石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

107 佐渡の義民碑(中)-明和の一揆ー

2015-07-16 07:13:11 | 石碑

畑野から松ヶ崎へ。

長谷寺を過ぎるとやがて小倉の集落に入る。

県道を左に折れると5基の石碑がある。

遠い背後に物部神社が見える。

この石碑群に注目するのは、5基のうち3基に「餓死」の文字が読めるからです。

向かって右端の石碑、中央に「為餓死病死有縁無縁霊魂之法界平等利益也」とあり、右に「宝暦十一辛巳年 施主 当村男女等」、左に「六月 修善日達 願主 定賢 建外」と彫られています。

江戸時代、佐渡には3回の大飢饉があった。

宝暦と天保と嘉永。

宝暦の飢饉は、宝暦5,6年(1755-56)。

寛延の一揆が収束してわずか5年後のこと。

「空前絶後の」という形容句がぴったりの大飢饉でした。

宝暦11年(1761)建立ということは、、宝暦の飢饉での餓死者、その5回忌ということになります。

右から2番目と左端の石碑は、両方とも「嘉永七年建立」で、「為餓死百回忌菩提」の文字があります。

何百人もが餓死した大惨劇を村人たちは100年間、語り伝えてきた、ことが分かります。

それとは別な建立目的があった、という人もいます。

飢饉に見舞われるのは、先の事変での不慮の死者に対する供養が足りなかったからだ、という考えが当時はあったんだとか。

だから、嘉永2年(1849)から毎年続いた自然災害による凶作に慄いて、嘉永7年(1854)、宝暦の飢饉の餓死者供養の百万遍供養をしたのではないか、これは畑野町史の見解ですが、面白いので紹介しておきます。

碑が巨大な自然石であるのは、その重さが地下の災厄を招く悪霊を沈めると信じられたからなのだそうです。

 

では、空前絶後の宝暦の大飢饉とは、いかなるものだったのか。

被害が最大だった小倉村と猿八村では、370人もの餓死者が出たとの記録があります。

現在の猿八村。耕地整理されて水田一枚一枚が広い。昔は畳1,2枚の千枚田だった。

死者が相次ぐという究極の不幸は、同時に、新たな問題を生み出しました。

労働力の減少!

翌春、耕作されないまま放置された田んぼが出現します。

猿八村での一番の大百姓、徳兵衛家は長男を残して一家全員餓死。

    イメージ映像(本文とは無関係です)   

その長男を引き取った小倉村の親類は、1町5反の田の引き受け手を探すが見つからない。

当時、1町歩を超える田は価値ある財産、引き受けてがないなどとは、信じられないこと。

それほど働き手がいなかったのです。

村方ご相談の上、誰人にても入替なさるべく候(誰が耕作しても文句はいいません)」という証文を、小倉村の親類は猿八村の名主に提出しています。

「握り飯田」と云う言葉は、握り飯と交換した田という意味ですが、この頃、できた言葉だそうです。

 

耕作者不足は、奉行所にとっても深刻な問題でした。

年貢の減収に直結するからです。

実は、幕府は寛延の事件のあと佐渡支配の体制を奉行+代官に強化しました。

年貢徴収業務を奉行所から切り離し、代官所で厳格に行うことにしたのです。

宝暦の飢饉時の代官は、藤沼源左衛門と横尾六右衛門、奉行は石谷清昌でした。

年貢徴収に辣腕をふるうべく来島した代官たちを待っていたのは、この耕作放棄田問題。

彼らは、日当を支払って人足を駆り集め、小倉村26町7反歩の作付けをします。

猿八村も同様でした。

村人が飢えていれば、農作業は進まない。

援助米を男一日2合、女1合を与えることにし、年貢の減額も行いました。

小倉村の物部神社の境内社「藤源神社」の祭神は、なんと代官藤沼源左衛門。

   藤源神社(小倉村)

あまりの不条理、不合理、支離滅裂に言葉を失います。

猿八村の法華堂にも、不条理な石碑があります。

        法華堂(猿八村)

大正15年建立の「藤沼源三郎君碑」がそれ。

「150遠忌」とあるから、150年間、救いの神として、村人は彼を崇めてきたのでした。

しかし、「救いの手」も、内実は年貢徴収体制の再確立の為だったことは明白です。

そもそも餓死の遠因は、寛延の一揆の原因となった急激な年貢の増徴にありました。

増徴で限界まで耐えていた百姓の「体力」が、飢饉により一挙に崩壊したのです。

奉行所が蒔いた種を奉行所がしぶしぶ刈り取っただけの「善政」なのに、村人の「お上」意識は、藤沼代官を神に祀り上げるのでした。

そんな「善政」でも、しかし、ないよりはあった方がいい。

空前絶後の宝暦の飢饉でも一揆が起きなかったのは、こうした「善政」があったからでした。

歴史に「たら、れば」を持ち込むのは邪道であることを承知の上云うのですが、「もし、石谷奉行、藤沼代官体制が続いていたら、明和の一揆はなかった」かもしれません。

天領佐渡の弱点は、奉行や代官が徳川幕府という江戸の本社から佐渡支社に転勤してくることにありました。

            CG江戸城天守閣

彼らの任期は短く、その目はいつも本社に向いて、島民に向けられることは少なかったのです。

明和元年(1764)、代官の下役・御蔵奉行として赴任した谷田又四郎は、その典型的転勤族でした。

彼の役目は、年貢納入の監督・指揮。

その杓子定規で人情味のない仕事ぶりに、事件は起きた。

明和3年(1766)夏、佐渡は大雨と洪水に見舞われ、国仲一帯は海のようになった。

 

