石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

127 遠野の五百羅漢

2017-04-19 09:31:17 | 羅漢

住居移転のため、更新を中断していましたが、一段落したので再開します。ただし、これまで5日おきに更新していたものを今後は不定期更新とします。今回は、去年の秋、脱稿したものです。

 

パソコンの前に座ったまま、長い時間、書き出せずにいる。

2016年10月下旬、遠野市の五百羅漢へ行った。

写真も撮った。

材料はあるが、書けない。

今は、11月の中旬で、書けないまま、半月が過ぎた。

原因は、はっきりしていて、肝心の五百羅漢が分かりづらいのです。

 自然石の線彫りだから、丸彫りの五百羅漢を見慣れた目には、輪郭がはっきりしない。

その上、石を覆う緑色のコケが線刻像をさらに見にくくしている。

誰かが、顔の部分だけ、コケをむしりとったらしく、顔だけはなんとなく分かるが、それはまるで子供の落書きのようで、釈尊の弟子という威厳に欠けるようだ。

見てもわからないものを紹介しても無駄だろうと思う一方、、せっかく遠野まで行って、ボツにするのはもったいない、とも思うのです。

ケチだから、「もったいない」思いが強くて、結局、「遠野の五百羅漢」を紹介することに。

念を押しますが、羅漢さんの像容は、ほとんど分かりませんよ。

 

新花巻で新幹線から釜石線に乗り換え、遠野駅へ。

駅前でレンタカーに乗る。

ナビに従って走ると10分も行かないうちに「五百羅漢」の標識がある。

そこは、愛宕神社の入口でもあって、大ぶりの石塔が並んでいる。

落ち葉を踏みつつ、山道を登ってゆくと、広い道に出て、その右手に五百羅漢の入口がある。

入口説明版には

五百羅漢
 いまよりも平均気温が3度も低かった江戸時代、高冷地の遠野はしばしば凶作に見舞われ、宝暦5・6年(1755・6)、天明2年(1782)などの大飢饉には多くの犠牲者を出しました。
心を痛めた大慈寺の義山和尚は、その供養のため明和2年から数年をかけてこの五百羅漢を彫りあげました。」

多分、遠野市教委による説明だろうが、五百羅漢の意味よりは、制作のモチベーションに力点があることに注目されたい。

キーワードは、「飢饉」ということになる。

 杉林の暗い山道を抜けると落葉樹が点在する沢筋に出る。

コケに覆われた大小の岩がごろごろ居座って、岩と岩との間の低みは、雨が降れば、川となって水が流れ落ちるのだが、今は、水は見られない。

それでも、かすかに水音がするのは、伏流水の音だろうか。

一番最初に出会ったのが、下の写真の岩。

実はこの写真は、帰り道に撮ったもの。

初めて見たときは、羅漢が彫られていることに気づかなかった。

今、羅漢が彫られているとわかって、改めて見ても、像の輪郭をとらえられない。

ことほどさように、分かり難いのだが、よくよく、目を凝らしてみると、沢筋の岩それぞれに人面が彫られているようだ。

誰が数えたのか知らないが、その数388体だとか。

作風は稚拙そのもの。

石彫には素人の義山和尚がノミを振るったのだから、巧拙を問うても仕方ない。

説明版にあるように、宝暦の餓死者の霊を悼み、読経しながら6年の歳月をかけて500体を彫りあげた和尚の思いが尊いのです。

その6年の間にも不作、凶作は相次いで、ノミを振るう和尚自身も飲まず食わずだったに違いない。

なにしろ近世南部藩では、江戸期270年間に減作年が124回、2年に一度の割合で記録されている。

凶作は6年に一度、飢饉は13年に一度。

人生50年の時代、人々は、生涯に4度もの飢饉に襲われたことになります。

       『凶荒図鑑』より

とりわけ、元禄8年(1695)、宝暦5年(1755)、天明3年(1783)、天保4年(1833)は、南部藩四大飢饉として、多くの餓死者を出した。

元禄8年(1695) 餓死者 4万人。
  15年(1702) 飢人 救済 5万4111人。
        餓死者 2万6000人。
宝暦5年(1755) 餓死者5万4227人。
天明3年(1783) 餓死者 4万8150人。
        疫死 2万3848人。
        他領逃散 3330人。
天保4年(1833) 餓死者多し。

宝暦5年の遠野領の人口は、1万9427人。

それが飢饉によって、1万4799人に減少した。」

 実に24%、4人に1人が餓死してしまったのです。

他領逃散は、文字通り家田畑を捨てて、食料を求め、乞食となって他藩に逃げ込むこと。

一関藩では、藩倉を開放し、飢餓人救済に当たったので、餓死者は出なかったが、「他郷より来たる流民鵠形鳥面の老若男女蟻の如く群れ来たるは目も当てられぬ事どもなり」(一関藩医師の『民間備荒録』より)

