石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

83 佐渡に残る「足尾山」塔(2)

2014-07-16 07:09:30 | 民間信仰

前回は、佐渡に残る「足尾山」塔を8基紹介しました。

紹介したのは、「足尾山」塔が珍しいからです。

関東や東北に、あるにはあるが、ごく少数。

佐渡ほど「密集」してはいません。

その訳は追い追い考えることにして、今回は足尾神社の由来と現状をまず紹介します。

私が足尾神社へ参拝したのは、去年の12月半ば。

新潟県立博物館の企画展「石仏の力」で、佐渡の「足尾山」塔を初めて知った1か月後のことでした。(このブログNO69をご覧ください。)

 

足尾山は、筑波山と加波山の中間にある標高628mの山。

 

石岡から真壁へ抜ける峠道の頂上、上曽峠で右折、山なみの尾根を北進します。

途中、ハングライダーやパラグライダーの離陸場があって、雰囲気は超モダン。

そのパラグライダー離陸場の先のこんもりした山が足尾山。

足尾神社は、この山にあります。

低い一の鳥居をくぐって、参道を登る。

落ち葉の絨毯を踏みしめて上ること5-6分、二の鳥居が見えてきます。

 

広い、ガランとした境内の先にコンクリートブロック。

本殿の基礎だけを残して、建築木材はすべて撤去されています。

 

残骸が侘しさを増福しているようです。

残骸の中央に小さな祠、本殿が再建されるまでの仮宮でしょうか。

天狗のレリーフは、足尾山が修験者の道場だったことを物語っています。

 

足尾神社の祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)の三柱。

創建年代は不明ですが、言い伝えでは、延喜20年(920)、醍醐天皇が霊夢の中でここの神に御足痛の治癒を祈願したところ、たちまち全快されたとのこと。

お喜びになられた天皇は、紙に御足形を印し、「日本最初足尾神社」と書いた勅額を下賜されました。

この時から、足形のお札の頒布が始まり、足の病に悩む崇敬者の参詣が急増します。

全快した信者が、草履やわらじなどの履物を奉納する風習も同時に始まりました。

がらんとした境内の一画がこんもり盛り上がっているのは、奉納された履物の山。

靴やスニーカー、下駄に混じって義足もあります。

 

足尾神社の分社は、茨城県に3、栃木県2、千葉県3、宮城県3、福島県3、山梨県、岡山県、鳥取県に各1、計17社。

境内社は71社を数えるから少なくはないが、分社、境内社とも全体的に活動は停滞的。

足尾山信仰は廃れたと云っても過言ではないでしょう。

石塔数の分布を足尾神社の宮司に尋ねたが、確認していないとのこと。

石仏、石碑の悉皆調査報告書を出している関東の10市町村をチェックしてみたが、「足尾山」塔があるのは、取手市のみでした。

東京23区には、多分、1基もないと思われます。

それだけに遠く離れた佐渡島に数十基もあるというのは、不思議なことと言わざるをえません。

 

足尾神社の由来に続いて、赤泊・徳和の「足尾山大権現」から、佐渡の「足尾山」塔の紹介の続きを始めるのは、手順として正しいように思えます。

なぜなら、「足尾山大権現」は、佐渡で一番古く、一番大きな「足尾山」塔で、足尾山信仰はここから島内に広まったと考えられているからです。

赤泊の海岸から、坂道を紆余曲折しながら上り、途中、2回ほど「足尾山大権現」への行き方を尋ねました。

村人の反応が、他所の村とは違うのです。

「足尾山だったらのう、そこを右へ曲がって・・・」と即答する言葉の中に、「足尾山」塔が村の中心であるかのような、誇らしさが滲んでいました。

その「足尾山大権現」塔は、瓜生の四辻に、道行く人を見下ろすように一際高く立っています。

塔の高さ2m20㎝。

「足尾山大権現」の文字の上に「日本最初」が二文字2列に彫られているのが、珍しい。

碑の右に、「天保九戌年」、左に「九月二十日」、さらにその下、右に「願主」、左に「甚五良父」とある。

「足尾山大権現」塔の右は廻国塔、左は巡礼塔だから村人が本州各地へ足を延ばしていることが分かる。

石塔群の後ろは広い空き地で、その一角にお堂がある。

扁額には「足尾山大権現」の文字。

お堂ではなく、ここは足尾山神社だったのです。

正面の床の間の上に注連縄。

3幅の掛け軸の下に小さな社殿が在す。

掛け軸と足尾神社との関わりについては、不明。

長押には、わらじやぞうりが懸けられているので、ここが足尾神社であることが分かります。

わらじは古くはないので、ここでは足尾山信仰がかろうじて生きているようです。

神社のことを訊きたいと思い、いちばん近い家へ。

なんと臼杵さんというその家が、「足尾山大権現」塔の願主・長五良父の子孫でした。

説明してくれた70代前半と見えるご婦人は、しかし、いきさつについてはほとんど何も知らないようでした。

「昔は足が痛いからとお参りに来る人が多かったが、いまでは、杖をついて足を引きずりながら前を通っても、神社にお参りすることはなくなった。昔に比べればほんのわずかだが、奉納の草履は1年も経つと溜まってしまう。だから希望者に分けて履いてもらっている。先祖がどういうわけで足尾神社を持ち込んだのか、そういうことは役場で聞いてくれれば分かると思う」。