必然、米質は悪い。

八幡村など4村が納入した年貢米を、谷田は、米質が悪いからという理由で、その全部を突き返します。

百姓たちは、相川で場所を借り、6日間、242人手間をかけて青米やクズ米を取り除き、新しく俵ごしらえをして再納入しました。

          相川・大工町

しかし、検査に合格したのは、56俵の内41俵だけ、15俵は、また、突き返されたのです。

しかもその際、「こんな米が受け取れるか」と庭に米をばらまいたことが、村人たちの怒りを買いました。

このニュースはあっという間に島中を駆け抜け、不穏な空気が広がります。

これまで御蔵奉行のなされ方に御座候ては、とても村方百姓共相立ち候儀に御座なく候、とてもこの侭にては村々絶え果て候間、江戸表へまかりいで・・・

30カ村の村役人から佐渡奉行にこんな願書が提出されます。

奉行所へ押しかけようと息巻いている平百姓をなだめすかしているが、それも限界に近いというのです。

翌明和4年(1767)も、雨続きの天候に虫害が大発生、「御年貢は申すに及ばず当座の夫食に差支え」る村々が続出する。

 

しかし、谷田は「虫付きによる本年の不作については年貢の減免は一切行わない」と招集した村役人に申し渡し、更に「米質の悪いものは受け取らない」と念を押します。

反応は、村々への回文となって現れました。

出所不明だから、怪文書とでもいうべきか、10月下旬のころです。

近年当国両支配(奉行所と代官所)と成られ物事一同ならず、御取箇(年貢)つよく相増し、かように末々相成り候ては一国の百姓立ゆかず候間」「来る11月4日暮れ六つ時国中の男子15歳以上50歳までの者は相川に押し寄せ」「御蔵方、御代官を打ちつぶし、御奉行様と地役人によって治政下さるよう訴えよう」と呼びかけるもの。

ここで「打ち毀し」の文字が初めて登場する。

打ち毀しをする御蔵方谷田又四郎の館へは「四方より梯子をかけ、屋根より破り申すべし」とその段取りも具体的。

次いで御代官屋敷を打ち毀し、「御城(佐渡奉行所)の御門前にて、一同大音に御願い、御願いと申すべし」。

勿論、「御願い」するのは、年貢の減免だが、御蔵奉行の館を打ち毀しておいて、それが聞き入れられると思っていたのだろうか。

それとも打ち毀しの強硬手段を伴わなければ、上訴は叶わないと踏んでいたのか。

注目の11月4日夜、相川では何事も起らず緊迫のまま朝を迎えた。

翌5日、10人、20人と連れ立って百姓たちが弾誓寺へ集まるも、リーダー不在のまま、何をするでもなく散会して、一揆は不発に終わります。

                         駆け込み寺弾誓寺(相川)

なぜ、リーダーは現れなかったのか。

集まった人数の少なさに決起をためらったのか。

寛延の一揆の死罪判決が脳裏をよぎったのか。

誰がリーダーだったのか、そうした推測資料もありません。

とにかく明和の一揆はこの日、実質的に終わったことになります。

 

       

打ち毀しは不発に終わったものの、成果はあった。

いかような痩米にても滞りなく御受け取りなされ候」、年貢米納入基準が格段に甘くなったのです。

名指しで打ち毀し宣告をされ、さしもの谷田又四郎もびびったのでしょうか。

島民事情には疎くても、徒党の怖さは知っていたと見える。

 

これで一件落着、島は平静を取り戻すかに見えた11月18日、三宮村の三宮大明神の鰐口の綱に結わえられた一枚の紙が、さらなる事件の発端となります。

       三宮大明神(畑野・三宮)

御年貢米延納の誓願について協議するため、来る11月23日、栗野江村加茂大明神に集合すべし」。

差出人は無記名でした。

この一枚の紙切れの内容がどのように村々に伝わって行ったのか気になる所ですが、5日後の11月23日、加茂大明神に集まったのは、74カ村の代表者たち。

       加茂大明神(栗野江)

島民の、この集会に対する期待の大きさが人数にでています。

 この日は、これまでの経過と各村の代表者が紹介され、訴状の内容を検討しあい、3日後の26日、最終決定をすることにして散会します。

26日は、まず惣代を選出。

選ばれたのは、小倉村の重左衛門、瓜生屋村・仲右衛門、後山村・助左衛門、舟下村・五郎右衛門、畑野村・文左衛門、畑野村・藤右衛門、それに長谷村・遍照坊智専の7人。

 明和義民の碑(長谷・旧遍照坊跡)

上段右から、小倉村 重左衛門殿 小倉村 重五郎殿 舟下村 五郎右衛門殿 瓜生屋村 仲右衛門殿

下段    畑野村 藤右衛門殿 畑野村 文左衛門殿 後山村 助左衛門殿 大正三年八月建之

この日決定した訴願の内容を遍照坊・智専が清書して、12月1日、畑本郷村観音堂で調印する運びとなります。

訴願のメインは、寛延元年(1748)からわずか3年で8700石も増えた年貢をもとに戻すこと。

寛延の一揆では、同じこの訴願を、幕府は頑として認めませんでした。

其の儀相叶わず候わば、又ぞろ方便を以て相願い申すべく相談致し候」。

この場合の方便とは、打ち毀しの意。

認めなければ実力行使も辞さないと百姓たちは強気の姿勢に出ます。

 

  HP「歴史の情報蔵」から無断転用

 

