石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

44 凹み穴のある石造物(東京・板橋区その1)

2012-11-27 16:42:23 | 民間信仰

「はいじょうけつ」と耳にして、それが何を意味するか分かる人はほとんどいないでしょう。

「盃状穴」という文字を見ても、その形状をイメージできる人は少ないはずです。

私は、写真を見て、初めて分かりました。

    『岩槻史林』37号(20106)より

写真を見た場所は、浦和にある埼玉県立図書館。

郷土資料室で資料を探している時、ふと手にした『岩槻史林』に「盃状穴」はありました。

「盃状穴」とは、石造物の基礎台に掘り窪められた、さかずきのような穴を意味します。

『岩槻史林』によれば、「盃状穴」の命名者は、考古学者の国分直一氏。

昭和55年、山口県山口市で古墳時代の石棺にある穴を見つけ、「盃状穴」と命名したのだそうです。

形状を比較的正確に表現してはいますが、学者らしい無味乾燥で面白みに欠ける命名です。

『岩槻史林』は「盃状穴」シリーズを3回にわたり掲載、1回目で岩槻には55基の石造物に「盃状穴」があることを報告し、2,3回で若干の追加と春日部、大宮など周辺地域の調査結果を載せています。

他の自治体ではどうなのか、ラックにあるいくつかの紀要をパラパラめくってみたら、ありました。

志木市郷土史研究会の『郷土志木』(2010.1)に井上国夫「話題の石造物の盃状穴について」。

『蕨市立歴史民俗資料館紀要』(2011.3)の堀江清隆「石造物に見られる凹み再考」。

どうやら、埼玉県下では、数年前から「盃状穴」が一部の人たちの間で秘かなブームになってきていたようなのです。

ブームには、乗ってみたい。

それには、実物を見ておかなくては。

と、いうことで、早速、蕨市へ。

堀江氏の「石造物に見られる凹み再考」には、蕨市の凹み石マップがついていたからです。

ところで、堀江氏は「盃状穴」ではなく、「凹み石」と表現しています。

それは「盃状穴」ではカバーできない窪みがあるという 理由からのようです。

その具体例として堀江氏が挙げるのが、三蔵院(蕨市中央2-30)の手水石。

   三蔵院の手水石 弘化3年(1846)

このV字型のすじ状の凹みは、盃状穴とは云えないでしょう。

だから私も「盃状穴」ではなく、「凹み」とか「凹み石」、「凹み穴」という言葉を使用することにします。。

もちろん、大半は盃状穴で、その典型例は、三学院(蕨市北町3-2)参道の子育て地蔵の台石。

 

  三学院の子育て地蔵(元禄7年・1694)

大小40個もの穴が穿たれています。

ところで、石で叩いてこんな穴があくものだろうか。

私の、石仏先生K氏に訊いてみました。

K氏は『日本の石仏』に「石を知る」シリーズを連載する石の専門家です。

「石の中で一番硬いのはそこらに転がっている石。長い年月、転がって、転がって磨滅した石の芯だからすごく硬い。そうした石でコツコツ叩けば、こんな穴をあけるのは難しいことではない」という返事でした。

三学院には、台石のような平面だけでなく、垂直面にも凹み穴があります。

三学院の常夜燈(元禄14年・1701)

子育て地蔵前の2基の常夜燈の竿石には、凹みが多数見られます。

問題は、これらの穴を、誰が何の目的で穿ったかということ。

その推論のいくつかは後述しますが、結論的には、目的は不明ということのようです。

堀江氏の報告で、私の目を引いたのが次の一行。

「戸田市、鳩ケ谷市、板橋区、北区などでも同様な凹みがある石造物が残されている」。

この一行に触発されて、板橋区の凹み石を調べてみることにしました。

板橋区在住の石仏フリークとして、当然の反応でしょう。

調べたのは、区内の神社22、寺院21、地蔵堂、不動堂などの堂18、路傍の庚申塔14、馬頭観音9、弁財天2、道標3。

ただし、路傍の庚申塔、馬頭観音は区内に60基以上あるので、半分以下しか調べていません。

うち、凹み石があったのは、神社12、寺院11、堂4、路傍の庚申塔1。

1か所で複数基の凹み石がある寺社もあるので、総基数47。

この報告は、47基の凹みのある石造物の写真がメインです。

論文ではないので、石造物や凹み穴の寸法は、計測していません。

造立年は判明しているものは付記してありますが、大半は不明です。

調査に利用したのは、『いたばしまちあるきマップ』(板橋区くらしと観光課発行)。

『いたばしまちあるきマップ』は「板橋エリア」、「常盤台エリア」、「志村エリア」、「高島平エリア」、「赤塚エリア」の5地域に分かれているので、この報告もエリア別にけてあります

 板橋区の凹み穴のある石造物

A 板橋エリア

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27529_4.pdf
(板橋区産業経済部くらしと観光課作成の地図を借用)

1、観明寺(板橋3-25)

本堂左手前にある宝筐印塔の塔身の下の基礎にかなり大きな凹みがいくつもある。

 

    観明寺の宝筐印塔

凹みが掘られた事由の一つに「子供が野の草花を縁石に置き、道端の石でコツコツ叩きながらままごと遊びをした跡」(『しきふるさと史話』)があるが、この基礎の高さでは、子どもの仕業とは考えにくい。

凹みのある宝筐印塔は、板橋区では、この一例のみ。

2 智清寺(大和町37)

山門を入ると左に石仏群。

      智清寺(大和町37)

小屋掛けの2体の地蔵のうち、左の大きな地蔵の台石に椀状の穴がある。

 

地蔵は8体あるのに、凹みがあるのはこの1体だけ。

理由があるのだろうが、推測の仕様もない。

これは他の寺社の場合も同様です。

本堂脇の墓地への通路左には、木下藤吉郎出世稲荷の幟がはためいている。

その社の脇に転がっている台石のような石造物にも凹みがあります。

 

 木下藤吉郎出世稲荷                 社の左に放置されたままの台石状石造物

    大小17個の穴がある台石?

