石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

33 よし子地蔵

2012-06-16 09:13:46 | 地蔵菩薩

人の行為には、すべて、きっかけや動機があります。

私が石仏めぐりを始めたのは、あるお地蔵さんに出会ったからでした。

今回は、このお地蔵さんについての話です。

私は東京生まれですが、育ったのは佐渡です。

1年生になる春、入学するはずの小学校は疎開してありませんでした。

父と母の田舎、佐渡へ移って、小学校から高校まで過ごしました。

今、74歳ですから、佐渡にいた15年間は、人生のほんのわずかな期間なのですが、多感な時期だっただけに佐渡に対する思い入れは大きなものがあります。

佐渡は島です。

島だから隅々まで知っている、と思われがちですが、とんでもない。

日本一の大きな島ですから、行ったことのない場所の方がずっと多いのです。

今から5年前、古稀を迎える直前、一つのことを心に決めました。

行ったことがない、まだ知らない佐渡に出会ってみたい。

島の隅々まで回ってみたい。

その手段として選んだのが、「佐渡八十八カ所」巡りでした。

この選択は正解でした。

島中に点在する寺を巡ることは、島の地理と近世史を知る近道だったのです。

予期せぬ、多くの石仏、石造物に出会えたことも収穫の一つでした。

特に地蔵菩薩。

佐渡は地蔵の島と言われます。

寺にお堂に四辻に、田圃に海岸に岬に、島の至る所にお地蔵さんが立っています。

観音様や庚申塔、馬頭観音もありますが、圧倒的にお地蔵さんが多いのです。

数が多いだけに、魅力的なお地蔵さんも少なくありません。

冒頭のお地蔵さんもその一つ。

実は、このお地蔵さん、佐渡博物館の中庭にいらっしゃいます。

なにはともあれ、その頬笑みがすばらしい。

普通は閉じているはずの目が、細いながらも開いています。

「お悩みは何?」と、こちらの目を見ながら問いかけているかのようです。

石であることを忘れさせる柔和な表情は、いかなる悩みも受け止めてくれる包容力に満ちています。

目じりの下がった眼が微笑の源ですが、両端がちょっと上がった口元も頬笑みを強めています。

こんなに微笑んだ仏様は、大きな寺の本堂では決してお目にかかれません。

野仏だからこそお目にかかれるのです。

 

石仏の微笑というと、小泉八雲の『日本人の微笑』を思い浮かべます。

小泉八雲が京都の小さなお寺の入口でお地蔵さんを見ていると、そこへ十歳ほどの少年が走り寄ってきて、お地蔵さんに手を合わせ、頭をさげて黙とうしたというのです。その少年の微笑は、お地蔵さんの微笑と似ているので、まるで少年と地蔵は双子のように見えたのだそうですが、お地蔵さんの微笑みは日本人の微笑だったのではないかと小泉八雲は云うのです。

明治時代、日本に来たイギリス人には日本人の微笑は不可解でした。失敗を犯したことで鞭打たれながらも微笑みを絶やさない車夫、夫が死んだからと笑いながら休暇を求める女中、こうした日本人の微笑は理解できないと嘆く同胞に対して小泉八雲は、この微笑は日本人の礼儀正しさに因るものだと説くのです。「これをあなたは不幸な事件とお考えになるでしょうが、どうかそんなつまらない事にお心を悩まさないでください。やむを得ずこんなことを言って、礼儀を破ることになったことをお許しください」。微笑は長い間に育まれた礼法であり、無言の言語なのだと小泉八雲は喝破するのです。

閑話休題。

当のお地蔵さんは、観音様や不動明王などと一緒に佐渡博物館の中庭に「展示」されています。

博物館の展示品であるならば、由緒ある石仏であるに違いないと思ったとしても不思議ではありません。

でも、どの石仏にも由緒は表示されていません。

今なら、石工としても未熟な作り手の作品だと分かりますが、石仏に出会ったばかりの頃ですから、どんな名のある石工の作品なのだろうか、いかなる歴史ある寺の石仏なのだろうかと想像は膨らむばかりでした。

