石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

122日本石仏協会主催石仏見学会-7-(富士市富士川町)

2016-05-26 06:14:20 | 石仏めぐり

◇路傍石造物群(富士市富士川町)

バスに乗っての移動は楽だが、どこを走っているか分からないのが、難。

随分山道を上ってきたなあ、どこまで行っても家があるなあ、とぼんやり外を見ていたら、停車した。

歩いて更に300mほど上る。

自分独りだったら絶対に来られないだろうし、これからも来ることがないだろう、山の田んぼ道に一握りの石造物群がある

馬頭観音が多いが、中に1基、注目すべき庚申塔がある。

宗清寺で観音、釈迦、青面金剛三尊併記の庚申塔を紹介したが、あの庚申塔と同じ三尊併記で、こちらは、造立年が明暦年間と古い。

しかも、宝篋印塔型庚申塔だから、珍しさも増そうというもの。

説明板の内容以下の通り。

この石塔は、善長163cm、宝篋印塔型で塔身を長くし、宝珠の下に二段の請花を彫り、隅飾突起は外に大きく反り返り開いて、全体的に均整のとれた優美な形をしています。
塔身の正面には
   南無三宝荒神
  本師釈迦牟尼佛
   南無観音菩薩
とあり、この上部の左右に鶏が向き合って刻まれ、塔身左右両側には、明暦戊戌年(1658、万治元年)九月吉祥日とあります。
塔身に、釈迦牟尼仏を本尊にして脇に観音菩薩、三宝荒神(佛、法、僧を守る不浄を嫌うので、古くから家々で竈神として信仰されるが、全身青色を帯びるところから青面金剛ともいわれる)の三尊を刻み、それに二猿を配するのは、江戸時代中期以前の形式の一つであり、庚申信仰の本尊が青面金剛明王に代わる経過を知る貴重な石塔です」。

執筆責任者は白いシールで隠されているが、富士市に合併前の「富士川町教育委員会」と書いてあるはずです。

庚申塔前の燈籠にも「庚申常夜燈」と彫ってある。

バスへ戻る途中、林の茂みから何人かが出てきた。

何があるのだろうと思って入って行ったら、林の暗がりの中にポツンと笠付庚申塔が立っている

先ほどの庚申塔と同じように、こちらも2猿。

寄り道していたら、つい集合時間に遅れて、冷たい視線を浴びながら座席につく。

 ◇木島庚申堂(富士市木島)

坂道を延々と上って、集落のどんづまり(?)でバスを降りて、また、歩く。

この辺りはどこも坂ばかり。

好きになれない。

坂道の突当りに石造物群。

観世音菩薩塔3基、巡拝塔4基、題目塔、大乗妙典六十六部塔、三界萬霊塔など全部文字塔ばかり。

目的は、この石仏群ではなく、さらにここから左へ50mの庚申堂。

中に木彫の青面金剛。

頭に髑髏を抱き、目は3眼の憤怒形。

全身ブルーでいかにも青面金剛らしい。

慶安4年(1651)は、静岡県最古の青面金剛像だとか。

道を挟んだ崖下に数基の石造物があり、中に1基、これもまた、三尊併記の笠付文字庚申塔がある。

碑面は

 南無青面金剛 漢文六年(1666)
 本師釈迦牟尼佛
 南無観世音菩薩

この前の室野の庚申塔が「南無三宝荒神」だったのが、ここでは「南無青面金剛」になっている点が違うだけ。

この地域では、一時期、この三尊併記スタイルが流行ったようだ。

バスに戻る途中、みんながカメラを向けている燈籠がある。

燈籠ではあるが、火袋はない。

塔身下に「水神燈/庚申燈」と刻されている。

「これは、山燈籠。水神様と庚申様への参詣道に、両講中が建てたもの」とは、小松光衛さんの説明。

これで全日程終了。

16時、新幹線「新富士駅」で散会。

 ガイド役の佐野さん、井戸さんお疲れさまでした。

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-6-(富士市富士川町)

