石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

134 東京の寺町(10)-台東区松が谷(4)

2018-03-30 07:47:04 | 寺町

8 日蓮宗・本覚寺(松が谷2-8-15)

 山門を入ってすぐ右手が祖師堂。

祖師と云っても日蓮ではなく、六人の弟子の一人日朗を祀るもの。

30日を限って願いをかければ願いが叶うということから、日限(ひぎり)祖師、あるいは日限満願祖師と呼ばれている。

この祖師堂の前には、都内では珍しいお百度参りの石柱群がある。

実は、この百度石には忘れられない思い出がある。

4年前の11月、寺に入ろうとして、「南無妙法蓮華経」を唱えながら、足早に百度石と祖師堂を行き来している女性に出会った。

お百度参りは、時代小説の中だけのものと思い込んでいたので、驚いた。

足早に歩いて祖師堂の前で合掌し祈る、しばし、彼女の動きを見ていた覚えがある。

 

本堂に向かって左に蟇大明神の蟇堂がある。

 

堂の中と周りには、大小の蟇蛙があふれんばかり。

関東大震災で埋もれていた蟇塚を掘り起こした。

その蟇塚にお参りし、願をかけたら叶った男が感涙して堂を建てたというお話。

カエルの大小は、ご利益によって大きさが異なるのだろうか。

百度参りにしろ、蟇大明神にしろ、民間信仰が今も息づいているのは、さすが浅草界隈、と妙に納得してしまう。 

 

9 真宗大谷派・真龍寺(松が谷2-11-3)

 

真龍寺は、第一次鳩山内閣の文部大臣、安藤正純の生家。

新聞記者から政治家へ。

松葉町初代町会長として矢先稲荷神社の昇格などにも働いた。

≪つづく≫


134 東京の寺町(10)-台東区松が谷(3)

2018-03-25 08:27:03 | 寺町

6 日蓮宗・妙音寺(松が谷1-14-6)

 都内には珍しい蚕の神「金色養蚕大明神」が祀られている。

写真、鳥居の奥に黒御影の金色養蚕大明神。

薄い浮彫で、肉眼でも、神像ははっきりしない。

鳥居に向かって左手に、石塔もある。

「金色養蚕大明神」の金色は、蚕神としての金色姫のこと。

常陸の国(茨城県)の三つの神社、蚕影(こかげ)神社、蚕養(こがい)神社、蚕霊神社の蚕神でもある。

伝説では、インド王姫として生まれた金色姫は、継母にいじめられ、それを不憫に思った王が姫を船に乗せて海に流した。船は常陸の国に流れ着き、漁師の権太夫夫婦に助けられる。しかし、金色姫はまもなく亡くなり、その霊魂または死骸が蚕となり、養蚕が始まったというもの。

江戸から明治になっても、都内には養蚕農家が沢山あったことが、金色養蚕大明神があることで分かります。

7 浄土宗・聖徳寺(松が谷2-3-3)

境内に玉川上水を開削した玉川庄右衛門、清右衛門兄弟の墓がある。

徳川将軍家の正史『徳川実紀』承応二年(一六五三)正月十三日の項に「麹町。芝口の市人等。八王子玉川の水を府内にひかんことをはかりて。うたへ出しをゆるされ。費用とて金七千五百両給付」とあり、翌年六月二十日の項には「この日去年命ぜられし玉川上水成功せしにより。其の事奉はりし市人へ褒金三百両下さる」と記されている。

上水掘削に成功し、褒金300両を下された市人の名は書かれてないが、玉川兄弟だったことは間違いない。

   都下羽村市の玉川兄弟像

兄弟の死後220年も経って、明治政府から従五位を追贈されていることからも明らかです。

二人の戒名には「従五位」が麗々しく織り込まれています。

「隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士」

「摂取院殿贈従五位光誉照山大居士」

玉川兄弟の墓の反対側にちょっと洋風な浮彫石像がある。

仏名は何か、寺に問い合わせてみた。

「寄贈されたもので、観音様だと聞いている」との返事だった。

 


134 東京の寺町(10)-台東区松が谷(2)

2018-03-20 08:49:47 | 寺町

3曹洞宗・祝言寺(松が谷1-6-17)

寺の名前としては珍しい「祝言」は、開基したところが祝言村だったから。

 

明暦の大火後、この新寺町へと移ってきた。

中国風山門をくぐると本堂への参道両脇のハスが目に入る。。

枯山水の波の上にハスの花が今にも咲きそうです。

境内の一角に鍋を被った石造物がある。

風化して、表面が崩れて石仏なのか石碑なのかも不明だが、資料には「鍋かぶり地蔵」とある。

眼病に御利益ありとされるらしいが、その由来は、はっきりしない。

『武蔵野の地蔵尊(都内編)』の著者三吉朋十氏は、「これ以上の破壊を防止しようと誰かが古なべをかぶせたのが、そのままになっているのではないか」と推測する。

 4 真宗大谷派・皆応寺(松が谷1-6-17)

5 真宗大谷派・光桂寺(松が谷1-5-12)

両寺とも浄土真宗寺院。

境内には、見るべき石造物はない。

(続く)

 

 


134 東京の寺町(10)-台東区松が谷(1)

