石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

57 佐渡の百万遍供養塔

2013-06-16 00:47:57 | 石碑

 プロフィールにもあるように、私の故郷は佐渡が島です。

5年前、病気治癒祈願のため佐渡八十八カ所を巡ったことが、石仏愛好家の仲間に入るきっかけでした。

この年、春と秋、二度、八十八カ所を回ったのですが、当時の写真ファイルを見ると1回目では石仏の写真はほとんどありません。

興味関心が皆無だったからでしょう。

2回目で、やっと石仏が登場し出します。

そのほとんどは、お地蔵さん。

 普門院(栗野江) 門前の石仏は全部地蔵

 佐渡は、地蔵の島と言われるくらいですから、当然のことです。

聖観音や如意輪観音はほんのわずか、文字塔にいたってはまったく無視されています。

その後、東京と東京周辺の石仏巡りをしながら、庚申塔や月待塔、あるいは馬頭観音など像塔以外に文字塔も沢山あることに気づくことになります。

石仏から石造物へと関心が広がったわけです。

石造物の知識と見聞の広がりとともに、佐渡の石造物の特異性が少し分かるようになりました。

いくつかあるのですが、その一つは「百万遍供養塔」が多いこと。

 浄玄堂(三瀬川) 石塔の8割は百万遍供養塔

 それは、「光明真言百万遍塔」だったり、「念仏百万遍塔」だったりするのですが、そうした石塔が島のあちこちに立っています。

勿論、関東にも百万遍塔はあります。

私のパソコンにも、数基の光明真言百万遍塔とその数倍もの念仏百万遍塔がファイルされています。

 

 針ケ谷墓地(富士見市)       長谷寺(高崎市)  

 光明真言一億万遍供養塔      念仏供養四億百万遍

場所は、関東一円に散らばっていて、光明真言百万遍塔は八王子市、幸手市、八千代市、笠間市、銚子市に、百万遍念仏塔は、松本市、高崎市、東松山市、深谷市、越谷市、横浜市、那須塩原市で見かけました。

でも、その数は、庚申塔などに比べたら100分の1にも満たないでしょう。

私の家があった佐渡の金井町(全島佐渡市になる前の10市町村のうちの一つ。人口7000人強)では、事情が違います。

石造物の第1位は光明真言塔の84、次に庚申塔42、回国供養塔27、念仏塔22、秋葉山塔20、出羽三山供養塔17、如意輪観音15、不動明王14、聖観音12、馬頭観音11、猿田彦11で、断然光明真言塔が多いのです。(『金井町の石仏』より)

 旧金井町の水田地帯に立つ六字名号塔 「南無阿弥陀仏」の右に「念仏一億万遍」、左に「光明真言五千万遍」とある。

ここでおさらい。

百万遍念仏には、念仏の回数が多いほど功徳も大であるという多数作善の思想が背景にあります。

「南無阿弥陀仏」(口唱では「ナンマイダー」)を百万回唱えることで、極楽往生を目指すのが目的で、その方法には①一人が日を限ってその期間内に念仏を百万回唱える、②千十顆の大念珠を念仏講中が車座になって「南無阿弥陀仏」を一唱するごとに一顆を繰り、全員の念仏の総計が百万回に達すれば完了となる、の二通りがあり、百万遍供養塔は、その完了記念として造立されました。

           野浦の百万遍念仏

光明真言百万遍塔もその趣旨と方法は念仏の場合と同様で、ただ唱えるのが「南無阿弥陀仏」ではなく、「オン、アボキャ、ベイロシャナウ、マカボダラ、マニ、ハンドマ、ジンバラ、ハラバリタヤ、ウン」の陀羅尼。

意味は「大日如来よ、智慧と慈悲をたれてお救いください」。

これを誦すれば、一切の罪障は除かれると信じられました。

中世初期、庶民に広がりつつあった浄土教の念仏専唱に対抗して、庶民にも実践できる伝統仏教の手法として編み出された、と『日本石仏図典』では解説しています。

 

2013年6月上旬、新潟市で行われた佐渡高校の同期会に出席して、翌日、佐渡へ渡りました。

1年半ぶりの帰郷です。

6月の佐渡は、薪能が週末に相次いで催され、カンゾーの花が咲き乱れる最高の観光シーズン。

両津からレンタカーで河崎へ。

予て見たいと念じていた石塔が河崎の菊池家にあるからです。

 途中、石造物群があれば停車、写真を撮る。

両津港から河崎集落まで約5キロ、光明真言百万遍供養塔が3基もあります。

  

