石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

111 シリーズ東京の寺町(7)足立区伊興ーその6

2015-09-28 05:37:28 | 寺町

 このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの「伊興寺町の石造物」その6
回目です。 

 15 浄光寺 16 蓮念寺 17 本行寺 18長安寺 19 善久寺 20 常福寺

 21 易行院 22 東陽寺 23 正安寺 24 栄寿院 25 法受寺 27 専念寺

 

☐浄土宗・信楽山涅槃院正安寺(東伊興4-3-3)

震災後の昭和4年(1929)、浅草清島町から移転。

浅草時代、正安寺は「ねはんさま」と呼ばれていたが、これは安楽往生を願う「ぽっくりさま」と同義で、庶民の信仰を集めていた。

山門右手、お堂の屋根に坐す「与楽(おきあがり)観音」は、「ねはんさま」の再現であり、同時に人々が失敗や挫折、病床から一日も早く「おきあがれる」ようにとの願いが込められている。

山門を入ると目に入る銅葺き屋根の建物は、七福神を祀ってある。

高さ30㎝ほどの七福神の木材は、境内にあった欅だとか。

「寺町に七福神を迎え、村おこしの一助としたい」と住職が念じて造立したというが、なぜか伊興七福神に、正安寺は入っていない。

☐曹洞宗・萬年山東陽寺(東伊興4-4-1)

関東大震災で被災、当地に移転してきた。

質素倹約の上、一代で莫大な財産を築き上げた立志伝中の人物、塩原太助の墓がある。

「本所に過ぎたるもの二つ、津軽大名、塩原太助」と唄われたのは、東陽寺が本所にあったから。

 小学生時代を群馬県で過ごした人ならだれでもそらんじてる上毛カルタの「ぬ」の読み札は「沼田城下の塩原太助」。

太助の生家がある沼田市の沼田城には、塩原太助像がある。

江戸に旅立つ前、愛馬と別れを惜しむシーンは、三遊亭圓朝の「塩原太助一代記」でも口演されて人々の記憶に残っている。

成金になっても成金風を吹かせることなく、質素倹約に努めた太助は世間から称賛されたが、二代目放蕩息子が資産を食いつぶし、帳尻をゼロに合わせた。

東陽寺には、もう一人、立志伝中の豪商、河村瑞賢の追悼碑がある。

ネット検索してみたが、追悼碑の碑文は見当たらないようなので、少し長いが、全文を載せておく。

 

        河村瑞賢追悼碑

河村瑞賢は車力から身を起こしました。近代性を
備えた大実業家であります。
元和四年(1618年)伊勢の国東宮村で生まれま
した。幼名は七兵衛、後十右衛門と称しました。
八十一歳で旗本の士となり名を平太夫義通と改め、
瑞賢は号です。
十三歳のおり江戸へでましたがなかなか運命は開か
れず、車力などをやって細々と暮していました。莫
大な四散を作った始めは明暦三年(40歳)江戸の
大火の時、我が家の危険も顧みず夜を日についで木
曽におもむき、材木を買い集めました。そして作っ
た資産をもとに土木業に転じ、幕府や大名の注文を
受けてなお一層の大富豪となりました。しかしこれ
は機転と抜け目なさだけで成したのではなく綿密な
調査と周到な用意と信頼できる部下を有して
いたからこそ幕命があり大事業を次々と完成させる
ことができたのです。
当時すでに奥羽(東北地方)の海運は開かれていま
したが、瑞賢五十四歳のおり幕命を受けてこれを改
革刷新しました。それにより航路は安全となり官
米を海に没することなく、日数も費用も従来よりず
っと少なくなったのを機に一大躍進をとげ、我が
国の社会経済発達に多大な影響を及ぼしました。ました。

五十七歳のおり越後高田藩の招きに応じた瑞賢は
郷津湾の築港を指示して成し遂げさせ、続いて
追々七里の灌漑用の中江用水路の指揮をとってこれも
完成させました。その他高田藩領の上田銀山の採
掘に力を尽くしましたが、後に幕府に没収され、あら
ためてこの銀山と会津の白峰銀山との経営をまかさ
れました。ここでも敏腕を発揮して両銀山の発展の
基礎を開きました。
畿内の淀川治水大工事は六十七歳のおり幕命を受
けてから約十五年もかけて完成させました。これは
数百年来の水害をなくし河岸に新しく開かれた所へ
新しく人々が集まり、賑やかな町となりました。
元禄十二年(1699年・八十二歳)江戸で病死し
た瑞賢は仕事に明け仕事に暮れる一生を送ったの
ですが、金儲け一辺倒の人とは違うところがありま
した。郷里の村民に尽くしたり多忙中でも学問を重
んじ万巻の書を求めて家に蔵し多くの学者にこれ
を戒法子、且つ経済的援助も供与しました。新井白
石などはその有名な一人です。また、茶道を愛好し
禅宗に帰依するなど精神生活の面においてもすばら
しきかな瑞賢、永く後世に語りつがれることでしょう。