調べたら、あった。

『徳和の口碑・伝説その他』(昭和45年、徳和老人クラブ千歳会発行)

それによれば「臼杵甚五良は足が痛くて困っていた。天保年間、一念発起、六十六部廻国巡礼の旅に出た甚五良は、下野(栃木県)足尾の足尾山権現に参詣した。するとあれだけ苦しんでいた足の痛みがなくなった。足尾山権現の霊厳あらたかに驚いた彼は、御霊を勧請して自宅に奉祀、同時に台座を含めると3mの大石塔も造塔した。この信仰は、小佐渡から国仲へ広がり、最盛期の明治から大正にかけては、島内一円から多くの参詣者が訪れた。人間だけでなく、馬の脚にも効くということで、馬を引いての参詣者もあった」。

この口伝には、間違いがある。

それは、足尾山権現の場所を下野(しもつけ)としていること。

常陸(ひたち)が正しい。

その根拠は、石塔の「日本最初」の4文字。

足尾山神社の由来で紹介したように、この「日本最初」は、醍醐天皇から下賜された勅額に書かれたものでした。

「日本最初」とあれば、常陸の足尾神社を指すことは明白なことなのです。

 

瓜生から65号・真野-赤泊線へ。

上り続けた道が下りになったと思うと開けた地平に出る。

そこが下川茂。

郵便局があり、JAがあり、学校がある。(今は廃校)

学校の前を左に入ると、すぐ「勝泉寺」。

9、勝泉寺(下川茂)

ぽつんと本堂があるだけで、墓地もない。

無住のようです。

もしかしたら、元勝泉寺なのか。

参道入口とおぼしき所に、お地蔵さんに対面して、「足尾山」塔があります。

珍しい配置だ。

「足尾大神」と刻されている。

 

昭和4年の造立は、佐渡で一番新しい部類に入ります。

「足尾大神」の背後に、「ねまり遍路」の石仏が2列に並んでいる。

「ねまる」は「座る」の佐渡ことば。

この石仏群は、四国八十八ケ所の本尊模刻。

この前に座って御詠歌と般若心経を唱えれば、四国を遍路したと同じご利益があると信じられてきました。

佐渡には、こうした「ねまり遍路」が十数か所あります。

石仏ビギナーの頃、離島佐渡ならではの趣向といたく感動したものでした。

その後、全国至る所にあることを知り、がっかりしたものです。

 

下川茂を左折、羽茂へと向かう。

羽茂川沿いのこの道は佐渡らしからぬ、ゆったりとした渓谷美の道。

五所神社を過ぎると次の目的の「足尾山」塔があるはずだが、見つからない。

人に聞いては、行きつ戻りつ。

と、書けば簡単だが、人がいないのだから、訊くだけでも一苦労。

今回の「足尾山塔めぐり」で探しにくさのNO1か。

10、路傍(下川茂)

路傍は路傍でも、県道から入った山道の路傍でした。

人通りは皆無だが、「足尾山」塔があるということは、かつては馬が往来していたのだろう。

草が深くて、文字が読めない。

祝資料には「足尾大明神」と書いてあります。

「足尾大明神」は佐渡に3基あるが、なぜ、大明神なのかは不明。

 

滝平の地蔵院は、私の好きな寺の一つ。

本堂への石段両脇の石柱に地蔵と観音が座す。

その左手の石仏群のなかの、三猿庚申塔が素晴らしい。

上に相輪が聳える石組みの覆い屋の中に浮彫の三猿が在す。

浮彫というよりは、丸彫りに近い。

上に「見ざる」、下に「聞かざる」と「言わざる」。

庚申塔の文字はなく、猿のみ。

おだやかで、とぼけている。

数多くの庚申塔を見てきたが、ダントツのNO1は間違いない、私的には。

11、地蔵院前(滝平)

 肝心の「足尾山」塔は県道から地蔵院への道の途中、8基の石造物群に混じって立っている。

自然石に「足尾大権現」。

「足尾大神」、「足尾大明神」そして「足尾大権現」。

足尾山の神様は、自分の本当の名前は何だろう、といぶかっていることだろう。 

 

