石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

126 成田街道の石造物(17)ー酒々井町ー

2017-01-26 06:55:30 | 街道

「セーブオン佐倉本町店」は、コンビニ。

コンビニの角で分岐する道を右へ進み、コンビニの背後を回って再び成田街道(296号)と合流する。

合流地点は、もう酒々井町内で、合流すると今度は分かれ道の左が旧成田街道になる。(296号線は右へ進み、まもなく51号線と交差する)

        左、旧成田街道    右、国道296号線、

分岐して約1キロ、再び296号線と合流するのだが、その1つ手前の信号を左折、本佐倉城址へと進む。

右手に、地蔵と庚申塔の石仏群がある。

隣には、双体道祖神が肩を寄せ合っている。

下は、この根古谷石仏群から見た本佐倉城址。

中世戦国期、下総を統べた千葉氏の城がここにあった。

やみくもに城山へ入ってゆく。(2014年5月の写真)

手入れされないままの樹木や竹林で城址は惨たる有様。

注連縄を張った一画に、双体道祖神の写真が掲げられ、「現在、この双体道祖神は行方不明です」の注意書き。

ここなら、人目につくことは、まず、100%ないだろう。

石仏泥棒もしたたかです。

再び旧街道に戻り、R296と合流、すぐさま、分かれて左へ進む。

左からの旧街道は、R296に合流して左折、次の信号(ブルーの道路標識の右下に信号が小さく見える)を左折する。

旧成田街道と国道296号との、離れてはくっついて、の繰り返しはここで終わり。

296号の代わりに国道51号が、ここから並行して走り、合流しを繰り返します。

程なく右手に八坂神社が見えてくる。

狛犬が見えない。

狛犬がいない神社は珍しいのではないだろうか。

八坂神社のあたりは、かつての酒々井宿の中心地。

『成田参詣記』の「酒々井駅の図」の中央は八坂神社、その隣は中屋という旅籠屋で、なかなかの賑わいを見せているが、今はその面影は、どこにもない。

     八坂神社前から見た東方向の風景

八坂神社の脇道を入ってゆくと東光寺に出る。

いかにも寛文期の石仏らしい、大らかな大日如来と彫のいい青面金剛庚申塔がおわす。

   大日如来(寛文13年・1673)

   庚申塔(正徳元年・1711)

いずれも酒々井町の指定文化財です。

八坂神社に戻り、旧街道を東進する。

酒々井宿の痕跡はないと書いたが、1か所、生き残っている。

町の登録有形文化財である島田家住宅。

島田家は、江戸時代、幕府の野馬御用を務めた家で、広い敷地には、野馬を管理する施設がいくつもあったことが、明治27年の絵図に描かれています。

日本の地名の中でも「酒々井(しすい)」は、格別に素敵で、私は好きだ。

何か酒にゆかりがあるのでは、と誰もが思うに違いない。

まさにその通りで、地名の由来となった「酒の井」がある。

旧街道から50メートルの空き地に「伝説酒の井」の看板がある。

井戸があり、水が湧き出している。

井戸の傍らには、青いボタンがあって、「酒の井の音声案内をします」の表示。

「しゃれたことをするんだな」と思いながら、ボタンを押す。

女性の声で、ナレーションが流れる。

今は昔、この地に孝行息子が住んでいた。家は貧しく父母は年老いていたが息子は良く両親に尽くしていた。その父親は酒好きであったので、息子は毎日働いて銭を稼いでは父親に酒を買って帰っていた。息子は父親の満足そうでうれしそうな顔を見るのが一番の楽しみだった。だが酒を買う銭を稼ぐのは苦労なことだった。

この地には古い井戸があった。その日、息子は酒を買う銭がつくれず、このまま帰れば父親の楽しみを無くしてしまう、こんな親不孝はない、どうしようかと思案しながら家路を歩いていた。そのとき、あの井戸から酒の香りが「ぷうん」としてきた。息子は不思議に思いながら井戸の水を汲んでなめてみると、それは上質の酒だった。息子は喜び、急ぎ家に帰って父親に飲ませた。これより先、息子は無理に銭をつくらなくても、井戸から酒を汲んで飲ませるようになったという。この話しが近隣に広まると「孝行息子の真心が天に通じたに違いない」ということになった。後にこの井戸を「酒の井」と呼び、村も「酒々井」と呼ぶようになったという。

酒の井隣に墓域がある。

近寄ってみたら、墓標のほかに十七夜塔が1基、十九夜塔が4基あった。 

   十七夜塔(文政8年・1825)

         十九夜塔群

 

 

「酒の井」を後に、麻賀多神社を過ぎ、坂を下って、信号の下で迷っている。

どうやら、左に京成酒々井駅、右にJR酒々井駅、その中間地点にいるようだ。

手には、酒々井町HP「酒々井町の街道と道しるべ」のプリントアウトを持って、そこに記載された地図を見せながら、道行く人に「成田・岩名道蜀山人道標」のありかを訊くのだが、「わからない」、「知らない」という人ばかり。