この他、本堂前に江戸前期の歌学者戸田茂睡の歌碑がある。

石仏としては、本堂左の十六羅漢が表情豊かで素晴らしい。

石仏に乏しい伊興寺町にあってダントツの存在感を見せている。 

≪参考図書≫

◇足立史談会『足立区史跡散歩』1992年、学生社

◇足立教委『足立風土記10』

◇足立郷土博物館『足立風土記稿10伊興』足立教委


111 シリーズ東京の寺町(7)足立区伊興ーその5

2015-09-26 08:26:30 | 寺町

このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの「伊興寺町の石造物」その5
回目です。

 15 浄光寺 16 蓮念寺 17 本行寺 18長安寺 19 善久寺 20 常福寺

 21 易行院 22 東陽寺 23 正安寺 24 栄寿院 25 法受寺 27 専念寺

 

☐浄土宗・普賢山新幡随院法受寺(東伊興4-14-8)

草加方面から伊興寺町に入って最初の寺。

院号と寺号は別々の寺で昭和10年合併した。

新幡随院安養寺は浅草に、法住寺は下谷三崎町にあった。

山門脇の掲示板には、「御詠歌とお経の練習会」や「写経会」の行事予定がびっしり並んでいる。

山門を入ると目につくのは、大きな布袋様。

足下に小さな七福神が在す。

法受寺は、伊興七福神の一つで布袋様を祀っている。

ちなみに他の六神は、恵比寿(源正寺)、寿老人、福禄寿(福寿院)、大黒天、弁財天、毘沙門天(実相寺)。

布袋様の対面には「怪談牡丹灯籠」の碑。

三遊亭円朝演述、橘右近書の縁起全文は、長いが書き写しておく。

「ふと見れば、先きへ立ったのは年ごろ三十ぐらいの大丸髷の人
 柄のよい年増にて、そのころはやった縮緬細工の牡丹芍薬など
 の花のついた燈籠をさげ、そのあとから十七・八とも思われる
 娘が、髪は文金の高髷に結い、着物は秋草色染の振袖に、緋縮
 緬の長襦袢に繻子の帯をしどけなく締め、上方風の塗柄のうち
 わを持って・・・

 白翁堂の話に萩原も少し気味が悪くなったゆえ顔色を変え、
 新三郎「先生、そんならこれから三崎へ行って調べましょう」
 と家を立ち出て゛、三崎へまいりて、女暮らしでこういう者はな
 いかとだんだん尋ねましたが、いっこうに知れませんから、訪
 ねあぐんで帰りに、新幡随院を通り抜けようとすると、お堂の
 うしろに新墓がありまして、それに大きな角塔婆があって、そ
 の前に牡丹の花の燈籠が雨ざらしになってありまして
 この燈籠は毎晩お米がつけてきた燈籠に違いないから、新三郎は
 いよいよおかしくなり、お寺の台所へ回り、
 新「少々伺いとう存じます。あそこのお堂のうしろに新しい
 牡丹の花の燈籠を手向けてあるのは、あれはどちらの
 墓でありますか」
 僧「あれは牛込の旗本飯嶋平左衛門の娘で先だって亡くなり
 まして、ぜんたい法住寺に葬るはずのところ、当院は末
 寺じゃからこちらへ葬ったので」
 新「あのそばに並べてある墓は」
 僧「あれはその娘のお付きの女中でこれも引き続き看病疲れで
 死去いたしたから、いっしょに葬られたので」
 新「そうですか、それではまったく幽霊で・・・」

 八つの鐘が忍が岡に響いて聞こえますとひときわ世間がしんと
 いたし、水の流れも止まり、草木も眠るという位で、壁に
 すだく蟋蟀の声もかすかに哀れを催しものすごく、清水のもと
 からいつものとおりこまげた音高くカランコロンカランコロン
 と・・・」

「これ新幡随院濡れ佛の縁起で、この物語も少しは勧善懲悪の道
 かくながながとお聞きに入れました」
 明治十七年 東京裨史出版社 三遊亭圓朝演述 若林坩蔵筆記
                 藤木松調書       

墓地の一画に五輪塔が並ぶ墓域があって、その中央の石塔は五代将軍綱吉の生母桂昌院の墓。

「桂昌院殿従一位仁誉興国恵光大姉」。

墓域は、京都二条家の家臣本荘家のもので、彼女の両親や弟の墓が並んでいる。

☐曹洞宗・延命山栄寿院(


111 シリーズ東京の寺町(7)足立区伊興ーその4

2015-09-23 08:19:10 | 寺町

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回目です。

 

 15 浄光寺  16 蓮念寺  17 本行寺 18 長安寺 19 善久寺 20 常福寺

 21 易行院 22 東陽寺 23 正安寺 24 栄寿院 25 法寿寺 27 専念寺

 

 

☐浄土真宗本願寺派・龍華山長安寺(東伊興4-10-18)  

 

伊興寺町最西端の寺。

 

震災後の昭和3年(1928)、築地から移転してきた。

 

 

移転改築費8191円と石碑にある。

 

 

檀徒百数十人の寄付になるものだが、移転先の伊興村が「遠すぎる」、「田舎すぎる」と離檀した檀家も多かったという。

 

墓地に個性的な墓石が並ぶ一角がある。

 

 

聞くところによると、移転時の檀家総代のデザインなのだそうだ。

 

☐浄土真宗本願寺派・赤坂山浄光寺(東伊興4-12-6)

 

浄光寺の文字があるので入ったら、ピアノとフルートを教える音楽教室だった。

 

