石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-6

2016-06-26 05:44:37 | 石仏

*このブログのデータ、分析は、すべて、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

最終回の今回は、奥の院から食堂まで211基の石仏が対象。

地図で朱線の区間。

奥の院まで来て、気付いたことがある。

首のない石仏は奥の院の手前で終わり、奥の院の上は首がある。

判りにくいので、アップにしておく。

「崖を上るのは面倒だから」と、上の石仏は斬らないでおいた。

廃仏稀釈という思想的行為にしては、中途半端で、いい加減の感じがする。

奥の院に切断した首がある。

他に、首はあと一つくらい、残りの多数はどうしたのだろうか。

奥の院の中央奥に坐すのは、弘法大師さま。

石仏なのに玉眼が入れてある。

前にあるのは、履物だろう。

ご多忙な大師さまがいつでもお出かけになられるように、という配慮だろうか。

曹洞宗の金昌寺に、真言密教の弘法大師がおわす理由について、『金昌寺の石仏』は、曹洞宗になる前は真言密教系修験が関わっていたからではないかと推察している。

下の石仏には「紀刕様奥女中タキ」とある。

他にも「紀刕様奥女中」を刻す石仏は、12基もある。

又、「越前様奥女中」の銘文を有す石仏は、14基。

都市伝説では、これらの石仏は「闇に葬った胎児(中絶)の菩提を供養するもの」として有名です。

しかし、『金昌寺の石仏』は、この伝説を真向から否定している。

「奥女中造立の石仏に、幼児の戒名である『〇〇童子』、『▢▢童女』の銘は1基もない。銘文は『御祈祷』や『先祖菩提』、『二世安楽』などで、中絶した胎児を供養するものではない」というのが、理由。

説得力ある分析で、納得。

奥女中が十数人も不義の子を孕み、中絶の上、その供養塔を「〇〇様奥女中」として名前まで入れて造立するなんてことが、実際ありえないことは、すぐ分かりそうなものなのに、こうした伝説が流布するのは、スキャンダラスな話題に人々が飢えていたからではないか。

いや、飢えているからではないか。

かくいう私も7年前、「秩父札所を歩く」のブログで、この都市伝説をもっともらしく紹介している。

http://fuw-meichu.blogspot.jp/2009/08/blog-post_02.html

反省して取り消します。

金昌寺の石仏には、身分や性別、職業、年齢による差別がないことは、何度も触れて来た。

注文を受けた石工も自由にのびのびとノミを振るっていたかに見える。

しかし、「紀刕様奥女中」や「越前様奥女中」には、石工の無意識の、へりくだった様が読み取れる。

石工への注文書には「紀刕家奥女中」、「越前家奥女中」となっていたはずである。

それを石工は、自分の判断で、「家」を「様」に変えて刻した。

そうした方が問題は起きないだろうと石工は判断したことになる。

「御茶水前田家」とか「阿部豊後守家中」、「薩摩家屋敷家中」とかの銘があるのだから。

御三家だから「紀刕様」はありうるが、では「越前様」はどうなるのか。

私の頭も混乱しているようなので、この問題は、これで終了。

 

奥の院を過ぎても首のない石仏は続く。

首があるように見えるのは、みんな後で、くっつけたもの。

この斜面一面全部首がない中、一番上の、大きい十一面観音は無傷。

寺の本尊が十一面観音だからか、石仏の優品には十一面観音が多い。

他の石仏の首は斬ったのに、なぜ、十一面観音は斬らなかったのか。

優品だったから斬るに忍びない?

いやいや、大きくて、斬るのに手間がかかるからやめたのでしょう。

 

突然ですが、ここで、クイズを一つ。

下の写真の石仏は何?

