石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138東京都北区の石造物8c-中十条3丁目と東十条2,3丁目

2019-12-29 06:06:48 | 石造物巡り

▽真言宗智山派・無量山竜谷院西音寺(中十条3-27-10)

 

 旧岩槻街道に面してある。

工事用の車が門の真ん前に停車していて、撮影しにくい。

門前左は、宝篋印塔と地蔵菩薩立像。

宝篋印塔には、延享五年(1748)武州豊嶋郡十條村とある。

お地蔵さんの台石には、「延命地蔵尊」と彫られている。

門の右側にも2基の石造物。

六面憧上部には阿弥陀三尊。

阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩と勢至菩薩が。

下部には、六地蔵が配される立派なもの。

台石に盃状の穴が開いている。

江戸時代か明治の頃か、子どもたちが石を片手にカンカンと穿つ姿が想像される。

もう1基は、弘法大師と刻んだ自然石。

豊島八十八札所と第三十番が、弘法大師の両側に刻されている。

本堂へ参るには、山門を入らなければならないが、なぜか、呼び鈴を押さなければならない。

本堂の写真は、山門から撮ったもの。

都内には、開放的でない寺院は珍しくないが、「ここもか」とがっくりと踵を返す。

▽十条八雲神社(中十条3-33-11)

 旧岩槻街道が環七とぶつかる左側に神社はある。

石造物は、庚申塔が1基、社殿右奥にひっそりと立っている。

文字庚申塔で、中央に「庚申塔」。

 

右に「天明四甲辰十一月吉日」

左に「是より左り い多者し道」

下に「武州十條村講中」。

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 ▽とげぬき地蔵(東十条2-14-9)

 

どこかで聞いたことのあるお地蔵さんだな、と思ったら、やっぱり、そうだった。

巣鴨のとげぬき地蔵から分祠したものという。

巣鴨と同じように、4の日の縁日には、露店も並ぶ賑わいだったらしい。

お堂は銭湯の一画をえぐるように、建てられていて、銭湯の名前は「地蔵湯」というのだから、「なるほど」と納得するしかない。

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▽見守り地蔵(東十条3-15-6)

とげぬき地蔵から北西に商店街を行くと、ここも又、ビルに組み込まれて地蔵堂がある。

看板には「見守り地蔵 東十条商店街」。

商店街が管理しているお地蔵さんです。

堂内の由緒によれば、敗戦後の昭和23年、戦死者の慰霊と平和祈願のため、寛永寺から譲り受けたお地蔵さんだとのこと。

お地蔵さんの頭上には、仏賛歌が掲げられています。

また、堂内あちこちに歌手の名前の提灯がずらり並んでいるのは、すぐ近くにレコード店があるため。

新曲キャンペーンに来店した歌手たちが、名入りの提灯を奉納したもの。

守備範囲の広いお地蔵様だが、芸能関係にまで手を広げたとは知らなかった。

御利益はあったのだろうか。

 

 


138東京都北区の石造物8b-中十条2丁目

2019-12-22 08:36:56 | 石造物巡り

▽子育て地蔵尊(中十条2-9-16)

東十条駅上の跨線橋脇という一等地にあるお堂の中におわすのが、子育て地蔵尊。

場所が一等地ならお堂もコンクリート造りで立派、言うことなし。

堂内のお地蔵さんと堂前の庚申塔については、区教委の説明板があるので、そのまま引用しておきます。


地蔵坂の子育て地蔵尊
 地蔵堂は、以前は地蔵坂の中腹にありましたが、昭和6年(1931)の下十条駅(現東十条駅)開通、昭和12年の道路拡張により、現在地に移されました。
 地蔵堂の中には、大小の地蔵尊と2基の石像が納められています。このうち、中央の大型の地蔵尊(高さ95センチ、丸彫り立像)が子育て地蔵尊です。背面に「世話人 弥八、願主 善光」と刻まれています。本地蔵尊の建立年代は不明ですが、安永2年(1773)成立の『新編江戸志』には「地蔵坂 往古ハ此坂の辺に地蔵尊ありしゆへに名づく」とあり、江戸時代には地蔵尊が存在していたことがわかります。(中略)地蔵堂の前面には「当村 願主 高木兵助」の名が刻まれた花立と寛政3年(1791)の文字庚申塔があります。