 

裏口から入ったようで、山門から入りなおす。

 

 

親鸞聖人と蓮如上人の銅像がなければ寺だとは分からないかも。

 

 

 

 親鸞聖人        蓮如上人

 

奥に墓地が見えるからそんな心配は無用か。

 

☐曹洞宗・延命山栄寿院(東伊興4-1)

山号が延命山なのは、延命地蔵が本尊だからだろうか。

元々、本所にあったが、関東大震災で被災、昭和3年(1928)当地に移転してきた。

本所の跡地には、東駒形町会の要請で地蔵堂が建てられ、安産子育て地蔵として親しまれているという。

 ☐浄土真宗本願寺派・龍岳山専念寺(伊興本町2-14-2)

専念寺と次の正楽寺は、持参資料には記載がなかった。

歩いていたら寺があったので、撮影した。

帰宅してネット検索で調べてみたが、両寺とも情報がほとんどない。

☐浄土真宗本願寺派・正楽寺(東伊興4-2-1)


111 シリーズ東京の寺町(7)足立区伊興ーその3

2015-09-21 07:19:50 | 寺町

 

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回目です。

 

☐浄土真宗本願寺派・松賢山本行寺(東伊興4-6-10)

震災後の移転だが、被災によるものではない。

真宗の寺らしく撮るべき、書くべき石造物が見当たらない。

辛うじて一つあったのは、ペツト霊園。

宣伝が行き届いていないのか、葬られているのは、どうやら10体未満か。

「伊藤蘭」という名前にドキッ。

キャンディーズのらんちゃんかとおもわず錯覚した。

 15 浄光寺  16 蓮念寺  17 本行寺 18 長安寺 19 善久寺 20 常福寺

 21 易行院 22 東陽寺 23 正安寺 24 栄寿院 25 法寿寺 27 専念寺

 

☐浄土真宗本願寺派・馬頭山善久寺(東伊興4-11-1)

関東大震災後、昭和2年(1927)、築地から移転。

墓地に一際高い墓石がある。

正面には「南無阿弥陀仏」とあり、台石に施主、世話人ら数十人の名前が刻されている。

なんでも石川県能登出身の風呂屋の関係者の合同葬墓だという。

そういえば、空に突き出ている墓石は、風呂屋の煙突のようだ。

東京の風呂屋には、石川、新潟県人が多いと聞いてはいたが、こうした形で知ろうとは。

☐真宗大谷派・伊興山蓮念寺(東伊興4-7-21)

山号が伊興山なので、伊興村時代からの古い寺に思えるが、昭和7年(1932)、長野県で廃寺となっていた寺をここに移して再建したもの。

真宗寺院には珍しく、石仏がポツンポツンと忘れられたようにある。

 

墓地に一際高い墓標。

「故海軍一等飛行兵曹勲七等功五級 本間金助之墓」と読める。

ありふれた出征兵士の墓のようだが、側面が異彩を放っている

右側側面には「布哇の真珠湾で空母より出撃して自爆」したとの戦死報告。

そして、左側には母親あての遺書とともに妹への遺言が刻まれている。

「幸子ヘ 兄ラシキ事モシテヤレナカッタ事ヲ許セ 兄ナキ後唯一人ノ母上に良ク事ヘテ兄ノ分ノ孝養ヲモ頼ム 小樽ノ皆様ニ呉呉モ宜シク 攻撃前夜之ヲ認ム 本間金助
昭和十七年十二月八日 母 キヨノ建之」

真珠湾攻撃前夜に書いた遺言であることが分かる。

母親がこの墓を建てた昭和十六年十二月八日と云う日は、真珠湾攻撃1年後のことだった。

戦時下の23歳の青年は立派な大人だったと感慨深いものがある。


111 シリーズ東京の寺町(7)足立区伊興ーその2

2015-09-19 05:34:34 | 寺町

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回目です。

 ☐時宗・西嶋山応源寺(伊興本町2-3-3)

通称寺町は伊興町狭間にあるが、この応源寺のある一帯も元は狭間と云われていた。

寺町からちょっと離れているが、寺町に組み入れてもおかしくはない歴史がある。

時宗寺院は、都内に18か寺しかない、珍しい寺。

応源寺はこの界隈きっての古寺で、区内最古の山門の向こうに広がる参道の長さと幅が移転寺院ではない、地元の寺であることを物語っている。

寺町の寺にはないゆったり感が、ここにはある。

山門に建つ2基の燈籠は、常田彦左衛門が承応3年(1654)、父と母のために造立し、寄進したもの。

 

常田家は、足立区でも屈指の旧家で応現寺の有力檀家。

本堂脇の常田家の墓地には、江戸初期からの墓標が並んでいます。

 

 応現寺を出て、道を北上すると寺町に入る。

 

 最初に入ったのは、不退寺易行院。

☐浄土宗・日照山不退寺易行院(東伊興4-5-5)

易行院は、関東大震災後、昭和3年(1928)、浅草清川町から移転してきた。

別名「助六寺」と呼ばれるのは、境内に「助六の塚」と助六と遊女揚巻の比翼塚があるからです。

 六地蔵の後列、左から聖観音像、助六の塚、比翼碑、助六地蔵

歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳3年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。