 路傍(住吉)光明真言五百万遍    路傍(河崎)百万遍         路傍(河崎)七百万遍

いずれも集落の講中が造立したものです。

500万遍、100万遍、そして700万遍。

仮に35人の講中だとすると700万遍を達成するのにどれほどの日数を要するのでしょうか。

       河崎集落

真言陀羅尼を一回誦するのに6秒かかるとする。

1分で10回、1時間で600回。1日6時間やったとして、3600回。

1日の総回数は、3600×35人=126000回。

700万遍には56日かかることになります。

旧正月の松の内の8日間、集落の35人が真言を唱え続けて7年間でやっと達成される計算です。

記念に供養塔を造立したくなるのも当然でしょう。

 

純粋に死者を悼む光明真言百万遍塔も島内にあります。

小倉の中佐為集落の石塔には「光明真言三百万遍、為餓死百回忌菩提也」と刻してあります。

 

       中佐為の石塔群                    光明真言三百万遍 為餓死百回忌菩提也

宝暦の餓死者を悼んで、百年後の嘉永7年に子孫が建てた供養塔。

宝暦の飢饉での佐渡の死者は約3000人。

とりわけ小倉から猿八にかけては悲惨だったと伝えられています。

 

帰郷の目的の石塔は、河崎の菊池源右衛門家の入り口に2基立っています。

 菊池源右衛門家の2基の石塔(河崎)

右は「南無阿弥陀仏」の利剣名号塔。

        利剣名号塔

このブログの「NO41それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たちー」の主人公木食弾誓に関わる石塔で、近く新しい章立てで、この利剣名号塔については書く予定です。

今回の主役は向かって左の石塔。

弥陀名号 光明真言百万遍供養塔

刻文は
「弘化四末年
 弥陀名号一億二十五万千九百遍
 光明真言一千九百十一万九千二百遍
 世話人 安兵衛
 新穂村 五郎左衛門
 国中村々請事」

これは、弘化4年(1847)、一国念仏を催した記録です。

世話人、安兵衛と五郎左衛門の呼びかけで、島内各村々の代表者が一堂に会して総会を開き期日を決めます。

その決めた日には、全島一斉に各村の堂に老若男女が集まり念仏を唱えるのでした。

一億二十五万千九百遍とか一千九百十一万九千二百遍とか、中途半端な数にリアリティがあります。

何人くらいが参加したものでしょうか。

この一国念仏は何回か行われた形跡があります。

村々の念仏講は、コミュニケーションや娯楽の場として機能していましたが、一国念仏はやや色彩を異にしていました。

念仏に名を借りた、数にものを言わせる集団示威行動だったのです。

デモの相手は、相川奉行所。

奉行所の、ひいては幕府の、圧政や一揆のリーダーの厳罰に対する無言の集団的抗議行動でした。

一揆の指導者として一身を犠牲にした義民を悼むこうした風潮は、佐渡全域で長い間、見られました。

今でも旧正月に大数珠を使って行う真更川の百万遍念仏では、その終わりの言葉に義民の名前が登場します。

         百万遍念仏(真更川)

 「南無地蔵大菩薩さん お大師さん たんせい(弾誓)上人さん 浄厳上人さん ちゅうそうかいさん(中興開山) 笠掛澄心さん 山居のにょれい(如来?)さま 上山田の善兵衛さん 長谷の遍照坊さん 一日から三十日(みそか)までのご精霊さま なんまいだー なんまいだー」

 

   善兵衛の墓(上山田)                   智専(法印憲盛)が住職をしていた寺・遍照坊(長谷)

上山田の善兵衛は、天保9年(1838)の佐渡一国一揆の、そして長谷の遍照坊は、明和5年(1768)の明和一揆の指導者。

遍照坊だけは、処刑されています。

彼の戒名は「憲盛法印」。

佐渡には、憲盛法印供養塔があちこちにあります。

何度かの一国一揆のリーダーの中でも、とりわけ罪を一身に背負って処刑された犠牲者のイメージが高いからでしょうか。

百万遍供養塔にも法印憲盛の戒名が付いているものが見られます。

 

 奉唱光明真言一千万遍      為法印憲盛(拡大)
 
為法印憲盛菩提(大和田薬師)

 

 堂(千種・本屋敷)           為法印憲盛菩提(拡大)

自らの極楽浄土での安楽を願いながら、併せて、、憲盛法印の霊を悼んで念仏を繰り返すのでした。

 

明和一揆の前年は、虫害がひどい年でした。

「七月下旬より外海府より始まり、稲に見慣れぬ虫つき国中残らず、見事なる稲もことごとく痛み申し候」。(『三国辰雄家記録』)