2016-05-21 05:18:41 | 石仏めぐり

◇曹洞宗 浄厳山宗清寺(静岡県富士市富士川町)

宗清寺を検索したら、寺のHPがあった。

冒頭「四季折々の富士の姿を眺められるお寺」とある。

富士が見えた記憶はないし、勿論、写真フアイルにも富士山は写っていない。

そういえば、朝は快晴だったが、午後から雲が出だして、宗清寺へ行く頃は低い雲が空を覆っていた。

富士山が見えなくて当然だったのです。

ネットから寺と富士山が見える写真を拝借しておく。

山門前両側に4体ずつの六地蔵と庚申塔が1基在す。

元禄年間造立の下の庚申塔は、文字がいっぱい刻字されている。

読みにくいので、井戸資料から碑文を書き写しておく。

  南無大慈悲観世音 旹元禄第十塔日丑年寅月庚申日
卍 南無大師釈迦文佛
  南無青面金剛明王

観音、釈迦、青面金剛の三尊を並列しているのが珍しい。

反対側にも庚申塔はあって、こちらは「南無青面金童子」。

金剛の子供だから金童子か?

境内に入る。

クレーン車が2台稼働中で寺にあるまじき騒音を出している。

背後の崖地の墓地の改造工事だとか。

クレーン車の後ろのお堂に入る。

宝珠を両手に持ってお地蔵さんが、ゆったりと坐していらっしゃる。

堂前の立て看板には「笠被り地蔵」とある。

寺のHPでは、次のように紹介されている。

寛政9年(1797年)10月、中之郷村名主田中傅四郎は、夭折した愛児の供養のため、巨大な地蔵菩薩の石像を寄進しました。
地蔵尊は、頭上に大きな傘(直径1メートル)を被り、慈悲の微笑を漂わせた面相で、手には宝珠をもって、法界定印(薬壺印)を結び、結跏趺坐しています。像高1.5メートル。信州(長野県)高遠の石工又兵衛、金左衛門が製作しました。

信州高遠の石工の作品だと確認したうえで、石の専門家、小松方正さんが一言。

「高遠石工の仕事は、石を探すことから始まるんですよ」。

確かに説明板にも、「原石は由比川上流産」とある。

専門家の補足解説が聞けるのも、石仏協会主催の見学会ならでは。

山門前の説明板は「当町最大の石造佛(ママ)で信州石工の手になる秀作」となっているが、頭でっかちの三頭身で、私には、とても秀作とは思えなかった。

境内に現代石彫が2点あるので、紹介しよう。

まずは、チェロを弾く坊主。

次に抹茶を点てる坊主。

どんな謂れがあるのかと思い、寺に電話したら、なんのことはない、単に「若住職が岡崎で買ってきたもの」だった。

最後に山門への石段の最下段からのショット。

自然石に「よう/おまいり」とある。

中々のアイデア作品で、置いた場所もいい。

私は高評価、花マルをいくつもつけたい。

◇曹洞宗 光福院新豊院(富士市岩淵)

山門前にありふれた六地蔵。

寺のHPでは「江戸時代、村人が死ぬとこの六地蔵の前で葬式をした」とある。

地蔵信仰としてはありうる話だが、実例としては初耳。

立派な結界石塔。

戒律を守らない日本の仏教界だが、飲酒はその最たるものだろう。(新豊院を批判しているのではない。念のため)

山門をくぐると左側に石造物がズラリ。

大半は巡拝塔で、一番奥が庚申塔。

宗清寺にもあった三尊併記形式だが、こちらは、「地蔵菩薩、観音菩薩、青面金剛」の三尊で、お釈迦さまがお地蔵さんに代わっている。

造立は、寛文八年(1668)。

寛文までは、青面金剛に一本化されることはなかったことが分かる。

碑文が読めないので通り過ぎようとしたら「一番上は、烏八臼です」と井戸さんの声。

戻って見るが、そのようでもあり、ようでもない。

曹洞宗寺院だから、烏八臼があってもおかしくはないが。

その隣に仏足石。

『日本石仏図典』には、静岡県に仏足石があるとは書いてない。

寄進されたのが、平成6年。

昭和61年刊の『日本石仏図典』に載ってないのは、当たり前だった。

これはまたノッポな宝篋印塔(文化六年・1809)

