石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の句碑-26-太古の遺跡と動坂遺蹟

2019-06-30 09:03:17 | 石碑

◇太古の遺跡(徳源禅院 本駒込3-7-14)

太古の遺跡は、本駒込の徳源禅院にある。

 遺蹟が発見されたのは、明治26年(1893)、今から126年も前のこと。

動坂中腹にあった目赤不動改修の際、地下から多数の土器、石器塔が出土した。

これら出土品を「太古の」と時代判定をしたのは、東大人類学教室の坪井教授。

坪井氏は、アイヌ以前の日本の先住民はコロボックルだと考えていた。

そしてこの出土品をコロボックル遺蹟と判定、アイヌ以前の昔の「太古の遺跡」であると認定した。

石碑の表面には、上部に「太古の遺跡」と2行、下部右に「干明治二六年」とあり、

碑裏には

干時明治26年発巳8月中当所不動堂修繕之際、此所之地下、五・七尺之間において古代之土岐及び雷斧石(らいふせき)之類数品掘出得たり。大学人類学教授坪井正五郎君に鑑定を乞い、其日本最古の人類コロボックル時代の器具たるを知れり。コルボックルアイヌ人種の前にありて、今を去る三千有余年と云、真に考古学の要品と言うべし。因って此中の異品をえらみ、額面に製し、当不動堂及び浅香町南谷寺に安置の目赤不動堂前に収め、且つ坪井君の解説をも添えたり。探古の雅君に一覧をたまわらば拙が幸甚となす所なり。  明治28年乙未6月大吉祥  森田宝丹 謹書」と刻されている。

この「太古の遺跡」は動坂中腹から発掘されたもので、「動坂遺蹟1」とすると「動坂遺蹟2」に相当する遺跡が動坂公園内にある。

◇動坂遺蹟Ⅱ(都立駒込病院 本駒込3-18)

この動坂遺蹟Ⅱは、動坂遺蹟Ⅰ(太古の遺跡)発掘から82年後の、昭和50年(1975)、発掘された。

遺蹟は、二つの時代に分かれていて、一つは縄文時代の住居跡と貝塚、もう一つは、江戸時代の鷹匠御役屋敷跡である。

二つの遺跡については、東京都教育委員会の説明板があるので、転載しておく。

動坂貝塚
 昭和49年、都立駒込病院の改築の際、ここに貝塚が発見された。この貝塚は、縄文時代中期(約4500年前)に、竪穴住居跡の凹地に貝などが捨てられてできたもので、その規模は直径2m、深さ50cm程である。
 縄文時代には、動坂下の根津谷はかつての東京湾の小さな入江につながっていた。この貝塚に多いヤマトシジミはそこでとれたものであろう。このほか、貝類にはマガキ・ハマグリ・サルボウが、魚にはクロダイをはじめスズキ・アジ・イワシやコイなど、獣にはシカ・イノシシ・キツネなどが発見されている。土器や石器もかなり出土しており、当時の生活がうかがわれる。
 この碑は竪穴住居跡と貝塚の陀面の一部を示したもので、碑の下には住居跡と貝塚がそのまま保存されている。 昭和51年3月   動坂遺蹟調査会」

 

「東京都指定史跡 動坂遺蹟
      所在 文京区本駒込3丁目136内
      指定 昭和51年1月16日
縄文中期の集落跡と享保3年(1718)に置かれた鷹匠御役屋敷跡の複合遺跡。昭和49年8月に塔地点で貝塚が発見されたことから、公園全体の試掘調査を行い、50年には病院への道路とカフェテラスの範囲を発掘調査した。この調査で、縄文中期の住居跡が20余軒焼礫の集石跡などが検出された。幾つかの住居跡内には貝塚も存在した。また当時使われた土器や石器類も多量に出土した。
 鷹匠御役屋敷は明治維新で東京市に移管となり、明治12年に現病院の前身である駒込病院が設置された。本遺蹟からは鷹匠御役屋敷に関連する遺構、遺物も豊富に発掘されたが、現公園の地下には現状のまま保存されている。
     昭和52年3月31日 建設  東京都教育委員会