虫害がひどいので年貢米を減免してほしいというのが一揆の訴状の内容の一部でもありました。

「村中老若男女共、残らず毎日念仏真言三昧、田畑の畔に鐘を打ち、念仏真言唱え廻り申し候」。

鐘を叩いて村の田を回る虫送りは、7月の佐渡の風物詩でした。

  虫送り(京都市のHPから無断転載)

その虫送りの行事も、明和一揆の原因が虫害であったことに因み、その後、法印憲盛の供養を兼ねる行事となって行きます。

 

私の頭には「しんごんをくる」という言葉が、片隅にあります。

「くる」は、「数珠を繰る」の「繰る」でしょう。

真言を誦しながら数珠を繰るーこれは百万遍念仏の情景でもあります。

東京では無縁の言葉なので、子供のころ佐渡で覚えた言葉に違いありません。

しかし、佐渡も国中の村では、昭和20年代、すでに百万遍念仏は廃れていました。

私は行事としての百万遍念仏を見たことがありません。

でも言葉として残っているのだから、面白い。

 

真更川の百万遍念仏は、2月の風物詩としてよくテレビニュースに登場します。

 百万遍念仏(真更川) 30キロはある大数珠を持ちまわりながら念仏を唱える。

ニュースになる位だから、佐渡の百万遍念仏は真更川にしか、もはや残っていなくなったのだろう、なんとなくそう思っていました。

ところがそうではないらしいのです。

佐渡博物館に勤務していた、ということは佐渡の歴史・民俗の専門家である、高校の友人によれば、国中(佐渡島の中央部)では廃れてしまったが、海岸地帯では今でも百万遍念仏は行われている、とのことです。

新潟日報『佐渡紀行』では、小木の琴浦での百万遍真言を次のように書いています。

カンカンカン トコトコトコ
 鐘と太鼓の音が会場に充満する。
 耳鳴りがするほどだ。
 小木町琴浦地区恒例の百万遍真言が17日に行われた。

 小木・琴浦の百万遍念仏 (新潟日報『佐渡紀行』より)

会場はコンクリート作りの集会場。
38戸の家庭から一人ずつが参加する。
主におばあちゃんたち。
鐘のリズムに合わせて一人が「なむあみだぶつ」と唱えながら大きな数珠を繰る。

鐘は1秒に2回ほどのかなり速いテンポだ。
鐘1回で玉を一つ繰る。
玉は全部で1008個あり、これを2周分数えると「1回」になる。
朝から夕方までに24回をこなす。
参加者がたたく鐘の音は約四万八千回に達する。(後略)」

百万遍真言といいながら、「なむあみだぶつ、(実際には、ナンマイダー)」と唱和しているのが面白い。

博物館員の友人も、実際に真言を誦しているところはないのではないか、と見ています。

 

最近の佐渡のニュースと云えば、朱鷺の話題ばかり。

他には佐渡市の財政悪化のニュースでしょうか。

確かに歴史的遺産や文化財保護については、世界遺産を目指す佐渡金山を除いて、お寒い限りです。

その典型例が「佐渡一国義民殿」。

 

   佐渡一国義民殿(畑野・栗野江)

建物の崩壊が進行し、その惨状は目を覆わしむるものがありました。

その建て替えに佐渡市が補助金を出す、などということはありえないので、このまま朽ちてゆくのかなと思っていましたが、明るいニュースが飛び込んできました。

報道したのは、読売新聞(2013年5月20日)。

嬉しいニュースなので、全文を転載しておきます。

ついでに「佐渡義民殿」とは何か、『佐渡相川郷土史事典』からの引用も。

見義不為、無勇也 (ぎをみてなさざるはゆうなきなり)の男たちを輩出し続けた島であることを、島民の一人として誇りに思うのです。

 

佐渡の義民殿 再建目指す…専門学校生ら協力(読売新聞(2013年5月20日)。

江戸期に佐渡島で起きた一揆の主導者ら26人を祭るお堂「佐渡一国義民殿」(新潟県佐渡市栗野江)の荒廃が進んでおり、地元有志らが再建のための寄付を募っている。

 義民の心を後世に伝える「島の宝」として、伝統建築を学ぶ地元専門学校の協力を得ながら、年内の再建を目指す。

 義民殿は、飢饉によって苦しくなった年貢の免税や、佐渡奉行所の不正を訴えて一揆を主導した人々をたたえようと、1937年に島民が寄付金を出し合って建築した。江戸後期の1838年に起きた一揆は、島内最大規模で「佐渡一国騒動」とも呼ばれており、その主導者の中川善兵衛や、「明和の一揆」の智専ら26人が堂内に合祀されている。

