石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

131花巻市の五・七庚申塔

2017-06-25 09:28:30 | 庚申塔

現代は情報化社会だから、初めての観光地でも初めてのような気がしない。

その観光地のメインスポットの写真を何度も見ているから、感激が薄い。

興味のあることなら、関連情報が向こうの方から飛び込んでくるような気がする。

だから、五庚申塔、七庚申塔と聞いて、「え、そんなのあるの?初めて知った」といささか驚いた。

     七庚申塔(花巻市鍋倉)

 

あなたは、知ってましたか。

五庚申塔と七庚申塔が特に集中しているのは、岩手県花巻市で、ほかに宮城県北部、秋田県、山形県、青森県など東北地方にあるといわれています。

   花巻インターチェンジ空撮

花巻市の和讃念仏塔については、このブログでも取り上げたが、その際、五・七庚申塔の写真も撮ってきたので、今回はその報告です。

 

まずは、五・七庚申とは何か、から。

「庚申」とは、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)が組み合わさったもので、60日(年)ごとに回ってくる。

一年は365日だから、基本的には6回だが、年によって、7回だったり5回だったりする。

明治以降の五・七庚申年を列記すると

明治12年(1879) 七庚申
明治22年(1889) 七庚申

稲荷神社(穂塚) 明治22年閏12月19日

明治33年(1900) 七庚申

 

 稲荷神社(二枚橋)明治33年7月11日   

明治35年(1902) 五庚申
明治36年(1903) 七庚申
明治44年(1911) 七庚申
大正元年(1914) 五庚申
大正3年(1914)  七庚申

 熊野神社(椚の目)大正3年10月1日

大正14年(1925) 七庚申
昭和11年(1936) 七庚申

 熊野神社(椚の目) 昭和11年4月

初和22年(1947) 七庚申
昭和23年(1948) 五庚申
昭和24年(1949) 七庚申
昭和34年(1959) 五庚申
昭和35年(1960) 七庚申
昭和63年(1988) 七庚申

 路傍(鍋倉) 昭和63年1月6日初庚申日

7回の年を七庚申年、5回の年を5庚申年と呼び、七庚申年は豊作、五庚申年は凶作という伝承があったらしい。

宮沢賢治は、七庚申年も五庚申年も凶作と恐れていたようで、「庚申」と題する詩がある。

歳に七度はた五つ、庚の申を重ぬれば、
稔らぬ秋を恐(かしこ)みて、家長ら塚を理(おさ)めにき、
汗に蝕むまなこゆえ、昴の鎖の火の数を、
七つと五つあるはただ、一つの雲と仰ぎ見き。

さらに、かの有名な「雨ニモ負ケズ」の作詞手帳の終わりのページに、「七庚申・五庚申」を色鉛筆で描いた戯画的スケッチもある。

宮沢賢治の庚申信仰の度合いをうかがわせるエピソードです。

では、五・七庚申塔は、庚申塔全体の何割か。

花巻市では、庚申塔総数が308基でその約40%の122基が五・七庚申塔。

しかも、その122基のうちたった7基が五庚申塔で、大半の107基は七庚申塔が占めています。(平成元年)

 五庚申塔(羽山神社・台)

理由は定かではないが、五庚申と七庚申を並立した「五七庚申塔」もある。

   熊野神社(小瀬川)

写真では見にくいが、石塔の上部に横に、五 七と刻してある。

造立年月日は不明で、その造立理由もわかっていない。

 