不動産屋に飛び込んで、やっとわかったのだが、女子店員は、そこが旧成田街道であることは知らないようだった。

ちなみに、道を尋ねるときに見せた地図は、これ。

通りがかりの人たちに訊いたのは、地図の下部、三差路の地点。

今、改めて見ると地元の人間ならすぐ判りそうなのに。

不動産屋で教えられた道を行く。

行き止まりの三叉路に二本の石柱が立っている。

左の背の低い石柱には「ニ王ミち」とある。

これが、持参資料の「成田・岩名道蜀山人道標」。

銘は、蜀山人こと太田南畝の筆になるもの。

なぜ「ニ王ミち」かは、右隣の道標で判る。

背面に「此方内郷道」と刻されているが、内郷道は岩名道とも呼ばれ、佐倉市の岩名仁王尊への参詣路だったと 酒々井教委は解説しています。

       岩名仁王尊(佐倉市岩名)

道標の前には小堂があって、地蔵石仏が並んでいる。

人通りの多い街道にわざわざ建てられたものに違いない。

 

次回更新日は、1月31日です。

 

 


126 成田街道の石造物ー16ー(佐倉市佐倉)

2017-01-21 07:17:17 | 街道

「博物館入口」の信号を過ぎると、左に「巴屋菓子舗」。

その角を右折し、すぐ左折する。

ここが成田街道の再スタート地点となる。

いまどき珍しい茅葺の家がある。

江戸、明治の頃の、この界隈をイメージするよすがとして役立ちそう。

ここ田町は、旅人相手の店と城内の生活物資を担う商家が多かった。

どことなく往時の面影を残すこの道の印象を決定づけているのは、北方向の急坂。

「海隣寺坂」をやっとこさ上がる。

昔は、荷車の後押しを業とする者たちがいたのだそうな。

「さもありなむ」と一人頷く。

坂を上がると右に、町名と坂名の元となった「海隣寺」山門が見える。

境内に、寒念仏搭がぽつんとある。

市役所の一画にある墓地には、いかにも古そうな中世の宝篋印塔などの石造物が並んでいる。

本佐倉城の城主・千葉一族の墓。

台石に掘られた「阿弥」とか「阿」は、時宗の法名で、、例えば千葉昌胤の法名は、「法阿弥」です。(『成田街道いま昔』より)

