石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

126成田街道の石造物ー20-(成田市の2)

2017-02-11 06:41:27 | 街道

 (ご報告ーこれまで5日おきに、当ブログを更新してきましたが、住居移転の騒ぎで、落ち着いてパソコンに向かうこと能わず、しばらく更新をストップします。4月中、遅くとも5月には、再開する予定です。2017-02-16)

 

駅前広場から参道へと入る。

参道を歩き始めるとすぐ左にあるのが「大師堂」。

門柱に「安心立命」と大書してある。

新勝寺にも大師堂がある。

関係があるのかないのか、ネット検索してみたが、分からなかった。

玉垣(寺でも玉垣でいいのだろうか)がなんとなく味があって、いい。

大師堂の先、左に墓地があって、「南廟霊園」との表札がある。

入るとすぐ、弘法大師が2体座していて、その隣には六地蔵が、50cm前の塀に面して窮屈そうにお立ちになっていらっしゃる。

参道には、十二支の動物が一定間隔で置いてある。

新しい石造物で、ありきたりではあるが、「成田街道の石造物」と題してのブログだから、一応全部載せておきます。(重複するものは、カット)

今気づいたのだが、ウマがいない。

撮り忘れたのだろう。

十二支の傍らには、石のベンチ。

参拝観光客への配慮がうれしい。

やがて、道が二股に分かれて、参道は右の坂を下りてゆくのだが、その角左手にあるのが、薬師堂。

建物は、初代の新勝寺本堂。

お大師さまに交じって、如意輪観音が1基おわす。

江戸時代、ここ薬師堂前に高札場があって、いつも人だかりがしていた。

薬師堂の、参道を挟んで、向こうに立つのは、俳人三橋鷹女の銅像。

和服の小柄な女性が、きりりと立っている。

自筆の句碑はざらだが、出生地に立つ俳人の銅像は珍しいのではないか。

傍らの解説版に紹介されている代表作は、次の3句。

「夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり」
「白露や 死んでゆく日も 帯しめて」
「口中一顆の雹を啄み 火の鳥や」

急坂の「表参道開運通り」を下る。

昼食にウナギをと「近江屋」を覗くも満員なようなので、隣の「菊屋」へ。

うな重3800円なり。

成田山新勝寺に到着。

昔の江戸の人たちが、1泊二日で歩いて到着した行程を、なんと10回に分けて、その都度、板橋の自宅に帰り、出直すことを繰り返してやっとたどり着いた。

壮大な総門をくぐり、常夜灯が並ぶ参道を通り、仁王門へ。

さらに本堂を正面に見る境内までは、石段を上らなければならないが、その石段の両側にも無数の石造物が重なり合っている。

だが、取り上げない。

寺域内の石造物は、項を改めて、掲載するつもり。。

ただ、一点、石造物でもないのだが、注目しておきたい彫刻がある。

それは、釈迦堂裏の五百羅漢のうちの「らごら」像。

釈迦堂は、新勝寺の本堂だった建物。

建物後ろ側の回廊に、仏師松本良山が10年の歳月を要して刻した五百羅漢がござる。

目の高さより高い位置にあって、しかも目の細かい金網で全体が覆われているので、見にくいこと、この上ないのは、残念。

当然、撮影もしにくく、金網にレンズをくっつけて、フアインダーを覗かずに適当にシャッターをおす。

そうした撮影したのが、下の「らごら像」。

らごら尊師は、釈尊の長男。

十大弟子でも、十六羅漢でもあり、五百羅漢でもある珍しい羅漢だが、胸を開いてその中から仏が顔を出すスタイルは異彩を放っている。

フアインダーを覗けなかったので、顔の一部が欠けているが、ご愛敬というものだろう。

新勝寺に参拝に行ったときは、ぜひ、釈迦堂五百羅漢に「らごら像」を探してみてください。

 