寛延の一揆からわずか18年、注目すべきは「お上に陳情する」から「叶わずば毀すぞ」への変化。

大きく、急激に時代は、揺れ動いていました。

奉行所も素早くアクションを起こす。

間諜から入手した惣代名簿をもとに、その夜、全員を逮捕。

明和の一揆は、強訴する前にジ・エンドとなったのです。

逮捕はしたものの、奉行所はその扱いに慎重でした。

下手なことをして、百姓たちの不平不満のマグマを刺激することを怖れたからです。

逮捕者の吟味は、翌5年5月から始まるのですが、その間、不作で困窮する島人に救援米を施し、かねて不評で廃止を求められていた代官制の廃止にも応じます。

そして判決。

打ち毀しを平気で口にする百姓パワーを前に、奉行所がいかに及び腰であったか、その証左みたいな判決でした。

百姓惣代は全員無罪、釈放。

一人、遍照坊・智専のみ死罪を申し渡されます。

「(此者儀去る亥年田作虫付に付き徒党強訴可致廻文謀計を以取拵此者儀、去る亥年田作虫付に付き、徒党強訴すべき廻文謀計を以て取り拵えへ、右書面に相川表勤役の者御約宅打潰す旨、竹鑓、梯子、斧などを持出し候様相認め、不得心の村方へは火をかけ焼払うべく相触れ候に付、百姓共相川へ罷出候所存にも相成り、其の上国中百姓願と偽り、数ケ条不法の儀相認め強訴致し、願の通り相叶わずば、陣屋下へも火を掛け申すべき旨、公儀をも恐れず法外の儀共相打ち、御制禁之徒党強訴を企て、其の後栗野江村加茂明神社へ百姓共寄合の節強訴件(くだん)の訴状下書き差出し、重々不届至極に付き明和七年三月二十一日死罪 以上」

御蔵奉行谷田又四郎の館打ち毀し計画のリーダーは、遍照坊智専であると決めつけているのが面白い。

リーダーが不明で決まらなかった、明和の一揆のジグソーパズルがこれで完成することになるが、遍照坊智専は頼まれて訴状を清書しただけで、リーダーでも何でもありませんでした。

村との軋轢を避けたい奉行所が、惣代長百姓らの処分に踏み切れず、智専一人に罪を負わせる構図を描いたのでした。

「智専は悪人」でなければならず、奉行所はそのイメージ作りにも精を出します。

「返済できない大借金がある」とする遍照坊の旦那衆の証言はその成果の一つ。

其の後は段々寺中の者を御呼び出され、御吟味の様これあり、なかんずく小僧申し分悪敷、遍照坊此の儀にて罪重く相成り候

ついには寺の小僧を呼び出して遍照坊の悪口を云わせる有様、でっち上げに余念がない。

一方、釈放された百姓惣代たちはどうであったか。

舟下村五郎右衛門は入牢直後、重病を理由に放免されます。

五郎右衛門は、寛延の一揆でも活躍し、明和の一揆の張本人であったことはほぼ間違いがない。その人間を釈放することに佐渡奉行所の姿勢がよくあらわれている」。

田中圭一氏はその著書『天領佐渡(1)』で、このように述べています。

寛延の一揆の惣代たちと対照的に、明和の一揆の惣代たちには各人の顕彰碑がありません。

記録らしい記録としては、畑野村藤右衛門家に残された文書があるだけ。

藤右衛門は、後山村の助左衛門と共に、明和の一揆の首謀者と巷間噂された人物でした。

明和四年ハ夏秋水害虫害交々臻リ大凶作トナリ。住民窮乏言語ニ絶シ、上納モ又意ノ如クナラズ。然ルニ時ノ代官催促過酷ヲ極メ、温情更ニ加フルナシ。此処ニ於テ二代本間藤右衛門遍説、義憤黙シ難ク、決然身ヲ呈シテ事ヲ起シ、一挙ニ弊政を改メ住民塗炭ノ苦ヲ救ワントス。(略)第二代本間藤右衛門遍説道照居士、明和訴訟事件の主唱者ニシテ(略)近傍五十餘村ノ重立ト栗野江ナル加茂社内ニ会議シ夫ノ事件ヲ起シタリ。(略)本間藤右衛門ヲ義民ト云フハ故ナキニテアラザルナリ。後世心スベシ

明和7年(1770)3月21日、スケープゴート遍照坊智専は、釈尊の救世捨身に則り罪を一身に受け、泰然自若として般若心経を唱えながら斬に処せられた、と伝えられています。

      HPフオト蔵「斬首直前のお伝」より無断借用

時も 同じ明和7年3月21日、あの悪代官谷田又四郎は、江戸に帰任すべく小木港で船待ち中でした。

明和一揆のもとが御蔵奉行谷田にあることは明らかです。

一揆の責めを一身に負って遍照坊智専が斬に処せられたとき、張本人谷田は涼しい顔で島を離れようとしていたことになります。

偶然の産物がもう一つ。

江戸・大塚の護国寺から提出されていた遍照坊智専の釈免願いが、幕府によって認められ、その赦免状を持参した役人は20日に佐渡に到着していました。

しかし、その役人は八幡村で宿を取ったため、赦免状は斬首に間に合わなかった、という言い伝え。

伝説とは、かく創られるという見本みたいな話です。

 

遍照坊智専の法名は「憲盛法印」。

墓は、長谷寺にあります。

長谷寺への参道石段の左側にある寺院が遍照坊。

 

本堂の右に立派な供養塔があります。

死後昇階したのか、僧階は「権大僧都」。

長谷寺の駐車場から100m、県道を左折して坂を上るとそこが旧遍照坊跡。

巨大五輪塔の高さは4.14m、佐渡で一番大きな石造物でしょう。

大正8年、法印憲盛150回忌を紀念して建立された五輪塔です。

 百姓の身代わりになって死んでいった遍照坊智専を悼んで、島民は篤く手を合わした。

義民26人の中で、法印憲盛の供養塔が断然多いのも、むべなるかな。

全島で120基。

バス路線ごとの分布は、南線(両津ー新町ー佐和田)沿いに50基、本線(両津ー相川)26基、小木線(佐和田。ー小木)12基、河崎線(両津―片野尾)10基、赤泊線(佐和田―赤泊)9基、前浜線(小木―多田)7基。

全部を掲載しても無意味なので、意味合いと特徴のある供養塔をピックアップしてみた。

建立年代としては文政元年(1818)から天保15年(1844)のものが多い。

明和のものも30基ほどあるが、ほとんど明和7年3月21日、これは処刑日だから、建立は後年ということになります。

「  明和七庚寅
 遍照坊法印憲盛塔
   三月二十一日」加茂歌代開発センター前

 旧遍照坊跡地の五輪塔は、150回忌だが、33回忌と50回忌の供養塔もあります。

それたけ長い間、島民から悼まれた義民だということになる。

三十三回忌碑(水渡田公民館)