錫杖を持っているから地蔵のようではあるが、坊主頭ではない。

クイズなら正解があるが、この場合は、ない。

あるとしたら「分からない」が正解か。

『金昌寺の石仏』で「尊像名不詳」の石仏は、みなこの類。

 

儀軌にない、独創的な石仏が結構ある。

普通、施主の要望通りに石工は、石仏を造る。

「適当にみつくろって」とは、云わないだろう。

仮にそう発注されても、地蔵とか観音とか、無難な線で折り合いをつけるに違いない。

銘はあるから、施主の要望はあったわけで、だとすると「地蔵のようで地蔵ではなく、観音のようで観音ではなく」というような、指示があったことになる。

 

こうした面妖で不思議な石仏を探して、ネーミングする、そうした楽しみ方が金昌寺にはあることになる。

 

上の写真は「越前様奥女中」と刻された尊名不詳石仏。

前面には「先祖菩提」とある。

金昌寺の石仏の大半は、追善供養塔だから、「為両親菩提」とか「為一切精霊菩提」、「「為先祖代々一切精霊」など「菩提」の入った銘が圧倒的に多い。

少数派としては、下のように「為二世安楽也」とか、

「病気平癒祈念」などもある。

その種類270。

重複している銘があるわけだから、1172基の内、270基も異なった銘文があるというのは、意外な感じがする。

「日本人は横並び文化」、他人と同じようにすれば安心という心理は、どこへ行ったのか。

少数派の実例をいくつか紹介しておこう。
「子年男祈祷」
「三界万霊六親眷属七世父母」
「所願成就」
「武運長久」
「家内子孫繁昌也」
「天下泰平・国家安全」

≪参考図書≫

◇日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』平成19年8月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-5

2016-06-21 04:46:54 | 石仏

*このブログのデータ、分析は、すべて、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

観音堂に戻る。

本尊の十一面観音は知らなくても、回廊右手に坐す慈母観音を知らない者はいないだろう。

それほど慈母観音は有名で、対照的に本尊は無名なのです。

秘仏にするには、それなりの理由があったはずだが、本尊が何かを誰も知らなくなってしまっては、秘仏にする意味がない。

それは金昌寺に限らず、秩父札所すべてにいえることで、まるで総開帳を盛り上げるためにあえて秘仏にしてる、そんな本末転倒を思わせる始末です。

金昌寺の慈母観音を有名にしたのは、乳飲み子がむしゃぶりつく乳房の豊満さ。

母は、飲みやすいように右手でしっかりと乳房を持ち上げ、その児は、両乳首を親指と人差し指でつまんで飲もうとする、そのリアルな造形が、「慈母」を感じさせて長年愛しまれてきた。

中性的であるはずの仏像の中で、観世音菩薩は女性的に造形されることが多い。

その観音様の中でも、この慈母観音は、 ひときわ女性的と言うか、女性そのものであることが特徴です。

 

今回は、観音堂の右側から六角堂を経て、奥の院へ至る道の両側の石仏が対象。

まずは、六角堂へ向かう緩やかな石段の坂道を上がる。

ほどなく右手に高い石積みの土砂崩れ防止壁が現れる。

見上げると石仏があるようだが、上がるすべがなく、写真撮影を諦める。

六角堂の内部を格子戸から覗く。

 