 当初は、地域の集会所として使われたり恒例の供養祭が行われたりしたが、風雪にさらされ徐々に荒廃。現在は倒木によって屋根の一部が無残に崩落し、内部も外れた戸や剥がれ落ちた内壁が散らばっている。

 こうした状況に地元住民が心を痛めていたところ、「伝統文化と環境福祉の専門学校」(同市千種)の伝統建築学科・杉崎善次講師が、別の社殿が建築中止になって残った資材を義民殿に寄付すると申し出た。再建は同学科の学生らが実習の一環として手がけるため、宮大工に依頼するより安価で済む見込み。

 義民殿を維持管理する住民団体の土屋隆さん(78)は「これまで直したくてもお金が無くてできず悔しかった。こんな話をもらえるなんて」と感激している。

 再建には解体や建築、周辺整備費用などで600万円が必要で、住民らは寄付金を募ろうと16日、義民殿再建実行委員会(渡辺庚二会長)を設立した。設立総会には、中川善兵衛の6代目の子孫、中川閧雄さん(68)も参加し「今の時代にこうした熱い思いを寄せてくださる皆さんに敬意を表したい」と語った。

 9月から再建工事に着手し、募金は11月まで受け付ける予定。渡辺会長は「妻子ある身で殺されると覚悟しながら一揆の先頭に立つことはなかなかできない。義民殿は、そんな偉大な先人をたたえた島の大切な宝。何とか昔のように立派な姿を再現させたい」と協力を呼び掛けている。

 募金は口座への振り込みなどで受け付ける。問い合わせは同実行委(0259・66・2508)へ

 

佐渡義民殿(さどぎみんでん)

 江戸期の、慶長から天保までの義民のうち、代表的な二六名を合祀した佐渡一国義民堂が、畑野町栗野江の城か平の山頂にある。昭和八年に、島内の百姓一揆を研究し、『佐渡義民伝』を著わし、義民劇の上演などに協力していた新穂村青木の伊藤治一を中心に、一二九名が発起人となって建設が始まり、昭和十二年に落成したものである。島内の農民騒動の発端は、慶長六年(一六○一)に佐渡が徳川家の直轄領と定められ、上杉支配のときから居残った代官の河村彦左衛門に加え、新たに田中清六・中川主税・吉田佐太郎が代官に任命され、四人支配の下に本途(本年貢)の五割増という急激な増税策が出されたのに対して、島の有識者たちが抵抗したことにある。この最初の一揆の結末は、首謀者の新穂村半次郎・北方村豊四郎・羽茂村勘兵衛の三人が江戸に出向いて、幕府に直訴したのが効を奏し、吉田は切腹、中川は免職、河村と田中は改易となり、全面勝訴となったのである。その後一世紀半ほどは、良吏の派遣などもあって平穏であったが、享保四年(一七一九)の定免制(収穫に関係なく定められた年貢を徴集する制度)の実施に伴なう増税に加え、同八年以後の鉱山経営の不振が住民の生活に圧迫を来し、村々の有識者の連帯を強めた。寛延三年(一七五○)の一揆は、そうした背景の中で、辰巳村太郎右衛門・川茂村弥三右衛門らを首謀者として起った。このときも、島ぬけして訴状を江戸の勘定奉行に手渡すことに成功して、幕府は訴状に認められた二八か条の要求の正しさを認めて、佐渡奉行・鈴木九十郎は免職となった。しかし訴人は、他の多くの役人にも非のあることを再度、佐渡奉行・幕府巡見(検)使らに訴えて、諸役人の不正が暴露され、在方役・地方役・米蔵役などに、斬罪一・死罪二・遠島七・重追放三・中追放一・軽追放一・暇五・押込二六・役義取放一・急度叱五の計五二名が刑を受けた。いっぽう訴人の側も刑を受け、太郎右衛門は獄門に、椎泊村弥次右衛門は死罪、椎泊村七左衛門は遠島、弥三右衛門は重追放、吉岡村七郎左衛門・新保村作右衛門・和泉村久兵衛は軽追放のほか、二○八か村の名主が被免、二○○名以上の百姓が急度叱りの処分となった。明和三年(一七六六)から同七年にかけて、大雨による洪水、浮塵子の大発生で中稲・晩稲が全滅状態になったとき、村々ではその実情を立毛検分するよう請願したが、けっきょく四日町・馬場・北村・猿八の四か村に年貢被免、船代・下村・畑方・畑本郷・武井・金丸・金丸本郷の七か村に三分一の未納・年賦・石代納の措置がとられただけで、他の村々には恩恵がなかった。その上、当時は代官制がしかれて、奉行に加え二重支配となったため、願いや届に煩雑なる手数がかかり百姓たちを苦しめた。さらに、代官の下役で年貢米取立ての御蔵奉行谷田又四郎と百姓の間に起きた摩擦がしだいに悪化し、谷田の苛酷さを非難する訴状が佐渡奉行所にもちこまれた。訴状は名主ら村役人たちによってしたためられたが、願いの筋がきき届けられないので、百姓どものこらず御陣屋へ押かけようとするのをなだめすかしたこと、要求がいれられなければ江戸表へまかり出て直訴しなければならないので出判をお渡しくださるようなど書いてある。谷田は、相川金銀山の衰微に伴って、米の消費が減少し、余剰米の大阪回米が市場で不評であり、その佐渡米の商品価値を高めようとして、米質や包装改良を求めて百姓と摩擦を生じたもので、良吏とされた人物であったが、百姓がわでは、それを賄賂をとるためとする誤解が生まれて事件を深めることになった。一揆にいたる前哨戦として、沢根町に相ついで起った付け火が挙げられる。米価の高騰で爆発した相川の鉱山稼ぎの者が、中山峠を越えて沢根方面の富裕な商家を襲ったのであるが、米価の引き下げなどの処置で、この時は大きな騒動にはならなかった。この明和の一揆は、首謀者の呼びかけで、栗野江の賀茂社境内に集結した民衆が、二度めの集結を察知され、六人が捕えられ、成功にいたらなかった。裁きの末、通りすがりにすぎなかった長谷村の遍照坊住職・智専が自ら罪を負う形となって死罪となり、他は牢死・お預け・釈放などの微罪で落着した。智専は「憲盛法印」のおくり名で今も農民の崇敬をうけている。天保九年の全島的な一揆は、島内で最大の規模で起ったので「一国騒動」と呼ばれている。惣代の羽茂郡上山田村の善兵衛を願主とする訴状には、百姓・商人などの要求十六か条が書かれていたが、上訴した巡見使から返答がないまま善兵衛らが捕えられ、善兵衛は獄門に、宮岡豊後の死罪、ほか遠島・所払いなど極めて多数の受刑者やとがめを受けて終った。この天保一揆についての記録としては、江戸末期の川路聖謨奉行による『佐州百姓共騒立ニ付吟味落着一件留』(佐渡高校・舟崎文庫所蔵)があり、同校同窓会が刊行している。