これが何か、ご存じの方教えてください。

3 日曜寺(大和町42)

山門前に2基の凹みのある石碑が立っている。

          日曜寺(大和町42)

左の1基は、禁制の碑。

 禁制碑 (文化11年・1815)

「不許葷辛酒肉入門内」。

真言宗寺院で見かけるのは、珍しい。

その台石に穴がある。

実は、日曜寺は、我が家から100mくらいのご近所さん。

毎日、脇の道を通り、時には境内に入ることもあるのだが、この凹み穴には全く気付かなかった。

注意力散漫といえばそれまでだが、目が向くのは像容であり、刻文であって、台石は無視されるのが普通。

それが証拠に、1979年創刊、143号を重ねる『日本の石仏』でも凹み石の記事は一切見られない。

穴を穿つ行為は、単なる遊びではなく、民間信仰と関わりのあることにちがいありません。

そうした視点からの論及があってもよさそうなのに、とこれは外野からの感想です。

閑話休題。

右の石柱には「開運愛染明王」とある。

 標柱・道標(寛政11年・1799)

 これは、日曜寺の本尊が愛染明王だからです。

 ここにも凹み穴が見られます。

 

  標柱・道標(寛政11年・1799)

面白いのは、これが道標を兼ねていること。

左側面に「是より二丁日曜律寺」と刻されています。

元は旧中山道と愛染通りの角にあったものを昭和30年にここに移築したと『いたばしの金石文』(板橋区教育委員会)にあります。

お経なのか、呪文なのか、歌なのか、そうした言葉を発しながら石を叩く姿が、寺社の門前や境内ではなく、道端でも繰り広げられていたことになります。

4 氷川神社(双葉町43)

この神社もご近所さん。

       氷川神社(双葉町43)

某国営テレビの「紅白歌合戦」が終わって、初詣に行くと既に長蛇の列。

年年参拝者が増えているようです。

境内にある4基の庚申塔のうち最も古いものの台座に凹みがある。

 

   庚申塔(宝永7年・1710)

左側面に「右祢りま道」とあるから道標でもあったらしい。

訊いたら旧中山道と練馬道の分岐点にあったとのこと。

日曜寺の標石と同じく道端にあったことになります。

子どもが石を叩いて遊んでいたという古老の話が捨てがたくなる。

この庚申塔の真向かいにある手水石にもお椀穴があります。

    手水石(元治元年・1864)

神社の凹みのある石造物としては、手水石が最も多いので、これから続々と登場することになります。

この氷川神社には、手水石が、もう1盤あります。

稲荷社への参道傍らに捨てられたように横たわっている。

       寛政4年(1792)

縁は四辺に穴があいている。

水穴には、水ではなく、落ち葉がつまって溢れんばかり。

5 満福寺(中板橋29)

 川越街道からちょっと入った場所にある万龍寺は境内がせまく、民家風の建物があるだけ。

     万福寺(中板橋29)

門扉を開けて中に入ると右に石仏群。

 左から享保3年(1718)、正徳3年(1713)、享保7年(1722)

六地蔵の中の3体の台石に凹み穴がある。

 

上の2枚は、3体の地蔵の台石と台石をまたいで撮った写真。

土が入り、草が生えて、その上、落ち葉が塞いでいるので分かりにくいが、凹み穴なのです。

 

B 常盤台エリア

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27635_2.pdf

1 轡神社(仲町46)

戦前は、近郷近在はもとより全国から参詣者があり賑わったと資料にあるのが、うそみたいなこじんまりとした神社。

        轡神社(仲町46)

小児の百日咳に霊験あらたかと云う。

凹みのある石造物にここの狛犬を挙げるのは、問題があるかも知れません。

       大正9年(1920)

というのは、穴は開いていないからです。

しかし、穴を埋めたと思われる痕跡はあるのです。

 狛犬の台座に見える緑の修理の跡

グリーンに見える個所は、セメントで穴を塞いだ跡ではないか、そう私には見えるのですが。

もし、これが凹み穴だとすれば、重要なヒントが浮かびあがってきます。

建立が大正9年ですから、その頃まで穴を開ける風習が残っていたことになるからです。

轡神社近くの専称院前の小屋掛け地蔵菩薩の台石もあやしい。

 専称院前の地蔵(安永8年・1779)

下の写真は、地蔵に向かって左側の台石を上から撮ったもの。

台石の上にべったりとセメト状のものが塗られているようです。

この地蔵は旧川越街道と子易道の分岐点にあったものです。

こういう穿鑿を始めるときりがない。

穴でないものは全て排除したほうがいいのかもしれません。

2 西光寺(大谷口2-3)

凹みのある墓標が、ここ西光寺にある。

 

      西光寺(大谷口2-3)               百観音巡礼塔・墓標(天明元年・1781)

板橋区では、この1基のみ。

ただし、墓標ではあるが、観音百霊場巡礼塔でもあります。

墓標には凹み穴はないというのは、それなりの決りがあったからだろう。

石仏ならなんでも、穴を開けてよいということではなさそうだ。

3 氷川神社(大谷口上町89)

 神社の石造物で、凹み穴が多いのは、手水石と力石。

「岩槻の盃状穴」の調査では、全数55基の内、22神社に、手水石13、力石15と、この二つが断然多い。

板橋区は、それほど多くはないが、手水石は6神社に6、1堂に1の計7盤、力石は7神社に7個ある。

大谷口の氷川神社には、手水石と力石の両方に凹みがみられます。

 

                                 天保8年(1837)

  4 長命寺(東山町48)

環七と川越街道の交差点角に寺はある。

 

 墓地への通路右側に石仏群。

その手前3体の地蔵、それぞれの台座に凹みがあります。

 

   地蔵菩薩 (享保5年・1720)        左の地蔵の台石

 

 地蔵菩薩(正徳5年・1715)

 

 地蔵菩薩(宝永8年・1711)

地蔵の銘に「長福寺」とあるので、宝永年間より前に、なんらかの理由で寺名が変更されて「長命寺」になったものと思われます。

5 氷川神社(東新町2-16)

板橋区内には氷川神社が7社ある。

その内の1社。

      氷川神社(東新町2-16)

広い境内の片隅にある資料館前に力石が6個。

一番手前の力石に凹みがあるが、やや小さい。

しかし、奥の列の真ん中の石の凹みは明らかです。

E 高島平エリア

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/027/attached/attach_27637_4.pdf

本来なら次回「凹み穴のある石造物(東京・板橋その2)」に載せるべき「高島平エリア」ですが、その2の容量が大きくなりすぎるようので、変更して、こちらに追加しておきます。