役行者像の横に、ミニチュア十六大善神がいらっしゃる。

十六善神なんて初耳。

帰宅して調べて知識を増やすのも、石仏巡りの愉しみの一つ。

下の写真では、左上隅が六角堂の屋根。

六角堂から集落を見下ろした光景です。

明暗のコントラストが激しくて、集落の屋根はトンでしまっている。

真中の古木は桜。

桜咲く頃は、さぞ、絶景だろう。

その桜の樹の根本に如意輪観音が埋まって、顔だけ出している。

次第に土に埋もれて、というよりは、少しずつ成長して土から生えてきたそんな感じ。

六角堂裏から奥の院までの道端石仏群は、異様で、薄気味悪い。

なんと、全部、首から上がない。

これだけ揃って首がないということになると、同時期に故意に切断した可能性が高い。

考えられるのは、明治初期の廃仏稀釈令。

埼玉県は、比較的被害が少ない県だったが、それでも幾分かの影響があった。

秩父観音霊場札所では、秩父神社境内にあった札所15番蔵福寺が神仏分離で廃寺となり、現在の場所に移転して、少林寺となったほかいくつかの実害が出た。

第四番金昌寺も本堂は売り払われ、無住となった。

石仏を切断した文字記録は残っていないが、廃仏稀釈令の影響と考えて間違いないと思われる。

「地蔵の首を斬るとギャンブルに勝つ」という俗信を実行に移した博徒も想定されるが、斬り口の鮮やかさは、素人の手際ではないことを証明している。

石工経験者が誰かに頼まれて、やったのではないか。

本当は全部の首を斬りたかったが、数の余りの多さに悲鳴をあげ、止めてしまったものと思われる。

所によっては、斬った上、地面に埋めたケースも報告されている。

斬りはしたが、首のないまま立てておいたのだから、むしろ「よし」としなければならないだろう。

大半は、首の代わりに石を載せてある。

これではいくらなんでもひどすぎるからと、首を持ってきて、くっつけた人がいる。

たが、成功したとはいえそうもない。

首と体に一体感がなく、不自然さが全面的ににじみ出ていて、これでは石のかけらを載せたほうがいいようだ。

切り落とした首をもとに戻してみたが、別の仏体だったようで、バランスが悪く、不安定な石仏もある。

石仏を切断して埋めることはなく、首のないままそこに置いたのはよかったと書いたが、確かな根拠はない。

ちょっと不安なのは、もともと金昌寺の石仏は、3800体あったと伝えられていること。

出典は『新編武蔵風土紀稿』らしいが、3800体という数は、廃仏毀釈前のもの。

では2600体はどうしたのか。

自然流失にしては多すぎる。

「埋めた」という考えもありうるが、ならば、一部が掘り返されていてもおかしくない。

もともとの3800体が、でたらめだったならばさておき、そうでないなら、神隠しにあったような「謎」の2600体ということになります。

 

 

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-4

2016-06-16 05:34:09 | 石仏

 

「金昌寺の石仏」4回目は、『金昌寺の石仏』ではC群に分類されている区域の石仏が対象。

C群区域は、山門から参道を上った突当り一帯の崖地。

観音堂の左隣の覆屋に巨大地蔵が在す。

像高は1m6㎝とそれほどでもないが、5段の台石が192㎝と高く、總高は3mを超える。

寛政3年、日本橋横山町の豪商丹波屋五郎兵衛が先祖供養のために造立した。

現在でも横山町には衣料品問屋の「丹波屋」がある。

通常「亀の子地蔵」と呼ばれるのは、亀趺の上に坐すから。

亀趺については、このブログでもテーマにしたことがあるので、ご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/477d9598b421d89f70f4e4d46b33024e

台石に「南無阿弥陀仏」、その右に「観世音菩薩」、左に「大勢至菩薩」と刻してある。

お地蔵さんの台石に、なぜ、弥陀三尊なのか、どなたか教えてください。

「亀の子地蔵」の左側は、崖地。

崖の上から下まで石仏が点在している。

まず目に入るのが、丸彫りの金剛界大日如来。

台石に「東都赤坂田町男女講中」とあるのを見て、そういえば、と記憶をたどりながら山門方向へ戻る。

階段を上がった左側にある阿弥陀如来の造立者が「東都赤坂田町男女講中」だった。

(*「金昌寺の石仏-1」の最後で取り上げている)

実は、C群には、もう1基、「東都赤坂田町男女講中」と刻する薬師如来がある。

最初の阿弥陀如来には「東都赤坂田町男女講中」の文字だけだが、二番目の大日如来の台座には「東都赤坂田町男女講中」の他に、杉崎九十九ら10人の名前が刻されている。

更に、三番目の薬師如来には、杉崎九十九ら10人の名前に、新たに10人を加えて20人の名前がある。

みんな男の名前ばかり。

石仏製作費の負担者名ではないかと思うが、「男女講中」としながら、金を出すのは男ばかりというのは、いささか解せない。

江戸時代なら当然のことなのだろうか。

もう一つ解せないのは、「先祖代々菩提 為一切諸精霊」を目的に「赤坂田町男女講中」なる同一団体が、阿弥陀、大日、薬師と仏像を変えて3回も造立していること。

信仰深い人たちと括ってしまえばそれまでだが、その真意奈辺にありや。

便宜上、一番目、二番目、三番目としたが、造立年順ではない。

3基とも造立年は刻されていないから、分からないのです。

金昌寺の石仏で制作年があるのは全体の1.5%。

年月を刻するのが普通なのに、なぜ、金昌寺では省略するのか、さっぱり理由が分からない。

 

