10-09 05:42:01 | 文化財

東京には、23区それぞれが指定する文化財石造物が多数あります。その指定文化財石造物を通して各区の歴史と民俗に触れようという企画、1回目は大田区です。件数が多いので、(上、下)編2回に分けて連載します。なお、青色文字は大田区教育委員会の解説文の写し

大田区には、なぜか、富士講に関係する文化財が多い。

今回は、その富士講関連指定文化財をまとめてみた。

富士講は、富士山の信仰団体のこと。

江戸を中心に庶民信仰として広がり、江戸八百八講といわれるほど多数の講があった。

その一端が、西六郷の安養寺境内にある富士講碑に見られる。

石碑に刻まれた富士講の数は、なんと112講。

なぜ、こんなに多くの富士講が安養寺に集まったのかは、大田区教育委員会の解説版で明らかにされている。

◇富士講碑(西六郷2-33-10 安養寺)

〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
    富士講碑

 富士山の信仰集団である富士講の講名と講紋を刻んだ記念碑で、背面の銘文によって百味講社が造立したものであらことがわかる。
 百味講社は、当寺で毎年四月に行われた百味供に参集する信仰集団で百味供とは、薬師如来に百味の供物を献じ、加護を祈願する行事で、当寺では昭和三十五年まで続けられていた。
 表面に刻みこまれている一一二の富士講は、この百日味供に参集した講と考えられる。
 この碑のように、非常に」数多くの講名や」講紋を刻んだ例は珍しい。

112もの富士講が集まる寺なのに、境内に富士塚がない。

富士塚は富士山に登山できない者のために富士山を模して築いた人口の小山で、大田区には羽田神社に一つ残るのみ。

 

◇富士塚(本羽田3-9-12 羽田神社)

 〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
    富士塚

  俗称「羽田富士」と呼ばれるこの塚は、明治初年に築造されたもので、本区唯一の存在である。
 近年まで、毎年七月一日の山開きには、この塚に羽田富士講の講員が登詣する習俗が残っていた。
〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

富士講の禁令を何度出しても一向に止む気配がなく、ついに嘉永2年(1849)、講結社の禁令が発布される。

その禁令には石碑類の取り払い命令も含まれていたので、多数の富士講碑が破棄、破壊された。

今に残る富士講碑は、その災難をすり抜けた貴重品だといえる。

すべての流行には、その端緒となる人や出来事があるが、富士講拡大は食行身禄(じきぎょうみろく)による所が大きい。

食行身禄が富士山烏帽子岩で31日間の断食の末、入定したことが人心を一気にとらえ、爆発的大流行になったと伝えられている。

食行身禄は、富士講中興の祖だったから、その没後、50年、100年、150年を記念した碑が多く建てられた。

大田区には、没後100年を記念した石塔がある。

◇富士講碑(山王3-29-8 新井宿薬師堂)

  〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
    富士講碑

 天保三年(1832)新井宿村の富士講中(富士山の信仰集団)が、同講の中興の祖といわれる食行身禄(伊藤伊兵衛・1671~1733)の没後百年を記念し、村内安全を祈願して造立したものである。
 碑の正面の「仙元大菩薩」は、富士山の尊称であり、そのほか日月と雲を配した富士などを刻す。

 

「仙元大菩薩」が亀にのる「亀趺」なので、亀にばかり目が行くが、注目すべきは両側の猿。

富士山は庚申の年に出現したとの言い伝えがあって、富士山信仰に猿はつきもの。

富士講では、60年に一度の庚申年を盛大に祝うので、庚申信仰とまぎらわしいが、別個な信仰として成立しているらしい。

この富士山と猿との関係は、大田区の別な石造物指定文化財にもみられる。

◇東海道一本燈台台石(大森西5-2-13 大森三輪公園)

元々は東海道に面してあったが、いろんな事情が重なって、公園の片隅に肩身せまそうに立っている。 

〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和50年3月19日指定
    燈篭台石(東海道常夜燈)