高すぎて経文が読めない。

観音堂には「ぽっくり観音」と「縁結び観音」の立札が並んでいる。

老人と若者、二つの世代の信者獲得に寺が知恵を絞ったと見える。

寺の経営も大変だろうが、頼まれる観音様も大変だよなあ。

観音堂の前に珍しい石仏が2体、いや3体か。

まずは、火伏の地蔵。

宝暦九年(1759)、愛宕山から遷したものとか。

甲冑を着けてないから、火伏専門の地蔵のようだ。

もう一体は、水洗い大日如来。

水洗いと云えば、浄行菩薩を思い浮かべるし、西新井大師では、水洗い地蔵も見た。

しかし、水洗い大日如来は、初見。

「腰痛、膝痛、ボケ封じ」に効くとあるが、なぜ大日如来に水を掛けると腰痛が治るのか、そうした謂れはどこにも書いてない。

新しい大日如来の傍には、長年のお勤めを終えてリタイアした古い大日さんが在す。

水を掛け続けられたにしては、黒ずんでいるのが解せない。

観音堂の左の通路の角に道標がある。

「観音道」と読める。

観音堂の背後の山にある西国三十三ケ所ミニ霊場の場所を示す道標。

30mも離れていないのに道標とは大げさだが、これもご愛嬌か。

その奥に並ぶ石碑は全部巡拝塔。

山門を過ぎての巡拝塔が江戸期のものだとすると、こちらは、やや新しい。

明治から昭和にかけてのものが並んでいる。

 観音堂真裏に山に登る小道があり、入口に石柱がある。

「 西国巡礼
 南無観世音菩薩
  三十三所 」

造立は、文化十三年(1816)。

入って行くと三十三所観音が、1基ずつ、あるいは2基並んで、時には5基並列で、山中に点在している。

彫りもシャープ。

石工銘はないらしいが、高遠石工の可能性が高そうだ。

ミニ霊場の一画から本堂裏の山林が見える。

縦に長方形に樹が伐採され、ワイヤーで固定化されている。

寺のHPで知ったのだが、毎年3月中ごろの日曜日に大観音祭が行われ、縦45m、横18mの布に描いた観音様がここに掲揚、御開帳されるのだそうだ。

写真は、寺のHPから借用。

ミニ霊場を回り終えて山を下りるとそこに歴代住職の墓。

無縫塔が並んでいる。

その前になぜか白衣観音がポツネンと佇んでいらっしゃる。

再び本堂前まで戻って、先ほど撮影し忘れた善光寺三尊(寛政七年(1795)を撮る。

撮影し忘れたというよりも。何人かが撮影中で、後回しにしたもの。

バスを降りたら先陣を切って走るか、最後方から行くか、人影のない写真を撮るのは簡単ではない。

石仏、石碑に群れをなしてレンズを向ける姿は、普通の人には、クレージーに映るに違いない。

自分も含めそうした狂態を楽しむ心のゆとりが不可欠のようだ。

 

 

 

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-5-(静岡市清水区由比町)

2016-05-17 05:57:10 | 石仏めぐり

由比の宿場本陣近くの寿司屋で由比名産「桜エビ丼」の昼食。

午後一番は、これも由比の入山という地区のお堂。

◇入山庚申堂(静岡市清水区由比町入山)

