石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

17 東京都北区の石造物-14-王子本町

2020-02-23 09:27:34 | 石造物巡り

王子本町と岸町の範囲が分かりにくい。

王子神社は、王子本町にある。

▽王子神社(王子本町1-1-2)

 王子神社は、豊島氏が紀州熊野三社権現から勧請したものだが、その年が別当寺金輪寺に奉納された大般若経の奥書によって、文保2年(1318)以前だとわかるのだそうです。

でも神社にある区教委による説明板の勧請年は、元享2年(1322)となっていて、なぜ、こうした違いが出るのか、私には分かりません。

王子神社(由来)            

御祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 天照大御神 速玉男之命 事解男之命 元亨二年(1322)豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進を受け、江戸時代には徳川家康が社領として200石を寄進しました。これは王子村の村高の3分の2に当たります。別当寺は、王子神社に隣接していた弾夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休憩する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代将軍、十代家治、十一代家斉が社殿の修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社は17社を数えました。紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後はなみの名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に7月13日に行われた王子神社の例祭は「槍祭」とも呼ばれ、小さな槍を買い求める人や田楽踊を見物する多くの人で賑わったことが見物記などからうかがえます。明治時代に入ると、明治元年准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。戦前の境内は「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は氏子一同により、権現造の社殿が再建され、現在の景観に至っています。末社 関神社 蝉丸法師を祭神とし、理容業者より信仰されている全国でも珍しい「髪」の祖神です。        平成25年6月                        

        東京都北区教育委員会

文中の天然記念物のイチョウは、勧請時、紀州から苗木を持ってきて植えたものと云われ、となると約700年の時を経たことになる。

先日、テレビを見ていたら、街路樹にイチョウの木が多いのは、防火効果が高いからと説明していた。

実験でイチョウの葉と桜の葉を燃やしていたが、確かに銀杏の葉はなかなか燃えない。

水分が多いのだそうだ。

戦災で他の樹木は消失したのに、イチョウだけ残ったのも頷ける話です。

駐車場の一角にあるのが、関神社。

全国でも珍しい髪の神様です。

祭神は、蝉丸公など。

氏子に、かつら組合、人毛組合、床山組合、美容組合などの名前があるのが、面白い。

「髪の祖神」関神社由緒略記                

蝉丸公 神霊  

逆 髪 媛 神霊    

古屋美女 神霊            

これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関                の名で有名な「蝉丸公」は、延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又、髪の毛が逆髪であるゆえに嘆き悲しむ姉君 のために、侍女の「古屋美女」に銘じてかもじ・かつら」を考案し、髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の始祖」と博く崇敬を集め、「関蝉丸神社」として、ゆかりの地、滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として、江戸時代、ここ「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。            昭和20年4月13日、戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて、全国各地「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け、浄財を募り昭和34年5月24日これを再建せり。         王子神社 宮司            

毛塚を由来  釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき、貧女が自らの髪の毛を切り油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌々と輝き、世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和36年5月24日「関神社」境内に毛塚の塔を建立し永く報恩の一助とする。            関神社奉賛会                                            東京人毛商工組合                                            東京床山協会                                            東京かつら協会       

▽王子子育て地蔵尊(王子本町1-24-8)            

 