2018-03-15 16:01:36 | 寺町

東上野と西浅草の間の寺町は、明暦の大火後、曲輪内からの疎開によるものであることは、前回述べた。

江戸時代初期、江戸とは、ほぼ曲輪内を指していた。

全国諸侯の屋敷と寺院は、狭い廓内に密集し、その再編成には武家屋敷の整理と寺院の疎開が不可欠だった。

台東区は疎開先の受け入れ地として、最適候補地だった。

寛永寺と浅草寺に挟まれ、廓にも隣接した空地は、寺院の格好の疎開地だった。

疎開前の寺院の所在地は、馬喰町、谷ノ蔵、須田町、八丁堀、湯島など。

第一次転出持院数は、33を数えた。

上野、浅草間の寺町、2回目の今回は松が谷編。

浅草通りの北、かっぱ橋道具街の西の一画です。

 1曹洞宗・東国寺(松が谷1-2-3)

よほど注意していないと、見逃してしまう。

「東国寺」の石柱があるだけで、目に入るビルはマンションばかりだから、通り過ぎるのも無理はない。

マンションとマンションの狭い通路(参道?)を行くと駐車場、その奥に墓域が広がっている。

墓地に入って見たかったが、「立ち入り禁止」の警告があり、退散。

2浄土宗・広大寺(松が谷1-4-3)

東国寺から西へ浅草通りを進むと、右に広大寺の山門が見える。

緑豊かな境内が暑さを忘れさせてくれる。

庫裏の呼び鈴を押す。

現れた住職に「宇野浩二の墓をお参りしたいのですが・・・」と声をかけたら、「案内しましょう」としきみと線香を持って墓地へ。

 

しきみを供え、線香を点して立ち去りながら住職は「花代や線香代は結構です」。

何十もの有名人の墓を訪ねて寺を回ったが、こんな経験は初めて。

親切な住職がいるものだと驚いてしまう。

小説を読んだことはないのに宇野浩二の名前を知っているのは、松川事件の裁判が私の小学生時代から大学生時代にかけて進行し、被疑者の無罪論を展開し、支援運動の中核をなした人物として、しばしば新聞紙上でその名を散見したからに他ならない。

昭和36年(1961)、仙台高裁の差し戻し裁判での全員無罪判決を知って間もなく、喀血して死去。

法名・文徳院全誉貫道浩章居士。

冤罪事件の報道に接するたびに、なぜか私は、松川事件と作家知識人の支援運動を思い出してしまうのです。

 


133 シリーズ東京の寺町(9)ー台東区西浅草(8)

2018-03-10 09:12:36 | 寺町

17 真宗東本願寺派・徳本寺(西浅草1-8-11)

でも、裏口のようなので、グルっと回って、正面へ。

墓域には、江戸城内で田沼意次の子意知(おきとも)を切り付け、切腹を命じられた「世直し大明神」こと旗本の佐野善左衛門政言(まさこと)と江戸中期の画家宋紫石の墓があるというが、寺にことわってまで入る気がせず、断念。

18 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺(西浅草1-5-5)

 恥を晒せば、我が家の宗派が浄土真宗と知ったのは、両親の葬儀の時でした。

墓もなく、それまで仏事らしい仏事をしたことがなかったせいでもあります。

宗教に無関心だったからかもしれません。

更に言えば、浄土真宗ではあるものの、西なのか、東なのか、我が家はどちらに所属しているのか、今でも知りません。

今回、西浅草の寺町を書くにあたって、何点かの資料を参考にしましたが、本によって「浅草本願寺」、「東京本願寺」、「本山東本願寺」と名称が異なるのに面喰いました。

子院も東本願寺派もあれば、大谷派もある。

何が何だか分からないので、ネット検索。

私にとって一番わかりよかったのが、Yahoo知恵袋のベストアンサー。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1253254262

明暦の大火で神田明神下から移転するにあたって、幕府から移転先として示されたのは築地と浅草だったそうで、もし築地を選んでいれば、東西本願寺が軒を並べて、内部抗争の愚が形として見られたのに、とこれはつまらない「たら、れば」でした。

これで西浅草1の寺まわりは終わり。


133 シリーズ東京の寺町(9)ー台東区西浅草(7)

2018-03-05 06:10:42 | 寺町

願龍寺を出て、浅草通りを西へ。

右手に「浅草本願寺」の巨大石塔。

まっすぐに伸びる参道の向こうに東京本願寺の威容が横たわっています。

参道両脇には2階建て木造家屋が並び、昭和の匂いを漂わせています。

東本願寺に向かって左に善照寺。

 

16 真宗東本願寺派・善照寺(西浅草1-4-15)

狭い参道の奥に本堂。

本堂の右脇に墓地への道。

墓地入口の手前を右に曲がると都指定の旧跡、清水浜臣の墓があります。

は清水浜臣を知らない。

ネットで調べたら恰好なサイトがあった。

「やまとうた」http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html

清水浜臣の経歴と作品紹介を転載しておきます。

清水浜臣 安永5-文政7(1776-1824)号 泊洦舎(ささなみのや)

江戸飯田町の町医者の家に生まれ、家業を継ぐ。通称、元長(玄長とも)。若くして村田春海に入門し、和歌と古学を学んだ。千蔭・春海亡き後江戸派を代表する歌人となる。門弟には前田夏蔭・岡本保孝(況斎)・岸本由豆流などがいる。土佐の鹿持雅澄とは書簡によって親しく交流した。諸侯から招かれることも多く、松平定信の寵遇も得た。上野不忍池の西に住み、自邸を泊洦舎(ささなみのや)と称した。文政七年(1824)八月十七日、没。四十九歳。
参道を挟んで、善照寺の反対側にも寺があります。(続く)