高島平には、寺社はわずか。

凹み石があるのは、蓮根の氷川神社1社だけです。

1 氷川神社(蓮根2-6)

鳥居をくぐると左に石のベンチがある。

江戸時代には何て呼んだのだろうか。

 

ベンチは、ボコボコと穴が開いていて、いかにも座り心地が悪そう。

御嶽社を祀る溶岩塚には、力石が5個はめ込まれています。

 

その1個に凹みがあるが、穴は一つだけ。

3盤ある手水石の内、2盤に凹み穴があります。

 

写真左の手水石には、お椀状穴に加えてすじ状の掘り込みがあります。

高島エリアの凹み穴のある石造物は、これで全部。

 「志村エリア」、「赤塚エリア」は次回、12月16日にUPします。

それまで、回り損ねた石造物探索をして、少しでも完成度を高めるつもりです。

 

参考図書

○岩槻市林NO37(2010.6)

       NO38(2011.6)

       NO39(2012.6)

○郷土志木39号(2010.1)

○蕨市立歴史民俗資料館紀要(2011.3)

○いたばしの石造文化財その1「庚申塔」(平成7年)

○いたばしの石造文化財その4「石仏」(平成7年)

○いたばしの金石文(昭和60年)

○板橋の史跡を尋ねる(平成14年)

 

 

 

 

 

 

 

 


43 日本石仏協会主催「日和田高原石仏巡り」二日目

2012-11-16 05:49:24 | 石仏めぐり

2012年10月22日、朝、旅館の部屋の窓を開ける。

快晴。

空気が冷たい。

眼前にのしかかるように紅葉の山。

 

 

朝日の、横からの射光で明暗がくっきり。

この写真では写っていないが、右下の高根第一ダムは、山影の中に沈み込んでいた。

 

午前8時半、ツアー二日目スタート。

ダム湖沿いに日和田集落へ。

集落から背後の山に向かうと広場に出る。

そこが最初の目的地、血取場だった。

血取場。全景には、バスがどうしても入ってしまう。

 

2日目①血取場(岐阜県高山市高根町日和田)

山裾の木々の根元に数十基の石仏が点在している。

ひときわ目立つ大きな石碑は、三十三変化観音碑。

 

最上段の中央に弥陀三尊がおわす。

他は、ほとんどが馬頭観音。

馬頭観音が多いのは当然で、ここは馬の血取場だったからです。

「血取り」とは、文字通り馬の血を流し出すこと。

馬の首の静脈に「刀針」を刺し、血を噴き出させる。

そうすることで馬は丈夫になると言われてきた。

血取りは、春先の恒例行事。

同時に、冬の間に伸びた蹄を削って整える。

大変なのは、上あごと尾の先端を焼きごてで焼く作業。

馬にとっては、拷問に等しいから、暴れる。

それを抑えるのは、屈強な若者達。

血取りが終われば、恒例の酒盛りが始まる。

馬の出産、病気、仔馬の評定などなど、馬の話題は尽きなかった。

 

血取場の石仏群から離れて、ポツンと石碑が1基立っている。

 

「日本魂神平霊神」は、この地域の御嶽教覚明講普及に努めた空明行者の霊神碑。

覚明講では、覚明を讃える念仏を唱えた。

そもそも覚明行者と申るは、しじやうさいど(衆生済度)の、がんあつく、えんの行者のあとをつぐ。(中略)ここに志なのの御嶽山、とうとき神がましませどたいて(絶えて)もうずる人もなし。ひとたび山をも開かんとふかくきせい(起請)をたてければ、志んちょくあらたにゆるされて、大せんたつ(先達)ともなられけり。あまたのとうぎやう(同行)ひきつれて、じやうげ(上下)することかずしれず」(『開田村史』より)

しかし、明治34年、空明の死とともに御嶽講も自然消滅する。

ところが、御嶽講と一体化していた念仏講だけは、二十一世紀直前まで続いていた。

葬儀に念仏は欠かせないが、寺が遠く、僧侶を呼べないので念仏講中を必要としたからです。

現在は、車で僧侶が来て、葬儀を執り行うので、念仏を唱えられる人も少なくなっているという。

 

血取場の裏山に立派な馬頭観音があるという。。

猪よけのフエンスの一部を開けて、山へ登る。

 

心臓が悪いから山登りは苦手だ。

しんがりを務めて行ったら、割り込む隙がない。

3体の石仏が人気のようだ。

中央が、安政6年(1859)の馬頭観音。

左は高王白衣観音(大正7年)、右は、釈迦如来(大正8年)。

馬頭観世音を主尊とする三尊仏であるかのようだ。

日和田の人たちの、馬頭観音信仰の深さが分かるような気がする。

馬が産気づく、元気がない、病気だろうか。

家に祀ってある馬頭観音に手を合わせるだけでは気が休まらない。

ここまで駆け上ってきて、安産や快癒を祈願したのだろう。

安政6年に馬頭観音だけが建てられた。

60年後に、白衣観音と釈迦如来が付けくわえられたが、このような三尊形式は、義軌にはない。

 

 三尊の周りに馬頭観音群がある。

中に数体、三面馬頭観音ならぬ三頭馬頭観音がある。

  

      三頭馬頭観音

まるで3本のきのこが生えたみたいだが、馬の頭。

御嶽山麓特有なものとして注目に値する、とは大護八郎氏(故人・前日本石仏協会会長)の見解。

 

2日目②牧の祭場(岐阜県高山市高根町日和田?)

