石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138 東京都北区の石造物-1a-赤羽西6丁目

2019-08-25 08:13:16 | 石造物巡り

2年前、同じ板橋区内の北東部に引っ越した。

写真のバス停は「赤羽西六丁目」。

私の住まいのすぐ横だから、板橋区内なのでちょっと違和感がある。

なぜなら、赤羽西は、北区の町名だからです。

バス停から50m先には区界があって、その向こうが「赤羽西」。

都心への利用交通は、これまで都営三田線か東上線だったのが、今は、「赤羽西六丁目」からバスで赤羽駅へ向かい、JRを利用することが多くなった。

石仏巡りを始めて12年、板橋区内は、全域を3回にわたって、見て歩いたが、北区は知らないところばかり。

これを機に、北区の石造物を見て歩くことに決めた。

北区には31の町があるので、町ごとに見てゆくことに。

まず最初は、赤羽西。

普通は、赤羽駅西口の1丁目から6丁目へと進むのだが、今回は逆に6丁目からスタートすることにする。

◇赤羽西6

 区界から250mほど東に進むと寺が二つ並んでいる。

▽日蓮宗・威徳山大恩寺(赤羽西6-15-19)

門前に仁王。

日蓮大菩薩塔もある。

境内に入ると目を引くのは、三十三観音群。

 

法華経普門品に説く仏の化身三十三身に基づく石仏群。

見慣れた観音さまをおわすが、殆どは、初めて知る名前。

みんな顔が優しくて、女性的。

平成8年の造立で、中国製とは寺の説明。

三十三観音の一番手前、ひときわ大きな石仏は「人動車観音」。

ここに車を止めて、車の供養をするのだという。

よく見ると、光背は車のハンドル、台座はタイヤ、台石には車のキーが彫りこんである。

ただし、人動車観音は、三十三観音ではない。

境内に「お墓参り十か条のすすめ」なる石碑が立っている。

珍しいので、書き写しておく。

1 正月・春彼岸・盆・秋彼岸にまいるべし
2 祥月命日はまいるべし
3 誕生日にもまいるべし
4 祝い事あればまいるべし
5 夢を見たらまいるべし
6 迷い起きればまいるべし
7 苦痛あらばまいるべし
8 嘆きあらばまいるべし
9 望み失わばまいるべし
10 近くにきたらばまいるべし

数多くの寺院を参拝したが、墓参り10か条は、初めて。

大恩寺の左隣は

▽浄土宗・獅子吼山専称院善徳寺(赤羽西6-15-21)

 

古い江戸の寺院らしく、皇居吹上→平川門外→日本橋馬喰町→台東区松葉町と移転をし、最後に、関東大震災後の区画整理で現在地に引っ越してきた。

山門を入る。

本堂に向かって左側に石造物がまとめられている。

取り上げるべきは、朱色の幟に囲まれた石仏だろう。

幟には「お竹如来」と書かれている。

「お竹」は、日本橋の武家馬籠家に奉公していた出羽荘内出身の下女。

信心深く慈悲深い彼女は朝晩の自分の食事を乞食に与え、自らは水盤のかどに網を置いてそこに溜まった残飯・切りくずなどを食べ、常に念仏を唱えたという。

生身の大日如来を拝みたいと出羽三山に通い続けていた山伏が、夢の中で「生身の私に会いたければ、日本橋のお竹を訪ねなさい」と告げられる。

探し回って、山伏が目にしたお竹は、全身から光明が射していたとか。

感激した山伏は、羽黒山に帰り、お竹大日如来を刻し、大日堂に安置する。

それだけてなく、宣伝を兼ねて江戸で何度も出開帳を行ったので、お竹伝説は物語に芝居にと取り上げられ、お竹は江戸の人気者になるのです。

あらためてお竹如来を見てみよう。

大日如来のはずが、どうみても如意輪観音像。

なぜこうしたことが起きたのか、どこにもその説明は見当たらない。

解説板が欲しい。

此処は、一番、北区教育委員会の出番ではなかろうか。

今朝供えられたものか、墓前にさかきが萎れかけている。

令和の世、お竹伝説を知る者は、百人に一人、いや、千人に一人いるかないか。

それでもこうしてお参りし、供花する信者がいることに驚嘆してしまう。

民間信仰の根強さの一端をかいま見たような気分がする。

 

 

 

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑-33-神田火災死亡者記念碑(湯島4-1-8麟祥院)