【関連】智専(ちせん)・中川善兵衛(なかがわぜんべえ)
【執筆者】本間雅彦

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
 
<参考図書>
○田中圭一「地蔵の島・木食の島」
○田中圭一「天領佐渡(2)」刀水書房 1985
○新潟日報「佐渡紀行」恒文社 1995
○こちら佐渡 野浦 情報局http://wind.ap.teacup.com/noura/1995.html

 

 

 

 

 


56 椀状凹みを探して日光街道を行く(2)幸手宿ー野木宿

2013-06-01 05:46:31 | 民間信仰

前回は、杉戸宿まで。

今回は、6番目の宿場、幸手宿から。

 ー幸手宿ー

杉戸宿に比べ、2倍以上の規模で、日光街道でも上位4番手につける大きな宿場だった。

杉戸町から幸手市に入り、4号線と別れて左へ進むとT字路にぶつかる。

 左が日光街道、右、御成街道

川口、鳩ケ谷、岩槻から来た御成道(日光参拝に将軍が通った道)が、ここで日光街道と合流する。

合流地点の道沿いに石仏墓標が列を成している。

塀の中は墓地。

椀状凹みがありそうな雰囲気だが、探しても見当たらない。

 

     神宮寺               薬師堂

神宮寺、薬師堂を左に見て、東武日光線の踏切を過ぎると、さっき別れた4号線と再び合流する。

  左、4号線  右、日光街道 手前が宇都宮方向

4号線との合流と別れは、宇都宮まで延々と繰り返されます。

道路わきの電柱にブルーテープが張ってある。

「何だろう?」と近寄ってみたら、昭和22年、台風で利根川が決壊した時の浸水の深さを表示したものだった。

宿に入ってすぐ右に神明神社。

        神明神社

江戸時代はここに高札場があった。

「たにし不動尊」と呼ばれる不動尊が境内にある。

たにしを描いた絵馬を奉納すると眼病が治ると言われているらしい。

だとすると眼医者は失業してしまう。

眼科医の友人の顔がちらりとよぎる。

ここの手水鉢に穴を穿った跡がある。

幸手駅への道を過ぎると宿場のメイン通りに差し掛かる。

 

      担景寺              常光寺

担景寺、常光寺を過ぎると問屋場跡や本陣跡など往時の賑わいが感じられる一角がある。

 

    問屋場跡の公園                  本陣跡のうなぎ屋

街道から左にそれて、幸宮神社、雷電神社へ。

 