夏祭りの祭場に立派な石仏、石碑が並んでいるのが、高根町の特徴と云えよう。

                  牧の祭場

ここ牧の祭場も例外ではない。

地元では「田の神様」と呼んでいるのは、中央に保食神があるからだろう。

保食神文字塔の大きさが目立つが、カメラが集中したのは、その隣の秋葉神像。

           秋葉神像

狐に乗る烏天狗の威風堂々たる神像だが、カメラを構えながら皆ブツブツ、不平を鳴らしている。

像のまん前の電柱の影が、縦に太く入り込んで、いい写真が撮れないのだ。

「こんな所に電柱を建てるなんて、気が利かないわね」と女性陣の声が1オクターブ高くなる。

女の声が高くなると、ろくなことはないから、そっと場を外す。

その右隣の不動明王坐像は、石工・宮下鉄弥の作品。

 

    宮下鉄弥作不動明王               カタカナ六字名号

秋の強い日差しで、私のコンパクトデジカメでは陰影のない真っ白な像にしか写らないのが残念。

「ナムアミダブツ」とカタカナの名号塔もあるのだが、私のカメラでは「ナム」が辛うじて読めるくらいだ。

7基の大型石造物の背後に馬頭観音が24体並んでいる。

丁寧に保存してあるのはいいが、びったりとくっついて、前後の間隔がないから、像容がまるで見られない。

石仏を観光資源にするのなら、馬頭観音群の正面を道路から見られるように配置を変えたらいいのに。

日和田の馬頭祭は、毎年八十八夜の日に行われた。

この牧を始め、下村、留之原祭場で、馬頭観音に各家の馬の二世安楽を祈願して念仏をあげる。

祭場での供養祭を終えると血取場に集まり、鉦を叩きながら念仏和讃を唱え、終わると団子を播いた、と『高根村史』にはある。

フアインダーを覗いていたら、石碑と石碑の間に黄色いものが見えた。

 

何だろうと近づいて見たら、家の入り口に黄色いハンカチが掲げられている。

聞けば、「今日も元気ですよ」という独居老人の合図のハンカチだという。

「過疎」を通り越して今や「限界集落」になりつつある高根町の最大課題は、独居老人世帯。

(*限界集落とは、65歳以上の人口が50%以上の集落。高根町全体で48%だから、限界集落はいくつもあることになる)

こまめに民生委員が見て回ることなど夢のまた夢。

集落全体でケアしなければならない。

そこで捻りだされたアイデアが、黄色いハンカチだった。

2010年の秋から実施に移されている。

ヒントは、映画「幸福の黄色いハンカチ」。

限界集落らしい見事なアイデアだが、信号機の黄色は、赤の予告灯でもある。

集落全体が発信する「SOS」であるかのように見えてならない。

日和田高原の石仏の魅力は、昔のまま損なわれずに、そこにある、ことだろう。

それは、開発に値しなかった地域ということでもある。

未開発は、人口流出の誘発要因でもあるから、人口減と石仏の数は反比例の関係にある。

消滅集落(誰もいなくなった村)に石仏だけ残って、その石仏巡りを楽しむという、のほほんとした構図を、私は好まない。

であるが故に、NPO法人YIKの村おこし住民運動が結実することに期待したい。

観客席からの、第三者的発言で、気が引けるが、心からそう思うのです。

 

2日目③森越神社(岐阜県高山市高根町小日和田)

 日和田から、バスは小日和田へ。

小日和田は、 13世帯、26人の小規模集落。

道路際に一面ススキの白い穂がなびいている場所は、住居跡らしいが、原野化していて判然としない。

小日和田の産土神社は、森越神社。

           森越神社

 13軒で神社を維持してゆくのは、大変だろう。

参道沿いに石仏群。

左端の馬頭観音は、三面八臂の忿怒相。

一面二臂慈悲相の馬頭観音ばかりの当地には珍しい像容だ。

神社脇にも石仏、石碑が並んでいるが、コケで判然としない。

左から、保食大神、不動明王(宮下鉄弥作)、天照大神?像、秋葉神像、と配布資料にはある。

境内から100mほど離れた所にぽつんと墓地があるので、行って見た。

行って見るものである。

掘出し物があった。

一神二仏の小石仏が墓標の最前列に座していた。

中央は神像、右に地蔵、左に馬頭観音を配してある。

神像が何かは不明だが、願うは「五穀豊穣」だろう。

地蔵には、家族の、馬頭観音には、馬の、二世安楽を祈願する石仏である。

馬小作の農家として、これ以上の望みはないだろう。

類型のない、独自の石仏を発注した施主は、どんな農家の親父だったのだろうか。

会ってみたい気がする。

私には、今回の石仏巡りでの、これが最大の収穫物(仏)であった。

 

神社の左から山へ道が伸びている。

道と云っても、通る人もいないから、草茫々の荒れ放題。

ここは、日和田と小日和田を結ぶ前坂峠。

 

夏祭りには、この峠道を神輿が行き来した。

更に往時に想いを馳せれば、多くの旅人が馬とともに、この道を通り過ぎていたはずである。

飛騨と木曽を繋ぐ鎌倉街道でもあったのだから。

道路わきに石像が転がっている。

松の木の根元に置かれていたものが、転げ落ちたようだ。

よく見ると覚明霊神像。

大型の丸彫り像ばかり見てきたので、コンパクトサイズは新鮮だ。

そのちょっと先には、彩色の馬頭観音。

上半身の色が失せているのが惜しい。

行けども行けども、上りは続く。

今日二度目の山登りで、足が進まない。

断念して引き返そうかと思ったら「この上には、日和田で一番数多くの石仏があるよ」と地元の人が言う。

「数多い石仏」に魅かれて、再び、上り出す。

先行していた人たちが、小屋を覗いている。

 

やっと、目的地に着いたようだ。

小屋の中には,三十三所観音。

この小屋から緩いスロープの左側に石仏が点在している。

最初のグループは、六字名号塔。

左は、百番巡礼塔、真ん中は徳本名号塔。

次が文字馬頭観音群。

ひょろ長いのは、覚明霊神碑。

ただし、左から2番目は、妙見大菩薩。

どうして細く長いのだろうか。

隣の小堂には、妙見菩薩がおわすが、桟があって全身が撮れない。

 

足元に亀がいるから、妙見さまだとは分かるのだが。

峠からの眺めが素晴らしい。

御嶽山が紅葉の中にゆったりと構えている。

昔の人は、あの山の頂上まで登り、その日のうちに帰って来たという。

前坂峠を上るだけで、くたばってる者としては、信じられない話だ。

登るのは最後尾だったくせに、下るのは早い。

先頭を切って降りてきた。

参道の馬頭観音群を撮る。

背後に廃屋が入り込む。

人去って、石仏だけが残る!

