石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

130 上野公園の石造物(9)

2017-09-25 08:48:27 | 公園

前回に引き続き「不忍池弁天島の石造物」。

今回は、弁天堂に向かって左側の石碑群から。

一番手前は「芭蕉翁」碑。

正面に「芭蕉翁」とあるだけで、裏にも側面にも何ら文字がない。

いつ、だれが、何の目的で、という肝心なことが不明。

ざっとネット検索してみたが、その辺を明らかにしたサイトはなかった。

(*ブログ「北杜市ふるさと歴史文学資料館山口素堂資料室『江戸の芭蕉句碑集茗荷』に次のような記述があった。

以上三十七基中、現存のもの十九基か散えられる。都内現存のものと対照しつつ、それぞれ地域的にその現状と由来とを記述案内しよう。なおここで付記しておきたいことかある。それは「芭蕉塚」と「芭蕉句碑」とこの両者をはっきり区別すべきことである。「芭蕉塚」というのは、原則として、芭蕉歿後五十年回忌のころまでの間に、門人その他直接芭蕉

に親しくし、崇敬した人たちの手で、何か形見の品を碑下に埋め営んだ追悼の塚であって、それには概ね句が刻まれていない。「芭蕉句碑」となると、そうした陰墓のようなものからはなれて、句を刻むことを主眼とした文学碑形式に変化したものである。建設年月からいっても「芭蕉塚」以後となる。両者は建碑の目的からもその性格からも異なったものであるのである。」
 
 
「芭蕉塚」ではなく、「芭蕉翁」だが、句がないところから、「芭蕉塚」と同種ではなかろうか。

その右隣が、「ふぐ供養碑」。

石柱の囲いの中に供養碑と建立趣旨碑が立っている。

供養碑の上には、トラフグが泳いでいて、ひと目で「ふぐ供養碑」と分かる。

供養碑には「岸信介謹書」とある。

ふぐといえば、山口県下関。

山口県は岸氏の地元だから、当然か。

先月、たまたま御殿場の岸邸に行った。

安倍晋三は岸信介の孫になるが、子供の頃からこうした環境にあれば、「庶民的感覚」にうとくなるのも必然か。

横道にそれた。

建立趣旨を転写しておく。

 世俗に「ふぐは喰いたし命は惜しし」という文句がありますが昔は相当多くの中毒死者を出したものであります。私共ふぐ料理業者はこの天下の珍味のふぐを安心して都民の皆様に料理して提供したい念願から昭和5年ふぐ料理連盟を結成し古来秘密にされていた調理法も講習会などを開催してふぐの毒素を除去する調理法を組合員に公開、完全調理したふぐは安心であることを世人に認識せしめたのであります。
大東亜戦争のおり、食糧難のため東京都に於いて雑炊食堂開始にあたり当連盟は率先之に加わり各漁場は今迄廃業していたふぐを中央市場に出荷するよう要請、完全除毒したふぐの雑炊を一般都民の方々に供し食糧難のいったんに寄与したのであります。斯くしてふぐの需要は年々増加の一途を辿り中毒者は極限されてきたのであります。昭和24年東京都衛生局より当連盟に対しふぐ調理試験実施について協力方を要請せられ連盟は社会公共福祉のため全幅の信頼をもってこれが実現を図り努力を続けた結果今日では東京都のふぐ中毒者は皆無になった次第であります。私共はこの天与の玉饌として天分を果たした幾千万のふぐの霊に満腔の感謝をささげ今後絶対安心してふぐを召し上がられることょ祈念し茲に別記会員有志の協力によってふぐ供養塔を建立した所以であります。
            昭和40年9月 東京ふぐ料理連盟 宮崎昇識なんで

なんでこんな内容の石碑が建つのか、書き写しながらばかばかしくなってくる。

その右隣りは初代杵屋六翁の碑。

石碑は、2基あるが、正面の碑は私には読めないうえに資料がなく、不明。

 