 江戸後期、東海道筋に通行人の目印として、大森村を中心に近郷、江戸、川崎などの富士講の人々が建てた常夜燈である。
 もとは谷戸の交番付近(大森中1-18付近)に建てられていたが、東海道が第一京浜国道として建設されたため移転を余儀なくされ、転々とした後、大森中三丁目の三輪神社にあった。
 昭和六十一年(1986)地元より教育委員会に寄付され、ここに移設する際、戦災で失われていた火袋、竿石を修復し燈籠として復元した。
 台石の正面の彫刻は富士山が庚申の年に出現したという伝説を表わしている。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

なにしろすぐ後ろは区立の図書館という立地。

 

燈台の施主が、富士講の人たちだったのは、正面の富士山の彫刻に読み取れる。

猿が三匹いるのが、富士山信仰を表わしている。

区内には、富士講灯台と呼ばれる燈台がもう1基ある。

◇富士講燈台(南馬込2-25-17) 

〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
    富士講燈篭

 文政七年(1824)に、馬込村を中心とする富士講(富士山の信仰団体)の人々によって建てられた常夜灯である。
 台石に刻まれた銘文から、品川と池上に至る道に、道しるべを兼ねて建てられたことがわかる。
 さらに願主、世話人をはじめとする約二百名の人名が刻まれており、馬込村と近在を中心に講員の分布が推察できる貴重な資料である。また世話人として村内の禅宗「万福寺」が加わっていることは、信仰上興味深いものがある。
 かつて富士登山の際には、近くの北野神社に参籠し、この燈籠の前で講中の人々が祈願してから出発したと伝えられる。
〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

 


112 東京都大田区の指定文化財石造物(上)ー3

2015-10-06 05:36:55 | 文化財

 東京には、23区それぞれが指定する文化財石造物が多数あります。その指定文化財石造物を通して各区の歴史と民俗に触れようという企画、1回目は大田区です。件数が多いので、(上、下)編2回に分けて連載します。なお、青色文字は大田区教育委員会の解説文の写し

◇区内最古の石鳥居(北糀谷1-22-10) 子安八幡神社

大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定

 北糀谷は、もと下袋村といい、六郷用水開削の功労者小泉次大夫の知行地であった。
 この石鳥居は、六代目地頭小泉藤三朗包教のとき、安永三年(1774)総氏子が地頭の武運長久を祈って奉納したもの。この時代の領主と村民との結びつきを知るうえにも貴重ある。
 石鳥居は、明神型の区内最古の鳥居であり、貫の両端は欠けているが、笠木の反りもゆるやかで美しく、全体に安定した姿を見せている。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

子安八幡神社に向かうと町のあちこちに祭礼の幟と提灯が見えてくる。

秋の例大祭の前日だった。

神社は新呑川の川岸にある。

白い洋風の家が目立つが、神社は高い樹木の下。

正面から鳥居を撮って帰ろうとしたが、なにか引っかかる。

区内最古の、という割には新しい感じがするのだ。

近寄って見たら昭和に造立されたものだった。

あわてて境内を見渡すが、古い鳥居は見当たらない。

見当たらない筈で鳥居にしては、背が低い。

もっと高いのを思い描いていたから、目に入らなかったと見える。

大田区の新井宿には義民六人衆の碑があるが、そこに流れるのは、為政者の苛政とそれに対する領民の反発というおなじみの図式。

この鳥居は、領民が領主の病気平癒を祈って奉献したという。

レアケースといえようか。

大田区には指定文化財の鳥居がもう1基ある。

◇鳥居(蒲田3-2-10 稗田神社)

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
当社は延喜式内の古社といわれている。
この鳥居は、柱背面の銘文によって、寛政十二年(1800)に北蒲田村の氏子により寄進されたことがわかる。花崗岩の明神型鳥居で、高さ三一〇センチ、柱間三一四センチ、中央に「稗田神社」の社号を刻した石額を掲げてある。
 笠木は、全体にゆるやかな反りをもって、柱のつり合いもよく、安定した姿をみせる。区内の鳥居では古いものの一つで、貴重な存在といえよう。
〔大田区教育委員会設置の板標識より〕

鳥居に刻まれた「寛政十二年」を確認して、217年前のものだと分かる、それほど古さを感じさせない。

◇狛犬(東六郷3-10-18六郷神社)