 

皆はまだ下りてこないので、あたりを散策。

廃屋が、もう一軒あった。

墓だけが新しい。

廃屋とのコントラストが強烈だ。

 

かつて、この家の屋根からも竈の煙が立ち上っていた。

放し飼いの犬が吠える。

子どもたちが遊び、鶏が駆けまわる庭を横切って、戸をあける。

入り口の左に厩。

馬が、首をこちらに向ける。

馬糞と尿が沁み込んだ敷き藁の臭いが鼻をつく。

囲炉裏の火に照らされて、煙の中に家人の顔がぼんやりと見える。

(*小日和田に電灯がついたのは、昭和28年)

そんなイメージが、、廃屋にだぶって浮かんでくる。

庭の片隅に、この家の馬頭観音はないかと探してみたが、見つからなかった。

 

「安くて美味い蕎麦です」と地元の案内人が言う。

NPO法人YIKは、地域おこしとして、荒廃農地の蕎麦作りを推進している。

希望者には安く販売する、ということでバスが停まったのは、日和田小学校。

鉄筋コンクリートの真新しい校舎だが、生徒はいない。

高根町が高山市と合併したのは、2005年のことだった。

10人の子どもたちは、合併後、隣町の朝日町小学校へバス通学をすることになったが、今は5人に減った。

合併9年前にできたばかりの校舎は、今、アスリートの為の高地トレーニングセンターとして利用されている。

診療所もあるが、今年の4月から常駐医師はいなくなった。

昼食は、新蕎麦の「火畑(日和田)そば」。

蕎麦屋の窓からは、北に乗鞍岳、南に御嶽山が見える。

 

   蕎麦屋「望嶽庵」               「望嶽庵」から乗鞍岳を望む

午後、最初の石仏スポットは、池ケ原登り口。

2日目④池ケ原登り口(岐阜県高山市高根町留之原)

池ケ原は昭和の開拓地。

開拓の初期から、馬ではなく、牛がメインだったと村史には書いてある。

本州の戦後開拓地の大半は、離農者が続出して、原野にかえってしまった。

わずかな世帯ではあるが、存続しているのは珍しい。

主な生産物は、トウモロコシとほうれんそうだとか。

道路沿いの林の駆けあがりに15,6体の馬頭観音群。

         池ケ原登り口

その左奥の岩の上に5体の石仏。

前面に丸彫り馬頭観音を配し、後列に御嶽信仰の霊神碑が並んでいる。

      

覚明霊神像  覚明霊神像 馬頭観音 日本魂神  普覚霊神像
                          平霊神

この地域の特色ある石仏配列といえよう。

2日目⑤開拓の祭場(岐阜県高山市高根町留之原)

 木曽から日和田にかけて、馬と牛の数は、昭和25年(1950)を境に逆転した。

馬の市にハム業者が出入りするようになったのが、きっかけだった。

あっという間に牛の値が馬の倍になったという。

留之原開拓地では、それ以前から、牛が多かった。

開拓の祭場には、だから、牛頭天王の文字碑ばかりが立っている。

               開拓の祭場

「南無牛頭天王」、「大悲牛頭天王」にまじって、「牛頭観世音菩薩」がある。

   

 南無牛頭天王              大悲牛頭天王          牛頭観世音菩薩

「馬頭観世音菩薩」は仏教の教義にあるが、「牛頭観音」は民間信仰の造名である。

牛頭天王は疫病や病虫害を防ぐ神で、京都の祇園祭が有名だが、ここ留之原でも同じ日に祭を行ってきた。

自然石に穴を開け、牛の鼻に見立てて、鼻輪が付けてある。

 開拓の祭場で、二日間の日和田高原石仏巡りは終了。

バスは塩尻を目指して、一路、帰途に着くが、途中、開田高原で一か所寄り道をした。

2日目⑥西野下ノ原(長野県木曽町開田高原)

荷物を整理していて、バスを降りるのが遅くなった。

メインの御嶽大権現と覚明神を祀る霊場は、既に人で一杯。

右にぽつんと座す地蔵に向かう。

        平次郎地蔵

「平次郎地蔵」と木曽町教育委員会が建てた解説板にはある。

以下、解説文。

享保3年(1817)の春、野焼きの火が延焼して、徳川尾張藩の倉本巣山(鷹狩の鷹の巣を守るための、入山禁止の山)を焼いてしまった。その失火の責任を一人で背負い、投獄され、庄屋や村人を助けた平次郎を供養する地蔵」。

平次郎地蔵の前には十数基の馬頭観音群。

三面ならぬ三頭馬頭観音がいくつもある。

  

    3頭馬頭観音

2頭や1頭もあるから、うれしくなってしまう。

 

   2頭馬頭観音             1頭馬頭観音

霊場には、覚明霊神像が何基もある。

 

覚明霊神がなぜ流行ったのか、そのヒントが『木曽福島町史』にあった。

覚明講は、寒行の結願の日に行われた。先達が水をかぶって行をし、神様を呼ぶ。神様には覚明とか御嶽がある。中座(御嶽講でのシャーマン)が、無我の境地になり、神が乗り移ると、先達が『何の神がきた』と聞く。中座が『覚明だ』と答えると、村の衆は今年の天候や農作の具合を尋ねる。中座は『油断なきよう信仰に及ぶこと』と前置きをして『稲作、ワセ七分、中テ六分五厘、オクテ八分』などと答える。家族の不幸や病気のことなど、個人的な願い事があれば、お加持をしてもらう」。

神のお告げという「現世利益」が、そこにはあったことになる。

これで、「日本石仏協会主催日原高原石仏巡り」は、無事、終了。

案内と説明役を務めてくれた、日本石仏協会中津川支部の方々、高根町NPO法人YIKの人たちとここでお別れ。

日本石仏協会の坂口会長が謝辞を述べ、案内の方々からお別れの挨拶があった。

 

塩尻駅までのバスのなかで、参加者全員が二日間の感想を述べた。

「日和田では、庚申塔を見かけなかったが、それは何故なのか、今後の研究課題」とは、坂口会長の話。

そういえば、双体道祖神もなかった。

どこでも見かける如意輪観音像も見かけなかった気がする。

馬頭観音はあふれるようにあったが、徴用軍馬供養塔は見かけなかった。

限定されたコースだから、確定的なことは言えないが、明らかにローカル色があることは 否めない。

大護八郎氏はこう書いている。

御嶽山北麓の高根村には、道祖神や庚申塔その他の民間信仰の石仏はほとんどなく、わずかの地蔵や妙見のほかはすべて馬頭観世音である。木曽では馬の無病息災はもちろん、人間の病気平癒から一切の願いごとが馬頭観世音にささげられており、そこに人と馬との区別はないのである。総じて、木曽駒と密着した馬頭観世音像の、これほど量的に集中したところは、南部駒の産地であった南部領にも見ることはできなかったし、頭上に幾つもの小馬頭を戴いた木曽独特の二臂像は、最も特筆に値するものである」。