市の文化財に指定されているこれらの石造物はきちんと補修されているが、その他の墓石は3.11地震で倒れたまま放置されている。

痛ましい。

もはや半分土中に埋もれかけた墓石もあって、「土に還る」とはこのことか、と、しばし,凝視する。

 新町方向に歩いていると左に朱色の旧式郵便ポストがある。

どうやら無人の廃屋らしい建物も、往時の面影を色濃く残して、絵になる光景を成している。

新町の三叉路を、成田街道は左折するのだが、直進して次の信号を右折、佐倉城址へ進む。

城への道が直線的ではなく、右左折を重ねるのは、城下町のパターン。

麻賀多(まかた)神社は、佐倉の総鎮守。

歴代藩主の篤い信仰に支えられてきた。

珍しい名前で、この地域にだけ18社しかないので、「十八麻賀多」というらしい。

境内には、恵比寿と福禄寿がいるが、これは、佐倉七福神の内の二神。

恵比寿さんの標柱には「なで恵比寿」とあり、「末社 疱瘡神社」とも表示してある。

恵比寿さんが疱瘡神と関わりがあるのだろうか。

その麻賀多神社から城へと進むとまず目に入るのが、大手門跡の石柱。

大手門の内側に武家屋敷が広がっていた。

佐倉城址が一見、城跡とは見えないのは、石垣がないから。

石垣の他の石造物もほとんど見られない。

わずかに、二の丸跡の正岡子規の句碑が、石造物といえようか。

「常盤木や 冬されまさる 城のあと」

明治27年(1894)、千葉県内初の鉄道として、総武鉄道市川・佐倉間が開通、新聞『日本』の記者として取材に来た子規が詠んだ一句。

もう一か所の石造物は、城の基礎石群。

歴博を建てる事前調査の段階で、発掘されたもの。

石造物ではないが、堀田正睦公の銅像は外せないだろう。

数多くの佐倉藩主のなかでも英明さは群を抜いていた。

幕末の幕府老中首座として、ハリスと交渉に当たったことは、よく知られている。

大手門跡まで戻り、坂を下りて、武家屋敷を観光。

華美さを排除した、いかにも武家屋敷といわんばかりの、質素な家屋に感心。

新町まで戻ろうと思い、観光協会作成の地図を広げたら、「下総まわたし宿百観音」が目に入ってきた。

「馬渡の旧街道沿いの小道を入り、石造りの階段を登ると、その両側に観音様が一列に並び立っています。全部で百体あるので、百観音と呼ばれています」と紹介されている。

JR佐倉駅の東で、ちょっと遠いが、石造物巡りが主旨のブログとしては、無視できない情報で、行って見ることに。

馬渡(まわたし)は、千葉と佐倉を結ぶ久千葉街道で、最も賑わった宿場。

閑散として、人通りのない道の傍らにこんもりとした林に覆われた山地があり、細い石段の小道が上へと延びている。

頭上に「下総まわたし宿百観音」の横書き看板。

入口右側に2基の庚申塔がある。

この辺りの庚申塔は、もはや作神であり、繁栄神だったから、宿場の弥栄を祈願して置かれたのだろう。

石段の両側に石仏が並んでいる。

右側には坂東三十三観音が、

そして、左側には、秩父三十四観音が並んでいる。

石段を上り切って右へ曲がると、両側に並ぶのが、西国三十三観音本尊群。

併せて百観音巡りは、当時、庶民が生涯成し遂げたい夢だった。

現実的には不可能な願望を、形だけでも達成したいとして設けられたのが、このミニ霊場巡り。

四国八十八か所や西国三十三観音霊場、秩父三十四か所札所巡りのミニチュアは、全国どこにでもあるが、百観音霊場となるとかなり珍しい。

しかし、信仰心からミニ霊場を訪れる人は、もはや、絶無。

私のような石仏愛好家が時おり来るだけのようで、石段には、杉の落ち葉が積み重なって、人が通った跡がない。

市内へ戻ろうと歩き始めたら、すぐそばに神社があるのに気付いて、立ち寄ってみる。

鳥居と石段の間の両側に石塔が並んでいる。

左側には、「秩父三十四番と善光寺参拝記念塔」が、

右側には「出羽三山参拝記念塔」が列を成している。

その左右の違いは、百観音の並び方そっくりで、どっちかが真似たのではないか。

付け加えれば、左側の記念塔には、女性の名が、右側には、男性の名が刻まれている。

二十三夜で男たちが集まれば、十九夜には、女が集う。

男が出羽三山へ行くのなら、女は、秩父から善光寺へと足を延ばす。

男女格差は、想像以上に少なかったのです。

 

再び、市内に戻って、新町通りへ。

 地図上、お城は左方向にあるのだが、新町通りを右(成田方向)から来て、左折して右折する、ジグザクになっているのは、城下町の特色。

通りに面して、220年前の呉服屋の建物があったりして、時代の古さが漂っている。

おはやし館の前庭には、高札場が復元されていて、高札がかかっている。

「人たるもの 五倫の道を正しくすべき事」。

おはやし館からすぐ先を左に入ると佐倉城主堀田家の菩提寺・甚大寺がある。

ちょっと奥まった墓所に堀田家累代の墓がゆったりと並んでいる。

全景が撮れないほど、一人ずつの墓が大きい。

城址があって、歴代藩主の墓がある。

歴史のある町はいいな、とつくづく思う。

ただ佐倉は、坂が多いのが、私にとってはマイナスだが・・・

成田街道へ戻り、東進。

本町交差点手前に、佐倉順天堂記念館がある。

佐倉の観光名所ではあるが、石造物は皆無なので、パス。

本町を左折して、神明社に寄り道する。

神社のある町名は「大蛇(おおじゃ)町」。

「だいじゃ」ではないから救われるが、それにしてもおどろおどろしい。

鳥居の前に石造物群。

大日如来の立像がひときわ目を引く。

祠がある。

のぞいてみたら「蛭子大明神」だった。

「えびす」ではなく「ひるこ」と読むのだそうだ。

街道に戻る。

「昌栢寺」を過ぎるとすぐ右にコンビニが現れる。

コンビニを挟んで道は二股に分かれ、その分岐点に地蔵が2体忘れられたように身を寄せ合っている。

背の高い方は、延享5年(1748)の造立。

墓標ではないから、道中安全祈願か。

旧道は、右の坂を下りて行ったようだ。

下ったと思ったらすぐ上りはじめ、合流する。

もうそこが酒々井町。

酒々井町に入るとすぐ道は分岐して、成田街道は左へ。

次回更新日は、1月26日です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー15ー(佐倉市・臼井地区-2)

2017-01-16 08:00:34 | 街道

臼井城址公園から坂を下れば、中宿へ出るが、他に寄りたいところもあるので、手繰坂下まで、一挙に戻ることに。

 

地図中央の山本店装の上方に三叉路がある。

下から突き当たっているのが、旧街道。

右へ曲がれば中宿へ行くのを左折して、実蔵院ー星神社ー臼井城址へと進んだ。

今度は、まず三叉路まで戻り、さらに下へ。

地図を上にずらすと金子塗装が見えてくるが、その右が旧街道でホワイトハイムまでが,手繰坂。

今回は、手繰坂から分岐して右へ入り、妙覚寺を目指す。

現地へ行かない人に地図と言葉で行き先を提示してもさっぱり伝わらないことは、みずからの経験でよく理解している。

無意味だとは思いながらも、つい。

子供たちの嬌声が聞こえてくると思ったら、幼稚園の運動会だった。

その幼稚園を経営しているのが、目的の妙覚寺。

◇日蓮宗長谷山妙覚寺(白井台1201)

妙覚寺の創建は、長享2年(1488)、開山・日泰上人は士気東金の領主を教化してすべての寺院を日蓮宗に改宗せしめた、いわゆる「上総七里法華」の仕掛け人として有名。

妙覚寺には、名力士雷電為右衛門の墓がある。

雷電の勝率は、なんと96.2%。

現役34場所中25回優勝という怪物だった。

墓があるのは、夫人の出身地が臼井だったから。

高さ2.77mの仙台石に、春川春英が描く等身大の化粧まわし姿が刻され、佐久間象山の筆になる「天下第一流 力士雷電之碑」が配されている。

裏面には、「雷電為右衛門はここ臼井のひとを娶りたるえにしにより、この地を愛し、此処に眠る。没後153年の命日に因みて、その偉容を等身大に刻み、もって顕彰の碑となす」とある。