  幸宮神社             雷電神社

雷電神社はかつての幸手領の総鎮守。

 

   雷電神社本殿                 凹みのある手水鉢

日本武尊が東征の際、ここに農業神を祀ったという記述があるのだそうだ。

広い境内に捨てられたようにある手水鉢に凹みがあった。

格式でいえば、聖福寺も負けていない。

菊の文様の勅使門がある。

歴代将軍が東照宮参詣の際、必ず休憩したからだという。

 境内は広いが無縁墓標ばかりで、椀状凹みはない。

宿場の突きあたりにある正福寺にもなかった。

 日光街道が右へ曲がる突き当たりに燈籠。

 そこが正福寺の参道入り口。

駅へ戻る途中、浅間神社に立ち寄った。

        浅間神社

寄り道してよかった。

手水鉢に椀状凹みがあった。 

 

私は幸手駅から帰宅したが、日光街道は正福寺の前を右へまがり、すぐ左へ。

一直線に北上すると権現堂堤が右手に見えて来る。

さくら堤と言われるように花見の名所。

             権現堂さくら堤

菜の花の黄色と桜のピンクのコントラストが見事です。

    ー栗橋宿ー

右手に流れる権現堂川に沿って約50分、東北新幹線をくぐり、4号線と別れて左の路を行くとそこが栗橋宿の入り口。

 

     栗橋宿南端                     焙烙地蔵堂

焙烙地蔵 は利根川の関所を通らずに渡り、関所破りとして火あぶりの刑に処せられた者を供養する目的で立てられた。

焙烙(ほうろく)は、米、ゴマ、豆などを炒る素焼きの土鍋のこと。

火あぶりの刑が焙烙で跳ねる豆に似ていたから、焙烙地蔵と名付けられた。

栗橋宿は狭い。

寺も、浄信寺、顕正寺、深広寺、福寿院と4寺だけ。

 

    浄信寺                顕正寺

 

    深広寺               福寿院

いずれの寺にも、椀状凹みは見当たらなかった。

深広寺の境内に立つ21基の六角六字名号塔は壮観だ。

 

     深広寺の六角名号塔

神社は宿本陣跡に近い八坂神社だけ。

 

       八坂神社                   神使の鯉

狛犬がいるべき場所に鯉。

祭神の素盞鳴命の像が洪水の時鯉に守られてこの地に流れ着いたので、鯉は神使となった。

広い境内をくまなく探したが、椀状凹みはなし。

栗橋宿は椀状凹みがない初めての宿場となった。

関所跡碑が利根川堤防に立っている。

    栗橋関所址碑

 本陣もこのあたりにあったらしいのだが、スーパー堤防に作り直すために、昔の面影は壊滅している。

   本陣跡遺跡発掘現場

現在、掘り返しているのは本陣跡、というのが久喜市文化財担当者の説明だった。

背後の堤防を上って行くと利根川がゆったりと流れている。

 

  利根川にかかる利根川橋           県境の表示

利根川橋の途中で茨城県の表示。

中田宿(古河市)に入ることになる。

   ー中田宿ー

昔は橋などないから、渡しだった。

川の対岸の栗橋と中田。

二つ合わせて、栗橋・中田宿と一つの宿駅とされた。

このあたりの利根川は、「房川(ぼうせん)」と呼ばれ、房川渡関所が設けられた。

通行手形を持たず関所破りをすれば重罪。

焙烙地蔵があるということは、火あぶり、磔が絶えなかったという事だろう。

利根川河畔にあった中田宿場は、度重なる河川工事のため移転を余儀なくされ、今は跡かたもない。

道路右の河川敷に中田宿はあった。

利根川橋を渡り最初の分岐を右折。坂を下りて古河市中田集落へ。

地図の228号線がその道。

 

 

移転先の現在地、古河市中田にも古い建物は皆無。

集落の真ん中を日光街道がまっすぐ伸びているばかりです。

  集落の真ん中を旧日光街道が走る

調査すべき寺社はわずか。

いずれの寺社にも椀状凹みは見当たらなかった。

 

   光了寺              本願寺            

 

 

    顕正寺             弦巻八幡宮               

栗橋宿に続いての空振り。

もしかして椀状凹みはなくなったのだろうか。

でも調査数が少ないので、そうともいえなさそうだ。

古河市の寺社に期待をかけて中田宿を後にした。

 

    ー古河宿ー

 中田宿から約7キロ、淡々と歩いて古河宿へ。

古河市の中核区域は、歴史的文化遺産を大切にする城下町。

道路も整備されて、歩きやすい。

訪れた順に紹介してゆくが、順番に意味はない。

Googleの地図を載せておく。

地図に載っていない寺社もある。

そのつもりで動かしてみてほしい。

 