バスは、16時半、塩尻駅着、散会となった。

 

参考図書

○高根村史(1984)

○開田村史(昭和55年)

○木曽福島町史(昭和58年)

○伊藤正起「木曽馬とともに」平成8年

○黒田三郎「木曽馬ものがたり」昭和52年

○大護八郎「木曽の馬頭観世音」『日本の石仏6-甲信・東海篇』1983年

 資料提供 高山市高根支所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 


42 日本石仏協会主催「日和田高原石仏巡り」一日目

2012-11-01 10:04:03 | 石仏めぐり

今回は、日本石仏協会主催の石仏巡りツアーの報告。

非会員でもOKということで、初めての参加です。

日程は、2012年10月21日ー22日の一泊二日。

目的地は、岐阜県高山市高根町日和田高原。

参加費、2万3000円(バス代、宿泊費、昼食費込み)

21日、10時半、参加者23人を乗せて、バスは塩尻駅前をスタート。

参加者の平均年齢は、70歳前後とお見受けした。

男女比は、6対4。

女性が多いのが、意外だった。

ガイドは日本石仏協会中津川支部の3人。

3回の現地下見の上作成したという42ページの詳細な資料が配布された。

バスは木曽福島から開田高原へ。

開田高原でも何カ所かの石仏スポットがコースに組み込まれている。

1日目①「末川大橋石仏群と観音堂」(長野県木曽町開田高原末川)

 小堂の中に西国三十三観音。

 

堂の左に10数基の石仏群がある。

 

前列の双体道祖神や後列の二十三夜塔にカメラの放列があるが、私の関心事はその脇の馬頭観音群にあった。

23基の馬頭観音像が整列している。

文字はない。

あっても読めないから時代ははっきりしないが、江戸末期から昭和までのものだろう。

「思っていたより少ないな」というのが、第一印象。

なにしろここ末川は、木曽馬の産地開田高原の中でも1,2を争う頭数の多い村だったからです。

馬が死ねば必ず馬頭観音碑を建てる。

それがこの地方の慣例でした。

とすれば、江戸時代から昭和まで、建立された石碑は厖大な数だったはずです。

木曽馬の歴史は古い。

木曽義仲が険阻な木曽山中の戦いを有利に進められたのは、木曽馬を乗りこなしていたからだったと伝えられています。

末川が馬産地として記録される初出は、天保年間(1830-1844)の『木曽巡行記』。

駒は山深く寒地ほどよろし。木曽にては西野、末川、黒沢を好しとす。皆御嶽の裾野なり。然るに山民共牝馬を買い種馬にいたす程の元手なき貧窮の者多き故、福島の商人金主をいたし、牝馬買上預け置き、毎年飼料金壱分遺し、駒売後の節直(あた)ひの三分ケ一飼主へ与えるなり。西野、末川、福島町人よりの預り馬多し

 短い文章に「末川」が2回登場する。

前は、馬産地として、後ろは、預り馬の多い村として。

末川の大半の馬の持ち主は、飼主の農家ではなかったのです。

     『木曽馬とともに』より借用

持ち主は木曽福島の商人で、彼らを「馬持ち」と云った。

一方、馬の借主は「馬屋元」と云ったが、大正時代に「馬持ち」は「馬地主」に、「馬屋元」は「馬小作」と分かりやすく名称が変わった。

仔馬の売却代金は、折半。

馬地主と馬小作の関係は永続する場合が多く、馬地主は馬小作に対して、茶塩の世話から冠婚葬祭等の不時の出費の用立てまで、担保なしの簡便な銀行としての役割も果たしていました。

馬小作制度は、木曽馬理解には不可欠なキーワードなのです。

1日目②「瑞松寺」(長野県木曽町開田高原末川)

山門を入ると右手に石造物群。

 

   瑞松寺山門

カメラの集中砲火を浴びたのは、小屋掛けの延命地蔵尊。

名工・守屋貞治の作品は、開田高原と日和田高原にはここだけと云う話。

撮影が終わると刻字読みが始まる。

「じっくりと字を読みたいのに、撮影が終わるとさっさと移動してしまう」とこぼす御仁もいる。

ちょっと風変わりな石像の前で議論が始まっていた。

「上の丸石は要らない」

「いや、頭として必要だ」

「丸石を除けば観音さまだ」と侃々諤々。

正否はともかく、皆自信たっぷり。

さすが石仏協会のツアー、面白い

1日目③路傍の一石三十三変化観音(長野県木曽町馬橋)

目的の一石三十三変化観音は、松の木の向こうの木の茂みの中にある。

松と紅葉の間からこちらに、国道をよぎって昔の街道が走っていたようだ。

だから一石三十三変化観音は、往来に面していたことになる。

 

彫りはいいのだが、カメラの腕がないので、あまりはっきりしない。

「下見に来た時、ああ、一石三十三所観音かと思ってよく見ることもなかったのですが、後で一石変化(へんげ)三十三観音だと分かって大変な見落としをした、大失敗を犯してしまったと落ち込みました」とは、ガイドのAさんの話。

一般の人たちには、チンプンカンプンだろう。

説明なしにこの話が出るところが、石仏協会主催のツアーらしい。

私は、すんなり理解した。

進歩があったということか。

うれしい。

(注)「三十三所観音」は、西国、坂東、秩父などの三十三カ所観音霊場の本尊。

   「三十三変化観音」は、三十三体観音とも云う。観世音菩薩が衆生済度の

   ために三十三の姿で示現する変化身の意。白衣観音、魚籃観音など。

 

御嶽山(おんたけさん)を遠望する絶景ポイントでバスが停まった。

霊山にふさわしい山容だ。

昔の人たちが、神として崇めたのも当然だろう。

そんなことを思いながらシャッターを切っていたが、御嶽信仰にからむ石造物が、この後、次々と現れることをこの段階では知らなかった。

1日目④「覚明石造物群」(長野県木曽町開田高原西野関谷)