12、地蔵堂(飯岡、渡津神社前)

 朱い鳥居は、佐渡国一宮、式内社の渡津神社の一の鳥居。

渓谷を流れてきた羽茂川は、ここから田園風景の中を行く。

その羽茂川にかかる朱色の橋を渡った左にお堂がある。(写真は堂から見た鳥居)

明るい陽光に照らされながらも、お堂には何か不気味さが漂っています。

その傍らにごちゃごちゃと石造物群。

小さな地蔵は、みな、首がない。

不気味さの元は、この首なし地蔵が発しているのだろうか。

一番上の石塔は、ばっさりと斜めに断ち切られています。

白い苔が全体を覆って、文字は読めない。

祝資料には「一神」とある。

切られた上の部分の石には「足」と刻されているとあるので、探してみたが、見つからない。

地震で倒れて割れた、というよりも人為的に切った感じが強い。

首なし地蔵とともに廃仏毀釈の洗礼を受けたものか。

佐渡一宮渡津神社の真ん前だけに、そんな空想に囚われたりもします。

 

羽茂の町を通り抜け、南下して、羽茂海岸へ。

海に出たら左折、赤泊方向へ向かう。

13、羽黒神社(赤名)

赤名の集落はずれに羽黒神社。

鳥居の右側に「秋葉山」や庚申塔と並んで「足尾山」塔がある。

よく見ると、足尾の「お」が変だ。

これでは6画になってしまう。

それとも、こういう字もあるのだろうか。

 

14、白山神社(杉ノ浦)

更に東へ。

三つめのバス停が杉ノ浦。

ここの白山神社にも「足尾山」塔がある。

境内から右へ入った空き地に大振りの石造物群。

ちょっと判読しにくいが、「足尾山」と刻されています。

真ん中で折れて、接着したような跡がみえます。

次のバス停「新保」近くにも「足尾山」塔があると記載されているのだが、近くを探し回るも見当たらず。

諦めた。

祝資料にあって、見当たらない「足尾山」塔は3基。

約25年間の変化としては、少ないのではないか。

赤泊を出て下川茂、渡津線を西へ、羽茂の町から海岸へ出て、再び赤泊へ。

ぐるっと一周して、6基の「足尾山」塔に出会ったことになる。

今度は方向転換して、一気に羽茂を通り過ぎて国道350号線(小木線)の村山へ。

ここから真野まで、「足尾山」塔を探しつつ、北上する予定。

今回で全部紹介したいので、内容をコンパクトにすることに。

15、神明社(下村山)

 つる草が巻き付いて文字が読めない。

むしりとる。

 

足尾神社がある足尾山は、修験の山としても有名でした。

だから、「足尾大権現」は足尾山で山岳修業した行者が佐渡に持ち込んだのではないか、と推測する向きもあるようです。

16、堂(下村山)

 国道に面したお堂だが、さびれ果てている。

六地蔵や光明真言塔と一緒に「足尾神」塔はある。

「捨てられたようにある」といった方がいいかもしれない。

17、路傍(小泊大草道四辻)

 道が交差する茂みの中の個人墓の脇に「足尾神」はある。

「足尾神」を祝さんは「アシオガミ」と 読みを振っています。

ところで倉谷の大わらじは、司馬遼太郎の『街道をゆく』でも取り上げられて有名だが、西三川一帯ではどこでも村境にわらじがかかっています。

よく見てほしい。

木陰の暗がりにわらじが見える。

賽の神の一種だろうが、平成の現代にもこうした習わしが継続されていることが嬉しい。

 18、玉泉寺(椿尾)

 ゲートボールの賑やかな集まりから出てきた人に「玉泉寺はどこ?」。

「知らない。あっちで聞いて」とゲートボール場を指す。

そっちに向かおうとして石柱を何気なく見たら「玉泉寺」の文字。

玉泉寺跡が公園になっているのです。

道路に面して石造物群。

椿尾は石工の村だから、当然、全部、椿尾製ということになります。

その右端に「足尾大権現」。

明治23年の造立だ。

 

椿尾の石切り場を見たくて、どんどん坂を上ってゆく。

坂ばかりで平らなところが少ない。

石を切り出し、彫って、売りに出す。

生産、販売工程が坂を下るようになっているから、石工の村は成り立ってきた。

むしろ坂を利用してきたといっていいのかもしれない。

普通ならとても住みにくい場所なのです。

19、路傍(椿尾・最奥の家の後ろ)

村のどんづまり、そこから石切り場の山へ入る一番上の家の生垣の隅にひょろ長い庚申塔が見えた。

 