南線の青木にある円慶堂には、五十回忌碑があるが、コケで読めない。

拓本すればいいのだが、その技術と時間がない。

読めないまま載せておく。

 

小倉の御梅堂にも文政2年(1819)建立の五十回忌碑がある。

小倉には真言宗の遍照坊の檀家が多かったはずだが、これは「南無妙法蓮華経」。

奉唱満首題一千部とあるから、「南無妙法蓮華経」を千回唱えたということか。

旧真野町浜中の十王堂には、「光明真言五百万遍 法印憲盛不二位」なる供養塔があります。

百万遍念仏と法印憲盛供養塔が合体したもので、このスタイルが断然多い。

百万遍念仏については、このブログ「NO57 佐渡の百万遍供養塔」http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/348ff823fd63d6b9bcbf32481718e495

をご覧ください。

百万遍念仏は、集団で行われる。

集団で法印憲盛を供養するのには、2通りの意味があった。

法印憲盛が惨殺された翌年、佐渡は大虫害に襲われた。

稲穂を食い荒らすツマグロヨコバイを佐渡では「遍照坊虫」と呼びます。

       遍照坊虫(ツマグロヨコバイ)

ツマグロヨコバイの大発生は法印憲盛供養が不十分だったから、その怨霊によるものだと考えた百姓たちは、「虫供養」、「虫念仏」と称して、百万遍念仏に精を出します。

もう一つは、集団示威行動としての百万遍念仏があります。

島民の義民に対する崇拝と感謝の念は篤く、各村々の堂では毎年念仏供養を欠かしませんでした。

しかし、お上に逆らった者たちを大っぴらに供養することは奉行所を刺激することになります。

そこで、豊作祈願の虫念仏と称して、公儀の目を欺いたのです。

お堂に掛けた義民の戒名を書き連ねた掛け軸の前で行われる虫念仏は、なんと今でも連綿と続けられていました。

「なんと」と書いたのは、続いているなんて思いもしなかったからです。

 私は、昭和20年(1945)から昭和33年まで、つまり小学1年生から高校卒業後1年間まで佐渡・旧金井町にいました。

子供の頃、百万遍念仏を見たことがなかったので、国仲では廃れて、外海府でしか行われないようになったんだとばかり思っていました。

しかし、「佐渡の百万遍供養塔」を書くに当たって調べたら、小佐渡の海岸地帯では今でも行われていることが分かりました。

今回の「なんと」は、国仲でも虫供養の百万遍遍念仏が行われていることを知ったからです。

旧金井町新保に住む中学校の同級生Kくんの話では、隣近所7軒で構成する「念仏講」があり、義民の戒名を書き連ねた掛け軸を前に大数珠を廻しながら、念仏を唱えるのだとか。

掛け軸は各家持ち回りで管理して、年に数回「虫念仏」を行ったものだが、今は正月に1回行うだけだそうです。

まず「一国総代 長谷 遍照坊 上山田善兵衛 新保作右衛門 併せて26名 精霊頓証菩提のために」と唱えて、「南無阿弥陀仏」を108回繰り返し、最後に「願似此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」で締める。

寛延の一揆で死罪となった辰巳村の太郎右衛門や椎泊村の弥次右衛門ではなく、軽追放となった作右衛門の名前をあげるのは、地元新保の念仏講だから当然でしょう。

旧金井町では、新保だけでなく、貝塚や平清水でも、虫念仏は盛大に行われているそうで、そんな広くもない故郷のことなのに、知らないことだらけで、誠にもって情けない。

2014年(平成24年)2月4日新潟日報(写真は前日の宵祭りで行われた百万遍念仏)

77歳の人生のうち佐渡にいたのはわずか13年、しかも子供の頃ですから知らないことの方が多いのは当然です。

では、64年もいる東京は知っているか。

東京では、百万遍念仏なんてとっくに消滅していた、とばかり思っていたのに、違ったのです。

佐渡から帰って半月後、巣鴨の縁日へ行ったら、江戸六地蔵の真性寺がかまびすしい。

境内に入ってみたら、なんと大数珠を廻しての百万遍念仏の最中でした。

天保10年から、災い回避の大祈願として連綿と行われて来たイベントだそうで、東京のど真ん中で百万遍念仏があるなんて心底びっくり。

印象的だったのは、子供たちだけの数珠まわしがあったこと。

伝統的仏教行事が次の世代に受け継がれてゆく光景は感銘的でした。

 

≪参考図書≫

〇『畑野町史・総編 波多』昭和63年

〇田中圭一『天領佐渡(1)』刀水書房 1985

〇伊藤治一『佐渡義民伝』佐渡農事協会 昭和13年

〇小松辰蔵『佐渡の義民』佐渡観光社 昭和42年

〇北見喜宇作『課税の変遷と佐渡義民始末』金沢村教育会 昭和13年

〇祝勇吉『佐渡島内石仏・石塔など集大成(義民碑編)』昭和63年

〇山本修之助『佐渡碑文集』佐渡叢書刊行会 昭和53年

 

 

 

 