       

  


137 文京区の石碑-25-駒込土物店縁起(本駒込1-6-16 天栄寺)

2019-06-23 08:41:49 | 石碑

 東京はどこも変わった。

昔の面影のある場所はほとんどなくなってしまった。

そのほとんどは、人が増え、ビルが立ち並び、賑わいを増した場所ばかりだが、ここ本駒込駅界隈は、かつての賑わいがうそのように静まり返っている。

その賑わいは、やっちゃば(青物市場)があったからのもので、中山道と岩槻街道を結ぶ間道の辻にあったから「辻のやっちゃば」と呼ばれていた。

もともとは、江戸時代、近郷の村人たちが野菜を江戸の町へ運んできた時、この辻にあった大きなさいかちの木の下で、一休みしたのが、やっちゃばの発端だった。

明治になり、東京市の中央青物市場の一つとなり、1昭和12年(1937)、巣鴨に移転するまでこの場所で営業していた。

昭和なら写真があるかと探したが、見つからない。

上は「文京区ふるさと歴史館」の再現模型。

中央の木がさいかち。

その何代目かの子孫が天栄寺境内にある。

余りにも寒々しいので、別の場所の、かって人々に日陰を与えた巨木を想起させる写真を付けておきます。

 

◇駒込土物店縁起(本駒込1-6-16 天栄寺)

「辻のやっちゃば」は「駒込土物店」とも言われ、その縁起は、天栄寺境内の石碑に詳しく書かれている。

ちょっと長いが、転載しておきます。

 

駒込土産店縁起碑

この所は凡そ350年前の元和の頃から、駒込辻のやっちゃば、或いは駒込の土物店(だな)と呼ばれて神田、千住と共に江戸三大市場の一つとして昭和12年(1923)まで栄え続けた、旧駒込青果市場の跡である。その昔この辺一帯は百姓地で、この碑の近くに5つ抱え程のサイカチの木があって斉藤伊織という人がこの木の下に稲荷神を勧請して、千栽稲荷と唱えて仕え祀った。近隣のお百姓が毎朝下町へ青物を売りにゆく途すがら、この木の下で休憩するのを常とした。その時たまたま買人があるとその斉藤氏が売り買いの仲立ちをした。そのことが市場の始りであると天栄寺草創期に明らかにされている。その頃この所は仲仙道白山上から間道をもって岩槻街道に通じる辻で、御高札場や番屋それに火の見櫓などがあり、辻の要路であったので漸時西側の天栄寺門前、東側の高林寺門前から浅嘉町一帯にかけて青物を商う店が軒を並べ、他の商家と共にすこぶる繁昌したのである。とりわけこの市場は幕府の御用市場でもあった。明治10年(1877)府令にyって駒込青果市場組合という名称で組合が出来たが誰も市場などと呼ぶ者はなく、辻のやっちゃばとか、土物店と呼び親しんだものである。 土物店とは青物の多くが土の付いたままなのでそれに相応しくつけられた名称である。その後明治34年(1901)警視庁令によって青物取扱者だけ高林寺境内に移され営業を続けてきたが、大正12年(1923)の関東大震災の時には類焼を免れたので組合員と小売商とが相計り、数日にわたって義捐、慰問、焚出しなどして罹災者の救済に尽力した。このように、城北最大の市場として繁栄していたが、中央卸売市場法により、昭和12年(1923)3月25日現在の豊島区巣鴨にある豊島市場に収容されたのである。 遇ぐる太平洋戦争によって、旧駒込青果市場のあった界隈も戦火に遇って全く昔の面影さえとどめず、世人の記憶からも今や忘れられようとしているのを惜しむの余り、浅嘉町の方々と市場関係者ともども相図って、ゆかりのこの地におよその由来を碑に刻み、後世に残すものである。  昭和38年(1963)3月25日 題字 地又天栄寺     第22世 住職 道誉正真  出口鎌吉 撰文  寺門隆夫 書

