石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

136 目黒不動の石造物⑤参道(仁王門→男坂)

2018-07-29 06:33:40 | 寺院

仁王門から正面を臨む。

男坂の急な石段の上に本堂の屋根がちらりと見える。

歩き出すと右にながーい水船。

長さ3m37cm、高さ54cm、幅65cm。

中央に「奉 寄進 水船」。

右端に「奉叡山目黒/瀧泉寺」。

左端に「天和二壬戌歳/四月二十八日/亀岡氏政房」の刻銘がある。

境内に3基ある水船の1基。

寄進者名の亀岡氏は、目黒不動の大型石造物に散見される。

後ほど、男坂上の、都内最古の狛犬の紹介で詳述するが、亀岡家は、江戸城石垣工事などで、石工職人を束ねる要職にあったとみられています。

男坂に進む。

参道の両側に3基ずつ、3対の石灯籠が並んでいるが、刻銘がなく、寄進者、造立年ともに不明。

新しいので、昭和以降のものか。

男坂に最も近い、背の高い灯籠には、鮮明な刻銘。

裏面に「文政十二年巳丑歳九月吉日/岡田屋彌兵衛再建」

台石に「大阪西横堀炭屋町/石工見かげや新三郎」とある。

 

この灯籠の、仁王門寄りに、向かい合って一対の狛犬がおわす。

たれ目、たれ耳の、柔らかいフォルムの犬で、獅子像が多い狛犬界ではこの異色な存在。

狛犬の本来の仕事、「守護」役が務まるとはとても思えない柔和さ。

台座には、「文久二壬戌年正月/奉献 御手洗信七郎 藤原正邦」と刻まれています。

しかし、山田敏春氏(日本参道狛犬研理事)は、本来、この台座に座していたのは、この犬ではなかったと言います。

震災か戦災、どちらかの被災で破損した狛犬に代えて、現在の、無傷な狛犬が据えられた、と山田氏は推測します。

下の写真は、明治26年の男坂下風景。

   国立国会図書館所蔵写真帳から拝借

小さくて分かりにくいが、狛犬の像型が現在像と違うようにも見える。

被災して転げ落ちた狛犬は、現在、前不動におわす犬ではないか、と山田氏が言うように、確かにフォルムは似ているが、

それにしては、破損の跡が少ないようにも見えます。

 ≪参考資料≫

◇山田敏春「目黒不動尊狛犬案内」(明治大学リバテイアカデミー講座「狛犬」フイールドワーク用資料)


136 目黒不動の石造物 ⑪ 独鈷の滝

2018-07-23 10:31:32 | 寺院

前回は、女坂だった。

だから、当然、今回は、男坂となるのだが、男坂を上がると上の境内にあがってしまうので、男坂はパス、下の境内の石造物をめぐりたい。

下の境内を一巡りした後、男坂に戻り、石段を上がって本堂へ向かうつもり。

 

目黒不動尊の名物といえば、まず、「独鈷の滝」だろう。

「滝」というには、水量が不足だが、「瀧泉寺」の寺号はこの滝に由来している。

 

「独鈷」には、高僧がこれを投げ上げると、突き刺さった地面に何か不思議なことが起こるというイメージがある。

例えば、伊豆修善寺の独鈷の湯は、空海の投げた独鈷杵によって湧き出たことになっています。

目黒不動尊では、開山者慈覚大師の投じた独鈷杵によって二筋の水が、崖地から噴出した。

だから「独鈷の滝」。

不動明王を祀る寺の境内に流れ落ちる滝、しかもそれか江戸のど真ん中にあるのだから、山岳修行者がこれを見逃すわけがない。

滝行の名所として、目黒不動は名を馳せることになります。

名所だから、当然、広重の浮世絵にも描かれている。

絵の左、白い瀑布の下に立つふんどし姿が滝行中の修験者です。

現在では、浮世絵ほど、滝の水量がない。

 