幸い、高校の同級生が博物館員だったので、お地蔵さんの氏素性を尋ねる手紙を出しました。

嬉しいことに、すぐ返事がありました。

「お手紙のお地蔵さんは、昭和43年に博物館に入ったものです」と前置きがあり、以下本文。

「通称、よし子地蔵。昭和17,8年頃、福井県から夏休みに親戚のお寺に遊びにきていた女の子が相川鉱山のトラックに敷かれて死亡した。女の子の名前は、よし子。その子の供養のために造られたので、よし子地蔵と呼んでいる。よし子地蔵をお守りしてきた鈴木あさよさんは、ご主人を亡くし一人で暮らしてきたが、このたび、宮城県にいる息子さんの所に身を寄せることになり、当地蔵を博物館に寄贈することになった」。

石仏といえば、江戸時代のものと決めていたので、昭和の彫像と知って意表をつかれた思い。

手紙は、石工についても触れられています。

「石工は相川水金町(相川遊郭のあった町)の石坂石屋さん。現在は廃業して家は廃屋になっている。よし子地蔵は、石坂平八郎さんかその親父さんの手になるものと思われる。相川の石屋・三木石材店のご主人の話。『相川の石屋はいわゆる石材屋で、地蔵などの細工物はやらないのが普通。石坂さんも頼まれたので、仕方なしに造ったのでしょう。あまりうまくないとおもいますよ』」。

三木石材店のご主人の話は、友人が電話して訊いてくれたものらしい。

「あまりうまくないと思う」という石材店主人のコメントを受けて「それが結果として佐渡の類型的な地蔵顔でない地蔵さんになったのでしょう」と友人は言うのです。

そして、次のように結論づけています。

「稚拙というか細工下手というか、はたまた親御さんの気持ちを汲んで、石坂さんがあえて従来の地蔵顔にとらわれず自分の子供地蔵を表現したのでは、とも推測できます。当時の一般的地蔵のお姿からすると大変ユニークで多くの人の目を引き、足をとめたと思います」。

加えて、受け入れを担当した館員のコメントも付いています。

彼は石仏の専門家なので、そのコメントは正鵠を射ていると思って良さそうです。

「彫り方は稚拙で、頭などは目と口を刻みこんだだけ。つりあいもよくない。合掌の手と衣文も不自然である。相川の石工というが、昭和の時代となるとこれ位の彫りが精いっぱいになっている。しかし、こうした幼稚な彫りに、一種の面白さがあるようにも思う」。

歴史学的にも民俗学的にも無価値で彫技も未熟だが、味がある。

だから博物館で展示するというのは、大胆な決断ですが、狙いは的中、よし子地蔵に私は蠱惑されてしまうのです。

これをきっかけに、それまで見向きもしなかった石仏に目を向けるようになります。

趣味は石仏めぐりと言うのに躊躇がなくなるほど、生活が一変しました。

第2、第3のよし子地蔵を見つけたかったからですが、目的は達せられず、代わりに自分にそっくりな地蔵に出会いました。

場所は、双体道祖神のメッカ旧倉渕村(現高崎市)の墓地。

自分に自分が手を合わせるというのは、なんとも奇妙な感覚でした。

 

よし子地蔵は佐渡の恋人ですから、帰郷する度に会いに行くのですが、名前が分かってからは、やや複雑な気持ちに。

偶然のなせる業とは分かっていても不思議でたまらない。

来年金婚式を迎える、そのパートナーがよし子なのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


32 シリーズ東京の寺町(2)ー江東区深川(後編)ー

2012-06-01 05:38:23 | 寺町

深川寺町の寺町らしい雰囲気は、清澄通りから「浄心寺」に向かう通り(北側は三好1丁目、南側が平野1丁目)の両側に並ぶ寺院と三好1と三好2に展開する共同墓地に色濃く残っている。

