石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

9  木の洞(うろ)地蔵

2011-07-17 06:03:22 | 地蔵菩薩

「墓場」には二通りの意味がある。

①墓のある場所。

②かつて有益であったものが役に立たなくなり廃棄物として集積される場所。「家電のーー」

高野山一の橋から奥の院への参道一帯は、さしずめ「墓の墓場」である。

               高野山奥の院への参道

林立する諸大名家の巨大な五輪塔の多くは、参拝に訪れる者もなく、荒れるに任せて放置されている。

その巨大さは、栄華と権勢の象徴であった。

それだけに、荒廃は「虚無」をことさらに際立たせているようだ。

ここに立つと、先祖の霊を悼むというよりは、とてつもない空しさに押しつぶされそうな気持になる。

奥の院に向かって右の一角に、五輪塔墓標を積み上げた無縁供養塔がある。

奥の院の御堂改築にあたり、地面を掘ったら、中世後期の古い五輪塔墓標がわんさかと出てきた。

信長が安土城築城に際して、古い墓石を基礎工事に埋め込んだことは有名だが、当時は、信長に限らず誰もが古い墓は廃棄物として土中に埋めて平気だった。

近江の「石塔寺」の石仏群も、皆、土中から出土したものである。

高野山の巨大五輪塔の下にも小さな五輪塔が敷き詰められているのは間違いない。

何を言いたいのかというと、後世の人たちから顧みられなくなった墓石は土中に埋めてしかるべきであるのに、ここの五輪塔は巨大すぎて、埋めるに埋められない。

ここは、墓のかたちをした廃棄物が林立する「墓の墓場」なのである。

このモノクロームの墓場に色彩を与えているのは、石仏地蔵にかけられた涎かけ。

地蔵ばかりで観音さんが少ないのは、ここが死後の安穏を願う墓域だからだろう。

みんな小さな石仏であるのは、いずれも背中に背負われて約6里の山道を運ばれてきたからである。

他所の地蔵に比べて、高野山の地蔵はユニークな顔をしているのが多い。

高野山だから儀軌通りかと思うが、そんなことはないのだ。

そこが面白い。

 

その俗人くさい顔をコケが覆って、異様さが一層強調されていたりする。

大きいから威圧的だが、空虚な巨大五輪塔よりも、その周辺に転がっている石仏墓標に、僕は心を惹かれてしまう。

中でも格段のお気に入りは、下の写真だ。

杉の大木の根もとの洞に安置された3体の石仏。

置かれてから日が浅いのか、しっくりとなじんでいない。

赤と青の涎かけが、しっとりとした天然の見事な仏座の雰囲気を壊している。

僕が惹かれるのは、その手前、うっかりすると見逃してしまいそうな半身の地蔵である。

右半分は杉の木に埋没して、木と一体化している。

樹液が石仏の体内にも流れているようだ。

土中に埋められるはずだった。

それが誰かの手によって、ひょいと杉の木の洞に放り込まれた。

それがいつのことだったのか。

長い年月をかけて、木は石仏をやんわりと包み込み、しっかりと抱きしめた。

唇の左端をあげて、仏は笑っているようだ。

あるいは苦笑しているのか。

「えらいことになってきたな。でも、ま、これも運命か」。

木に抱擁され、木と一体化して、木の中に溶け込んでいった無数の先達たちを仏は知っている。

全身が木に飲み込まれるのは、そんなに遠い先のことではないだろう・

ここで「木に飲み込まれる」という表現は不適切だった。

新しい仏性が木に変身して誕生!というべきか。

杉の生き仏の誕生と言ってもよさそうだ。

その時を自分の目で確認したいというのが、僕のささやかな願望なのである。

 

場所が変わる。

まず、写真を何点か見てほしい。

高野山の石仏を上回るユニークな石造物ばかり。

いずれも修那羅(しょなら)山の石神仏である。

修那羅山は信州にある。

上田市から青木村へ。

麻積村へ走る国道12号の峠が修那羅峠。

 

その峠から山道を30分ほど登ったところが山頂。

標高1000mといわれている。

そこに神社がある。

       修那羅山安宮神社

安宮神社と言い、神社を取り囲むように奇怪な石造物がそこらじゅうに点在している。

その数700点超。

仏教の儀軌に則った石仏もあるにはあるが、少ない。

石像の多くは、異様な風態だが、おしなべて解放的で明るい。

石碑もある。

文字だから読めれば分かると思うと足元をすくわれる。

        催促金神                一粒万倍神

「催促金神」なる神がいる。

貸した金が返ってくるように神に催促しているのか、借金をしているから、相手に催促を遅らせるか、忘れさせるように神に祈るのか、いずれにせよ、身勝手な現世利益神なのである。

