石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

30 東京都板橋区の力石

2012-05-01 16:07:55 | 文化遺産

タイトルは「東京都板橋区の力石」だが、板橋の力石に何か特徴があるということではない。

私の住まいが板橋にあるというそれだけのことです。

力石とは「労働を人力に頼らざるを得なかった時代に労働者の間に発生した力比べに使用した石」のこと。(『東京の力石』より)

石仏めぐりをしていると寺社に立ち寄ることが多い。

境内の片隅に放置されたままの力石を見かけることがある。

 氷川神社(富士見市)(放置されているわけではありません

重くて捨て去るのも容易ではない、だからそのままにしてあるというのが実情だろうか。

放置はしてあっても、価値のある文化遺産であることに間違いはない。

だから保存が急がれるのだが、その前に悉皆調査が不可欠だと立ちあがった奇特な御仁がいる。

高島慎助・四日市大学教授。

全国各地の力石を隈なく実測調査して『○○の力石』なる本を20冊近く出している信じられないほどのパワーと実行力のある学者・先生なのです。

その著書の一冊が『東京の力石』。

その板橋編がこのブログのネタ元。

もっともらしい能書きをたれていたら、それは『東京の力石』からの受け売りだと思ってください。

 

諏訪神社(大門)

諏訪神社は、荒川低湿地帯を望む武蔵野台地の突端にある。

   諏訪神社(板橋区大門)

その年の五穀豊穣を予祝する「田遊び」の神事が旧暦正月13日に行われる神社として知られている。

「田遊び」は国の重要無形文化財に指定されているが、一方の継承文化たるべき「力石」は休憩ベンチの傍らにゴロンと3個転がっている。

そのいずれにも「奉納十羅刹女神」と刻されている。

ネットで検索してみた。

「十羅刹(じゅうらせつ)女神」とは、鬼子母神の娘で「人の精気を奪う鬼女・人を食べるバラモンの悪鬼」であるらしい。

なんで諏訪神社にバラモンの悪鬼なのか、いぶかったが、神社の解説板を読んで納得。

「寛永7年(1630)、十羅刹女を配祀したが、明治になっての神仏分離の際これを排した」とある。

メインの諏訪大明神ではなく、サブの十羅刹女神に力石を奉納する理由は何か、ご存じの方、教えてください。

 

天祖神社(西台)

鳥居をくぐると見下ろすように境内が広がっている。

力石は3か所に分散して置いてある。

『東京の力石』には11個の力石があると書いてあるが、7個しか見つけられなかった。

まず鳥居をくぐってすぐの階段わきに2個。

「天王四十五メ余」、「奉納五十五メ」と読める。

四十五メは四十五貫目。

米1表の16貫が担ぐ最低重量で、20-30貫あたりが標準的な力石だったらしい。

「切付け八掛け」という言葉がある。

これは力石の重量の刻字は、その八掛けが正味重量だということを意味する。

なお、「天王」は本殿左脇の「八雲神社」の「天王さま」のこと。

 「天王さん」こと「八雲神社}

 掲示板の下に目立たぬように3個。

「天王さま」左の小さな石祠の前にも、力石が2個立っている。

7個のうち、一番重いのは、70貫だった。

力石とは無関係だが、この天祖神社には、石棒がある。

板橋区では唯一の石棒ではなかろうか。

珍しいので写真を載せておく。

明治7年に京徳観音付近で発掘されたものと解説板にはある。

 

氷川神社(蓮根)

板橋区には、氷川神社が8社もある。

いずれも大宮の氷川神社を本社としている。

 氷川神社(蓮根)

秋祭りは、大宮から一番遠い神社から始まって、大宮に最も近い神社で終わるのだと、これは氷川町の氷川神社の氏子総代の話。

蓮根氷川神社の力石は、「御嶽山」社が頂上に祀られている塚の下段部分にはめ込まれている。

石の下半分は埋まって、注意して見ないと見逃してしまいそうだ。

 板橋区には指定文化財の力石はないが、文化財指定の力石がある区は多い。

「神田神社」(外神田2)の力石は千代田区指定有形民俗文化財だが、千代田区教育委員会は力石を次のように説明している。

「力石とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代としいる神々も多いとされています。(中略):境内にある力石の由来は詳らかではないが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である」。

 

 稲荷神社(若木)

参道左に古木が立っている。

その木を囲んで石が円計状に並べられている。

その内の3個が力石だというが、刻字のある石は1個だけ、残りは自然石のままだから、分かりにくい。

「奉納 四拾五貫目 中台邑 若中」と刻字されている。

しかし、力石に使用される石は滑らかな楕円形と決っているから、意外に断定しやすい。

表面に凹凸がなく滑らかなのは、わざと持ちにくくしたためであり、体に傷をつけない配慮でもあるらしい。

この稲荷神社のケースは、文化財保存というよりも廃物利用の感が強いような気がする。

 

西熊野神社(前野町)