初代杵屋六翁の顕彰碑か。

傍らの石碑は、六翁の歌碑。

多るまねば どなたもよしや 綱よりも
 ほそき 三筋の 糸の世渡り  六翁
            明治28年建立

人物検索によれば、杵屋六翁(1779-1855)は、長唄三味線の作曲、演奏の両方に長じ、長唄中興の祖と云われる、とある。

私は、長唄と小唄、端唄の区別がつかない。

三味線についても全く無知。

歌舞伎も知らない。

日本人として半端なのです。

だからこの碑も次の「八橋検校顕彰碑」もサラッと表面をなでるだけ。

 黒御影の「八橋検校顕彰碑」は、三面鏡の如く造られている。

正面に「八橋検校顕彰碑」とあり、右に八橋検校史伝、左に頌辞の長文を刻む異形の石碑です。

顕彰碑の前の小碑「六段塚」は、琴の名曲「六段の調べ」にちなむものと思われる。

八橋検校顕彰碑の隣には、なぜか地蔵。

そしてその右側にあるのが、扇塚。

正面には

扇塚
 ああ佳き人かおも影を
 志のばざらめや不忍の
 池のばほとりに香を焚き
 かたみの阿ふぎ納めつつ
       佐藤春夫」

更に、背面には

「初代花柳寿美三周忌に当たりて門下および知友相謀り、故人初髷五歳より齢五十二に至る舞踏生涯四十五年間に使用せる遺愛の舞扇を筐中に納め塚を建て供食し以て追善の情を遣りぬ。

発揮人 六代目尾上菊五郎 二世花柳寿輔 花柳章太郎 竹内金太郎 辻二郎 花柳寿輔門下生 二代目花柳寿美
                昭和二十四年二月八日の建碑」

「いと塚」の背面には、前田青邨画伯の撰文が刻されている。

荻江完家露章は三弦の名手としてその名かくれなし。そのいとみちを伝うるもの相より七回の忌を修し、ゆかり深きこの地に碑を建て、ありし日の奇を偲ぶよすがとす」

日本舞踏だ、三弦だと私の知らない世界の碑が続いて、ノーコメント。

隣の五輪塔は、貞享年間造立であることは分かるが、詳細は不明。

 

「東京自動車三十年」碑は、読む気が起らず、パス。

弁天島に建碑するには誰の許可を要するのだろうか。

それとも寄付金の多寡にでもよるものなんだろうか。

次の「真友の碑」は英文。

「上田・ボーン賞」といえば、日本のジャーナリストなら知らない人はいない賞だが、その上田碩三(電通社長))とマイルス・ボーンUPI副社長が東京湾の突風で亡くなったことを悼み、併せて二人が国際的通信網の確立に寄与したことを讃える記念碑。

 AS A SYMBOL OF MUTUAL RESPCT AND JAPANESE-AMERICAN INTERDEPENDENCE
     COMMEMORATED HERE ARE
SEKIZO UYEDA (1886~1949)
   PRESIDENT OF NIPPON DEMPO TSUSHINSHA (DENTSU)
                    AND
MILES W.VAUGHN (1891~1949)
   VICE PRESIDENT OF UNITED PRESS (U.P.I)

WHOSE TRUE FRIENDSHIP LIVES ON FOREVER THOUGH THEY PERISHED TOGETHER IN A TOKYO BAY SQUALL AFTER HAVING ACCOMPLISHED THEIR HISTORIC MISSION IN ESTABLISHING AN INDEPENDENT NETWORK FOR THE FREE FLOW OF WORLD NEWS AMID GLOBAL TIDES OF BIAS

 