修那羅山石神仏の特徴の一つは、死後の世界の安楽を希求する浄土教的なムードが希薄だということ。

死後の世界のことより、生きている今この時を少しでもレベルアップしたい、その切実な思いがどの石造物にも精一杯彫り込まれている。

生活を脅かすものはみな石に彫られた。

「神よ、この者を無力にしてください」なのか、

「神として崇めるので、どうか穏やかに」なのか。

他人が見てそれが何の像であるか分からないことは、問題ではない。

彼(彼女)と神とが通じ合えばいいのだ。

両者の心が通えば目的は成就したことになる。

「変なの」、「頭おかしいんでないか」。

里の人たちのさげすみの目を背中に、自分の神を背負って1000mの山道を登って行く。

信仰心のなせる業である。

宗教のパワーと言ってもいい。

そのパワーの源は、この山に住む修那羅大天武なる修行者にあったと見られている。

     修那羅大天武の碑

大天武なる男は越後の産で、9歳の時天狗に従って諸国修行の旅に出たと来歴にある。

60歳を超えて、この地で加持祈祷をしながら、雨乞いを行って人々の信仰を集めた。

「天狗に従って諸国修行」と聞いただけで、マユツバと思いたくなるが、彼の言行が人々に信頼されたことは事実である。

大天武の偉い所は、権威を否定し、認めない点にあった。

当時の人々が仏や神を石に彫るとしたら、観音さんやお地蔵さん、不動明王、庚申塔や道祖神、お稲荷さんの狐や狛犬を参考にするしかなかった。

見たこともないものを作り出すことなど誰もできなかった。

だから、ついついどこかで見たことのある石仏を持ち込んでくることになる。

大天武は言う。

「これがお前の神なのか」。

「もっと違った姿形をしているんではないか」。

「地蔵や観音を捨ててしまえ」。

「お前だけの神を作れ」。

「俺(大天武)にも分からない像容でも、お前と神が通じ合えばいいのだから」

その言やよし、こうして信州の山の一角に破天荒な聖地が出現した。

時は、江戸末期から明治初年。

激動の時代ではあったが、世の保守性は微動だにしなかった。

そうした時代に開花した、ここは解放区だった。

クリエティビティがある。

オリジナリティがある。

唯一であることを誇る心がある。

俺の、俺だけの神がある。

私の、わたしだけの仏がある。

古墳、縄文の復活がある。

日本のビカソがいる。

修那羅山は、野外美術展であり、夢のワンダーランドなのです。

 

主題に戻ろう。

 主題は「木の洞地蔵」だった。

 ここ、修那羅山にも「木の洞地蔵」がある。

正確には「木の洞観音」か。

一通り石造物を見終えて、帰ろうとした時だった。

東京の家を出てきたのが朝の4時半だったから、まだ9時に大分前の時間だった。

「早いお着きですね。どこからですか」と声をかけられた。

どうやら宮司夫人のようだった。

雑談をしていると、「あれは見ましたか」と聞かれた。

「あれ」とは、木の洞の石仏。

「是非、見て行かれた方がいいですよ」と勧められ、教えられた場所に戻る。

見覚えのある木が太い根っこを晒して立っている。

白樺の仲間だろうか。

一見、それらしい洞が見えない。

「変だな」と思いながら、ゴツゴツした根っこをよじ登って行くと、あった。

キツツキが開けた穴だろうか。

10㎝くらいの穴がぽっかりと開いて、中に十一面観音が合掌している。

穴には、雨水だろうか、こげ茶色の透明な水が溜まっていて、石仏の下半身は水没している。

雨水ではなく、樹液なのかもしれない。

この石仏に気づく人は、誰もいないだろう。

なぜ、こんなところに石仏を置いたのだろうか。

もともと修那羅の石神仏は祈りの対象として置かれた。

それが今では見物の対象となっている。

どこにも天邪鬼はいる。

「誰にも気づかれず、見られない石像が一つくらいあったっていいだろう」。

彼は格好の隠れ家を見つけた。

十一面観音は、久しぶりに静謐を得たはずであった。

その平安を僕は破ってしまった。

根っこをよじ登り、あまつさえ、写真をとって、みんなに見せている。

こういうのを罰当たりな行為という。

バチが当たらなければいいのだが。

 