庚申塔の右側面には「右より練馬みち/左より豊島みち」とあります。  

平成三十年三月  北区教育委員会

説明文にもあるように子育て地蔵の両脇にも2基の石像があるが、蕩けて像容が分からない。

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▽地蔵尊(中十条3-1-5真光寺門前)

中十条公園と荒川小学校の間の道が参道で突き当りに真光寺がある。

境内には、これといった石造物はないが、門前に地蔵菩薩がおわす。

コンクリート造りの立派なお堂に安置されて、さぞ由緒あるお地蔵さまとお見受けするが、刻字などは見当たらず、説明板もないので、一切不詳。

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真光寺の長い参道の先、旧岩槻街道の向こうが「おふじさん」。

 

▽おふじさん(中十条2-14-15)

 地元の人たちの呼称が「おふじさん」の富士塚です。

今でも祭りの6月30日と7月1日は、道路両側に露店が並び、混雑で歩くこともままならない

賑わいを見せる富士塚ですが、祭り以外は閑散として、さびしい。

鳥居を潜り、石段を上る。

両側には多くの石碑。

頂上には思いがけない広さの平坦地があるが、これは人為的に削りとったもの。

小さな祠が富士神社の本殿。

参拝すれば、富士山を登頂したことになるというご利益があるのです。

 

区教委の説明、以下の通り。

北区指定有形民俗文化財 十条富士塚

十条富士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、富士信仰にもとづく祭儀を行ってきた場です。
現在も、これを信仰対象として毎年6月30日、7月1日に十条富士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は頂上の石祠を参拝するに先立ち線香を焚きますが、これは富士講の信仰習俗の特徴の一つです。
塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、30数基あります。銘文によれば、遅くとも、天保11年、(1840)には富士塚として利用されていたと推定されます。
これらのうち、鳥居や頂上の石祠など16基は明治14年(1881)に造立されています。この年は、富士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の150回忌に当たりました。石造物の中に富士山遥拝所再建記念碑もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円形の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祭る石祠を置き、中腹にも、富士山五合目近くの小御嶽神社の石祠を置いています。また石段の左右には、登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
平成4年3月 北区教育委員会

 

         頂上からの俯瞰の風景

実は、「おふじさん」の前を走る旧岩槻街道は、拡張工事の最中。

前回、地福寺でその工事の影響を書いたが、「おふじさん」もかなり前面が削られる予定だという。

どんな計画なのか、詳細は知らないが、山容が一新することのないように願いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 


138東京都北区の石造物8a-中十条1、2丁目

2019-12-15 07:27:29 | 石造物巡り

▽庚申塔2基(中十条1-1-15)

 南橋公園の北端、三角錐の先端に2基の庚申塔があります。

柵があって、中に入れないので、写真のアップはなし。

左の庚申塔は、中央に「奉供養庚申待二世安楽 敬白」。

右に「武州豊嶋郡十条村 同輩」、

左に「万治二天己亥十月十五日 七人」。

右の庚申塔は、中央に「奉供養庚申待二世安楽」

右に「武州豊嶋郡十条村 道行七人」

左に「承応三甲午二月吉日 敬白」。

2基とも線刻が薄く、その上、年代物なので、字が読みにくい。

 

持参資料には、中十条1-23-2にも、庚申塔があることになっている。

現地は道路の拡張工事中で、問題の場所は工事エリアに含まれているようだ。

下の写真だと立て看板の後方あたりか。

近くの理髪店で確認したら、たしかに庚申塔はあったという。

しかし、それがどこに移されたのか、それとも廃棄されたのかは、知らないとの答え。

▽真言宗智山派・十条山地福寺(中十条2-1-20)

 