〈大田区指定 有形文化財)

 この狛犬は、貞享二年(1685)六郷中町の有志が願主となり、二世安楽を祈って奉納したものです。
 区内に現存する最も古い狛犬で、石工は三右衛門。
 昔から社殿前にあったが、現在は社務所庭に置かれている。
 作風は、一般の狛犬と異なり、きわめて素朴かつユーモラスで、芸術性にとんだ形態を示し、面白い。
 たとえば、へこみが深い大きな目、へん平な鼻、大きな口、髪の刻みは浅く、先端を巻き、胴はずんぐりとして、尾は小さ く上向きに立つなど、興味深い作品と言えよう。

 六郷神社は広い。

本殿前に狛犬はいるが、これが区内最古の狛犬ではなかろう。

探してみるが中々見つけられない。

囲われた緑地帯の木蔭の中に沈み込んでいた。

 

ユニークな造形だ。

石工にとって、狛犬は腕の見せ所だったのではないか。

お手本がないから、自分のイメージを膨らませて想像できる。

「どうだ、俺の狛犬は」としたり顔でうそぶく三右衛門が目に浮かぶようだ。

正面の台座に「奉納/御神/前二世/安楽/之所」と願意が刻されているのは、八幡神の本地が阿弥陀如来であることに由来するのではないか、と『大田区の石造遺物』の筆者は推測している。

◇真言宗智山派安養寺(西六郷2-33-10)

 地図

多摩川の堤防の下にある安養寺には、大田区の石造物指定文化財が3基ある。

まず、山門脇の道標。

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和50年3月19日指定
    古川薬師道 道標

 延宝二年(1674)に、東海道筋の雑色から多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべで、のち区画整理にため、現在の安養寺(古川薬師)門前に移された。
 正面と両側に、古川薬師への分かれ道であることを示す銘文が刻まれている。
 東海道の道筋に建てられた道標では、区内に残る二基のうちの一基であり、江戸時代の交通史研究上貴重である。

珍しいと云えば、「銀杏折取禁制碑」は極めて珍しい。

 

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和51年2月25日指定
    銀杏折取禁制碑

 碑の高さ一四八センチ、幅二七センチ、厚さ一八センチ。
 薬師堂前には、古くから乳いちょうが二株あり、人びとは昔から、これに折れば乳がでると信じ、いちょうの下垂の乳部を削り取るものが多かった。
 碑はその行為を禁止するため、元禄三年(1690)に当寺の住職によって建てられたもので、一種の聖域保護の禁制碑として注目される。
 大田南畝(蜀山人と号す、1749~1823)は『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん大木の銀杏二本ならびてたてり、かのちゝというものあまたありて目を驚かす」と記している。
 現在の樹は、その木の実より生じたものという。

写真の銀杏の前の石塔が指定文化財。

「此禁制石薬師如来夢想ニ而起立者也」と刻されている。

 安養寺には、石造物指定文化財が3基あって、残る一つは「富士講碑」だが、これは次回、富士講関連石造物をまとめる予定なので、そちらに入れることにする。


112 東京都大田区の指定文化財石造物(上)-2

2015-10-03 07:25:41 | 文化財

東京には、23区それぞれが指定する文化財石造物が多数あります。その指定文化財石造物を通して各区の歴史と民俗に触れようという企画、1回目は大田区です。件数が多いので、(上、下)編2回に分けて連載します。なお、青色文字は大田区教育委員会の解説文の写し

◇海難供養塔(大森東1-27)

 

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和50年3月19日指定
 総高232センチ。
 安政二年(1855)に再建されたもので、海難供養塔としては、東京湾中屈指の規模をもつ。
 塔は、五輪塔の変形のような形で、水輪に当たる部分に胎蔵界大日如来の種子が刻まれている。
 台石に刻まれた銘文には、江戸や神奈川の魚貝業者をはじめ、一般の江戸町民や武士など約300名に及ぶ名が刻まれている。この塔は、地元の人ばかりでなく、広い地域のいろいろな階層の人々の協力寄進によって再建されたことがわかり、貴重である。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