だからか、滝行は行われていないが、では、いつ頃まで、滝行は行われていたのだろうか。

目黒区立八雲中央図書館で調べてみた。

昭和58年(1983)の『目黒区史跡散歩』には、「数は減ったが、今でも目黒不動で滝行をする姿がある」と載っている。

昭和34年(1959)の『郷土目黒第三巻』には、独鈷の滝での寒修行の記事があるので、転載しておきます。

上目黒八丁目大橋近くの倉方国蔵と称する大工の棟梁の処には、東京者ばかりでない地方出の若い衆も弟子として住み込んでいた。其の若者たちは、毎年不動中心の寒参り修行を競争的に捨て身に命がけでやった。その姿は白衣に身を固め、白鉢巻で素足にわらじがけで、腰に屋号入りの提灯を下げ、六根清浄を唱えながら走った。

        イメージ映像

道順は大橋から氏神氷川神社に先ず参拝し、日向通りを西郷山の下から、別所中目黒と田圃道を越え、八幡前から大鳥神社を過ぎ、目黒不動にと進んだ。その曲がりくねった路、当時の田圃や目黒川沿岸などは、夜道には相当淋しい処もあった。それを信心の一念で寒三十日の苦行を通したのである。若い衆達は不動尊の滝に心身を清浄になし、本堂前で甘酒一杯をねぎらわれ、又来た路を引き返して行った。」(「原田鍬三「目黒不動門前解雇後十年」)

では、滝行の写真はあるのだろうか。

八雲図書館の司書さんたちにも手伝ってもらって、探し回るが、ない。

昭和時代の、東京の年中行事の写真がないなどということは、信じられない。

目黒不動尊の社務所に電話をして、写真があるか尋ねるが、答えは「NO」。

滝行を止めた時期については、「10年前まで、一人やっていたが、それ以降は禁止している」との返事。

21世紀になっても、目黒不動尊では、滝行が行われていたことになる。

にもかかわらず、写真が見当たらないのだから、不思議というしかない。

 

このブログのテーマは、石造物。

独鈷の滝と水行場での石造物といえば、まずは「水かけ不動」でしょう。

 

説明板があります。

當山の開基は天台座主第三祖慈覚大師圓仁で、一千二百有余年前の大同3年(808)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。天安2年、大師が法具 「獨鈷」を投じて堂宇造営の敷地を卜されたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は「獨鈷の瀧」と称されました。大師はお堂の棟札に、「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号され、「泰睿」の勅願を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏瀧しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。「獨鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬公の當病平癒を祈願されました。「目黒不動尊御詠歌…清らけき 目黒の杜の獨鈷瀧 災厄難を除ける不動尊」。ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で目黒のお不動さまに参詣できることとなりました。合掌礼拝して「獨鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。平成8年5月吉日目黒不動尊別當泰叡山瀧泉寺』

水行場の向こう側、崖地のスロープには、いくつもの石造物が見えます。

近寄って刻文などをチェックしたいのですが、立ち入り禁止でダメ。

私のカメラの望遠機能では、ワンショットの写真を撮ることもできず、情けないが、この区域の石造物については、ノータッチということになります。

 

≪参考資料≫

◇目黒区郷土研『郷土目黒第3巻』昭和34年

 

 

 

 


136 目黒不動の石造物④仁王門

2018-07-22 05:41:18 | 寺院

仁王門へ。

焼失前の扁額「泰叡山」は、後水尾天皇の書と云われていたが、これはその写しなのか、新しいものか。

金網の穴が小さく、穴を通して覗いても、仁王の全体像が見にくい。

金網越しでは、網が目立って、仁王像がとらえにくい。

要するに、仁王は、良く見えないのです。

で、下の写真は、ネットからの無断借用。

仁王製作を委嘱されたのは、目黒区の彫刻家・後藤良(なおし)氏。

能面打ちの第一人者として有名です。

昭和32年、後藤氏は仁王尊像原型に着手するも、急逝、門弟が後を継いだ。

門弟の一人、綿引司郎氏の回顧録が『郷土目黒』NO3に載っているので、引用しておく。

「原型制作半ばにして後藤先生が急に亡くなられたので、製作は、一時挫折されると思われがっかり致しました。しかし寄進者小川様その他各位の熱心なご協力によりまして引き続き制作を続け、32年秋に原型を完成致しました。後藤先生が生前構想しておられた日本木彫伝統の技法に、現代美術の感覚を盛り込んだ仁王尊像を作るべく努力を続けてまいりました。昭和33年2月、木曽檜3本を入手、荒彫りにかかりますので無事完成を祈願するため青木大僧正様の御読経の下にのみ入れ式を厳かに挙行されました(以下略)」(『郷土目黒』NO3/昭和34)