易行院の助六の塚の側面には「施主 六代目」の文字が読み取れる。

寺の文化年間(1804〜1818)の過去帳に、「西入浄心信士 俗称戸沢助六 承応二歳己
二月十一日死ス 志厚之有施主 七代目市川団十郎 無縁ヲ弔 墓所造立シ永追う福経営施主」とあ
るらしい。(足立区教育委員会による説明板より)

助六と揚巻の比翼塚は上部が欠けて、まっ黒。

震災時の火災の熱で欠け、煙で黒焦げになった。

夫婦仲、結婚成就にご利益あるとされ、削り取られたと見る向きもあるようだ。

 「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る、という、そんな世の中でこんなに誠と真実のある花魁がいるのかとこれが瓦版となって江戸中の評判になったという。題して『江戸桜心の灯火』の一席。実績助六伝の一節でございます。」と噺を〆たのは、落語家五代目三遊亭圓楽。

実は圓楽の実家は易行院、寺に残る過去帳を紐解きながら彼が創作した落語が、助六伝の『江戸桜心の灯火』でした。

圓楽の墓も墓地にある。

生前自らが造った墓だという。

☐浄土真宗本願寺派・仏名山玉川院常福寺(東伊興4-6-1)

 他の寺と同じように震災後、浅草から移転してきた。

本堂前の境内は広いが、親鸞聖人銅像と無縁塔があるだけ。

全くの偶然だが、ここにも落語家の墓がある。

海老名泰一郎こと林家三平。

父は、七代目林家正蔵。

「どうもすみません」と頭をかいて、人気を博した。

1980年死去。行年54歳。

父と共に海老名家之墓に葬られている。

戒名は、志道院釈誠泰。

≪続く≫


111 シリーズ東京の寺町(7)足立区伊興ーその1

2015-09-16 10:45:02 | 寺町

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と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの「伊興寺町の石造物」その1回目です。

伊興寺町と云っても、どこにあるか知らない人の方が多いでしょう。

寺町のすぐ北側は、埼玉県との境界線。(地図を拡大してみてください)

とにかく東京の北のはずれなのです。

私の住んでいる板橋区からは、東隣の北区の向こうが足立区で、直線距離にすると近いのですが、電車で伊興寺町へ行くとなると三田線で巣鴨、山手線で西日暮里、千代田線で北千住、東武線で竹ノ塚と3回も乗り換えなければなりません。

 そうした不便さにも拘らず、何度か通ったので、東京の寺町シリーズとして取り上げますが、本音を云うとボツにしたい気持ち。

はっきり云って面白くない、のです。

原因の一つは、浄土真宗寺院が多いこと。

寺町の約半分は、浄土真宗の寺。

このブログは「石仏散歩」ですから、テーマは石仏や石造物ですが、浄土真宗寺院にはほとんど石造物がありません。

本堂内の仏像は石仏ではないので除外すると、取り上げる材料がほとんどないということになります。

こうした事情を念頭においてご覧ください。

東武伊勢崎線竹ノ塚駅西口一帯の伊興という地域には、現在21の寺があります。

そのうち7カ寺は、昔からの地元の寺で、残りの大半は伊興町狭間の「寺町」にある。

寺町の寺院の多くは、関東大震災後、浅草、本庄界隈から移転してきました。

震災後の区画整理で、寺域が道路になる寺は、移転が強制されたのです。

数は少ないものの、著名人や由緒ある石造物があるのは、元々、浅草・本所に寺があったからです。

 

竹ノ塚駅から尾竹橋通りへ出て、左折するとすぐ左に寺が見える。

☐曹洞宗・南昌山東岳寺(伊興本町1-5-16)

東岳寺は浅草から移転してきたが、伊興寺町に所属してはいない。

戦災で(震災ではない)全焼し、昭和36年(1961)この地に移転してきた。

山門を入ると石橋かあり、その前方に本堂。

狭い敷地ながら池のある庭園が、静寂を醸し出している。

左に目を転ずると正面に石碑群。

浮世絵師・歌川広重の記念碑とその右横に墓。

記念碑は「広重」の碑の下に辞世句が刻されてある。

「東道へ筆を残して旅の空 西の御国の名どころを見ん」。

死んでもなお、西の御国(西方極楽浄土)の名所を見て回ろうと云うのだから、流行画家の、そのあくなき商売っ気に恐れ入ってしまう。

右横の墓には「一立齋廣重」とあるが、他に「一幽齋」、「一遊斎」、「立斉」と号はいくつかあるという。

左にも墓があって、こちらはアメリカ人ハッパーの墓。

なぜ、アメリカ人の墓がここにあるのか、墓銘がその理由を語る。

米国人ハッパーは、日本在住46年に及び、世界に日本文化を紹介し、深く広重の芸術に憧れ、自ら広重ハッパーと称す。昭和11年12月19日東京に没す。享年74. 知友相謀り、墓を東岳寺内広重の碑側に建つ。 昭和12年5月30日」。