106 佐渡の義民碑(上)―寛延の一揆ー

2015-07-01 06:34:45 | 石碑

観光客が決して行かない名所が、佐渡にある。

栗野江・城が平(標高200m)の「佐渡一国義民堂」。

国仲平野を見下ろし、正面に大佐渡の山脈(やまなみ)が聳える眺望は、中々の絶景だが、訪れる人は極めてまれ。

観光客どころか、島民でも知る人は少ないようだ。

「佐渡一国義民堂」は、江戸時代、佐渡で起こった一揆のリーダー26人の霊を祭祀するお堂。

一昨年、改築されたばかり。

木造神殿造りの設計は、佐渡の伝統文化を学ぶ専門学校の伝統建築学科の学生たちが担当した。

お堂の前の看板には、祭祀されている26人の義民の名前が並んでいます。

今回から3回に分けて、彼ら26人の義民の墓、石碑、顕彰碑を訪ね、寛延、明和、天保の一揆を振り返ります。

と、書いて、改めて看板を見ると、早速、問題発生。

冒頭に「慶長の義民」として、3人の名前があるからです。

では、なぜ、慶長の強訴を、私は除外するのか。

理由は、二つ。

一つは、3人の義民の記録が乏しくて、明確な人物像が把握できないこと。

もう一つは、江戸へ出て、幕府に年貢5割増しの実施見送りを求めた彼らの直訴はそのまま認められ、5割増租を命令した代官は切腹となったこと。

直訴した農民側に犠牲者が出ず、強訴が完全勝利で終結することは極めて珍しいことです。

慶長8年(1603)といえば、徳川幕府は生まれたてのホヤホヤ。

佐渡奉行所もまだ設置されていない。

支配管理体制が確立される前の、例外的出来事だったのかもしれません。

江戸時代、越後の各藩ではこれといって大きな一揆が発生しなかったのに、佐渡では3回も騒動が起きた背景には、初期の成功体験が島民の脳裏に生き続けたのではないか、なんとなくそんな気がします。

 

一揆の直接的な引き金は、飢饉と年貢増、これにつきます。

それに、佐渡奉行所の「悪政」。

寛延元年(1748)、全国的に百姓一揆や打ち毀しが相次ぐ中、佐渡の村々にも緊張が走っていた。

定免制(豊作、凶作に関係なく定額を徴収する制度)をやめ、検見制(その年の収穫高に合わせ年貢を決める)に復帰することを一方的に宣言し、江戸から二人の役人が来て、検見を実施し始めたからです。

定免制では、新田開発による生産高の増加が反映されず、年貢増は難しいと判断したからでした。

その最中、名主らを集めて奉行所側は「かねて要望のあった雑税の半減を実施するから」と全員に印を押させ、同時に「検見の結果、5150石の増米を命ず。今、押した請判は増米承知の請判とする」と一方的に宣言、騒然とするなか二人の役人は、さっと退座したのです。

                          復元 佐渡奉行所

奉行所の、このペテンにも似た姑息なやり方は、奉行所不信を増福させ、一揆の遠因となります。

4万石の年貢に5150石の増米は、連年の凶作にあえぐ佐渡の百姓に重くのしかかりました。

納付期日に遅れる者を、奉行所は無慈悲に牢屋へぶちこみました。

夫の、父の、そうした姿を見るに忍びず、女たちはなけなしの衣類を売って納米に努めます。

だが、そんなことで完納できるはずもない。

思い余って田畑を売りに出すも、買い手がつかぬ有様。

乞食となり、門々に立つも、ほどこしはなく、餓死を待つのみ。

当時、幕府の出先機関としての佐渡奉行所には、島の百姓の実情に配慮する姿勢など皆無でした。

寛延2年(1749)佐渡奉行に任ぜられた鈴木九十郎の基本姿勢は、「まず増税ありき」。

着任するや、なんと更に3600石の増米を命じます。

「無い袖は振れぬ。江戸表へ出て直訴したい」と息巻く百姓たち。

それに対して、奉行所は「増米承諾の請け判を押せば、どこへ行こうと勝手」と反応。

百姓たちが仕方なく判を押すと、奉行所は直ちに出国許可証の発行を停止するという鉄面皮の卑劣さで対抗するのでした。

ならば、法を破って、隠れてでも江戸表に行くしかない、こうして寛延の越訴は実行に移されてゆくことになります。

 

ここからは佐渡博物館前に立つ「殉国碑記」からの引用。

原文は漢文の素文ですが、書下ろし文にしてあります。

「(略)飢饉、路に載(み)つ。而るに吏の屋を潤して訾(おも)はず。辰巳村の太郎右衛門、椎泊村の弥二右衛門、二人相謀りて曰く、吾人、今日の極、諸(これ)を江戸に訴へざるを得ず。焉(これ)を訴へなば必ずや死せん。人生、誰か死無からん。寧ろ国に死せんかと。太郎、因りて時弊二十余条を疏し、弥二往きて諸を大府に上(たてまつ)る

太郎右衛門が書いた訴状は、28カ条。

最初の5カ条は、2年続きの年貢増米の不当性について。

 残りの23条は、まさに「時弊」、佐渡奉行所に残る悪しき慣行と二重課税の廃止要求でした。

「こんなことは即刻止めてほしい」条項抜粋一覧。

◇役人が公務で村を回る時の宿泊費を村方に負担させること。
◇百姓が婿養子する時、こ祝儀として500文、奉行所に徴収されること。
◇年に2回、宗門改めで役人が村を回るが、その宿泊費を各戸から徴収すること。
◇相川の牢番の賃金を島民が負担すること。
 その上、入牢する時は牢番に手数料として150文、むしろ代100文を渡さなければならないこと。
◇奉行所の役人の家の薪を村から納めさせること。
◇役人の下男の給金を村が負担すること。
◇たばこをつくると畑に課税されるのに、生産したたばこからも1本ずつ2厘取るのは、二重課税。
◇佐渡の百姓に他国へ米を売ることを禁じているのに、奉行所が年貢米を他国売りしているのはおかしい。わら細工   タバコ、茶などの他国売りを認めてほしい。