 権現坂と王子大坂(旧岩槻街道)の追分の個人宅の敷地にある。

赤い頭巾と涎掛けは、洗濯されていて清潔だ。

丁寧に保存されていることが分かります。

頭上には「王子子育地蔵尊」の文字。

右から左に書かれているので、明治から昭和初期までに掲げられたものでしょうか。

ここにも北区教委の説明板があります。

王子子育地蔵尊

北区王子本町1-24-8所在             

王子の子育地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫した、像の高さ122cmの石造地蔵菩薩立像です。釈迦如来が没してから弥勒菩薩が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、地蔵菩薩は、この時代に人々を救済する菩薩と信じられてきました。            当地蔵尊は、昭和20年4月13・14日の空襲によって火を浴び、像の表面が剥落しているため、造立した年代や造立者はわかりません。昭和3年12月に出版された『王子町誌』によれば、子育地蔵尊は、同所にあった山本家の祖先が誓願して室町時代の末期、天文元年(1532)に建立安置し、当時の堂宇は元禄二年(1689)に改築したものだと記されています。現存の像の造立年代を判断するには資料が不足していますが、同所で古くから地蔵尊が祀られていたことが推測されます。 また、その信仰については、「古来子育及商売繁昌の地蔵尊として信仰せられ、毎月四の日の縁日には参拝する者実に夥しく、縁日商人の露店を張るものも頗る多いので、その賑ひ真に筆紙の及ぶところでない」とあり、近代には子育地蔵として信仰を集めていたことが知られます。            お唱えする言葉   「おん かかか びさんまえい そわか」            ※私有地に建っておりますので、静かにお参り下さい。               平成28年2月                東京都北区教育委員会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


138 東京都北区の石造物-13-十条台

2020-02-16 08:41:40 | 石造物巡り

十条台の大半は、中央公園や自衛隊駐屯地で占められている。

そしてこれらの地域は、戦前、陸軍東京第一工廠でした。

だから、石造物もその関係のものばかり。

石仏など寺社関連のものは皆無です。

その十条台の変遷の歴史を物語っている建物が、中央公園文化センター。

▽北区中央公園文化センター(十条台1-2-1)とその周辺

戦前の陸軍第一工廠本部、戦後は在日米軍「キャンプ王子」の司令部だった。

返還後は、北区の文化活動の拠点となっています。

文化センター前の銅像は、世界平和を祈念して、彫刻家赤堀信平氏が区に寄贈した母子慈愛像。

文化センターに向かって右に立つ石柱は、「皇后陛下行啓記念」。

昭和18年造立で、文、書は、当時の東京第一陸軍工廠長によるもの。

十条台の石造物らしい石造物です。

文化センターに向かって右の道を行く。

鉄製の円筒物は、銃砲製造のためのボイラー。

英国製だというから、ここで製造された銃弾が、英兵の命を奪ったこともあったことになる。

古墳の石室もある。

1400年前の古墳時代、人が住んでいた横穴式石室が、発掘時のまま、保存され、見ることができる。

しかし、発掘されたのは、ここではない。

赤羽台4丁目2番の星美学園の校内地で、昭和57年、東北新幹線建設予備調査中、見つかったもので、石室をそのまま切り取って、移設し、ここに展示しています。

暗くてカメラではよく撮れていないが、石室の中には、人骨とともにガラス玉、菅玉・耳飾りの装身具のほか、刀、矢などの武器類も見られます。

 十条台に多い石造物としては、旧陸軍の倉庫や外壁に使用された赤レンガが挙げられる。

代表的な建造物が、北区中央図書館。

赤レンガ倉庫を近代建築と融合し、図書館として、再生しています。

赤レンガ外壁の再利用は、十条富士見中学校(十条台1-9-33)とJR埼京線の間の塀に見られる。

北区教委の説明板がある。

 十条台1丁目一帯には旧陸軍の東京砲兵工廠銃包製造所が所在していました。この製造所は、日露戦争の行なわれていた明治38年、小銃弾薬の増産を図るために現在の東京ドーム周辺から移転してきた工場で、約10万坪の敷地に煉瓦造の工場等が建てられていました。本校とJR埼京線の境界に現存する煉瓦塀は、その製造所の西側の敷地境界にあたり、煉瓦に残されている刻印から、葛飾区の金町煉瓦製造所の煉瓦が使われていることが判りました。                            北区教育委員会
 

138東京都北区の石造物-12--堀船

2020-02-09 10:23:33 | 石造物巡り

▽白山神社(船堀3-11-3)

 

沿革は、古文書紛失で一切不明とのこと。

古文書もないが、石造物もない。

あるのは、狛犬と灯籠、それぞれ一対ずつのみ。

神仏分離令以前、白山神社の別当は、西隣の福性寺が担っていた。

▽真言宗豊山派・白王山福性寺(堀船3-10-16)