好事家としての面目躍如、トリビアとしても面白い。

数十年前、「TOUGAKUJI」だけを頼りに、ハッパー一族の女性が訪ね訪ねて墓参りに来たという。

ハッパーの墓の左のひょろ長い石碑は、古川柳『俳諧柳多留』の版元花屋久次郎の遺蹟碑。

「花屋久次郎 文化十四年正月晦日没 戒名 黙翁二旧信士」。

ネット検索したら、毎年2月11日に東岳寺で、川柳同好の士によって「花久忌」が催され、句作に励んでいることが分かった。

披講の後、住職の読経があり、墓参するのだとか。

披講句の一部を転載しておく。

「旗」
日の丸よ 遠慮しすぎて いませんか
旗色を 読んで策士が つぐ二の矢
「曲折」
結局は 鞘に納まる くされ縁
屈折の 涙もまざる 給料日
「偶像」
偶像を 砕き少年 脱皮する
偶像を 作って毀す マスメデイア

なんと伊興寺町に到着する前に予定字数となってしまった。

2回目の応源寺もまだ寺町ではない。

テーマを小分けするとこういう事態になることは、予想されていたのに、いささか不本意。


110 比叡山延暦寺の石造物(六)横川

2015-09-13 05:44:03 | 石仏めぐり

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と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの6回目です。

最後の目的地横川バス停に到着。

横川の入口前に一対の石灯籠がデンと座っている。

入るとすぐに石仏が目に飛び込んでくる。

きちんとした石組みの上におわすのだが、ありふれた石仏のようだ。

こうした下界ではありきたりの石仏が、比叡山ではことさら目につくのは、その数が少ないからです。

なぜ少ないのか。

寺の本堂の奥におわす仏像を気安くお参りできない庶民のために、石仏は作られました。

比叡山の僧侶たちは、拝むべき仏さまに苦労はしません。

石仏は不要でした。

だから比叡山に石仏は少ない(と思うのです)。

そんなことを思いながら、鮮やかな朱色の懸崖作りの中堂に近づいて行って、驚いた。

西国三十三観音石仏があったのです。

一応三十三観音全部を写真に納めましたが、載せるのはごく一部にしておきます。

横川中堂から東へ。

道の左側、ちょっと奥まったところに虚子の句碑があるのは知っていたのだが、三十三観音を撮るのに夢中で、帰りに寄るつもりでパス。

これが誤算だった。

三十三観音はぐるっと山を一周して、横川中堂の背後に出るコースで、虚子の句碑には寄らずじまい。

従って下の3枚の写真は借り物。(HP「質素な写真展示室http://susono.jugem.jp/?eid=2087より)

落雷での横川中堂焼失にあたり、多額の寄付をしたことで、昭和28年、虚子の墓がここに建てられた。

昭和になっての逆修塔は、極めて珍しい。

当然、句碑もある。

「清浄な 月を見にけり 峰の寺 虚子

虚子の次女、星野立子の句碑も。

御僧に 別れ惜しなや 百千鳥

道が突き当たる。

右に行けば、恵心堂、左は元三大師堂へ。

右へ折れ、恵心堂の手前の秘宝館へ寄ってみる。

秘宝館は閉館しているが、石造物がいくつかあるようだ。

歌碑が2基。

一つは、米沢吾亦紅の歌。

「春月の湖の全貌となりにけり 吾亦紅

もう1基は不明。

広い庭の一隅に並ぶのは、海軍通信学校学生の慰霊塔。

由緒ある恵心堂には触れずに、兵学校学徒の慰霊碑を取り上げるのは、石造物に特化したブログだからだが、いささかやりすぎの感なきにしもあらず。

 最後に元三大師堂へ。

何故か、良源上人と元三大師が同一人物であることをすぐ忘れてしまう。

比叡山中興の師であり、偉大な宗教家なのに、正月三日が誕生日だから元三大師と呼ばれ、その逸話のそれぞれがご利益と結びついて、民間信仰に不可欠の存在であることはすごいことです。

大師堂の前の石柱には「おみくじ発祥の地」と刻されている。

角大師のお札もそうですが、豆大師、降魔大師、鬼大師、木葉大師、鈴振り大師など、庶民受けする坊さんだったことは間違いない。

庶民受けするということは、偉ぶらないこと。

大師堂裏手の山中にある元三大師廟の墓は、至って質素。

とても中興の祖の墓とは思えません。

「簡素な石塔を置いて墓とせよ。決して掃除はするな」と言い遺したとか。

立派な大師堂よりこちらの墓参がお勧めです。

 


110 比叡山延暦寺の石造物(五)西塔

2015-09-10 07:04:55 | 石仏めぐり

 

このブログ「石仏散歩」の字数は、約1万8000字ー2万4000字。月2回、更新して、5年目を迎えようとしています。最近、「石仏散歩」の閲覧者は、PCよりもスマホでの方が多いことを初めて知りました。更に、1回当たりの字数は、3000-3500字くらいが読みやすいということも分かりました。写真のサイズも少し小さめにした方がよいことも。
と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの5回目です。

 