バスでの石仏巡りの問題点は、全景を取りにくいこと。

バスから降りるのが遅いと、どこから撮っても、人が入り込んでしまう。

無人の全景を撮るには、いち早く現場に走るか、みんなが撮影し終わってバスに向かう時間を待つしかない。

この現場は、走った。

木の柱に囲まれて石造物が並んでいる。

石碑には、「覚明霊神」と刻まれている。

 

「御嶽神社」の石碑もある。

中央の人物像は何か、同行の石仏博士(と私が勝手に思っている)に訊いたら、「覚明」その人だと云う。

この段階では、「覚明」に無知のまま、シャッターを押していた。

これから先の記述は、だから、すべて帰宅してから得た知識によるものです。

正直にいえば、「覚明」だけでなく、木曽馬についても、日和田高原の歴史と民俗についても、全部が後知恵なのですが。

「覚明」は、文字遊びすれば、「革命」的変革をもたらした行者でした。

何が革命的だったか。

それまで、100日の精進、潔斎、参籠などの難行苦行した修験者にしか許されなかった御嶽山登拝を一般庶民に解放し、御嶽信仰を全国的に広めたからです。

天明(1781-1789)の頃のことでした。

霊神碑は御嶽信仰独自のもので、「死後その霊魂は御嶽へかえり、大神のお側に仕えまつる」という趣旨。

今度のツアーでは、覚明と普覚、それに空明の霊神しか見かけなかったが、御嶽山の登山道には霊神碑が林立し、山麓一帯を含めるとその数二万と『木曽福島町史』には書いてある。

中央の細長い石柱には「廿三夜」の文字。

覚明の命日、1月23日に御嶽講中がこの霊神場でお神酒を進ぜてお祭りをした、その証拠物件とも云えようか。

社の前に並ぶ馬頭観音。

 

中の1基には、昭和59年の文字が見える。

おそらく、この地域、最後の木曽馬だったはずです。

昭和25年に馬と牛の数が逆転、あっというまに馬は激減、牛の天下になった。

左にある牛頭天王の文字がそうした状況を物語っている。

 

バスは開田高原から北の方へ。

目的地の日和田高原は、木曽福島から高山への道のほぼ中間点。

(本来はここで地図を入れたいのだが、何度トライしても入らないので諦める。ふがいなく、なさけない)

高度があがるにつれ、車窓からの紅葉の色合いが一段と濃くなってゆく。

県境を越えて岐阜県高山市高根町へ。

高根町は、平成5年の合併で高山市の一部となった。

高山市高根町に入ったところで、3人の男がバスに乗り込んできた。

自己紹介によれば、高根町のNPO法人「YIK」の関係者た゜とのこと。

「YIK」は、人口流出、人口減に悩む高根町の町起こし運動体。

「Y:よしたよ I:いごいて K:くいて」(日和田の言葉で「よくしてくれてありがとう」の意)

彼らは、日和田高原に点在する550基の石仏を観光資源として利用すべく、今年の7月から「御嶽山の石仏巡りツアー」を始めた。

23人もの石仏巡り団体の受け入れは、彼らにとっても一大イベントに違いない。

今日と明日、石仏スポットを案内し、説明してくれると云う。

「YIK」の先導車の後をバスが追う形で、まずは最初のポイントへ。

1日目⑤留之原祭場(岐阜県高山市高根町留之原)

 留之原は、文字通り、止めの原の意。

日和田高原の最南端に位置する。

二本の川に挟まれた台地だが、川からの斜面は急峻で登るのは容易ではなかった。

人が住み始めたのは、大正時代初期。

開拓が目的だった。

それに戦後の食糧難時代に入植した人たちが一緒になって集落を形成した。

留之原祭場の石造物は、そうした彼らの守護神として祀られたものらしい。

中央の立像は、妙見菩薩。

 

「亀に乗っている像は、たいてい妙見菩薩といってよい」と『日本石仏図典』にあるが、確かに亀趺に乗っている。

左端は保食神(うけもちのかみ)。

「食物を保持し、与えてくれる神」の意。

牛馬の神とする地域もあるという。

東京では見かけない。

私は、初めて見た。

だから「うけもちのかみ」という呼び方も「石仏博士」に教えてもらって知った。

日和田高原は、農業の最冷前線地帯だから、収穫は天候に左右されやすい。

獣医などいないから馬の病気は一家の命運を左右した。

人智を超えた神頼みの神として、留之原の人たちは保食神を選択したのだった。

日和田では、このあと、保食神を何基か目にすることになる。

 

午後3時、日和田集落に到着。

道の両側に家がポツリポツリと並ぶ、細長い集落。

その長さ約2キロ。

標高1300mの高地なのに集落があるのは、ここが飛騨と木曽福島を結ぶ道路の要衝地だったからです。

元禄検地で、すでに戸数18戸が記録されている。

18戸で村の石高わずか6石。

極貧の村だった。

現在の人口116人。

バス停一位森八幡神社の時刻表

137年前の明治5年には、56世帯、353人だった。

激減のきっかけは二つ。

昭和45年のダム建設と平成5年の高山市との大合併。

合併前の日和田の人口は186人だったから、わずか7年で4割も減ったことになる。

標高1300mでの紅葉は、すぐそこに冬が来ているというしるし。

軒まで積み上げられた薪が、冬支度万全を告げているかのようだ。

1日目⑥下村の祭場(岐阜県高山市高根町日和田)

「えっ、こんなとこに!」とびっくり。

民家の庭先に石仏が並んでいる。

しかも、場所に似合わず、逸品揃いなのだ。

圧巻は中央の一石火伏せ二神並立像。

向かって左が、愛宕大神、右が秋葉大神。

いずれも防火の神。

愛宕大神の像容は、本地仏の勝軍地蔵です。

珍しい神像が並んでいて、彫りもいいから見飽きない。

腕に自信があるのだろう。

ちゃんと石工名が刻んである。

「石工 信州上伊那郡西春近 宮下鉄弥」。

 『木曽福島町史』によれば、宮下鉄弥は昭和の初めまで木曽に入り込んで仕事をしていたらしい。

特に開田村と日和田にかけて、彼の作品が多いという。

「腹巻きに鏡を入れておいて、時々鏡を取り出して自分の顔を見ながら、馬頭観音を彫っていた」とは、馬頭観音の制作を依頼した施主の話。

霊神碑などの大きな文字の彫り方を地元の石工に指導していたという話も伝わっている。

この一石火伏せ二神の両脇に立つ丸彫り石仏も素晴らしい。

大慈の台石に立つのが聖観音。

大悲が馬頭観音。

 