訴状を書いた太郎右衛門の姓は、片岡、時に58歳。

辰巳村の名主ですが、もともとは、山田村の村殿の家柄でした。

山田村は、佐渡高校後方の高台の村。

山田村の宗念堂には、今、太郎右衛門の墓と顕彰碑がありますが、この宗念堂は屋敷内に太郎右衛門が建てたお堂です。

現在、佐渡博物館に展示されている阿弥陀三尊は、この宗念堂の本尊でした。

片岡家伝来の守り本尊ということになります。

一揆の指導者と彼の家の阿弥陀三尊、このミスマッチ感こそ、寛延の一揆の特徴と云えるでしょう。

この一揆の惣代の大半は、小前百姓ではなく、名主でした。

45歳の時、家督を息子に譲り、太郎右衛門は、単身、八幡村に移ります。

海からの潮風吹き付ける八幡の砂丘に新田を開発しようという野望があったからでした。

実現困難と思われたこの事業も、8万本の松を植樹することで、見事成功します。

7町6反の新田の村を辰巳村と名付けて、彼は名主に収まります。

村人からの信望篤く、奉行所からも一目置かれる名主の太郎右衛門が、では、なぜ、一揆の首謀者となったのか。

首謀者になることは、彼個人にとっても、彼の家族にも、メリットはない。

と、すれば、正義感とか義侠心でしか説明つきません。

見義不為、無勇也(義を見てせざるは、勇なきなり)。

寛延の一揆の清々しさは、リーダー太郎右衛門のこうした心情風景に拠る所が大きい、と云わざるを得ません。

太郎右衛門作成の訴状は、260カ村全部が調印し、椎泊村の弥次右衛門と吉岡村の七郎左衛門が一国惣代として出府することになります。

島外へ出るには、出判(いではん)が必要だが、当然、二人には望むべくもない。

身分を隠し、漁民仲間の協力を得て江戸に上るも、書類に不備があることが判明して、一旦、帰国、寛延3年(1750)9月、再び、海を渡ります。

今度は、新保村の作右衛門、下村の庄右衛門、和泉村の久兵衛も加わって惣代は5人に。

訴状を提出し、言い渡しまでの半月間、5人の心労はいかばかりだったろうか。

なにしろ、この年発布されたばかりの法令が重く心にのしかかっていた筈だからです。

すべて強訴・徒党・逃散はかたく禁ぜらるることなるに、其のふるまひあること罪あさからず、主張の者は更なり。相計りて事おこすものども重く罰すべしとなり」(『徳川実記』)

だが、案ずるより産むがやすし。

半月後、彼らを待っていたのは、望外の朗報でした。

国元への至急報に彼らの歓びが読み取れます。

御名主わざわざ飛脚遣わし申し上げ候、まずは願ひの筋も上首尾に御座候間御気遣ひなさるまじく候。私共願筋はいよいよ上首尾、鈴木殿(鈴木九十郎佐渡奉行)は不首尾(注:免職)にて・・・佐州一国百姓中」

訴状についての取り調べは、江戸から72人の役人が来島して行われ、寛延4年(1751)7月、佐渡奉行所で判決が言い渡された。

                     佐渡奉行所の御白洲

百姓側からは、太郎右衛門と椎泊村の弥次右衛門が死罪、惣代の多くは追放、遠島、国払の刑(注1)に処せられたが、奉行所の役人は死罪を含め百姓側の4倍弱の罪人(注2)を出して、役所側の完敗となった。

「こんなことは即刻止めてほしい」と23カ条に渡り羅列された、奉行所の悪しき慣行と二重課税の大半はそのまま認められた。

百姓たちの勝利と云ってもいいようだが、実は肝心の年貢増について、判決はノータッチ。

年貢の増減は幕政の基本に関わるものとして、上訴に左右されない姿勢を示したということか。

判決文で引っかかるのは、「越訴で書かれていた飢餓と飢人について調べたが、餓死者はいなかった」という下り。

百姓側も過剰な表現だったと謝ったという。

本当のところはどうなのだろうか。

 

太郎右衛門は、宝暦2年7月18日、斬に処せられた。

享年60歳。

刑期が近づいて面会に来た二人の息子の涙を見て「大丈夫は国の為に身を捨てることを誉としている。お前らはまるで女、子供のようだ。見苦しいことはするな」と諌めたという。

法名は「忍誉乗願蓮心居士」。

遺族が六字名号塔に太郎右衛門、弥次右衛門の名を刻んで供養塔としたところ、奉行所が名前を削らせたという言い伝えがある。

現在、山田村の宗念堂には正面に「南無阿弥陀仏」の六字名号、右側面に「忍誉乗願蓮心居士」、左に弥次右衛門の法名「釈涼敬」が刻された石碑が立っているが、まさかこれが言い伝えの碑ではあるまい。

 

太郎右衛門と同じく死罪となった弥次右衛門の墓は、椎泊の願誓寺にある。

平百姓だが、性剛毅にして義侠心強く、事に当たれば、たとえ火の中、水の中をも厭わない男だったと『佐渡義民伝』には書いてある。

境内の顕彰碑の一部を引用しておく。

昭和25年(1950)、椎泊義民遺徳顕彰会が建立したもの。

義民之碑

「(略)佐渡の義民の中で強剛な義挙によって島民に多大な利益をもたらした者寛延一揆をもって逸とする。この一揆の結果が不正役人の処刑者斬罪一、死罪二、等軽重五十六名の多数を出して、奸邪な吏務を一掃し、諸般の悪政を刷新して島民の生活を安易ならしめたからである。(略)
椎泊村弥次右衛門氏は関所破りの極刑を覚悟の上二回も越佐間を密航し江戸へ出て同志の士気を鼓舞しながら尽力して訴願の目的を完遂せしむるに至ったものである。又椎泊村名主本間七右衛門氏は同氏を陰に陽に援護して後顧の憂いなく義挙に猛進せしめた者である。故に寛延一揆の基本的動力こそこの両氏にあったと言うも敢て過言ではない

 寛延の越訴では、椎泊村から二人の義民が輩出した。

弥次右衛門と七左衛門。

七左衛門は、代々椎泊村の名主だった。

                 七左衛門家

名主として百姓の困窮を見るに忍びず、各村の名主らと相川に出て、抗訴、ついに捕らわれの身となった。

「大森*はゆらりゆらりと椎泊 七左衛門こそ国のかためよ」という狂歌が相川に貼られたという。(*大森五右衛門は、その当時の佐渡奉行所地方(じかた)役人で、寛延越訴の吟味で死罪の判決)

