2年前、同じ板橋区内の北東部に引っ越した。
写真のバス停は「赤羽西六丁目」。
私の住まいのすぐ横だから、板橋区内なのでちょっと違和感がある。
なぜなら、赤羽西は、北区の町名だからです。
バス停から50m先には区界があって、その向こうが「赤羽西」。
都心への利用交通は、これまで都営三田線か東上線だったのが、今は、「赤羽西六丁目」からバスで赤羽駅へ向かい、JRを利用することが多くなった。
石仏巡りを始めて12年、板橋区内は、全域を3回にわたって、見て歩いたが、北区は知らないところばかり。
これを機に、北区の石造物を見て歩くことに決めた。
北区には31の町があるので、町ごとに見てゆくことに。
まず最初は、赤羽西。
普通は、赤羽駅西口の1丁目から6丁目へと進むのだが、今回は逆に6丁目からスタートすることにする。
◇赤羽西6
区界から250mほど東に進むと寺が二つ並んでいる。
▽日蓮宗・威徳山大恩寺(赤羽西6-15-19)
門前に仁王。
日蓮大菩薩塔もある。
境内に入ると目を引くのは、三十三観音群。
法華経普門品に説く仏の化身三十三身に基づく石仏群。
見慣れた観音さまをおわすが、殆どは、初めて知る名前。
みんな顔が優しくて、女性的。
平成8年の造立で、中国製とは寺の説明。
三十三観音の一番手前、ひときわ大きな石仏は「人動車観音」。
ここに車を止めて、車の供養をするのだという。
よく見ると、光背は車のハンドル、台座はタイヤ、台石には車のキーが彫りこんである。
ただし、人動車観音は、三十三観音ではない。
境内に「お墓参り十か条のすすめ」なる石碑が立っている。
珍しいので、書き写しておく。
1 正月・春彼岸・盆・秋彼岸にまいるべし
2 祥月命日はまいるべし
3 誕生日にもまいるべし
4 祝い事あればまいるべし
5 夢を見たらまいるべし
6 迷い起きればまいるべし
7 苦痛あらばまいるべし
8 嘆きあらばまいるべし
9 望み失わばまいるべし
10 近くにきたらばまいるべし
数多くの寺院を参拝したが、墓参り10か条は、初めて。
大恩寺の左隣は
▽浄土宗・獅子吼山専称院善徳寺(赤羽西6-15-21)
古い江戸の寺院らしく、皇居吹上→平川門外→日本橋馬喰町→台東区松葉町と移転をし、最後に、関東大震災後の区画整理で現在地に引っ越してきた。
山門を入る。
本堂に向かって左側に石造物がまとめられている。
取り上げるべきは、朱色の幟に囲まれた石仏だろう。
幟には「お竹如来」と書かれている。
「お竹」は、日本橋の武家馬籠家に奉公していた出羽荘内出身の下女。
信心深く慈悲深い彼女は朝晩の自分の食事を乞食に与え、自らは水盤のかどに網を置いてそこに溜まった残飯・切りくずなどを食べ、常に念仏を唱えたという。
生身の大日如来を拝みたいと出羽三山に通い続けていた山伏が、夢の中で「生身の私に会いたければ、日本橋のお竹を訪ねなさい」と告げられる。
探し回って、山伏が目にしたお竹は、全身から光明が射していたとか。
感激した山伏は、羽黒山に帰り、お竹大日如来を刻し、大日堂に安置する。
それだけてなく、宣伝を兼ねて江戸で何度も出開帳を行ったので、お竹伝説は物語に芝居にと取り上げられ、お竹は江戸の人気者になるのです。
あらためてお竹如来を見てみよう。
大日如来のはずが、どうみても如意輪観音像。
なぜこうしたことが起きたのか、どこにもその説明は見当たらない。
解説板が欲しい。
此処は、一番、北区教育委員会の出番ではなかろうか。
今朝供えられたものか、墓前にさかきが萎れかけている。
令和の世、お竹伝説を知る者は、百人に一人、いや、千人に一人いるかないか。
それでもこうしてお参りし、供花する信者がいることに驚嘆してしまう。
民間信仰の根強さの一端をかいま見たような気分がする。