右から、大日如来、十一面観音、馬頭観音。

「写真の撮り方がおかしい、中央の十一面観音の首がないぞ」という声が聞こえてきそうだ。

でも、元々、首はないのです。

ついでに、馬頭観音のアップも。

何しろ1172基でたった2基しかない馬頭観音だから、貴重品です。

銘はないが、三面憤怒なので、愛馬の供養塔ではなさそう。

草に覆われて石仏の全身を見ることはできない。

大きな石仏はこれまでも丁寧に取り上げてきたが、普通サイズは余程の特色がないと撮影しなかった。

ポジショニングも関係がある。

比較的大きく見栄えがするものは、最前列に並んでいて、撮影しやすいが、普通サイズは斜面の上まで点在していて、近づけないのです。

佐渡の島民から寄進された石仏があると『金昌寺の石仏』に載っているので、是非、見たいものだと願っていた。

上の写真の、薬師如来の後方にあるということで、意を決して斜面を上ろうとするが、運動神経に欠けるデブの老体は、一歩上がると二歩ずり落ちる始末。

草刈りをしていた作業員に笑いながら「危ないからやめといた方がいいですよ」と忠告された。

斜面がきつい事もあるが、マムシがそろそろ出始める季節なので、危ないのだそうだ。

すぐ探すのを止めたので、写真は当然ない。

像高41㎝の小柄なお地蔵さんに「佐渡国加茂郡▢▢瓦村/願主 ▢左衛門/為二世安楽」と銘があると資料にはある。

佐渡から秩父札所巡りに来て、第四番金昌寺の「石造千躰地蔵尊建立」運動に賛同して、1基を寄進したものと思われる。

佐渡から秩父へ、そこから日光を経て江戸を見物し、東海道を一路上って、西国を回り、京、大坂、奈良を見て、善光寺参りをして島に帰る、これが佐渡者の巡拝モデルコースだった。

 

下の写真の地蔵は、台石4段こみの高さ180㎝。

地蔵の膝で4人の子供が戯れている。

江戸本郷新町の三河屋長兵衛が寛政7年(1795)に造立したもの。

石仏に造立年が刻されているのは、わずか22基。

資料不足ながら『金昌寺の石仏』調査メンバーは、石仏建立は、四世・鉄要祖牛和尚から始まり、七世・舜明知貫和尚の代でほぼ完了したと推定している。

埼玉県教育委員会発行の『秩父巡礼堂』では、六世が寛政元年(1789)に寺門興隆と天災・飢饉の犠牲者供養を目的に「石造千躰地蔵尊建立」を発願、寛政8年(1796)に目標を達成し、「千躰仏海岸供養会」を行ったと書いてある。

上の不動明王は、なにか特別なわけがあるわけではない。

あるとすれば、その場所。

急斜面とマムシの恐怖に打ち勝って、こんな所を登って撮ったことに価値がある。

「自分を褒めてあげたい」。

が、不動明王を1枚とることに必死で、脇侍のセイタカ、コンガラ童子を撮りそこなったのは、なさけない。

この如意輪観音には、セメントで補修した跡がある。

刻銘がちょっと変わっている。

「昭和三十五年十一月吉日/荒船修す」。

この界隈で「荒船」といえば、「荒船清十郎」を指すことは、常識。

観音堂横の墓域の一等地に、本人の胸像つき墓地があるくらいだ。

私たち70歳代世代は、荒船清十郎と云えば、「深谷駅に急行を停めた」あの剛腕政治家だと思い起こすが、50代以下だとどうだろうか。

「地元利益優先の何がわるいのか」と公言してはばからない政治家は、今や絶滅危惧種どころか、絶滅してしまった。

クリーンではないが、その憎めない愛嬌で人を惹きつけたのは、あの角さんに似ている所がある。

ただし、金昌寺周辺には荒船姓がやたら多いそうだから、この修復をしたのが、荒船清十郎であるかどうかは、不確定。

荒船清十郎だったら面白いのに、と思えばいい。

*このブログのデータ、分析は、すべて、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

 

 