坂道をだらだら上ってゆくと大名宿の道にぶつかる。

右折して、台地の先端に寺がある。

◇日蓮宗暁慶山妙伝寺(臼井台31)

朱色の鐘楼門が目を惹く。

石碑が2基並んでいる。

左は「妙正大明神」。

市川市の妙正寺に発する日蓮宗系の疱瘡神とされている。

右は、享和2年(1802)造立の「天神社」だが、側面と裏面に10人の名前が刻されているのが、変わっている。

境内から、印旛沼が一望できる。

左前方の出っ張りが、臼井城址のある舌状台地。

傾斜のきつい坂道を降りて、左折、住宅地の中に寺がある。

◇真言宗豊山派・稲荷山常楽寺(臼井田877)

山門を入ると、剣を浮き彫りにした石塔がある。

見なれない石造物なので、佐倉市の文化財担当者に問い合わせたら、「謂れは不明だが、本尊の不動明王と関係あるのではないか」との返答だった。

境内の一画に石塔群があり、十九夜塔や秩父供養塔などに混じって「武州野島地蔵尊」なる線彫地蔵がある。

ネット検索して調べたら、浄山寺(越谷市)の子育て地蔵として有名な「野島の地蔵」さんであると分かった。

平安時代前期作とみられる木像地蔵尊は、今年(2016年)、国の重要文化財に指定されたばかり。

246号に出て、左へ行けば、中宿だが、反対の右方向へ向かい宗徳寺へ。

◇曹洞宗長谷山宗徳寺(臼井台1177)

成田街道に面している。

本尊は、般若船観世音菩薩。

聞きなれない観音さまで、『日本石仏図典』にも載っていない。

「八臼烏供養塔」があり、黒御影の石碑には、次のような説明がある。

當山は、天明三年(1783)三月十五日祝融(火災)にあい諸堂すべて焼失しました。その時、鳴いて急を告げたのが、八臼烏であります。この供養塔を建立し、山門の火盗消除、安寧を祈念いたします。
                        平成十七年三月吉日
                              三十二世 雲外岩雄 合掌

「八臼烏」とは、あの「烏八臼」のことだろうか。

それにしても、「急を告げる烏」とは初耳。

住職に電話で訊いてみた。

住職が理解する「八臼烏」は、日本神話に登場する「八咫の烏」のようで、墓標の上のマークである「ウハッキュウ(烏八臼)ではなさそう。(*「烏八臼」については、このブログNO12「謎の烏八臼(ウハッキュウ)」をご覧ください。)

曹洞宗寺院なので、もしかしたらと墓地を探すも「烏八臼」はない。

同じ字の組み合わせでも概念が違うようで、ちょっとキツネにつままれたような気分。

宗徳寺を出て、街道を左へ。

突き当たった三叉路が、臼井宿の中心地中宿。

往時の賑わいの片鱗も今はない。

 『成田名所図会』(安政5年・1858)の臼井宿

高札場のあった場所に、わずかに、道路元標と「明治天皇臼井行在所」と刻する石柱があるのみ。

中宿を右折して行くと、あのMrジャイアンツの生家があるが、個人情報だとかなんだとか、うるさいご時世なので、見て見ぬふり。

京成線の踏切を超えると、また、三叉路が。

そこに2基の道標と六十六部廻国塔がある。

背の高い道標は「西 江戸道」とあり、文化3年(1806)、品川の商家によって建てられた、と説明板には書いてある。

背の低い方は、「さくら道」。

成田道になる前は佐倉道と呼ばれていたので、背の高い道標よりは、古いと見られている。

「大乗妙典六十六部日本廻国搭」は、志し半ばで、この地で亡くなった六十六部の供養塔だろうか。

 やがて左に京成線が並行して走り、「成田街道」の標識がある。

道路前方に茂みに覆われた台地が現れる。

薄暗い坂道が、八丁坂。

左に題目塔があって、背後に空地が広がっている。

ここは、佐倉藩の刑場跡地で、題目塔は、処刑者の供養塔。

佐倉藩は蘭医の活躍が目覚ましかったが、彼らの解剖は、刑死者の遺体で行われた。

296号線をひたすら歩く。

歩道が狭くて、歩きにくい。

台地を下ると前方に見えてくるのが、佐倉城址。

鹿島川にかかる鹿島橋の袂に小屋があって、中にお地蔵さんがおわす。

鹿島地蔵は、宝暦5年(1755)に建立された。

鹿島川は、しばしば氾濫して、橋が流失することも珍しくなかった。

寛延2年(1749)の洪水では、2週間も水が引かず、通行禁止が続いた。

お地蔵さんは、洪水時の不慮の溺死者を悼む供養塔だと言われている。

 

橋を渡れば、もう佐倉。

ここまでは、佐倉街道でもあり、成田街道でもあった道は、ここから、純粋の成田街道ということになります。

 

 

次回更新日は、1月21日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

  〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー14ー(佐倉市・臼井地区-1)