以上で弁天堂に向かって左側と弁天堂左横の石造物は終わり。

これからは、弁天堂裏の石造物です。

まずは、「筆塚」。

石碑の下半分が剥落している。

無事な上部は「靄崖山人得筆塚之銘」と読める。

靄崖は画家で、文晁の弟子なんだそうだ。

この碑は、嘉永3年1850)に建てられた。

その隣の石塔には「上豊調理師会」とだけあって、はて?これは何だろうと思ったのだが、その次の「包丁塚」の設立者の名称だった。

包丁塚には設立趣意はなく、背面には、上豊調理師会の会員の名前がずらり並ぶだけ。

その隣の「鳥塚」は、弁天島最大の石碑。

書は、当時の都知事、東龍太郎。

隣の石碑には、設立趣意が刻されている。

 その碑文の一部。

都内の食鳥肉の販売業者が、生活の糧であり、また子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めんがため、浄財を集めてこの聖域に建立した云々。

朱色の鉄枠に囲まれて、これも朱色の祠があるが、錠が掛かっている上、説明看板もないので、正体は不明。

ただ、右側に小柄な石塔があって、「辨才天」と彫られている。

弁天堂と池の間の広場にも石碑が2基あって、そのうちの1基には「幕末之剣豪櫛淵

虚仲軒之碑」とある。

「剣豪の碑」なんて、初めて見た。

ネット検索していたら、本人の肖像画があったので、コピーしておく。

画家は伊藤若冲と伝えられているのだとか、そっちの方に興味がある。

不忍池に突き出たようなのは、「聖天島」。

鳥居や社、何基かの石造物があるが、錠が下りていて入れない。

木々の茂みでよく見えないのだが、等身大の金精様がおわす。

これは裏側から見た図だが、表側はお地蔵さんになっている。

今は柵と錠があって近寄れないが、かつてはOKだった。

当時の写真があるはずで、探したが見当たらない。

 

弁天堂の裏から表へ。

弁天堂に向かって右には、大黒天。

石碑が何点かあるようだが、近寄れない。

大黒天に向かって右には「魚塚」。

全国水産小売組合が昭和51年(1996)設立したもの。

以上で、「上野公園の石造物」は終わり。不忍池から不忍通りへ出る手前にある石碑は「龍門橋」碑。

不忍池の土手には、蓮見橋、中橋、月見橋、龍門橋と4つの橋が架かっていた。

4橋とも、昭和の初期には姿を消した。

今はこの「龍門橋」の碑で昔をしのぶのみ。

不忍通りを池の端方向へ向かって最初の信号下には「雪見橋」碑がある。

欠けている上、地面に半分埋まっていて、「雪見橋」だとはわかりにくい。

それでもないよりはいい。

通行人の誰一人として、気づく人はいないようだが、ひっそりとその使命を果たし続けている。


130 上野公園の石造物(8)