地図の「唱行院」や「一乗院」があるのが三好1、「本立院」、「善応院」があるのが平野1、中の通りが寺町通りでその突き当たりと「勢至院」の下の空白部分が共同墓地になる。

写真では真ん中に走る道路の1本右の通り、四つ角の赤い屋根の右が「円珠院」で、「円珠院」と墓地との間にちょっと見える道路が寺町通り(と、私が勝手につけているだけ)である。

これが寺町通りで、突きあたりが共同墓地。

通りに面する寺の境内は狭い。

 円隆院(日蓮宗)三好1

本堂と庫裏があるだけで墓地はない。

墓地は一か所にまとめられ、寺ごとに区分されている。

   浄心寺(日蓮宗)塔頭寺院の共同墓地(三好2)

墓地の広さは均等で狭いから、土地を有効活用すべくぎっしりと墓が詰まっている。

                     一乗院の墓地

見た目新しい墓石が目立つのは、東京大空襲でひび割れたのを戦後造り変えたからである。

江戸時代の墓石、石仏はほぼ皆無。

有名人の墓は皆無とは言わないが、ごく少数しかない。

この共同墓地は関東大震災後に設けられた。

それ以前は野墓地だった。

震災後、東京市の要請と指導により一か所にまとめられたという。

深川図書館でその経緯を調べてみたが、適当な記録を見つけられなかった。

寺町通り沿いの寺と墓地をまとめておく。

いずれも「浄心寺」の塔頭で、日蓮宗寺院。

                          円隆寺(三好1)と墓地

                      唱行院(三好1)と墓地

                一乗院(三好1)と墓地

                      玉泉院(平野1)と墓地

                      本立院(平野1)と墓地

                    善応院(平野1)と墓地

 これらの日蓮宗寺院群に近接して浄土宗寺院が3寺ある。

「法性院」、「円通寺」、「勢至院」。(各寺の写真は「前編」参照)

三か寺の墓地は共同墓地として、「勢至院」前にある。

法性院、円通寺、勢至院の共同墓地(三好1)

 寄り道をした。

寺町通りに戻ろう。

寺町通りの突き当たりが浄心寺塔頭の共同墓地。

その向こうに「浄心寺」の境内が広がっている。

 浄心寺境内 墓地の右の建物が本堂

        浄心寺本堂

本堂は古代インド様式のパゴダを模している。

深川寺町には、三つの中心寺院がある。

前篇で扱った「霊厳寺」と「雲光院」、それに「浄心寺」。

「霊厳寺」と「雲光院」は明暦の大火後深川に移転してきたが、「浄心寺」は万治元年(1658)この地に創設された。

開基者は三沢の局。

4代将軍家綱の乳母である。

家綱誕生と同時に乳母となった三沢の局は、11歳で家綱が将軍となった後もぴったり寄り添って面倒を見た。

「大樹(将軍)十六歳の御としまで猶片時も御側をはなれ奉らす給仕奉公志給・・・」(『御府内備考続編』)

 病を患って乳母を辞したが療養のかいなく明暦2年(1656)他界。

その遺骨は、局が生前帰依していた通遠院日義が深川に庵室を建て安置していたが、このことを耳にした家綱が境内地1万坪を寄進、「浄心寺」が創設される運びとなる。

三沢局の墓は、墓地最奥の歴代住職の墓所の中にある。

    歴代住職の墓 中央が三沢局墓標            三沢局の墓

「浄心院殿妙秀日求大師」。

墓地にはこの他、江戸町奉行で老中水野忠邦の収賄事件を摘発しようとして逆に捕えられ、断食餓死した矢部定謙、歌舞伎俳優坂東彦三郎、越前琵琶の名人で高峰三枝子の父、高橋筑風らの墓があるらしいが、案内表示が一切なく、見いだせなかった。