バスは山の中へとんどん上がって、集落のどんづまりでストップ。

かなりの勾配の坂を歩いて庚申堂へ。

年配のご婦人が5,6人屯している。

    後姿は、ガイド役の井戸寛さん

観音の日の集まりだそうだ。

庚申講もやっているという。

江戸、明治の名残がここには、かすかにあることになる。

お堂の横が広い空地になっていて、その奥に観音石仏が3段に並んでいる。

西国三十三所観音で、天保七年(1836)造立。

 石工銘はないが、「信州石工じゃないの」と誰かのつぶやきが聞こえる。

お堂の前にも希少な石仏がある。

「醍醐塔」なるものを、私は初めて見た。

像容は、宝珠を両手で持つ地蔵のようだが、どうなのか。

『日本石仏図典』で「醍醐塔」の項を見る。

「醍醐の味は、微妙第一にしてよく諸病を除き、諸の有情をして身心安楽ならしむ、とあるように、仏教の精髄ともいうべき醍醐塔を造立する功徳の、はかりしれないことを示すものであろうか」。

左端の石仏は、左手の未敷蓮華に右手をそえるように見えるので、聖観音だとばかり思い込んでいた。

「これは馬頭観音だよ」。

誰かの声に振り返ってみる。

たしかに頭上に馬の顔がある。

 

それにしてもこの女人(にしか私には見えないが)のお顔のすばらしいこと。

柔和な佇まいは、見る者すべてに安らぎを与えてくれるようだ。

石仏というより、現代彫刻としても立派に通用する作品に思える。

お堂に集まった女性たちは、眼下の集落の住人。

三十三所観音も、醍醐塔も馬頭観音も、集落の人たちが寄進したものに違いない。

そんなに戸数があるようには見えないから、一戸当たりの負担も少なくなかっただろう。

お金よりも信仰心が上回る、そんな時代がこの集落にはあったことになる。

庚申塔も2基ある。

うち一つが面白い。

なにしろ「南無青面大鬼王」と刻されている。

しかも造立年が、昭和54年(1979)と新しい。

ありふれた「庚申塔」や「青面金剛」ではなく、「南無青面大鬼王」と彫るように石工に発注した人物が、下の集落にいた(いる?)ことが面白い。

どんな人なのか、興味深い。

もう1基も捨てがたい。

一猿一鶏の庚申塔。

写真では、鶏が分からない。

写真が小さくて猿も分かりづらいが、「聞かざる」。

一猿は「聞かざる」ばかりではない。

と、すると「聞かざる」を選んだ根拠があるわけで、タイムスリップして、そこらあたりを訊いてみたいと思う。

 

 

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-4-(静岡市清水区由比町)

2016-05-13 05:14:57 | 石仏めぐり

興津から由比へ。

東海道の宿場を東へと進む。

◇臨済宗妙心寺派金谷山桃源寺(静岡市清水区由比町)

宿場町は道幅が狭い上に駐車場が少ない。

バスを降りて歩いて寺へ行ったら、なんのことはない広い寺の駐車場があった。

山門前に石仏群。

秩父、坂東、西国、四国巡拝供養塔。

宝暦三年(1753)造立。巡拝塔としては大きい方か。

御幣持ち双体道祖神。

井戸さんの配布資料には「当地域では珍、信州石工の置き土産?」とある。珍なのは、双体道祖神なのか、御幣持ちなのか聞き逃した。

地蔵立像。

馬頭観音。

角2本、耳2本とすると牛頭観音になるが・・・

文字馬頭観音の両側に「大日如来」文字碑。

像塔は良く見かけるが、文字「大日如来」は少ないのではないか。

境内に入る。

金毘羅さまを祀る鎮守堂の前に大きな庚申塔がある。

本堂まえには、羅漢さんが在す。

十六羅漢か。

墓地入口に七観音。

彫りがシャープだなと思ったら、高遠石工、北原佐吉の作と銘がある。(写真に撮ったがぼけている)

素晴らしいので七観音全部を載せておく。

   不空羂索観音

   如意輪観音

   准胝観音

  十一面観音

   馬頭観音

    聖観音

   千手観音

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-3-(静岡市清水区興津町)

2016-05-09 05:13:10 | 石仏めぐり

藤枝市から車は、一路、東へ。

静岡市清水区興津町(旧静岡県庵原郡興津町)の清見寺が次の目的地。

◇臨済宗妙心寺派 巨鼇山 清見寺(静岡市清水区興津町)