2017-09-15 18:54:43 | 公園

「上野公園の石造物」、最終回の今回は、不忍池。

弁天島は、上野公園の中で、とりわけ石碑、石塔が多い。

弁天島に建碑するのは、名所を訪れる多くの人の目を意識してのことで、その目的は今もなお、成立している。

惜しむらくは、外国人が多く、彼らは石碑など見向きもしないこと。

しかし、見向きもしないのは、日本人も同じ。

立ち止まって読む人はほとんどいない。

特に漢文碑は敬遠されるようだ。

江戸時代であれ、明治時代であれ、施主をはじめ建碑の関係者は、碑文が白文でも市井の人に読解されうると考えていたはずである。

彼らに誤算があったとすれば、日本人の国語の読解力の低下がこれほど急速に進むとは思わなかったことだろう。

まるで第三者的な云いようで忸怩たるものがあるが、かく云う私も「読めない」一人。

白文など、まず、読む気が起らない。

もう一つの問題は、顕彰碑の当の「偉人」についての知識がないこと。

その「偉人」の名前を聞いたことも見たこともなければ、碑文を読む気にもならないのは当然だろう。

自らの無知を棚に上げて言い訳するようで、情けないが、これは、私だけではなく、現代人に共通した問題点だと思う。

であるならば、弁天島の白文の顕彰碑を取り上げても無意味だということになる。

ごもっともではあるが、では、白文を読み下し文にしたらどうか。

私には読み下す能力はないので、図書館で資料から探し出してみた。

と、いうことで弁天島の石碑、石塔の巻、スタート。

丁度池の蓮の開花時期で、カメラを向ける人が多い。

橋を渡って弁天島にわたると左右に石造物群が並んでいるのが、見える。

本堂に向かって右側の石碑群に向かう。

順番では2番目になるのだが、まずは「不忍池由来記」から。

由来は裏面に刻されている。

不忍池は忍ヶ丘に連なって都心随一の山水美を誇るばかりでなく、江戸以来相次いで大火大地震大戦などの災禍が起こるたびに避難の場所としても都民に慕われてきた。
大昔の武蔵野に深く食い込んでいた東京湾の入り江がたまたま一部だけ取り残されて、西暦紀元前数世紀ごろからこの池となり13世紀以来今の名で呼ばれるようになった。
1625年江戸幕府が、西の霊場比叡山に対照させて東叡山寛永寺を営むや、開祖慈眼大師天海大僧正はこの池を琵琶湖に見立て、竹生島なぞらえて新島を築かせ弁天堂を建てた。
この景観は江戸名所図絵の圧巻とされたが、20世紀に入ってからは博覧会場、競馬場に利用されて湖畔はますます賑わった。
1943年終戦後の激動期には、池の一部に稲が植えられ不忍田圃の異名がついた。
続いて全面干潟の知識を野球場新設の猛運動などに脅かされたが、上野観光連盟の前身鐘声会や地元有志が、郷土愛に燃え私財を投じて疾走した結果、昔ながらの風致を確保出来たばかりではなく、その上新たに水上音楽堂が設けられ、毎夏の納涼大会に興趣を増した。
なお、1964年アジア最初のオリンピックを結に周辺の文化諸施設も一段と整備され、探勝の外人客が、西独ハンブルグの都心を飾る名勝アルスター湖を連想して激賞するほど、著しく近代化された。

漢文ではないので、転載の必要はないのだが、とりあえず「不忍池」についての知識を得ておくのも有意義かと思って。

「不忍池由来碑」の手前は、「中根半僊(せん)碑」

私は知らないので、ネット検索してみた。

「半僊は、越後高田藩の医師。明治時代に活躍した書家でもあり、不忍池近くに居住していたことから、弁天島に碑を建てることになった」。

全文漢文で、本来なら書き下し文にすべきところだが、そこまでする必要はないと思い、取りやめ。

幕末から明治にかけての、医師であり、書家であることを知れば十分ではないか。

その左隣は「めがね之碑」。

碑の上部センターに丸眼鏡が刻されている。

「徳川家康使用」の日本最初の眼鏡と記されている。

眼鏡がはるかに海を越え、わが日本に渡来したのは、四百二十余年のことであります。文化の発達につれてめがねの需要も増え、文化、政治経済に貢献した役割は誠に大なるものがあります。その間業界先覚者の研鑽努力により今日の発展を見るに至ったことを回想、明治百年を記念してその功績を顕彰し慈眼大師ゆかりの地上野不忍池畔にその碑を建立し感謝の念を新たにするものであります。」

慈眼大師が家康にめがねを紹介したのだろうか。

多分「慈眼」の眼が眼鏡と関係があるから、選んだものと思われる。

なんとも薄弱な建立地理由だ。

 

その左隣の歌碑と「利行碑」は、一対で成立するもの。

歌碑は、長谷川「利行」の歌。

人知れず 朽ちも果つべき身一つの
 いまがいとほし 涙拭わず
 己が身の影もとどめず 水すまし
 川の流れを 光りてすべる 

日本のゴッホとうたわれた長谷川利行は、昭和15年(1940)、三河島駅近くで行倒れ、板橋の養育院に収容された。

この年の10月、利行は胃癌で亡くなるのだが、生前、病院から友人に出したハガキが残っている。これが哀しい。

「養育院第五病室ニ胃癌ノ手術デ居リマス。午前中ニ一度ミニ来テ下サイ。詩集一冊下サイ。午後三時頃デモ何時デモヨロシイノデス。(至急来テクレナイト死亡スル。動けナイノデス)。市電板橋終点ヨリ二丁ホドノ処デス。何カ見学ニナルデシャウ。氷サトウ、ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テクダサイ。オ願ヒシマス。何カ甘イ菓子一折クダサイ。死別トシテ」。