写真を撮るべく近づいたら、右端に「足尾山」塔があるのに気付いた。

稚拙な文字で「足尾大権現」。

右に「明治二十二年」、左に「二月十日」と刻されています。

 

20、諏訪神社(田切須)

 諏訪神社は、バス停の真裏にある。

「閑寂」、「寂然」、「落莫」、「蕭然」、「寂寥」・・・どの言葉を使っても、ぴったりするような佇まいなのです。

鳥居と燈籠の間に「足尾大神」(アシオオオカミ)は在します。

足の病を治してほしいと最後の人が手を合わせてから、何十年経ったのだろうか。

今や、ここに「足尾山」塔があることを知る人はいないのてはないか、そんな感慨を抱かせるほど、孤立した侘しさに満ちています。

21、大神宮(真野・新町)

 旧真野町に入る。

旧役場横の大神宮に「足尾山」塔がある。

隷書体で「足尾山神社」。

祝資料には、人力車夫の組合による造立と書いてある。

スジの通った話で、「なるほど」。

22、観音堂(浜中)

観音堂の前にポツンと「足尾山」塔。

4月17日に真言を繰り、7月17日 祭礼と祝資料の備考欄に書いてある。

おそらく今では、行われていないだろう。

23、上の堂(吉岡) 

 無類のヘビ嫌い。

上の堂へは行ったが、「足尾山」塔に近づけない。

 フキの葉の下にヘビがいるようで、足がすくむ。

やっとの思いで近寄って見たら、つる草が巻き付いて「足」しかみえない。

力任せに引っぺがす。

 

 今回巡った「足尾山」塔の中で、「ほったらかし度」NO1か。

 

 24、地蔵堂(吉岡)

石造物群の背後に田植えが終わったばかりの田んぼ。

その奥に竹林と杉林。

どことなく、悠然とした景色は、国分寺が近いせいか。

一番高い石塔は「秋葉山」塔。

佐渡には192基もある。

「秋葉山」塔のおかげで火災を免れたという話は聞かないが、ご利益はあるのだろうか。

「秋葉山」塔の隣に「足尾山」塔。

石塔の大きさで祈願の度合いを計るならば、足痛よりも防火ということになる。

 25、二宮神社(二宮

「足尾山」塔を探して、小佐渡を走り回った。

これで終わりかな、と思ったが、大佐渡側の二宮にもあるのだという。

「二宮神社」は、本線から、かなり、大佐渡山脈の山懐に入った場所にありました。

「足尾山大神」は、桜の枝の下、木陰の暗闇の中にあった。

右が「足尾大神」、左は「猿田彦大神」。

大神が並んで、にらみをきかせている。

26、村上神社(真光寺)

「二宮神社」からさらに山の方へ。

いつの間にか真光寺に入って、村上神社を探す。

何もない境内にポツンと「足尾山大神」。

なぜ、この石塔だけがあるのか、その訳をしりたいものだ。

27、稲葉堂(西二宮)

 西二宮という場所は、佐渡高校のすぐ後ろだった。

すぐ後ろだが、高校在学中、こっちへ来たことがないから、初めて足を踏み入れることになります。

稲葉堂はガランとした広い空地で石塔群がなければ、お堂とはわからない。

並んでいる5基の右端が「足尾山大権現」。

ここにも「ねまり遍路」がある。

石仏それ自体は、比較的新しいもののようだ。

ひび割れもなく、苔もはえていない。

問題は、この前に「ねまる」信者がいないことです。

レゾンデートルなき石仏が辿るのは、廃棄物への道。

 

以上、佐渡に残る「足尾山」塔27基を紹介しました。

勿論、これで全部ではありません。

日程の都合で探すのを諦めざるを得なかったもの、探しても見つけることができなかったものがあります。

以下、そのリスト。

◇「足尾山」ー阿弥陀堂(真野・阿仏房)

◇「足尾子山」-路傍(真野・小川内上坂道脇)

◇「□尾山」ー路傍(真野・三滝不動入口)

◇「足尾大神」-路傍(真野・金山笹川)

◇「足尾大神」-玉泉寺(椿尾)

◇「足尾山」-路傍(小泊旧道奥じょう)

◇「足尾山」-岩屋山(宿根木)

◇「足尾山」-大聖院(堂谷)

◇「足尾山」-集会所(上新谷)

◇「足尾山神社」-路傍(新谷山道脇)

◇「足尾山」-センター(柿野浦)

◇「足尾大明神」-北山神社(牛野尾)

佐渡へ行く機会があったら、このうちいくつかでも、写真を撮るつもりでいます。

 

 

 

 

 


82 佐渡に残る「足尾山」塔(1)

