石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138東京都北区の石造物-16c-王子

2020-03-29 15:06:18 | 石造物巡り

JR線の線路の西側、飛鳥山公園は、王子1丁目だが、線路の東側、王子駅と駅前も同じ王子1丁目なので、面食らう。

鉄道線路の東西では、町名が違うのが普通だろう。

同じ町名にするのにはしかるべき理由があるはずだが、分からない。

▽装束稲荷神社(王子2-30-13)

「装束」は、辞書では「特別の場合に備えて、身支度をすること。また、その着物」とある。

風変わりな社名だが、それはこの神社の謂れにある。

 

 

王子の狐火と装束榎

 かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちが、この榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によ って、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も    盛んになっていました。やがて王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、上の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。

昭和4年装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。    北区教育委員会
 

つまり狐が装束を改めた榎に関わる神社だから、「装束稲荷」ということらしい。

社は、北本通りの裏通りにある。

北本通りのバス停「王子2丁目」に榎の大木はあった。

道路拡張工事で、榎は伐採され、その記念碑がこの地に建てられた。

碑があるのなら神社も、と建てられたのが装束稲荷神社。

昭和一桁の時代のことです。

狭い境内に入る。

狐が咥えているのは、カギ。

境内の川柳碑「いざあけん えび屋扇屋とざすとも 王子のきつねかぎをくわへて」のカギだろうか。

ちなみにエビ屋、扇屋は、王子で一、二を争う料亭のこと。

扇屋は今でも名物の卵焼きを販売している。

と、ここまでわかっていながら、句意は不明というのだから、面白い。

なお、川柳の作者は、あの太田南畝です。

社殿左わきに「装束榎」の碑。

大きな石碑に不釣り合いな細い榎の木が立っている。

伝説の大榎になるのに、何年かかるのだろうか。

境内の説明板には、大晦日の狐の行列の浮世絵が載っている。

榎の木の下で、装束を改めた狐たちが、王子稲荷へと向かう行列を描いたものだ。  

この故事を再現して、町おこしの起爆剤にしようと始まったのが、「王子狐の行列」。

大晦日、狐の面をかぶったり、顔に狐をペイントしたりした人たちが、ここ装束稲荷神社から、王子稲荷神社へと行列して進もうというもの。

平成5年から始まって、いまではすっかり定着したと聞いて、去年(令和元年)の大晦日、王子へ行ってみた。

王子についたのが夜の10時。

装束稲荷の前は身動きできないくらいの人だかりだか、そのほとんどは野次馬の見物人。

狐面の人たちは、ごくわずかだった。

風の強い夜で、このまま2時間も行列がスタートするのを待つには寒すぎる。

王子稲荷神社まで歩いて、帰宅したので、写真は、ネットからの無断借用です。(すみません) 

 

この中には、化けた本物の狐がいるという話が、まことしやかに流布しているのだそうで、なんとも楽しいことです。

来年は、12時に行って、行列に参加するつもり。

▽神谷橋庚申堂(王子5-20-3)

地下鉄神谷町駅出口そばにある。

格子戸の扉は施錠されていて、開けられない。

格子の間にレンズを突っ込んで撮った写真が下の写真。

光の反射で銅製の庚申塔はよくは見えない。

石造の庚申塔も2基ある。

堂の横に「古蹟 観音様の由来記」がある。

観音記ということは、観音を主尊とする庚申塔ということか。

中身をそっくり移し替えようと思い、写真に撮ってきたが、90年前の説明板なので、文字が薄れてよめない部分か゜あるので、断念する。

「昔ここに尼が住んでいて、尼の死後も無人の庵から鈴の音が聞こえるので、村人は庚申塔を建てて祀った」、概ね、このような内容の説明だと思っていい。

 

 


138 東京都北区の石造物-16b-飛鳥山(王子)の続き

2020-03-22 08:23:12 | 石造物巡り

▽飛鳥山の歴史

自然石に黒御影をはめ込んだ碑は、王子ロータリークラブ造立の、飛鳥山由来記。

 