車を降りて、山門へ向かおうと坂道を上りかけたら、女性メンバーの一人が、「そっちへ行く前に見てもらいたいものがあるの。こっちへ来て」と右側の門へと誘導する。

門前右に石仏が1基在す。

近寄って見る。

彫りのいい千手観音だった。

彫りがいいだけでなく、台石も石仏の像高に不釣り合いな大きさ。

どんな謂れがあるのやら。

彼女を含めて、この寺に来たことのある参加者は数名いそうだが、誰も「来たことがある」とは明かさない。

訊かれないから言わないだけなんだろうが、中々、手ごわい人たちなのです。

改めて総門に向かうべく坂道をのぼる。

すると境内を横切るように線路が走っているのが見える。

タイミングよく姿を現した電車は、カメラの放列の下を走り抜けてゆく。

東海道線が開通したのは、明治22年(1889)だったが、鉄道誘致の運動の一員だった住職は、境内が寸断されることに文句を言うどころか、賠償金を献納したという。(Wikipediaより)

電車を下に見ながら橋を渡って山門へ。

山門は釘を1本も使っていない建築と寺のHPにはある。

山門前の宝篋印塔は、慶安2年(1694)造立。

田中清左衛門尉官藤原長世という人の逆修塔。

右に写っている後姿は、六地蔵を撮っているツアーの仲間。

狭い場所に十数人がどっと押し寄せるのだから、こうしたことは避けがたい。

私の、デブな後姿も誰かの写真に写っているはずです。

山門を入ると左手に鉄分で赤みを帯びた石碑があるのに気付く。

傍らの説明板には「永代接待茶」とある。

碑文は読めるような読めないような按配。

誰が誰に対して茶を接待するのか知りたいが、ネット検索してもヒットしない。

清見寺のHPは立派で見ごたえがあるが、石造物については、完全に無視。

「永代接待茶碑」の由来は、だから知る由もない。

「永代接待茶碑」どころか、五百羅漢も紹介してないのだから、文化財としての石造物に対する寺の偏見は目に余るものがある。

その五百羅漢へ向かう。

左に、丸石神と五重塔が見える。

去年、山梨市で丸石神巡りをした。

寺にある丸石神もいくつかあるが、すべて山門の外。

清見寺のように境内にあるのは珍しい。

いかなる謂れがあるのか、寺に電話したが、「知っているものがいない」とけんもほろろ。

本堂横から後方の斜面いっぱいに五百羅漢が点在している。

壮観だが、五百羅漢なら当然だろう。

とりわけ特別な羅漢ではないようだ。

「これが面白いんですよ」と井戸さんが立ち止まる。

指さす先には、お腹に顔を抱く羅漢がいる。

「らごら尊者と云われてます」。

実は、井戸さんの説明を録音すべくカセットレコーダーを持参、この時も、録音したのだが、機器が粗悪品で、テープが聞き取れない。

ネットで調べたら、「らごら尊者は釈迦の息子。『人はその心の中に必ず仏の心を宿す』を表わしている」とあった。

らごら尊者の前に石の塊がある。

「羅漢を彫りかけて途中で止めたものです」とは、井戸さんの説明。

本堂前のソテツの下にもあって、こちらの方が「彫りかけ」であることが分かる。

この五百羅漢を描いた島崎藤村の小説『桜の実の熟する時』の一節が掲示されている。

書き写そうと思ったが、ただだらだらと長いだけで、作家の文章としての巧みさもないので止めた。

写真を読んでください。

本堂前に戻る。

清見寺は古寺だから堂内には文化財も多いし、庭園も有名だが、ツアー一行は靴を脱いで上がることはしない。

室内に石仏はないからだが、さすが日本石仏協会主催のツアー、徹底している。

本堂前に大きな自然石の石碑があって、「食人之食者死人之事」と刻されている。

「咸臨丸乗組員殉難碑」で、揮毫したのは、榎本武揚。