2017-01-11 08:40:02 | 街道

臼井台という町名で判るように、臼井宿は台地の上にある。

私は電動自転車で台地へ上ろうとしたが、途中で断念、押して上がった。

なぜ、そんな台地に宿場はあるかというと、台地の突端は天然の要塞で、城を構えるには最適地だったから。

        臼井城から印旛沼を望む

城が台地にあれば、城下町も必然的に台地に展開する、というわけ。

坂を上がり切った地点の右側に、植木に隠れて、庚申塔がある。

◇手繰坂上の庚申塔(佐倉市臼井台長谷津1141)

道路にではなく、人目を避けるようにあるのはなぜか、不思議に思ったが、元はここには地蔵堂があったんだそうだ。

手繰坂を上りそのまま進む。

両側は民家だが、農家ではなさそうだ。

大体、広い農地が台地にはない。

農家ではないとすると、何を生業としているのだろうか。

かつては、武家だったことは、間違いなさそうだが。

道が突き当たる丁字路に道標がある。

◇大名宿丁字路の道標(臼井台150付近)

正面に「右成田ミチ」、右側面は「左江戸みち」、左側面「西さくば道」、裏面に「文化三丙寅(1806)正月二十八日 新吉原仲之町 伊勢屋半重涼宿大田屋」と刻されている。

元は「さくら道」だったものが、成田詣が盛んになるとともに「成田道」へと呼ばれるようになる。

その変化は、丁度、この道標が建てられた文化、文政の頃だったと言われています。

成田道は、ここを右へ曲がるのだが、私は、反対の左方向へ歩を進める。

坂を下らず、右方向へ。

寺の山門への分岐点に道祖神が、しっかとおわす。

◇真言宗豊山派・大澤山実蔵院建徳寺(臼井台217)

山門前の参道の右側に石仏が10基ならんでいる。

ほとんどが如意輪観音。

十九夜塔ではなくて、墓標のようだが、はっきりしない。

船橋市と八千代市には、市内の石造物の悉皆調査報告書があるので、随分お世話になった。

しかし、佐倉市には、そうした刊行物は、いまのところ、ない。

分からないものは、分からないまま進まざるをえない。

明らかに十九夜塔と思われるものが、1基、参道左にいらっしゃる。

明治36年(1903)、当寺の山口住職は、農家の指定に中等教育を授けるべく、私立明倫中学校を、寺内に創立した。

         「明倫中学跡」碑

「明倫中学校歌」碑がある。

一番の歌詞だけ、転写しておく。

平田萬里北総の 印旛湖畔の健男児
胸に久遠の理想を秘して 俯仰天地に側ちつ
春はうそぶく花の下 夏はオールの音楽し
秋の教義は熱血躍り 冬は琢磨の窓に生く
時は流れて人去れど 純美崇高極みなき
不滅の抱負は永劫無窮 行く手は遠く廣くとも
かくてぞ我等は奮闘努力 かくてぞ織りなす心の錦

実蔵寺を左に樹々に覆われてうす暗い坂を下りると集落がある。

道の三叉路に子安観音がおわす。

◇路傍の子安観音道標(臼井台342)

子安観音像の台石正面右に「安政四丁巳(1857)八月吉日」、正面中央にに「右ハさくら、左くすのき」とあり、左右の側面には施主名9人の名前が彫ってある。

子安観音が道標を兼ねる例は、極めて珍しいように思う。

畑にほうき草が、陽の光を浴びて、朱色に輝いている。

この低地からまた緩い坂を上ると鳥居がある。

◇星神社(臼井田1080)

星神社の前身は、妙見社。

千葉家の臼井六郎常康が永久年間(1113ー1118)に臼井城に居を構えた時、守護神として建てたのが、臼井妙見社。

妙見は、北極星を神格化したもので、千葉氏一族の神。

千葉市中央区の千葉神社の祭神も、当然、妙見です。

ここの臼井妙見社は、明治の神仏分離令で、星神社と改名された。

小堂があって、子安さまが祀られている。

野ざらしではないのは、珍しくはないが、数はごく少ない。

出羽三山供養塔と秩父善光寺巡礼搭が混在している。

女人禁制の出羽三山には男性だけの集団が、一方、秩父札所巡りは女性の集団が組まれるのが通例でした。

それなのに、ここの出羽三山供養塔には、女性の名前も書かれている。

昭和49年(1974)と昭和51年(1976)の2搭がそうであることから、この頃から、壮年から老年になる男性の通過儀礼としての三山参りが変質してきたことになる。

それでも現地、出羽三山の女人禁制は厳格に守られているようで、宿坊に泊まっても山への参拝は女性はしないのだそうです。

星神社から臼井城址へ向かう。

途中、星神社からの道が突き当たる丁字路の左に石段があり、墓がある。

◇太田図書の墓(臼井田城内)

太田図書の墓と刻書されている。

太田図書が何者であるか、即答できれば日本史通だろう。

もちろん、私は知らなかった。

太田道灌の弟で、文明11年(1479)、兄とともに臼井城攻略に参戦、討ち死にした。

こんな供養塔を建てるだけの人物なのか、私にはわからない。

恥をさらせば、私は「としょ」で変換していたが、「ずしょ」と読むのだそうです。

 丁字路を右折、臼井城址へ。

◇臼井城址(城址公園)