   飛鳥山公園は、明治6年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。このあたりは古くから人が住んでいたらしく、先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されています。ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台のところ)に飛鳥明神の神が祀られていたからと伝えられています。江戸時代の中頃元文2年(1737)徳川八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進し荒地を整備して、たくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名になり、周りに茶屋などもできました。その説明は右手の大きな石碑に詳しく刻まれていますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていました。飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語に出てくるような仇討ちの趣向や、変装などのためにたいへんな賑わいでした。また東側の崖からは、カワラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になって、危険防止のために禁止されました。この山は東から西へのなだらかな斜面でしたが道路拡張のためにせばめられ、先に中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の光に輝いています。            

    昭和55年2月吉日       東京王子ロータリークラブ

 

そしてその右、覆い屋の中にあるのは、「飛鳥山碑」。

 

▽飛鳥山碑(飛鳥山公園内)

 

飛鳥山何と読んだか拝むなり

飛鳥山どなたの墓とべらぼうめ

この花を折るなだろうと石碑見る

何だ石碑かと一つも読めぬなり

川柳四首は、公園内の「飛鳥山碑」の難解さを詠んだもの。

「飛鳥山碑」は、大正15年に東京都の文化財に指定されています。

碑建設の経緯、碑の意義などについて、都教委作成の説明板があるので、まず、紹介しておきます。

 

東京都指定有形文化財  飛鳥山碑

 八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般市民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文2年(1737)に碑を建立した。

 石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は儒臣成島道筑によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立に至る経緯については。道筑の子和鼎の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治世が行き届いて太平の世であることを喧伝したもの考えられる。

 碑は、総高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。元享年中(1321-24)に豊島氏が王子権現を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀りつづけてきたことが記される。最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解するうえで重要な資料である。

 平成23年3月 建設                東京都教育委員会

 

平成4年(1993)、北区教育委員会から『飛鳥山』が刊行されました。

難解な碑文の解読と『飛鳥山碑始末』を元に飛鳥山碑にまつわる出来事を紹介しています。

 

以下は、その『飛鳥山』からの引用です。

まずは、難解碑文の読解から。

全文は、量が多いので、冒頭7行です。

 

惟南國之鎭   これ なんごくのしずめを

曰熊埜之山   くまののやまという

有神曰熊埜之神 かみあり くまののかみという

實 伊奘冉尊也 げに いざなみのみことなり

配祀伊奘諾尊  いざなぎのみこと

事解王子    ことさかのおうじをはいしす

或稱之三神   あるいはこれをさんじんとしょうし

 

訳文

南国の鎮めを

熊野の山といい

神様がいて熊野の神という

実はイザナミノミコト(女神)である

これにイザナギノミコト(男神)と

コトサカノオウジをあわせまつり

これを三神ともいう

碑文の作者成島道筑は、幕府坊主職で、吉宗より5歳上、毎日、吉宗に諸書の講義を行っていました。

飛鳥山開発と一般開放という己の功績を、後世に伝えるべく吉宗が建立した石碑は、歴代将軍の中でも唯一のものです。

吉宗は、拓本を表装して部屋にかけ、文章と云い、手蹟といい、これに比すべきものはないと愛玩したと言います。

使用した石は、五代綱吉の時に紀州から献上されたもの。

石工には、八丁堀の名工・佐平治が選ばれます。

仕事賃200両の見積もりに佐平治は、20両で十分と断ったそうです。

彫りあがった碑は、八丁堀から飛鳥山へ。

牛20頭と人足300人が力を合わせての大仕事。

その労をねぎらって牛1頭につき銭1貫文が支給されたという。

 

