大雄寺を出て、左へ。
最初の角を左折するとすぐ右側に感應寺がある。
64 日蓮宗光照山感應寺(谷中6-2-4)
山号は「光照山」なのに山門に「神田山」、題目塔台石に「神田感應寺」とあるのは、
明暦の大火後、神田からこの寺が移転してきたとき、山谷に同宗同名の「感應山」(現天王寺)があったため、「神田感應寺」と呼んで区別したから。
石造物は境内に少ないが、本堂前の人物座像が目を惹く。
経典を両手で広げて持つ僧侶姿の男性像。
台石には
開眼主当寺第一世
日朝大聖人 日英(花押)
天保三壬辰歳十二月佛生日
とあるから、当山開基者の石彫だろうか。
だとすると、珍しい石造物ということになる。
この人物像に覆いかぶさるように枝を伸ばしているのは、グレープフルーツの木。
小さいながら実をつけているのが分かる。
森まゆみ『谷中スケッチ』では「日本で最も古いグレープフルーツの木で、大正の終わりに日本に渡ってきた」と紹介されているが、寺の女性の話では「供物の果物の種を蒔いたら生えたもの」だそうだ。
墓地に渋江抽斎の墓があり、傍らに高く立派な顕彰碑が立っている。
渋江抽斎は、森鴎外の歴史小説『渋江抽斎』の主人公。
読んだのは高校生の頃だから、60年ぶりに『渋江抽斎』を開く。
小説だが、ノンフィクションの色彩が強い。
感應寺が登場するシーンは2,3か所あるが、冒頭部分の、鴎外が墓を訪れた記述は下記の通り。
「わたくしは谷中の感応寺に往つて、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立つてゐる。「抽斎渋江君墓碣(ぼけつ) 銘」と云ふ篆額(てんがく)も墓誌銘も、皆小島成斎(せいさい)の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐 れて、割愛して刪除(さんじよ)したものださうである。(中略)墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、又「一女平野氏出」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が 保さんの事ださうである。(中略)抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。(中略)わたくしは自己の敬愛してゐる抽斎と、其尊卑二属とに、香華(かうげ)を手向けて置いて感応寺を出た」
碑文は、全文漢文。
私は読めないが、最後の「廣群鶴刻字」は判る。
廣群鶴は字彫りの名工として名高い幕末の石工。
シャープな字の彫りこみに匠の技が光っている。
寺の門前で外人女性二人と行き違う。
こんな恰好で山門をくぐるのだが、故国の教会でも同じなのだろうか。
日本の若い女性も同様だから、彼女たちを非難しはしないが。
感應寺を出て、左に戻り、すぐ左折。
前方に谷中墓地への道(右)と三崎坂への道(左)の分岐点が見えてくる。
そのちょっと手前の左側に
65 日蓮宗瑞応山妙雲寺(谷中6-2-39)
元和5年(1615)の造立で、谷中寺町では古い方。
門前の題目塔の下に「むしば祈念の寺」とある。
その効能の宣伝に登場するのが、松井源水という大道芸人。
彼は、越中富山の薬を売り、見物人の虫歯を抜いたりするのが生業だった。
自慢は、生涯一度も虫歯にならなかったこと。
それは彼が妙雲寺の本尊鬼子母神を信仰していたからというのだが、説得力があるような、ないような・・・
墓地に、それは見事な阿弥陀三尊がおわす。
裏面の刻文によれば、石工を生業とする先祖の霊を供養するため子孫が造立したものらしい。
その造立年が昭和19年というから、太平洋戦争末期、物資不足の中、よくぞこれだけの石造物を建てたものと思う。
阿弥陀三尊だけでなく、床面から周囲まですべて石で造るという念の入れよう、見事です。
66 真言宗豊山派宝塔山多宝院龍門寺(谷中6-2-35)
宝塔山多宝院で本尊が多宝如来だというから日蓮宗寺院のように思う。
山門を過ぎるとバカでかいお地蔵さんがいらしゃって、あ、これは日蓮宗ではないなと合点する。
境内の石仏のありようで、宗派の違いが少し判るようになった。
お地蔵さんの背中に文字が刻されている。
多分、造立事由が刻されているのだろうが、読めない。
なぜか、目と鼻、耳が鋭利な刃物で削られたように、ない。
胴体も腰の辺りで、斜めに上下くっつけられているようだ。
廃仏毀釈か、それとも戦禍なのか、何があったのだろうか。
参道脇の茂みのなかに青面金剛庚申塔。
谷中寺町で、3基目。
その後方、本堂に向かって、宝篋印塔を挟むように右に「四国八十八ケ所」、左に「傳燈大阿闍梨法印澄正」碑がある。
最高位の山岳修験者の名前が谷中にあるとは。
石仏があるので、草をかき分けて見たら不動明王だった。
新しい慈母観音像もおわす。
墓地に詩人立原道造の墓がある。
名前だけは知っているが、詩を読んだことはない。
東大の建築学科を卒業したばかりの25歳の若さで、結核で急逝。
在学中、詩では中原中也賞を、建築では辰野賞を3回も受賞する詩人・有能建築家だったという。
67 天台宗広隆山総持院元導寺(谷中6-2-33)
「谷中不動尊」の白い幟が何枚もはためいて、派手な印象だが、境内は狭く、これといった石造物はない。
天台宗の東京教区の寺院紹介(http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/sojiin/)によれば、明治20年代前半、高村光雲一家が寺域内に住んでいたが、その住居跡は昭和の都市計画で道路となっているとのこと。
次の更新は、11月1日です。
≪参考図書≫
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
◇石田良介『谷根千百景』平成11年
◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年
◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年
◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年
◇会田範治『谷中叢話』昭和36年
◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』
◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年
◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年
◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年
▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html