2014-07-01 05:38:52 | 民間信仰

77歳になった。

ただし、数えで。

喜寿を祝う中学校の同期会出席のため佐渡に渡った。

同期会のほか、目的が二つ。

一つは、6月最初の土日夜に行われる、相川の「宵乃舞」を観ること。

相川の、昔ながらの古い街並みを、いくつもの踊連が相川音頭を流し下る。

灯りといえば、提灯のみ。

全体像は闇に沈んで、音曲だけが通り過ぎる。(写真は最も明るい場所での撮影。実際はもっと暗い)

情緒たっぷりの、新しい佐渡の風物詩だった。

 

もう一つは、「足尾山」塔めぐり。

去年、新潟県立博物館の企画展「石仏の力」で足形石造物を初めて見た。

佐渡から出品されたものだった。

その時の驚きについては、このブログNo69でも書いたが、次回、佐渡へ行った時には、是非、現物をみたいものだと思った。

足形石は、「足尾神社」への奉納品。

足尾神社は茨城県石岡市の足尾山にあるが、足尾山信仰は地元ではすっかり途絶えている。

それなのに、なぜか、佐渡には「足尾山」塔が20-30基もあるというのです。

ならば、是非、見て回りたい。

その所在地を知りたいと思い、「石仏の力」展での、佐渡の石仏を担当した佐渡市教育委員会のH氏に連絡した。

H氏は今年3月、定年退職していなかったが、後任のT氏が応対してくれた。

T氏が郵送してくれた足尾山塔資料は、手書き資料のコピー。

これが、信じられないほどの個人的労作だったのです。

A3用紙一杯に手書きされた詳細な石仏地図が数十枚。

  バス路線「本線」沿いの中興あたりの石仏地図。下部横の二重線が本線。右、両津。

バス路線ごとに分類され、石造物所在地には番号がふってある。

島とはいえ、佐渡島は沖縄本島に次ぐ日本2番目の大きな島。

その島のどんな場所であろうとも踏破するということは、想像すらできない難事です。

調査したのは、故・祝(ほうり)勇吉さん。

県立両津高校の教師を退職後、昭和51年(1976)から12年間、バイクで島内を駆け巡り、石仏を記録し続けたという。

潰したバイクは7台というから、凄い。

凄いといえば、祝さんの記録は、地蔵なら地蔵、観音なら聖観音、如意輪観音と石仏の種類ごとに分類し、一基一基の像容、形体、刻文を手書きし、地図の番号順に整理してあること。

 南線沿い「足尾山」塔一覧の一部。

「足尾山」塔だけの分布地図もある。

信じられないほどのきめ細やかさ。

佐渡は「地蔵の島」といわれるほど、地蔵が多い。

祝さんの調査では、その数なんと33416基。

2位の光明真言塔の495基の67倍もある。

その全部を手書きしたかどうかは確認していないので何とも言えないが、 手書きが基本姿勢であったことは確か。

当然、祝さんは写真も撮っています。

    祝資料の足尾山塔の写真

しかし、写真では、刻文が読みづらい。

右、()内の数字は、バス路線ごとの地図上の番号。これは、南線地図の96番。
上の数字は寸法。高さ×横幅×厚さ。
下部の数字は台石の高さ。(トリミングの失敗で下部が切れている)

 

だから、手間暇かけて一体ずつ手書きしたのに違いありません。

T氏から送られてきた「足尾山塔」資料は、祝さんの手書きの石塔とその所在地を示す地図でした。

その資料を手にして、私は言葉を失いました。

「こんな凄い人がいるんだ!」

興奮のあまり、その夜はなかなか寝付けなかったことを覚えています。

 

佐渡の「足尾山塔」の写真は資料としても価値がある、だから「足尾山塔」めぐりをしたいと思っていた私ですが、祝さんの詳細な記録を見て、すっかりその意欲を失くしてしまいます。

12年もかけて調査したものをわずか2,3日で見て回ろうという魂胆が、我がことながら「いじましく」思えたからでした。

でも、見て回りたい気持ちは抑えきれず、6月8日、両津港着岸後、直ちにレンタカーで「足尾山塔」めぐりに出かけました。

助手席には、祝さんの資料を広げて・・・

これは、私の「佐渡に残る足尾山塔めぐり」の記録であり、同時に佐渡の山間僻地の紀行文でもあります。

 

両津から河崎線を水津方向へ。

野崎で右折、城ノ腰へ向かう。

 ①、②、③は、私が回った順番。

道路の両側は一面の水田。

ここらは、「羽茂太郎久知次郎」と称される佐渡の穀倉地帯。

久知というのは、この辺りを支配していた地頭の久知家のこと。

丘陵に入って、祝地図に示された「足尾山」塔を探すが見当たらない。

⑰が最初の目標の「足尾山」塔がある場所。

地図には道路の右側にあるが、結局、道路を左に入った所の墓地にあった。

祝さんが調査してから35年、道路そのものが消滅、新設されている可能性がある。

1、檀塔墓地(城ノ腰)