 常行堂からの石段を下りると、そこが釈迦堂の境内。

降りたら左へ。

正面に坐しておわすのは、お釈迦さま。

釈迦堂の向かって左には、真新しい石仏がある。

「平和地蔵」だというが、右手を突き上げているお地蔵さんは初めて見た。

横の倒れかけた石柱は「黒谷青龍寺」の道標。

黒谷青龍寺への道を挟んで宝篋印塔が1基。

釈迦堂の右側には、なんと涎かけ石仏群。

意想外だったので、びっくり。

その右隣の自然石は、歌碑。

近寄って見ると九条武子の文字が読める。

この院櫺子の端に
 せきれいの巣あり
 ひな三つ 母まちて鳴く」 

少し離れると歌碑だとは見えない石造物に存在価値はあるだろうか。

そこへゆくとすぐ近くの牧水の歌碑は実に分かりよい。

歌碑は読めてなんぼ、と思ったらいい。

比叡山の
   
古りぬる寺の
       木がくれの
    庭の筧を
      聞きつつ眠る
           牧水

 残るは釈迦堂裏の弥勒菩薩座像のみ。

細い山道を歩き出したが、バスの時間が気になって断念、引き返した。

弥勒菩薩の写真はネットで探せばいくらでもあるので、なくてもいいが、その近くの相輪塔へは行っておきたかった。

『続日本石仏図典』によれば、相輪塔は最澄が日本に持ち込んだもので、天台宗寺院にわずかあるばかり。

それも青銅製が多く石像は珍しいのだという。

この写真は、借り物。

  HP「エマ・ムーの日本仏塔訪問日記」より無断借用

バスに乗って気が付いたが、西塔での聖地・浄土院(伝教大師御廟)に寄るのを忘れていた。

歩くのが遅くて、ついついバスの時間が気になり、バス停に直行することになる。

 

次の目的地は、横川(よかわ)だが、途中の峰道バス停で下車。

琵琶湖を一望するレストランで昼食。

レストランの反対側に立つのは、伝教大師像。

高さ11m、根本中堂開山1200年を記念して、昭和67年(1987)建てられた。

傍らに伝教大師御歌碑。

「新しく後のみ代の仏までも 光伝えよ法のともしび」。

バス通りの反対側に「黒谷青龍寺参道」の石柱がある。

せめて「青龍寺」や「無動寺谷」にも行ってから、比叡山の石造物を語るべきではないか、そんな声が聞こえてきそうで、落ち着かない。

≪続く≫

 

 

 


110 比叡山延暦寺の石造物(四)西塔

2015-09-07 06:45:07 | 石仏めぐり

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と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの4回目です

シャトルバスで西塔へ。

 

受付付近には、石燈籠が数基ある。

参道を下ってゆくと三叉路。

右は浄土院、左はにない堂経由釈迦堂へ。

その分岐点にあるのが、五重照隅塔。

「個々人が思いやりの心を持って一隅を照らす人になる」という願いが込められているのだそうです。

その傍らにあるのが、「弁慶の飛び六法 勧進帳を観て」なる詩碑。

一つの傷も胸の騒ぎもなく 真に為し
 
をうして終った 
 独り凝って動かず
 晴れ渡る安宅の空に
  知らず知らず涙が滲じむ 
 沁み徹る人生の味 
 成就の味 
       草野天平

作者の草野天平は、詩人草野心平の弟。

昭和25年、比叡山に篭って詩作していたが、2年後死亡したことで、ここに詩碑が建てられた。

弁慶のにない堂がこのすぐ先にあるから、この地が選ばれたのだろう。

詩碑の横には、いかにも比叡山らしい石碑。

「伝教大師御遺誠
 我が志を述べよ
  天台座主大僧正孝淳」

台石に「天台宗檀信徒会」とある。

参道左に「聖光院跡 親鸞聖人住持の寺」なる石碑が立っている。

わずか9歳で出家した親鸞は、ここ聖光院に住して修行に励んでいた。

聖光院跡に隣接する広場には「親鸞聖人御修行の地」なる石碑が立っている。

 門徒衆にとっては、この変哲もない空地が聖地ということになる。

にない堂に向かって坂を上る。

歌碑がある。

しづやかに輪廻生死の
 世なりけり はるくるそらの
 かすみしてけり  雄郎

雄郎とは、歌人米田雄郎のこと。

東近江市の極楽寺住職で、短歌結社「好日」社の主宰。

この碑は、昭和33年(1958)に建てられたが、病弱な雄郎は医者に、除幕式出席を止められた。

しかし、「除幕式に出て死ぬのなら本望」と駕籠に乗って出席したという逸話がある。

 歌碑の背後にポツンと2基の小五輪塔。

比叡山に来て、初めての五輪塔です。

注意してみないと見逃してしまいそうなほど、風景に溶け込んでいる。

 

にない堂は、相似形のお堂が渡り廊下でつながっている。

向かって左が常行道、右が法華堂。

渡り廊下を天秤棒にして弁慶が担いだので「にない堂」というのだそうだ。

修行中の親鸞は、左の常行堂の堂守を長年務めていたと伝えられている。

にない堂の渡り廊下をくぐって石段を下へ。

根本中堂と同じく、釈迦堂も眼下に沈んである。

石段の途中左にお堂。

恵亮堂は、恵亮和尚(800-859)を祀るお堂。

和尚は大楽大師と称し、修力霊験に優れていた」とは、説明板の内容。

境内の左に在す宝篋印塔風石塔は寿塔。

寿塔とは、生前自ら建てる墓のこと。

建てたのは、円戒国師こと真盛上人。

20年間、この地で修学されていた上人は、10年に及ぶ応仁・文明の乱による惨状を見るに忍びず、
社会浄化に身を挺するために3000宗徒との交わりを辞し、この寿塔を建てられた。決死の覚悟の表明である」(説明板)
寿塔の横に、珍しく2体の石仏。 