有名人なのだろうが、私にはなじみがなく、探すモチベーションが低いことにもよる。

教養や知識のなさ、興味範囲の狭さがこうした所に露呈してしまうようだ。

異色の墓碑がある。

 

                              洲崎遊郭合葬墓

「洲崎遊郭合葬墓」。

明治22年から昭和32年までに亡くなった洲崎遊郭の遊女をまつる墓。

隣には洲崎カフェ組合が建立した供養観世音がおわす。

 洲崎遊郭は現在の東陽1丁目にあった。

母体は根津遊郭。

近くに東京帝大や一高があり、風紀上よろしからずという理由で、明治21年(1888)、130軒全部が埋め立て造成したばかりの洲崎に移転して来た。

学生たちが喜んだのか、嘆いたのか、その辺の記録は、ない。

 

境内の一角、道路に面して関東大震災供養塔がある。

 関東大震災殉難者供養塔

江東区最大のこの震災殉難者供養塔は大正14年に建てられた。

昭和20年3月10日の東京大空襲の夜、この地は正に灼熱地獄の只中にあった。

「浄心寺の境内には、関東大震災のときに多数の人を葬ったという、セメントで作った土まんじゅうの記念碑があり、表面には、火に追われてひれ伏している女性の像が浮き彫りされている。その前が道路まで少し空き地になっているので、そこで一息入れたが、次の瞬間、浄心寺の鐘楼から吹き下ろす炎を、正確には炎の先の熱気をまともに受けた。『アチチチ』私は声を出したように思うが、次の一瞬、地面に卒倒している自分に気がついた。もうどこにも逃げ出せない。鐘楼は延焼の最中だし、本堂もこれから燃えるところだった。(略)

          「昭和毎日」-昭和写真館より

熱気は次第に激しくなり炎が吹きつけなくてもかなりの高温になっていた。体中の汗が一斉に噴き出したが、やがて汗も出ず、皮膚もすぐ乾いてしまった。他人の背中を見て、火の粉が付いていたらすぐにもみ消さなければならなかった。気付かずにいると、突然燃え上がって火ダルマになってしまう。

                                  たむたむHPより

空が白み始めると三々五々散り始めた。とりあえず家へ帰ってみようと言うことになり、浄心寺の墓地を回って家を目指した。家は浄心寺の北で、墓地の石塀から50mも離れていなかった。(略)道路にも死体はあったが目を覆うのは墓地だった。その出入り口という出入り口には折り重なった死体が山を成していた。墓地に入った人たちはほとんど死んでしまった。『よかったね、お墓に入らなくて』母は云った。」森川直司(深川区三好町3-16)『東京大空襲・戦災誌代巻』より

  浄心寺塔頭の共同墓地

こうした記録を読み、写真を見た上で共同墓地の入口に立つ。

平和ぼけの鈍感な我が身でも感じ取れる冷気が、そこにはある。

 

話は変わる。

江戸時代、寺社の占める面積は約366万坪だった。

大都市江戸の15%もの広さである。

寺の広さは墓地の広さだった。

当時は土葬だったから、100万都市江戸の死者の埋葬にはこれだけの土地が必要だったのである。

疫病や大火、地震などによる大量死の場合にのみ火葬が行われた。

人々は焼き場で焼かれるのは、非業の死と受け止めていた。

しかし、埋葬のために貴重な土地を拡げ続けることはできない。

必然的に火葬の需要が増えてくる。

江戸で最初の公認火葬場は小塚原に認められた。

寛文9年(1669)のことである。

やがて江戸郊外に次々と火葬場が設けられるようになる。

7か所の火葬場のひとつが深川で、「霊厳寺」と「浄心寺」が火葬寺であった。

(『江戸の町は骨だらけ』鈴木理生より)

深川といえば、岡場所。

舟で隅田川を渡って遊びに来る男たちは、いつも風向きを気にしていたに違いない。

火葬場からの異臭が、時として遊里を覆ったはずだからである。

将軍綱吉が上野の「寛永寺」に参拝していた時、小塚原の火葬の匂いが流れ込んだ。

以降、将軍がお成りの時は火葬作業は休むことにしたという話があるほどだ。

 