 久知地頭家の墓がある中世からの墓地の一角に小屋があり、中に「足尾山」塔があった。 

荒れ果てた墓地に似合わない立派な宝篋印塔。

久知家の墓のようだ。

墓地の一角に小屋があり、中に「足尾山」塔。

「足尾山」の「山」がつる草で見えない。

祝資料には、「わらじあり」とあるが、見当たらなかった。

「足尾山」は足が悪い人が祈願するとよくなると信じられた。

治ったらわらじなどの履物を奉納するのが習わしだった。

わらじがない、ということは、35年前には、生きていた信仰が、今では消滅したということになる。

2、一重堂(下久知)

一重(いちえ)堂は、河崎から赤玉へ行く道と長安寺からの道の交差する三叉路にある。

堂と石仏の佇まいは、佐渡でも三指に入るのではないか。

いいムードを醸し出している。

私は2度訪れて、そのたびに、石仏写真を撮ったが、ついぞ、「足尾山」塔には気付かなかった。

この一重堂に、現物を見たいと念じていた足形石があることになっている。

期待は膨らむ。

お堂の左端の石段を上がり、お堂の前を横切って石仏群に向かう。

お堂に寝そべって井戸端会議をしていた高齢の女性たちの視線が一斉に注がれる。

会話が途切れるから、こっちを見ていることが分かるのだ。

「だれらっちゃ?」

「たびのもんらねえかさ」

お堂を過ぎると4つの小堂が並び、その先に七観音の石仏が在す。

手前から3番目が「足尾山」塔の小堂。

石塔と、その石塔に懸けられた半纏が埃にまみれて全体が白っぽく、文字が読めない。

半纏らしき衣類の布を動かしてみる。

「足尾山」の文字が見える。

その右わきに、自然石の「足尾山」もある。

「足尾山」塔の下を見る。

いくつか足形石があった。

定型はないようだ。

みんな違った形。

 

おそらくプロの石工の作品だろう。

石工集落・椿尾か小泊の石工だろうが、足形の注文に面喰ったのではなかろうか。

お手本や前例のないものを彫るのだから、緊張したに違いない。

石工を緊張させた足形が3つもある。

足が悪いので、「足尾山」に祈願したら治った。

そのお礼に、わらじや草履を奉納するのだが、石の足形は珍しい。

おそらく全国でもここだけではないか。

帰り際、暇を持て余して、好奇心一杯の婆さんたちの餌食になった。

「Youは何しにニッポンへ」というテレビ番組があるが、「Youは何しに一重堂へ?」。

餌食になったついでに訊いてみた。

「わらじじゃなくて、どうして石の足形なの?」

80歳代とおぼしき面々は、しかし、「足尾山」そのものがお堂の脇にあることを、誰一人として知らなかった。

「へえ、そんなもん、あるのんか」。

彼女たちが子供の頃、昭和10年代から20年代、すでに「足尾山」信仰はここ下久知ではなくなっていたように思われる。

3、天満宮(河崎)

再び河崎線に戻って、河崎へ。

JAがある。

ということは、河崎の中心地だろうが、そこだけすっぽりと時代が江戸か明治の空間がある。

天満宮だ。

無住の寺社や堂は、どこも時代から取り残された感じがあるが、ここは特に時代遅れの感が強い。

本殿の脇にお地蔵さんと並んで、「足尾山」塔がある。

石塔右側に「明治八年十二月吉日」の文字。

「足尾山」塔の周りには、小さな地蔵がずらり。

この小地蔵は、佐渡特有のもので、いたるところにあるが、ここのは何故か、全部、首がない。

神仏に願いをかけて、成就したら新しい地蔵を奉納し、古い地蔵の首を切る、そうした風習が佐渡にはあったと聞いたことがある。

本当だろうか、でもそうでもないと理解できないほど首なし地蔵は多いのだ。

祝資料には、「(備)わらじ・草履・下駄あり 縁日十一月三日」とある。

注意深く探してみたが、わらじなどは見当たらなかった。

今でも縁日はやっているのだろうか、天満宮の隣の家で声をかけてみた。

返事がない。

玄関は施錠されていないので、中に入って呼んでみるが誰もいないようだ。

今回佐渡のあちこちで同じ経験をした。

鍵をかけずに外出している家が多い。

空き巣や泥棒の心配がないからだろう。

佐渡だからなのか、田舎は日本中どこでも同じなのか、それにしても不用心極まりない。

       河崎海岸から大佐渡を望む

 いったん、両津まで戻って、今度は南線を西へ。

潟上のバス停を左折して、正明寺から田野沢に向かう。

4、地蔵堂(新穂・田野沢)