左はお地蔵さんのようだが、右は何か。

印相は、阿弥陀さまのようだが・・・

恵亮堂境内には、野鳥観察の中西悟堂の歌碑があったらしいのだが、なんとうかつにも見逃してしまった。

天台宗学林を卒業し、野鳥研究に転じたという中西悟堂の歌は、

樹之雫(きのしずく)しきりに落つる暁闇(ぎょうあん)
             比叡をこめて啼く(な)くほととぎす」

なんだそうだ。

 


110 比叡山延暦寺の石造物(三)東塔

2015-09-05 09:15:39 | 石仏めぐり

 

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と、いうことで今回から、一つのテーマを小分けにして、ひとかたまりを約3500字見当にまとめることにします。2-3日おきに更新、5-7回でワンテーマ完結ということになります。では、新スタイルでの3回目です。

大講堂へ行くには、分岐点に輪廻塔がある二差路を右の坂道へと進む。

その入口に牛がいる。

牛のすこし先に天満宮の祠があるから、この牛はてっきり天神さまに付き物の牛かと思うが、実は天神さまとは無関係だというから面白い。

岡山県にある福田海(ふくでんかい)という教団の中山開祖は明治初期、根本中堂の不滅の灯の油を自ら背負って運びあげるなど疲弊していた比叡山の復興に力を尽くします。

福田海は牛供養の教団として有名で、岡山県吉備市の教団本部には600万頭の牛の鼻輪を積み上げた鼻ぐり塚があるほど。

長年にわたる中山教祖の貢献に、福田海のシンボル牛像の設置を認めたということなのだが、この経緯を知る人は少なくなったので、近く説明板を建てる予定だとか。

大講堂、戒壇院を通って阿弥陀堂へ。

ここには、吉井勇の歌碑がある。

雷すてに
 起らすなりぬ
 秋ふかく
 大比叡の山
 しつまりたまへ

来た道を戻り、戒壇院の角を左折、バスセンターへ向かう。

筆塚がある。

全国学生比叡山競書大会で使われた筆が納められている。

優秀作品は、根本中堂に掲げるのだそうだ。

その隣の石塔は、最澄顕彰碑。

「天台座主第一世 修禅大師義真尊者顕彰碑」と刻されている。

小堂があるが前面の日差しか強くて中が見えない。

近寄って覗き込む。

お地蔵さんの台石には、「万難厄除け 地蔵菩薩」とある。

どこかの路傍で厄除け地蔵に出会っても見向きもしないが、いらっしゃるのが比叡山となると何か特別な意味合いがあるのかとつい思ってしまう。

駐車場からの人通りが多いが、誰一人としてお地蔵さんに気付く者はいない。

壮大華麗な仏教施設ばかりを見てきた者たちの目には、路傍のくすんだお地蔵さんは映らないようだ。

「比叡山延暦寺は広くて、歴史がある。だから覚えなければならないことがいっぱいあるのです」。

声のする方を見たら、新人バスガイドの研修中だった。

「どんな仕事も仕事となれば大変だよね」と肩を叩きたくなる。

がんばれ、新米ガイドさん!

バスセンター手前の国宝館へ寄りたかったが、撮影禁止なのでパス。

入口前に2基の石燈籠。

 

写真を載せておくが、氏素性は分からない。

 


110比叡山延暦寺の石造物(二)東塔

2015-09-03 05:42:57 | 石仏めぐり

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根本中道への坂道の上に道標がある。

指さしの絵の下に「宿院 半丁 坂本 廿九丁」とある。

半丁さきの宿院とは、すぐ先の「宿坊延暦寺会館」のことだろうか。

朝早いせいか、広い坂道に人影はない。

眼下に目指す根本中堂があるという意外性がいい。

大抵、階段を上って、その上方に本殿を仰ぎ見るのが普通なのに、ここでは見下ろしながら、下りてゆく。

視野が広がって、気分は爽快。

そういえば、西塔も横川も、駐車場から聖地へはいずれも下って行くが、あれは意図的なコース設定なのではなかろうか。

根本中堂は、撮影禁止。

中庭があるが石造物はないので、撮影OKでも撮りたいものがないことになる。

根本中堂の前に、比叡山にしては珍しく、石像と銅像がおわす。

 

いずれも伝教大師最澄で、銅像は子供の頃のお姿。

傍らの説明板の内容。

伝教大師童形像

昭和12年、比叡山開創1150年を記念して建立されたものです。伝教大師のご遺訓に

我れ生まれてよりこの方 麤(そ)言(荒々しいことば)なく 手に笞罰(むちで打つ)せず 今我か同法(道を同じくする者)童子を打たずんば 我が大恩となさん 努力せよ 努力せよ

とあります。

 伝教大師の児童に対する心を世に伝えるものとして 全国小学校児童の一銭醵出金によって
建立されました

 石像の横の縦長の石碑は、最澄直筆の「山家学生式」全文。

「山家学生式(さんげがくしょうしき)」とは、比叡山の修行僧のために最澄が書いた規則。

 碑文とその意味を載せておく。

 『山家学生式』書き下し文

 古びた石段を上がった高台にあるのが、宮沢賢治歌碑。

 