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-3

2016-06-12 05:05:05 | 石仏

*このブログのデータ、分析は、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

A群を終えて、次はB群。

B群は、観音堂の周りの石仏群。

B-1群は、桜の木から谷川まで27基。

B-2群は、観音堂前73基。

B-3群は観音堂左脇と後ろ87基。

ではB群からめぼしい石仏を紹介しよう。

左膝を立て、右手で体を支えながら、右方向を見やる、ちょっと小洒落た石仏は、遊戯観音(ゆげ観音)。

冴えない石仏群にあって、異彩を放ち、参拝者のカメラの放列に晒されていた。

馬頭観音が全体で2基ある。

小型石仏ながら三面憤怒、六臂の本格派。

銘文に「両親祈祷」と読める。

愛馬の供養なら判るが、両親の供養に馬頭観音を選択するというのは、いかなる理由によるものなのか、知りたいもの。

如意輪観音といえば、座像が普通。

立像は、まずほとんど見かけない。

その珍しい如意輪観音立像が、4基もあるから面白い。

総数は、29基だから、立像の割合が極めて高い特殊な境内ということになります。

群の中で一際目立つのは、千手観音。

像高が60㎝と平均なのに、高く見えるのは、2段の40㎝の台石効果。

彫りもシャープな佳作。

「下総國香取郡土江内村」からの寄進のようだ。

千葉県下総からは、他に8村、茨城県下総からも2村、造立、寄進されている。

地蔵や観音ではない石仏が5体並んでいる。

珍しいのでパチリ。

左から、如意輪観音、釈迦如来、薬師如来、大日如来、勢至菩薩。

如意輪観音の銘文は、

「江戸赤坂傳馬町二丁目
 家内祈祷
 先祖代々
 松屋善四良内いの」。

「松屋善四良内」にせず、「いの」と本人名を加えてあるのが、これまで見てきたものと異なる。

それでも「松屋いの」とはしにくい何かがあるようだ。。

これは、見返り地蔵。

見返り地蔵はその像容から名付けられた。冥土へゆく亡者を慈悲の眼で見送る姿であると云い、民衆の願いが込められている。
見返り地蔵の像容は、顔を左に向ける点は無一致しているが、持ち物は錫杖、錫杖と桃、と様々。儀軌によって定められたものではなく、民衆の願いそのものの表現である」(『続日本石仏図典』より)

頭にとんがりがあるなあと近寄って見たら、勝軍地蔵だった。

 

1172基のうち、たった1基。

上州新田町の住人からの寄進だが、なぜ、勝軍地蔵なのかは、見当もつかない。

身に甲冑をまとった独特の地蔵。足利尊氏が帰依したことから武将たちの尊崇を集めた。京都愛宕の愛宕明神の本地として、愛宕勝軍地蔵の名で知られている。特に徳川幕府が、愛宕明神を江戸に勧請して以来、武士には勝軍の神として、庶民には防火の神として信仰されるようになった」。(『日本石仏図典』より)

日本人は外来文化を日本の風土に合わせて変容させてしまうと云われるが、勝軍地蔵はその典型だろう。

戦に勝つことを叶える仏なんて、冗談としか思えない。

 

次は、観音堂の左から後ろ側に並ぶB-3群へ。

参拝者は、必ず、観音堂までは足を運ぶ。

山門からの参道両側に途切れることなく続く石仏の数に圧倒され、シャッターを切り続けるので、ここまでくるといささか食傷気味。

お堂の裏まで回って石仏を見る「変人」は一人もいない。

下は勢至菩薩立像。

勢至菩薩は25基と以外に多い。

「浅草並木町 名酒屋」と職業が刻してある。

いい酒を揃えてあるという名酒屋で、まさか「銘酒屋」ではあるまい。

造立主の名前はなくとも、商売を表わす店名を刻す石仏は多い。

油屋、花屋、升屋、手品屋、染物屋、鍔屋、桶屋、槍屋、下駄屋、古道具屋、舟問屋、小間物屋、石屋、大工etc

十一面観音は、座像が5基、立像が9基の14基。

智挙印を結ぶ金剛界大日如来は、16基。

座像が15基、立像、わずか1基。

下の写真は、左から、薬師如来、地蔵菩薩、勢至菩薩。

立像が3基並んでいるのが、珍しい。

 