城址は、今、公園になって、何もない原っぱが広がっている。

石造物は、皆無。

記念碑も顕彰碑も句碑も石段も、石造物は何もない。

気持ちいいくらい、ない。

奥に行くと切り立った丘の上に出る。

白井台地の東のはずれで、西から東へ突き出たこうした舌状台地は、城建造の最適地だった。

眼下の眺望がいいことは、敵勢把握に利した。

と、いうことは、印旛沼の眺望にも適しているということ。

「臼井八景」の一つに「城峯夕照」がある。

 「名勝臼井八景」http://www.catv296.ne.jp/~hachiman/usuihakkei.htmより借用

「いく夕べ 入日を峯に送るらん 昔の遠くなれる古跡」と詠んだのは、臼井城主の子孫、臼井秀胤。

城址公園を後に中宿に向かうと間もなく、左に「古峰神社」と「道祖神社」がある。

  左,古峰神社          右、道祖神社

道祖神は数多いが、こうして社を構えた道祖神社は多くない気がする。

道路を挟んで反対側、竹林の中に石段が伸びて、その両側に石造物が立っている。

◇臼井城櫓台跡の石造物群(臼井市869付近)

出羽三山供養塔が一番多い。

富士講中が造立した碑が、2基。

1基は、「富士仙元宮 三国第一 文久壬戌(1862)九月吉日」とあり、

もう1基には「富士浅間大神」とある。

十三夜塔がある。

珍しい。

3.11東北大地震で倒壊し、そのまま手つかずに放置されて、土に埋もれ、土に還りつつある石塔が多い。

こういう光景ばかり見てきて、寂しさはぬぐえない。

文化財は保存すべきであることは論を待たない。

保存には経費がかかる。

それが公金ならば、優先順位は不可欠で、地震で倒れた石造物の保存、復元が重要視されなくても仕方ない。

頭ではわかっていても、倒れた石塔が寂しい光景であることに変わりはない。

 

 

次回更新日は、1月16日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 

 ▽「成田街道道中記」

 

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 


126 成田街道の石造物ー13ー(佐倉市・井野ー手繰橋)

2017-01-06 05:31:45 | 街道

勝田台入口から佐倉市に入る。

八千代市内の勝田台駅まで、鋭くえぐりとったように佐倉市が入り込んでいる。

とても不自然で、なにか曰くがありそうだ。

◇道標3基と常夜燈(佐倉市井野1636)

店の真ん前に、石造物が囲いに囲われて立っている。

道標が3基、その後ろの常夜灯以外は、みんな他所から移したもの。

佐倉市教委の説明板があるので、転写しておく。

これらの石塔群は、成田山新勝寺に参拝する旅人のために建てられたもので、向かって右側の道標は

、歌舞伎の名優である七代目市川団十郎が、天保2年(1831)に建立し、ここから北150mに所在する加賀清水を「天はちち 地はかかさまの 清水かな」と詠んだ句と成田山への信心が記されています。
中央の道標は、明治27年に信集講社の岩田長兵衛が建てたもので、成田街道沿いに5基確認されています。


左側の道標は、江戸の豪商・古帳庵夫妻が天保11年(1840)に大和田原(現八千代市)の情景を詠んだ自作の句を刻んで建てられました。

三基の道標は、当初は現在の場所から西側の道路角にあったものを移転しました。
中央奥の常夜燈は、文政10年(1827)に加賀清水の水を汲み、茶をふるまって繁盛した林屋の前に建てられ、今も同じ場所にあります。

林屋は『三峰山道中記図会』(明治4年)に描かれ、「御贔屓の恵みも厚きはやしやと人にたてられ石の燈籠」と詠まれており、当時の賑わいがうかがわれます。
                   平成25年11月  佐倉市教育委員会

その『三峰山道中記絵図』が、これ。

かなりの賑わいを見せている。

店の左軒下に、今に残る燈籠が見える。

「ここから150mの」加賀清水へ行く。

現在でも清水は湧き出ているという。

この清水を「加賀の清水」と称するのは、佐倉城主大久保忠朝が、江戸参勤の往復に必ず愛飲したから。

忠朝は、加賀の守なので、加賀殿の清水⇒加賀の清水となったというわけ。

加賀の清水の隣は、稲荷神社。

鳥居をくぐった左に、コンクリートを台座にして6基の子安観音と秩父善光寺坂東巡礼供養塔が3基、柵に囲われて立っている。

ここでは、秩父善光寺坂東巡礼供養塔を取り上げる。

出羽三山参拝が男たちのオーシューメーリ(奥州参り)ならば、秩父善光寺坂東巡礼は、女たちのチチブメーリ(秩父参り)。

ほぼ10年おきに行われるが、最近は、秩父札所全部をバスで回るので、日程に余裕が生まれ、善光寺から佐渡へ足を延ばすようになった。

善光寺では、経帷子などを購入し、本人の葬儀の際、副葬品として納棺するのが、習いとなっている。

チチブメーリから帰ると費用を出し合って、供養塔を建てる。

餅をまいて建立を祝い、供養塔の前で念仏を唱えるのが、儀式の流れ。

この3基は、中央が、昭和17年、右が昭和30年、左が昭和39年造立。

ほぼ10年おきに行われていることが判る。

 