1921年春、賢治は父に誘われて比叡山に登った。

父は熱心な門徒であり、息子の賢治は日蓮宗に心酔していて、父子は宗教面では、対立していた。

親鸞と日蓮に共通項があるとすれば、そのルーツは比叡山にあるということ。

果たして、比叡山で父子の距離は縮まったのだろうか。

 

ねがはくは
妙法如來
正遍知
大師のみ旨
成らしめたまへ

    宮沢賢治

毎年、9月21日の賢治忌には、この歌碑の前で、比叡山延暦寺が法要を執り行うのだそうです。

 

宮沢賢治歌碑の更に奥に入ると鳥居があって「星峯稲荷」の石柱が立っている。

 

 

稲荷は寺の鎮守だというが、最澄が比叡山の鎮守としたのは、山王神社だったはず。

 

それなのに比叡山の中核ともいうべき根本中堂に近接して、なぜ、稲荷社があるのか。

 

私には理解不能。

 

稲荷社だから、当然、狐がいる。

 

獰猛な顔だが、どんな意味があるのか。

 

 

石造物だから、載せておく。

 

もと来た道を戻る。

 

根本中堂対面に急な石段。

 

振り返ると根本中堂が俯瞰できるのだが、両側から覆いかぶさる木の枝葉で全体は見えない。

 

 

石段の上は文殊楼。

 

境内に亀趺塔がある。(「NO35 亀趺」をご覧ください)

 

 

 

 

根本中堂から坂道を上って、広場に戻り、大講堂へ向かう。≪続く≫

 

 

 


110比叡山延暦寺の石造物(一)ケーブルから東塔まで

2015-09-01 18:42:57 | 石仏めぐり

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比叡山へ行ったことはあるが、どこをどう観光したのか、具体的なことはまるで覚えていない。

仏教にも寺にも興味がなかったから当然だろう。

とりわけ石造物についての記憶が、ない。

高野山奥の院は石造物にあふれているが、果たして比叡山はどうなのだろうか。

大津市での所用を終えて、比叡山に登ることにしたのは、この疑問を自分の目で確かめたかったからです。

結論から言うと、石造物が極めて少ない寺域と言っていいようだ。

なにしろ、「比叡山 石仏」と検索すると釈迦堂裏の弥勒菩薩座像1基がヒットするだけ。

     弥勒菩薩石像座像

鎌倉時代の石仏で、東京では古いものになるが、京滋ではありふれた作品。

この石仏だけが取り上げられるということは、他に見るべきものがないことになります。

と、いかにも断定的に書いたが、比叡山にいたのはほんの数時間、広大な寺域のほんのごく一部を通り過ぎただけで、本当のところは分からない。

もう一つ、付けたし。

私の目的は石造物の撮影。

国宝や重文の建造物だらけの比叡山ですが、こうした建物や木製仏像の写真はほとんどありません。

そのつもりでお読みください。

 

午前8時半、坂本駅からケーブルで比叡山駅へ。

乗客は私だけ。

斜度がきつい。

千日回峰行の阿闍梨は、毎日、こんな山道をかけのぼっているのか、と感慨にふけっていると、車内放送が。

「次のほうらい丘駅は、通過します。駅のそばの洞窟には、ケーブル建設中に掘りだされた石仏群が祀られています」とのこと。

  写真は「Akira's Candid Photography}」より無断借用。

事前の下調べをちゃんとしていれば、途中下車して撮影したのに、と悔やんだが、後の祭り。

掘りだされた石仏の大半は、信長の比叡山焼き討ちの犠牲者を供養するためのものらしい。

数だけで云えば、ここは比叡山で最も石仏が多い場所ということになります。

おそらく比叡山のあちこちの地下に同じような供養石仏が埋まっているに違いない。

 

ケーブルカーを降りて、東塔へ。

比叡山の説明板があり、「世の中に山てふ山は多かれど 山とは比叡の御山をそいふ」の慈鎮和尚の歌が紹介されている。

その反対側に燈籠が1基。

塔身に不釣り合いな巨大な台石には、投げ上げた小石が積み重なっている。

これも信仰形態の一つだろうが、何を祈るものなのだろうか。

左手に大きめの石仏が見えてくる。

崩れ方が激しくて、像容がはっきりしない。

境内地図には大弁財天とあるから、多分そうなのだろう。

そういえば、かっては湧水が出ていた痕跡があるようだ。

 

広い駐車場の隅に石柱があって、「天海大僧正住坊跡」と読める。

天海は生涯に2度比叡山に住したと云われている。

少年時代には修行者として、晩年は天台探題(座主の次位)として住まわった。

彼の墓は、日光・輪王寺、川越・喜多院、大津坂本の3か所のいずれも慈眼堂という廟所にある。

受付を通ると広い空間が広がっている。

右は、一隅会館、その対面にあるのが大黒天。

大黒天の右に在すのが、要の地蔵。

元々は坂本からの表参道中腹にあって、参詣者は皆、道中安全を祈願した。

女性はこの要の地蔵までしか登れなかったので、悩みを語りかけては下山した。

別名「悩みの地蔵」と云われる、これが所以です。≪続く≫