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-2

2016-06-06 05:21:03 | 石仏

*このブログのデータ、分析は、日本石仏協会埼玉支部『金昌寺の石仏』に負うものです。

山門から短い階段を上ると、すぐ右へ入るべく小さな板橋がかかっている。

5mほど先の突当りに、高い覆屋、右にも細長の覆屋があり、石仏が並んでいる。

突き当たりの堂の屋根が高いのは、中の十一面観音が高いから。

像高190㎝の十一面観音が、2mを超える5段の台石の上にお立ちになっていらっしゃる。

文字通り見上げるばかりの高さ。

石仏としては、極めてまれな大きさです。

大きいだけでなく、容もいい。

石工銘がないから不明だが、それなりの名のある匠の作品と思われる。

台は、一段目が「蓮台」、二段目が「瑞雲」、三段目が「唐獅子牡丹」、五段目に「邪鬼」を配す凝った意匠。

邪鬼を踏まえる十一面観音は初めて見るような気がする。

足下左右に童子もいる。

この十一面観音に向かって右側の縦長の覆屋には、6体の大ぶりな石仏が並んで在す。

覆屋に向かって右から紹介しよう。

まず、舟形光背立像観世音菩薩。

舟形光背であることと立像であることが、他の5体と異なる。

なぜか銘がない。

その隣は、普賢菩薩座像。

「享和元年酉年
  当山七世 知貫代
 秩父三山村
  願主 近藤文右衛門」

近藤文右衛門の兄弟か、親戚か、隣の石仏の願主は、同じ三山村の近藤與四良なる男。

像容は聖観音だが、台座には「薬師如来」とあり、『金昌寺の石仏』では、勢至菩薩となっている。

何がどうしてこうなるのか、その訳を推測すらできない。

「寛政十二甲五月  奉造立
 當山七世 知貫代 勢至菩薩
 秩父三山邑    秩父三山村
 願主 近藤與四良 願主 近藤與四良」

次のお地蔵さんは、巡拝塔を兼ねている。

「    西国
 奉納  秩父
     坂東   佐野屋市兵衛」

市兵衛さんの細君も負けてない。

隣に子安地蔵を寄進している。

「當村願主 市兵衛
 
天下泰平
 念佛女講中
 日月清明
 當寺六世登獄代」

男女の差別ない石仏の並べようだが、市兵衛さんの女房は自分の名前の代わりに「市兵衛内」と刻している。

微妙に、かつ、歴然と男女格差はあるのです。

一番左の地蔵の台座には、「天下泰平、国家安全」祈願が彫られている。

1172基の石仏で、国家安全を銘しているのは、このお地蔵さんだけ。

寄進者名も「尾張屋六兵衛母」。

「市兵衛内」と同じ、その家の主人に対してのポジション、妻か母か兄妹かを明示して、名前は書かないのが流儀のようだ。

これで6体を紹介した。

銘文がそれぞれ長いのは、像と台石が大きいから。

普通は、50-60㎝の像の下部と側面に短い2,3行が刻されているだけ。

情報量は、格段に少なくなってきます。

これら6体の石仏の反対側には、一風変わった羅漢がおわす。

4匹の邪鬼が担ぐ酒樽の上に、右手に一升瓶、左手に大杯を頭上にかざした片膝立ちの羅漢さん。

銘文がないので、造立目的は不明だが、地元では「禁酒地蔵」と呼ばれているのだとか。

「酒は百薬の長」と飲酒を勧めているように私には、見えるが。

「酔えば天下は俺のもの」。

鬱になるよりトラになるほうがいい。

寅年生まれなのに、酒に弱くて、トラになれなかった身としては、羨ましい限り。

 