山門を潜ったすぐ左に3基の石造物。

中央に笠付き地蔵菩薩浮き彫り六面塔。

文政5年(1822)造立です。

両脇には、いずれも地蔵菩薩庚申塔がおわします。

まず右は、天和2年9月吉日のもの。

足元に餓鬼や三猿がいないので、つい庚申塔であることを見逃してしまいやすい。

台石に盃状石がいくつか見られる。

左は、元禄10年2月15日造立の地蔵菩薩を主尊とする庚申塔。

本堂下には、寝釈迦がおわす。

釈迦入滅の時の涅槃像で、タイやスリランカではよく見かけるが、日本では滅多にお目にかかれない。

寝釈迦仏の背後の聖観音像は、説明板によれば、「当地領家水野家の聖観音像」とのこと。

本堂前には、立派な宝篋印塔と青面金剛の庚申塔が見られる。

庚申塔の造立年は、享保3年(1718)12月吉祥日。

寺を出る。

 

上の写真で位置関係を説明すると、

右が白山神社、真ん中の青い屋根が福性寺の山門、そして左端がこれから寄る地蔵堂です。

堂内には顔の崩れた延命地蔵がいらっしゃる。

門前にも2体。

左は、延命招福地蔵尊。

戦災にあったものか像容は激しく痛んでいる。

像の右に「明和七年(1770)」と刻し、左には「六あミた 左一番道」とある。

右の新しい地蔵は、子育て水子地蔵と標柱に書いてある。

水子と子育てが併願できるというのは、ちょっと厚かましくないか。

▽真言宗豊山派・舟方山地蔵院延命寺(堀船4-10-12)

 

参道左には、無縁墓標が並んでいる。

本堂前には、観音様が2体。

石仏と

銅製と。

五重塔もある。

参道右にも石造物はあって、

本堂に近い方から、五輪塔、

 

銅製聖観音、

 

そして線刻不動明王が並んでいる。

 ▽舟方神社(堀船4-13-28)

 鳥居の脇に「船方神社」と大書した標柱石が立っている。

なぜか真新しい百度石もある。

百度石はよく見かけるが、実際にお百度参りをしている姿は、一度しか見たことがない。

新しいものを作る需要があるのだろうか。

台風15号は、各地に、とりわけ千葉県に大きな被害をもたらした。

境内には、台風の爪痕が残っていた。

境内社の「御嶽神社」。

有名なオオカミの護符、「大口真神(おおくちまがみ)」が張ってある。

比較的新しいもののようで、今でもオイヌ様信仰が続いていることが分かる。

「十二天社」と刻された石碑があるが、これの説明書きがあるので、転載しておく。

 船方神社と十二天塚             北区堀船4‐13‐28 船方神社            船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社と    よばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承にもとづいて建てられたものです。昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立小輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(荒川=隅田川)に身を投げ、12人の侍女も姫を追って身を投げたという話が江戸六阿弥陀伝承の中にあります。十二天とは、この十二人の侍女を指すと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代に    かけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方神社の十二天社としてまつ    られたものといえます。なお、この伝承は江戸時代、江戸六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。            平成6年3月                        東京都北区教育委員会

 

水神社の石碑、文字色がブルーなのがいい。


138東京都北区の石造物-11c-豊島2、3、4丁目

2020-02-02 06:44:49 | 石造物巡り

▽馬頭観音(豊島2-16-3)

西福寺から南へ200m、石神井川にかかる

豊石橋の袂に馬頭観音がおわします。

「昭和二十年四月」と刻されている。

日にちがないので、分からないが、大空襲による焼死だろうか。

なにかと人手と物資不足の時代、墓塔を建てるとは、愛馬心が余程強かったと見える。

▽無量寿山善光寺(豊島3-3-9)

 

 下町の住宅街の中にある。

建物両側の階段を上がって本堂へ。

右側の階段上段位に座するのは、身代わり善光寺如来。

像容は、どうみても地蔵菩薩だが、善光寺では、如来なのだろうか。

身代わり如来の下の六体の仏は、六地蔵だと思われる。

一階、駐車場の右一画に石仏が固まっている。

水子地蔵

子安観音

そして庚申塔。

▽下道地蔵堂(豊島4-16-29)