 かつて堂は地域の拠点だった。

村人の集会場でもあった。

今でも集会場として機能している堂もあるが、久しく人が寄り付かない空き家状態の堂が少なくない。

地蔵講や庚申講が途絶えたからでもある。

地元の人でも、若い人だと堂の場所を尋ねられて返答に窮したりする。

田野沢の地蔵堂もその一つ。

手入れはされているようだが、どことなく侘しさが漂っている。

石段を登ると左に3基の石塔。

その左端が「足尾山」塔だった。

 

右に「明治四十三年」、左に「戌八月立之」と刻されている。

明治から大正にかけて、足尾山信仰がこの地に根付いていたことが分かる。

田野沢から見た大佐渡の山脈。

田植えをした田より、減反で放置され原野に戻りつつある面積の方が広い。

憂うべき日本の農業の姿だが、田んぼが少なくなって面喰っているのは朱鷺かもしれない。

隣の集落、正明寺は、朱鷺放鳥の拠点。

このあたりは、朱鷺の生息地として知られてきた。

無農薬の水田が朱鷺の生息には不可欠とされている。

困ったもんだと朱鷺はつぶやいているのではないか。

 

佐渡といえば、金山と朱鷺だろう。

しかし、私は小学校から高校まで佐渡にいたが、野生の朱鷺を見たことがない。

私の家は大佐渡の金北山の麓、今、佐渡市役所がある旧金井町にあった。

新穂から金井までほんのひと飛びではないか、なぜ、飛んでこないのか、翼が大きいのにやけに行動範囲の狭い鳥だな、とずーっと思っていた。

http://sasaduka.com/art/story/toki01.htmより無断転用

だが、私が間違っていた。

そのニュースを聞いて「えっ、ほんとかよ」と耳を疑った。

それは、最初に放鳥されたグループの何羽かが、越後や信州にいることが確認された、というニュースだった。

その朱鷺が佐渡に戻った、という続報もあった。

朱鷺は飛んで海を越えたのだった、何度も。

それなら金井にも飛んで来ればいいだろう、今でも、そう思っている。

5、路傍(畑野・野田)

 佐渡には二つの山脈がある。

大佐渡山脈と小佐渡山地。

大佐渡の方が山が高く、険しい。

で、あるからか集落は山の麓にあるだけで、山の中にはない。

小佐渡の山は低い。

それだけにかなりの山奥まで人家がある。

その典型は、猿八集落だろう。

「えっ、こんなところに家が」と初めての人は驚くこと請け合い。

次の「足尾山」塔は、その猿八集落への道の途中にあることになっている。

畑野町の信号を左折、松ヶ崎への道の途中、上小倉バス停の先を右に曲がる。

分岐地点に2,3軒の家があるだけで、すぐに山道となって、どこにも人家は見られなくなってしまう。

対向車が来たら訊いてみようと思うが、車は走ってこない。

困ったな、と思っていたら、見通しのいい場所に出た。

農地の向こうに家が1軒、山の麓にたっている。

訊きに行きたいけど遠いな、と躊躇していたら、ご婦人がひとり家から出て、こちらに向かってきた。

農作業に出かけるための様だった。

私と同年輩か。

大声で呼び止めた。

「足尾山」塔については、答えがすぐ返ってきた。

石塔についてこんなにレスポンスが早いのは稀有なことだ。

「もう少し行くとカーブにさしかかり、そこから坂道になる、そのカーブ地点の左にあります。」という。

古代文字ともいわれる異体文字がすぐそばにあるとも教えてくれた。

教えられたとおり、「足尾山」塔は、カーブ地点にあった。

崖のスロープ、人の目の高さくらいにあるので、分かりにくい。

写真上部、光の当たっている葉の下の暗がりに石塔が見える。

彼女に教えて貰わなかったら、決して見つけられなかったことだろう。

「足尾山」ではなく「足尾神」と彫られている。

祝資料では「ここで会った婦人の話では、徳和の足尾山堂より受けたものという」と書かれてある。

徳和の足尾山堂については、次回、触れるが、佐渡で最初に足尾山信仰を持ち込んだお堂で、そこから分祠したものらしい。

それにしても、なぜ、こんな人気のない場所にあるのか。

先ほどの御婦人が嫁いできた約50年前には、このあたりには何軒も家があったというから、人馬の往来も激しかったに違いない。

人通りのないところに石碑、石塔は建てないのが普通だから。

異体文字は、「足尾山」塔の道を挟んで反対側にあった。

 