道路の拡張工事は、次の目的地「十条山地福寺」にも影響を与えて、寺は大幅改築中。

門前の参道はぐっと短くなり、松も植え替えたばかり。

六地蔵も工事用材料や道具が前にあって、おちつかない。

しかし、落ち着かないのは、六体の地蔵の大きさがまちまちだからだろう。

これほど不ぞろいの六地蔵は、珍しい。

雑然として厳かさに欠けるが、一番左で、この中でも最大の地蔵は、「鎌倉街道のお地蔵様」で、「王子三地蔵」の一つ。

他の二つは、「姥が橋のお地蔵様」と「大坂(王子本町)のお地蔵様」と云われているが、異説もあって、三番目は「西音寺前」だ、いや「地蔵坂下」だと、不確定のようだ。

私は、本堂に上がりご本尊をお参りしなかったので、確かなことは言えないが、本堂には本尊の薬師如来の他に、「曲沢(つぼねさわ)の地蔵」と呼ばれるお地蔵さまがおわすのだそうだ。

以下は、三好朋十『武蔵野の地蔵尊(都内編)』からの意訳転用。

寺には地蔵堂があり、曲沢の地蔵が安置されていた。東京大空襲で、本堂、地蔵堂とも焼失したが、曲沢の地蔵は無事だった。この地蔵尊は、江戸中期の頃は曲沢にあった。今でいうと半蔵門あたりです。

局沢地蔵(『北区の仏像』より)

境内に入る。

大工がいるかと思えば、石工がノミを振るっている。

本堂前に奉献灯籠が一対ある。

右は、有徳院だから吉宗、

左は、常憲院で綱吉の死去に際しての献上灯籠。

いずれも寛永寺の徳川家霊廟にあったものです。

 

地福寺の石仏といえば、何といっても、閻魔庚申塔か。

三猿もなく、一見、庚申塔には見えないが・・・

資料では、4基の庚申塔があることになっているが、探し当てられたのは、もう1基だけ。

「奉造立大青面金剛庚讃」と刻されている。

裏門から入って右側の石造物群の中にある円形の石碑は、「ビルマの竪琴臂」。

横書きの碑文は

「ビルマの竪琴
 インパール作戦による犠牲者を供養する
 竪琴寺建立一周年記念に寄せてうたう
 部隊(実は烈兵団58連隊吉本体)
 一同当時の想いを謳います。
 "戦争はご免だ"
 2004年11月吉日
 小説「ビルマの竪琴」の水島上等兵
 中村一雄元陸軍曹長
 群馬県利根郡昭和村川瀬
 愛昌寺
 日緬山竪琴寺開山
 三輪照峰僧正

その隣の自然石は「東日本大震災供養塔」。


 「東日本大震災
  物故者追悼 
  被災地復興
  祈願之碑」。

左側は、「四国八十八ケ所お砂踏み」で四国霊場の本尊の石仏がずらり並んでいるが、なぜか後ろ向き。

正面すぐ前には、板塀が立ちはだかって、正面からは拝めない。

多分工事中の一時的措置だとは思うが、なんの説明もないので、こうした事態がなぜ生じているのか、分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 


138東京都北区の石造物7b-上十条4,5と十条仲原2

2019-12-08 08:12:59 | 石造物巡り

▽姥が橋地蔵(上十条4-12-4)