ここから次の宿場、臼井までは約1里。

これと云って見るものは、何もない。

ユーカリが丘駅があり、電車の軌道が街道を跨いでいるが、この駅は、始発駅でもあり、終着駅でもあるという珍しい駅。

ここから街道は、緩やかな上りになって、上り切った所が「上座」。

畑地のような、住宅地のような、そんな場所。

鳥居だけがあって、「皇産霊神社」の扁額がある。

社はなくて、出羽三山供養塔が2列に10基ほど整列している。

「皇産霊神社」は「みむすび神社」と呼ぶのだそうで、この地方ではよく見かける神社らしい。

坂を下りる。

カーブをして前方が開けた地点の左側に、石仏群が点在している。

寺社かお堂の跡地らしい。

一角に15基固まってあるのは、馬頭観音ばかり。

日本に名だたる馬の産地を通り抜けてきたにしては、馬頭観音が少なかった。

15基もあるのは、初めて。

像塔が1基もなく、文字塔ばかりなのが、ちょっと寂しい。

大半は、大正年間造立のもののようだ。

川があり、橋を渡る。

橋を渡った先を左に入る。

そこが臼井宿への旧街道入口。

何も標識がないからそのまま国道を行って、大失敗をした。要注意!

すぐに急坂にぶつかる。

さっきの国道を進めば、坂はない。

旧道は、坂を上って、下る。

坂道の苦手な私は、好きになれない場所だ。

次回更新日は、1月11日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 

 ▽「成田街道道中記」

 

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


126 成田街道の石造物ー12ー(八千代市)

2017-01-01 07:40:31 | 街道

  新年おめでとうございます。

 

八千代市に入って二つ目の信号が「新木戸交差点」。

ここに「血流地蔵」という何か物騒な名前の道標があると持参資料にはあるので、探すも見つからず。

後日、日を改めて訪れたが、またしても、見つけられなかった。

帰宅してパソコンを開くと、成田街道道中記のサイトのいくつかには、ちゃんと写真が載っている。

自分の不甲斐なさにがっくりと肩を下ろす。

◇道標(八千代市大和田新田・新木戸交差点)

実は、ここでは別な道標は、偶然見つけることが出来た。

下の写真、どこに道標があるか、分かりますか。

「学童横断」の看板後方の黒っぽいものが、それ。

ボーとしてると見逃してしまう、中々見つけにくいものなのです。

道標は、正面に「成田山 是ヨリ七(里)」とあり、真ん中に折れたのを修理した跡がある。

 ここから約1キロ、「餃子の王将」が見えてくる。

◇八幡神社(大和田新田1032)

その前の八幡神社に、7基の子安観音が整列している。

左から右へ、年代順に並び、左端は、天保3年(1832)の造立。

おいぬ、おきぬ、おりん、おかる、おしの、おしほと女人の名前が彫られている。

右端は、平成19年(2007)だから、子安講が現在も活動していることが判る。

子安講は、念仏講の一つで、安産・子授け・子育ての神である子安観音や子安神に祈願する女性の結社。

出産・子育てに関する情報交換と懇親娯楽の場として、特に下総地方に多い。

旧暦の19日や23日の夜、集まって念仏を唱え、雑談して、夜中に上る下弦の月(寝待ちの月)を拝んで解散するので、十九夜講、二十三夜講といい、総称して「月待講」と云った。

十九夜塔の主尊は、如意輪観音で、1680年(元禄期)以前は、銘文に「十九夜念仏、二世安楽」と刻されていたが、それ以後は「念仏二世安楽」の文字は消え、赤子を抱く子安観音に変わってゆく。

 路傍の十九夜搭(八千代市)。享保11年(1726)だが、まだ二世安楽と刻されている。

儀軌にない、赤子を抱く如意輪観音の出現は、切実な女性たちの願望を造形したものだったのです。

八幡神社から歩いて7,8分、成田街道に面して、出羽三山供養塔が林立している。

千葉県は、出羽三山講(奥州講)が多い所だが、中でも八千代市は群を抜いて多い。

市内の出羽三山供養塔は、168基。

船橋市が112基だから、市の規模を考えれば、その多さは際立っている。

奥州参り(オーシューメーリ)について、以下は、市史『八千代市の歴史ー資料編 民俗ー』から抜粋しての転載です。

オーシューメーリの参加者は男性で、家督を息子に譲ったばかりくらいの年代がメイン。最近は、どんどん若くなって30代も珍しくなくなった。オーシューメーリは10年から15年に一度、希望者が10人以上集まると行われる。男たちが出発すると、念仏講の婆さんたちが神社にお篭りをして、旅の安全を祈願する。


出羽三山の他、各地の観光地にも立ち寄るのが普通。一例をあげれば、「新潟―佐渡―鶴岡―羽黒山―月山―湯殿山ー湯野浜―最上川下りー鳴子―松島ー仙台」で7泊8日の旅。全部徒歩での江戸時代は、往復40日を要したと言われる