  小祠の左、黒っぽいのが異体文字の石

近寄って覗き込まなければ、文字があるとは思えない。

 

この道路は、中部北陸自然歩道の一部なので、環境庁による解説版がある。

それによれば「ある古代文字研究家は『ソウルから海を渡ってやってきた』と解読し、島内の書家は「大日霊貴命(おおひるめのむちのかみ)」の異体字で、文盲者がこれを模写したもの、など諸説ある」らしい。

解読に諸説あることも面白いが、こんな山中に人為的な刻字がなぜあるのかも興味深い。

通りかかる人に見てもらいたい、という意思は、石の置かれた場所からは感じられないのです。

6、阿弥陀堂(三宮)

阿弥陀堂を探すのに30分も時間を費やした。

三宮バス停の手前を右折すべきなのに、2-300m手前の、佐渡博物館の横に出る195号線に入り、峡田集落を探し回っていたらしい。

何人かに訊くが、阿弥陀堂を誰も知らない。

「三宮バス停近くの天満宮の隣のお堂」に反応してくれたのは、80歳くらいの女性だった。

「ついてこいっちゃ」。

農作業を止めて、軽い身のこなしで軽トラに乗る。

走り出した軽トラの後を追いかける。

止まった場所は、墓地。

確かに神社とお堂が隣り合っている。

親切な彼女に礼を言って別れ、「足尾山」塔を探す。

塔は、墓地とは切り離された形で、道路を挟んで反対側にあった。

 右端が「足尾山」塔。その左は庚申塔、左端は光明真言百万遍塔。

 

墓標ではない石碑、石塔が並んでいる。

「足尾山」塔の上部には、種字अ(ア)が彫られている。

अは、大日如来の種字のはずだが、と種字一覧を見たら「諸尊通種字」と書いてある。

どの神仏でも通用する種字という意味らしい。

だから「足尾山」にअ。

分かりいいが、適当でいい加減な気がしないでもない。

7、十王堂(真野・合沢)

十王堂は分かりよかった。

南線を左折、合沢集落に入るとすぐ左側にあった。

私は初めて来たが、一目で気に入った。 

掃除が行き届いて、使い込まれてはいるが、清潔なお堂。

お堂の横の広い庭の向こうには、大振りの石碑、石塔が並んでいる。

下久知の一重堂と石塔もいいが、この十王堂と石造物のバランスもすばらしい。

この二つに吉岡の下の堂を加えて、佐渡のお堂ベスト3としたい。

石碑、石塔の前には、生花。

しおれていないから、今日、供えられたのだろう。

お堂の掃除といい、供花といい、信仰が今なお、生き続けていることが分かる。

「足尾山」塔は石塔群の一番右端にあった。

建立は、明治39年11月。

縁日は4月18日と祝資料には付記されている。

今でも行われているとは思われないが、縁日はいつ頃から止めたのか知りたくて、お堂の前の家の呼び鈴を押したが、返事がなく諦めた。

帰ろうとしてお堂を見たら、貼り紙がある。

馬頭観音堂の祭礼予告だった。

明後日の午後3時からとある。

都合がついたら是非見たいもんだと予定表に記入する。

 

時計は、17時半。

今夜は、相川の宵乃舞を観るつもり。

相川にある「足尾山」塔の撮影をしてから踊りを観に行くことにして、一路、相川へ。

8、旅館「山喜」前(相川・鹿伏)

相川の鹿伏にある観光旅館「山喜」に着いたのは、18時ちょっと過ぎ。

 左が「山喜旅館」、石仏群は電柱の前、暗がりの中にある。

まだ、写真を撮るには十分の明るさがある。

「山喜」旅館の前の道を挟んだ海側に、石仏群がある。

地蔵は覆い屋の中におわすが、石碑、石塔はみな露天。

2列に並んだ前列左端が「足尾山」塔だった。

中央に「足尾神」、その右に「天下」、左に「泰平」と刻されている。

嬉しかったのは、わらじが石塔の横に懸けられていること。

祝資料には「大わらじあり」と付記されている。

35年の長い時を経て、こうした風習が今も生きていることに感動すら覚える。

そもそも、わらじを編める人がいることがすばらしい。

85歳以上でないと難しいだろう。

わらじを編める人がいなくなれば、こうした風習も廃れてしまう。

最後にいいものを見た。

収穫大きい一日だった。

さあ、宵乃舞を観に行こう。

 

とりあえず、今回はこれで終わり。

次回は、真野、羽茂、赤泊を回る予定。

茨城県石岡市の「足尾山神社」にも行って来ます。(続く)