 引っ越して現在地へ来るまで70年間住んでいた家から、姥が橋までは、歩いて10分ほど、犬の散歩でよく通りかかったもんです。

環七から十条駅に向かう道の交差点にお堂はあって、

大きいお地蔵さんが延命地蔵、

左の小さいお地蔵さんは子育て地蔵です。

北区教育委員会による説明板があるので、転載しておきます。

姥ヶ橋地蔵尊             上十条4丁目12番4号              この地蔵尊は、袈裟をまとい、右手に錫杖を執り、左の掌に宝珠を載せ、正面に向いて蓮華座に立つ、安山岩系の石材を丸彫りした地蔵菩薩像です。台座には「享保九甲辰天(1724)十一月吉日 石橋供養」の銘文が刻まれています。向かって左側の堂内には石造の子育地蔵尊がまつられています。説明板の横には、道しるべでもある小型の文字庚申塔と地蔵尊の由来碑があります。像は「姥ヶ橋の地蔵様」として親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用されていました。姥ヶ橋には、誤って子供を落として死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落としたという伝説があります。そして地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば、川に架かる石橋の安全供養のためによるものです。また地蔵尊は、二つの道が出合う地点にあったことから「出合地蔵」とも呼ばれています。 橋のたもとは、川口への交通路としても利用された十条・板橋道と中山道から分かれて王子稲荷へ向かう王子道とが合流する交通の要所だったのです。            現在は環状七号線の建設で川は暗渠となり、姥ヶ橋も姿を消しました。しかし延命地蔵尊には参詣者の絶えることがなく、毎年八月二十四日の縁日には多くの人で賑わいす。            平成8年3月              東京都北区教育委員会

 

 

▽武州御嶽神社(上十条5-8-3)

 

 

写真を説明すると、道路は環七、歩道橋の横にあるのが、武州御嶽神社。

盗難除けの「お犬さま」なる「大口真神」は狼だということで有名な武州御嶽神社の分社。

境内に石造物は2基。

神社の謂れと植樹記念碑。

 皇紀二千六百年(1940)記念に梅を植樹したことを記す石柱はあるが、肝心の梅の木は見当たらない。

 寿命が長いという石造物の長所は、こうした間の抜けた状態をもたらすことになる。

 

上十条はこれで終わり。

次は、十条仲原だが、2丁目に庚申塔があるだけ。

章を改めることもないので、上十条の末尾に追加しておきます。

▽十条日枝神社(十条仲原2-6-4)

 

 

 環七からちょっと南へ入った場所にある。

 

 

日枝神社だが、社殿には「山王大権現」とある。

 

 

社の傍らに小祠があり、青面金剛がおわす。

 

 

下部に一猿二鶏。

 

 

創立年などは不明。

 

 

 

 


138 東京都北区の石造物-7a-上十条1-3丁目

2019-12-01 08:01:41 | 石造物巡り

▽上十条一丁目観音堂(上十条1-10-9)


バス通りから20m入った薬局の前にある。

右に文字庚申塔。

「庚申塔」の文字が薄っすらと読める。

資料によれば、側面に「天保十五甲辰(1845)」と刻されているとのことです。

左側は蕩けて像容が不鮮明だが、馬頭観音。

この観音堂保存会が掲げた説明板によれば、観音堂はかつてはバス通りにあって、昭和10年(1935)ころまでは、毎月9・19日、縁日が開かれ、駅から王子方向にかけて100mほど露店が並んだそうです。

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▽庚申塔(上十条2-22-3)

ありきたりの住宅街の、ありきたりの、というには門構えが立派な民家の、その門の前に庚申塔はある。

門前の景色に溶け込んで、探すのに一苦労だった。

「庚申塔」の文字の下に「上新田村」「講中」とあり、

 

左側面に「東王うじ道」と刻まれているから、どこか道の交差点にでもあったものだろうか。

▽十条聖観音堂(上十条3-25-3)

 静かな住宅街に突然派手な朱色の出現で、ちょっとびっり。

扉は閉ざされていて、中には入れない。

お堂には「聖観音」の額。

その下に注意書きがあって「浮浪者が宿泊するとの警告を受けましたので柵をしました。外よりお参りください」。

お堂の向かって左に石仏が3体おわすが、中に入れないのでよくは分からない。

一番手前は三面六臂の青面金剛。

普通は六臂のうち一組は合掌しているものだが、ここではすべて開かれ、下の手は索と蛇を持っている。

▽浄土宗・仏海山雪峰院長和泉寺(上十条3-25-3)

きちんと手入れのされた参道と境内。

石造物は少ない。

本堂前の六地蔵と

徳本上人の六字名号塔だけ。

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