ネットには利行の絵も多くアップされている。

うち1点を転載しておく。

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上記の石碑群は、碑面を読むのが、いかにも容易そうだが、実は、露店のテントの後方にあって、接近するのは難しい。

下の写真で白テントの後方に石碑群はある。

本堂に向かって右側の石碑は見終わったので、今度は、左だが、その前に本堂前の琵琶碑を見てみたい。

本堂へ上る階段左、1メートルの石台の上に、高さ2メートルの青銅製琵琶碑が、本堂の軒に接っせんばかりにそびえている。

正面には「献納銅像琵琶干不忍池弁財天女詞縁由」と刻され、台座に「琴三講(山岡鉄舟筆)」とある。

背面は「第二世田中久重鋳造、岡三慶撰文、今井桃門書」と読める。

碑文は、以下の通り。(漢文を読み下し文にしてある)

夫れおもんみれば、大弁天女王菩薩は、一切の智恵、技術、威神等を具足したまい、諸人の請求するところ、しかもみな成就せしむ。あるいは智慧を求むる者には聡明ならしめ、弁財を求むる者には爽利ならしむ。災厄にかかるものには消殄(けしほろぼす)せしむ。貧窮を愁える者には財福を与え、芸術を求むる者には精巧ならしむ。位官をねがう者には尊貴ならしめ、名称を求むる者には帰響せしむ。出離を求むる者には解脱を得しめ、また諸看属を聞持すれば天妓楽を奏す。その所信に来詣すれば常に擁護せらる。ここに某等、父祖の世業に従い、音曲器、常に天女の恩力を蒙ること久し。つとに同業者と協力し、一面の琵琶を祠前に鋳造し、もって天女の洪恩に報ぜんと欲す。今すでに成る。幸いにこれを接受したまい、某同業者および同信者、子孫縄々、家門繁栄、福履円美、しこうして諸災なく、横(かたわら)共に無上正等菩薩を成ぜんことを、至祷、敬って白(もう)す
        明治十九年九月発願 琴三講社 正四位山岡鉄太郎 謹書」

弁財天は技芸の神とは聞いていたが、これほどあらゆる願いを成就させてくれるものとは知らなかった。 

 

 

 


130上野公園の石造物(7)

2017-09-05 08:53:27 | 公園

今回は、寛永寺根本中堂の石造物。

根本中堂は、比叡山の本堂のことだとぱかり思っていた。

寛永寺の本堂も根本中堂だと知って、寛永寺を東の比叡山にしたい天海僧正の気持ちがこういうところにも表れているんだ納得。

もともと博物館前の大噴水辺りにおわしたが、上野戦争で被災消滅、十数年後、現在地に、川越喜多院の本地堂(講堂)を移築して根本中堂としたという。

 

さほど大きくもなく、実に質素な造りで、徳川家の菩提寺という感じがしない。

それとは知らず、前を通り過ぎる人も多いのではなかろうか。

石造物は、山門を入って、右側に纏められている。

先ず目に入るのは、鐘楼。

石造物ではないが、少し触れる。

鐘銘に「厳有院殿 御宝前」とあるように、元々四代将軍家綱の霊廟にあったもの。

明治12年、川越東照宮から講堂が移築され、根本中堂が建立された時、徳川宗家から寄贈された。

厳有院霊廟は、東京大空襲で焼失したので、ここに移されなかったら、現存していなかったことになる。

鐘楼の奥、壁際に六地蔵があるが、銘はなく、由緒は不明。

その左隣の地蔵3体のうち、右2体は、寛永寺裏手の浄名院八万四千體地蔵の内の2体。

中央の大きい立像には「八万四千體之内/第五千七百番」とある。

 