126 成田街道の石造物(19)-成田市-

2017-02-06 07:09:47 | 街道

成田市に入って最初の目的地は、「不動塚」。

「公津の杜入口」の次の信号でR51と別れ、旧道は右へと分岐する。

次にR409と合流し、坂を下り、上ったところが並木坂上。

松並木が美しい坂だったのだろうが、その面影は、今は、皆無。

並木坂上を右折、300m程行くと、JR線にぶつかるのだが、不動塚はその曲がり角にある。

境内全体が工事中で、古い樹木は全部伐採されている。

丸裸のまま日差しに照らされて、宗教施設の厳かさはどこにもない。

不動塚の表札を付けた小屋がある。

ここが成田山新勝寺の不動明王が最初に鎮座した場所と言われている。

それを証するかのように「成田山旧蹟 不動塚之碑」がある。

十九夜塔の小堂の中には子安観音が、

そして工事のためだろうか、二十三夜塔の勢至菩薩が野ざらしのまま、まぶしそうに目を細めている。

 並木坂上まで戻って、北進。

R51と交差してさらにまっすぐ進む。

ここからは県道になる。

垣根が手入れされて美しい。

この辺り歩道が狭いうえに、下は下水が流れているのだが、その下水の蓋が滑らかなコンクリートで、実に歩きやすい。

通りの名前は「一本松通」。

まもなくその「一本松跡」の石碑がある三叉路に出る。

その名の通り、松並木のうちの1本だけが昭和51年まで残っていたのだそうだ。

今は、人の背くらいの小さな松が植えられている。

昔と同じ景色になるには、あと何年かかるのだろう。

聞くところによれば、往時、成田山参道の旅籠屋の客引きは、ここまで出張っていたという。

「一本松跡」の石碑の隣に立つのは、馬頭観音。

道標を兼ねていて「宗吾堂道」と刻されている(らしい)。

一本松通りを進む。

JRの踏切を過ぎ、

京成の高架橋を渡った左が不動が岡の不動尊旧蹟。

安政5年(1858)、新勝寺の本堂が完成、本尊不動明王が、先ほど寄った不動塚から移されることになったが、あまりにも距離が遠いということで、この地に仮の安置所を造り、入仏供養の行列はここから新勝寺へと向かったという。