「飛鳥山碑」の右隣は「明治三十七八年戦役記念碑」。

明治37・8年というのは、日露戦争。

北区は、陸軍の後方支援施設が集中していたから、この種の石碑は枚挙をいとわない。

こども広場に入る。

その北方にあるのが、「船津翁の碑」。

明治初期の農業指導者・船津伝次平の顕彰碑。

碑は、彼の故郷、赤城山に向いて立っています。

碑文は線刻が薄くて読めないが、傍らの北区教委政策の説明板に、その全文が載せられている。

 

しかし、長文なので、ここに転載はしません。

 

 

 


138東京都北区の石造物-16-飛鳥山(王子)

2020-03-15 08:41:43 | 石造物巡り

飛鳥山には、10度くらい行ったのではないか。

都電の「飛鳥山」で降りるか、自転車で石神井川沿いに下って、飛鳥山の西側から、いつも、公園に入っていた。

だから、王子駅東口を出て、歩道橋を渡り、ケーブルカーで公園に入るのは初めて。

▽飛鳥山公園(王子1-1-3)

 ケーブル乗り場の手前、公園の縁に沿って走る道があるが、その道の公園反対側は、昭和色たっぷりの飲み屋街。

昼光は細部まで照らし出して、わびしさをひと際浮き出している。

なぜか見上げる高さにお地蔵さんがおわす。

「首無し地蔵」と言われるそうだが、首はあるようだ。

なぜ、首がなくなったのか、誰が首をつけたのか、そして、そもそもなぜ、ここにお地蔵さんなのか、一切が不明です。

ケーブルカー、他に乗客はいず、独り占め。

前を撮ったり、

後ろを撮ったり。

あっという間に山頂駅に。

下りると前方に、石を積み重ねた三角柱がある。

山頂モニュメントで、「飛鳥山 標高二十五・四米」と読める。

東京都23区内での山と言えば、44.6mの箱根山(新宿・早稲田)35mがトップ、次に36mの西郷山(目黒区・代官山)か。

飛鳥山は、6番目くらいの高さ。

昔は山の上から、土器(かわらけ)投げが盛んに行われていたという。

  土器(かわらけ)が 追々に飛ぶ 飛鳥山(川柳)

句碑がある。

「佛生も 復活も 花笑ふ日に」

岡野知十なる人の句だそうだが、私は全く知らない。

公立公園に句碑を建てるには、何らかの基準があるのだろうが、それはいかなるものなのだろうか。

覆い屋というには立派な建物に石碑がデンと座している。

「桜賦の碑」。

陽が射さない部分は、暗くて何も読めない。

傍らに説明板があるので、転写しておきます。

 「象山先生桜賦」の碑

        北区王子1-1

 表面に佐久間象山作・書による「桜賦」が、裏面に象山の門弟たちによる碑建立の経緯が記されています。

 信濃國松代藩士であった佐久間象山(1811-1864)は、幕末の志士たちに影響を与えた儒者でした。桜賦は、象山が門弟吉田松陰の蜜出国の企てに連座、松代に蟄居中の万延元年(1860)に作られたといわれます。賦とは、古代中国の韻文の文体の一つで、都城の賛美に多く使われました。

 「皇国の名華あり、九陽の霊和を集む」と始まる桜賦は、日本の名華、桜が陽春のなかで光輝くさまを描写し、桜の花は見る人がいなくても芳香をただよわせる、と結んでいます。蟄居中だったしょうざんが金納の志を桜に託した詩と考えられています。

 明治14年(1881)、門弟の勝海舟、北沢正誠、小松彰らによって碑が建立されました。表面の桜賦は、顔真卿の書風による象山の遺墨によっています。表面上部の扁額および裏面の碑文は、名筆家として知られた日下部東作、刻字は、やはり名工といわれた廣群鶴によるものです。

 碑は、初め飛鳥山西北端の頂き(地主山)に立っていましたが、同署へ展望塔カイラウンジ(飛鳥山タワー)を建てるにあたり、昭和41年に現在地へ移転されました。その際、都立王子工業高校の考古クラブの発掘によって、象山が暗殺された際の血染め挿袋を納めた石室が発見されました。石室もともに移設され、現在の碑の下に埋設されています。