仁王の後ろ、本堂に向いた側には、一対の狛犬が座しています。

仁王の裏に狛犬、は珍しい配置のようだがどうなのか。

珍しいといえば、この狛犬も、仁王を手掛けた後藤良氏の作品なのです。

仁王門の落慶が昭和37年、仁王はその落慶に併せて披露されたが、狛犬が登場したのは、昭和53年。

制作者の後藤良氏は亡くなっているのに、なぜ、20年後に作品が現れたのか。

その経緯を狛犬落慶式に当たり、世話人代表が、次のように明らかにしている。

この狛犬も後藤良氏の作品である。生前制作された石膏の原型は、転々と所を変え、その度に破損していった。後藤氏の令息安原氏は、彫刻家としてこれを座視するにしのびず、自らアトリエに引き取って修理を行っていた。これを知った玉川屋の小川一隆氏らく女夫妻は、本年4月逝去した母堂りよ女の菩提を弔うため、その寄進を吉田貫主に申し出た。53年7月2日その落慶式が行われたのである。  昭和53年7月5日 世話人代表 亀谷了 謹書

 なお、この狛犬のモデルは、京都府宮津市の籠(この)神社の狛犬。

鎌倉時代の作品といわれ、国の重要文化財です。

この狛犬と同じものが、靖国神社参道入口に在します。

戦時中に陸軍が後藤良氏に制作を委託、造られた石膏原型は、終戦とともに神奈川県真鶴海岸に放置されていました。

それを取り戻して修理、完成したのは、後藤の愛弟子・八柳恭二氏。

昭和41年11月3日文化の日に奉納。

奉納者に清瀬一郎という懐かしい名前がある。

 ≪参考資料≫

山田敏春「目黒不動尊狛犬案内」(明治大学リバティアカデミー講座「狛犬」フイールドワーク配布資料)

 

 

 

 

 


136 目黒不動尊の石造物③仁王門前

2018-07-15 08:32:48 | 寺院

朱塗りの仁王門は、鉄筋コンクリート製。

戦災で堂宇尽く焼失し、昭和37年(1962)再建された。

 

仁王は、金網が邪魔してちゃんと見られない。

能彫で有名な後藤良の制作を手掛けたが、彼は製作途中で死去、弟子たちが完成させた。

 

境内へ入ってすぐ左にポツンと灯籠がある。

仁王門落慶記念の灯籠です。

伝統ある寺社は、決められた所式にのっとって事が進められていることが、この灯籠を見ると分かる。

日進講なる信者集団が仁王門建設のスポンサーとなり、完成の暁には、記念碑を建てる。

の江戸期からずーっと行われてきた伝統習慣が、昭和になっても当然のように、継続されているのです。

仁王門前の狛犬一対も、信徒の寄進によるもの。

大場庄之助、大場健司によって、平成11年12月吉日建立されました。

実は、私は、明治大学リバティアカデミーの会員で、平成30年度前期の受講講座は「狛犬」。

5月のフイールドワークで、目黒不動を歩き回ってきたばかりです。

講師は、日本参道狛犬研究会理事の山田敏春氏。

以下、目黒不動尊の狛犬に関わる記述は、すべて、山田氏の講義の受け売りです。

このデフォルメされ、マンガチックな狛犬は、狛犬界では、「大宝モデル」と呼ばれているのだそうです。

「大宝モデル」の大宝は、滋賀県栗東町の大宝神社のこと。

その大宝神社の木彫狛犬を原型モデルとする石彫狛犬が、初めて登場したのは、大正元年(1912)。

石工酒井八右衛門によって製作され、東京の根津神社に奉納されます。

これが愛知県岡崎に伝わり、岡崎古代型として全国に普及していきました。

 

仁王門に向かって左にも石造物があるが、ほとんどの人は気づかずに通り過ぎているようだ。

2m半位の高さの石柱の上に石像不動明王。

そして、その前に眷属のせいたか童子とこんがら童子。

少し高い位置にあるので、通常の目線では見逃してしまう。

なんの説明もないので、設立趣意などは不明。

台石の石柱も、なにかいわれのある古い石造物の再利用と思われるが、分からない。

≪続く≫

 

 

 