 カメラを構えた背後は小学校の塀。

えっ、なぜこんなところに海難供養塔が?と誰もがいぶかるだろうが、江戸時代は、ここは海に面していたはずです。

大森海岸に流れ着いた水死者は相当な数だったのではなかろうか。。

地輪に刻まれた経文は、観無量寿経から。

「佛心者.大慈悲是.以無縁慈.攝諸衆生」。

仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。

 

 ◇池上道道標(大森中2-7-10 大林寺)

 〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
  享保十四年(1729)に、大森村の日蓮徒で組織された甲子講の人たちが建てたものである。
 もとは、東海道から分かれて池上本門寺に至る池上道の分岐点にあったが、道路拡張などの事情により近来当所の移された。道標の旧位置から、15町(約1.5キロ)で池上本門寺に至り、更にそのまま品川宿に行けることを示している。
 江戸時代に街道の諸所にあった道しるべは、しだいに失われつつある現在、交通史の資料として貴重である。(大田区教育委員会設置の標識板より〕

 めざす大林寺は下町商店街のど真ん中にある。

はて、お寺はどこでしょう?

手前の花屋の大売り出しの幟と宅急便のブルーの看板の向こうが参道入口。

山門脇に二基の石塔、左が区指定の道標です。

黒焦げているのは、震災か戦災か。

道の分岐点にあって初めて存在価値がある道標なのに、無関係な場所に移されて、果たして「交通史の貴重な資料」と言い切れるだろうか。

◇森ケ崎鉱泉源泉碑(大森南5-1-2 大森寺)

 〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
 明治三十四年年(1901)に、森ヶ崎鉱泉の発見と泉効試験を記念に建てられた石碑である。もとは立田野旅館の側にあったが、現在地に移設された。
 正面には泉効をたたえた詩文が刻まれ、背面には百八十余名に建立発起人の名が記録されている。これらの人々は、おそらく鉱泉の開堀を発起し尽力した大森地区の有力者であったと考えられ、森ヶ崎鉱泉開堀当時の事情を伝える資料として貴重である。
 森ヶ崎鉱泉は、同三十五、六年頃には鉱泉宿ができはじめ、次第に東京近郊の保養地、臨海行楽地として栄えたが、太平洋戦争を契機として転廃業した。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

私は、森ケ崎鉱泉を初めて知った。

森ケ崎という地名も温泉街花街もとうの昔になくなって、知らなくて当たり前ではあるのですが。

森ケ崎は大森南に地名変更され、今やバス停に「森ケ崎」の名を残すのみ。

森ケ崎という素敵な地名を大森南に変更するなんて、なんたる愚劣。

そういえば、この一帯は大森東、大森西、大森中と安直な地名ばかり。

腹立たしい。

バス停「森ケ崎」の後ろが大森寺(だいしんじ)。

無住寺のようでひっそりしています。

本堂と塀の間の狭い場所に2基の石碑。

その右側が指定文化財の「森ケ崎鉱泉源泉碑」。

造立発起人に170人もが名を連ねるのは、小なりといえどもこの地に忽然と生じた歓楽街の関係者でしょう。

(森ケ崎鉱泉と海水浴場http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Spotlight/1052/fukuoyu.htmより借用)

源泉碑の左の石碑「魄光大尊霊」は何か気になる所だが、吉川英治の森ケ崎紹介記事を読んで、疑問が解けました。

維新当時、官軍に敗れた烈士彰義隊の一部が船橋から船で逃れやうとした。然るに羽根田沖辺りで暴風に遭って難破し、哀れにも死骸が森ケ崎の岸に漂着した。土地の者がそれを発見して懇ろに葬り塚を築いた。夫れが現に存っている無縁堂(大森寺)である。或夜不思議にも無縁塚に葬られた武士姿の若衆が夢枕に立って土地の者に霊泉の湧くことを暗示した。早速井戸を掘ると滾々として尽きぬ鉱泉が噴湧したのである」(『志がら美』第1巻第1号 大正7年3月)