     平成三十一年三月     東京都北区教育委員会

 この写真を撮ったのは、2019年11月15日だったが、桜の花?が咲いている。

 

冬桜など春以外に咲く桜があるとは聞いているが、果たしてれは桜なのか。

「桜賦」の傍にあるだけに、桜のように思えるが。

歌碑もある。

 

「そのかみの山をおほひし花ふぶき まぼろしにしてあがる噴水」

水上赤鳥という歌人の歌。

飛鳥山を詠んだ歌のようだ。

 

そして、これもまた、なぜ?と言いたくなる石像がある。

 

なにしろ聖観音菩薩がポツンとおわすのだから、「どうしてここに?」とつい言いたくなる。

 朝倉文夫に師事していた彫刻家赤堀新平が制作、北区に寄贈したものという。

 


138東京都北区の石造物-15b-岸町つづき

2020-03-08 08:08:23 | 石造物巡り

◇真言宗霊雲寺派・王子山金輪寺(岸町1-12-22)

江戸期は、支坊をいくつも抱え、王子神社と王子稲荷神社を別当する巨寺だった。

明治の神仏分離で別当を解かれ、支坊で唯一残った坊を金輪寺としたのが、現在の寺です。

かつての巨寺の面影は、ありません。

山門は閉ざされている。

通用門から入って、山門へ戻り、正面を向く。

本堂に向かい、参道左に不動明王と庚申塔。

庚申塔は、正徳2年(1712)の八臂合掌。

不動明王と庚申塔の前に手水鉢が置かれている。

変なところに置いてあるなあ、と思っていたが、なんとこれも庚申塔。

正面に三猿がいます。

手水鉢の庚申塔は、初めてではないが、これで3基目。

極めて珍しいものです。

参道右側にあるのは、弘法大師巡錫像。

よく見かけるお姿と違って、こちらは、動的。

いざ行かむ、心が全身にみなぎっている。

後方の地蔵立像は、90cm。

台石中央に「光明真言」、右に「寛政四子年二月吉日」、下に「講中」の文字が刻されている。

参道沿いに石造物が並んでいる。

本堂前に宝篋印塔が数基並んでいる。

さすが古寺。

「寛永」の文字が刻されている。

 

それは、石灯籠も同じ。

「寛永」は、都内石造物では、かなり古いもので、少なくはないが、それでも滅多に遭遇できないレアものです。

 


138東京都北区の石造物-15a-岸町

2020-03-01 08:37:33 | 石造物巡り

岸町の岸は、海岸の岸の意。

大昔、この辺りは海が入り込んでいた。

◇王子稲荷神社(岸町1-12-26)

落語のまくらに「江戸名物、伊勢屋稲荷に犬の糞」があるように、お稲荷さんは江戸のいたるところにあった。

その稲荷の関東総元締めというのだから、格式が高い。

正門をくぐる。

正面に急な石段。

子どもたちの甲高い声がわっと押し寄せて、格式ある神社の荘厳さは求むべくもない。

神社経営の幼稚園だから自業自得というべきか。

石段などの写真を撮ろうとしていたら、若い女性の声で「階段は上れませんよ」。

幼稚園の先生が、不審者とみて注意に来た。

正門を出て、右折、神社の塀沿いに坂を上がると南門がある。

ここは24時間常時開いている。

狛犬ならぬ狛狐は当然か。

灯籠の列が列をなして、中に1基、道標常夜燈がある。

寛政3年(1791)造立で、正面に「王/子 稲荷大明神」、右面「これより/王子みち」、左面「古礼与り/王子ミち」。

中山道に立っていたものと云う。

細長い石は、句碑。

苗代や飛鳥盤(は)瀧乃(の)川つづ幾(き)  古帳庵
「乃(の)寶(ほ)る日耳(に)露能(の)む稲農(の)者(は)らみ可(か)南(な) 古帳女

カラフルなチャイルドシート自転車がずらり。

境内が、幼稚園の駐輪場と化している。

その幼稚園を階段上から望む。

振り返ると本殿正面。

空襲で焼けたが、拝殿のみは、造立時の文政5年(1822)の郷社さを残している。

社務所前に狂歌1基。

加(か)くて古(こ)そ
 以(い)の流(る)加(か)ひ安(あ)連(れ)
                            衣食住
奈(な)尓(に)くら可(か)らむ
三つの燈火(ともしび)  千種庵霜解」