現地で泊まる宿坊は、集落によって異なり、江戸時代から同じ宿に決まっている。
オーシューメーリから帰ると、参加者は全員、講に加入する。奥州講の特徴は、葬式で発揮される。納棺には、三山参拝時に着用していた白装束を着せ、墓地では同行一同が出羽三山祝詞をあげる。

 鳥居が道路から見えないので、気付きにくいが、ここは神明社の境内。

三山碑の他にも、文字碑の二十六夜塔群と馬頭観音群がある。

中で目立つのは、「日露戦役」の文字の下に馬の首が彫られ、左右に2行「明治丗七年二月十日出征」、「明治丗七年五月従五日出征」とある墓銘碑。

「出征」の二文字が、重い。

農耕では、牛も馬に劣らず役立ってきた。

立派な「牛魂碑」があるのが、嬉しい。

 

東進して、分岐する道を右へ。

◇路傍の石仏(大和田新田368)

路傍左の高台に石仏群がある。

十九夜塔群に子安搭が2基混じっているが、石が崩れて造容が不明のものが多い。

高く石を積み上げて、地面にあった石仏をきちんと保存しようとしたのに、石仏そのものが崩壊するのでは、手の打ちようがない。

市役所入口を過ぎると、右に円光院、左に長明寺が見えてくる。

このあたり、大和田宿の中心だったらしいのだが、それらしい雰囲気はどこにもない。

これは幕末のデータだが、大和田宿の1か月間の泊り客は1400人。

うち900人は成田山参詣客だそうで、今の姿からは信じられない賑わいだったことになる。

大和田宿といえば、長妙寺の「八百屋お七の墓」を見過ごすわけにはいかないだろう。

◇日蓮宗・天受山長妙寺(萱田町640)

大罪人の墓とは思えない立派な宝篋印塔で、「えっ、どうして?」と思ってしまう。

境内には、もう一つの「えっ、どうして?」があって、それは一面に広がる落ちた銀杏。

誰も拾わないようだが、もったいない。

 

長妙寺の道の向こうは円光院だが、パスしてその奥の時平神社へ。

◇時平神社(大和田743)

八千代市には、時平神社が、なんと4社も固まってあるのです。

        萱田町の時平神社

御祭神は、左大臣藤原時平。

あの右大臣菅原道真を諫言をもって陥れ、大宰府へ左遷させた張本人。

道長は左遷先で死ぬが、時平もその直後、死亡する。

当然、道真の祟りと噂された。

道真の祟りを怖れ、神として祀り、鎮めようとしたのが天満宮でした。

では、敵役の嫌われ者時平は、なぜ、祭神として崇められるのか。

それは、「天神様の好敵手だから」と言うのが、『成田街道いま昔』の著者、湯浅吉美さん。

昔の日本人は、神仏も人間と同じように、嫉妬心や競争心を持つと考えました。他の神様がやきもちを焼いて暴れるとか、または負けじ劣らじと験力を発揮して、御利益を下さると考えたのです。あっちが天神さまなら、こっちは時平だ、という発想ですよね」。

八千代市もこの界隈には、天満宮はないのだとか、人間くさい話で面白いので、紹介する。

街道に戻って東進、道標らしきものがある。

正面は、私には読解不能。

右側面は「〇〇十二町 〇當 長福寺」と読めるが、資料によれば、正面は「可やた道 いつな大権現道」、右側面は「是より 十二町 別當 長福寺」なのだそうだ。

仮に読めても、長福寺もいつな大権現も知らないのだから、無意味ではあるが。

道標の上部は、盃状穴だらけ。

成田街道で、これで4つ目。

萱田町の時平神社の石段を過ぎると下り坂になり、景色が広がる。

川が流れていて、橋がある。

川は新川という印旛沼の放水路。

川を跨ぐ白い建造物は、排水機。

今は流水量をコントロールできるが、江戸時代は利根川の増水で、印旛沼の推移も上がり、新川沿岸は、度々、水害に見舞われた。

沼の水を江戸湾に落とし、洪水を防ぐとともに干拓による開田を期待して、江戸期、3回にわたり、幕府主導の掘削工事が行われたが、いずれも不測の事態で頓挫した。

念願がかなったのは、なんと昭和46年。

植物の腐植土が大量にあって、「いか程掘候ても一夜の内に泥土湧出埋(わきだしてうま)り」の状態で、現代技術を以てして、初めて可能たらしめたという難工事だったという。

国道16号の陸橋をくぐり、

風情ある、長屋門を過ぎるとまもなく市境。

八千代市から佐倉市に入る。

 次回更新日は、1月6日です。

≪参考図書とwebサイト≫

 〇湯浅吉美『成田街道いま昔』成田山仏教研究所 平成20年

 〇山本光正『房総の道 成田街道』聚海書林 昭和62年

 〇川田壽『成田参詣記を歩く』崙書房出版 平成13年

 ▽「成田街道道中記」

 http://home.e02.itscom.net/tabi/naritakaidou/naritakaidou.html

 ▽「百街道―歩の成田街道http://hyakkaido.travel.coocan.jp/hyakkaidoippononaritakaidou.html

 ▽「街道歩き旅 佐倉・成田街道」

 http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/narita/narita.html