2019-08-18 07:55:58 | 石碑

 シリーズ「文京区の石碑」は、前回の「護国寺の石碑ー2-」で終わる予定でしたが、麒祥院の石碑を忘れてはいけないので、追加しておきます。

春日通りから幅広の参道が伸びている。

品格ある山門が全体の雰囲気を引き締めている。

麟称院の山門をくぐる。

静謐な空気が支配している。

正面の亀趺碑は、「麟称院建立由緒碑」。

「天沢山麟称院」は、三代将軍家光を育て、名君に仕上げた春日の局の菩提寺。

「一介の浪人の妻が縁あって幕府に仕え、功成り名を遂げたのは、天の恩沢の賜であり、幕府の恩恵に浴するところ」と感謝し、恩恵に報いるために自ら建立したのが、「報恩山天沢寺」。

それを「天沢山麟祥院」と改名を命じたのは家光。

「麟祥院」は、彼女の法名「麟祥院仁淵了義尼大姉」を寺号にしたもの。

彼女の墓は、風変わりだ。

台石とその上の無縫塔の四方に穴が開いている。

「死後も黄泉から天下の御政道が見通し得る墓を作ってほしい」と遺言にあったのだそうだ。

◇神田火災死亡者記念碑(麟称院内)

山門をくぐり、左へと参道を行った突き当りに3基の石碑が並んでいるが、その右端のひょろ長い自然石が「神田火災死亡者記念碑」。

その上部に「明治二五年/辰四月十日」と分かち書きしてある。

「明治25年4月10日、午前11時15分、神田猿楽町一番地ヨリ出火、前日来吹キ続ケル西北ノ烈風ニ煽ラレ、忽チニ同区表裏神保町、小川町一番地、錦町一丁目、ソノ他三河町二丁目、日本橋区本石町二丁目等ニ飛火シ、二十五ケ町四千百五十余戸ヲ全焼シテ鎮火ス。死者、二十五人ヲ出ス。」(東京市史稿)

火災の記念碑だが、ローカルな火災記念碑は極めて珍しい。

左隣、中央の石碑は「中華民国留学生發亥地震遭難〇魂碑」。

そして、その隣、左端の石碑は「大正大震災横死者之碑」。

そして、他に「東洋大学発祥之地」碑もある。

裏面に刻されている文面は

「明治二〇年(1887年)九月十六日、
 井上円了は民衆に教育の機会を開放し
 かつ哲学を中心とする教育を行うことを
 目的として、東洋大学の前身である哲学館を
 この地に創立した。
     昭和六十二年九月十六日
       東洋大学創立一〇〇周年記念建立」

 

 年明けとともにスタートした「文京区の石碑」リーズは、今回で終わり。次回からは、「東京都北区の石造物」です。

 

 

 

 


137文京区の石碑-32-護国寺の石碑(2)

2019-08-11 08:28:33 | 石碑

護国寺の石碑続編。

◇報国六烈士碑

太子堂前の石造物群の途中で、前回は終わった。

石碑でない石仏の身代わり地蔵や一言地蔵はパス。

 

その隣の「陰陽道先師留魂碑」は、日本陰陽会(現日本疫学連合会)が、昭和10年(1935)、建てた業界先人の慰霊碑。

本堂がある境内へ。

鐘楼と本堂の間、右側に4基の石碑が並んでいる。

3基は、とにかく大きい。

一番手前は、梔園小出翁碑。

歌人だそうだが、私はまったく知らない。

次に、「報国六烈士碑」。

日露戦争でロシア軍背後の交通、通信網破壊の命を帯びた6兵士の慰霊顕彰碑。

この碑は、明治41年に建てられたが、その後、同様な碑が各地に建立されているらしい。

その隣は、「棋聖宗員の碑」。

将棋の十一世名人、八代目伊藤宗員の顕彰碑。

左端の小碑は、「討薩之役東京警視第四方面第四分署警部巡査」とあり、西南戦争戦死者の慰霊碑。 明治13年(1880)に建立されたもの。

私は、昭和13年生まれだが、明治13年の出来事は、歴史的事件と受け止めている。

ということは、令和生まれの人たちにとって、昭和の出来事もまた、歴史的な出来事で、身近に感ずることはないんだろうな。

この4基の石碑の背後、つまり本堂に向かって右側と本堂裏側は墓域で、明治の立役者の

 墓が並んでいる。

           山形有朋

 