樹の洞があれば石仏を置きたくなる人がいれば、洞の中に仏像を刻む人もいる。

埼玉県幸手市西関宿(にしせきやど)。

北は茨城県、東は千葉県に接する埼玉県のはずれ。

江戸川を挟んで向こうの野田市関宿は、江戸時代、舟運の要としての宿場であった。

関宿の西に位置するから西関宿だが、繁栄のおこぼれにあずかって、当時はこっちも賑わっていた。

その繁栄の一端が川に近い寺社の石仏に見ることができる。

「臨川庵」も例外ではない。

無住で今は見る影もないが、ゴミのように横たわった石仏に佳品がある。

                  臨川庵(埼玉県幸手市西関宿)

「臨川庵」にはもう一つ誇るべきものがあった。

「銀杏地蔵」。

境内にあるイチョウの木をノミで彫った地蔵のこと。

イチョウの大木の根元に屋根を食いこませた形で小屋が建っている。

小屋の前面には鈴緒が下がり、その奥に格子戸。

格子戸を覗く。

照明がないので薄暗いが、洞がポッカリと空いているのが分かる。

温泉地の秘宝館に入ったような気分だ。

洞の高さは40-50㎝くらいか。

奥行きも10数㎝はありそうだが、目を凝らして見ても中には何も見えない。

かつてはここに生木の地蔵がおわした。

子育て地蔵として有名で、近在から参拝にくる人が絶えなかったと言われている。

それが木の生育とともに生木を彫った地蔵は姿形を変え、再び、木に戻ってしまう。

洞ばかりを見ていたので、気付かなかったが、洞の右側に木彫りの地蔵が立っている。

小屋の柱に取り付けられた説明文によれば、消失してしまった名物を偲んで、集落の人たちがイチョウ材で「銀杏地蔵」を復刻したのだそうだ。

イチョウ材で復刻の努力は多とするが、洞より大きいのは画竜点睛を欠くようだ。

 

「臨川庵」の「銀杏地蔵」は木の成長とともに消え失せたが、彫った地蔵は残ったが肝心の木が切り倒された事例がある。

八王子市の「宗格院」の山門を入ると左に「宝珠閣」なる堂がある。

        宗格院(八王子市千人町)          宝珠閣

堂内の中央には「せき地蔵」が座しているが、その前に一風変わった地蔵がおわす。

松の木に穴をあけ、中に地蔵を彫りこんだ一木地蔵尊。

彫ったのは「宗格院」26世住職。

境内の松の木に自らノミをふるった。

しかし、松の木は事情によって切り倒されることになり、地蔵の部分だけが保存されることとなった。

株の高さ50㎝、像高17㎝。

有輪で蓮華座に立つ尊像は、素人離れした見事な素彫り技術を今にとどめている。

松の木が切り倒されたのは惜しまれるが、そのまま放置しておけば、「銀杏地蔵」と同じ運命をたどったかも知れず、是非の判断は難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


8 八万四千体地蔵

2011-07-01 09:42:12 | 地蔵菩薩

「多数はパワーである」

「多数は正義である」

「多数は美しい」

まるで、小沢一郎の政治信条のようだが、上野「浄名院」の境内に足を踏み入れると、誰しもが同じ感慨を抱くのではなかろうか。

同じサイズ、同じ像容の地蔵立像がビッシリと並ぶ様は、壮観であり、異観である。

          「浄名院」(上野桜木2)の八万四千体地蔵群

石像は、縦35㎝、横25㎝。

正面に地蔵立像の陽刻。

その右側に「八万四千(はちまんしせん)体地蔵尊」。

左に「第○○○○番」と通し番号。

右側面には「発願主 上野浄名院比丘妙連」、左側面には施主名が刻まれている。

 

無数の石仏が群れ集う光景としては、近江の「石塔寺」がイメージされる。

「日本は木の文化」などという言葉は、ここに立つとすっ飛んでしまう。

祈りを石に刻むという行為が日常的で普遍的であったことに、気付くからだ。

             石塔寺(東近江市)             

 