「人の食を食(は)む者は、人の事に死す」と読み「徳川氏の食を食(は)む者は、徳川氏の為に死す」と云う意だという。

慶応4年(1868)、徳川家は政権を新政府に渡し、最後の将軍慶喜は駿府に移った。

幕臣の多くは、難民となって駿河に流れ込んだが、軍艦で函館に向かう者もいた。

以下裏面碑文から

「房総海ニテ俄ニ颱風ニ遇ヒ艦体毀損シテ遠航スル能ハス」。

清水港での修理中官船の襲撃に遇い、死者が出た。

「死屍海ニ浮ブコト累日、人ノ敢テ之ヲ斂ムルナシ、士人山元長五郎ハ侠士也」。

山本長五郎こと清水次郎長が遺体を引き上げて、この地に葬った、というお話。

上野の山で戦死した彰義隊の隊員の死体も、官軍に遠慮して、誰も埋葬できず、腐臭が山に満ちたと伝えられている。

「官軍だろうが何だろうが、人として全うなことをして何が悪い」、侠客ならではのアクションは世の喝采を浴びた(と思われる)。

と、ついつい、長い文章になった。

現地で読めなかった碑文を、帰宅後、資料で読み解くのは、石仏(石造物)巡りの愉しみの一つです。

初めて知った知識は、つい長めの披露になってしまう、その短所が出たというわけ。

「咸臨丸乗組員殉難碑」の前にも、石碑が2基ある。

1基は句碑。

「秋晴や/三保の松原/一文字」は読めるが、俳人の名前が読めない。

調べたら、なんと、あの大野伴睦だった。

「万木」という俳号の俳人だったことは有名らしいが、私は知らなかった。

新幹線「岐阜羽島駅」誘致で見せた剛腕政治家の顔ばかりが浮かんで、俳人のイメージなど浮かんでこない。

「昔は、ここから三保の松原が見えたんですよ」とは、井口さんの弁。

今や、高速道路や工場群が遮って、海岸線どころか海そのものも見えなくなっている。

「万木」句碑の隣は、やたら文字が多い石碑。

高山樗牛の『清見寺鐘音』なる作品の一節が彫られているらしい。

『清見寺鐘音』の出だしは「夜半のねざめに鐘の音ひゞきぬ。おもへばわれは清見寺のふもとにさすらへる身ぞ。ゆかしの鐘の音や。
 この鐘きかむとて、われ六とせの春秋をあだにくらしき。うれたくもたのしき、今のわが身かな。いざやおもひのまゝに聽きあかむ」だか、自然石に刻されているのは、もっと後半の部分。

「鐘の音はわがおもひを追うて幾たびかひゞきぬ。
うるはしきかな、山や水や、僞りなく、そねみなく、憎みなく、爭ひなし。人は生死のちまたに迷ひ、世は興亡のわだちを廻る。山や、水や、かはるところなきなり。おもへば恥かしきわが身かな。こゝに恨みある身の病を養へばとて、千年の齡、もとより保つべくもあらず、やがて哀れは夢のたゞちに消えて知る人もなき枯骨となりはてなむず。われは薄倖兒、數ならぬ身の世にながらへてまた何の爲すところぞ。さるに、をしむまじき命のなほ捨てがてに、ここに漂浪の旦暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。
 鐘の音はまたいくたびかひゞきわたりぬ。わがおもひいよいよ深うなりつ」。

 

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-2-(静岡県藤枝市)

2016-05-05 05:09:10 | 石仏めぐり

≪鬼岩寺の続き≫

 

ひととおり撮影を終えたので、車に向かおうとしていたら、ガイド役の井戸さんが、「一番重要な石造物があっちにあるんです」と声をあげた。

 指さす方を見ると膨大な数の無縁五輪塔群が横たわっている。

 

 近寄って見る。

 中央に立つ四角柱の一面に「有縁無縁三界萬霊供養之塔」とあり、別面に「田中城武将萬霊位佛果」と読める。

 

 五輪塔の数約400基。

 全て裏山の墓地周辺から掘りだされたもので、まだまだ埋まったままの石塔も数多いのだとか。

 