溺死者の供養塔として造立されたのが「魄光大尊霊」だったというわけ。

森ケ崎鉱泉は大正から昭和にかけて、旅館50軒を擁する花街として栄えたが、太平洋戦争突入と共に寂れ、戦後、再び復興することはありませんでした。

かつての歓楽街の痕跡は、今、どこにもなく、つまらない街並みがだらしなく続くだけです。


112 東京都大田区の指定文化財石造物(上)-1

2015-10-01 11:21:13 | 文化財

このブログは、私の興味関心を満たす学習のプロセスと結果を報告するものです。

「東京都大田区の指定文化財石造物」が今回のテーマですが、その全貌はネット検索すれば一目瞭然、あらためて報告するまでもありません。

それなのに、なぜ、写真を撮ってブログに載せるのか。

私が見たいと思い、知りたいと思ったからです。

なぜ、大田区なのか。

私が住んでいる板橋からは最も遠く、なじみの少ない区だから。

石仏めぐりでいくつかの地域を回ったことはありますが、なにしろ大田区は広い。

区の面積59平方キロは、23区最大。

回れなかった地域も少なくありません。

それと、池上本門寺があるからか日蓮宗の寺が多い。

こと石仏に限ると日蓮宗寺院は不毛な宗派ですから、敬遠しがちで、未訪問の寺ばかり。

と、いうことで、指定文化財石造物を撮ることを目的に改めて大田区を回り、その歴史と文化の一端に触れたいと思います。

今回を1回目として、いずれ23区全部の石造物指定文化財を見て回るつもり。

つまり東京23区をくまなく歩きまわるのがもう一つの目的ということになります。

指定文化財とは何か、など小難しいことはパス。

早速、紹介してゆきましょう。

写真下の青色文字は、大田区教育委員会の説明文です。

◇お七地蔵(大森北3-5-4 密厳院)

大田区指定 史跡〉  昭和49年2月2日指定
   
この地蔵は、江戸大火〔天和二年(1683)十二月二十八日〕をひきおこした、八百屋お七の霊を慰めるため造立されたと、伝えられている。
 この事件は当時、井原西鶴の「好色五人女」に描かれ、その後も、浄瑠璃などで人々に親しまれた。
 お七の刑死は天和三年(1683)三月二十九日で、台石銘文の貞享二年(1685)四月二十四日はその三回忌に当たる。
 建立者は小石川村百万遍念仏講中。本像はもと鈴ヶ森刑場に建てられていたが、ある日。一夜にして当寺に飛来したという伝説がある。

地蔵なのに指定有形文化財ではなく、なぜ、史跡なのか。

大田区の文化財担当者の話では、鈴ヶ森刑場とのからみで史跡にしたとのこと。

なるほどと思いはするが、肝心の鈴ヶ森刑場は品川区にあるのだから、大田区の文化財担当者としてはちょっと残念な気持ちか。

写真フアイルから鈴ヶ森刑場跡地を出してみる。

おどろおどろしい写真が2点。

まず火あぶり台。

「台の穴に立てた鉄柱に処刑者を後ろ手にしてしばりつけ、足元の薪に火をつけて生きたまま焼き殺した」とは傍らの説明文です。

もう一つは、首洗い井戸。

処刑者の首を切り落とし、この井戸の水で洗ってからさらし首にしたのだそうです。

再び、密厳寺に戻ることにします。

お七地蔵は境内の傍らの簡素な覆い屋の下におわすのですが、その向かって左の石仏も区の指定文化財です。

 〈大田区指定 有形民俗文化財〉  昭和49年2月2日指定
  
石造舟型で、阿弥陀如来像を彫った庚申供養塔としては、時代的に古いものに属し、造型的にもすぐれたものである。
 大きな光背には庚申供養塔のためにつくられた趣意と、その造立年月が記されている。
 この塔は寛文二年(1662)のもので、庚申塔としては本区では二番目に古い。
 また、本塔のように法界定印を結ぶ弥陀の坐像を彫った庚申供養塔は、全国的にも稀といえよう。

三猿などは見られないから、庚申の文字が彫られているはずだが、目を凝らしても読み取れない。

大田区では、指定文化財の庚申塔は、全部有形民俗文化財に分類されています。

 ≪続く≫