「石塔寺」の由来は「僧答て曰、昔仏生国の阿育(アショカ)王、八万四千の塔を造、十方へ抛給たりしが、日本国江州石塔寺に一基留り給へり」『源平盛衰記』にある。

八万四千基の仏塔に納められたのは、釈尊の仏舎利。

「浄名院」の八万四千体地蔵の発想は、「石塔寺」から得たもので、発願主は同寺第38代住職、妙運和尚だった。

明治12年のことである。

 「八万四千」とはmanyの意味であって、83999の次の数ではない。

本来は「法門(釈迦の教え)」の形容詞で「八万四千の法門」というように使われる。

「劫」だとか、「恒河砂」のようなスケールの大きな無限大の概念を作りだしたインド人にしては、多数を表現するのに「八万四千」とはいささかこじんまりし過ぎているように感ずるが、余計なお世話か。

とにかく、出来るだけ多くの地蔵を一か所に集めることが、妙運和尚の狙いだった。

ならば、八万四千体地蔵は「浄名院」にあってしかるべきで、他の寺にあるはずはない。

ところが、違うのである。

「浄名院」の山号は「東叡山」。

「寛永寺」と同じだ。

その「寛永寺」の本堂脇の石仏群の中に八万四千体地蔵がおわす。

   寛永寺境内の「八万四千体地蔵」

通常の35㎝丈ではなく、人の背丈を越える立像なので、つい見逃してしまいがちだが、右に「八万四千體之内」、左に「第五千七百番」と刻してあるので、「浄名院」の「八万四千体地蔵」であることが分かる。

背中には、発願主妙運の名前もある。

この地蔵を見た時は、疑問は抱かなかったが、豊島区西巣鴨の「善養寺」で4基の「八万四千体地蔵」に出会った時は、なぜ、ここにあるのだろうかと不思議に思った。

本堂に向かって左手の、墓地への通路の脇に4体の地蔵は立っていた。

        善養寺(豊島区西巣鴨4)の「八万四千体地蔵」

「浄名院」の多くの地蔵がそうであるように、その内の2体は顔は崩れ、杖はとろけて消え失せている。

また、2体の番号は「第七百三十三番」と「第七百三十四番」。

連番である。

連番であることは、特別な事情があることを物語っているような気がする。

庫裏の呼び鈴を押す。

応対してくれたご婦人は、しかし、「浄名院」も「八万四千体地蔵」もご存じなかった。

当然のことながら、4体の地蔵が「善養寺」におわす理由については知る由もない。

連番の「八万四千体地蔵」は、千葉県我孫子市の「地蔵院」にもある。

「第六萬六千六百壱番」と「第六萬六千六百弐番」。

     地蔵院(我孫子市中峠) 左から2列目が「八万四千体地蔵」

他の石造物と一緒に、その存在すらも忘れ去られて、所在なげに相前後して佇んでいる。

「浄名院」との関連を知りたいのだが、以前は寺だったらしいということだけで、尋ねるべき人もいない。

所在なげに、という有様は、板橋区の「遍照寺」の「八万四千体地蔵」も同様である。

寂れた寺の本堂の壁に沿って石仏が並んでいる。

見方によっては、石仏というよりも廃棄物の感が強い。

         地蔵院(板橋区仲宿)の「八万四千体地蔵」とその台石

柵があって近寄れないが、ひときわ高い地蔵は、「八万四千体地蔵」のようだ。

ズームレンズで「八万四千體之内二千百七十三番」を確認。

発願主妙運の文字も読める。

この寺でも尋ねるべき人がいない。

知りたいことが知りえないと、落ち着かない。

そんな時見つけたのが「八万四千体地蔵と遊女の墓」(榊原勲-『日本の石仏63巻』)。

浅草寿町の「永見寺」にある「八万四千体地蔵」を同寺に葬られている新吉原の遊女・玉菊と関連つけて論ずるもので、榊原氏はここで、本来「浄名院」にあるべき地蔵が他所にあるのは、関東大震災、太平洋戦争などの混乱時に境内から持ち出されたからだと見解を述べている。