 

      長谷観音(長谷町5)

長谷観音は、鎌倉、大和と並ぶ日本三大長谷観音が謳い文句。

さぞかし大きいだろうと思っていたので、小さいのに拍子抜け。

椀状凹みを探そうにも石造物がない。

 

古河市が好きな理由の一つに昔からの町名が残っていること。

平和台だとか希望が丘だとか、寝ぼけた町名はない。

         肴町

城下町の色彩濃い肴町を通り左折すると福法寺。

寺門は古河城乾門だったという。

福法寺の隣が了正寺。

  

 福法寺(中央町3-9)                 了正寺(中央町3-9)

素敵な煉瓦の門と塀があるので、写真をパチリ。

看板を確かめたら、古河第一小学校だった。

            古河第一小学校

宗願寺は古河第一小学校の生徒たちの歌声が聞こえる場所にある。

境内はあまり手を入れてないようなので、椀状凹みを期待したがなかった。

 

 宗源寺(中央町2-8)               妙光寺(中央町2-6

隣の妙光寺は日蓮宗だから、石造物は少ない。

永井寺は初期古河藩主永井家の菩提寺。

  

    永井寺(西町9)

木陰に石造物が点在しているが、椀状凹みはない。

 

頼政神社のご神体は、源頼政。

     頼政神社(錦町9)

治承4年(1180年)宇治で平家との戦いに敗れ自刃した源頼政の首を従者がたずさえて逃れ、古河に葬ったものと言い伝えられている。

社殿は、古河城最北端の土塁の上にあって、ひっそりとしている。

椀状凹みがありそうな雰囲気なのだが・・・・

 

隆岩寺はご朱印寺。

  隆岩寺(中央町1-7)

ちりひとつなく清掃されている。

椀状凹みは、ない。

 

昼食に一旦古河駅前まで戻る。

食事後、駅前の西光寺、浄円寺から回り始めた。

 

西光寺(本町1)の古河大仏       浄円寺

西光寺には古河大仏がおわす。

またもや椀状凹みは見つけられず。

古河市の寺社めぐりをしているわけではないから、そろそろいらいらし出す。

そのいらいらが次の八幡神社で解消した。

    八幡神社(本町2)の手水鉢

手水鉢に凹みがある。

 

尊勝院と神宮寺は、初代古河公方となった足利成氏が本拠を鎌倉から古河に移した際、ともに鎌倉から移って来た。

 

 尊勝院(本町1-4)          神宮寺(横山町1-1

この界隈は古河宿の中心街。

JR古河駅から西へ。

日光街道にぶつかった所が本陣跡。

 

       道路向こうが本陣跡           本陣跡石碑

 そこを右折して次の信号を左折すると右に神宮寺が見える。

ほんのちょっと先を右へ曲がるとブロック道の旧日光街道が真っ直ぐ北へと伸びている。

 

       よこまち柳通り

多くはないが、宿場の雰囲気を残す建物もある。

600メートル程進んで県道261号線と再合流する地点が古河宿の北の端。

商店が少なくて、歩いていても面白みにかける旧街道です。

宿場のはずれを左に曲がると本成寺。

 

    本成寺(横山町3-4)                 参道の無縁墓標

赤門と門前の参道に並ぶ無縁墓標のボリュームが印象的です。

境内の手水鉢には、椀状凹みがあるように見えるのだが、はっきりしないので?を付けておく。

  本成寺の手水鉢 椀状凹みがあるようだが・・・

中々目的の椀状凹みに出会わない。

次の雀神社はその昔この地方の総鎮守だったというので、期待が高まる。

  雀神社(宮前町4)

彩色の狛犬がいる。

    親子の狛犬

広い境内を丁寧に探し回ったが、椀状凹みはないようだった。 

 

古河市内を椀状凹みを探して随分歩き回った。

収穫は一か所のみ。

駅に向かう途中、これが最後と心に決めて、徳星寺に寄る。

    徳星寺(横山町3-3)

がまんのし甲斐があった。

椀状凹みを見つけたのです。

宝筐印塔に、しかも2基。

1基は、山門前左手の石造物群の中に立っていらっしゃる。

 

  山門前左の宝筐印塔

  宝筐印塔台石の椀状凹み

誰が見ても明らかな椀状凹みがある。

この、誰が見ても、というのが重要なのだ。

もう1基は駐車場の隅にあって、凹みが浅いので、誰が見ても、というわけにはいかないが、椀状凹みと認めてもよさそうだ。

 