島民の、七左衛門への信頼の厚さが分かります。

出獄して太郎右衛門の補佐役を務め、弥次右衛門の出国にも尽力する。

奉行所が言い渡した罪状は、遠島。

此者儀難立願徒黨いたし其上同村弥次右衛門願惣代に偽り出判申請させ江戸表え遣彼も国法を破一旦在所え忍帰候を其分にいたし剰え組々に寄合を触巧之証文に連判を取候儀重々不届に付き右同日遠島」(弥次右衛門が国法を破って忍び帰ったのをそのまま見過ごし、しかも村々へ触れて寄合をし、惣代が江戸へ出る時の連判を集めたから不届き、遠島)

こうした経歴からは、七左衛門の「闘士」としての顔しか浮かばないが、実は、七左衛門は、しぶしぶ名主を務め、越訴の運動にも積極的に参加したのではなかった、と断ずる学者がいます。

佐渡高校教諭から筑波大学教授になった田中圭一さんが、その人。

田中さんは、その著書『天領佐渡―村の江戸時代史ー』で、その理由を次のように説明します。

寛延2年4月、名主七左衛門から役所に『歳をとり、御用も務めがたいので名主を罷めさせていただきたい』との口上書が出された。七左衛門は村殿の家柄で、元禄検地まで昔の家来を名子としていた。しかし、元禄の検地で名子の耕す田を彼らの名前につけてやり、1年に数日の日手間を各家々からとって自分の田を経営していた。しかし、享保3年、昔の名子たちはその日手間を拒否、七右衛門の田経営は崩壊した。七左衛門はかつて分け与えた1町歩あまりの田地を名子たちに返還させる訴訟を奉行所に対して起こしていたのである」。

つまり、この時、名主・七左衛門は、小前百姓たちと全面対決していたことになる。

弥次右衛門は彼の名子ではなかったけれど、小前百姓の一人で、七左衛門とは対立する立場にあったことになります。

一国越訴というと、無条件にみんなが結束したかに思うけれど、それは間違っているだろう。個人的には、日手間を拒否する小前百姓たちと全面的な対決を辞さない立場にあった七左衛門が、小前百姓の要求を踏まえて一国越訴の先頭に立っているのは、彼はこの運動の先頭に立つことによってしか、村の支配者としての地位を保てなかった側面が大変強かったのではないかと考察するのである。そうした村の中の状況の不安定さこそ、この増米反対の越訴をいやがうえにもたかまらせた理由であったろう」(田中圭一『天領佐渡(1)』P184-185)

冒頭、一揆の引き金は、飢饉と年貢増、それに奉行所の悪政と書いたが、物言う小前百姓の台頭、つまりムラの力関係の変化も要因として挙げなければならない。

七左衛門は流された伊豆七島の一つ、新島で、「魚介を漁撈して日用費に充て、病む者ある時は薬を与え、字を問うものには教え、閑があれば連歌を作って楽しみ」ながら、椎泊の女房に手紙を出している。

田畑屋敷御取上にてはいづ方に住居致候哉。田畑様子もいかやうに罷成候哉、是のみ心にかかり申候」。

越訴の参加は不本意だったかもしれないが、その結果に、愚痴をこぼすことはなかった。

愚痴らしい愚痴といえば「只恋しきは書物ほしく候」という下りか。

        流人の墓地(新島)

島流しは、京都の公家には「処罰」として効果があっただろうが、島育ちの七左衛門が別な島に流されたからと云って同様な効き目があっただろうか。

落剝より望郷の念が強かったようだ。

年の暮れ、こんな句を詠んでいる。

忘られぬ 我が古郷のありさまを 聞傳(きくつて)もなき 年の暮かな」。

翌宝暦4年正月、没。

享年62歳、法名「釈蓮光」。

墓は椎泊の本間家の背後の野墓地にあるが、刻字が崩れて特定できない。

   本間家の墓地。後方大佐渡山脈の前の水面は両津湾。

 

遠島に次いで重い刑罰は、重追放。

寛延の一揆では、川茂村の風間弥三右衛門が重追放となった。

弥三右衛門は、川茂の名主。

         現在の川茂集落

山田村の太郎右衛門の八幡村砂丘開墾計画に賛同して、新田を開発、共に辰巳村を開村した。

寛延の強訴には最初から太郎右衛門の片腕として活躍、訴状には一国惣代として署名している。

重追放となり越後に向かった後の足取りは不明。

法名は「浄光院慧覚開心居士」。

墓は川茂の風間家裏山にあると聞くが、時間的制約で訪問できず、写真はない。

 

寛延の越訴で、最初出府したのは、死罪となった弥次右衛門と吉岡村の七郎左衛門だった。

              吉岡村下の堂

七郎左衛門は、寛延の越訴で重追放となった川茂村の弥三右衛門の実弟。

兄弟そろっての義民として名を馳せた。

中追放となり越後に追われたが、その地で仏門に入り、後、赦されて帰村、浜中の西報寺に住したといわれている。

         西報寺

明和2年(1765)4月、没。

享年56歳、法名は「真密院浄戒法子」。

村に立つ「義民七郎左衛門追遠碑」の撰者は円山溟北。

美文の一部を紹介する。(刻文は白文)

「(略)吉岡村の七郎左衛門、名 罪人たりと雖も、而も其の志は以て千古に暴白するに足る。義と謂わざるべけんや。(略)それ義民の挙は、一国の為にして一家一郷の私を得る所に非ざる所以なり。然れども其の親戚郷党に在りては即ち哀痛の情、当に切迫なるべし。村人の追遠の已むべからざる、亦宣(むべ)ならずや。(略)」

 