 いずれも室町から江戸期にかかけて造立され、大半はこの地を支配していた田中藩の武士たちの墓ではないかと推測されている。

 

 

無縁五輪塔群の左端前の覆屋には、いかにも年代物の五輪塔と宝篋印塔がある。

 

 

永徳元年(1381)造立の宝篋印塔。基礎に「矢部隼人佑」の銘あり。矢部氏は今川氏の家来。

 

 

応永元年(1394)造立り宝篋印塔。

 

 

 応安六年(1373年)、鬼岩寺地蔵講が造立した五輪塔。これは、納骨五輪塔と云われ、地輪と台座が接する部分に小さな穴が開いていて、中に遺骨を落とす仕組みになっている。

 

 

下の写真が穴の開いた台座。ここに骨を納めた。

 

 

納骨五輪塔なるものがあるのを私は初めて知った。

 最後におまけ。

 無縁五輪塔群のなかに何故か石仏が一体ある。

 「お、馬頭観音だ」。

 「これは耳としては大きすぎる。角だろう。だから牛頭観音ではないか」。

 さすが「日本石仏協会」の旅、すぐ議論が始まるのが面白い。

 

 ◇満願寺跡(藤枝市西益津田中)

「西益津村役場跡地」に車を停めて、民家裏手の細い路地を通り、田中神社の境内に出る。

田中神社の隣、国道1号線に面した空地が目的地の満願寺跡地。

歴代住職墓地は、木の茂みの暗がりの中にあった。

無縁無縫塔群をバックに立つ、役小角(右)と鬼(左)が目的の被写体。

大ぶりの丸彫りで崩れも少なく、保存状態はいい。

従者の鬼は、前鬼なのか後鬼なのか。

片方がないのは、紛失したのか、予算の制約で造らなかったのか。

紛失するには大きすぎるから、初めから1鬼だったのだろう。

撮影して茂みを出ると空地の向こうの駆けあがりに石造物が見える。

可愛い馬頭観音が2基、その手前の石柱が面白い。

正面に「右修善者為犬霊菩提増進也」とあるので、愛犬の供養塔のようだ。

上へあがってみる。

国道に向かって大きな顕彰碑が立っている。

上横に右から「育英碑」、縦に「故幕府儒官永井東陵先生碑」とあるようだ。

国道沿いの説明板によれば、永井東陵は、江戸の昌平坂学問所の教授。

明治2年、藤枝に移住、この地に「育英学校」を開校した教育者とのこと。

これで、藤枝市の石仏巡りは終わり。

ガイド役が佐野さんから井戸さんに代わる。

 

 

 

 


122日本石仏協会主催石仏見学会-1-(静岡県藤枝市)

2016-05-01 05:32:41 | 石仏めぐり

日本石仏協会の「一泊石仏見学会」には、過去一度参加したことがある。

その模様は、このブログに、NO42、43「日本石仏協会主催日和田高原石仏巡り」としてアップした。

3年半前の2012年11月のことです。

 

今回参加したのは、静岡県の石仏巡りは初めてだからですが、ガイドに井戸寛さんの名前があったからでもあります。

井戸さんは、静岡県東部を守備範囲として、長年精力的に石仏調査をして来られた方で、その活躍ぶりは『日本の石仏』で存じていました。

井戸さんのガイドなら珍しい石仏に会えるかも、と期待が膨らみます。

2016年4月17日(日)午前10時45分、マイクロバスはJR藤枝駅を出発。

参加者17人。

皆さん、石仏協会の会員で、非会員は私ひとりくらいか。

顔なじみの和気藹々のムードが、部外者の私には、かえって、孤立感を深めるように働く。

初日の見学予定地は、静岡県藤枝市。

藤枝市は、中世には鎌倉往還の、近世では東海道の宿場であり、交通の要として機能してきた。

そうした歴史と伝統が石仏に現れる可能性が高い。

ガイドするのは、地元藤枝市の石材会社の社長、佐藤雅基さん。(井戸さんは、静岡市、富士市を担当)