 

やっちゃばは岩槻街道沿いに延びていたが、西端を天栄寺とすると東は高林寺前までだったと碑には書いてある。

 

 

その高林寺には、緒方洪庵の顕彰碑がある。

◇緒方洪庵顕彰碑(向丘2-37-5 高林寺)

 墓地中央に3基の石塔。

中央が、緒方洪庵の墓。

左は、八重夫人の墓。

そして右は、緒方洪庵顕彰碑。

蘭学者であり、蘭医てせあった緒方洪庵は、大阪に「適塾」を開き、多くの有能な人材を育てた。

大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉、佐野常民etc、逸材は枚挙にいとまがない。

適塾の入門希望者は来るもの拒まず、蘭医としては、貧富によって患者を差別することがなかったという。

顕彰碑は全文漢文で私には読めないが、資料には「いやしくも西書を読まんと欲する者あらば、即ち包容して拒むことなく、また、其所業何の為めなるかを問わざるなり。王政維新に至り、百事競って興り皆人材を待つ。当時、職司局を率いる者、則ち多く先生の門より出づるなり・・・」とある。

緒方洪庵の墓の左には、八重夫人の墓もあるが、この夫人の人間的魅力については、福沢諭吉が「私がお母さんのようにしている大恩人」と『福翁自伝』に述べるほどであった。

八重の葬儀には、2000人が列をなしたと言われている。

 

 

 


     
    

137 文京区の石碑-24-夏目漱石旧居跡碑(向ヶ丘2-20-7)

2019-06-16 08:25:20 | 石碑

 

天祖神社を出て、日本医大つつじ通りを西へ進む。

日本医大病院の角を右折すると左に「橘桜会館」の文字が見えてくる。

そこが「夏目漱石旧居跡」。

道路に面して、石碑が1基と文京区教委による説明板がある。

まずは、碑文から。

原文は縦書きです。

「夏目漱石は明治卅六年一月から帰り、三月三日
ここ千駄木町五十七番地に居を構えた。
前年二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅八年
一月「吾輩は猫である」「倫敦島」等を発表して忽ち
天下の注目を浴び、更に「猫」の続稿と竝行、卅九年初
から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して
作家漱石の名を不動にした。歳末廿七日西片町に移り、
翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。
千駄木町は漱石文学発祥の地である。
森鴎外も前にその家に住んでいた。家は近年保存のため
移築され、現在犬山市明治村にある。
               昭和四十六年三月三日

碑の右側面には「題字 川端康成書 碑文 鎌倉漱石会」とあり、


左側面には「日本医科大学及同大学同窓会/鎌倉漱石乃会他有志二百余名」と刻されている。

隣のビルとの境の塀上にネコがいる。

もちろんネコの置物だが、いかにも生きていて、ゆっくりと歩いているかのようで、目を奪われる。

「吾輩は猫である」のネコもこの家に迷い込んだものだった。

洒落た趣向がすばらしい。

漱石文学と家との関係は、碑文に過不足なく綴られているが、もう一枚、説明板が碑と隣り合わせに立っている。

文面は、碑文とほぼ同じで、新しい情報はなさそうだが、なぜ、わざわざ作られたのだろうか。

文化財に指定すると必ず説明板を設置する決まりがあるからだろうか。

 夏目漱石旧居跡(区指定史跡)
             日本医科大学同窓会館 文京区向ヶ丘2-20-7
 夏目漱石 本名・金之助。慶応3年ー大正5年(1867-1916)。小説家。この地に、漱石がイギリ
ス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住
んだ家があった。(家主は東大同期の斎藤阿具氏)
 当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の
筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、「猫の家」と呼ばれ親しまれた。
 この地で『倫敦島』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍分団に名を表し
た。漱石文学発祥の地である。

     明治村の夏目漱石邸

 漱石が住む13年程前の明示23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は
ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
 二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、
愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。
              文京区教育委員会  平成7年3月     

 


 


   

 

 

 

 