社務所前を左折、突き当たると石造物多数と境内社がいくつかある。

 

ももちろん、句碑もある。

 

「此里尓(に)    林甫
 こ能(の(流(る)阿(あ)り
 梅柳    鉄舟居士書」

「    梅堂

 瀧寿(す)ずし
 王子ハ夏能(の)
 別世界  」

突き当りの社は、本宮。

ここにもあそこにも、キツネがおわす。

奥の境内社については、社務所に訊いたが、「知りません」。

どんづまりは「お石さま」。

石を持ち上げて、その軽重で、願いの可否を占うというもの。

祠の中には、漬物石様な石がごろんと置かれている。

立看には

御石様
 願い事を念じつつ
 持つ石の軽重により
 御神慮が伺えるとか」

とある。

しかし、これでは、よく分からない。

以前の説明板はもっと丁寧だった。

願い事を念じながら「お石様」を持ち上げ、
   予想した重さよりも、
   ※軽く感じたら、願いが叶いやすい
   ※重く感じたら、叶いづらいので、
    まだまだ努力が必要
    との言い伝えがあります。
   
無理をして腰を痛めないようにご注意下さい。
   
触ってご神徳を頂き、心願成就に向けて
                  お励み下さい。

お石さまから、さらに石段があって、

やっとの思いで上ると、そこは、狐穴と呼ばれる石室。

 

そその昔は、ここにキツネが実際に住んでいたというのだが、多分、本当だろう。

最後に、落語「王子の狐」のあらすじをWikipediaから転載しておきます。

 

ある男、王子稲荷に参詣した帰り道、一匹の狐が美女に化けるところを見かける。どうやらこれから人を化かそうという腹らしい。

そこで男、『ここはひとつ、化かされた振りをしてやれ』と、大胆にも狐に声をかけた。「お玉ちゃん、俺だよ、熊だ。よければ、そこの店で食事でも」と知り合いのふりをすると、「あら熊さん、お久しぶり」とカモを見付けたと思った狐も合わせてくる。

かくして近くの料理屋・扇屋に上がり込んだ二人、油揚げならぬ天ぷらなどを注文し、差しつ差されつやっていると、狐のお玉ちゃんはすっかり酔いつぶれ、すやすやと眠ってしまった。そこで男、土産に卵焼きまで包ませ、「勘定は女が払う」と言い残すや、図々しい奴で狐を置いてさっさと帰ってしまう。

しばらくして、店の者に起こされたお玉ちゃん、男が帰ってしまったと聞いて驚いた。びっくりしたあまり、耳がピンと立ち、尻尾がにゅっと生える始末。正体露見に今度は店の者が驚いて狐を追いかけ回し、狐はほうほうの体で逃げ出した。

狐を化かした男、友人に吹聴するが「ひどいことをしたもんだ。狐は執念深いぞ」と脅かされ、青くなって翌日、王子まで詫びにやってくる。巣穴とおぼしきあたりで遊んでいた子狐に「昨日は悪いことをした。謝っといてくれ」と手土産を言付けた。

穴の中では痛い目にあった母狐がうんうん唸っている。子狐、「今、人間がきて、謝りながらこれを置いていった」と母狐に手土産を渡す。警戒しながら開けてみると、中身は美味そうなぼた餅

子狐「母ちゃん、美味しそうだよ。食べてもいいかい?」

母狐「いけないよ!馬の糞かもしれない」