  駐車場の宝筐印塔とその台石の椀状凹み

終わりよければ、全てよし。

駅前の蕎麦屋でビールで祝杯をあげて帰宅する。

 

初めの予定では、大きな宿場だけを調べるつもりでいた。

と、すると古河宿の次は小山宿ということになる。

その間には、野木宿と間々田宿がある。

実際には、東北本線の間々田駅で降りて、間々田宿から小山宿へ向かった。

間々田宿を飛ばして小山宿へ直接入っても良かったのだが、出来るだけ丁寧に調査したいと思ったからです。

そうすると一か所だけチェックしなかった野木宿が気になって仕方ない。

後になって野木宿へも行くことになり、結局、全宿場調査と云う事になってしまいます。

 

茨城県古河市から栃木県の南端、野木町へ。

県境を越えるとすぐ左に野木神社の鳥居が見える。

 

       野木神社の鳥居           長い参道、神社はまだまだ見えない

ものすごく長い参道の奥に本殿。

          野木神社本殿

この日は東京を午前5時半に出たので、野木神社に着いたのは午前7時だった。

誰もいないはずの境内に人の気配がする。

近寄ってみたら、みんな望遠レンズで上を覗いている。

 

  望遠レンズをのぞく人たち          樹齢600年のケヤキ

肉眼では見えないので、何をしてるのかと訊いたら、フクロウを観察しているのだという。

練馬ナンバーの車もあるから東京から来ている人もいるらしい。

物好きな連中だなと呆れたが、石造物の穴を探しに来るお前は変人ではないのかと問われると返事に窮する。

目くそ鼻くそとはこのことか。

 ー野木宿ー

地図に戻って、少しばかり上に移動してほしい。

満願寺があり、浄光院が見えるはずだが、野木神社鳥居からわずか1キロの範囲が野木宿ということになる。

「日光道中野木宿」の説明板がある。

 

     野木宿本陣跡                脇本陣跡   

説明板のある場所が本陣跡で、道路の向こうが脇本陣跡。

子孫だろうか、いずれも熊倉という表札がかかっている。

野木町教育委員会の説明板によれば、天保14年(1843)、野木宿の人口は527人。

本陣1、脇本陣1、旅籠2という極小の宿場だったという。

       野木宿メインストリート

その為、助郷が不可欠で近隣23の集落はその負担に悲鳴をあげたらしい。

満願寺と浄光寺の門前に大きめの十九夜塔が立っている。

十九夜塔は、女人講。

 

 満願寺の十九夜塔         浄光院の十九夜塔

栃木県南部は特に多く、廿三夜塔602基に対し十九夜塔1599基という調査報告(『下野の野仏』もある。

宿場のはずれの観音堂にも十九夜塔はあるが、その台石には椀状穿凹がある。

 

 観音堂の十九夜塔         台石の椀状凹み

その対面にも石造物群があるが、その中の普門品供養塔は台石が二段いずれもボコボコの状態だ。

 

  普門品供養塔               台石の凹み

松原という信号地点表示を過ぎる。

     信号「松原」

今の町並みからは信じられないが、かつてはこの辺りは松並木だった。

清川八郎という人の『西遊草』には「宿(古河)を出、十八丁にて野木宿なる弊邑にて馬をかへ、松原を歩む、並木にてきれいなり」とある。

この辺りは、石塔があれば十九夜塔と思って差し支えない。

松原から約2キロ、愛宕神社裏の観音堂脇の3基の石塔の内2基は十九夜塔。

 奥の2基が十九夜塔、手前廿三夜塔

中の1基は、よくぞここまでと感心するほど穴が深い。

 十九夜塔の椀状凹み

廿三夜塔にも椀状穿凹がある。

 

            廿三夜塔とその台石の凹み            

寺や神社の石造物を傷つけるのは気が引けるけれど、自分たちが建てた夜待塔なら、気兼ねせずに穿つことが出来るということなのか。

野木町と小山市の境界線の手前、左に法恩寺、右に友沼八幡神社があるが、その両方に椀状凹みがあった。

法恩寺門前には石塔群があるが、その中の十九夜塔に凹みがある。

恐らくどこか別の場所にあったものを移動したものらしい。

 

              法恩寺前の石造物群と凹みのある十九夜塔

寺のものではない、自分たちの、という意識がここにも垣間見られるようだ。

友沼八幡神社の手水鉢にも凹みがある。

それより気になるのは、狛犬の背中。

  友沼八幡神社の狛犬

べったり白く塗られたセメントは、背中の穴を塞いだものと見えるがどうだろうか。

 

大きな宿場だけにしないで良かった。

野木宿は、宿場としては小さいけれど、椀状凹みが沢山あった。