右の覆屋には、4体の弘法大師。

境内には、「奉納永代護摩木山」の石塔が2基おわす。

「不動ヶ岡」という地名、弘法大師像や護摩木山碑、成田街道ならではの事物であり、成田山新勝寺が近づいていることを感じさせる。

成田街道は尾根筋を走り、右に京成、

左にJRを見下ろす形で進む。

急に行きかう人の数も多くなり、駅前に差し掛かったことが分かる。

駅前に着いたら、権現山に寄ってみよう。

権現山は、JR成田駅に向かって右、交番の後ろ、高い木が一本見える場所。

境内には、多数の石造物がひしめいて、石造物おたくには、たまらない場所でしょう。

成田の夏祭り「祇園祭」は、元々、この湯殿山権現社の祭でした。

湯殿山権現社の御祭神は、牛頭天王。

牛頭天王といえば、京都・八坂神社、八坂神社といえば、祇園祭、だから、成田の祭は祇園祭というのです。

権現山に入ると右にずらっと弘法大師座像。

「御膳料」や「護摩木山」の巨碑が何基も目に付く。

見上げるような宝篋印塔の台石には、びっしりと講中の名前が刻み込まれている。

巨大な石塔に交じって、小型の石仏もあって、ほっとする。

馬頭観音像は、なかなか素敵な像容。

文字青面金剛もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物(18)ー酒々井町の2ー

2017-02-01 05:17:08 | 街道

これから後は、旧成田街道の道標の写真が続く。

ネタ元は「酒々井町の街道と道しるべ」。

https://www.town.shisui.chiba.jp/static/chunk0001/road_and_guidepost/index.html

市内39か所の道標を写真と地図、解説つきでまとめてある。

私は、この資料をなぞっただけなので、詳細はwebをご覧ください。

次の道標は、「ニ王ミち」から200mほど先の突き当りに。

ミラーの下に黒ずんであるのが、それ。

正面に2行「成田佐原道/宗吾安喰道」とある。

側面の「酒々井停車場」の「停車場」が懐かしい。

「停車場」ではなく「駅」を使うようになったのは、いつの頃からだろうか。

「さて、次はどこだろう」と右手を見たらすぐ先にそれらしい石柱が見える。

成田街道だったとは思えない幅の狭い、変哲のないつまらない道のカーブに道標はある。

10m背後は、R51。

行きかう車の音がうるさい。

道標は2行「佐倉千葉道/成田佐原道」。

背面には「七栄三里塚」とある。

「三里塚」とは、懐かしい。

なんでも「反対」ばかりの時代にあって、「三里塚」は反対闘争の先鋭的舞台の一つだった。

次の道標は不動尊が座して、「江戸時代の信仰、交通、彫刻、書体等の良き参考になる優品」として、町の指定文化財でもあるというので、探したが見つからない。

現地へ行って分かったことは、一山全体が住宅団地として開発されていること。

新しい入居者に道標を訊いてもわからないだろうと思い、地元の農家を訪ねて訊くのだが、反応は芳しくない。

「見たことがない」という返事ばかり。

諦めて帰って、ネットで調べたら、団地の公園のなかにあるのだそうだ。

この不動尊道標前の道を行きたかったが、分からないのでR51へ出て左折、最初の信号を右折する。

この信号の下にも道標がある。

電柱にもたれるように寄りかかり、電柱の陰で目立たない。

目立たない道標は困りものだが、碑文が読みづらいので、存在感があっても、無益だろう。

辛うじて「奉納仁王尊 さくら道」と読める。

今や、こうした道標を頼りに成田街道を歩く人はいなくなって、道標は石の廃棄物となった。

廃棄物と等しいものをこうして訪ね歩くことに何の意義があるのかと、自虐的に自問したりする。

この「大崎坂下道標」を右折して入る成田街道旧道が最も昔の雰囲気を保っている。

両側竹林のうす暗い坂道は「大坂」。

大阪に入る手前に、これも捨てられたような道標が横たわっている。

 正面に「成田山 信集構社内 岩田長兵衛」。

岩田長兵衛が成田街道に建てた5基の道標のうちの1基。

眼前には、初冬の下総がのんびりと広がって、背後の国道51号の騒音もここには、届いてこない。

急坂の途中に石段があり、見上げる高さに小堂がある。

小堂は観音堂のようで、馬頭観音が数基立っている。

みんな明治期に造立されたもので、中に2基「馬車連」の文字がある。

乗り合い馬車もさすがにこの坂はきつかったのだろう。

鼻息荒く踏ん張って上った馬を偲んで、わざわざこの地に供養塔を立てた男たちの優しい心が、ここには満ちている。

倒れたまま、半分土に埋もれた石碑があり、資料では、これが 「句碑道標」だとしている。

句碑と云っても「ああ楽ケりな」と読めるだけで、あとは土の下。

上部に「成田山へ一里二十三町」とあるから道標だったと分かるが、もちろん、今では無用の長物、土に還るのを待つばかりです。

坂を上ると国道51号と再び接する。

フエンスの向こうは、国道51号。信号で左折すると宗吾道に入る。右が旧街道。オレンジの看板から松並木が始まっていた。

その接点に石柱と木柱が立っている。

石柱は「宗吾道」と大書した道標。

木柱は「千葉県指定 成田道伊篠松並木」とある。

ここから国道51号線に寄り添うように走る旧街道は、かつては見事な松並木だった。

その松並木の入口を示す標柱なのだが、肝心の松は一本も見られない。

県の指定を受けた昭和43年には、江戸時代からの美観を誇っていた松並木だったが、昭和50年代に、松くい虫の被害で枯れ始め、県指定が町指定になり、ついには1本残らず全滅、町の指定も解除されるという悲惨な運びとなった。

全盛期の松並木街道の写真を、と探したが、酒々井町のHPで1枚見つけたのみ。

それでも街道をゆくと小柄な松が1,2本あるにはある。

道の両側にあれば、往時をしのぶによすがになるのに。

道の左の藪の中に石造物かある。

自然石に「成田山永代護摩木山 新榮講 板橋組」と刻されている。

護摩木山というのは、成田山で護摩を焚くのに使う木材を切り出す山林を指し、講集団が買い占め、奉納するのだという。

成田街道沿いに十数か所の護摩木山があるのだそうだ。

道標も2本。

1本は、3面に道案内がある。

正面は「東 成田山/宗吾社道」。

左面は「左 しすゐ/停車場道」。

右面は「西 酒々井/さくら道」。

裏面に「元禄元年起立丸万講/明治三十二年三月建立」とある。

もう1本の背の高い方は正面に「成田山」とあるのみ。

ただ下部に小さく「是より壱里余」とあるので、ここより先のどこかにあったものと思われる。

写真を撮るのに藪を漕いで近寄った。

初冬だから安心して入っていったが、夏だったら蛇が怖くて、とても近づけないだろう。

松のない松並木を進む。

やがてR51と合流するのだが、

その合流地点に「成田街道伊篠の松並木」の石碑がある。

R51と合流して50mも行かないで、今度は左へ分かれて入る。

電柱と舗装を除けば、江戸時代にそのままタイムワープできるそんな雰囲気。

街道脇のお地蔵さんにも同じことが言えそうだが、こちらは、排除しなければならない「現代的」なものが多すぎる。

私が気になるのは、田んぼの一枚の広さ。

昔はこんなに広い田んぼはなかった。

そして、また、R51と合流するのだが、旧道のカーブの仕方がなんともいえず、味があって、こたえられない。

51号の歩道を進むとまもなく、「成田市」の標識が見えてくる。

通り過ぎて振り返り、「酒々井町」の標識を探すが、なぜか、ない。

やっと成田市に入った。

ゴールは、近い。

次回、更新日は、2月6日です。