豊島4丁目、すぐそばを墨田川が流れる道に面して、18体もの石仏が整然と並んでいる。

下道地蔵堂。

明暗が激しすぎて堂内の石仏が沈み込んで、はっきりしないが、全部で18体。

下道「地蔵堂」で、みんな赤いよだれ掛けをしているので、18体全部が地蔵菩薩かと思うが、地蔵は半数の9体、残りは青面金剛だったりする。

いずれにせよ、これだけの石仏が一堂に並ぶのは、東京では稀有な光景といえようか。

隅田川の整備、道路拡張、マンション建設などで、行き先を失った仏が、みんなここに集められたということ。

廃棄物として、処分されなかっただけよしとしなければならないだろう。

「素性」の分かる、何体かを紹介します。

右から5番目、涎掛けをめくって見なかったので、観音か勢至菩薩か不明だが、「供養庚申為二世安楽」、「享保三天戌十一月」、「豊嶋村同行十一人」と刻されています。

その左隣は、地蔵庚申塔。

「奉造立庚申二世安楽所」、「元禄十六癸未年十一月十八日」。

その三つ隣、中央に位置するのは、天和三年造立の地蔵菩薩庚申塔。

「同行男女三十四人 武州豊嶋村」とある。

その左も、地蔵庚申塔、貞享4年造立です。

その左隣の上部欠落の地蔵菩薩は、寛文10年造立の庚申塔。

下半身が折れてセメントで補修してあるのが、延宝3年の地蔵庚申塔。

わずか1体だが、如意輪観音もおわす。

宝永6年造立で、頭上に「庚」の字もある。

庚申塔だろうか。

涎掛けを外しはしなかったが、刻字を読むのに接近していたら、90歳くらいの老女が声をかけてきた。

「この仏さんのほとんどは、どざえもんなんですよ。」という。

「私の曽爺さんは船稼業の人で、水死体が流れ着くと、ねんごろに葬って、お地蔵さんを建てて、菩提を弔ったと聞いていますよ」。

曽爺さんから住んでいる家が墨田川沿いにあるというので、行って見たが、工事中で立入禁止。

想像を超える高さに堤防というのか、壁がそびえたっていて、その向こうに川がながれているとはとても想像できない。

▽延命地蔵(豊島5-1)

次の目的地紀州神社に向かい歩いていたら、紀州通りを左折して王子に向かう道の分岐点に地蔵堂を見つけた。

持参資料には載っていない。

お地蔵さんの背後に木の板に「延命地蔵大菩薩」と大書してある。

その右には「天下和順 日月清明 風雨以時 災属不起」、左には「国富民安 兵才無用 崇徳興仁 務修礼譲」と書かれてある。

これでは個人の延命を助力するなどというレベルを超えて、国家、国民の安泰を守る大使命を

課せられて、お地蔵さんも大変です。

▽紀州神社(豊島7-15-7)

 

 

これという石造物は、ない。

資料では、板碑が2基あることになっているが、本殿の中か、あるいは、境内にあるのを見逃したのか、見当たらなかった。

本殿左奥に水神社。

志茂とか豊島には、水神社が多い。

台石には「村里/舟持中/財資/当村中」とある。

これは何というものだろうか。

私は初めて見る石造物。

柱?状部分には「三峰神社」、「金毘羅神社」などと刻されている。

社内神社なのだろうか。

▽真言宗・豊山派医王山清光寺(豊島7-31-7)

 

山門を入って、すぐ左、4基の石仏がおわす。

 

一番左は、三角柱の二面にお地蔵さん。

台座に「兄弟地蔵」とある。

大正10年1月20日夜、火災で焼死した5歳と2歳の男兄弟を弔うため造立されたもの。

兄弟地蔵の隣は、高さ180cmの船形光背地蔵立像。

寛文8年に造立された。

右端は、聖観音立像。

バックに天衣がなびいている。

六地蔵は新しいようだ。

本堂におわす本尊は、行基作の不動明王。

勢至菩薩立像がいらっしゃり、

聖観音立像がおわすが、

こちらは、当山開山者・豊島清光供養塔。

豊島清光がいかなる人物か、区教委による解説があるが、さほど関心を持たれそうもないので、カットします。