私の田舎、旧金井町には、寛延の越訴関連で、二人の義民がいる。

私は、高校まで佐渡にいたが、地元・金井の義民について全く知らなかった。

今になって見れば、恥ずかしいし、情けないことだが、郷土史を振り返る余裕が、当時の島の暮らしになかったように思う。

高校の日本史の授業で、大塩平八郎の乱は教わっても、佐渡の一国一揆について教師がふれることはなかった。

歴史を身近に感じられる貴重な教材だったのに、もったいない。

時代のせいなのか、教師がアホだったのか。

二人の義民は、二度目の出府の増員要員だった。

夫々別々な旅程だったところに、彼らのミッションが隠密だったことが伺える。

久保九兵衛は泉村の名主。

軽追放を宣告され、越後種月寺で剃髪した。

その後、諸国を行脚して晩年帰国、平清水の十王堂に籠って子供たちを教えた。

安永8年(1780)6月14日没。

行年76歳、法名は「即應浄心沙弥」。

墓は、泉村正法寺にある。

墓のある正法寺から200m北の本光寺に君健男県知事の書になる石碑があり、傍らに、久兵衛略伝がある。

略伝は、昭和54年(1979)平清水文化財保存会が建立したもの。

寛延3年島民連年の凶作と奉行所の圧政のため餓死寸前の苦境に泣く。久兵衛憤然立って一身一家を顧みず同志と奔走江都に上り幕府に直訴す。国政即ち改まる。(以下略)

 

 、同じく軽追放となった作右衛門は、佐渡奉行所の地方役人の庶子として新保村に生まれた。

     新保八幡宮から国仲を望む

長ずるに書をよくし、寛延の一揆にも書き役として参加していた。

惣代の増員として上府したのは、本人の意思によるものか、くじ引きの結果か、判然としない。

判決が下った宝暦2年(1752)、作右衛門57歳。

出国後、仏門に入り、出羽象潟で寺子屋を開いて地域の子弟の教育に当たったが、宝暦9年(1759)、彼の地で他界した。

享年64歳。

法名「浄覚俊明菴主」、顕彰碑が、新保八幡宮境内に立っている。

寛延元年州農悉雖遭凶作 徳川幕府有増税之挙 本村作右衛門等謀議 欲為匡救窮厄以減税及直訴 仍発覚処軽追放 宝暦九卯年十月十五日没 此事挺身以可謂為義 以永遠欲追憶所以焉」

「このことは義のために身を投げ出したということであり、永遠に追憶されなければならない」という字句に、義民碑を建てる村人の心情がよく表れているように思う。

 以上、寛延の一揆を振り返り、6人の義民の墓や顕彰碑を見てきた。

6人ともに村人が建てた顕彰碑があるのが印象的です。

佐渡ではこの後、明和、天保と二度の騒動が起きるが、今も顕彰碑が残るのは、明和の法印憲盛と天保の善右衛門、二人のリーダーだけ。

死罪となった太郎右衛門と弥次右衛門は当然としても、軽追放の久兵衛、作右衛門まで顕彰されるのは、それだけこの寛延の越訴が当時の島民の強い関心事であり、全島民の心に深く刻まれた感銘的な出来事だったことになります。

惣代増員として出府し軽追放となった下村(現舟下集落)の庄右衛門の墓が、塚原山根本寺にあると聞き、寺を訪ねたが、墓の有無すら確認できなかった。

「個人情報でプライバシイに関わることなので、寺としては何もいえない。仮にあったとしても、撮影するには、その家の同意が不可欠」というのが、住職の弁。

        根本寺山門

「お説ごもっとも」とさっさと退散。

それにしても支払った入山料が惜しい。

断るのなら、受付で門前払いすればよかろう。

腹が立つ。

かくして、庄右衛門の墓の写真はないが、顕彰碑はある。

新穂橋の袂にあって、13人の義民の法名と並んで「捨権院宗取日立居士」の庄右衛門の法名が見える。

軽追放となり諸国を行脚、のち赦されて帰国し、86歳の長寿を全うしたと伝えられる。

 

以上、石碑、石塔、顕彰碑を通して、寛延の一揆の指導者を見てきた。

訴状や碑文から浮かび上がる義民像の共通点は、「正義は勝つ」というゆるぎない信念だった。

汚濁に満ちたこの世で、正論を叫び続けることは容易ではない。

しかも生殺与奪を握る「権力」に向かっての叫びだから、なおさらのことだ。

命を賭して信念に生きた男たちの群像は、輝きを放って、今もなお、眩しい。

(注1)

〇獄門ー罪人を斬首した上、首を3日2夜さらして見せしめにし田畑、屋敷を没収。
〇死罪ー斬首刑で死体は試し切りに。
〇遠島ー流罪。江戸から伊豆七島へ年限を決めず流し、田畑、家屋敷は没収。
〇重追放ー御構地(立ち入り禁止地域)は中追放の他に、相模、上野、安房、上総、下総、常盤、肥前に罪人の居住地と犯罪地。田畑、屋敷も没収。
〇中追放ー御構地は、武蔵、山城、摂津、和泉、大和、東海道筋、木曽路筋、日光道中、甲斐、駿河並びに居住地、犯罪地。田畑、家屋敷没収。
〇軽追放ー御構地は、江戸十里四方、京、大坂、東海道筋、日光道中及び居住地と犯罪地。田畑、家屋敷没収。
〇所払いー罪人の居住地への立ち入り禁止。財産は没収せず。
〇手鎖ー両手に手錠をかけ封印。
〇押込ー一定期間、自宅に謹慎。
〇過料ー罪を銭で償わせること。払えなければ、手鎖。
〇叱ー庶民に課したもっとも軽い刑。白洲に呼び出し、罪を叱るもの。やや重い刑に、急度(きっと)叱りがある。

 (注2)

役人側 獄門1、死罪2、遠島7、追放5、お暇5、押込26の46人。

百姓側 死罪2、遠島1、追放10の13人。

 

≪参考図書≫

〇田中圭一『天領佐渡(1)』刀水書房 1985

〇伊藤治一『佐渡義民伝』佐渡農事協会 昭和13年

〇小松辰蔵『佐渡の義民』佐渡観光社 昭和42年

〇北見喜宇作『課税の変遷と佐渡義民始末』金沢村教育会 昭和13年

〇祝勇吉『佐渡島内石仏・石塔など集大成(義民碑編)』昭和63年

〇山本修之助『佐渡碑文集』佐渡叢書刊行会 昭和53年