銘はないが、宮下鉄弥作品ではなかろうか。(と、素人の勝手な想像。根拠はない)

この馬頭観音像は墓標ではない。

にもかかわらず、忿怒相ではなく慈悲相であるのは、ここが木曽馬の産地だからだろう。

おとなしい木曽馬に忿怒相は似合わない。

ここにも、保食大神(うけもちのかみ)。

       保食大神

寒冷地だから何度も飢饉に襲われてきた。

飢えの恐れのDNAが、保食大神に繋がっているように思える。

同じ馬頭観音なのに、墓標石仏には誰も見向きもしない。

よく見るとビニールハウスの骨組みのような細いパイプが石仏群を覆っている。

石仏が雨に濡れないためかと思っていたが、違った。

夏祭りの際、獅子が舞う。

その時の雨対策だと云う。

そういえば、ここは「下村祭場(さいじょう)」という場所なのです。

隣家の時ならぬ騒ぎをよそに黙々と豆ふるいに励むご婦人。

私の故郷・佐渡でも見かけなくなった光景。

なつかしいので、つい、パチリ。

1日目⑦一位森八幡宮(岐阜県高山市高根町日和田)

 八幡神社は、日和田の産土神社。

元禄検地にも記載があるからその歴史は古い。

境内奥は国の天然記念物のイチイの原始林があるのだが、団体行動なので行くことが出来ず、従って写真はない。

日和田祭は、この一位森八幡神社を中心に行われる。

昔は8月1日から3日間行われたが、昭和の終わりにお盆休みの8月12、13,14日になり、人口減少に伴って3日が2日に、そして現在は8月13日の1日だけとなった。

圧巻は、小日和田の森越八幡神社への神幸。

  

    森越八幡神社 (小日向)                  鎌倉街道の前坂峠

旗、鉦、獅子、神楽の先導で神輿が前坂峠を越える。

 神社で宮祭と直会を終え、祭場を回って夜遅く日和田八幡宮に還行するというものだった。

 森越八幡神社での獅子舞(写真は高山市高根支所提供)

現在は、3日間の神事を車で回ることで1日に短縮している。

 

本殿右奥に石造物が並んでいる。

左から、普覚行者、金毘羅、愛宕、秋葉の三神、天照皇大神像、御嶽大神、覚明行者と並んでいるのだが、右端の覚明が写っていない。

なにしろ狭い所にカメラマンがひしめいて、引いた画が撮りにくい。

中央の天照皇大神像は素朴な感じの女性像。

団子鼻であか抜けない。

神は洗練された姿であってほしいとこれは私の余計な願望。

左右の像は、御嶽信仰の霊神像。

 

      普覚行者霊神像              覚明行者霊神像

2神とも下駄をはいている。

同じ神でも、こちらは洗練されていない所がいい。

日和田の御嶽講は、明治の最盛期には、集落が全戸参加して御嶽山登拝を行っていた。

男女とも、白衣と笠それに金剛杖という装束。

夜明け前に日和田を発ち、六根清浄を唱えながら登頂、頂上での祭典を終えてその日のうちに帰村したという。

日和田での先達は空明行者だったが、彼の死後、御嶽講は急速に衰え、消滅してしまう。

1日目⑧原家跡(岐阜県高山市高根町日和田)

1日目最後の石仏スポットは、原家跡。

      原家跡

原家の前に「富農」だとか、「素封家」だとか、「 資産家」とかつけた方が、原家を理解しやすいかもしれない。

私は、東京・板橋に住んでいる。

数年前、「板橋資産家夫婦殺害事件」があった。

飲み屋で、どのくらいの資産家だったか話題になったことがある。

「家の中で、札束にけつまずいてケガをした」と話す男がいた。

「板橋の自宅から池袋まで、所有地を歩いて行ける、と聞いた」という話も出た。

原家の場合はケタが違う。

日和田から木曽福島までの9里半(38キロ)、他人の土地を踏まずに行けた、と云われている。

当然、日和田の田畑の大半は、地主の原家の所有地であり、各農家の馬もまた馬地主の原家のものだった。

秋になると籾を背負った小作人が門前に列をなした。

11棟の水車小屋は、籾摺りにフル稼働していた。

馬の数は約300頭。

しかし、正確な石高と頭数は不明。

村当局が原家の財産を把握しきれていなかった上に、原家の文書は焼却されて残っていないからです。

その資産家原家も没落して、今は、見る影もない。

わずかに屋敷に入る観音開きの門扉と石垣の上に伸びる屋根付き板塀にその面影を残すのみです。

板塀が途切れたその先には、石垣に石仏が行儀よく並んで、道行く人を見下ろしている。

特記すべきは、左端の騎座金剛界大日如来。

 

馬に乗った大日如来は珍しい。

大馬地主原家の特注品だろうか。

あとはほとんど馬頭観音、それに地蔵が少し。

右端には、3基の双体像。

  

いずれも像容は地蔵だから、六地蔵ということになる。

最盛期の原家には、50―60人の大工や石工がいたが、彼らは美濃から来ていたので、日和田の人たちは知らなかったようだ、と『高根村史』には載っている。

これらの石仏群は、そうした雇われ石工の作品かもしれない。

 

1日目の日程は、これで終了。

宿泊旅館の「七峰館」に午後4時半に到着。

夕食までの時間を利用して、高山市副市長の歓迎の挨拶とNPO法人「YIK」代表による「日和田の石仏」についての話があった。

午後6時からの宴会には、副市長と「YIK」の関係者数人も出席、なごやかに懇談して散会となった。

次回、二日目の報告は、11月16日UPの予定。

参考図書

○高根村史(1984)

○開田村史(昭和55年)

○木曽福島町史(昭和58年)

○伊藤正起「木曽馬とともに」平成8年

○黒田三郎「木曽馬ものがたり」昭和52年

○吉永みち子「もっと馬を」1990