バスはどんどん山の中へ入ってゆく。

奥地から下りながら順番に石仏を巡って行くプランのようだが、藤枝駅を出る時に降り始めていた雨は、ますます強くなるばかり。

雨に加えて風も強く、豪雨というよりも嵐のような状態。

後で知ったのだが、この日、新幹線は強風でストップ、東京では風で建設中の足場が崩れる事故があった。

それでも予定箇所でバスは停まり、熱心な人たちは石仏写真を撮りに車を下りてゆく。

下の写真は、一瞬、降りやんだ合間のワンカット。

雨は降らなくても、雨に濡れた野草でズボンはビショぬれ。

私は、初日は捨てることにして、以降、車を降りることはなかった。

午後3時、予定を途中で断念、ホテルに向かう。

ホテルに着いたら、皮肉にも、雨はあがった。

 

翌4月18日は、快晴。

予定より出発を早めて、昨日、はしょった場所をまず回ることに。

◇真言宗・楞厳(りょうごん)山鬼岩寺(藤枝市藤枝)

奈良時代の神亀3年(726)、行基、開基の古刹。

古寺だけあって、伝説がある石造物がいくつかある。 

車は、広い境内に停車、降りた所が不動堂の前だった。

まず皆がカメラを向けたのは、自然石。

梵字「カーンマーン」が彫られている。

不動堂の本尊不動明王の梵字です。

不動堂の左にも、「阿字」塔がある。

梵字の「ア」は、大日如来を表わすと説明板がある。

その隣に、馬頭観音。

馬頭観音には、敷居が高そうな場所だが、なにか訳があるのだろうか。

覆屋に見なれない石が三つ。

左の石は「鬼かき石」というらしい。

もちろん、伝説がある。

開基してから百年程過ぎた弘仁年間(810~823)、弘法大師空海が東国行脚の折、この地に寄った。その頃悪い鬼が出て人々を苦しめていた。鬼退治をお願いされた大師は7日間秘咒を加持した。すると一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに鬼が姿をあらわした。大師はこの鬼を裏山の岩穴に封じこめた。翌日から村に鬼は出なくなり、これを機に寺の名を「鬼岩寺」と称し、村の名前も鬼岩寺と称するようになった。「鬼かき石」は、鬼がその爪を研いだ石といわれている。

 地蔵堂がある。

中にまっ黒なお地蔵さん。

本尊は、将軍地蔵尊だが、まっ黒なので黒地蔵尊とも呼ぶ。真言宗には、新仏習合の教えがあり、ご本尊は神では、太郎坊大権現様(福徳の神様)にあたります。」(説明板より)

地蔵堂の左にありきたりの文字庚申塔が2基。

こんなどうでもいいのを撮っていて、肝心の三面地蔵尊を撮り忘れたようだ。

山門左手に小さな祠がある。

格子戸越しに覗いてみる。

なんと犬が、しかも黒い犬がこっちを向いている。

傍らの解説版を読んで、伝説を知った。

昔、鬼岩寺にクロという、とても強い犬がいました。それを聞いた田中城のお殿様は、自分の自慢のシロとかみ合いをさせてみると、クロのそれはそれは強いこと、あっという間に勝負がつきました。愛犬のシロが負けた悔しさに、お殿様はクロを捕まえて打ち首にするように、家来たちに命じました。何十人もの槍や刀を持った侍に追い詰められたクロは、逃げ場を失ってとうとう近くにあった井戸に身を投げてしまいました。その時井戸の中から黒い煙がもうもうと立ち上がり、それが何百何千という黒犬となって、いっせいに吠えたてました。さすがのお殿様もびっくり。やっと自分の身勝手さに気付き、深くクロに詫び、ク ロの霊を慰めるために、黒犬神社を造ってまつりました」。

参拝しての御利益については、

神犬クロの「死して尚負けず」の御利益を!
大小の勝負、縁結び、安産、子育て、盗難除け、日切りの願懸け

とある。

勝負事の御利益は分からないでもないが、なぜ、縁結び、子育てなのか、説明がなく、不可解。

≪続きは次回≫