137 文京区の石碑-23-森鴎外詩碑(千駄木1-23-4)他

2019-06-09 10:54:44 | 石碑

 

団子坂を上る。

「団子坂上」の信号を左折、すぐ右手に見えるのが「文京区立森鴎外記念館」。

◇沙羅の木の詩碑(千駄木1-22 森鴎外記念館)

 

最初、通り過ぎてしまったのは、「区立」にしてはあまりに瀟洒な建物だったからです。

ここは森鴎外の住居跡だが、2階から東京湾が見られたということで「観潮楼」と名付けられたのだという。

今、道路際に立って、東の方を見ても、屋根とビルばかりで、とても海が見えるようには思えない。

観潮楼跡

森鴎外(1862-1922、医学博士、文学博士)は、明治25(1892)
年、30歳の時に駒込千駄木待ち21番地に居を構え、増築した2階
部分から東京湾が眺められたとされたことにより、観潮楼と名付
けた。
鴎外はこの地において半生を過ごし、『青年』、『雁』、『阿部一族』
『高瀬舟』、『渋江抽斎』など代表作を執筆した。その後、建物は
火災や戦災により消失したが「胸像」「銀杏の木」「門の石畳」
「三人冗語の石」は残り、当時の姿を偲ぶことができる。
戦後、文京区はこの地を児童遊園地として開放し、東京都指定史跡
の認定を受けた。さらに鴎外生誕100年に当たる昭和37(1962)年
に鴎外記念室を併設した文京区立鴎外記念本郷図書館を開館し、
平成24(2012)年に鴎外生誕150年を記念して、文京区立森鴎外記
念館を開館した。
森鴎外住居跡 千駄木1-23-4 東京都指定史跡

 入口を入り、壁ぞいに進むと突き当りの壁面に詩碑がはめ込まれている。

沙羅の木

褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり
ありとしも青葉がくれに
見えざりしさらの木の花

 森林太郎先生詩
  昭和廿五年六月  永井荷風書

 父鴎外森林太郎三十三回忌にあたり
 弟妹と計って供養のためこの碑を建つ
  昭和二十九年七月九日 嗣 於菟

 沙羅の木は、夏椿の別名で、記念館の木も6月、白い花をつけるということです。 

森鴎外はここ観潮楼で生涯を送った。

毎月催した観潮楼歌会には、佐々木信綱、与謝野鉄幹、伊藤佐千夫、北原白秋、吉井勇らが参加、上京したばかりの石川啄木も顔をだしたことがあるという。

団子坂を下り、最初の小路を左折して進むと小さな公園がある。

須藤公園。

◇入江為守歌碑(千駄木3-4須藤公園)

今世の中の話題の一つは、近づく元号改定と平成天皇の退位だが、平成天皇の誕生は昭和6年12月23日だった。

須藤公園の右奥の一画に奇妙な形をした自然石の石碑がある。

鶴が天に向かって一声鳴いているかのようだ。

それが皇太子誕生を祝う歌碑。

詠み人は入江為守。

子爵で東宮大夫、御歌所長を務めたという歌人です。

加しこくも親王(みこ)あれませり九重(ここのえ)の
       御そのの松に月の昇る頃
                 従二位為守」

碑裏には
「東京市聯合青年団本郷区林町分団ニテ
  皇太子殿下御降臨を慶祝シ奉リ
 御歌所長子爵入江為守閣下ニ和歌ヲ乞ヒ
 茲ニ碑ヲ建テル孫樹ヲ植シ以テ記念トス
     昭和十年二月十一日
        団長 子爵 大給近孝

歌碑の背後に大きな木の切り株がある。

これが記念樹のイチョウの木だったのだろうか。

「青年団」という文字を久しぶりに見た気がする。

終戦後ぱたりと見かけなくなったのは、軍事力補填組織として存在していたからです。

団子坂を上り、白山方向に進むと右側、ちょっと奥まった場所に小さな神社がある。

 「青年団」と同じように、戦後見かけなくった「忠魂碑」がここにはあります。

◇忠魂碑(千駄木5-6 天祖神社)