     永見寺(台東区寿2)の玉菊稲荷堂と堂前の「八万四千体地蔵」

そして「この地蔵石像には、道祖神盗みならぬ゛地蔵盗み゛を想像する」とまで言っている。

「檀家の方が持ち込んだもので、お断りするわけにもいきませんので」。

住職の言葉は、゛地蔵盗み゛を彷彿とさせるが、その檀家は今でも供花に訪れるそうで、゛盗んだ゛ものではなさそうだ。

「永見寺」の場合は、1体だから゛盗む゛こともありうるが、杉並区の「真盛寺」のように10体もあると゛盗む゛のは容易ではなかろう。

参道から墓地へ導く道路の両側に石仏が点在しているが、左の一角に「八万四千体地蔵」群がある。

この10体の地蔵は『杉並の石仏と石塔』(杉並区教育委員会)にも記載されている。

実は「真盛寺」の境内に、一般人が入ることは禁じられている。

当然写真も撮れないので、『杉並の石仏と石塔』から転用するしかない。

    『杉並の石仏と石塔』(杉並区教育委員会)より

10体の「八万四千体地蔵」の内5体は、三万八千一番から三万八千五番までの続き番号。

三万八千二番がなくて、三万八千三番が2基あるのは、手続きミスか。

建立年月日はいずれも明治31年11月だが、最後の三万八千五番だけは明治35年5月となっている。

4年半も離れているのは何故だろうか。

他の5基のうち1基だけは明治31年建立だが、4基は明治40年から44年までの建立。

番号は1798番から3700番までの間に散らばっている。

明治34年建立が38001番で、明治40年11月のが2811番だから、連番は1番から順番に付けられたわけでもなさそうだ。

それは何故だろうか。

そうした疑問に「真盛寺」では、「八万四千体地蔵については、何も分かっていません」との返事。

疑問は増すばかりである。

これまでの「八万四千体地蔵」は、寺の境内に立っていた。

庚申塔や馬頭観音、夜待塔などと同じ扱いである。

ところが、中野区の「明治寺」では、墓地に2基の「八万四千体地蔵」がある。

            明治寺(中野区沼袋2)

丸彫りの地蔵坐像の両脇に「八万四千体地蔵」が立っている。

墓地にはあるが、「○○家の墓」と刻されてはいない。

写真は、ない。

「墓参者以外お断り」の墓地だからである。

 

ここまでお付き合いいただいた方は、みんな思うだろう。

「浄名院」へ行って、訊けばいいのに、と。

その通りだが、実は「浄名院」に住職は住んでいない。

出てくるのは、十代の少年と思しき若い人で、寺の歴史についての知識は全く知らないようなのだ。

住職は関西に在住で、所要のあるときだけ上京してくるという。

今年になって、「浄名院」の雰囲気は変わってきた。

墓地を覆っていた大木はことごとく伐採され、視野が広がって明るくなった。

                   浄名院境内と売り出し中の墓苑

「八万四千体地蔵」の配列のレイアウトも変えているようだ。

新しく生み出されたスペースは、新規墓苑として売り出し中である。

重機が石仏を釣り上げて、移動している。

たまたま「第二千八百番」台の地蔵の前に立っていたので、

「真盛寺」の「第二千八百七十番」があるのか、ないのか調べてみた。

通し番号であるならば、ここにはなくて当たり前なのである。

結論から言うと確認できなかった。

番号順に並んでいないからである。

「第二千八百七十三番」を見つけたので左右を確認する。

しかし、左は「第四千四番」、右は「第千二百六十三番」。

めちゃくちゃな並び方なのだ。

「浄名院」からの帰途、谷中墓地から西日暮里駅へ向かう。

途中、天台宗「安立院」に立ち寄る。

       安立院(台東区谷中7)   地蔵群の中に2基の「八万四千体地蔵」

山門をくぐると境内左手に10基の地蔵石仏。

大半は石仏墓標だが、2基「八万四千体地蔵」がおわす。

庫裏に声をかけたら、年配のご婦人が現れた。

七十代後半か八十代前半とお見受けした。

そのご婦人の話によれば、「八万四千体地蔵はもっと沢山あったが、石が柔らかくて、像容が崩れてきたので、2基を残して、数年前、土中に埋めた」とのこと。

「先々代の住職から聞いた話では」と「八万四千体地蔵」が「安立院」に群立していた訳を話してくれた。

同じ天台宗ということで、明治時代、双方の住職は懇意にしていた。

「浄妙院」の妙運住職の「八万四千体地蔵」建立計画に賛意を表した「安立院」の住職は、信徒に「八万四千体地蔵」の寄進を勧めた。

一方、「浄名院」の妙運和尚は、「八万四千体地蔵」が全国に展開することを願い、寄進者の希望があれば、通し番号を提供し、その地蔵は寄進者の菩提寺に設置してもいいことにしたのだという。