五・七庚申塔の造立時期を見ると、圧倒的にその年最後の庚申日の造立が多い。

稲荷神社(穂塚) 明治44年12月27日

伝承では、七庚申念は豊作ということになっているので、年末に豊作を神に感謝したと考えれば理屈は成立するが、五庚申の凶作の場合はどうなるのか。

 延命寺地蔵堂(滝ノ沢) 昭和12年 七庚申塔の右に「日月清明」、左に「百穀豊穣」とある。

年初めに「凶作にならないように」と祈願するのは自然だが、凶作だった年末に神にかける言葉はなさそうだ。

伝承と実際の庚申行事とは無関係だったことになる。

史実的にも、五・七庚申年と東北地方の冷害被害とは重ならないと言う。

伝承が非科学的であることは明白のようだ。

それにも関わらず、五・七庚申年に、庚申塔の造立が相次いだのは、豊作期待と凶作忌避の気持ちがそれだけ強く農民たちにあったからであろう。

         稲荷神社(穂塚)の七庚申塔群

江戸時代には普通の「庚申塔」ばかりで、五・七庚申塔は少なかったのに、明治に入ると途端に激増したのはなぜなのか、これもまた興味あるテーマだが、それはいずれまた後で。

≪参考図書・文献とウエブ≫

〇花巻市老人大学院学芸部『花巻の石碑ー花巻市石碑調査報告書ー』平成元年

〇嶋二郎『岩手の庚申塔』ー五七庚申塔をたずねてー(『日本の石仏』NO99、2001年春号)

〇「宮沢賢治の里より」―七庚申と五庚申ー
  http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/59fed7d0a8abefe86e5ed5b0aedcbfaf

 


129 花巻市の和讃念仏塔

2017-06-15 06:04:56 | 史跡

去年の秋、遠野の五百羅漢へ行った帰途、花巻温泉に一泊した。

遠野から花巻に着いて、わんこ蕎麦を食べ終わったのが、12時半頃。

温泉宿に直行するには早すぎる。

花巻市内と郊外の温泉郷までの間の寺社巡りで、時間をつぶすことに。

           路傍(北湯口)

実は、こうしたことがあろうかと思い、目的を決めてある。

一つは、宮沢賢治碑。

日本全国には、宮沢賢治にかかわる石碑が47基あるそうだが、そのうち18基が、故郷・花巻市にあると言われている。

       歌碑「巨杉」(延命寺)

記念碑、文学碑、歌碑と種類は異なれど、碑文の内容のまさにその地に立っているのだから、興味深い。

しかし、短時間で、18基全部回れるだろうか。

「花巻市の宮沢賢治碑」と題して、15基だとか、16基だと達成感がなく、ブログにUPする気にもならない。

面白そうだが、リスキーなので、テーマを変更、「和讃念仏塔」に絞ることにした。

何故なら、和讃念仏塔は、岩手県以外でその造立の報告はなく、しかもその大半は花巻市にあるという極めてローカル色の濃い石塔だからです。

  松山寺(台)

これまで確認された花巻市内の和讃念仏塔は151基。

全数をカバーすることなど夢想だにしない数だけに、数基でも引け目を感じなくて済むという利点がある。

 

「和讃念仏塔」は、当然のことながら、念仏塔の一つ。

まずは、念仏塔について。

念仏とは、仏の相好、功徳を思い浮かべながら、その仏の名号を唱えること をいう。

わが国では、浄土教が阿弥陀如来の信仰を広め、「南無阿弥陀仏」を唱えることによって、誰でも極楽浄土を遂げられるという教えが広まった。

やがて、念仏を唱える回数が多ければ多いほど、功徳が大きくなるという考えから、「百万遍念仏」が流行りだす。

 百万遍念仏塔(北湯口・路傍)

そして、誦する念仏回数を増やすには、大勢集まったほうがいいと念仏集団ができるようになる。

これを「念仏講」という。

多数作善の思想は、百万遍が二百万遍になり、三百万遍になってゆく。

講の人数も、当然、増えることになる。

「百万遍念仏」がいかに人数と日時を要するものなのか、このブログNO57「佐渡の百万遍供養塔」で述べているが、それによれば、光明真言を七百万遍達成するのに、35人の講中で、毎日6時間誦して、56日、農閑期の旧正月松の内8日間ぶっ通しでやったとして、7年間かかることになる。