狭い境内に似合わず大きな石碑で2m近くある。

忠魂碑は戦死者を顕彰する碑。

碑裏には、発起人として、本郷区長、駒込警察署長、町会長などの「オエライさん」の名が並ぶ。

この碑が建てられたのは、昭和7年。

太平洋戦争初期の上海事件での戦死者の忠魂碑です。

まだ忠魂碑を建てる余裕があったことが見て取れる。

これ以降忠魂碑建設がぱったり途絶えるのは、戦死者が急増し、いちいち顕彰していられなくなったから。

 

 


137 文京区の句碑-22-根津神社境内の石碑

2019-06-02 08:21:12 | 石碑

根津神社には数多くの石造物があるが、今回は2基の石碑と若干の石造物を取り上げます。

◇つつじ苑の記

根津神社といえば、つつじ。

現在でも50種3000株のつつじが4月中旬から咲き始めるが、もともとは甲府宰相徳川綱重が自宅の庭に植えたのが始まりだった。

神橋を渡り、左折してつつじ苑入口を入ると、右に高い石碑が立っている。

つつじ苑の記
   当根津神社の社地は江戸時代もと甲府宰相徳川綱重の下屋敷であり当時よりつつじの名庭
   であった 没後五代将軍徳川綱吉は兄綱重の子綱豊を嗣子と定めた時その氏神たる当神社
   の御神恩に感謝しこの邸地に当時の名工をすぐって世に天下普請と称せられる壮大な造営
   を行い、今に残る華麗な社殿、神門などを奉建 宝永三年駒込の旧鎮座地より一品公辨親
   王司祭の下に遷座祭を斎行 神苑には更につつじを増植し 以来この地は「つつじが岡」
   と称せられ実に名勝であった 併し年処を経るに従い漸くその姿も衰え右の佛の亡び行く
   事を思い慨き十数年前より氏子一同献木の挙を興し昭和45年「文京つつじ会」を結んで花
   季には「つつじ祭」を催行 その充実と発展とに努め 今や樹数 数千 本 その種類 
   頗る多く 往時の「つつじが岡」に勝る盛観を見るに至った本年第十回つつじ祭開催に当
   り有志一同相謀り 記念に本碑を建立 その由来を後昆に伝える所以である
   昭和54年4月吉日  

 神橋方向へ戻り、楼門左の道を進むと疎水沿いに細長い丸みを帯びた石材が横たわっている。

境内案内図では、「文豪の石」とある。

明治時代、根津神社の近くに住んでいた森鴎外や夏目漱石が腰掛けた石というのだが、写真があるわけでもなく、眉唾伝説。

しかし、そのすぐそばの「噴水型水飲み場」が森鴎外の奉納品であるのは、間違いない。

「戦利砲弾奉納 陸軍軍医監 森林太郎」と側面に刻されている。

どうやら砲弾を展示する台石だったのを、「平和利用」したものらしい。

乙女稲荷神社の鳥居をくぐり、石段を上ると、

左右からの千本鳥居の切れ目に出る。

左からの千本鳥居の終点にあるのが「徳川家宣胞衣塚」。

「胞衣」と云って分かる人は少ないだろう。

説明板を転載しておきます。

徳川家宣胞衣塚
   六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある.
   この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)
   で、綱重の長子家宣は寛文二年(1662)四月五日ここで生まれた。
   胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大
   切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えら
   れる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋
   めるという所もあった。
   一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家
   康の胞衣塚がある。
   この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるな
   ど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
   塚正面には、明治14年に建てられた『胞衣塚碑』がある。また、家宣の産湯の井戸と伝え
   られるものが、社務所の庭にある。
   家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根
   津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
                 ─郷土愛をはぐくむ文化財─
                文京区教育委員会 昭和58年3月

そのまま右の千本鳥居を西口方向に進むと出たところにあるのが、庚申塔群。

群と云っても、6基の庚申塔を6面に張り合わせた石塔です。

他に塞大神碑もあるが、今回は石碑がメインなので、パス。