 

 

 


136 目黒不動尊の石造物②

2018-07-08 08:33:46 | 寺院

前回は、仁王門前の、目黒区教委作成の目黒不動・瀧泉寺の沿革説明板を紹介、家光との関わりを「鷹居の松」に見た。

目黒不動尊・瀧泉寺の石造物紹介が目的なのに、今回も本題とは外れた「五色不動」について触れることにします。

瀧泉寺(目黒不動尊)…『天台宗泰叡山龍泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。(目黒区教育委員会)

この文章を読む限り、五色不動は、江戸時代からあったように思われます。

しかし、江戸時代には、目黒・目白・目赤の三不動だけで、目黄・目青を含めて、五色不動となったのは、明治末期のことでした。

目青不動(経学院/世田谷区太子堂)

目黄不動(永久寺/台東区三ノ輪)

 

「五色には二タ色足らぬ不動の目」(『誹風柳多留』文化5年/1808)という江戸川柳があることでも、それは分かる。

しかも、目黒・目白・目赤の江戸三不動には、他の不動には見られない共通点がありました。

目白不動(金乗院/豊島区高田)

それは、不動堂を管理する別当寺を有していたこと。

目黒不動の場合、別当寺は瀧泉寺だったことは言うまでもありません。

明治維新時の神仏分離令で別当寺制度は廃され、不動堂は瀧泉寺の堂塔の一つとなったというわけ。

もう一つ付け加えるならば、三不動はいずれも家光と深い関係を持ち、目白・目赤不動は、その名を家光から賜ったと伝えられています。

 目赤不動(南谷寺/文京区本駒込)

更に「目からうろこ」の話をすれば、五色不動は目の色が違う5体のお不動さんではないということ。

普通は、五行思想の五色にまつわる不動尊と思われているが、目黒不動は、「目の黒い」お不動さんではありません。

目黒という地名が、不動尊が請来される前からあったので、「目黒村のお不動さん」の意。

 本尊前のお前立お不動さん(瀧泉寺/目黒区下目黒)

他の、「目白」は、「目の白い」、「目赤」は、「目の赤い」お不動さんで、五色不動の中で「目黒」だけが仲間外れ

ということになります。

予定では、「富くじ」についても言及するつもりでしたが、前説が長すぎるのでカット。

次回から、本題の「目黒不動の石造物」に入ります。

≪続く≫

参考資料

◇田丸太郎「五色不動はいつできたか」(『郷土目黒』no54/平成22年)

 

 

 


136 目黒不動尊の石造物①

2018-07-01 12:41:14 | 不動明王

仁王門前の、目黒区教育委員会による目黒不動尊の説明板に、まず、目を通していただきたい。

瀧泉寺(目黒不動尊)…『天台宗泰叡山龍泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。その昔、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。平成21年3月目黒区教育委員会』
 太字体の部分を補足する。
家光の寄進による堂塔伽藍の造営は、本堂へ向かう石段・男坂の右手に枝を伸ばす「鷹居(たかすえ)の松」と深い関係がある。
寛永元年(1624)、鷹狩りに来ていた家光一行は、肝心の鷹に逃げられて、意気消沈、近くの目黒不動を訪れた。瀧泉寺の住職の祈祷によって、鷹は境内の松に戻り、家光の声に応じて、その手にとまった。その松が、「鷹居の松」なのです。
 
喜んだ家光は、火災で全山無残な姿の寺容を一新すべく、その費用の寄進を申し出ます。この時、再建された堂塔伽藍は、不動堂を始め50数棟、装いを新たにした目黒不動は、江戸の観光名所となります。
目黒の村滝不動へ、俄かに参詣。諸願成就之由にて、江戸中、老若男女、引もきらず群集す。此所往古より古跡たりといえども、新に人是へ参詣す。」(寛永6年『江城年録』より)
 『江戸名所図会―目黒不動尊―』
「諸願成就の由」とは、「鷹居の松」であったことは、想像にかたくない。
この時、家光、21歳。
同じ寛永年間、鷹狩りに来て休憩していた谷中感応寺(現天王寺)の住職にほれ込んで、約3万坪をポンと下賜している。
いいなあ。
「生まれ変わったら」と問われれば「家光になりたい」とつい、口走ってしまいそう。
≪続く≫