王子本町と岸町の範囲が分かりにくい。
王子神社は、王子本町にある。
▽王子神社(王子本町1-1-2)
王子神社は、豊島氏が紀州熊野三社権現から勧請したものだが、その年が別当寺金輪寺に奉納された大般若経の奥書によって、文保2年(1318)以前だとわかるのだそうです。
でも神社にある区教委による説明板の勧請年は、元享2年(1322)となっていて、なぜ、こうした違いが出るのか、私には分かりません。
王子神社(由来)
御祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 天照大御神 速玉男之命 事解男之命 元亨二年(1322)豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進を受け、江戸時代には徳川家康が社領として200石を寄進しました。これは王子村の村高の3分の2に当たります。別当寺は、王子神社に隣接していた弾夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休憩する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代将軍、十代家治、十一代家斉が社殿の修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社は17社を数えました。紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。この後はなみの名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。特に7月13日に行われた王子神社の例祭は「槍祭」とも呼ばれ、小さな槍を買い求める人や田楽踊を見物する多くの人で賑わったことが見物記などからうかがえます。明治時代に入ると、明治元年准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。戦前の境内は「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は氏子一同により、権現造の社殿が再建され、現在の景観に至っています。末社 関神社 蝉丸法師を祭神とし、理容業者より信仰されている全国でも珍しい「髪」の祖神です。 平成25年6月
東京都北区教育委員会
文中の天然記念物のイチョウは、勧請時、紀州から苗木を持ってきて植えたものと云われ、となると約700年の時を経たことになる。
先日、テレビを見ていたら、街路樹にイチョウの木が多いのは、防火効果が高いからと説明していた。
実験でイチョウの葉と桜の葉を燃やしていたが、確かに銀杏の葉はなかなか燃えない。
水分が多いのだそうだ。
戦災で他の樹木は消失したのに、イチョウだけ残ったのも頷ける話です。
駐車場の一角にあるのが、関神社。
全国でも珍しい髪の神様です。
祭神は、蝉丸公など。
氏子に、かつら組合、人毛組合、床山組合、美容組合などの名前があるのが、面白い。
「髪の祖神」関神社由緒略記
蝉丸公 神霊
逆 髪 媛 神霊
古屋美女 神霊
これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関 の名で有名な「蝉丸公」は、延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又、髪の毛が逆髪であるゆえに嘆き悲しむ姉君 のために、侍女の「古屋美女」に銘じてかもじ・かつら」を考案し、髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の始祖」と博く崇敬を集め、「関蝉丸神社」として、ゆかりの地、滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として、江戸時代、ここ「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。 昭和20年4月13日、戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて、全国各地「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け、浄財を募り昭和34年5月24日これを再建せり。 王子神社 宮司
毛塚を由来 釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき、貧女が自らの髪の毛を切り油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌々と輝き、世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和36年5月24日「関神社」境内に毛塚の塔を建立し永く報恩の一助とする。 関神社奉賛会 東京人毛商工組合 東京床山協会 東京かつら協会
▽王子子育て地蔵尊(王子本町1-24-8)
権現坂と王子大坂(旧岩槻街道)の追分の個人宅の敷地にある。
赤い頭巾と涎掛けは、洗濯されていて清潔だ。
丁寧に保存されていることが分かります。
頭上には「王子子育地蔵尊」の文字。
右から左に書かれているので、明治から昭和初期までに掲げられたものでしょうか。
ここにも北区教委の説明板があります。
王子子育地蔵尊
北区王子本町1-24-8所在 王子の子育地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫した、像の高さ122cmの石造地蔵菩薩立像です。釈迦如来が没してから弥勒菩薩が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、地蔵菩薩は、この時代に人々を救済する菩薩と信じられてきました。 当地蔵尊は、昭和20年4月13・14日の空襲によって火を浴び、像の表面が剥落しているため、造立した年代や造立者はわかりません。昭和3年12月に出版された『王子町誌』によれば、子育地蔵尊は、同所にあった山本家の祖先が誓願して室町時代の末期、天文元年(1532)に建立安置し、当時の堂宇は元禄二年(1689)に改築したものだと記されています。現存の像の造立年代を判断するには資料が不足していますが、同所で古くから地蔵尊が祀られていたことが推測されます。 また、その信仰については、「古来子育及商売繁昌の地蔵尊として信仰せられ、毎月四の日の縁日には参拝する者実に夥しく、縁日商人の露店を張るものも頗る多いので、その賑ひ真に筆紙の及ぶところでない」とあり、近代には子育地蔵として信仰を集めていたことが知られます。 お唱えする言葉 「おん かかか びさんまえい そわか」 ※私有地に建っておりますので、静かにお参り下さい。 平成28年2月 東京都北区教育委員会 |