元の参道に戻って緩やかな坂道を上る。

前方の観音堂まで途切れることなく続く参道右の石仏群は、『金昌寺の石仏』での調査区域分類でA-4群に相当する。

写真を拡大すると連綿と続く石仏群が判るのだが、小さくて判りづらく、歯がゆい。

一番手前に陽を受けて浮き立つ石碑は、金昌寺で最古の石造物。

石橋供養塔で、元文三年(1738)と刻されている。

「天祝代」の「天祝」は、金昌寺三世朝山天祝大和尚のこと。

上の写真の右手、桜の木までがA-4群。

金昌寺の石仏は圧倒的に地蔵が多く、観音は2番目。

観音が3体並ぶのは珍しい。

下の写真の仏像名は何だろう。

右手の所作があまり見かけない。

こうした像容不明の石仏が多いのも金昌寺の特徴。

「赤坂田町一丁目」と読める。

ちなみに赤坂とつく町名のある石仏は、以下の通り。

赤坂田町中通り、赤坂新町一丁目、赤坂傳馬町一丁目、赤坂黒鍬谷、赤坂田町二丁目、赤坂町一丁目、赤坂新町三丁目、赤坂表傳馬町二丁目、赤坂鈴振稲荷前、赤坂田町四丁目、赤坂表伝町一丁目、赤坂新店、赤坂一ツ木町、赤坂弁天下、赤坂立町一丁目、赤坂定▢秋町、赤坂薬研坂、赤坂今井谷、赤坂鈴橋▢前、赤坂堀河家鋪、赤坂中□町、赤坂毛利屋敷、赤坂左□町、赤坂下▢▢四丁目 。

当然、重複した石仏もあるわけで、赤坂だけで、30基は下らないと思われる。

この調子で、芝、日本橋、神田、四谷とあるのだから、江戸からの寄進がいかに多いか分かろうと云うもの。

 

 


123 秩父札所第四番金昌寺の石仏-1

2016-06-01 05:13:47 | 石仏

「日本一」の称号は、宣伝効果抜群、観光地ならどこでも欲しがるし、使いたがる。

秩父観音霊場第四番金昌寺には、およそ1200体弱もの石仏が所狭しと並んでいる。

一つの寺にこれだけの数の石仏があるのは、日本一ではないかと、私は思うのだが、WEBや観光ガイド誌を見ても「日本一」の文字は見当たらない。

他に日本一石仏が多い寺があるのか、単に関係者が宣伝に無関心だからなのか、どうでもいいことではあるが、ちょっとばかり気になる。(*東近江市の石塔寺を忘れていた。一目三万塔の石塔寺が日本一か)

とにかく、石仏がべらぼうに多いことは確かです。

その大半は、追善供養塔で、寛政期(1789-1801)に造立されている。

造立者の多くは武家だが、武士だけでなく、奥女中の名もあるのが目を引きます。

男女を問わずの、この傾向は、商家でも同様で、ただし、〇〇母とか▢▢娘とか、その家の主の名前が優先するのは、男社会の反映でしょう。

造立者の住まいは、江戸が圧倒的多数で、関東一円から越後、信州の地名も散見されます。

私の故郷は佐渡ですが、佐渡國の造立者もあることを知り、驚きました。

造立希望者は、金昌寺近くの石工に制作を依頼し、寺は、石工が持ち込んだ石仏を片端から並べていったものと思われます。

「片端から」と言うのは、武士の隣に商人が、女と男が入り混じり、身分差別は一切見られないからです。

死後の世界にまで身分制度を持ち込まない、寺の方針があったのでしょうか。

 

石仏だから刻文は残る。

残りはするが、読めるかというと、これが難しい。

私に読み解く能力がないのが最大の問題だが、コケに覆われていたり、汚れていたり、彫りが浅かったりして、物理的に読めないものも少なくない。

拓本を採ればいいのだが、私はそこまで趣味が高じていないので、必然的に先学の努力に頼ることになる。

世に奇特な人はいるもので、なんと金昌寺の石仏悉皆調査を行った人たちがいるのです。

それは、「日本石仏協会埼玉支部」のグループ。

その成果を、平成19年、『金昌寺の石仏』としてまとめ、公表しました。

調査主体が、「日本石仏協会」のメンバーだと知れば、調査自体は当然のように受け取られがちですが、1172基もの石仏の悉皆調査となれば、その労力は計り知れないものがあります。