           田中光顕

          大隈重信

       松平不昧公

         三條実美

先ほども述懐したが、私にとっては教科書でみた人物ばかりです。

本堂裏にひときわ高い宝篋印塔があるが、これは「秩父三十四所総開帳供養塔」。

秩父札所の各寺が財政困難でひっ迫すると江戸での開帳を行った。

その開帳の場所は、護国寺と決まっていて、その恩恵を謝とする記念塔。

「秩父三十四所総開帳供養塔」の近くにある「西国三十三所写」は、もともとここにあったもの。

かつて本堂裏は今のように整備されておらず、山野のままだった。

その地形を利用して、西国観音札所の写しがあった、その入口石標。

本堂左側に移動する。

薬師堂前の植栽の中にあるのが、「象供養塔」。

建立主は、象牙組合というから、納得。

乱獲を助長して、今更「供養」しても始まらないとは思うけれど。

薬師堂と忠霊堂の狭い道を行くと出会うのが、巨大な庚申塔。

三猿が台座を支え合う斬新なデザインで、国の有形文化財に指定されている。

今回は、石碑がテーマなので、庚申塔にこれ以上深入りしないが、境内には、このほか3基の庚申塔がある。

巨大庚申塔の背後は、廃棄物集積場のようだが、その中にポツンと忘れられたかのように佇むのは「忠魂塚記念碑」。

日清戦争で故国のために戦い戦死した兵士の遺骨を収集、その霊を悼む記念碑。

石碑建立の前は、ここに小墳があったが「爾来三十有余年人之を知る者甚だ稀なるに至れり」供花を供える者など皆無になったことを憂いて、この「忠魂塚記念碑」が建てられたのは、大正15年(1927)だった。

それから90年近く、いまや廃棄物とさほど変わらない扱いのまま、存立している。

と、この「忠魂塚記念碑」の状態に拘るのは、この奥には旧日本陸軍墓地があって、日清、日露、満州事変、各戦争の戦死者合葬墓と慰霊碑がきちんと整備されているからです。

墓地中央正面にあるのは「音羽陸軍埋葬の地英霊の塔」。

英霊の塔由来碑もあるので、碑文を転載しておく。

 この地は戦前、明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍し、幾多の戦役等で身を挺して勇戦敢闘され、国に殉じた二千四百余柱の英霊を埋葬した墓地でしたが、戦後は護国寺が管理しています。本英霊之塔は昭和三十二年十一月、護国寺第五十一世岡本教海大僧正の建立によるもので、中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周囲に有縁墓地四十を配して現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となりました。毎年十一月には、その遺徳を偲び顕彰する慰霊祭が行われ、敬虔な感謝の誠が捧げられております。    平成七年十一月十一日              財団法人 日本郷友連盟東京都支部 

 個人墓も約30基ほどある。

大砲の弾を墓石にしたものもあって、いかにも陸軍墓地らしい。

墓地の一隅にある多宝塔は日清戦争戦死者の慰霊塔。

 

 

 

 

 


137 文京区の石碑ー31-(護国寺/大塚5-40)

2019-08-04 13:48:42 | 石碑

護国寺には、多数の石碑がある。

全部はとても無理なので、主だったものをいくつか紹介したい。

仁王門をくぐると正面に、長い石段とその上に不老門が見える。。

その石段の右手前の植栽に数基の石造物がある。

その中央にあるのが、

◇「からすの赤ちゃん」の碑

童謡「からすの赤ちゃん」を作詞・作曲した音羽ゆりかご会の海沼実の3回忌と音羽ゆりかご会創立40周年を記念して、造立されたもの。

楽譜を刻んだ黒御影に「からすの赤ちゃん」の歌詞一番だけがはめ込まれている。

からすの赤ちゃん
    海沼実 作詞
        作曲

からすの赤ちゃん なぜなくの

こけこっこの おばさんに

あかいおぼうし ほしいよ

あかいおくつも ほしいよ と

かあかあなくのね

「からすの赤ちゃん」碑の右手には、「音羽富士」の登り口があるが、その傍らに立つ「私立獣医学校発祥の地」碑は、日本獣医生命科学大学(旧日本獣医畜産大学)創立130年記念碑。

「からすの赤ちゃん」左の「民謡碑」は、江差追分と佐渡おけさを十八番とする民謡愛好家青木好月の顕彰碑。

アマチュアの顕彰碑とは珍しい。

 

 不老門へと上がる石段の左手高方に見えるのが、義海和尚咸恩碑。

Wikipediaによれば、護国寺住職から総本山長谷寺化主となった高僧という。

不老門をくぐり、右へ。

太子堂への道の左側は、石仏、石碑、石塔などが並んでいる。

針供養塚

筆供養塚

修験者3人の修行記念碑もある。

右から

富士登山五十五度
修行記念 手塚作〇
西国秩父坂東百観音

富士登山二十五度
修行記念先達 井上清吉
御嶽山 五度
羽黒山月山湯殿山

西国秩父坂東
修行記念 森田延太郎
百観世音

修行記念碑の向かいには「安倍仲麿碑」がある。

実業家で茶人の高橋箒庵氏が寄進したものという。

太子堂に向かって左の一段高い植え込みには、境内、墓域から集められた墓標石仏群が見られる。

今回は、石碑がターゲットなので石仏はスルーするが、下の2基は好きなので・・・