幼児は捨てられ、父母を探し迷う姿は、まるで地獄である。路上での追いはぎ・強盗の様は修羅道と言える。かわいそうにと幼児の手に食物を握らせると、その親が奪い取って自分で食べてしまう。全く親子兄弟の情もなく、畜生道という有り様だ。」

餓死、逃散による人口減は、翌年の労働力不足をもたらし、その上、肝心の種もみも食べつくして、作付けできない農地が続出、天候は回復しても不作が続くことになった。

ここの五百羅漢は、宝暦大飢饉の餓死者供養のため彫られたが、花巻市の浄土宗松庵寺には、餓死供養塔、念仏塔のコーナーがあって、10基もの石塔が並んでいる。

3基ほど紹介しよう。

下は、「飢餓疫病死供養」と刻され、文化2年の造立。

右に「宝暦六子年 五十回忌」、左に「天明三卯年 廿三回忌」とある。

次は、文化12年造立の「餓死供養塔」。

また、次は「飢餓供養」塔、天保4発巳年造立です。

 南方植物の稲は、生長期に20度超の温度を必要とする。

ところが、遠野では、この時期、いわゆる「山背」による濃霧と冷気に覆われることがしばしばだった。

    濃霧の釜石

凶作や飢饉は、こうした避けがたい自然条件によって発生するものではあったが、それに輪をかけたのが、藩の悪政。

もともと稲作の北限地だった遠野での米の生産性は低かった。

それに冷害が拍車をかけるから、収穫量は益々少なくなる。

にもかかわらず、年貢は、地域の生産性を無視して画一的に徴収された。

「百姓は、その財の余らぬ様に、不足なきように治めること道なり」という方針も、百姓から資本の留保を奪い、体力を削いでいった。

「農は国の本なり」は虚言だった。

南部藩は、百姓一揆の数、全国NO1というのもうなずける。

遠野市にも一揆リーダーで犠牲者の供養塔はあるが、個人の屋敷内にあって、取材できなかったので、代わりに花巻市の松山寺にある「儀揆」の写真を載せておく。

一揆の犠牲者は、二人。

墓標の一つが無法塔であることから判るように、一人は、当松山寺の住職。

一人は、地元湯本の百姓嘉右衛門。

説明版に曰く。

天明より寛政にわたり、連年の凶作打ち続き、藩の財政益々窮乏を告げ、御用金、寸志金、分限金等あらゆる名称のもとに金員の徴集あり、一方、藩役人驕奢に長じて身分不相応なふるまい多く、村民大いに憤慨し不平を訴ふるの声止まざりき。(以下、略)」

その不当性を森岡藩主に直訴した嘉右衛門は、斬首。

加担した住職は、放逐となった。

寛政12年(1800)のことだった。

寄り道をした。

元へ戻って、遠野の五百羅漢だが、五百羅漢は言うまでもなく、釈尊の高弟500人を指す。

五百羅漢は、釈尊入滅を見守り、死後の経典と戒律の編集会議にも参画した。

羅漢は、悟りをひらいた最上の仏教修行者としての尊称です。

一方、餓死者は供養に値する羅漢だとする考え方が仏教思想にはあるとかで、義山玄峯和尚が羅漢を500体刻したのも、そうした思想によるものだと思われる。

そうした思いで、もう一度、線刻羅漢を見れば、自然の猛威と悪政のために図らずも命を落とした無名の人々の、これは墓銘碑でもあります。

五百羅漢を見終わり、ホテルへ向かう途中、「でんでら野」へ寄った。

「でんでら野」は、いわば「姥捨て山」遠野版。

 縄文時代の竪穴式住居に似た円錐形の藁小屋が、ススキに囲まれてポツンと建っている。

傍らの説明版には

六十歳になった老人を捨てた野で、老人たちは日中は里に下りて農作業を手伝い、わずかな食料を得て野の小屋に帰り、寄り添うように暮らしながら生命の果てるのを静かに待ったと伝えられています。かっての山村の悲しい習いをうかがわせます。」

 当然、『遠野物語』にも紹介されている。

渕村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず連台野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。その為に今も山口土淵辺いては朝に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。」(『遠野物語111葉』

 「でんでら野」は「蓮台野」のなまりであることが分かる。

「蓮台野」は、京都の風葬地。

墓場のでんでら野へ帰るから「ハカアガリ」とは、なんと悲しい言葉だろうか。

小屋に入ってみる。

真ん中のいろりを囲むようにベンチが張り巡らされている。

一人ではなく何人かが寝泊りしていたものだろうか。

歴史上のことだとばかり思いこんでいたので、こうして姥捨ての風習を形として見るとショックだが、飢饉による餓死者の供養塔ともいうべき五百羅漢を見てきたばかりで、間引きという子殺し、でんでら野という姥捨ては、不作、凶作、飢饉相次ぐ遠野では、生産年齢の者たちが生きてゆくのに不可欠な手段だったのではないか、と素直に肯定してしまいそうな自分がいて、怖い。