まして調査費用は、自己負担というのですから、もう「奇特な」と形容するしかない。

前置きが長くなった。

労作『金昌寺の石仏』を片手に、西武特急に乗って秩父へ。

『金昌寺の石仏』を参考に、主だった石仏を紹介するのが、今回の眼目です。

データ、分析は、専ら『金昌寺の石仏』にお任せ、私は感想のみを付け加えるといういつもの安直スタイル、ご了承ください。

高谷山金昌寺は、秩父観音三十四ケ所の第四番札所。

西武秩父駅からバスで18分の道のりです。

私が金昌寺を訪れるのは、これが3度め。

8年前、秩父札所巡りをした際、2度、参拝しました。

その模様は、このブログのブックマークの「秩父札所を歩く」で御覧になれます。

http://fuw-meichu.blogspot.jp/2009/07/blog-post_3444.html

 

寺は、鎌倉時代後期開基と推測される。

江戸後期までは大変繁盛していたが、明治の廃仏稀釈で廃寺となり、本堂は民家に払い下げられました。

現在は、観音堂が本堂の役割をはたしているようです。

 

大草鞋が吊り下がっている山門の周囲は、コンクリートの打ち直し工事中。

山門をくぐろうとして、気が付いた。

『金昌寺の石仏』に記載されている山門周りの石仏が一体もないのです。

工事をするので、一旦保管場所に移転したのだろうと思い、山門横の売店の人に訊いいてみた。

「山門周りの石仏はどこにあるのですか」。

「そんな石仏は、もともとここには一体もない」というのが、売店の人の答え。

「だってここに配置図がありますよ」と資料を見せるが、「50年もここにいるが、石仏があったことはない」と云うのです。

おかしいなあとブツブツいいながら、石段横の石仏を撮影し始めていたら、駆け寄ってきて「お客さん、分かりましたよ」。

山門の上にも石仏が53体あって、この配置図は、三段に積み重ねたその配置図だという。

振り返って、山門の上を見る。

なるほど、石仏群が見える。

上って写真を撮りたいが、登段禁止だといわれ、断念。

 

いよいよ石仏紹介ですが、『金昌寺の石仏』では、5グループ、21区画に分けて調査をしているので、それに従います。

まずは、山門をくぐると眼前に伸びる石段両側区域。

山門をくぐると手水鉢。

石仏ではないが、金昌寺で2番目に古い、寛延4年(1751)のもの。

その後ろの石仏が、1172基の石仏の先頭ということになる。

舟形光背座像の観世音菩薩(塔高は、台座こみ74㎝)。

金昌寺の石仏の86%は丸彫り塔だから、全体の代表ともいうべき先頭に、少数派の舟形光背塔を何故置いたのか、頭をかしげる。

その右横には谷川がちょろちょろ流れ落ちている。

その溝を挟んで右にも2列の石仏群がある。

像高は、概ね、50-60㎝、地蔵菩薩が圧倒的に多い。

『金昌寺の石仏』によれば、地蔵の数は、約400基。

ダントツのNO1だが、凄いのはその数ではなく、同じ像容が少ない事。

恐らく関わった石工は少なかっただろうから、似通った像容があっても不思議ではない。

きちんと検証したわけではないので、断言はしないが、地蔵が多い割には、似た地蔵は少ないように思う。

ここでは、宇賀神が目立つ存在。

一見、ヘビというよりもウンコに見える。

でもこんなに長いウンコはないから、やっぱりヘビか。

追善供養と如何なる関係があるのか、なぜ、ここに?と思ってしまう。

 

石段の左側へ。

金昌寺の石造物の98%は、像塔。

文字塔はわずかしかない。

これはたった1基の文字供養塔。

「紀 卯歳 御男子 御祈祷
   寛政五年十二月二十九日 尊霊御菩提
   寛政六寅年正月廿日   尊霊御菩提
 州 先祖代々一切精霊菩提 願主吉村」

         (『金昌寺の石仏』より転載。以下、刻文はみな同じ)

1172基の大半は、寛政年間造立とみられている。

その典型例といえそうだ。

 右手が欠けているが、阿弥陀如来塔。

阿弥陀如来は、19基あるが、座像は4基しかない。

座像と立像では、印相が違っていて、座像は弥陀定印(上品上生印)、立像は、来迎院(下品下生印)と分かれている。

台座の刻文には「赤坂田町 男女講中」とある。

同じ講中の大日如来と薬師如来があるので、後刻、再び、触れることに。