本家の浄名院の石仏群は、石が柔らかいせいか、崩れ落ちているものが多い。

この地蔵は、そうした心配もなく、保存状態は完璧。

石仏巡りをしていると浄名院の八万四千体地蔵に思わぬところで出会うことがある。

去年は、三重県津市の寺で出会った。

八万四千体地蔵の左隣の大きな瓦は、かつての根本中堂の鬼瓦。

高さ248㎝、横幅325cmと説明板にある。

鬼瓦の隣は、聖観音立像。

まるで丸彫りのように、彫りが深い。

柔らかい微笑みが素晴らしい。

像の右に「当山学頭第四世贈大僧正慈海」とあり、左に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三十世」とある。

この墓は、もと上野公園陵雲院墓地にあったが、都の文化会館建設のため、昭和32年、現在地に移された。

慈海僧正は、学僧として有名で、著書多数。

川越喜多院、上野陵雲院、比叡山西塔を兼務執行していたと資料にはある。

 

慈海僧正の墓の前には、尾形乾山の墓と顕彰碑がある。

しかし、これは写し。本物ではない。

尾形乾山は、光琳の弟。

画の他、書、茶道にも通じ、陶芸も能くした、いわば天才。

京都で作陶生活をしていたが、正徳年間、(1711-1716)寛永寺住職となる輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に移り、入谷に窯を開いた。

寛保3年(1743)死去、81歳だった。

墓は下谷坂本の善養寺に設けられたが、上野駅建設のため善養寺が西巣鴨に移転することになり、(以下は顕彰碑の文面より)

明治四十四年、鉄道上野駅拡張の事あり。善養寺一帯取り払われ、寺は西巣鴨に移され、寺内所在の乾山の墓も移さるることとなりしを、(中略))寛永寺の旧地に両石(墓と顕彰碑)をさながらに写して打ち立てここも亦乾山縁故の地たることを後昆に伝うるものなり

墓には、乾山の辞世の句が彫られている。

放逸無慙八十一年一口呑却沙界大千
 うきこともうれしき折も過ぬれば
 ただ阿けくれの夢ばかりなる
          雲海深省居士

昨日(7月21日)、今年初めてセミの声を聞いた。

他に先んじて、土中から現れたセミの抜け殻が、墓にしっかりしがみついている。

時流に先んじて異端だった男の墓に相応しい光景です。

 

左隅の石碑は「了翁僧都道行碑」。

私は了翁僧都を知らなかったが、石碑が亀趺(きふ)に乗っていることから、教育や福祉に尽力した大物文化人であろうことは推測できる。

中国では、古来、亀は万年の命として尊重された。

石碑もこれを亀の上にのせれば、未来永遠に崩れることなく存立するものと考えられた。

亀趺(きふ)が普及した、これが理由です。

中国では、亀趺に乗る行状碑の対象人物は貴族以上に限定されていた。

その決まりは、日本にも持ち込まれ、了翁僧都の顕彰碑が亀趺に乗っているのは、当然のことです。

しかし、この地が寛永寺境内であることを考えると疑問がわいてくる。

歴代徳川将軍の墓や顕彰碑は、亀趺に乗っていて当然なのに、亀趺碑は皆無、1基もありません。

徳川家でも水戸家の墓地には、亀趺が林立しているそうですから、なぜ、寛永寺と増上寺の霊廟に亀趺がないのか、ナゾです。(当ブログ「NO35亀趺」をご覧ください)

了翁僧都をWikipediaで検索、あきれるほどの偉人であることを確認したが、碑文からも一部その人となりを引用しておく。

その白(白衣=俗人)を脱して沙門となりしより、即ち大乗の心を発し、菩薩の行を行ず。戒律を精持し、威義を失せず。風をくらい、露に宿る。己をもって憂えず、ただ仏法の大いに世に興らず、而して世の僧俗にして尽く仏祖の大法をそらんずること能わざるを憂う。すなわち武陵の東叡山に乞いて勧学講院をはじむ。正中に経蔵を築き、以て三蔵の聖教を貯う。・・・・」