その「浄心寺」火葬場に建てられたのが、「上行菩薩堂」。

         上行堂(平野2)

上行菩薩とは「釈迦(しゃか)が法華経(ほけきょう)を説いたとき、末法の世に出てこの経を広めるように依頼した四人の菩薩の一人。日蓮は自らを上行菩薩の後身と称した。」(大辞泉)

「浄心寺」前の四つ角に建つ白壁の覆堂のなかに上行菩薩がおわす。

       上行菩薩

「病苦に悩む人がお題目を唱え、ご尊像の患部を束子で洗い祈願すると苦痛が和らぐ」と説明されている。

生花が供えられている。

今でも信仰する人が絶えないようだ。

その「上行菩薩堂」は、「浄心寺」の塔頭「宣明院」の一角にある。

      日蓮宗宣明院(平野2)

これも「浄心寺」の塔頭「円珠院」は、江戸時代から深川の大黒天として有名だった。

           日蓮宗円珠院(平野1)                大黒天石像

今は深川七福神の一つとして、正月には大変なにぎわいを見せている。

「浄心寺」とその塔頭寺院 の寺町は、これで全て。

仙台堀川を渡って右の深川2にも寺町がある。

古地図では赤く塗って寺が重なり合っている場所だ。

現在は寺と寺が離れている個所もあって、昔の様子はうかがいしれない。

 

「恵然寺」は現在の「寒光寺」だが、「海福寺」はなくなった。

「海福寺」跡地は、いまの明治小学校。

このブログ「石仏散歩」のNO13「永代橋崩落溺死者供養塔」で「海福寺」をとり上げているので目を通してほしい。

 現在地図のポインターを下に動かすと上方に「正覚寺」が出てくる。

「正覚寺」には、狂歌師・元の杢網夫妻の墓がある。

    正覚寺(深川2)                        元の杢網夫妻の墓

元の杢網は、元の木阿弥をパロッたもの。

元の木阿弥の意味は「一度良くなったものが元の状態に戻ること」だが、それは次のような故事に拠る。

「戦国時代、大和郡山の城主・筒井順昭が病死した時、その子順慶が幼かったので、順昭に声の似た木阿弥という男を替え玉として寝所に寝かせ、死を隠した。順慶が成人した後、順昭の死を公表し、木阿弥は再びもとの生活にもどった」。

「あせ水をながして習ふ剣術のやくにもたたぬ御代ぞめでたき」。
 「盃の手もとへよるの雪の酒つもるつもるといひながらのむ」。 (『古今狂歌袋』

元の杢網は京橋で湯屋を営んでいた。

辞世の句が生地の埼玉県嵐山町に石碑としてある。

「あな涼し浮世のあかをぬぎすてて西へ行く身はもともくあみ」

ちゃんと商売を詠みこんであるのが、見事。

 

「正覚寺」を南へ、明治小学校に突きあたったら右折すると右手に「増林寺」がある。

   曹洞宗増林寺(深川2)

境内は狭いが、石造物をオブジェとした小さな庭がいい。

石燈籠は、延宝9年(1681)赤穂藩主浅野内匠頭が、家綱供養のため寄進したものという。

 

                                      

もと寛永寺にあったものた゜が、なぜか「増林寺」に移された。

 

「増林寺」から清澄通りへ出て、左折、まもなく「心行寺」が現れる。

  浄土宗心行寺(深川2)                   六角堂前の石像福禄寿                   

深川七福神のひとつ、福禄寿が安置されている。

ご開帳の正月はにぎわうが普段はひっそりとしている。

境内にある五重石塔は、江東区最古の石造物。

 江東区最古の五重石塔

元享4年(1324)の銘がある。

宝筐印塔は、川口直の供養塔。

   川口直の供養塔

川口直は文化文政の頃の名妓で清元節の名人だったという。

芸妓が文化人だったことをこの宝筐印塔は物語っている。

向島が紅葉の名所になったのは、川口直が単独で楓の苗木を寄付し、植樹したからだと伝えられている。

芸妓というイメージを越える人物だったようだ。

墓地の奥には、開基者・養源院の五輪塔が震災と戦火をくぐりぬけてある。

  心行寺開基・養源院の五輪塔

 