大事業を達成すると人は記念に何かを残したくなる。

「念仏供養塔」は、こうして、造立されることになったのです。

花巻市の念仏塔は、437基。(以下データは、『花巻市文化財調査報告書ー花巻の和讃念仏供養塔』より)

このうち「南無阿弥陀仏」の六字名号塔が最も多くて161基、ついで和讃念仏塔151基、念仏供養塔62基、百万遍供養塔32基、踊念仏塔31基となっている。

ここでやっと肝心の「和讃念仏塔」の説明に入る。

「和讃」とは、仏教歌のことで、仏、菩薩の功徳、経典や祖師、高僧の業績を讃える七五調の唱え歌。

和讃に似たものに「御詠歌」があるが、御詠歌は、仏教の教えを五七五七七の和歌にして在家が歌う曲をいう。

『花巻市文化財調査報告書ー花巻の和讃念仏供養塔』の筆者・嶋二郎氏は、子供のころの思い出として、次のように回顧している。

子供の頃、生家の菩提寺曹洞宗東光寺(花巻市北笹間)へ旧暦七月十六日のお盆の祭りの日にはかならずお参りに行ったものである。この日には、決まって、花笠をかぶり、美しい着物をきた若い娘たちが、太鼓と笛の調子に合わせて踊る踊念仏(大念仏)の一団と巡礼姿の菅笠をかぶり、草鞋、脚絆で踊りもせず鈴の音に合わせて歌うような調子で念仏と和讃を唱える数人の一団(和讃念仏)がお寺の境内に次から次へと洗われて踊ったり、念仏を唱えたりしていたことを想い出す」。

嶋氏の回顧談では、7月16日のお盆の行事として和讃念仏が歌われているが、和讃念仏塔の造塔も7月が247基と圧倒的に多い。

      圓通寺(十二丁目)

2位の8月が11基だから、和讃念仏は、歌うのも造塔もお盆の専有行事だったようだ。

造立年代にも時代の特色が反映している。

天明7年(1783)に花巻市に初めて和讃念仏塔が登場し、その後1810年代(文化7-文政3)の10年間に22基、1820年代(文政4-12)26基と造立されていたものが、1830年代(天保2-11)には9基と激減している。

これは大飢饉の天保飢饉が相次いだ時代で、造立どころではない世情を表している。

その次の10年間、1840年代(天保12-嘉永3)には、42基と急増しているが、これは天保大飢饉の死者の追善供養の造塔であるとみられている。

 

花巻市文化財調査報告書第23集『花巻の和讃念仏供養塔』の筆者・嶋二郎氏によれば、和讃念仏塔に関する文献は皆無とのこと。

つまり和讃念仏の歌詞は一つとして残っていないということになります。

では、和讃とはいかなるものか、手近にある『親鸞和讃集』(岩波文庫)を覗いてみました。

 

讃阿弥陀仏偈和讃 愚禿親鸞作

南無阿弥陀仏(なもわあみだぶち)

一 彌陀成仏のこのかたは
   いまに十劫をへたまへり
   法身の光輪きはもなく
   世の盲冥をてらすなり

二 智慧の光明はかりなし
   有量の諸相ことごとく
   光暁かふらぬものはなし
   真実明に帰命せよ

三 解脱の光輪きはもなし
  光觸かふるものはみな
  有無をはなるとのべたまふ
  平等覚に帰命せよ(以下略)

以下が、私が半日で撮った無和讃念仏塔。ほんのわずかですが・・・

 八幡神社(花巻・上小舟渡) 明治二十年七月十五日 100(縦)×62(横)

圓通寺(花巻・十二丁目)文政十年 81×50

上は、圓通寺墓地にあった「烏八臼」。岩手県にも烏八臼があることを確認。

 八坂神社路傍(湯本・北湯口)明治四十年十月 85×50

熊野神社(湯本・椚ノ目)不明 66×30

松山寺(湯本・台)明治三十九年七月十二日 75

松山寺(湯本・台) 不明 145×50

 