亀趺の隣に僧形の座像がおわす。

説明が何もないけれど、了翁僧都その人ではないか。(社務所で確認したらその通りとの返事)

 中央の平べったく高い石碑は「上野戦争碑記」。

上野戦争を彰義隊の立場で回顧したもの。

明治7年に建立計画が成立し実施に移す直前、新政府により中止命令が出て頓挫したものを、明治45年にそっくり建立し直したという曰く付きの碑。

全文白文の長文だが、読み下し文にした資料があるので、転載しておきます。

慶応4年(1868)、戊申正月、伏見の変(起る)。前大将徳川公(慶喜)江戸に帰り、罪を上野(東叡山寛永寺子院大慈院)に待つ。この時に当たって城中(江戸城)紛糾し、議論沸騰す。
老成者いわく、すでに罪を皇室に得、今又兵を出だして担ぎ戦うは是れ其の罪を重ねるなり。恭順して詔命を待つに若かずと。少年の者は皆いわく、今日謂うところの詔命(天皇の命令)は宸衷(陛下の御心)出づるにあらず。乃ち是れ二三幕臣の為すところ(なり)焉んぞ主家の為に冤を雪ぎ、後(後継者))を立つるを請はざるや。苟も命を得ずんば乃ち死あるのみと。悲憤激烈言々人を動かす。余も亦之に賛(成)し、同志諸氏と四谷円応寺に會して謀議す。既にして浅草本願寺に移り、遂に上野東叡山に屯し、将に請う所あらんとす。衆、余をして隊名を撰ぶばしむ。余曰く、大義を彰明するはこの一挙に在り。彰義となさんと欲す。皆曰く善しと。
是において四方より来会するもの日一日よりも多し。十二隊を得。曰く遊激、曰く歩兵、曰く猶興、曰く純忠、いわく臥竜、曰く旭、みな幕府の士なり。曰く萬字、関宿の藩士、曰く浩気、小浜の藩士、曰く高勝、高崎の藩士、曰く水心、結城の藩士なり。首領を立て約束を申べ、分かれて山中の寺坊に屯す。
この時に当たって官軍すでに江戸城にあり。命を伝えて解散せしむ。使者三たび反り、竟に聴かず。
前大将軍水戸に移る。因って輪王寺宮法親王、(公現法親王、後の北白川宮能久親王)
奉じて益々素志を達せんと欲す。官軍その屈強すべからざるを知るや遂に攻撃の議に決す。
初め寛永(年)中、徳川氏、根本中堂を上野に建て、寛永寺と称す。輪王寺宮世々これを管(領)す。金碧熒煌、観美を窮極す。吉祥閣その前に屹立す。環らすに三十六坊を以てし、比叡山に擬し、因って東叡山と称す。地勢爽塏(そうがい)西、不忍池に臨み、東南は下谷に接し、西北は根岸、三河島の諸村に連なる。而して埤堞(ひちょう)の據って(よって)以て守るべきなし。
乃ち急に市民を募集し、木石を運び、塁を築き柵を植う。市民、争って来たり役に就く。巨砲を山王台に置き、以て東南に備う。
山門すべて八、南を黒門と云い、広小路を控う。我が隊、歩兵万字の二隊を率いて守る。東を真黒門と云い、車坂門と云い、屏風坂門と云い、坂本門と云う。この間一帯、丘を負いて市に面す。我が隊、純忠、猶興、遊撃の諸隊(にて)守る。別派の一隊、分かって啓運、養玉の二寺に陣す。西を穴稲荷門と云い、神木、浩気の二隊(にて)守る。清水門と云い、谷中門と云うは、歩兵、臥竜、旭、松石の諸隊(にて)守る。部署既に定まる。乃ち市民に命じ避去せしむ。
去る五月十五日未明、官軍来たり襲う。初め我が兵、山中にあるもの三千余人、事、倉卒(にわかに)出づるをもって、外にあるものは途梗(道路がふさがる)して入ること能わず。また怯恇(きょきょう)遁走するものあり。その留まって拒ぐ(ふせぐ)もの、僅かに千人なるべし。急に命を諸隊に伝え、各々その処を守らしむ。