「安立院」に「八万四千体地蔵」が沢山あった、これがその理由であった。(この稿続く)

 

ここまで書いて投稿したのが、7月1日。

それからわずか2週間、2か所で八万四千体地蔵に出会った。

まず、7月6日、武蔵野市吉祥寺。

「光専寺」の墓地への道で1体発見。

   光専寺(武蔵野市吉祥寺本町2)     八万四千骵之内第八千百番

過去に一度来たことがあるのに、見た記憶がない。

保存ファイルをチェックしたら、ちゃんと撮影してある。

撮影はしたが、八万四千体地蔵だということに気付かなかったらしい。

昭和8年建立と彫ってある。

明治時代ではなく、昭和のことだから、もしかしたら建立理由が分かるかもしれないと思い、聞いてみた。

残念ながら、分からなかった。

寺の近くに住むご婦人が熱心な地蔵信仰者で、生前は毎日のようにお参りに来ていたという。

ご主人の病気平癒を祈願して建立したはずだが、「浄妙院」との関係は寺でも不明だとのこと。

そのご婦人も亡くなり、後継ぎも不在だから、建立の事情を調べようにも調べようがないという結論になった。

その4日後、春日部市の石仏めぐりをしていたら、「成就院大日寺」で出くわした。

無縁仏コーナーの最後列中央に一段と高くそびえるのが「八万四千体地蔵」だった。

「第四千七百七十七番」。

                 成就院大日寺の無縁仏群と八万四千体地蔵   

「八万四千体地蔵」を探しているわけではないが、関心を持っていれば、こうして短期間に2体もの地蔵に会えることが分かった。

関心を持っているかどうか、が決め手になるようだ。

できれば住職に話を聞きたかったが、法事の最中で多忙のようなので、後刻電話をした。

「分かりません」との返事だった。

昭和のことすら遠い昔のことになりつつある。

ましてや、明治時代のことは雲をつかむような感じになってしまっている。

 

そうこうしている最中、一冊の本に出会った。

『東京古寺地蔵めぐり』見吉朋十著(有峰書店、昭和63年)。

明治15年生まれの著者が数十年にわたり3800体の地蔵めぐりをしたその成果をまとめた好著である。

その「浄名院」の項に次のような記載がある。

「上野山内、桜木町に南面して八万四千体地蔵尊の総本山としての天台宗の浄名院がある。この寺の境内に、地蔵比丘妙運和尚が、明治の中ごろからの悲願による数千基の石地蔵を安置する。寺には、台本が備えてあって、日本全国津々浦々の寺にある他の地蔵も、妙運と光輪二導師の開眼により地蔵尊番号がもれなく記載してある」。

 日本全国どこの寺でも八万四千体地蔵があれば、その番号は「浄名院」の台本に記載されているというのだ。

「浄名院」の「八万四千体地蔵」が、何故、よその寺にあるのか、その理由を知りたくて、いろいろ聞いて回ってきたが、何のことはない、「浄名院」の和尚も承知の上で、全国展開していたというわけである。

急にガックリと疲れを覚えた。

アホみたいではないか、オレは。

それでも思い直した。

そして、あることに気付く。

「そうだ、浄名院でその台本を確かめればいいのだ」。

電話をしたら、お盆で住職がたまたま上京中とのこと。

お会いすることになった。

お目にかかった住職は、まだ若々しい30代の方だった。

いつもは副住職をしている京都・伏見区のお寺にいて、用事のある時だけ上京するのだという。

       盆供 万燈供養中の浄名院

「八万四千体地蔵」を計画した妙運和尚も滋賀県出身で、歴代、近江、京都の坊さんが「浄名院」の住職を務めてきているとのこと。

持参した11か寺の「八万四千体地蔵」の写真を興味深げに見て、「京都の私の生家である寺にも1体ありますが、他の寺にもあることは、初めて知りました。感激ですね」とおっしゃる。

問題の台本については、『東京古寺地蔵めぐり』を読んで台本があることを知り、探したが見当たらない。ただ、一か所、かなり重要な場所が手つかずになっているので、希望は持っているのです、という。

台本が見つかったら、連絡をしていただくことにしてお別れする。(この稿続く)