 

 

 

 

 


128 五百羅漢(写真ファイルから)その4

2017-06-05 08:43:52 | 羅漢

◇羅漢寺(兵庫県加西市)

現代は情報化社会だから、否応なくあふれんばかりの情報に接することになる。

「石仏」はマイナーな分野だが、それでも日々新しい情報が飛び込んでくる。

自分のことながら、その情報の選択基準がはっきりしないのは、なさけない。

ひとつだけはっきりしていることは、どんなに魅力的でも、遠隔地の石仏は、無意識に排除していること。

時間はあるけれど、金がないからです。

日帰りできる範囲外は、遠隔地となるから、ほとんどの場所は「行ってみたいけれど、諦める」ことになる。

それでも「行ってみたい」欲望を抑えきれず、禁を犯して遠出、行ってよかったと思う場所が、2か所ある。

修羅那の石仏と北条の五百羅漢。

両方に共通するのは「幻想的」なイメージ。

今回は「北条の五百羅漢」を取り上げる。

写真を見ていたから、変わった石仏であることは、重々承知していた。

にもかかわらず、現地でその石仏群を目の当たりにして、言葉を失った。

私には、とても羅漢には見えない。

寺号が「羅漢寺」で、これは五百羅漢だと寺が説明しているので、そうかと思うけれど、その説明や先入観なしに、これを羅漢群だとみる人は少ないのではないか。

それがいかに超常的で幻想的な石造物であるか、それを伝えるには、あまりにも筆力不足なので、二人の文章をその著書から引用させてもらうことにする。

 仏は、奇怪な姿のまま右に、左に傾き、よろけながら立っている。方形の石に頭だけを丸く彫って手や躰はそのままで、線彫りにした一見幼稚な仏たちである。しかし、陰影を持った切れ長な目に象徴された恐ろしいほど深い悲しみを湛えた表情は、石仏全体に共通しており、それが何かを意図した作者の技法のような気がした。

これをモノマニックというのかどうか。凍り付いたような冷たい表情が、その目の造作にあるのは確かなようだ。見たところ、石仏によくある笑ったものはない。むしろ優しい顔は彫るまいと決めた作者の執念がノミあとに表現されているように思った。

五百体ほどある仏の一体一体を見ながら、ぼくは、なぜこれほどまでに儀軌にはずれた仏を刻んだのか、作者の心境を思った。ぼくは、仏と仏の間を行ったり来たりしながら、時にはそこに彫られた毛筋ほどの線も見逃すまいと長い間、向かい合った。しかし、切れ長の瞳に湛えられた憂愁のかげは、深い謎を秘めたまま、黙然として何も語ろうとはしない。

石仏を見ながら、この彫法は、うまい下手の問題ではなく、少なくとも、仏教とか美とかそういうものを念頭におかないで、まず死者への深い思いやりの心が動いたものだろうと思った。そこには哀しく、美しい心が、ただひたすらに石に向かう純粋さだけがあったように思う。そんな目で見る仏の顔は、永い風雪に傷みながらも、その内面には、造立に悲願をかけた人々の熱い血が動いているように思うのである。(宮川重信『風雪そして石仏』の「異質な面貌北条石仏」より抜粋

 

恨むかのように、嘆くかのように、いかにもうそぶいて天を睨む仏がある。せっせと絵でも描いているような仏もあった。縮こまるものもあれば、のびのびと背を伸ばして遠くに視線を投げて歌を歌うようなもの、沈黙に徹した仏、胸を抱き、自らの首をしめて苦しむ仏、目をむき歯をかみしめて無念の形相の仏、やはりここに並ぶ仏は一つ一つに個性があった。よく見ると一人ひとりが自我をむき出しにしている。

ここには永遠の臨終と生誕の歓びがある。あっちを向き、こっちを向き、ぴたりと寄り添い、離れ離れとなり、ばらばらでありながら妙に一つの秩序がある。手も足もない一本棒のだるまさん、ちっぽけな手指が石の粗い衣からのぞいているのを見ると理屈抜きのおしゃべりがあり、哲学者風に考えると思念の蝶が舞い踊っているようである。