氷川神社だらけの板橋区にあって、前野町には熊野神社が2社もある。

東西に分けて、こちらは通称「西熊野神社」。

鳥居をくぐると 力石が二つある。

『東京の力石』には、4個あると書いてある。

探したら、あった。

捨てられたようにゴロンと転がっているので、力石だとは認めがたいが、よく見ると刻字されている。

「奉納 四拾メ目 嘉永五子年七月吉日 繁田久右エ門」。

鳥居脇の力石の一つにも同じ名前がある。

そして、3個目には「繁田太郎吉」と刻まれている。

どうやら奉納者の名前のようだが、怪力の父子か兄弟の名前だと面白いのだが。

なぜなら、スーパー力持ちはその名を石に刻むのが通例だったからです。

幕末から明治にかけての力持ちのスーパースター三ノ宮卯之助の場合、35個もの力石にその名が残されている。

彼は22歳の時、70貫の石を持ち上げたという。

 稲荷神社(桶川市)の大盤石(三ノ宮卯之助が持ち上げたとされる力石。推定610キロ)

そして、力持ちの興業を始めるのだが、最も得意とする芸は馬に乗った人を乗せた舟を持ち上げる「人馬舟持ち上げ」だった。

同じ頃、もう一人、怪力でその名を馳せた男がいる。

鬼熊。

熊遊の碑(「浅草寺」にある力石。鬼熊が明治7年に持ち上げた。石の重量は百貫=375キロ)

『絵本風俗往来』ではその怪力ぶりを以下のように描写している。

「鬼熊はもと鎌倉河岸酒店豊島屋抱えの樽転(たるころ)なりしよし。安政頃のことなりけるが鬼熊醤油樽壱個づつを両手に提げ二個の四斗樽の太縄に足首をかけて下駄となし柳原堤をあゆみしを見るもの空樽なるべしと思ふに左にあらず。皆実あるものにて人々いよいよ膽を冷し鬼熊と呼びしは道理なり」。

 

長徳寺(大原町)

力石のある、板橋区では唯一の寺院。

山門から本堂への参道左側に石仏が並び、そのはずれに力石が5個置かれている。

長徳寺の正面が山門。本堂寄りに力石。

中の一つに「寿命石」と刻された力石がある。

「寿命石」としては、滋賀県多賀町の「多賀神社」の石が有名だが、何か関係があるのだろうか。

多賀神社の寿命石(滋賀県多賀町)

 

御嶽神社(桜川)

御嶽神社の力石はすぐには見つけられなかった。

力石として保存されているのではなく、本殿への石段と並行する坂道の縁石として使用されていたからです。

力石は必ず刻字されているとは限らない。

自然石の力石も多い。

『東京の力石』では、御嶽神社の力石は2個と記載されているが、これは刻字力石のことで、自然石を入れれば、3、4倍にはなりそうに思える。

縁石をひっくり返して見なければ、正確な数字ははじき出せないから、あくまでも想定の数ではあるが。

刻字のある石には「二十三貫目 栗原村」と刻まれている。

 今の桜川がその昔栗原村だったのかどうか、寡聞にして知らないが、他村であったら面白い。

と、いうのは、自力で担いで運ぶのなら、盗まれても文句は言えない不文律があったからです。

(調べてみたら、桜川は栗原村だった。)

 

 

氷川神社(東新町

広い境内の一角に郷土博物館があり、その建物の前に力石が6個整然と置いてある。

 氷川神社の郷土博物館                   郷土博物館前の保存力石

『東京の力石』では、「簡易保存」されていると書いてあるが、「簡易」ではない「本格保存」はどのような状態を指すのだろうか。

本格にせよ、簡易にせよ、今や力石は保存対象となってしまっている。

しかし、昭和初期までは全国のどの町村でも力比べが盛んに行われていた。

フオークリフトやベルトコンベアに委ねられている物資の運搬は、過去にはそのすべてが人力で行われてきた。

そのために男たちは、体を鍛え、体力を培って、時には力自慢を競い合った。

海鮮問屋では重さの異なる力石を担がせて、賃金を決めていたという。

16貫(60キロ)の米一俵を担ぐのが、大人への通過儀礼であり、米俵を用いての力比べはどこでも行われていたが、俵は変形しやすく、代わりに石が用いられるようになった。

石担ぎは、以下のような順序で行われる。

姫路市魚吹神社の石担ぎ(姫路市のHPから)

まず地面に立てた力石をしゃがんだ状態で抱える。

次に力石を膝の上に乗せ、身を反らせるようにして立ち上がる。

腹の上で力石の下部に手を移し、肩の上に担ぎあげる。

重量としては、20貫から30貫前後、90キロから100キロくらいが最も多く、中には50貫、100貫というのもある。

担ぐのに失敗して大けがをするケースも絶えなかったと言われている。

 

氷川神社(大谷口上町)

参道右の手水鉢奥に5個の力石が展示されている。

中の1個は刻字が朱色。

「奉納 三十八貫目余 上板橋藤八」と読める。

他の石も朱文字だったのに、朱色がはげ落ちてしまったのだろうか。

5個のうち3個に「勇太郎」の名前がある。

どんな男だったのだろうか。

 

これで「板橋区の力石」は終わり。

全部で44個。

東京には約1200個の力石があるそうで、一つの区としては平均値だろうか。

 

読み返してみたが、つまらない。

つまらない原因は、『東京の力石』をなぞっただけで、新しい発見が何もないことにありそうだ。

44個の他にも力石はあるのか、改めて探してみるつもりだ。

また、個々の力石に纏わる逸話もほしい。

例えば、「勇太郎」の人物像など。

新しい写真と聞き書きをいつか追加したいと思っている。