江戸の町人がタイムスリップして現在の東京に来たとして、最も地形が変わっていて面食らうのは深川だろう。

掘割という掘割が暗渠となって、水の都のイメージがすっかり損なわれてしまったからである。

首都高速9号線の下はかつての油堀川。

日本橋方面からの遊客は大川を舟で渡って来た。

大川から油堀に入り、富岡橋から南下すれば、そこが岡場所だった。

      船宿と屋形舟

永代寺の門前町が岡場所だったのです。

富岡橋は別名閻魔堂橋と呼ばれた。

橋の左肩に閻魔堂が見えたからである。

  真言宗法乗院(深川2)

あの世へ行くと閻魔さまが生前の悪行を並べ立てて、地獄の行き先を決めると信じられた。

悪所通いは悪行になるのかどうか。

でも閻魔さまがほめないことは確かだ。

男たちは、閻魔さまに見つからないように頭を低くして橋をくぐった(なんてことはないよね)。

 

切絵図の「陽岳寺」は山門前が富岡橋、山門に向かって右は堀がめぐらされている。

 わずかに残る掘割の名残(大島川西支川)

水に囲まれた深川の寺らしい寺であり、岡場所の喧騒が境内にこだまする寺でもあった。

現在の「陽岳寺」の門は閉ざされている。

   臨済宗陽岳寺」に(深川2)

寺というよりも民家のような佇まいで、通用門を潜ると狭い通路に石造物が並んでいる。

江東区には東京都指定の旧跡が11カ所あるが、その内4カ所がここ「陽岳寺」にある。

「向井将監忠勝の墓」、「英信勝の墓」、「観嵩月の墓」。

ここでは「伏見義民の墓」をとり上げる。

    伏見義民之墓

伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に訴えるため、伏見の男たち3人が天明5年(1785)、江戸に出た。追っ手が宿舎を襲い、一人は殺され、二人はここ「陽岳寺」に逃れた。二人は寺社奉行に直訴、小堀は改易処分となった。しかし、後任の伏見奉行は二人を江戸送り処分とし、入牢中、二人は相次いで病死した。これを世に伏見義民といい、明治になって伏見の人たちの手により「陽岳寺」に墓が建立された。

「陽岳寺」の右隣が「玄信寺」。

  浄土宗玄信寺(深川2)

開基は、関東郡代伊奈忠順の妻、理照院。

関東郡代伊奈家は土木工事を得手とし、特に忠順は深川の埋め立て工事に功績があったとされる。

「心行寺」の養源院もそうだが、男社会の江戸時代にあって、寺の開基者が夫ではなく、妻である理由は何なのだろうか。

家計の自由裁量の度合いが妻に圧倒的にあったからだろうか。

 

最後の「寒光寺」で、深川寺町の前、後編は終わり。

     臨済宗寒光寺(深川2)

現在、深川は「東京を代表する下町」である。

江戸時代、下町は城下町を意味し、隅田川の向こうの深川は下町には含まれなかった。

江戸が東京になり、下町特有の文化や生活感情は本来の下町より深川などに色濃く残るようになる。

下町情緒のある町の中心には寺社がある。

浅草の浅草寺、柴又の帝釈天、雑司ヶ谷の鬼子母神、巣鴨のとげぬき地蔵。

深川には富岡八幡宮と寺町。

数多くの寺社の年中行事が地元の人たちの生活と結びついて、その土地の生活文化を作り上げてきた。

そうした視点から深川寺町をいつか見直してみたいと思っている。