鹿児島、熊本藩の兵、呼噪 (こそう=さけびさわぐ)して広小路より進み、先ず南門を攻む。我が兵、銃を叢め斉しく発す。官軍辟易す。たまたま、鳥取藩兵の湯島台にあるもの,火を天神別当喜見院に放ち、不忍池の南に沿いて来たり二藩と合し、兵勢漸く加わる。我が山王台の兵、巨砲を発してこれを拒ぐ。少しして火、二か所に起り、煙焔天に張る。津藩の兵、竹町より進むもの、山下の酒楼に登り、簾を埤(ひく)めて狙撃す。我が兵、裡てこれを走らす。
時まさに梅雨、泥濘膝を没す。市民、荷擔して亡(に)ぐ。〇仆困頓、号泣、路に盈つ。而して来りて我を助くるものも亦少なからず。
萩、岡山、大村、佐土原、津、名古屋(等の)六藩の兵、本郷より進んで西門を攻め、先づ我が兵の根津の祠に屯するものを撃ち、突進して直ちに三崎に至る。この地、丘阪高低、道路狭隘、加うるに霖潦(長雨)をもってし、踏趄(行きなやむ)進むこと能わず。我が兵、高きに據り、縦に撃ち、北(に)ぐるを追うて薮下に至り、伏兵に遭いて潰ゆ。根津の南に水戸、富山、高田の藩邸あり。池を隔て、東叡山と相対す。差が、岡山、熊本、佐土原、津、名古屋の諸藩の兵これに據り遥に銃砲を放つ。また一隊を遣わし舟を泛べて水を渡り、来たって穴の稲荷門に逼る。我が兵、善く柜ぐ。徳島、鹿児島、岡山、新発田、津、彦根の諸藩の兵来たり東門を攻む。我が兵、最も少なし。啓運寺の兵、邉え撃ちてこれを走らす。北(に)ぐるを追うて御徒町に至る。官兵、反(そり)戦う。我が兵、且つ戦い、且つ退く。養玉院の兵出て゛て援けてこれを挟撃し、官兵、敗走す。この時に当たって東西南の諸門、皆囲いを受く、我が兵、奮闘す。一人百人に当たらざるはなし。その最も激しき者を南門の戦いとなす。晨(あさ)より午に迄(いた)り、勝敗いまだ決せず。未牌(午後二時)津の藩兵の南門を攻むる者、遷(めぐ)つて山下に出で、肉薄して乱射す。我が兵稍阻む。官兵、勝に乗じて将に南門に入らんとす。我が兵、撃ちてこれを走らす。而して鹿児島、佐賀、鳥取の藩兵、代わって進み、攻撃甚だ急なり。我が兵、死傷相い踵(つ)ぐ。新黒門初めて守りを失う。諸門ついに敗る。是において官兵、三面より斉しく入り、山(東叡山)を奪いて火を放つ。
余、初め難問にありて拒ぎ戦う。敗るるに及んで隊士百人と退いて中堂の前に至る。殊死(死を決して)して戦う。たまたま、火、堂宇に及ぶ。吉祥閣むまた黒煙、猛火の中にあり。天地ために震い、山河ために動く。而して官兵充塞(ふさがる)してまた拒ぐべからず。すなわち走って法親王に謁せんと欲す。親王既に遁(のが)る。之に跡して三河島に至り、ついに追いおよぶ。王、納衣草履、唯一僧のみ従う。余等伏して生死相従わんことを請う。侍僧の曰く、王、将に会津に赴かんとす。卿等去って後図(のちのはかりごと)をなせと、衆みな涙をふるって散ず。
後、一、二年、海内すでに定まる。諸の罪を得るもの赦されて故郷に帰る。余も亦万死を出でて一生を得、当時を回顧して深概に堪えざるものあり。よってその顛末を録することかくの如し。
  明治七年申戌五月
        幕府の遺臣阿部弘蔵撰 清蘇州費廷桂書