ここを支配しているのは、太古からの静寂、ここにみなぎっているのは妥協を一切好まない人と人の剛直な姿があるだけである。

羅漢場一帯に漂っているのは成長をやめた稚拙と痴呆、一歩も引かない英知のひらめき、何もかも狂っている精神病院の病棟の中の瞳々々の行列である。平凡といえば平凡、怪異といえばどれも怪異、その顔が入リ混じり、前になり後ろになり、斜めになって潮騒のように迫ってくる。

こうした石の仏をいつ、だれが、何のために刻んだのか。まるっきりナゾである。ナゾがナゾを呼び、ナゾが幻想を生んで、北条の羅漢の魅力となっている。何もかもはっきりして、わかりきったところには、幻想は育たない。(森山隆平『羅漢の世界』より)

北条の五百羅漢は、どこか円空仏と相通ずるところがある。

日本は横並び文化だといわれる。

前例にしたがい、仲間と同じようにして生きる。

普遍的で突出しないことに重きをおく社会で、どうしてこのような超個性的作品が生まれるのか、それが不思議でならない。

◇東光寺(大分県宇佐市)

そもそも宇佐市へ行ったのは、宇佐神宮へ参拝するためだった。

宇佐神宮へ行く途中に、ちょっと寄り道をしたのが東光寺だった。

東光寺の五百羅漢と宇佐神宮を同じ日に見て、日本の文化は幅広いな、とつくづく思う。

具現的なるものと抽象的なるものが、同じ宗教という枠内で存立し続けている。

一方で心打たれた者が、他方でもその美に心酔する、そんなことが自分の中で自然に生じたことを改めて気づいて、驚いてしまう。

 

五百羅漢は、本堂裏手のゆるやかな斜面に全員が東面して座している。

夏休み前に校長の話を聞く生徒たちのように、規律を守りながらも、そこには開放感があふれている。

寄居の少林寺の羅漢たちのような広々とした空間とはいわないが、せめて清水市興津の清見寺くらいの広さに配置すれば、より個性的に輝いて見えるのに、と思う。

川越・喜多院ほどの自由奔放さはないにしても、呵々大笑するものあれば、涙ぐむものあり、怒るものあれば、悲しむ者あり、千差万別の喜怒哀楽の表情に、親しき誰かを見つけられること必至。

もちろん、「胸開きらごら像」もちゃんとある。

東光寺は、曹洞宗寺院。

曹洞宗の僧侶たちの中には、一介の乞食僧として、修行をしながら生涯を終えた僧がいた。

彼らの漂泊の本義は、救世済民にあった。

東光寺十五世道琳和尚が、五百羅漢造立を発願したのも、救世済民が願意だった。

他の五百羅漢が、菩提供養で造立されたのに比べ、衆生の安楽を願う道琳の願意は明らかに異なっていた。

それだけに、道琳の勧進は、朝早くから夜更けまで、身を粉にして行われた。

時代は幕末、激変する世の中にあって、道琳の周りだけは変わることがなかった。

嘉永元年(1848)に始められた五百羅漢造立の勧進は、四半世紀後の明治4年(1871)、538体の羅漢完成まで続けられた。

この道琳和尚の倦むことない勧進があればこそ、五百羅漢は完成したのだが、もう一人重要な人物がいたことも忘れてはならない。

それは、石工覚兵衛。

538体の羅漢をたった一人で彫ったと伝えられている。

それを支えたのは、覚兵衛の信仰心だった。

五百羅漢造立という大仕事を成し遂げた彼は、出家して僧侶となり、そのまま東光寺に住まい、遷化したと伝えられている。

 なお、本堂に向かって右には、十六羅漢がござる。

五百羅漢完成の前年に作られたという。

もちろん、石工は覚兵衛。